2018.12.02 Sunday

『ペトルス――謎のガンマン』  第23回

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     翌1212日、2人の刑事と管理事務所の係官は朝9時から部屋に閉じこもって、514日と15日の出国カードをあたった。インドネシア国籍の出国カードと非インドネシア国籍の出国カードは別々の段ボールに入れてあった。

    「だいぶ作業になれてきたぞ。警察をしくじったらここで記録保管係に雇ってもらいたい」

     マデ刑事がそう言いながら514日の出国カードの1枚をじっとみつめた。

    「あったぞ」

     マデ刑事が長机の上に置いた出国カードを、ブラタ刑事と管理事務所の係官がのぞき込んだ。

     

      出国カード番号:      QG0585651

      フルネーム:        Rafael Zeta Aquino

      性別:           M

      パスポート番号:      28338736

      発行場所:         Montevideo URUGUAY

      有効期限:         2003429

      目的地:          Hong Kong

      搭乗便名:         CX784

     

    「カードに押してある入国時のスタンプは? どれどれ、ああ、スカルノ・ハッタのものだ。ジャカルタから入国したわけか。入国日は1998510日だね」

    「さあ、いこうか」

    マデ刑事が立ち上がりかけた。

    「ちょっとまて。残りのカードにウルグアイのパスポート保持者がいないことを確認しておこう」

     ブラタ刑事が先輩らしい落ち着きをみせた。

    「このカードのフォトコピーをとっていただけますか。それから、現物は証拠として警察が借りることもありますから、慎重に保管していただきたい」

     ブラタ刑事とマデ刑事は意気揚々と出入国管理事務所の玄関を出た。お昼の太陽がまぶしかった。雨季でもバリの空はカンカン照りになることがまれではない。

    「どこかでミーでも食っていこうか」

    ブラタ刑事がマデ刑事を誘った。州警察本部の近くのワルンでミーを食べ、刑事たちは警視の部屋へ報告に行った。

    「でかした」

     ライ警視が叫んだ。

    「では、ジャカルタに出張してチェンカレンの出入国管理事務所で、1998510日に入国したウルグアイ国籍のラファエル・セタ・アキノ氏の誕生日が1961422日であることを入国カードで確認してもらおう。ご苦労だった。俺はこれから昼飯を食いに出る。ミーでもつきあわないか。おごるよ」

     

     

     

    2018.11.26 Monday

    『ペトルス――謎のガンマン』   第22回

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       12月8日、グスティ・アグン・ライ警視はまず瀬田誠の身元を知る作業から始めた。2年前の5月に瀬田誠が州警察本部に来たときにとった彼のパスポートのフォトコピーを瀬田沙代事件の一件書類の中から引っ張り出して来て、デスクに置いた。瀬田誠の旅券を開くと、

      「旅券 PASSPORT 日本国 JAPAN」の下に、以下の瀬田のデータが印字されていた。

        Type(型): P
        Issuing Country(発行国): JPN
        passport No.(旅券番号): JT9169636
        Surname(姓): SETA
        Given name (名): MAKOTO
        Nationality(国籍): JAPAN
        Date of Birth(生年月日):  22 APR 1961
        Sex(性別): M
        Registered Domicile(本籍): TOKYO
        Date of issue(発行年月日): 11 JUL 1996
        Date of expiry(有効期間満了日): 11 JUL 2001
        Authority(発行官庁): CONSULATE-GENERAL OF JAPAN
        AT JAKARTA

        「Makoto Seta」とローマ字の署名がある。そのページの下部に下に追記が一行。

        THIS JAPANESE PASSPORT IS NOT MACHINE READABLE

       これがいまのところライ警視が瀬田誠について知るデータのすべてだ。これをもとに瀬田のポートレートを描いて行かなければならない。イダ・バグス・チャンドラがガボガンを頭上にのせた上半身裸のイダ・アユ・ングラこと瀬田沙代の妖艶な肖像を描いたように、妻殺しの夫の凶悪なポートレートの細部が、日本やメキシコに出かけて捜査することもできず、デンパサールに閉じこめられているこのおれに描けるか。ライ警視は心許なかった。
       ライ警視はスラバヤ総領事館デンパサール駐在官事務所に電話を入れた。さきごろ久保田尚が東京の本省に帰任し、後任領事に内藤明彦がおさまってまっていた。
      「内藤さん、これから日本のパスポートのことで質問がありますので、会っていただけますか」
      「もちろん、いいですよ。できれば午後2時ごろが私には都合がいいのですが」

      ライ警視は内藤の事務所で瀬田の旅券のフォトコピーを一部領事に手渡し、旅券の読み方のレクチャーを受けた。
      「まず、最初のタイプPというのは何でしょうか?
      「ああ、これですか。Pは英語のパスポートの最初の文字です。つまりこれがパスポートであるという認識符合です。日本では1992年の終りごろから、機械MRP(読取り式旅券)への切り替えが始まりました。それ以前の旅券にはPの符合は印刷されていませんでした。フォトコピーされたパスポートはジャカルタ総領事館で更新されたもので、Pの記号はついているものの、機械読み取り式になっていないタイプです。旅券保持者の身分について記載してあるこのページの一番下に「CONSULATE-GENERAL OF JAPAN AT JAKARTA」と「THIS JAPANESE PASSPORT IS NOT MACHINE READABLE」と印字されている部分に、日本国内で発行されるMPR旅券の場合は、パスポートの記載情報がPで始まるアルファベットと数字で2行にわたって書き込まれています。機械はそれを読み取るわけです」
      「そうですか。ところで、ジャカルタの日本総領事館でパスポートの更新手続きをする際は、出生証明書のような書類を提出する必要があるのでしょうか?」
      「日本では出生証明書ではなく戸籍謄本を使います。パスポートの有効期間の残りが1年を切ると、新しいものに切り替える申請ができます。その場合、原則として戸籍謄本は必要ありません」
      「ということは、最初にパスポートを申請する場合にのみ戸籍謄本が必要になるわけですね。この方の場合、すでに何度も切り替えをしているはずですが、最初の申請のときに提出された戸籍謄本は保存されているでしょうか」
      「廃棄されている可能性が高いでしょうね。しかし、この方の本籍地は記録に残されており、そこからこの方の戸籍が登録されている役所で家族関係を調べることができます」
      「調べていただけるでしょうか」
      「そうですね。1998年5月の殺人事件の確認のために、被害者の夫だった人物の戸籍謄本を見たい、という正式な調査依頼書を出していただければ、スラバヤ総領事館経由で本省に連絡します」

       12月11日ライ警視はワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事をよんで二重国籍者である瀬田誠がウルグアイパスポートで1998年5月14日をはさんで、ングラ・ライ空港から入出国している可能性があることを話して聞かせた。
      「警視、あてのある見込みなんでしょうね」
      ワヤン・ブラタ刑事が仏頂面で言った。
      「いま急ぎの事件をかかえているとは聞いていなのだが……」
      ライ警視の方も嫌みっぽく言った。
      「そういう意味じゃないんですよ。ここはインドネシアです。2年以上も前の出入国カードが残っていると思いますか。残っていたとしても、能率よく探せるように分類してあると思いますか。わたしは警視ほどには長く生きていませんが、それでも、その答えがノーであることぐらい察しがつきます」
      「出入国管理事務所のお役人が言いそうな答えだな。本当に無いのではなくて、探すのが面倒だから無いと言うことだってあるんだよ。ここはインドネシアなんだから」
      「どんな入出国のカードを探すんですか」
      「国籍はウルグアイ。生年月日は1961年4月22日。入出国のときの年齢は37歳だ。わかっているのはそれだけだ」
      「警視。ウルグアイの綴りは?」
      「URUGUAYだ。まったくどこで勉強してきたんだ」
      「デンパサール・アクポル(警察学校)です」
      「そこで、勇ましく歌ったろう。『高い山、深い谷――警察はそれらを越えて前進する』。さあ、ングラ・ライ出入国管理事務所へ行ってこい」
      「はいはい、わかりましたよ。1日か2日ほどつぶして警視の推理におつきあいしましょ」
      マデ刑事がニヤニヤしながらブラタ刑事の肩をポンとたたいた。
      2人の刑事がその日の午後、ングラ・ライ入国管理事務所で来意を告げると、係官がいとも簡単に、
      「1998年5月のカードなら保存してありますよ」
      2人に刑事は何かに裏切られたような、拍子抜けしたような表情を係官に見せてしまったらしい。
      「こっちも警察同様、働いてますからね」
      「どこのお役所でも、数年前の資料についてたずねると、あるかどうか調べるから2、3日待ってくれ、というよ」
      「あのころ、つまり1998年5月のスハルト退陣騒動のあとすぐ、法務省のトップから4、5、6月分の出入国の記録を別途指示のあるまで慎重に保管せよとの指示があった。スハルト退陣前後にCIAやMI6をはじめ、タイ、マレーシア、シンガポール、中国などの情報機関員が、足繁くインドネシアに出入りしていたそうだ。外交官のパスポートだけでなくて、民間人のパスポートも使ってね。やつらが出入りするとなれば、ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港だろうが、国内のすべての管理事務所を対象に保管令をだしたわけだ。さて、入国か、出国か、どちらのカードから始めますかね?」
      「数はどっちが少ない?」
      「それは圧倒的に入国でしょう。あのときは火の消えたような寂しさで。パスポート・コントロールのブースでは、出国担当官は大汗をかき、入国の方はぼんやり鼻クソをほじくっていた」
      「入国から行こう」
      「いつからいつまで?」
      「5月11日から14日までだ」
      しばらく待っていると、係官が文書保管庫から手押し車にのせて段ボールの箱を4つ運んで来た。
      「この部屋で作業していいですよ」
      古いパイプ椅子や折りたたみ式の長机、バケツやモップまでが放りこまれている雑然とした部屋だが、とりあえず机と椅子があり、天井には蛍光灯がともっていた。私はここであんた方の作業を見守らせてもらう。カードがなくなると私がとがめだてされるんでね」
      「なんだ、手伝ってくれるつもりはないのか」
      「上司からは手伝えと指示されていない。悪く思わんでくれ」
      そう言ってングラ・ライ出入国管理事務所の職員は椅子を持ってきて腰を下ろし、のんびりとクレテック煙草を吸い始めた。クローブが焦げる甘ったるくて、それでいて鼻にツンとくるにおいが漂い始めた。
      夕方までかかって、丁寧にカードをチェックしたが、生年月日1961年4月22日のウルグアイのパスポートを持った男性の入国者カードはみあたらなかった。
       入官の係官が何となくモジモジしているので、
      「きょうはここまで。あすまた出国カードをチェックしよう」
      ブラタ刑事が気前よく作業中断を提案した。

       

      2018.11.19 Monday

      『ペトルス――謎のガンマン』   第21回

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         おもてにライ警視の愛車キジャンが音をきしませて止まった。
        ライ警視はリビングルームのソファにどかっと腰を下ろし、お手伝いのスチが運んだアイスティーをごくりと飲んだ。
        「ん? いつものやつと味が違うな」
        「ジャワティーを切らしてしまったのだ。これはスーパーのトワイニング」
        「やはりお茶はジャワにかぎるね。では、さっそくだが面白い話というやつをお聞かせねがいたいものだ」
         鷹石はライ警視に、アルベルト・フジモリやウルグアイの日系留学生の二重国籍について説明した。
        「それが瀬田沙代の事件とどう関わりがあるんだね」
        ライ警視がきょとんとした顔で訪ねた。
        「あんた忘れちまったのかい。それとも聞いていなかったのかね。あるいはわたしの通訳がへたくそで理解できなかったのかね。瀬田沙代の両親の倉田夫妻が久保田領事ともどもあんたのオフィスへやって来たとき、父親の倉田伸生が、瀬田誠が遅れてデンパサールにやってくることの説明をしなかったかな」
        「ああ、聞いた。彼はメキシコにいたんだ」
        「そのとき、わたしはたしか倉田伸生の説明をインドネシア語に翻訳した覚えがあるんだが。彼はこう言った。瀬田誠は両親がウルグアイで仕事をしていたときに生まれ、幼少時代をスペイン語ですごした、とね」
        「ウォー」
        ライ警視が吠えた。
        「瀬田誠は偽パスポートなど必要なかったのだ。ウルグアイのパスポートで堂々とインドネシアに入り、出て行ったのだ。すごい情報だ。恩にきるよ。その情報に基づいて明日から調べを始めるとするか」
        「ああ、幸運を祈るよ」
        「ところでサトシ、妙なことを聞くがね。このごろ日本では男がペニスにプラスティックを埋め込むのがはやっているのか?」
        「なんだ、それは?」
        「この間、パラセーリングをやっている日本人の男が失速して海に落ちたんだ。運悪く彼の上にパラシュートがかぶさってきて、紐にもつれてその日本人は溺死した。その遺体の検視のとき、ペニスに小さなイボイボがあってね。プラスティックのつぶが埋め込んであった。インドネシアのムスリムは割礼をするが、あれは日本では割礼のようなものか? なんかのおまじないかな」
        「ばかばかしい。中年の刑事のかまととぶりは、グロテスクだよ」
        「ハッハッハ……はやっているのか、みんなやっているのか、とたずねたつもりだ」
        「そのあたりにはうといもので……。それが事件となにか関わっているのか」
        「いや、あれは単なる事故死だった」
        「ルバン・ブアヤ以来のインドネシア人のペニス過敏症はまだ治っていないようだね」
        「ああ。あの件ね。おれたちはスハルトにまんまとのせられてしまった」
         スハルトがスカルノから権力を奪うきっかけになった1965年の9.30事件のときのことだ。ウントン中佐配下の部隊は、軍首脳の6人の将軍と将校1人の7人を殺し、遺体をジャカルタ郊外のハリム空港近くのルバン・ブアヤ(鰐の穴)の井戸に投げ込んだ。

         ――7人の遺体は目をくりぬかれ、ペニスが切り落とされていた。ルバン・ブアヤの周りでは、PKI系のゲルワニ(インドネシア女性運動)の女性たちが歓喜のあまり、裸になって乱舞した。

         インドネシア国軍系の新聞がそんなでたらめを書きたてた。スカルノは、目もくりぬかれていないし、ペニスも切り取られていない、いい加減なことを書くな、と新聞を非難したが、このつくられた残虐行為の話が広まって、事件後の大虐殺に拍車をかけた。大衆を憤怒に狂わせて殺戮に駆り立てる恐ろしい謀略だったのだ。ゲルワニの女性たちも襲撃され、強姦され、殺害された。のちに、裁判記録の検死報告が公になり、誰ひとりとして目をくりぬかれたものはおらず、7人のペニスも切り取られていなかったことが明らかなった。
        「ジャワ人はハルース(優雅)を尊びカサール(粗野)を嫌うとはいうものの、バリ人も含めてインドネシア人ほど陰惨な暴力行為におよぶ民族はいないのではないかと思うことがある」
        「おいおい、ライ警視。それはちょっと自虐が過ぎるんじゃないか。まあ、テンペでも食って行かんか」
        鷹石が笑いながら言った。

        2018.11.10 Saturday

        『ペトルス――謎のガンマン』  第20回

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           それから2年がたった。

           雨季から乾季へ、乾季から雨季へと繰り返しているうちに、1997年のアジア金融危機や、その翌年のスハルト大統領退陣にまで発展したインドネシア騒乱によって激減していた観光客が、またバリに戻ってきた。バリ島のお得意さんは日本人、オーストラリア人、韓国人で、日本人は毎月3万人近くがやってくるようになった。

           バリ島の住民と観光客はこの2年間を平穏に過ごしたが、マルク諸島では新しい争乱が始まった。1998年末から99年初頭にかけて、マルク諸島のあちこちで、キリスト教徒とイスラム教徒の反目が強まり、やがて大規模な武力抗争にエスカレートしていった。

           インドネシアは宗教的にはムスリムが圧倒的多数派だが、ヒンドゥーの島バリのような例外もある。マルク諸島ではキリスト教徒とイスラム教徒の人口比率が五分五分である。アンボンを中心にした南マルクのキリスト教徒はインドネシアが独立したさい、ムスリムが多数派をしめるインドネシア共和国に組み込まれるのを拒否して、南マルク共和国の樹立を宣言し、共和国からの分離活動をしたことがある。そうした宗教対立が紛争の背景にあるという説や、スハルト退陣後に権力と権益を奪われ始めている軍部が、騒動を起こすことで巻き返しを図っているという政治的陰謀説などがあった。

           マルクに派遣された軍の治安維持部隊や警察の機動隊でさえ、イスラム教徒側とキリスト教徒側に別れて紛争を支援するしまつだ。ジャワ島で結成されたラスカル・ジハードという名のムスリムの民兵組織がマルク諸島へ支援に向かった。

           ハビビ大統領の後継、アブドゥルラフマン・ワヒド大統領はこの動きを阻止するよう治安当局に命令したが、大統領の命令はうやうやしく無視された。武力抗争による流血はますます激しくなった。南海の島は決して楽園ではない。「多様性の中の統一」がインドネシア共和国の国是だが、それはいまなお統一の完成までに長いながい時間を必要とする壮大な希望のスローガンにとどまっている。

           バリ島では時間は比較的平穏に推移した。といって、グスティ・アグン・ライ警視の仕事が暇だったわけではない。瀬田沙代の事件の3ヵ月ほど後には、オーストラリア人の女性が自宅で殺された。オーストラリア資本の工場の管理職だったが、ナイフでめった突きにされて死んでいた。さらにそれから数ヵ月後には、日本人女性が強姦殺人事件の被害者になった。死体はデンパサール郊外の藪の中に放置されていた。この2つの事件はつかまえた容疑者が被害者から奪った高級腕時計を持っていたことや、DNAの一致ですっきりと解決した。

           鷹石里志は引き続きウダヤナ大学で日本語を教えながらバリの隠居生活を楽しんでいた。仙台の倉田夫妻から20001月にもらった年賀状には、「せっかくいただいた絵ですが、見るのがつらくなり、焼いて灰にし、沙代の墓に納めました」とチャンドラ画伯の傑作の顛末が書かれていた。ジャカルタの宮内から、瀬田誠が当初の投資資金の倍額で会社の経営権を譲渡した、という話を聞いた。ジャカルタから撤退し、メキシコシティに仕事も暮らしも移したという。

           こうして瀬田沙代殺しの一件はグスティ・アグン・ライ警視と鷹石里志の頭から消えかかっていた。

           

           200011月中旬、日本を訪問したペルーのアルベルト・フジモリ大統領が日本から大統領職の辞表をペルー議会に送り、事実上日本に亡命した。やがて、フジモリ氏はペルーと日本の二重国籍者であるといううわさが流れはじめた。

           127日の木曜日、鷹石はウダヤナ大学の日本語の授業が終わったあと、教材用に講読している日本の新聞でフジモリの日本国籍のことを興味深く読んだ。1128日の新聞は、アルベルト・フジモリ氏が日本の国籍を持っていることを、日本政府が公式に確認したと報じていた。日本名を藤森謙也という。フジモリ氏がペルーの首都リマで生まれたとき、日本人の両親が日本の領事館にも出生届けを出したために、ペルーと日本の国籍を取得することになった。

           鷹石がまだ日本の大学で比較政治学を教えていたころ、ウルグアイ出身の日系2世の大学院留学生を指導したことがある。その学生は日本の文部省から国費留学生として奨学金付きでウルグアイから招かれていた。その学生が夏休みにタイ、マレーシア、フィリピン、インドネシアを周遊する旅に出るといった。

          「日本人は東南アジアの国のほとんどにビザなしで観光旅行ができるが、ウルグアイの人はどうなのかな」

           と鷹石はその学生に尋ねた。

          「いや、日本の旅券で出かけますから大丈夫ですよ」

           そのころまでには鷹石に対してうち解けてきていた学生が言った。

          「私はウルグアイ国籍ですが、日本国籍ももっています。ウルグアイのモンテビデオで私が生まれたとき、両親が日本領事館に出生届を出しました。ウルグアイは国籍に関しては出生地主義で、日本の方は血統主義です。そういうわけで2つのパスポートを持っています」

          「そういうことか、便利なもんだね」

          「日本の国籍法は二重国籍者にどちらか一方の国籍を捨てるよう迫りますが、日本とウルグアイの二重国籍者の場合、そうした二者択一では日本国籍を捨てることになるんです。ウルグアイ憲法は、ウルグアイ人はウルグアイの国籍を捨てることができないと定めています。従って日本国は日本人にたいして日本の国籍を捨てろといっているわけです」

           それを聞いて鷹石は思わず笑い出してしまった。なんというブラック・ユーモア。その学生はまた、ウルグアイでは初等教育でウルグアイ人の祖国はスペインだと教えていると聞かせてくれた。中南米はブラジルをのぞき、スペイン語圏だ。そういえば、1990年のペルーの大統領選挙で、アルベルト・フジモリ氏と大統領の椅子を争ったペルーの大作家マリオ・バルガス・リョサ氏はスペインの国籍も持っているといわれている。

           ここで、鷹石はあることを思い出し、急いで電話のある講師の部屋に急いだ。

          「こんにちは。グスティ・アグン・ライ警視をお願いします。こちらタカイシ」

          「スラマット・シーアン。お待ち下さい」

          「おー、鷹石さん。ご機嫌いかが?」

          「元気だよ。そっちは? ところで今日帰りに私の家に寄らないか。瀬田沙代の件で面白い話を聞かせるよ」

          「わかった。寄るよ。楽しみにしている」

           

           

           

          2018.10.29 Monday

          『ペトルス――謎のガンマン』   第19回

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            11月12日、ジャカルタ
             グスティ・アグン・ライ警視が参加した『刑事捜査と被疑者の人権』研修会は、施設は古くなったが格式はなお高い、ジャカルタのボロブドゥール・ホテルの大ホールで11月12日に開かれた。朝から夕方まで昼食と休憩時間をはさんで、参加した警察官たちはたっぷりと人権思想を注入された。午後5時に研修が終わり、1時間の休憩のあと研修終了の記念パーティーが開かれた。ライ警視は顔見知りの警察幹部の輪の中に入って、研修後の解放感ではずむ四方山話を聞いていた。
            「確かに、この研修会はハビビ改革の一環だね。だが、私としては、こうした研修は陸軍の特殊部隊コパッススにこそ受けさせるべきだと思うよ。彼らが治安維持と称して東ティモール、イリアン・ジャヤ、アチェで重ねた人権侵害は、世界中のひんしゅくを買ってきた」
            雑談の輪の中でひときわ背の高い男が言った。
            「1997年から今年の初めにかけては、学生運動のリーダーが行方不明になる事件が相次いだからね」
            眼鏡をかけた肥満体の白髪目立つ男が付け加えた。
            「この9月ごろから東ジャワのバニュワンギで黒魔術を使うと噂されているドゥクンが次々と殺されている。警察の捜査をあざ笑うかのように殺害は続いている。ニンジャと呼ばれる一団の犯行だという説もある。このニンジャは高度な訓練を受けた殺し屋集団で、これまた、軍の秘密組織とつながりがあるといわれている」
            「まったくインドネシアの軍隊はろくでもないことばかりしてきた」
            「といって警察が軍人の犯罪を捜査するのも至難の業だ」
            「そもそも警察が軍隊の一組織というあり方が奇妙なのだ。陸軍、海軍、空軍、警察軍というあり方を何とかする必要がある」
            「いいご意見だが、それは本日の研修の範囲を超えた問題だ。ハビビ政権の今後の努力に期待しよう」
            誰かのこの冗談で輪の中に笑いが広がり、やがて笑い声が消え、その輪が崩れていった。
             たしかに、スハルト大統領退陣をうけて副大統領から昇格したハビビ新大統領は矢継ぎ早に政治改革のプログラムをぶちあげていた。スハルトとその取り巻きを肥え太らせたKKN(汚職・癒着・ネポティズム)構造の一掃、報道の自由の保障、スハルト時代の政治犯の釈放、などだった。どれをとってもそう簡単に進みそうにない大きなテーマだったが、少なくとも、スハルト政権崩壊でインドネシアの政治状況が変わり始めているという印象はライ警視も受けていた。スハルト時代でもさっきのようなきわどい会話は交わされていた。だが、それは私的なパーティーでの内輪の会話の中だった。政府が主催する公務員研修会後のパーティーで、そうした会話がおおっぴらに出てくるというのも、時代の変化の証だ。
             刑事警察の幹部たちが豪華ホテルのパーティーで政治漫談を披露しあった11月12日、首都ジャカルタの中心部の路上は、学生デモ隊と治安部隊のにらみ合いで緊迫していた。
             スハルト政権打倒の尖兵になったインドネシアの学生たちが求めていたリフォルマシ(改革)はスカルノ大統領からスハルト大統領に至る権威主義政治を生み出すもとになった現行の1945年憲法を廃止し、新しい時代にふさわしい新しい憲法を制定し、その憲法の下で、新しい政治を実践しようという、革命を志向していた。
             だが、スハルト退陣後にハビビ政権が始めた一連の政治改革が、まあこんなとところだろうと、世間に容認され、「われわれはハビビ政権を拒否する。スハルトを裁判にかけよ」と叫ぶ学生は、スハルト退陣直前の社会的熱気が冷めてゆく中で、世間から浮きあがったものになっていた。
             改革派指導者として尊敬されていたスカルノ元大統領の娘メガワティ・スカルノプトゥリ、インドネシアのイスラム団体ナフダトゥル・ウラマの指導者のアブドゥルラフマン・ワヒド、おなじくムハマディヤのアミン・ライスの3人も、スハルト退陣後には体制内改革に舵を切って、先鋭的な学生と別の路線をとり始めた。3人ともハビビ後の権力トップの座を狙い始めたのだ。
             2日前から開かれている特別国民協議会でのスハルト糾弾を要求して、学生たちは国会周辺や、スマンギ立体交差などに集結していた。政府は3万人近い兵士を動員して暴動に備えていた。兵士たちはモスクの敷地や、国会近くの政府省庁の敷地、あるはスナヤン・スポーツセンターのグラウンドなどにキャンプしていた。
             12日にはすでに治安部隊と学生たちの間で衝突が始まっていた。10代の若者1人と警察官1人が殺され、100人以上が病院に担ぎこまれた。
            『刑事捜査と被疑者の人権』研修会が開催されたのは、5月以来の緊迫した空気がなおジャカルタを覆っているときだった。

             

            11月13日、ジャカルタ・スマンギ
             グスティ・アグン・ライ警視は13日朝、マンダリン・オリエンタル・ホテルを訪ねた。4月9日の瀬田沙代の宿泊記録を見るためだ。バリ州警察本部警視の身分証明書を示すとホテルの宿泊部の責任者がコンピューターから瀬田沙代の記録をとり出してくれた。沙代はホテルのレストランを利用しており、人数が2人と記録されていた。宿泊部の責任者がレストランの事務室に電話すると、4月10日夜にレストランの責任者だった男がやって来た。ライ警視が瀬田沙代の写真を見せたが、彼の記憶にはなかった。オリエンタル・ホテルでの確認作業は午前10時には終わった。
             ライ警視はホテルのロビーから宮内の自宅に電話した。鷹石がライ警視のためにデンパサールから宮内に電話したとき、それでは13日は家で警視を待っている、といっていた。電話には宮内自身が出て、マンダリン・オリエンタルから歩いてすぐのスタン・シャフリル通りのマルク通りとの角のあたりだからすぐわかる、とライ警視にいった。その通りだったし、宮内は自宅の前庭に出てライ警視を待っていてくれた。
            「暑いさなかごくろうさまです」
            冷たい紅茶をもって応接室に現れた宮内夫人が言った。
            「おや、奥様はバリのお方で」
            とライ警視が訪ねた。
            「ジャカルタ生まれですが、母がデンパサールの出身でした。この目がバリ舞踊のダンサーの目を思わせるからでしょう?」
            そういって宮内夫人は大きく目を見開き、眼球を忙しく左右に動かしてみせた。夫人が応接室から出て行くと、宮内が切り出した。
            「お尋ねのご用件はなんでしょうか?」
            「実は、アンワル・ルクマン将軍のことなのです。もちろん宮内さんもご存じのことと思いますが、将軍がバリで心臓発作のために死亡したことを契機に、将軍の私邸から隠し持っていた武器が大量に見つかりました。ご内密にお願いしたいのですが、軍には極秘に、警察ではあの事件を洗いなおしています。将軍は瀬田誠氏と水産物の輸出関連会社をジャカルタで経営しているほか、あちこちでさまざまな企業の経営に参画していたようです。そういうわけで、実入りはよかったらしく軍から貸与されている官舎のほか、ジャカルタやバンドンなど数カ所に私邸を持っていました。その関係の方は別の捜査員が担当していますので、私は瀬田氏と共同経営していた会社についてお聴きするわけです」
            ライ警視は前もって用意しておいた作り話を言った。
            「それでわざわざバリから。たいへんですなあ」
            宮内が感心して見せた。
            「いえいえ、たまたま警察の研修がジャカルタであったので、その出張を利用してお尋ねにあがったしだいです」
            そういってしまったあと、宮内の言った「たいへんですなあ」に、思わず知らずバリ州警察本部の捜査予算の乏しさと結びつけた発言をしてしまった自分を情けないとライ警視は思った。
            「それがですね、ライ警視。先日、9日の月曜日でしたか、亡くなったアンワル・ルクマン将軍の代理人のモハマド・サミン氏が事務所に現れましてね。こう言ったんですよ。アンワル・ルクマン将軍が亡くなったので、将軍のご遺族が会社の権利を別の会社に売却される。この件を急ぎ瀬田誠氏に連絡願いたい。また、来週からあなたに代わって私がこの事務所の事務処理をするよう、遺族の方から指示された。このことも瀬田氏にお伝え願いたい。また、この件について瀬田氏と協議したいので、至急、ジャカルタにお越し願えるよう連絡をとってくれ、そういう話でした。メキシコの瀬田氏と連絡を取ると、相棒が死んだのならしょうがないな。相棒が死んでしまえば政府からのコンセッションもとれなくなるだろうから、これでおしまいということでしょう。落ちついたものでした。瀬田氏は来週後半にもジャカルタにきて、会社の処理の話をサミン氏と協議する予定です。そういうわけで、私はあの会社とも縁が切れました」
            「事情急変ですね」
            「人生そんなもんでしょう」
            「瀬田氏とアンワル・ルクマン将軍は何をきっかけにお知り合いになられたのでしょうか」
            「そのことは私もよく知りません。以前、日本の大手商社のジャカルタ事務所にお勤めのころからお知り合いだったようです。瀬田さんは政府高官に食い込むのがなかなかお上手だったから」
            「瀬田さんは4月にジャカルタでアンワル・ルクマン将軍とお会いになったのでしょうか」
            「少々お待ち下さい」
            宮内は書斎から手帳を持って戻ってきた。
            「瀬田さんは4月8日にジャカルタに帰ってきて、たまっていた案件を処理して、4月16日にメキシコへ発ちました」
            「その間にアンワル・ユスフ将軍と会ったのでしょうか」
            「私の手帳にはアンワル・ユスフ将軍の名が見あたりませんねえ。4月8日はイドゥル・アドハ(イスラム教の犠牲祭)で公休日でした。10日はグッド・フライデーで公休日。あと、11日の土曜日、12日の日曜日と休みが続いて13日の月曜日の夜はレストランで私と妻をねぎらってくれました」
            宮内が手帳を見ながら説明を続けた。
            「14日の火曜日の夜は取引先の日本企業との会食。15日の昼はインドネシア水産会社との昼食会。その日は夜更けまで事務所で書類を読んでいました。16日朝、会社に顔を出して、5月はおそらく来られないからよろしく頼むと私に声をかけてから、スカルノ・ハッタ空港へ向かいました。そうそう、4月9日は夕方、社有車でマンダリン・オリエンタルへ出かけていますね。これからマンダリン・オリエンタルへ行って、用件がすみしだい、ボロブドゥール・ホテルのアパートメントに帰るからと私に言いました。もしアンワル・ユスフ将軍と会ったとすればこのときか、10日から12日にかけての連休中でしょう」
            「そうですか。おっしゃる4月9日、10日から12日にかけてのアンワル・ユスフ将軍の動向を調べてみましょう。それから、今ひとつおうかがいしますが、瀬田さんからアンワル・ユスフ将軍の武器のコレクションについて、ひょっとしてなにかお聞きになったことはありませんでしょうか」
            「瀬田さんは共同経営者との友好関係維持のため、年に数回、アンワル・ユスフ将軍と遊びに出かけていました。ジャカルタ沖へ船を出して魚釣りをしたり、冬の日本に温泉とスキーを楽しみに行ったりして。あれは、去年の中ごろだったかな。瀬田さんは将軍のバンドンの家に招かれました。瀬田さんの話では、バンドンの軍の施設に行って、鉄砲の試射をして腕比べをしたんだそうです。将軍よりいい得点をだしたと得意そうでした。その賞品としてこれをもらったと木の箱を開けて見せてくれました。中に拳銃が入っていました。それで、こんな物騒なものをもっていると、どんな災難が降りかかってくるかわかりませんよ。もし、将軍と不仲になったとき、将軍が警察にこの拳銃のことを告げ口したらどうします。早くお返しになった方がよろしいのでは。そう忠告しました。なるほど、そういう心配もあるな。では、返すことにしよう。そう瀬田さんは言っていました」
            「ほほう。どんな拳銃でした」
            「私は拳銃について無知で、その種類もよく知りません」
            「将軍がバンドンの家にどのくらいの武器をおいていたか、などについて、瀬田さんは何か言っていませんでしたか」
            「その点については話にでませんでしたね」
            「どうもありがとうございました。今日のことはくれぐれも内密にお願いします。私の方も、このことであなたにご迷惑をおかけすることは絶対にありませんとお約束します」
             ライ警視は丁重に礼を言って、宮内の家を辞し、タムリン通りに戻って流しのタクシーを捕まえてスカルノ・ハッタ空港へ向かった。タムリン通りから南へ下ってスディルマン通りのスマンギ立体交差から高速道路に入る道路は、学生のデモで混雑していた。タクシーは迂回路をとって空港に向かった。

             グスティ・アグン・ライ警視は午後6時にデンパサールの自宅に帰りついた。テレビがジャカルタの衝突を伝えていた。スマンギ交差点の近くに集結していた学生・若者・一般人が、午後3時ごろ治安部隊に向かって石や火炎瓶を投げ始めた。治安部隊は空に向けて警告射撃をした。やがてゴム弾を使った水平射撃に変わり、ゴム弾に混じって発射された金属弾に撃たれて死ぬ人が出始めた。夜が更けたころジャカルタからのテレビ中継は、死者がすくなくとも5人になったことを伝えた。ライ警視はジャカルタ出張の疲れからテレビを消して寝た。
             ライ警視も多くのインドネシア人も、のちに事件の詳細を知ることになるだが、スマンギ交差点での銃撃では16人が死に、200人以上が負傷していた。銃撃による傷跡のある死者のうち9人の体内から金属製の銃弾や銃弾の破片が見つかった。検視の専門家によると銃弾は5ミリから6ミリで、発射速度は非常に高かったと推定された。さらに、これは意味深長な説明であるが、検視の専門家は近距離からではなく、かなり離れたところから発射されたようである、と説明した。スナイパーが配置されていたことを示唆したのである。

             

            11月18日、デンパサールの州警察本部
             ムハンマド昇天祭の祝日のあとの11月18日、グスティ・アグン・ライ警視は自分がやっている作業がどこか間が抜けているという思いにとりつかれていた。すでに公式的に決着済みになっている瀬田沙代とスダルノの銃撃とスハルトノの自殺の捜査をむしかえそうとしているのはなぜだろうか。正義のため だとすれば正義のための捜査を待っているのは、トリサクティ大学周辺で何者かによって銃撃されて死んだ学生や、スマンギ陸橋周辺で狙撃者によって撃たれて死んだ学生たちの方だろう。瀬田沙代殺人事件への執着は、正義のためというより、それは自分の事件に対する刑事の執着であろうか。
            「ところで……」
             ライ警視は口に出していった。デスクの上には瀬田誠のパスポートのページのコピーがあった。ジャカルタで宮内が手帳のメモを見ながら説明してくれたように、瀬田誠は4月8日にジャカルタのスカルノ・ハッタ空港から入国し、16日に同じ空港から出国していることが出入国管理のスタンプから確認できた。そのあとは、5月18日にデンパサールのングラ・ライ空港から入国していた。パスポートの記録は4月17日から5月18日のほぼ1ヵ月間、瀬田誠はインドネシア国外にいたことを示している。
             瀬田誠は沙代の殺害を殺し屋に依頼したのだろうか。瀬田のパートナーのアンワル・ユスフ将軍は、その経歴を調べてみると特殊部隊コパッスス勤務だった1990年前後、短期間だが東ティモールに勤務したことがあった。東ティモールの山岳地帯でフレティリンのゲリラ兵士と戦い、尋問し、拷問した特殊部隊を指揮したことがある。
             アンワル・ユスフ将軍なら、瀬田に殺し屋を紹介するのはさほど難しい仕事ではあるまい。東ティモールでゲリラ戦の実戦訓練を受けた兵士か、民兵にいい金儲けの口があると声をかけるのは簡単だろう。拳銃も簡単に用意できる。それに32口径の拳銃に消音器を付けて使用するという発想が、隠密仕事を思わせる。瀬田沙代とスダルノを射殺した腕前は素人離れしたものだ。だが、必要な殺しが終わったあとで、その同じ拳銃を使って殺し屋にスハルトノの殺しを依頼したとすれば、それはどういう理由からだろうか。妻を寝とられた怨みを晴らすためか。だとすれば、ダルマワンやチャンドラを殺さなかったのは変だ。だがこの推測のもっとも不合理な点は、共同経営者に殺し屋の周旋を依頼すれば、共同経営者に弱点を捕まれ、以後の会社経営で相手の意のままに操作される可能性があるからだ。
             もし、瀬田誠が妻沙代を殺そうと決心したのが、沙代にあった4月9日夜だったすれば、アンワル・ユスフ将軍に殺し屋の紹介を頼んだのは10日から12日にかけてであろう。だが、それは不可能だった。国防治安省のアンワル・ユスフ将軍の勤務記録では、彼は武器調達交渉のため4月6日から10日間アメリカ合衆国に出張していた。
             4月以前に殺しを依頼していたとすれば、瀬田誠は2月25日から3月7日までインドネシアに来ていたから、そのときかもしれない。だが、プロの殺し屋がそのとき依頼を受けていたとしたら、もっと早い時期に瀬田沙代は死体になっていたはずだ。それもデンパサールの薄汚れた路地ではなく、人気のないウブッドの森の静かな小径かどこかで……。ライ警視はやはり瀬田誠が自らの手で瀬田沙代を撃ったという気がしてならなかった。
             瀬田誠は彼のパスポートを使わないでインドネシアに密航してきたのだろうか。確かにマレーシアやフィリピンから小型船で密航者を運ぶ密航斡旋業者がいる。密航者の多くはインドネシアに住みたいわけではなく、インドネシアからさらにオーストラリアに密航しようと、その足がかりにインドネシアへ密航してくる。だが船による密航は時間がかかりすぎる。5月14日にデンパサールで沙代を撃ち殺し、再び密航船でインドネシアを離れ、日本時間で15日の深夜までにメキシコシティにたどりつくのは不可能だ。倉田がメキシコシティの瀬田の事務所に電話をかけたのは日本時間で16日の午前零時時過ぎ、日本とメキシコシティの時差は15時間だから、メキシコシティはメキシコ中部標準時で午前9時過ぎだ。
            したがって、犯行のあと、瀬田はできるだけ早くデンパサールからメキシコへ向けて飛び立っていなければならない。航空機を利用するとなるとどうしてもパスポートが必要だ。
             偽造パスポートを使ったのだろう。おそらくその可能性が高い。これがライ警視の推理の実証にとって最大の障害になってくる。
            タイやフィリピンでさまざまな偽造パスポートがつくられている。安物の偽造パスポートは造りが粗雑だが、盗難にあった本物のパスポートに細工した高額な偽造パスポートは識別が難しい。瀬田がバリのパスポート・コントロールで使うとすれば、そのパスポートは日本のものだろう。日本のパスポートなら出入国管理官のチェックも緩くなる。瀬田誠はどこかで日本のパスポーを手に入れたかもしれない。
             日本人が海外でパスポートを盗まれたり紛失したりするケースは年間1万件ほどだ。これらのパスポートのかなりが売買されて、最終的に偽パスポートとして売られているとされる。
             1997年のアジア通貨危機以来バリに来る日本人はがくんと減っているが、それでも毎月2万人前後がデンパサールのングラ・ライ空港から入国してくる。1ヵ月に2万人前後の日本人がングラ・ライ空港から入国してくるということは、1日平均700人弱ということになる。この700人の中から、正規の持ち主のいないパスポートをどうやって探し出すか。
             だが、この5月中旬はスハルト退陣をめぐる動乱のおかげで、インドネシアから国外に脱出する人は多かったが、インドネシアに入国する人は激減しているはずだ。グスティ・アグン・ライ警視は、デンパサールのングラ・ライ空港をつかって5月11日から13日の間に入国し、5月14日に出国した日本人を出入国管理の記録で調べることにした。5人の刑事を出入国管理事務所に送り込んで記録を調べさせたが、該当する日本人は見つからなかった。
             グスティ・アグン・ライ警視は途方に暮れた

             

             

            2018.10.20 Saturday

            『ぺトルス――謎のガンマン』   第18回

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               10月26日、鷹石里志の自宅
               インドネシアはかつて「赤道にかかるエメラルドの首飾り」といわれた。美しい南の海にばらまかれた万を超える島々からなる国だ。島々が散らばるインドネシア共和国の海域はアメリカ合衆国の国土に匹敵する広がりをもつ。
              インドネシアの首都ジャカルタの沖合のジャワ海にもプロウ・スリブ(千の島々)と名のいう小さな島々が、散らばっている。松尾芭蕉が「島々や千々にくだけて夏の海」と詠んだ松島沖の島々よりも広がりはひとまわり大きい。
               この珊瑚礁の島々が広がる海には、第2次世界大戦で日本がインドネシアを占領する以前、金子光晴が訪れていて、そこは「悲しい」までに美しい海だったと書き残している。エメラルド色の海に千々にくだけて散らばる珊瑚礁の島々は、たしかに美しいが、「悲しい」と金子が書いたのは、金子が妻の森三千代を彼女の愛人から取り戻そうとして、妻を連れて悲しい海外貧乏旅行に出たついでに、ここを訪れたからである。
               詩人金子光晴は小説家森三千代に子どもを生ませた。三千代はその子どもを置き去りにして、のちに高名な美術評論家になる若い男と同棲した。金子光晴は子どもを抱いてその男の家に行き、そこにいた三千代に、男をとるか、それとも子どもをとるか、とせまった。どこか貧乏じみた、それでいて自由気ままな恋愛ごっこ。金子光晴は森三千代とヨリをもどすために、子どもを森三千代の両親に預け、なけなしの金をはたいて彼女を海外旅行に連れ出した。
               鷹石はずいぶん昔、フィールドワークでジャカルタに住み着いたとき、プロウ・スリブに行ったことがあった。フィールドワーク開始にあたって意気軒昂だった当時の鷹石には、エメラルド色に輝く明るい海に見えた。やがて、金子光晴の『マレー蘭印紀行』をかかえて、金子光晴の旅をそっくりそのまま追体験しようと、どこか陰気な表情の日本の青年が東南アジアを旅行するようになった。青年たちは東南アジアにやってきて、東南アジアの今を見ようともせず、1930年前後の見聞にもとづいて詩人金子光晴の言葉がつむぎだした幻影の東南アジア島嶼部を彷徨していた。
               熱帯のインドネシア語にも春夏秋冬をさす言葉はある。春は「ムシム・ブンガ」(花の季節)、夏は「ムシム・パナス」(暑い季節)、秋は「ムシム・ググール」(落葉の季節)、冬は「ムシム・ディギン」(寒い季節)というが、実際にはインドネシアには「ムシム・クマロウ」(乾季)と「ムシム・ウジャン」(雨季)の2つしかない。デンパサールの気温は1年中最高が摂氏30度、最低が23度ほどである。米は年に3度とれ、同じ時期にある田では田植えをし、ある田では稲刈りをし、ある田は青々と稲が育っている。デンパサールでは季節の移ろいは風景からは感じにくいが、それでも、10月には乾季から雨季にかわり、雨季が3月いっぱいまでつづく。湿潤な熱帯だから年中湿度は高い。鷹石里志は時々デンパサールから日本に一時帰国するのだが、あるとき、愛用のニコンF3を分解掃除に出したところ、どうしました、水中に落としました、とたずねられた。乾季も雨季も同じように湿度は高いのだが、それでも、乾季の朝夕には、なんとなく空気がさらっと感じられるのである。
              1998年10月26日朝、鷹石はデンパサールの『バリ・ポスト』で興味深い記事を読んだ。鷹石の目にとまった新聞の記事は次のような内容だった。
               国軍憲兵隊が10月24日、国防治安省局長の故アンワル・ルクマン少将のジャカルタの私邸に大量の武器が隠匿されているのを発見した。発見された武器は小銃93丁、拳銃32丁、実弾約2万発、手榴弾10個、野戦用双眼鏡20個などだった。アンワル・ユスフ将軍は6月18日、出張先のバリのホテルで心臓発作を起こし、デンパサールの陸軍病院に運ばれたがすでに死亡していた。軍の将官が在職中に死亡したり、あるいは退職したりした場合、軍の機密保持のためその自宅を検査する決まりになっている。その検査で大量の武器が見つかった。アンワル・ルクマン将軍は以前、陸軍戦略予備軍で武器調達の責任者を務めていたことがある。そのころから武器収集の個人的趣味がつのり、武器を自宅に持ち帰っていたのであろうと、軍高官は説明している。
              ホホウ、とつぶやいて鷹石は電話を置いてある小テーブルへ行き、バリ州警察本部特捜課のグスティ・アグン・ライ警視に電話した。
              「アンワル・ユスフ将軍の家から鉄砲がわんさと出たというニュースを知っているかい」
              「ああ、新聞で読んだ。テレビでも見た」
              「あのアンワル・ユスフという男は、瀬田誠のジャカルタでのビジネスの事実上の共同経営者だった」
              「なんてこった。くそ、これから会議だ。夕方、帰りにあんたの家に寄る。テンペでもごちそうしてくれ。アンワル・ユスフ将軍が相棒だったとはね。夕方6時までにはそこに行く」
               雨季の初めの、まだおとなしいスコールがあがったころに、ライ警視が愛用のキジャンをきしませながら鷹石の家にやってきた。
              「さあ、お聞かせ願おうか」
              鷹石の家のリビングルームに入るやいなや、ライ警視はどすんと椅子に座った。テーブルの上のグラスの冷水を一気に飲み干した。
              「5月の終りにジャカルタに行ったとき、友人の友人で、瀬田の会社で番頭役をしている日本人にあったんだ。彼が言うには、瀬田の会社の名義上の共同経営者はアンワル・ユスフ将軍の手下になっているが、事実上の共同経営者は将軍その人で、スハルト大統領に近かった将軍がライセンスを回してもらい、日本へ輸出するエビのブローカー業をやっていた。実際の業務はインドネシアと日本の水産貿易会社がやる。瀬田とユスフの会社はその中間にあって、輸出手続き代行の既得権を得て、無手勝流のおいしい商売をしてきた」
              「ああ、インドネシアではよく使われるビジネス手法だ。アリババ方式というやつだね。プリブミの有力者と中国系インドネシア人の資本結びついた商売だが、日本人と結びついてもアリババのようなもんだ」
              警視が感想を述べた。
              「あの武器は何のために隠匿されていたのだろうか。地方で争乱が起きるたびに、インドネシア国軍の関与が取りざたされてきた。ああいう形で、将軍が個人的に隠匿した武器が、軍が密かにその手先に使っているならず者の民兵組織へ流れているようだね」
              「アンワル・ユスフ将軍は出張と称してヌサ・ドゥアの超高級ホテルに宿泊して女と戯れているうちに心臓発作を起こしたということだ。陸軍病院に運ばれたときはすでに死んでいた。それをきっかけに大量の武器弾薬のコレクションが見つかった。ひょうたんから駒だ。警察でささやかれている情報では、アンワル・ユスフ将軍は陸軍強硬派の有力者で、やがては陸軍参謀長ともうわさされていた人物だ。ハビビ政権になって軍の改革が求められている。アンワルの死を機会に、アンワルのスキャンダルを暴き、アンワルにつながる将軍たちを軍の中枢から追い出そうとしている勢力もあるのではないかという深読みの説もあった。バリの田舎警察の捜査官には縁のない大政治問題はさておき、将軍が何のために銃器をためこんでいたか? 面白い問題だが、軍はだんまりを続けるだろう」
              「現役の将軍が大量の武器を隠匿していたんだ。そのうちの1丁を商売仲間にやるくらいのことはなんでなかっただろうよ」
              鷹石が言った。
              「そうするとだね、タカシ。瀬田は妻が死ねば遺産が何十億と転がり込んでくる。だが、殺すのは早すぎる。殺すならもっと遺産の額が増えてからだ。たしか、あんたはそう言ったね。こういう状況はどうだ。妻が別居先のバリで性的に放埒な生活をしていることを夫の瀬田誠は知っていた。瀬田沙代はそのことをダルマワン、チャンドラ、スハルトノに隠そうとはせず、むしろおもしろがって話していた節があったから、同じことを夫にもおもしろがってしゃべっていたかも知れない。そして瀬田誠の手元にはアンワル・ユスフ将軍からもらった消音器付ブローニングがあった。ままよ、沙代の両親が死んで、沙代の資産が増えるまでまたず、いま殺してしまえ。瀬田誠がそう決心したとは考えられないか」
              「考えられないことはない。人を殺すために拳銃を捜したやつもいれば、拳銃がそこにあったから人を殺す気になったやつもいる。瀬田が拳銃を持っていて、妻の男関係に怒っていれば、殺すことはあり得るだろう。だが、警視、瀬田沙代死亡の連絡が東京の外務省から沙代の両親にあり、彼らがそれを瀬田に連絡した時、瀬田誠はメキシコシティにいたんだ。メキシコシティで拳銃を撃っても、デンパサールまで弾はとどかない」
              鷹石はじっとライ警視の顔を見た。鷹石はさらに、
              「警察があの事件はスハルトノの自殺で決着を付けている以上、その決定の中心にいたご本人のあんたが話をむしかえすのはむずかしいんじゃないのか」
              とライ警視に語りかけた。
              「難しいというより、無理な話だ。だがね、私は以前から、ひっかかるものを感じていたんだ。スハルトノの自殺にはいくつか奇妙な点があったが、私が不自然だと思うのは、自殺することになった日の朝、出がけに妻に晩飯の注文をしていたことだ。それでいて、スハルトノがタマン・サリで勤務していたその日の午前中には、スハルトノを自殺に追いたてるような出来事は何もなかった。事件の公式的な再捜査は無理だが、個人的に調べてみる値打ちはあるだろう」
              「ハードルは高そうだな。動機は遺産、嫉妬、憎しみで十分だが、瀬田誠の沙代にたいする嫉妬と憎しみについては、なお説得力のある説明が必要だろう」
              「おおせの通りだ。瀬田沙代のクレジットカードを調べたら、4月9日から10日にかけてデンパサール・ジャカルタ間を往復する航空券を買っていた。ジャカルタではマンダリン・オリエンタルへの支払いがあった。私は沙代が夫に会いに行ったのではないかと想像する。この点はジャカルタで確かめなければならないが、もしそうだとすれば、ちょっと変だ。サトシ、あんたから聞いた話だと瀬田誠はジャカルタ市内に高級アパートメントを借りていたそうじゃないか。沙代はなぜ夫のアパートメントに泊まらないで、ホテルに泊まったのだろうか。妙だよね。離婚経験者のサトシのコメントを聞きたいものだね」
              「妻が夫を拒否したか。夫が妻を拒否したか。双方が双方を拒否したか。いずれにせよ。あの夫婦はお互いに相手に愛情を感じられなくなっていた可能性がある。だから、沙代の両親も、沙代と瀬田誠の夫婦としては変則的な生活スタイルについて語ろうとしなかった。もちろん、そのことは事件とは関係なかろうと思っていたわれわれの方にも遠慮があって、話題にしなかったのだが」
              「そこでこれまた想像だが、4月9日に2人は離婚のことで会ったのではないか。沙代が瀬田誠に離婚を求めた。離婚すれば慰謝料は出るだろうが、沙代の遺産に比べれば知れたものだ。おそらくこのとき、瀬田誠は沙代を殺そうと決心した」
              「おいおい、ライ警視。それは想像の翼を広げすぎだよ」
              「わかっているよ。もちろんわかっている。私が言いたいのは、瀬田誠には瀬田沙代を殺す動機がないわけではないということだ。小説ならこの動機をめぐって表現される人間の業や愚かさ、あるいは崇高さといった話が泣かせどころなのだろうが、私は警官だ。必要なのは犯罪の現場に、まさにそのときその人物がいたという証拠だけだ。動機をめぐるお話は犯人を捕まえたあとで、たっぷり時間をかけて聞き出せばよい。いまは、殺意を抱くに十分な動機を持つ可能性があるという推定だけで十分だ」
              「ライ警視。そういうことであれば、5月14日の午前、瀬田誠がメキシコではなくてデンパサールにいたという証明をしなければならんだろうね。警視、あんた瀬田誠のパスポーを調べただろ。5月14日前後、瀬田誠はインドネシアに入国していたかい」
              「いや、入国していなかった。瀬田誠のインドネシア入出国のスタンプは4月中に入出国1回と、事件後の5月18日入国だけだった」
              「健闘を祈る」
              高石がi言った。
               そのとき部屋の外からお手伝いのスチの声がした。
              「夕食の支度ができていますが」
               食事室に入ったライ警視がこげ茶色に光る豚の肉片をみつけた。
              「ワー、これはすごいテンペだ」
              「この近くのバビ・グリンのワルンでスチが買ってきてくれた。あんたの家の自家製のやつほどうまくないかもしれんが、まあ、食べてみてくれ」
              「ライ警視はテーブルの上のおしぼりで手を拭き、バビ・グリンの肉片を手づかみにしてほおばった。口をもぐもぐさせながら、
              「来月中旬、ジャカルタへ出張する予定だ。研修だ。『刑事捜査と被疑者の人権』というテーマで、人権先進国のヨーロッパから先生がやってきて、いろいろ教えてくれるんだ。おれはスハルトとはひと味違うんだというところを見せようと、がんばっているハビビ大統領からのプレゼントだ。それで、ジャカルタに行ったついでに、あんたの友達の友達という瀬田誠の会社で働いている人に会いたいと思う。紹介してくれるか」
              ライ警視が言った。
              「いいとも。その人はインドネシア語を流ちょうにしゃべるから通訳はいらないよ。スケジュールがきまったら、早めに知らせてくれ。面会の約束をとっておこう」

              2018.10.14 Sunday

              『ペトルス――謎のガンマン』   第17回

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                6月8日午前、州警察本部の会議室


                 州警察本部で開かれた捜査会議の焦点は、スハルトノが殺されたのか、それとも自殺したのかという点だった。
                「では、鑑識結果から報告してもらいましょう。アフマド鑑識課長」
                司会役のライ警視が指名した。
                「スハルトノの体内から発見されたのは32口径の弾丸で、死体のそばにあったブローニングから発射されていた。同時に、その線条痕は瀬田沙代とスダルノの体内から発見された3発の弾丸のものと同一であることがわかった。スハルトノ、瀬田沙代、スダルノ、この3人の死はこの拳銃によるものである。スダルノの身体には銃弾による以外の傷はなかった。着衣にも皮膚にも物理的に争った痕跡はなかった。弾丸は至近距離からほぼ水平に発射されている。スハルトノの両手に硝煙反応が認められた。デスクの上のグラス、ミネラルウォーターの瓶、灰皿などからはスハルトノの指紋だけが検出された。室内にはクローク、引き出しなどに指紋の痕跡が見られた。これは以前の宿泊客たちが残した指紋だろう。スハルトノの消化器官から毒物の類は検出されなかった。スハルトノの胃から昼飯のミー・ゴレンがかなり未消化のままで発見された。食後30分以内に突然、死が訪れたようだ」
                「捜査員の聞き込みで、スハルトノは午後1時ごろ社員食堂でミー・ゴレンを食べて直ぐ705号室に行ったとの証言を得ている。したがってスハルトノが死んだ時刻は午後1時半前後と推測される」
                ライ警視が補足した。
                「次は室内。イ・クトゥット・コボ捜査主任」
                「まず、部屋のドアは施錠され、廊下側のドアのノブにはジャガン・ディガングのドア・ハンガーが掛けられていた。室内の見取り図と死体の位置は図の通りだ」
                「ありがとう、コボ捜査主任。次はホテルの従業員らからの事情聴取結果をデンパサール警察署のストポ捜査主任から」
                「まず、6月5日のスハルトノの行動から報告します。あの日、スハルトノは午前8時ごろ家を出て、タマン・サリに出勤したとスハルトノの妻が言っています。今日は早めに帰ってくる。晩飯は家で食べるから、何かうまい物をたのむ、と出がけに妻に言ったそうです。妻はちょっと奮発して、最近テレビの料理番組で見たマカッサル風魚の焙り焼きをつくろうと思っていたのに、と言って泣いておりました。スハルトノは8時半にはホテルに着いて、総支配人室で勤務を終えた夜勤の支配人代理から報告を受けたそうです。お昼までにかなりの数の電話に応対し、来客2人と面談しました。いずれも商用で応接室での短い対応でした。ホテルの幹部職員も3人ほどが総支配人室に現れました。それぞれの持ち場の人事管理の話だったということです。12時半に社員食堂へ行き、1時ごろ総支配人室から書類カバンを持ってフロントに行き、705号室のキーをもらってエレベーターで上ってゆきました。6月5日はあの階は客を入れないことになっていたそうです。客がそれほど多くなかったので、利用しないフロアに指定していたのだそうです。重要な案件について検討するので、急ぎのことでなければ電話をするな、と総支配人室の職員に言い残したそうです。総支配人室の職員の話では、スハルトノの態度は普段と変わりなかったということです」
                「スハルトノの私生活についてはなにか?」
                「ホテルの従業員に間でささやかれているうわさ話では、スハルトノは先月殺された日本人女性瀬田沙代と性的な関係があったといわれています。瀬田沙代は毎月1、2回タマン・サリに宿泊していました。そうした夜には、スハルトノが沙代の部屋に招かれて忍び入っていた。スハルトノが沙代の部屋に忍び足で入っていくのを廊下で目撃したというメイドもいた。沙代が殺された5月14日の朝には、ウブッドから沙代のガムランの師匠がタマン・サリに現れて、スハルトノを出せとしつこくフロントに言ったそうです。沙代との関係をネタにスハルトノはこの男に金銭をゆすられていたのではないかという推測を語る従業員もいた。スハルトノの妻は軍人時代の上司の娘だそうです。浮気がばれて、それが妻の父親でいまやタマン・サリの親会社の役員になっている元将軍の耳に入れば、将軍のご不快を買って、いつ総支配人のポストから降ろされるかもしれない」
                「ホテルに出入りした不審な人物はいなかったのか」
                ライ警視がたずねた。
                「方々あたっては見たが、そのような目撃証言は出てこなかった」
                ストポ捜査主任が答えた。
                「デンパサール署の捜査協力を感謝する。ごくろさまでした」
                スパルディ刑事部長が謝辞を述べた。
                「では、拳銃について。ワヤン・ブラタ刑事」
                「使われた32口径のブローニングは古い1910シリーズの1つだ。インドネシア軍もインドネシア警察も制式拳銃として採用したことはない。スハルトノは以前コプカムティブおよびバコルスタナスに勤務していたので、拳銃の入手は容易だったろうと考えられる」
                スハルトノは自殺したのか、殺されたのか。捜査会議の報告と事件の検討は午前9時ごろから始まり、正午近くまで続いた。日本人女性殺人事件と濃厚な関連があるので、スハルトノの死については、ライ警視の特捜チームが捜査を担当する。他の部局も関連事項に関して、求めがあれば協力を惜しまないように願いたい、とスパルディ刑事部長が言って会議が終わった。

                 

                  6月8日午後、刑事部長室

                「どうやら自殺の線が濃厚なんじゃないかな」
                ライ警視はスパルディ刑事部長のオフィスに呼び出された。ライ警視が部屋に入るやいなや、刑事部長が切り出した。
                「部長は自殺説ですか」
                ライ警視が言った。
                「これまでにわかったことを冷静に判断すれば、スハルトノの死は自殺以外には考えられないだろう」
                「そういう推論は当然です。ただ、スハルトノはあの日の朝、家を出るとき、今日は早く帰って家で晩飯を食べるので何かうまい物をつくってくれ、と妻に注文していました。少なくとも朝、家を出るとき、彼はその日の夕方には生きて家に帰るつもりだった。自殺する気はなかったのです。自殺用の拳銃に消音器を付けたという点もまったく腑に落ちません」
                「心静かな上品な死にざまをのぞんだのではないのかな」
                「そうかもしれません。ですが、『ジャガン・ディガング』のハンガーや消音器は、スハルトノの死体発見を遅らせるための工夫だとは考えられませんか。あの日の午後、時ならぬ乾季のにわか雨に足を取られてホテルの玄関で倒れた客がいなかったら、スハルトノの死体発見はもっと遅くなっていたでしょう」
                「死体発見が遅くなると何かいいことがあるのかね」
                スパルディ刑事部長が皮肉っぽく言った。
                「あの事件が他殺だとすれば、犯人は逃走のための時間がかせげます」
                「あの事件が自殺に見せかけた他殺だとすれば、犯人はなぜ消音器を残していったのだろうか。」
                「おっしゃるとおりです、スパルディ刑事部長。捜査の連中にもそうした見方をする者が多数派です。スハルトノは瀬田沙代との関係が妻に知れることを心配していた。それは自分の将来に大きく影響することだからだ。そのうえ同じように沙代と関係を持っているガムランの師匠のダルマワンが文句をふっかけてきた。5月13日にはスハルトノは瀬田沙代と会って話をしている。その夜、沙代の部屋でスハルトノは沙代と性交渉を持った可能性もある。そのあとで、沙代に別れ話を持ち出して沙代を怒らせ、思いあぐねて沙代をあの路地の近くに呼び出して、射殺した。オジェックのスダルノにそれを目撃されたので、スダルノを背後から撃った。致命傷かどうか自信がなかったので、とどめに頭部を撃った。そのあとで殺人犯として追われる自分の将来が不安になり、自分がやった殺人におののくようになった」
                「話の流れとしてはそれがごく自然だな」
                スパルディ刑事部長がおうように言った。
                「ですが、スハルトノから事情聴取したさい、自殺するほど追い詰められていたようには見えなかったのです」
                「そのあたりのことは、今後の捜査でわかってくるだろう。わかろうとする人に神はみしるしを示したもう――とはコーランの言葉ではなかったかな」
                スパルディ刑事部長が言った。
                「私はインドネシアでは少数派のバリのヒンドゥー教徒なもので、イスラムの真理には縁か薄くて。ですが、今の段階では自殺説の方が、あやふやな推測に過ぎない他殺説よりよほど説得力があることを認めざるをえません。他殺説の最大の問題点は、自殺に見せかけてスハルトノを殺す犯人の心当たりが、スハルトノの周辺に見あたらないことです。スハルトノに殺意を抱く可能性のある人物は、瀬田沙代と情を交わしていた師匠のグデ・ダルマワンと絵描きのバグス・チャンドラの2人でしょう。特にダルマワンについてはひどくスハルトノを憎んでいたようですからね。ですが、この2人には6月5日の午後、きちんとしたアリバイが証明されました。ダルマワンはあの日の午後、妻と水田に出て農作業をしていました。彼が妻と働いている姿は複数の人が目撃しています。また、スハルトノが殺されたと見られる午後1時から2時の間に、ダルマワンはお昼を食べに家に帰る途中、近所の人と出会ってしばらく雑談をしていました。一方、チャンドラですが、あの日は朝から夕方までアトリエで二人の弟子と商売用のバリ絵画の制作に余念がなかった。弟子がそう証言していますし、午後2時ごろはアトリエを訪れた近くの同業者と話をしている。この2人以外にスハルトノと瀬田沙代を殺しそうな人物はいまのところ浮かんでいません」
                「どうやら、結論が出たようだね」
                スパルディ刑事部長がにんまり笑って、話を続けた。
                「先日、うちの本部長がバリ州知事と会ったときに、まあこの2人ともスハルトが去ったあと、この先どうなるか……首を洗ってハビビ後継政権の人事待ちなのだが、知事が本部長にこんなことを言ったそうだ。アジア金融危機とスハルト政権崩壊にともなう動乱で、インドネシアの経済は大打撃を受けた。ここバリは観光が最大の産業だ。観光客は先月から潮が引くようにバリから消えていった。これから、なんとかしてツーリストを呼び戻さなくてはならない。なんといっても日本人とオーストラリア人が二大顧客だ。そういう時期に、日本女性の殺人事件がいつまでも未解決とあっては、バリは見た目ほど安全な所ではない、という風評を呼びかねない。私は懸念しているのだ、とね。去年だったかな、日本のツーリストがバリから帰国したあとコレラを発症したことがあった。バリは熱帯だからコレラ菌ぐらいいるさ。だがね、バリに長期滞在してゆっくりと休養する西洋人の客は滅多にコレラなど発症しない。ほとんど日本人と似たようなものを食っているにもかかわらずだ。団体旅行でバリにやってきて、着いた日の夜から大酒を飲み、翌日からキンタマニー、ブサキ、ウブッド、タナロット、ウルワツ、ビーチと、日差しの強い日中に休む間もなく動き回ってへとへとになった身体に、ちょっとでもコレラ菌が入ればひとたまりもなく発症するだろう。といって、うちの方から、日本人の旅行の仕方に問題があるとは言えないので、衛生管理を徹底すると約束して客を呼び戻すしかなかった。それと同じで、外国人が殺人事件の被害者になるのは、どこの国でもあることだ、他国の観光地に比べてバリがとりわけ危険なわけではないといってもはじまらない。事件の決着をつけて、日本のエージェントを安心させるしかないのだから、一つよろしくご尽力のほどを、と知事にいわれたんだ。本部長はその話を私に聞かせて、プレッシャーをかけてきた。しかし、どうやらこれで一件落着を見ることができそうだな」

                 

                 6月28日、デンパサールのライ警視の自宅
                 バリ州警察本部は6月22日瀬田沙代ならびにスダルノ殺人事件の容疑者が自殺したスハルトノであることを発表した。続いて検察庁が被疑者死亡により不起訴処分にすると発表した。これで発生から1ヵ月あまりで事件が解決した。スハルト政権崩壊という政治動乱中の刑事事件処理としては鮮やかな処理だった。
                「しかし私としては納得がいかない結末なんだ」
                ライ警視が鷹石里志にぼやいた。
                 隣家といっしょにバビ・グリン(子豚の丸焼き)をつくるので食べにおいで、とライ警視が鷹石を彼の家に招待した。隣家の家族と大騒ぎしながら子豚をあぶり、タレを塗ってはまたあぶり、ワイワイがやがやと肉片にかぶりつく。ジャワのムスリムが見たら顔を背けたくなるような饗宴だが、なにかまうもんか、ここはバリで、人口の9割がバリ人で、ヒンドゥー教徒だ。インドネシア全体では九割がムスリムで豚を嫌うが、バリでは9割の人が豚肉に寛容なのである。ひとしきり食ったあと、隣家の家族が残った料理の半分を持ち帰って、急に静かになった食卓でライ警視が鷹石に捜査のあらましを語り、その結論として、納得いかないとぼやいたのである。
                「しかしねえ、警視。スハルトノは自殺したのではなく他殺だと主張するには、わたしのような素人目にも、その裏付けになる証拠がないんだなあ。愛情のもつれが犯行の動機とするなら、ダルマワンとチャンドラしかいない。だが、かれらにはアリバイがあった。これは動かしがたい。スハルトノの死体のそばに拳銃があり、その拳銃は瀬田沙代とスダルノを撃ったものだった」
                「男女間のもつれで追いかけたのは、違う筋だったのかも知れない」
                ライ警視がこれまでの自分の捜査の筋を否定する言い方をした。
                「じゃあ、瀬田沙代殺しの動機は物盗りか。金ほしさの犯行か。動機が金なら、恰好の容疑者がいる。沙代の夫の瀬田誠だ。聞いたところでは瀬田沙代は金持の両親から生前贈与を受けて数十億円の資産を持っていたそうだ。その金は沙代が死んだ今では夫がそっくり遺産相続しているはずだ。数十億円という金は人によっては妻を殺すに十分な金額だ」
                ライ警視が真顔になって身を乗り出した。鷹石はニヤッと笑って話を続けた。
                「だが、私なら妻を殺さない。妻は数十億円の資産家だが、彼女の両親が死んだのちは、さらに遺産相続で沙代の資産は増えるはずだった。資産はおそらく現在の何倍にもふくれあがることだろう。妻を殺すのならその時だ。われわれのような貧乏人は瀬田誠が数十億の妻の遺産を相続したことで得をしたと考えるのだが、瀬田誠は妻の死によってうべかりし資産を失ったのだ。かれもまた、瀬田沙代殺人事件の被害者だったのだ」
                鷹石がライ警視に説明した。
                 ライ警視は深いため気をついて、鷹石に言った。
                「捜査のあらましは久保田領事に手渡した。彼が翻訳して本省に送り、そこから瀬田沙代の家族に連絡がいくだろう。今日私が話したことを元にして、夫の瀬田氏とご両親の倉田夫妻にことの次第を説明してもらえるとありがたい。夫として、親として大変つらいおもいをされたわけだから、気持の整理になるようなお話をしてあげるのが、お経を読んだあんたに残された仕事だよ」
                「そうだね。過分な謝礼をもらったから、ついでに、その金であんたの言っていたチャンドラが描いた沙代の絵を買い取って、倉田夫妻に贈ってあげようと思う」
                鷹石がしんみりとした口調で言った。

                 7月初旬、鷹石は仙台の倉田夫妻と、メキシコシティの瀬田誠あてに事件の決着について手紙を書いた。もちろん、瀬田沙代の男関係については愛情のもつれと簡単に説明した。ついでに、ウブッドに行ってイダ・バグス・チャンドラ画伯から沙代の肖像画を言い値の半額の千ドルで買い取って倉田夫妻に送った。メキシコの瀬田誠からは「事件の結末について詳細なお手紙をいただきました。ありがとうございました。バリ島は私にとってはなお悪夢の島です。メキシコでの仕事も軌道に乗り、最近ではもっぱらメキシコ暮らしで、ジャカルタに行くのも、2ヵ月に1度程度になりました」という返事を封書でもらった。倉田夫妻から「あの娘の絵を見ていると、娘が何かを訴えようとしているように見えてなりません」と封書で返事があった。

                2018.10.07 Sunday

                『ペトルス――謎のガンマン』   第16回

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                   瀬田誠は6月2日から4日にかけてウブッドに通い、亡き妻沙代のウブッド暮らしの整理をした。久保田領事が紹介してくれたインドネシア人の通訳も、久保田からまえもっていろいろと事情を説明されていたのだろう、態度は控えめだったが、必要なところでは瀬田への的確なアドバイスを忘れなかった。
                   借家の賃貸解約にあたって、不動産屋がどさくさにまぎれて清掃・修理費用をふっかけてきたときなどは、大きな損傷は借り主の責任だが、通常のよごれ程度の清掃費用は月々の家賃の中に含まれているはずだと、瀬田の代わりに反論してくれた。
                  沙代の銀行口座の解約でも、沙代の死亡証明書など必要な書類を銀行に問い合わせ、その書類を集める仕事も手伝ってくれた。ガムランの師匠イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの家や芸術学院に挨拶に行く日程をたて、同時に、沙代が未払いになっている謝金の有無も確認してくれた。さらに、ウブッドで沙代がつきあっていた人々をレストランに集めて、お別れの昼食会を開くお膳立てもやってくれた。瀬田誠のメキシコの事務所で働いてもらいたいほどのフットワークのいい通訳だった。
                   沙代が買い集めていたガムランの楽器は、鍵盤楽器のグンデルが2台とゴング1台、太鼓1台、それにスリン(笛)とルバブ(胡弓のような弦楽器)だった。由緒ありげな古めかしいものばかりだった。貴重なコレクションだと、ウブッドでガムランを習っている外国人グループのメンバーが言った。沙代とつきあってくれたお礼に、瀬田は彼らにガムランの楽器をプレゼントした。
                  沙代が使っていたテレビなどの電気製品や、着ていた衣料品はお手伝いとして働いてくれたカデがもらってくれた。さて、下着はどうしたものかと、瀬田はしばらくとまどった。
                   瀬田誠と沙代がジャカルタで立派なお屋敷を借りて住んでいたころの話である。ジャカルタの邸宅はたいてい塀で囲まれ、道路側の塀にコンクリート製のゴミ箱が設けられている。ゴミ箱には家庭の日常生活から出てくるさまざまなゴミが捨てられる。そのゴミをめあてに荷車を引いたトゥカン・サンパ(ゴミ集め)が回ってくる。彼らはゴミの中から空き缶やプラスティック製品、壊れた電気製品、古くなった調理器具といっためぼしいものを拾い集めていく。トゥカン・サンパのあと、野良犬がやって来て残飯を探して食べる。そのあと近所の鶏がやって来る。そのころには、熱帯の暑気に蒸されてゴミ箱はむっとするような臭気を放っている。そのゴミの中に鶏が首をつっこんで、なにやらあさっている。鶏のあとにやって来るのが役所のゴミ収集車だ。その頃にはゴミ箱の中は発酵・腐敗が進んでいて、ゴミはヘドロ状になり始めている。
                   沙代がどこかの日本人家庭で聞いた話を誠に教えてくれた。その家の奥様はご自分の肌着を捨てるときは、それをはさみでずたずたに切ってから、ゴミ箱に捨てるのだと沙代に語ったそうだ。沙代が怪訝な顔していると、その奥様はこう言った。
                  「だって、ゴミ箱から拾われた私のパンティーが誰かにはかれると思うと、気持悪いでしょ」
                   沙代からその話をきいて瀬田誠は大声で笑った。沙代もいっしょに声をあげて笑った。あのころはまだ2人していっしょに笑えるだけの心のゆとりがあった。
                  「たとえ洗濯されていたとしても、他人の下着を身につけるのは気持悪いだろう。おなじように、はかれる方も気持悪いのか。その気分、わからなくもないよな」
                  瀬田誠はそう言って、また笑った。
                   そのことを思い出して瀬田は沙代の下着の処分を思案したのだが、沙代の下着を切り刻むのは、沙代を切り刻んでいるような錯覚に襲われるかもしれないと感じて、カデに、
                  「すてておいてください」
                  と、下着を袋に詰めて渡した。
                   瀬田誠はデンパサールからよんだ運送業者に日本に送る品物を渡した。沙代の本、ノート、カメラ、沙代が撮影した写真、沙代が買い集めたバリの絵画10点ほど……
                   こうして瀬田沙代がウブッドで暮らした痕跡はプリアタン村から消えた。
                   瀬田誠は6月5日午前中に、駐在官事務所に久保田領事を訪ねて挨拶をし、その日の夜の便で成田に向けて飛び立った。

                   

                    6月5日午後、デンパサールのタマン・サリ・ホテル
                   デンパサールの北の空の一角に墨汁をたらしたような真っ黒な雲が現れた。黒雲はみるまに空いっぱいに広がった。太陽がさえぎられ夕暮れのように暗くなった。まもなく、ぽつりぽつりと雨粒が道路の埃のうえに落ちた。とみるやいなや、一気に大粒の雨が遠慮会釈なしに地面を叩き始めた。雨粒はしたたかに大きく、叩かれる街路樹の葉っぱがちぎれるような激しさだ。
                   6月のバリは乾季で、めったに雨が降ることはないが、全く降らないというわけでもない。道路の人々はあっという間にびしょ濡れになり、子どもや大人がゴルフで使うような大きな傘を持って現れて、雨から逃げまどう人を傘に誘い込んでいる。なにがしかの謝礼をいただこうという商売なのである。しかし、傘をさしていても結局のところスブぬれになってしまうのが熱帯のにわか雨だ。
                  タマン・サリ・ホテルの庭に出ていた宿泊客の中年の白人男性が雨の中をずぶ濡れになって玄関へ走ってきた。運の悪かったその男は濡れた玄関の石の階段で足をすべらせて倒れた。ドアマンが男の所へ駆けつけた。近くにいた客が手伝って男を玄関先に運び込んだ。ホテルの医者が呼ばれ、救急車が要請された。ホテルのフロントのチーフは、倒れた男が万一、雨で滑るような石段を設けたのはホテルの落ち度だ、と言い出した場合にそなえて、このことは総支配人の耳に入れた方がいいと判断した。
                  彼は腕時計を見た。午後3時5分だった。
                  「スハルトノさんを頼む」
                  「どのスハルトノでしょうか。ふたりいますが」
                  受話器から面倒くさそうなさそうな女性職員の声が聞こえた。
                  「総支配人に決まっているだろうが」
                  「あのー、こちら会計課ですが」
                  くそ、と悪態をついて、フロントのチーフはあらためてプッシュボタンを押した。
                  「総支配人のスハルトノさんを頼む。こちらはフロントだ」
                  「あいにく、総支配人は別室で作業中です」
                  「至急ロビーに来るように連絡してくれ。客が玄関で足を滑らせて転倒した。ひどいけがの可能性もある」
                  「了解」
                   救急車がホテルに到着した。まだ意識が回復しない男に付きそって、ホテルの職員も病院へ行った。だが、総支配人はロビーに現れなかった。
                   総支配人室の職員がロビーに現れた。
                  「支配人と連絡がとれません」
                  「総支配人は外出中なのか?」
                  フロントのチーフがいらだった声で聞いた。
                  「いえ、別室で作業しているはずなのですが。仕事に使っているはずの7階のセミスイートに電話しても応答がないんです」
                  「何号室だ」
                  「705です」
                  「行ってみよう」
                   705号室のドアノブには「ジャガン・ディガング」(ドゥー・ノット・ディスターブ)のタグがかけられていた。チャイムを鳴らしたが、室内からの応答はなかった。
                  ドアをノックして「総支配人」「スハルトノさん」と叫んだが、これにも応えがなかった。
                  「ここで仕事をしているのはたしかなことなんだな」
                  フロントのチーフが念をおした。
                  「間違いありません」
                  総支配人室の職員が答えた。
                  「マスターキーを持ってこさせろ」
                   マスターキーが届けられ、ドアを開けて室内に入ったホテルの従業員は一瞬たちすくんだ。
                  机の前の床にスハルトノが仰向けに倒れていた。スハルトノは白の長袖シャツに赤いネクタイをしていた。その白いシャツの胸もまた赤く染まっていた。
                  「総支配人」
                  支配人室の職員がかけ寄ろうとした。
                  「まて」
                  と、警官から転職してきた警備課長が制した。警備課長はスハルトノのそばにしゃがんで彼の首筋に触った。脈はなかった。
                  「みんな、部屋から出て、廊下で待機してくれ。あたりの物に触れないように」
                  警備課長が命令した。警備課長は廊下の受話器を取り上げてオペレーターに警察につなぐように言った。
                  「警察はすぐ来ると言っている。下に行って警察が来たらここに案内してくれ」
                  警備課長がまるで警官にもどったようにてきぱきと指示した。

                   雨はすでにあがっていた。警察の一団がタマン・サリに現れた。制服の警察官10人ほどがおそまきながらホテルの出入り口をかためた。私服の、といっても安物のプリント柄のシャツや偽ブランドのポロシャツを着た刑事5人と、制服の鑑識職員が道具を持って現れた。少し遅れて検視を担当する医師が姿を現わした。
                   705号室はスイートルームと普通のツインの部屋の中間ぐらいの広さの、セミスイートとよびならわされている部屋だ。部屋の北側に大きめの窓があった。ガラス窓は内側からロックされていた。窓は引き戸になっていたが、転落事故を防ぐためにふだんは10センチほどしか開かないようになっていた。窓を大きく開くには、窓のレールの中ほどに取り付けられたストッパーをはずす必要がある。
                   窓のそばに大きめのデスクが置かれていて、ここで仕事ができるようになっていた。デスクのかたわらの床に、スハルトノの書類カバンがおいてあった。ここで書類を読んでいたらしい。デスクの上には半分ほど水が残っているグラスと、ペリエのグリーンの小瓶がおいてあった。部屋の冷蔵庫からとり出したものだろう。机の上にはスハルトノが書いたらしい、クタ地区でのホテル事業拡張計画案の下書きとボールペンがあった。スハルトノはこの案文に手を入れていたと思われる。また机の上には、スハルトノが愛用し得ている紙巻き煙草マールボロの箱と、プラスティック製の使い捨てライターがおいてあった。マールボロの箱の中にまだ半分ほど紙巻きが残っていた。デスクの上には陶製の大きめの灰皿があり、吸い殻が3本残っていた。
                   スハルトノはデスクのすぐ横に仰向けになって倒れていた。頭を東に、したがって黒の革靴を履いた足を西に向けていた。死体の南側にはデスクがあり、デスクのさらに南側はホテルの廊下と部屋を仕切る壁である。壁にはバリの王族の絢爛たる葬式の写真が飾られていた。死体の北側、つまり仰向けに倒れているスハルトノの死体の右手のそばに拳銃があった。拳銃の握りには指が絡んでいた。
                   拳銃の銃身が異様に長く見えたのは、消音装置がつけてあったからだ。
                  「ストポ捜査官、デンパサール署長からお電話です」
                  ストポ捜査官が廊下に出て受話器を取った。
                  「州警察本部の特捜部のライ警視が指揮を執る。その指揮に従ってくれ。現場はライ警視が到着するまでは、そのままにしておくように。検視と鑑識は進めていいと言うことだった。ところでどうだ、特捜がしゃしゃり出てくるほどやっかいな事件になりそうなのか」
                  署長が早口に言った。
                  「いま、ドクターが死体を見ているところです。どうなるか見当はまだついていませんよ」
                  指揮を州警察本部特捜部に奪われる不快感もあってストポ捜査官はぶっきらぼうに署長に言った。
                  医師による検視が終わりかけたころ、ライ警視が現れた。
                  「死後2、3時間です。致命傷は心臓に向けて発射された銃弾一発。即死でしょう」
                  「そうすると、午後1時から2時にかけてのことだな」
                  ライ警視が腕時計をのぞき込んで言った。
                  「ストポ捜査官。君は部下を指揮して、スハルトノの今日の行動と、午後1時から2時にかけてホテル内で変ったことがなかったかどうか聞き込みをしてくれないか。他殺か自殺かまだわからないが、とにかく君の事件を横取りするようなかたちなって申し訳ない。ストポ捜査官、君も知っているだろうと思うが、先月の日本人女性路上射殺事件、スハルトノはあの事件の関係者なのだ」
                  ライ警視が事情を手短に説明した。
                  「了解しました。ライ警視」
                  失いかけたメンツがすくわれたストポ捜査官に笑顔がもどった。
                  「スハルトを司法解剖に回す手続きをしてくれ」
                  ライ警視が警察本部から連れ来た部下の一人に言った。
                  「ドクター、死体の外見に何か変った点が見られますか」
                  「ないね。自分で撃ったか、誰かに撃たれたか。その点は不明だが、これは百パーセント銃による死だ。解剖して毒物の有無まで確認をとる必要があるのかね」
                  「ドクター、拳銃自殺する人間が消音器を使う理由を想像できますか?」
                  「はい、はい。よくわかりました、警視殿」
                  医師がスハルトノの遺体に付きそってホテルから法医学専門の医師がいる軍の病院へ行った。
                  「鑑識は指紋をとりおえたか」
                  「警視、まだです。ここはホテルの客室ですぜ。指紋だらけだ。ハウスキーパーの部屋掃除はどうやらおざなりなようだ」
                  「それからデスクの上の書類、タバコ、ライター、灰皿、吸い殻、すべて持ち帰って精査してくれ。それからスハルトノのカバン、ドア・タグもだ。何かわかったら直ぐ連絡をくれ。みんな、あとしばらくの間、目をよく見開いて室内をしらべてくれ。思わぬ発見があるかも知れない。それから警備課長さん、この部屋はしばらく現場保存のため閉鎖する。今夜は警官を残してゆく。深夜に警官を交代させるのでよろしく」
                  ライ警視がてきぱきと指示をとばした。
                   ライ警視が州警察本部のオフィスに戻り、甘ったるいバリコーヒーを飲んでいるところに、デスクの電話が鳴った。鑑識課からだった。
                  「ライ警視。出ました、線条痕が。いや、驚きました。瀬田沙代とスダルノを射殺した銃と同一の線条痕が見られる弾丸がスハルトノの体内から出ました。あのブローニング32口径から発射された弾です」
                  「鑑識のラボだな。直ぐそこへいく」
                   ライ警視が部屋を飛び出した。

                   

                  2018.09.30 Sunday

                  『ペトルス――謎のガンマン』   第15回

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                     6月1日、デンパサール


                     鷹石里志は6月1日朝、デンパサールの州警察本部のグスティ・アグン・ライ警視の部屋で、バリ駐在官事務所の久保田尚領事が瀬田誠を連れて現れるのを待っていた。瀬田は1日朝、ライ警視から電話をもらった。瀬田誠と久保田領事からこれから警察本部に来ると連絡を受けたので、急なことで申し訳ないが本部まで来ていただけないかという内容だった。
                     瀬田は5月31日の夕刻、デンパサールに到着し、前回と同じサヌール・ビーチのバリ・ハイアットにチェックインした。翌6月1日、瀬田は駐在官事務所に久保田尚領事を訪ねた。領事から、瀬田が捜査のその後の進捗について聞きたいといっているので、会ってもらえるかどうか警視に問い合わせの電話があった。

                    「事件発生から2週間、いや、正確にいえば、2週間以上がたちました。事件解決へむけて、なにか新しい進展があったと、私は期待して今日ここに来たのですが……」
                    応接室に案内されてソファにすわるとすぐ瀬田が口を開いた。妻が外国で突然、殺人事件の被害者になってしまった夫の無念がこもった、何となく粘っこい感じの日本語の言い回しだった。すくなとも、鷹石にはそう聞こえたが、「新しい進展はあったのでしょうか」と事務的な翻訳をした。
                    「5月14日の事件発生以来、捜査本部はあらゆる可能性を考慮に入れてきました。瀬田沙代さんとオジェックの青年スダルノは、ひょっとしてあの日のウダヤナ大学生を中心にしたデモに参加していたか、あるいはプレマンに襲撃されて逃げまどうデモ参加者の流れに巻き込まれたかして、プレマンに銃撃された可能性をまず検討しました」
                    職員が冷たい紅茶と小型の餡入り焼き饅頭ピアを盛った皿をはこんできた。警視は「どうぞ」とお茶とお茶菓子を勧めて、話をつづけた。
                    「ですが、この仮説は成立しませんでした。デモに参加した学生たちから証言を集めたのですが、殺された2人がデモの列にいたという証言はありませんでした。また、死体の第一発見者であるウダヤナ大学生のニョマンから詳しい聴き取りをしました。ニョマンが言うには、あの路地裏に逃げ込んだのはニョマン1人だけで、ほかのデモの参加者はいなかった。また、プレマンがあとを追ってくる様子もなかった。また、プレマンの動きを監視している警官がプレマン情報を集めてくれましたが、あの日デモ隊に襲いかかったプレマンのなかの誰かが、拳銃を隠し持っていたとか、拳銃で人を撃ったという話も聞こえてきませんでした」
                    「デモ襲撃に巻き込まれたという仮説はつぶれたわけですね」
                    領事の久保田が念を押した。
                    「そう考えています。次に考えられるのは、行きずりの殺人です。動機は物盗りか、人間を射殺すること自体を楽しむ異常者の仕業の2つが考えられます。物盗りですが、スダルノの方はもともと金目のものは何一つ持っていない男です。ですが、彼のポケットの小銭はとられていなかった。瀬田沙代さんの場合も、ウエストバッグから現金が奪われたようですが、ATMカードやクレジットカードは残っていた。腕時計もしゃれたデザインの高価なものでしたが盗られていなかった」
                    「ええ、あれは以前、彼女の誕生日のお祝いに私が贈ったものです」
                    瀬田が低い声で言った。
                    「失礼ですが、いかほどのものでしたか?」
                    「米ドルで3000ドルほどでした」
                    「警察の専門家の鑑定もその程度でした。おそらくウエストバッグからとられた現金の総額よりはるかに高額な商品でしょう。犯人の目的が物盗りであったのなら、なぜこの腕時計を奪わなかったのか。殺人という重大な行為と奪われた物とのバランスがとれない。では、殺人マニアの、異常者の犯行かといえば、ここ数年、デンパサールではそうした殺人マニアの犯行と思われるような殺人事件、殺人未遂事件は起きていません。従って、この確率は相当低いと考えていいでしょう」
                    「インドネシアでは正体不明の殺人事件がよく起こると聞いたことがありますが。たしかむかしペトルス事件というのがありませんでしたか」
                    瀬田が警視に質問した。
                    「おお、ペトルスのことをご存じでしたか。1980年代にジョクジャカルタで起きたギャングをねらった連続射殺事件――謎の銃撃者(プネンバック・ミステリウス)ですね。あれは街のギャング一掃を狙った超法規的な政府の措置だったと、スハルトが6、7年前に出した自叙伝の中で書いています」
                     警視が瀬田に説明した。鷹石は警視のインドネシア語を正確に日本語に翻訳したのち、ペトルスはプネンバック・ミステリウスの略語で、警視は言っていませんが、死刑の宣告と執行を裁判抜きでやったわけですから、スハルトと彼の政権そのものが殺し好きの異常者だったともいえます、と日本語でコメントした。さらに、あの事件はスハルト政権の中枢でナンバー2を目指していた大物が、ライバルの影響力を削ぐために、ライバルの手足になって騒動を起こしてきたギャングたちを始末したのだという説もあります、とつけ足した。
                     久保田領事がちらっと視線を鷹石に向けたが、あとはそしらぬ表情を保った。
                    「そういうわけで、行きずり殺人の可能性も低い。では、組織犯罪に巻き込まれた可能性はどうでしょうか。例えば、麻薬。バリは国際的な観光地ですから、ヘロインなどの麻薬が流れ込み、またバリを経由してオーストラリアに麻薬が運び込まれている。そうした犯罪に何らかの理由で巻き込まれて、組織の手で殺された可能性も検討してみました。オジェック乗りのスダルノの周辺を洗って見ましたが、置き引き、寸借詐欺などの小犯罪はやっていましたが、麻薬密売の仕事はしていなかった。瀬田沙代さんの周辺にも、もちろん、麻薬犯罪に関連した情報は皆無でした。この線も排除していいでしょう。
                    「では、えん恨に関連した殺人なのか。スダルノはバリ人のビーチボーイだと名乗って、片言の英語を使ってオーストラリアなどからやって来た女性のお相手をしていたそうです。こういう推測は夫である瀬田さんにとっては、非常に不愉快なことでしょうが、警察はスダルノと瀬田沙代さんにそのようなつながりがあるかどうかも調べました。その結果、これまでの調べで、瀬田沙代さんとスダルノは面識がなかったことがはっきりしました。したがって、被害者双方に対して共通の怨みを持つ人物の存在は考えにくい。スダルノに対して怨みを持つ犯人がスダルノを殺し、たまたまその現場にいあわせた瀬田沙代さんが巻き添えになった。あるいはその逆で、犯人は瀬田沙代さんに怨みを持っており、スダルノが殺人の巻き添えになった。この二つの可能性が考えられます。このいずれかについては、現段階では警察は判断を保留しています」
                    「犯人像については何か」
                    「検視報告を読む限り、至近距離とはいえ犯人はなかなかの射撃の腕前のようです。軍か警察にいた人物の可能性も否定できません。あるいは、殺し屋の仕事の可能性もあります。現場に犯人捜しの手がかりになりそうなものを残していません」
                    「殺し屋ですって! デンパサールでそう言う商売をしている者がいるのでしょうか?」
                    瀬田が驚いてたずねた。
                    「います。殺人の請負料はターゲットによって違いますが、闇の世界の相場では普通のインドネシア市民なら1人1000ドル以上。外国人なら5000ドル以上といわれています。ただ、殺し屋に殺人を依頼する場合、依頼者は自分の身元を完全に秘密にしておく必要があります。そうしないと、あとでずるずると脅迫され続け、はてしなく金を絞りとられることになるからです。したがって、殺し屋による殺人も噂で言われているようには頻繁に起きていません。今回の事件で殺し屋が暗躍したという情報は、バリの犯罪者がたむろする闇の世界でも噂にさえなっていません」
                    「そうすると、沙代あるいはスダルノという青年のどちらかに怨みを持っている人物が自らの手で、2人を撃ち殺した、という可能性が残されるわけですね。犯人は拳銃を所有しており、射撃の腕前も確かである。銃を扱いなれた人物。ということになれば、犯人捜しはだいぶ絞られてきますね。もし沙代の方が狙われたとすれば、沙代の周辺にちらつくそのような人影になにか心当たりがおありなのでしょうか」
                    瀬田がたたみ込んだ。
                    「まさにいま、そのあたりのことを捜査しています。これ以上こと細かく言及することは今後の捜査の支障になることもありますので、控えさせていただきます。ご了解いただきたい」
                    警視はそう言って、じっと瀬田を見つめた。瀬田もそれ以上警視に対して質問を重ねる気はなかったようだ。
                     ライ警視に見送られて瀬田、久保田、鷹石の3人は州警察本部の玄関を出た。表には久保田の車の運転手が待っていた。お送りしましょうか、という久保田がいったが、鷹石はありがたく断った。
                    「わたしはこれから久保田さんの事務所に戻って、久保田さんが紹介してくださったインドネシア人の通訳といっしょにウブッドへ出かけます。数日をかけて、沙代が2年間暮らしたウブッドの生活の後片付けをします。ところで、鷹石さん。義父母が鷹石さんにくれぐれもよろしくお伝えするようにと申しておりました。沙代を荼毘に付したときの、鷹石さんのお経は、両親にとってもわたしにとっても、まことにありがたかった。両親から鷹石さんあての礼状をあずかってきましたので、今夜、バリ・ハイアットに私を訪ねていただけませんか。本来なら私が鷹石さんをおたずねしてお渡しするのが礼儀だとは思うのですが、なにぶん、地理に暗いものですから。よろしければ、今夜8時でいかがでしょうか。勝手を申してすみません」
                    瀬田が久保田に言った。
                    「いいですよ。8時にお尋ねしましょう」

                     

                     瀬田誠は鷹石里志をバリ・ハイアットのバーに引っ張り込み、テーブル席に座るやいなや2通の封書をカバンから取り出した。いずれの封筒も手触りの良さそうな厚い和紙でつくられた大きめのものだった。
                    「1通は倉田からの礼状で、もう1通は鷹石大僧正へのお布施です。瀬田沙代の夫であるわたしと、彼女の両親からです」
                    「それはどうも。お手紙はあとでゆっくり読ませていただきましょう。坊主でもない人間が坊主に扮して、うろ覚えの経を読んでお布施をいただくのは内心忸怩たるものがあります。とはいえ、お布施を辞退するというのも余り例のない話で、出されたものをありがたくいただくのがお布施の礼儀。ありがたくいただきましょう」
                     鷹石は受け取ったお布施の封筒の厚みに気がついて一瞬ドキとした。さはさりながら、お布施が厚かろうと薄かろうと、そのような俗念をいっさい顔に出さないのもまた、名僧知識の見栄である。
                    「ウブッドの片付けは順調に進行しましたでしょうか」
                    「今日は不動産仲介業者に賃貸契約の解除手続きをやってもらいました。沙代がお願いしていたお手伝いさんにも、給料の精算をし、半年分の給料にあたる額を退職金として渡しました。ガムランの師匠を訪ねましたが留守でした。明日にでもまたたずねるつもりです」
                    「沙代さんがウブッドで暮らした2年分の整理ですし、ここの人は期待するほどにはてきぱきと対応してくれませんから、あと数日はかかるでしょうね」
                    「沙代の銀行口座の解約、お友達への挨拶、沙代が集めたガムランや沙代の遺品の楽器を日本に送る手配など、まだいろいろと残っています」
                    「沙代さんのここでの暮らしを思い起こしながら、ゆっくりとおやり下さい。よい功徳になるでしょう。それはそうとして、先月末、所用があってジャカルタに行き、ついでに古い友人をたずねたところ、たまたま、瀬田さんの事務所にいらっしゃる宮内孝由さんにお目にかかりました。瀬田さんのことを心配なさっていらっしゃるごようすでした」
                    「それはどうも。宮内さんに詳しいことを連絡するだけの心のゆとりがない毎日でした。あの方にもご心配をおかけしたようですね。ところで、宮内さんは私たちのことを何か言っていましたか」
                    「と、おっしゃいますと?」
                    瀬田は「いやあ」といって、頭に手をやった。
                    「私たち夫婦がなぜジャカルタとバリ、最近ではむしろメキシコとバリになってしまいましたが、別れ別れに暮らしていたことについてです。おはずかしい」
                    「いえ、そのようなことはなにも。ですが、わたし個人はそうした人間くさい話が嫌いではありません」
                    「そういうことであれば、いまさら隠し立てしても始まりませんから、観念してお話いたしましょう」
                     瀬田誠がその夜語った話はおよそつぎのようであった。
                     瀬田誠と倉田沙代はアメリカの大学で知り合った、瀬田は農業経済を専攻する修士課程の院生。沙代は歴史専攻の学部生だった。やがて2人は日本に帰国してから結婚した。誠30歳、沙代26歳の時だった。そのとき瀬田は大手商社で農業部門の職についていた。結婚後、瀬田はメキシコ支店勤務になり、そのあとジャカルタ勤務になった。ジャカルタに来たのは1994年である。支店で2年ほど働いているうちにアンワル・ユスフ将軍と知り合い、将軍にさそわれて共同で事業を始めた。その資金は沙代の父親が貸してくれた。ユスフ将軍と始めたエビの輸出事務管理会社は安定した手数料収入を得たが、仕事自体は退屈きわまるものだった。
                     2年ほど前、瀬田誠がメキシコで新しい事業を手がけ始めたころ、沙代がバリへ行ってガムランを習いたいと言い出した。
                    「ジャカルタはインドネシアの政治と経済の中心ですが、文化的には退屈なところです。日本人会もジャカルタ駐在の日本企業従業員の親睦会のようなもので、日本の縦社会をインドネシアに持ちこんだ組織です。私はメキシコとインドネシアを往復しなければならなくなった。わたしがメキシコに行っている間、沙代を一人ぼっちにしてジャカルタで退屈させるのはかわいそうだと思って、ウブッドに送り出したのです。しかし、遠く離れて住んでいるうちに、お互いの気持まで疎遠になってきたことに気づきました。1年ほど前、これはまずいと思って、沙代にメキシコに来て住んだらどうか、と相談したのです。かつてメキシコに駐在したころ、沙代はメキシコをとても気に入っていましたから。ですが、彼女はガムランにうちこんでいて、もはやバリを離れようとしませんでした。私はジャカルタの一軒家の借家を出て、ホテルが経営しているアパートに移りました。年の半分以上はメキシコですから、アパートの方が使いやすい。そうこうしているうちにこんなことになってしまいました」
                    瀬田誠は無念きわまるといった表情になった。
                    「ところで鷹石さん、バリは長いのですか?」
                    「かれこれ4年になります」
                    「奥様は日本に帰りたがりませんか」
                    「わたしは独り者なんですよ」
                    「これは失礼。奥様はお亡くなりになられた?」
                    「いや、別れました」
                    「それはまた、個人的には興味をひかれる物語ですね」
                    「おろかしい話です。わたしはインドネシアをフィールドにした政治学を専攻して、日本の大学で教えていました。妻はタイの歴史が専門でした。やがて、妻が同じタイをフィールドにしている人類学者とぞっこんになってしまいまして。求めに応じて離婚するはめになりました」
                    「これは失礼しました。かさぶたをはぐような過去を問いただして申し訳ありませんでした」
                    瀬田誠がまじめな表情でわびを言った。
                    「なあに、もはや30年以上も前のことです。これまで何度もあちらこちらで、繰り返しくりかえし冗談半分に語ってきたことです。お気遣いはご無用です。まあ、そういうことで、大学を定年退職したあと、ここに来て年金で隠棲しているのです」
                    「熱帯にやってきて年金で隠棲というのは珍しい。かつて世界を制覇した大英帝国の場合、熱帯の瘴癘の地に勤務する官吏については年金の繰り上げ支給の恩典が認められていたそうですね。早めに年金暮らしに入って、イングランドの田舎で庭造りをしながらのんびり暮らす日々を夢見て、危険を承知で熱帯勤務を志願する人が多かった。でも、あの当時、熱帯はほんとうに危険なところだったようですね。トマス・スタンフォード・ラッフルズの妻もジャワで死に、ジャカルタの外国人墓地に葬られています。彼女の墓、ご覧になりましたか」
                     瀬田誠がウェイターにテキーラを注文した。瀬田は鷹石にもテキーラをすすめたが、鷹石は強い酒はどうもと言って、日本のビールのおかわりを頼んだ。
                    「ええ。タマン・プラサスティ墓地公園ですね。あそこはジャカルタではわたしのお気に入りの場所なのです。愛妻オリビアと、親友だったジョン・キャスパー・レイデンの墓が比翼塚になっていて、あの場所を訪れるたびに、わたしはいつも不思議な感動と安らぎを覚えるのです」
                     かつてジャカルタの外国人墓地は、独立広場の西側のタナ・アバン一帯に広がっていた。17世紀から19世紀にかけてジャカルタで暮らしたポルトガル人、オランダ人、イギリス人、アメリカ人、インド人、アラビア人、中国人たち、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒の墓があった。しかし、インドネシア独立後の首都ジャカルタの急成長とともに土地不足になり、外国人墓地は1976年に閉鎖された。旧墓地のかなりの部分が中央ジャカルタ市の新庁舎などの敷地に利用された。現在の外国人墓地は1979年に規模を縮小してタマン・プラサスティ(石碑公園)という名の墓地歴史博物館として再び一般に公開されるようになった。この墓地でもっとも有名な墓が、瀬田誠のいうトマス・スタンフォード・ラッフルズの妻オリヴィア・マリアン・ラッフルズの墓である。
                    「スタンフォード・ラッフルズがオリヴィアと結婚したのは、彼が23歳の時でした。そのとき妻は10歳年上の33歳。最初の夫とは死別、2度目の結婚でした。オリヴィアは 知性的で、その立ち居振る舞いは洗練され、生き生きとした黒い瞳を持った魅力的な女性だったといわれています」
                     テキーラとビールのおかわりが届いた。2人はそれぞれのグラスを持ち上げて会釈した。
                    「そうだったんですか。相当な姉さん女房だったわけですね。ふたりはジャワでどんな暮らしをしていたんでしょうか。知りたいな」
                    瀬田誠が鷹石を見た。
                    「スカルノの2度目の結婚相手、インギット・ガルナシはスカルノより12歳年上でした。年上の妻に抱かれて安心を感じる男もいます。ラッフルズが東インド会社に臨時職員として雇われたのは、14歳の少年のころでした。ウィリアム・ラムゼーという上司に目をかけてもらい、ラムゼーの屋敷に集まる知的な人々の会合に出席を許された。その席で交わされる話題に聞き入ることで、ラッフルズは人間としての成長をとげていったのです。耳学問も馬鹿にできません。このようなラッフルズのおいたちから、オリヴィアはもともとラムゼーの愛人で、ラムゼーがオリヴィアと手を切る方法として、オリヴィアと結婚することを条件に、ラッフルズに東インド会社での昇進の扉を開いてやったのだ。そういう悪意に満ちた噂が流されたこともあったそうです。ともあれ、かくして19世紀初頭の東南アジアに関するイギリスの大戦略家トマス・スタンフォード・ラッフルズはマレー半島のペナンにあるイギリス東インド会社の出先機関の事務次長としてアジアに現れたのです」
                    「その手の話は現代の会社でもありますよ。上司にすすめられて結婚したら、実は、上司の元愛人だったなんてね……」
                    瀬田誠がため息混じりに言った。
                    「そうでしょうな、昔も今も、おなじことを繰り返しているのでしょう」
                    と鷹石は瀬田の感想には簡単に応じて、話を続けた。
                    「ペナンで暮らし始めてまもなくトマスとオリヴィアの2人は、ジョン・キャスパー・レイデンという医師と深い交流を持つことになります。レイデンはオリヴィアとトマスのちょうど中間の歳でした。レイデンはエディンバラ大学などで神学、文学、医学を学んだ、なかなかに詩心のある人でした。『湖上の麗人』や『アイヴァンホー』などを書いたウォルーター・スコットの友人でもあり、スコットの出世作『スコットランド・ボーダー地方の吟遊詩』の著作に協力したそうです。
                    「やがてレイデンは医師としてイギリス東インド会社に雇われ、1803年にマドラスに派遣されました。この航海中にレイデンは体調を崩し、任地到着後にマドラスの病院で治療を受けました。ですが、病状は改善しなかった。そこで東インド会社は転地療養のため、レイデンをペナンに送った。1805年10月のことでした。運命のであいというべきか、ちょうど1ヵ月前の1805年9月に新婚のラッフルズ夫妻がペナンに赴任して来たばかりでした。病気のレイデンが官舎で一人暮らしをしているのを気の毒がって、ラッフルズ夫妻が彼を自宅に引き取り、オリヴィアが手厚い看護をした。こうして3ヵ月にわたってラッフルズの家で病身を養い、回復したレイデンはやがて1806年1月、インドへ帰任しました。
                    「この3ヵ月間に、レイデンはおそらくオリヴィアを恋するようになっていたのではないかと、わたしは想像するのです。当時のイギリス人にとってペナンは地の果てともいってよい異郷で、そこで病の身をいたわり、手を尽くして看護してくれる麗人に恋心を抱かない若者はいないでしょう」
                    鷹石がその根拠を瀬田に説明した。
                     レイデンはオリヴィア宛の手紙に、数行の詩を書いている。レイデンのラッフルズ夫妻に対する敬愛とともに、レイデンのオリヴィアへの思慕もまた行間ににじむ。

                     

                      かの友の優しき腕の中で幸せに過されんことを
                      かの人とあなたが偕老同穴を全うされんことを

                     

                    一方、オリヴィアの方もレイデン宛の手紙に、

                     

                     親愛なるドクター・レイデン
                     あなたにはたった一人の弟に対する愛と同じ愛情を感じます。あなたが重い病の床にある聞いたとき、私の胸は痛みを感じまし  た。それはあたかも私のあなたに対する誠実な敬愛の証しのように……

                    と書いた。

                     イギリスはナポレオン戦争に乗じて、1811年ジャワに侵攻した。イギリスのジャワ制圧直後の1811年8月末、遠征に同行していたレイデンが急死した。死因は肺炎ともマラリアともいわれている。あっけない死だった。ラッフルズはレイデンの亡骸をバタヴィアのヨーロッパ人墓地に埋葬した。
                     ジャワ副総督になったラッフルズ夫妻は、主としてボゴールに住んだ。ボゴールはジャカルタより標高が高く、少し涼しい。オリヴィアは副総督夫人としてバタヴィア在住のヨーロッパ系住民のだらしない生活習慣を改めさせ、洗練されたヨーロッパ風に戻す生活改善運動を進めたといわれている。オリヴィアもまた開明的な植民地行政官の妻だった。だが、オリヴィアもレイデンの死から3年後の1814年11月にボゴールの屋敷で急死した。ラッフルズはオリヴィアをバタヴィアのヨーロッパ人墓地のレイデンの墓の隣に埋葬した。
                     さらに、ラッフルズは、夫妻が暮らしたボゴールの屋敷にオリヴィアとの幸せな日々を記念するテラス式の円形の霊廟を造らせた。オリヴィアを記念するテラスは現在もボゴール植物園内に残っている。生前のオリヴィアの優雅な姿を想像させる、濃い緑の中の白い円柱が印象的なテラスだ。ラッフルズはその霊廟に、オリヴィアが1808年にレイデンに贈った詩の数行を刻ませた。

                     

                      わが心から片時も消え去ることのなかった君
                      定めが我らを分かつとも我を忘却するなかれ

                     

                    「瀬田さん、人間って不思議なところがありますね。トマス・ラッフルズはなぜオリヴィアの墓をレイデンの墓の隣につくって比翼塚としたのでしょうか? なぜ、トマス・ラッフルズはオリヴィアがレイデンに贈った愛の詩を、そのままのかたちで、トマスからオリヴィアへの永遠の愛の歌として刻みこんだのだのでしょうか――トマス、オリヴィア、ジョンの3人は生涯にわたって破綻することなく、それぞれを同じように深く愛しあっていた、としか言いようがない。トマス・ラッフルズの2番目の妻ソフィア・ラッフルズは、ラッフルズの克明な伝記を書き残しましたが、最初の妻オリヴィアが関わる部分についてはいっさいをラッフルズの生涯から削除したのです。これもまた、独占という愛の形のひとつでしょうが、このことによって、トマス、オリヴィア、ジョンの三人の愛の物語の奥深い謎を解きほぐす糸口が、永遠に失われてしまいました」
                     ラッフルズはジャワ副総督時代に、オランダ時代の奴隷制や拷問の廃止、税制改革などの行政・司法改革を手がける一方で、ボロブドゥール遺跡の復元、ラフレシアをはじめとする動植物の新種の発見などの学術文化事業も推進した。それまでのオランダ領東インドの支配者にくらべれば改革志向の植民地支配者だったが、現代のインドネシア人にとっては、ラッフルズも過去のヨーロッパ植民地主義者の一人であり、遠い昔の人である。ラッフルズの時代は長いオランダ支配の中の短い一幕劇にすぎなくなった。
                    「シンガポールの街にはトマス・スタンフォード・ラッフルズの像がいまなお飾られています。シンガポールは英雄としてのラッフルズを讃えています。一方、インドネシアは洗練された西欧人としてのラッフルズを記憶に残している。ただし、ほんのひとにぎりの人々の記憶にすぎませんが。わたしがオリヴィア・マリアン・ラッフルズとジョン・キャスパー・レイデンの墓の前で不思議なやすらぎを覚えるのは、英雄としてのラッフルズではなく、ごくありふれた人間の、妻や友人に対する優しさ、寛容といった人間らしい心づかいを教えられるからです。人間らしい優しさについて教えてくれる歴史というのは、めったにあるものではありません」
                     瀬田誠が鷹石のグラスにビールを注いだ。
                    「トマスと、オリヴィアと、ジョンのために」
                    瀬田がテキーラのグラスをあげた。

                    2018.09.22 Saturday

                    『ペトルス――謎のガンマン』   第14回

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                       5月27-8日、ジャカルタ
                      鷹石里志は5月27日朝、デンパサールからジャカルタに飛んだ。ジャカルタ在住のインドネシア人の友人ブルハヌディンの出版記念会が27日の夜にひらかれる。それに出席するためだ。28日の木曜日はウダヤナ大学の日本語クラスの授業があったが休講にしてもらった。
                       出版した本はブルハヌディンが国立インドネシア大学に提出して博士号をもらったジョン・ロールズの正義論をめぐる論文で、出版しても売れる見込みはない。インドネシアの知識人のなかには派手な出版記念会を開く人がいる。知識人にとっては、出版記念会はムスリム男子の割礼にも似た重要な通過儀礼なのだ。いや、ブルハヌディンは鷹石より少しばかり年長なので、むしろ冥土のみやげという言い方がふさわしいかもしれない。
                       鷹石はスカルノ・ハッタ空港からタクシーでタムリン通りのホテルに直行、チェックインしてすぐ古い友人の黒田武に電話した。黒田は商社のインドネシア支店長で定年になり、そのままインドネシアに住み着いてしまった。インドネシアに駐在していた若いころ、目のぱっちりとした隣家の娘とにくからず思う仲になって結婚した。定年までの黒田の40年近くをかえりみると、日本に住んだ期間よりインドネシアをはじめとする国外に住んだ年月の方が長い。
                      「お久しぶりですね。おかわりありませんでしたか。きょうはまたどんな風の吹き回しで、この荒れ果てたジャカルタにお越しですか」
                      受話器から黒田のはずんだ声が聞こえた。
                      「インドネシア人の友人の出版記念会に出ようと思いまして」
                      「ほう、それはいつですか」
                      「今夜です」
                      「じゃあ、明晩、わが家にお越し下さいませんか。久しぶりにいっぱいやりましょう。カルリナも会いたがっているでしょうから」
                      カルリナは黒田の妻の名前だ。
                      「それから、鷹石さん。ジャカルタの惨状はテレビでご覧になったでしょうが、ひどいものです。見ておくだけの値うちがある。特にグロドックは凄惨としか言いようがない。明日ご予定がなければ、カルリナが運転する車でお泊まりのホテルまで迎えに行きます」
                      「ご親切にあまえて、グロドック・ツアーにつれていっていただきましょう。ホテルはタムリン通りのサリ・パン・パシフィックです。」
                      「では、明日午前10時にホテルへ行きます」
                      「ありがとうございます。イブ・カルリナによろしくお伝え下さい」

                       ブルハヌディンの出版記念会は鷹石の泊まっているサリ・パン・パシフィックからそう遠くないインドネシア新聞記者協会のホールで開かれた。ブルハヌディンは元新聞記者だったが、勤めていた新聞社がスハルト政権によって発禁処分を受け、彼自身もインドネシアのジャーナリズム業界から事実上のパージを受けることになった。もはや新聞社にポストは得られなくなったが、評論家としてインドネシアのジャーナリズムの世界では、引き続き影響力を持ち続けていた。
                       出版記念会は盛会だった。スハルトに批判的だった現役の記者、スハルト支持者だった新聞社幹部、引退した記者、学者、隣人、ブルハヌディンの美貌の娘に野心を燃やしている若者、それと、案内状をもらって出席する人に誘われてふらっとやって来た、案内状なしのブルハヌディンとはなんの関係もない人――インドネシアでは招待された側が招待した側に断りなしにだれかを連れてくることがよくあるのだが、招待する側はそれを自分の人気の証明とうけとって快く受け入れるのが通例だ――でごった返していた。
                       会場に国会議長のハルモコの姿があった。ブルハヌディンと同じころからジャーナリズムの世界で働き、やがて『ポス・コタ』というジャカルタの大衆新聞の社長に出世した。さらにインドネシア新聞記者協会の会長におさまり、その椅子からスハルト政権の情報大臣に転身した。情報大臣として、スハルトの命令に忠実に従って、インドネシアの新聞ジャーナリズムを検閲下においた。次にスハルト与党のゴルカルの総裁に抜擢され、とうとう国会議長にまでのぼりつめた。スハルトが追い詰められた5月18日、スハルトにはもう目がなくなったとみるや、身をひるがえして、国会議長としてスハルトに退陣を要求する声明を出していた。
                       短時間だが記念パーティーの席に顔を出したハルモコは、壇上から祝辞を述べさせてはもらえなかったが、フロアでブルハヌディンに祝意を伝え、ブルハヌディンを取り囲んだ人々とにこやかに歓談した。普段はスハルト政権に対する見解で鋭く対立して仇敵同士だった人たちが、パーティーでは満面笑みをたたえて歓談の演技をする風景は、鷹石には、上品な振る舞いを第一とするインドネシアらしい面白い風景に思えた。
                       面白かったのはそれだけ。鷹石は機会を見てブルハヌディンに近寄って短くお祝いを述べ、今夜は忙しそうだから、また近いうちに機会を見てロールズの正義論についてのあなたの議論を聞きにくる、といって会場を出た。

                       

                       28日午前10時、黒田夫妻がサリ・パン・パシフィックにやってきた。
                      「まあ、鷹石さん」
                      「お久しぶりです、カルリナさん。いつもお美しい」
                       カルリナが差し出した手を鷹石が握りかえした。
                       ホテルを出てタムリン通りを南下し、巨大な噴水プールのあるロータリーを回って北行き車線に入って北上すれば、ほどなくグロドックに行き着く。
                       ヨーロッパ人が最初にジャワ島にやってきたのがジャカルタ北部の海岸スンダ・クラパだ。1522年にポルトガルの船団がこの海岸にやってきた。当時、スンダ・クラパはヒンドゥー教徒の領主が支配しており、ポルトガル人はその領主と交易協定を結んだ。ポルトガル人たちが5年後の1525年に、スンダ・クラパに通商基地を建設しようと戻って来たところ、すでにヒンドゥー教徒の支配者は消え、イスラム教徒の領主に代っていた。新しい領主は基地建設を拒否した。ポルトガル人たちは攻撃を仕掛けたが、戦闘のすえ敗北を喫して退散した。西洋に対するこの戦いの勝利を記念して、1527年をジャカルタ市の起源とする説がある。ジャカルタという名の起源は、この闘いでの勝利と栄光を意味する「ジャヤカルタ」だ。ポルトガル人をスンダ・クラパの海岸から追い払ったのは、ファタヒラという名の将軍で、その名はいまもジャカルタ市内に地名として残っている。そのあと、オランダ人がやって来て、1619年に商館を築いた。ジャカルタはオランダ統治時代にはバタヴィアとよばれた。古代のオランダに住んでいたバタビア人に由来する。
                       このバタヴィアの商館が置かれたあたりが、現代のジャカルタではコタ(町)とよばれている。オランダ植民都市の名残を伝える古い洋館群が残っていて、いまではジャカルタの数少ない観光資源になっている。初期のオランダ植民地総督はコタの南側に出稼ぎにやってきた中国人の町をつくった。その地域はやがて中国人が牛耳る流通の中核になっていった。これが今日のグロドックの始まりだった。
                      「ジャカルタの暴動はトリサクティ大学生への銃撃があった翌日の13日から始まりました。市内のあちこちで自動車への放火や、商店の打ち壊しと略奪がおこなわれました。ですが、グロドックは極端だった。鷹石さん、前方の右手に黒く焼けこげたビルが見えるでしょう。あれはもともと5階建てのデパートでした。人々がデパートのシャッターをたたき壊し、われさきにデパート内に入り込んで、店内の商品を略奪し始めた。デパートの中で大勢の人が略奪品をかき集めているさなかに、誰かがデパートに火を放った。ひどいことをするものです。たまったものじゃない。建物の火が完全に消えた16日以降、消防や警察が建物内を捜索し、死体運び出し作業を始めた。するとあの建物からだけでも二〇〇以上の死体が見つかった。有毒ガスを吸って死んだ人、焼けこげて人間の形をした巨大な炭になって死んだ人。このあたりにはスーパーマーケットの大型店が多く、多かれ少なかれ似たような略奪にあっています。略奪は市内のあちこちで同時多発的に起こった。東ジャカルタのスーパーでは、指導者らしい男が貧民ふうの人々の一団を引き連れて現れ、スーパーの中に入って何でも好きなものをとれと大声でそそのかした。人々がスーパーの中に入って略奪品を物色している間に、何者かがスーパーの出入り口を閉鎖したうえで火を放ったという目撃証言も出ている。そこでも100人以上の人が火事で死んでいます」
                      黒田が鷹石に説明した。
                       鷹石はデンパサールで見たジャカルタの略奪のテレビ 映像を思い出した。裸足の男が両手に扇風機だの電気湯沸器だのを持ち、背中に略奪品を詰め込んだ大きなバッグを背負って、煙が流れる商店街を急ぎ足に歩く姿だった。都市貧民街でその日暮らしを送る者には、生涯手に入れることができないような品物が背中のバッグにはいっていたのだろう。
                       略奪が市内全域で同時多発的に始まり、ねらわれたのは中国系資本のスーパーが多いとなれば、マレー系インドネシア人の中国系インドネシア人に対する潜在的な敵意「中国カード」を使った組織化された暴動の可能性がある。
                      「カルリナ。パンチョラン通りに入れるかな?」
                      黒田が妻に日本語で尋ねた。
                      「だいぶ片付いたという話を聞いた。だから大丈夫、通れると思う」
                      カルリナが日本語で答えた。

                       やがてカルリナは左に切って車をパンチョラン通りに入れた。パンチョラン通りもグロドックの一部で、ここには電気製品を売る店が並んでいた。それがいまや、あらゆる店が打ち壊され、焼かれ、通りは無惨な姿になっていた。
                      「鷹石さん、ひどいのは略奪や放火だけじゃあないんです。グロドックのように中国系の市民の多いところでは、あの暴動の時、おびただしい強姦事件が起きていたといわれています。私がかかわっている女性団体や人権団体がいま、被害者から聞き取り調査を始めています。ならず者風の男たちが押し入ってきて、その家の女性たちを家族の目の前で輪姦したという事件が多いのです。中国系市民を犠牲者にして、社会全体を恐怖に陥れようとするテロです。背後にいたのはだれか。これだけはインドネシアの名誉のためにもはっきりさせておくことが必要だと思います」
                      カルリナがインドネシア語で説明した。そのインドネシア語に憤りがこもっていた。

                       

                      「ところでデンパサールの暮らしはいかがですか。退屈なさってませんか?」

                      カルリナが鷹石にたずねた。
                       3人はグロドックを見たあと、グロドックと同じように略奪と放火で大勢の人が死んだ東ジャカルタのジャティヌガラ・プラザを見て、サリ・パン・パシフィックに戻ってきた。コーヒーショップでお昼を食べていた。
                      「デンパサールは今度のことでジャカルタから避難してきた人々でにぎわっていました。それに14日は日本人の女性がデンパサールの路上で銃撃されましてね。警察の依頼で日本からやって来た遺族と警察の間の通訳をやったりして、まだ浮き世との縁は切れていません」
                      「そうですか。殺されたのは瀬田沙代という、ウブッドへやって来てガムランを習っていた女性ですね。こっちの新聞にも載っていました。私のよく知っている人が働いている会社の経営者の一人がその女性の夫です」
                      「えっ、黒田さん、瀬田誠さんのことをご存じだったのですか。瀬田さんもなくなった沙代さんのご両親も、瀬田さんのジャカルタでの仕事や、沙代さんが一人でガムランを習いにウブッドに来ていたことなど、あまりくわしくはお話にならなかった。わたしも私事に立ち入るのを遠慮してお尋ねしませんでした」
                      「そうだ、私の知人の宮内さんにも今夜つきあってもらうことにしましょう。瀬田誠氏の会社で働いている方です。よろしいですか? 彼も瀬田沙代さんの事件については知りたいことでしょうから」

                       28日夜7時、鷹石がクバヨランの住宅街にある黒田の家を尋ねると、黒田の友人宮内孝由はすでに来ており、黒田とビールを飲んでいた。
                      「先にやらせていただいています」
                      と黒田が鷹石に笑顔を向けた。
                       黒田が宮内のことを鷹石に紹介した。宮内は黒田と同じ60歳代半ばで、かつて黒田のライバル商社員だった。2人とも妻がインドネシア女性ということから家族同士のつきあいが始まり、そういうつきあいになってしまえば、さすがに仕事のことで角つきあわす気も薄れてきた。相談したわけでもないのだが、2人とも子育てが終わり、夫婦2人でインドネシア暮らしを続けることにした。黒田はもう仕事はしていないが、宮内はたのまれて瀬田の会社の嘱託のような仕事を続けている。
                      「経営者の1人が瀬田誠さんなのです。いま1人はインドネシア人のモハマド・サミンという人物ですが、この人は代理人で、本当の経営者は国防治安省の局長をしているアンワル・ルクマン将軍です。彼はスハルト派の将軍の1人で、スハルトと近いことを理由にいろいろな利権を得て、商売に手を出してきました。アンワル将軍と瀬田さんがオーナーで、私が留守居役を仰せつかっている会社は、日本へのエビの輸出を専門に扱っているインドネシア側の窓口ということになっています。ですが、ここだけの話、内実はブローカーです。輸出のための手続き書類にOKのサインをして当局に提出するのを主な仕事にして、結構な手数料をいただいている窓口です。スディルマン通りに面した銀行の超高層ビルにある部屋を借りてオフィスにし、数人の事務職を雇って仕事をしています。私がそこの城代家老といった役回りでして」
                      「瀬田さんはなかなか抜け目ない商売をしていらっしゃるわけだ」
                      鷹石が冷やかし半分の口調で言った。
                      「それがあなた、こんどのスハルト大統領退陣でしょう。スハルトが退陣したいまとなっては、その利権のルートが断ち切られる可能性もおおいにありうるわけです。スハルト大統領が辞任した翌日の5月22日には、ウィラント国軍司令官がスハルト大統領の娘婿で戦略予備軍司令官プラボウォ・スビアント中将と、彼の手下で陸軍特殊部隊コパッススの司令官マフディ少将を解任したでしょう。ウィラントが軍内で自らの地位を不動のものにするために、いずれスハルトに近かった将軍の追放を始めるのではないかともっぱらのうわさです」
                      「そうすると瀬田氏の会社も潤滑油が切れてくる、ということになりかねないですなあ」
                      すでに現役を離れている黒田が同情のこもらない感想を口にした。
                      「瀬田さんはシンガポールの知人の紹介で、2年ほど前からメキシコで農産物を日本に輸出する商社を経営しています。インドネシアの会社は何もしないでも一定のパーセンテージで手数料が入る仕掛けになっている。営業努力をかさねれば、それなりに収入が伸びるという仕事ではないのです。それで、インドネシアの会社は私に任せきりにして、もっかは、メキシコで新しい仕事に専念し、楽しんでいますよ。やがてあの人の仕事はメキシコにシフトすることになるでしょう。権力にぶらさがってお下がりをいただくような仕事は、面白いとはいえませんからね。話題を変えて恐縮ですが、瀬田さんの奥さんが殺された理由は何だったのでしょうか」
                      宮内が鷹石にたずねた。
                      「デンパサールの表通りから路地を入った人気のないところで、拳銃で胸を撃たれました。行きずりの物盗り、いっしょに殺されていた男がジャワの流れ者だったことから麻薬などの組織犯罪がらみ、えん恨や男女関係のもつれが絡んだ殺し、警察はそういったものを念頭においていろいろ調べていますが……。どうなんでしょう、いまのところ捜査が進んでいる気配は伝わってきません」
                      「瀬田さんはどうでしたか。落ち込んでいる様子でしたか。私には女房がバリで死んだ。しばらくはジャカルタに行けないのでよろしく頼む、と電話連絡があったきりでしたので」
                      「なかなか精神的にしっかりとした方だったようで、冷静に事態を受け止めていらっしゃるようにおみうけしました。ご両親の方の対処も落ち着いたものでした。ご両親はお見受けしたところなかなかの事業家のようでしたね」
                      「仙台を拠点にエレクトロニクスから交通、観光まで幅広い会社をお持ちのようです。瀬田さんの奥さんはご両親から生前贈与を受けて、そうした会社の株式や不動産で数十億の資産家だそうです。なにがあってもいまの女房と別れるわけにはいかない。瀬田さんがよく言っていましたよ」
                      「瀬田夫妻はなぜバリとメキシコに分かれて住んでいたんでしょうね?」
                      鷹石が宮内にビールを注いでやりながら言った。
                      「両方が単身赴任したんでしょ。妻はガムランでウブッドへ。夫は仕事でメキシコへ」
                      黒田カルリナが「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に」といった口調で言ったので、みんな笑い出した。
                      「うちのひとも単身赴任しました。この人、一時期、石油の仕事でイランに行っていたことがあるんですよ。単身赴任で。インドネシア人の私が日本に残っていっしょうけんめい子育てをしました」
                      いっしょに来ていた宮内の妻のラフミがいった。単身赴任の経験がある2組の夫婦は昔を思い出して楽しそうに笑い、破綻した結婚生活の経験者である鷹石は寂しく笑って彼らのおつきあいをした。

                       

                      2018.09.14 Friday

                      『ペトルス――謎のガンマン』   第13回

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                        「グレゴール・クラウゼがバリの写真集を1920年代に出版すると、それを見たドイツ人の画家ヴァルター・シュピースをはじめとする西洋人がどっとバリにやって来るようになった。1924年にスラバヤとバリのシンガラジャの間に定期航路が開かれた。この時をもってバリが世界に紹介された、と西洋人は言う。バリ人にいわせれば、ひからびて疲れ切った西洋人がバリにやって来て、異質のみずみずしい文化に目覚め、蘇生した時代です。このころ、ヴァルター・シュピースら西洋人とバリの画家たちが「ピタ・マハ」(偉大な光)という芸術家協会をつくり、そこで西洋絵画の技法をバリの伝統絵画に組み込んだいまのようなバリ絵画の基礎が築かれたわけです」
                         ヤギひげをはやし、なかなかに眼力のある目でときに優しくときに鋭く相手を見すえるこの四〇男、イダ・バグス・チャンドラはもともと話し好きな性格なのだろう、彼のバリ絵画の歴史についての説明はなかなか終わりそうになかった。急ぐこともないだろう、とライ警視はチャンドラが話を続けるにまかせた。
                        「ヴァルター・シュピースにとってはバリの暮らしは、まさに、天国の暮らしだったでしょう。だが、天国もずっと天国のままでは続かない。ドイツ国籍のシュピースは、インドネシアを植民地にしていたオランダに嫌われ、ホモセクシュアルの容疑で逮捕された。そのあと第2次世界大戦が始まると敵国の市民ということで拘束され、1942年にスマトラからセイロンに移されるとき、乗っていた船が日本軍の魚雷攻撃で沈没してしまった。シュピースはそのとき死んだらしい。
                        「ざっとそういう話を、あれは1年以上も前のことだが、ウブッドの芸術家の集まりで話したことがありました。そのとき、参加者の中に瀬田沙代がいて、知り合ったのです」
                        「なかなかいい講演だったことでしょうね。私もいま拝聴して、目から鱗が落ちる思いです」
                        ライ警視は見え透いたお追従を口にした。見え透いていても、お追従を言われて気を悪くするやつは見たことがない。
                        「ところで、先ほど拝見した瀬田沙代をモデルにした、あの絵はいつごろから描き始めたものですか」
                        「3ヵ月ほど前からです」
                        「彼女をモデルにしたいきさつを聞かせてくれませんか」
                        「ある日、沙代さんがアトリエの前を通っていたので、お茶でも飲んで行かないかと声をかけた。アトリエで世間話をしていたら、ゴング・ケビャールの話になりましてね。あの耳をつんざくようなバリ独特のガムランであるゴング・ケビャールは20世紀に入ってシンガラジャの村で生まれた新しいガムランの演奏方法だが、あのケビャールとバリにやって来て新しい絵画運動に参加した西洋人とは、何か関係があるのではないかということを彼女は尋ねました。私は絵を描くだけで、ガムランのことはよく知りません。ただ、寺院や王宮で演奏されていた昔のゴング・グデもまた大音響でしたから、音の大きさは西洋人と関係ないのかも知れませんな、などとお茶を濁していたのです。
                        「すると、彼女が突然思いがけない提案をしてきました。『費用は惜しまないから、私の肖像画を描いてくれないか』と。絵からガムランの音が響いてくるようなポートレートを仕上げて欲しいという希望でした。サロンを着て、上半身は裸で、頭上にガボガンをのせるポーズは彼女自身の提案でした。沙代さんは何度かここに来て制作のためにポーズをとってくれました。ですが、あの野郎が……」
                        とイダ・バグス・チャンドラが憎々しげに言った。
                        「誰のことですかな」
                           警視が身を乗り出した。
                        「沙代さんのガムランの師匠ですよ」
                        「イダ・プトゥ・グデ・ダルマワン?」
                        「ああ、沙代の絵を描くのをやめろと、あの野郎ここに来ておれに怒鳴ったんだ。彼女が希望して、自分で制作費を負担して、自分をモデルにして描いてくれと言った仕事だから、彼女の了解なしでやめるわけにはいかん。おれはあいつにそう言ったんだ。するとあいつ、沙代を裸にして描くことはないだろうとわめいた。バリの女はちょっと前まで上半身裸だったぜ。そう言ったら、あいつやにわにおれにつかみかかってきた。それでおれはあの男を突き飛ばしてやったんだ。あいつ床の上に尻餅をつきやがった。てめえ、沙代と寝たな。ダルマワンがそうわめいたんだ。いい歳をしてあいつ嫉妬してやがった。それで俺もあいつに言い返してやった。そうとも、沙代と寝たさ。よかったぜ」
                        「絵描きが女のモデルとできるというのは、西洋ではちょいちょい聞く話だが、バリのウブッドでもそうなんだね」
                        ライ警視が冷やかし気味に言った。
                        「よせやい、売り言葉に買い言葉、あいつをちょっとからかっただけのことだ」
                        イダ・バグス・チャンドラが怒ったような声で言い、それから何となく照れくさそうな顔を見せた。
                        「そういうことか。被害者の日本人の女は、自分の師匠である五〇男と情を通じる一方で、ウブッドの絵描きさんともいい仲になり、デンパサールにも男がいた、というわけだ。それで3人の男は日本の女に手玉にとられてお互いにいがみあっていた。瀬田沙代は殺されてしまったし、その亭主も親も日本に帰った。話が少々個人的なことに立ち入っても、私がしゃべらなければ、どこからも苦情はこない。嫉妬に狂ったガムラン師匠が女弟子を殺した、なんて筋書きもありうるわけだね」
                         警視が皮肉っぽく絵描きに言った。
                        「沙代は変った女だった。グデ・ダルマワンやスハルトノと寝たときの様子の一部始終をよく俺に話した。アトリエでサロンだけの姿になって絵のポーズをとりながらそういう話をおれに聞かせるんだ。何を考えているのかよくわからないところのある女だった。スハルトノやイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンにも同じようなことをしゃべって、相手を挑発しておもしろがっていたんだろうな」
                        「色情狂だったのだろうか」
                        「男だったらあの程度のことは誰だってやっているさ。女だからという理由でニンフォマニアのラベルをはるのは、いまの時代にあわないぜ、警視さん。われらがブン・カルノの愛の遍歴をご存じだろう! 最初が書生として仕えた師チョクロアミノトの娘のウタリ、次にバンドン工科大学生のころの下宿先の人妻インギット、流刑先のスマトラでメガワティの母親のファトマワティ、大統領となってからは5人の子持ちの人妻ハルティニ、日本から輸入した根本七保子ことデウィ、さらにハリヤティ、高校生だったユリケ。それ以外にも昼寝の友として大勢のベッドメイトを用意させた。強精剤や性欲増進剤のお世話になりながら、ブン・カルノはせっせと励んだわけだ。なぜかって? 人間みんな心のどこかにぽっかりとあいた空洞をかかえている。その空洞を埋めるためにせっせとセックスにはげむのだ」
                        「瀬田沙代の心の空洞は何が原因だったのだろうか?」
                        警視が言った。
                        「おれが描いたポートレートをじっと見つめているとそのうちわかってくる。ハッハッハ……冗談はさておき、おれやスハルトノと違って、グデ・ダルマワンは本気であの女に惚れていたのかもしれない。女に惚れると、あいつは昔から突っ走る悪い癖があった」
                        イダ・バグス・チャンドラがもったいぶったしゃべりかたをした。やっこさん、しゃべりたくてうずうずしてるな、と警視は感じた。
                        「ほう、前にも似たようなことがあったのかい」
                        警視が水を向けた。
                        「やつの惚れ癖の強さはやつの病気だ。警視さん、ご存じかな。もう何年も前の話だ。グデ・ダルマワンの日本人の女弟子が自殺したことがあった。それがもとであいつは女房と口論続きの毎日になり、とうとう夫婦別れになった。どっこい、ダルマワンのやつ、前の女房と別れたとたん、別の若い女をちゃっかり新しい女房にした。別れた妻というのがかわいそうな人でね。ゲスタプ(9.30事件)のあと、バリでもいろいろもめごとがあった。あのころ、20歳そこそこだったグデ・ダルマワンは、イ・ワヤン・スタマというウブッドではちょっと名の通ったガムランの師匠に弟子入りしていた。師匠は30半ば、グデ・ダルマワンは20前後、師匠の妻はニラといった。中ジャワのソロで生まれ育った30前の女だった。よくあることだが、ダルマワンの野郎、師匠の妻といい仲になりやがった。ゲスタプの時は、中ジャワや東ジャワと同じように、バリの町や村でもおびただしい流血があった。殺された人も多かったが、大勢の人が軍や警察に引っ張られた。その多くがそのまま行く方知れずになった。あれは1966年の初めだったかな。デンパサールの司令部からコプカムティブの兵隊がやって来て、ワヤン・スタマをひっぱって行った。師匠はそれっきり家には帰らなかった。4月ごろにデンパサールの司令部から、師匠は共産主義者で、ブル島の収容所に入れられていたが、最近病死したので島の墓地に埋葬したと連絡してきた。次の年イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンは念願の師匠の妻を手に入れて女房にした。悪知恵をめぐらして手に入れた女とそれから20年ほどして切れたわけだ」
                        「面白い話だね。少し詳しく話してもらえないだろうか。いま『悪知恵』をめぐらしていったけれど、どういう悪知恵だったのだ」
                        警視がつっこんだ。
                        「いまじゃ年寄以外に知る人は少なくなったが、当時はよく知られた話だった。おれはしょっぴかれたイ・ワヤン・スタマの遠縁にあたる。それで親戚のものから話を聞かされて覚えているんだ。ワヤン・スタマがしょっ引かれたのは、グデ・ダルマワンの野郎が、ワヤン・スタマが共産主義者だとあのコプカムティブに野郎がたれこんだからだ。あいつ、いまではコプカムティブにたれこんだというのはためにするいいがかりだ、と言っている。だが、コプカムティブからワヤン・スタマがブル島で死んだという知らせが来た1966年に、ワヤン・スタマの親戚があいつを取り囲んで責めたときは、『このままでは師匠がアンソルの手にかかって殺されてしまうと考えた。師匠は、自分は共産主義者ではないと言っていたので、このことをコプカムティブに告げて師匠を保護してもらおうと思った』と言い逃れを言っていた。師匠が死んだあと、できていた師匠の女房といっしょになったのだから、証拠は歴然たるものだ。師匠に対する弟子として恩義から、尊敬する師匠の死で呆然となっているその妻を守ってやろうとした。あいつは屁理屈を並べ立てた」
                         話すイダ・バグス・チャンドラの顔が興奮で紅潮してきた。
                        「デンパサールのコプカムティブで働き、いまはホテルの支配人になっている沙代の愛人スハルトノのところにグデ・ダルマワンがおしかけていった。沙代が殺された5月14日朝のことだ。ダルマワンの暗い過去をスハルトノが沙代に告げ口したと、ダルマワンが怒ったということだった」
                        バグス・チャンドラの口をなめらかにする潤滑油に、警視は捜査中の情報をまたちょっとだけ持ち出した。
                        「それに、ダルマワンは沙代から大金を借りていたらしい。沙代は金持だった。おれに肖像を描いてくれと頼んだとき、アメリカ・ドルで2000ぐらいまでなら出してもいいと言った。あのころはタイで始まったアジア金融危機がインドネシアに波及して、どんどんルピア安になっていたので、彼女がドル建てで提案したのだ。また、沙代は由緒あるガムランの楽器を買い集めてもいた。日本に持ち帰ってガムラン教室をつくるのだと言っていた。そのスタジオにおれが描いた沙代のポートレートをかけるつもりだったらしい。それはさておき、ダルマワンは沙代から借りた金を何に使ったのか。調べみると面白いことがわかるんじゃないか」
                           バグス・チャンドラは得意満面の表情だった。
                        「あんたもダルマワンが過去に師匠を裏切ってその女房を奪ったと言う話を瀬田沙代にしたのか」
                        「おれが話すまでもなく沙代の方から言い出したよ。スハルトノから聞かされた話をね。沙代はここで肖像画のためのポーズをとりながら、スハルトノが言ったことをおれに話した。それでおれはことの詳細を彼女に話してやった。そのあと、ダルマワンが、沙代とおれができているだとか、スハルトノとできているだとか、嫉妬をめらめら燃え上がらせたとき、沙代は師匠を死なせてその妻を奪った男にそんなことがよく言えるもんだ、とダルマワンをからかった。沙代からそのことを聞いたよ」
                        「いつごろのことだ」
                        「5月のはじめごろだった」
                        「師弟の関係は破綻していたわけだ」
                        「おれだったらそんな弟子はすぐさまほうり出すんだが、沙代から大金を借りているうえ、沙代に未練があるダルマワンにはそれができなかった。人生がたそがれ始めた50男の愛には悲しいものがある。それを知っていて、沙代はダルマワンをこづき回して楽しんでいたふしがある」
                        「ところで念のために尋ねるのだけれど、5月14日の午前中、あんたはどこにいた?」
                        「沙代殺しのことでおれを疑っているのではないが、念のため、おれが事件とは無関係であることをこのさいはっきりさせておこうと、ご親切にもお尋ね下さっているんだね」
                        バグス・チャンドラが嫌みたっぷりな顔をライ警視に向けた。
                        「ああ、そういうことだ。察しがいいね」
                         警視は苦笑した。
                        「あの朝は一人でブサキ寺院に行っていた。このヒンドゥーの島の至高の寺院にね」
                        「オダランでもあって、画題のために見に行ったのか」
                        「そういうんじゃないんだ。神々の膝の上に座って考え事をしようと思っただけのことだ。ブサキ寺院があるグヌン・アグンは、神々の住まいたまう聖なるメール山の土のひとかたまりをバリに運んで出来あがった山だ。頂上に登るまでもなく、ブサキ寺院あたりからでも、バリを見下ろせば、その景観は絶品だよ。西の方角にはバリ第3の高山バトゥカルが見え、南の方角に目を向ければサヌールの海岸がかすんでいる」
                         ブサキ寺院はバリ島の東部にそびえる3000メートルを超えるバリの最高峰グヌン・アグンの標高1000メートルほどの斜面につくられた大規模な寺院コンプレックスである。シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーの三大神を祀っている。寺院の中核は18ある大寺院でこれらの寺院はインドネシアのヒンドゥー教徒の全国組織であるパリサダ・ヒンドゥー・ダルマ・プサットが管理している。そのほか地縁血縁で結ばれた共同体のための寺院が並んでいる。
                         1963年のグヌン・アグン大噴火のときは、あわや寺院が山の斜面を流れ落ちてくる溶岩にのみこまれるかという危機に見舞われた。だが、ブサキ寺院は奇跡的に難を免れた。溶岩が寺院を避けるようにして流れたのだ。このことでブサキの神聖さがバリの人々の間で一段と高まった。
                        「そうか。ブサキでだれか知り合いに会わなかったか」
                        警視がたずねた。
                        「いや、知り合いには会わなかった」
                        「ブサキでなにか記憶に残るような出来事はなかったかね」
                        「寺院の入り口で、寺院にたむろしているガイドともめている外国人の家族がいた。ブサキ寺院には寺院公認のガイドの付き添いなしでは観光客は入れないことになっている。ところが、ガイドの中には非公認のものもいるし、法外なガイド料を要求するやつもいる。その外国人はジャカルタからバリに避難してきていた家族づれのドイツ人で、退屈なので、ブサキを見に来たそうだ。ドイツ人の夫婦は、頼みもしないのにこの男が勝手についてきて、何を言っているのかよくわからないことをしゃべり、ここまで帰ってきたらガイド料を払えと要求する。私はガイドをしてくれと頼んだ覚えはない。ブサキで毎日繰り返される外国人観光客と、観光客から金を巻き上げようとする自称ガイドのもめ事だ。間に入ってもめ事を解決してやったが、そのドイツ人の家族はもうジャカルタに帰っているだろうし、ガイドの顔もおれは覚えていない」
                        「ここを出たのは何時ごろだった?」
                        「朝8時ごろだったと思う」
                        「帰ってきたのは」
                        「午後1時すぎだ。というわけで、いまのところおれのアリバイは成立していない。容疑者の資格ありだな」
                        「瀬田沙代からあの肖像画の制作費は払ってもらったのか」
                        「完成してからでいいといって、まだ1セントももらっていなかった」
                        「瀬田沙代の銀行口座を調べたが、ドル預金や円預金からそれだけの金を一度に引き出した記録は残っていなかった。だから、あんたが金をもらう前に瀬田沙代を殺すわけはない、というのも理屈だ」
                        「警視、あんたは警官にしては言うことが論理的だね」
                        バグス・チャンドラがにやりと笑って、警視を冷やかした。

                        2018.09.09 Sunday

                        『ペトルス――謎のガンマン』  第12回

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                          5月27日午前、ウブッドの渓谷
                           グスティ・アグン・ライ警視は愛車キジャンを運転して5月27日の朝八時前に自宅を出た。これからウブッドへ行って、絵描きのイダ・バグス・チャンドラに会うのだ。
                           運転しているキジャンは日本の自動車会社とインドネシア資本による合弁会社、トヨタ・アストラがノックダウンで製造した車だ。インドネシアでは自動車は超高額商品なので、警察官には新車を買うだけの資力がない。警視の車も顔見知りの中古自動車屋が、3度ほどオーナーがかわったが、程度のいい掘り出し物だとすすめてくれた中古車だ。
                           インドネシアの道路沿いにはベンケルとよばれる車の修理屋があって、調子が狂ったバイクや自動車の応急修理をしてくれる。警視の愛車も最近はエグゾースト・パイプから出る排気の色が濃くなっている。そろそろ点検修理が必要なころだとは思うのだが、いかほどの費用がかかるのか、警視は気が重かった。
                           イダ・バグス・チャンドラのアトリエはデサ・プヌスタナンにある。デサ・プヌスタナンは観光客から「絵画村」といわれているウブッドの名所の一つだ。
                           イダ・バグス・チャンドラのアトリエは、画家のアトリエというよりも周辺の絵描きの工房同様、バリ絵画のおみやげショップのようなつくりだ。一目でバリ風絵画とわかる安っぽい絵を門口に並べ立てている。このショップの奥の方にアトリエがあり、そこで2人の若い男がポートレート写真を見ながら絵を描いていた。
                          「イダ・バグス・チャンドラさんはいるかい」
                          警視が工房に声をかけた。
                          「さっき外出しました」
                          「遠出かい?」
                          「いえ、近くのウォス川です。先生はよくウォス川のほとりに出かけて瞑想するんです」
                          奥のアトリエで絵を描いていた若い男が絵筆をおいて出てきた。細くて背の高い長髪の、まるで絵筆のような若者だった。
                          「まもなく帰ってくるだろうか?」
                          「先生が川へ瞑想に出かけられたときは、帰りはたいてい昼めしどきです。瞑想は腹が減る。すごいエネルギーを使うんだな。そう言って、いつもナシゴレンを食べます」
                          「お昼のナシゴレンまで帰ってこないのか。そんなに長くは待っていられない。こっちからウォス川まで出向いた方がよさそうだな。瞑想しているのは川のどのあたりだね?」
                          「自動車では行けない場所です。あなたが一人で歩いてゆけば道に迷う。バイクで案内しましょう」
                          若者はそういって表に出て、工房の横手からバイクを押してきた。
                          「乗ってください」
                          バイクにまたがった若者が言った。若者は警視の名前をたずねようともしなかった。警視も若者の名前を聞こうとしなかった。若者はどうやらグスティ・アグン・ライ警視を顧客の一人と思いこんだようだ。
                           警視を後ろに乗せて、バイクの若者はプヌスタナンの絵画通りを左に折れて横道に入り、青田の中の道を抜けて森の小径に入った。おなじバリ島に住んでいてもデンパサールとウブッドでは身の回りの緑の度合いがちがう。デンパサールの緑は埃をかぶっている。ここの緑は乾季にも関わらず、雨上がりのようにしっとりとしている。森の小径の両側の木の葉が左右から頭上にかぶさるようになった。若者がバイクを止めて言った。
                          「ここからは歩いて行くしかありません。もうそんなに遠くないです」
                          「君の師匠はいつも決まった場所で瞑想するのかね」
                          警視が若者に言った。
                          「そうなんです。このごろはウォス渓谷の斜面のあちこちに観光用のホテルができて、観光客が渓谷を見に来る。観光客の視線が邪魔で、精神を集中させることができる場所が少なくなっているそうです。先生、センセー」
                          若者が森の向こうの渓谷へ叫んだ。
                          「誰だ?」
                          渓谷から声が聞こえた。
                          「マンガです。お客さんをお連れしました。先生に急ぎの用で会いたいそうです」
                          若者が叫んだ。そうか、彼の名前はマンガなのか。マンガとは変った名前だな。警視が笑顔でマンガの方を向くと、マンガがそれを察して言った。
                          「マンガなんて、変な名前だと思われるでしょう。あだ名なんです。師匠にいつもしかられていたんです。おまえが描いているのはバリの絵ではない。日本の子どもが好きなマンガだ。それでいつの間にかあだ名がマンガになってしまいました。足下に気をつけて下さい」
                          けものみちのように狭い斜面の小径を渓谷の方へ下りながら、マンガが警視に注意した。
                           イダ・バグス・チャンドラはジーンズにTシャツという気楽な服装で、ウォス川の流れの中にある大きな石の上に座り込んでいた。
                          「いまそっちへ行く」
                          バグス・チャンドラが叫び、岩から降りて流れの中を岸に渡って来た。いまは乾季なので、川の水深はそんなにないと見える。
                          「やあ、どうも。イダ・バグス・チャンドラです」
                          「私はグスティ・アグン・ライ」
                           二人は握手を交わした。
                          「瞑想するには、なかなかいいところですな」
                          警視がお世辞を言った。
                          「昔はもっとよかった。あんなものはなかったのだから。ここももうだめだな」
                          絵描きは濃密に茂った緑の木の葉の小さな隙間から見える対岸の斜面の上の白い建物を指さした。
                          「ホテルですよ」
                          「最近できたのですか」
                          「去年の12月にオープンしました。ところでご用の向きはなんですかな」
                          絵描きが警視をまじまじと見た。こいつおれのことを、絵などとは無縁な男だと思っているのかな、と警視は察した。
                          「最近、日本人の女性をモデルにして肖像画を描かれたときいています」
                          「おや、どこで聞かれた噂ですかな。あれは未完成です。たとえ、完成しても売る気はありません」
                          絵描きがきっぱりとした口調で言った。
                          「私はデンパサールから来た州警察本部のグスティ・アグン・ライ警視です。イダ・バグス・チャンドラさん、あなたはその絵のモデルになってもらった日本人女性、瀬田沙代が5月14日、デンパサールの路上で射殺されたことを、当然ご存じでしょう」
                          警視はちょっとだけドスのきいた声を出し、ダルマさんのような目をむいてチャンドラを見た。そのあとやわらかな口調でこう続けた。
                          「わたしはその事件の捜査の指揮をしています。被害者の日常について、些細なことにいたるまでたんねんに調べあげ、犯人とつながる情報を見つけだす作業にいま取り組んでいるところです。ご協力いただけるとたすかります」
                          ハッハッハ、とイダ・バグス・チャンドラが笑い出した。
                          「噂を聞いてあの絵を買いに来た客だと勘違いしていました。そうですか、警視さんですか。ごくろさまです」
                           絵描きの丁重さは冷やかし半分とみえた。
                          「それで、あの絵を警察本部に持って行きたいとおっしゃるのですか」
                          「いやいや、そこまでお願いするつもりはありません。捜査の参考までに、ちょっとどんな絵なのか拝見するだけでけっこうです」
                          「そういうことなら、アトリエに帰りましょうか。もはや瞑想を続ける気分ではありませんからな。マンガ、バイクで来たのか。じゃあ、警視を乗せてさきにアトリエへ帰ってくれ。わたしは歩いて行くから15分ほど遅れるだろう。その間アトリエで警視に飲み物でも差し上げてくれないか」
                           絵描きはきっちり15分遅れでアトリエに帰ってきた。
                          アトリエの奥にある物入れの扉を開けて白い布にくるんだ大きめの長方形の絵をはこんできた。布を取り去るとそこに女の肖像があった。
                           縦1メートル、横60センチほどの縦長のキャンバスに沙代が描かれていた。
                          「西洋風の画材を使ってみました。布のキャンバスに油絵の具で描いたものです」
                          イダ・バグス・チャンドラが自信に満ちた声で言った。
                           バリの絵といえば画題も表現方法も定型が多い。画題としては、王族の華麗な火葬の式典の模様。村の寺院の境内や、森の中の広場で催されるにぎやかなバロン・ダンスの風景。寺院での祭礼の風景。インド伝来のマハーバーラタの中のシーンをバリ風の怪奇趣味を加えて描いたもの。市場に集まる村人たちといったバリの暮らしの日常をテーマにした細密画。そしてバリ人とは切っても切れない闘鶏の図などだ。いずれもどこか稚拙な表現法が感じられるヘタウマ絵画だ。観光客の中には気持ち悪がって嫌悪する人もいるが、牧歌的である一方で人間の奥深いところにあるデモーニッシュな部分が露骨に表現されているバリの絵画を、自分たちの国にはない芸術だといって珍重する人もまた多い。
                           だが、イダ・バグス・チャンドラが描いた瀬田沙代のポートレートはそうしたバリの絵画の手法から少し距離をおいていた。
                          祭礼の供物ガボガンを頭にのせた女性がたっていた。女性は祭礼の正装ではなく、もっとくだけていた。サロンを腰にまとっていたが、上半身は20世紀初めのバリの女性と同じように裸だった。首筋から肩にかけての流れるような優雅な曲線が印象的で、細身の上半身には形の良い円錐形の乳房がもりあがっていた。グレゴール・クラウゼの写真や、ミゲル・コバルビアスの戯画的なバリの女性像の乳房に形が似ていた。しかし女性の上半身の肌はレオナルド・フジタの女性の肌のように、妖しい乳白色に描かれ、ガボガンの下にある顔はバリ人の女性の顔ではなく、まぎれもなく日本人女性の顔だった。切れ長の目が気品を感じさせた。と同時に、女性の表情には薄笑いとも、悲しみともつかぬ内面の感情の揺れが感じられた。女性の背景には深い緑の森が配置され、森の中に寺院の塔がのぞいていた。
                           1930年代にバリに住んだミゲル・コバルビアスのバリの女性の絵は、タヒチに住んだゴーギャンの女性の絵ほどの力感はなかったが、野生と装飾性を備えた女性の描き方が魅力だった。イダ・バグス・チャンドラの絵は、コバルビアスの画法にどこか似てはいたが、20世紀前半のコバルビアスのエキゾティシズムのかわりに、それから半世紀がたった20世紀末の現代的なエロティシズムが描きこまれていた。
                          「沙代さんが殺されるとはね」
                          イダ・バグス・チャンドラはため息をついた。
                          「殺された理由はわかったのですか」
                          「いや、それが……」
                          警視は言葉を濁した。
                          「警視さん、庭で話しませんか」
                          イダ・バグス・チャンドラは立ち上がって警視をアトリエとその裏の自宅との中間にある中庭に誘った。

                           庭にテラスがあり、そのうえに四本の柱の上に屋根をのせただけの風通しのよいあずまやがあった。屋根は日陰をつくり、風は暑気を和らげる。丸い小さなテーブルと木製の椅子があった。
                          「どうぞ」
                          とイダ・バグス・チャンドラは警視に椅子をすすめ、自分も警視の正面の椅子に腰を下ろした。
                          「ここなら弟子どもに立ち聞きされる心配なしにお話しできますからな」
                          「いまのところ瀬田沙代とオジェックの男スダルノが殺された事件については、殺しの目的がはっきりしないというやっかいな問題がありましてね。ガムランをならいにウブッドに来ていた日本の女性が、ジャワから流れてきたバイク・タクシーの若者といっしょに殺された。物盗りの犯行か。だが、高価な3000ドルの腕時計は奪われていなかった。それでは怨恨か。だが日本女性とジャワの流れ者に対して、共通の怨恨をもつ犯人とはどんな人間だろうか。被害者2人が顔見知りだったという可能性も低いのですよ。そういうわけで、殺しの動機に関係して、被害者瀬田沙代の周辺に何か参考になる話がないかと聞き歩いています」
                          「それで、具体的には、私に何をお聴きになりたいので」
                          「まず、あなたが瀬田沙代と知り合ったのはいつごろのことでしたか」
                          「ウブッドは外国からの観光客で混み合っているが、観光客は雲のようなものです。流れ来て、流れ去ってゆく。本来のウブッドはもともと小さなコミュニティーです。だからここにしばらく住みついて芸術活動をしている外国人と、土地の芸術家の間には自然と交流が生まれます」
                          「ほほう、そうですか。あさはかな私は、ウブッドに長期滞在して絵やガムランを習っている外国人も、数奇者という気まぐれな観光客だとばかり思っていました」
                          「ウブッドにあつまる外国人芸術家たちは、一般のバリ人からそのような目でみられていますが、バリの芸術という観点からすればそれ以上の存在です。われわれがいまウブッドで制作している絵画自体が、バリの伝統と西洋の技法がふれあう中で出来あがったものです。もともとバリの絵画はインドの影響を受けたジャワの絵画が起源です。ジャワ最後のヒンドゥー王朝マジャパヒトが一五世紀にバリに攻め込んできたとき、当時のマジャパヒトの宮廷で盛んに描かれていたワヤン・スタイルの絵画技法をバリに伝えました。影絵芝居ワヤンに刺激を受けたのでそうよばれています。そのワヤン技法はバリのゲルゲル王国などに伝えられた。サンギン(画工)が洗練されたジャワの宮廷絵画の技法とバリ農民の野生を融合させた絵を描き始めた。サンギンたちはカマサンという村で絵を描いていたので、バリの絵画の基層になったこの絵画技法をカマサン・スタイルとよんでいます。カマサン・スタイルは20世紀まで継承されてきました。いまでもこのスタイルを守っている絵描きもいますが、バリの絵のスタイルは、20世紀初めにバリがオランダ領東インドに組み入れられたあと大きく変貌しました。
                          「なるほど。バリの諸王国がオランダ領東インドに征服された20世紀初頭の出来事は、バリの芸術にとっても一大衝撃だったわけですね」
                          ライ警視はチャンドラ画伯の口をなめらかにするための潤滑油のつもりで合いの手をいれた。

                           

                          2018.07.16 Monday

                          『ペトルス―‐謎のガンマン』   第11回

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                             25日の午後遅くなってワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事の2人が聞き込みから帰ってきた。部屋に入ってきた刑事たちの体は、屋外の熱気をたっぷりと吸い込んでいた。そして今度はそれを部屋中に放出熱した。暑苦しいったらありゃしない。

                            「お疲れさん。こっちの方はスハルトノから聞き出すのに失敗した。930事件当時の若かりしころのイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの活動について、そっちのほうはどうだった」

                             警視が尋ねた。

                            「あいつそうとうなあらくれだったようです」

                             イ・バグス・マデ刑事が陽気な口調で言った。

                            「いまはガムランを叩くだけの優しそうな手ですがね、昔はあの手にナイフや拳銃を持って手当たり次第に人を殺して回っていたようです」

                             ワヤン・ブラタ刑事が補足した。

                            「そうか。では、たっぷり聞かせてもらおうか」

                             イ・バグス・マデ刑事とワヤン・ブラタ刑事の2人は、この日聞き込みのため再びウブッドに行っていた。

                             インドネシアの初代大統領だったスカルノは、大統領職の後半の期間、独裁的な権力を握り、終身大統領の称号を議会から与えられた。そのスカルを退けて、スハルトが第2代大統領になった。スハルトは5年ごとに確実に大統領に選出されるシステムをつくりあげてスカルノをしのぐ権勢を誇ることになった。

                             スハルト台頭のきっかけが1965930日夜から101日未明にかけて起きた930事件だ。これはいまだにその謎が解き明かされていないクーデター未遂とされている事件である。スカルノ大統領親衛隊長だったウントン中佐が、反スカルノ派の将軍たちが集まって将軍評議会なる組織をつくり、スカルノ打倒のクーデターを計画しているので、それを事前に防止しようと軍事行動を起こした事件で、陸軍参謀長ら6人の軍の将軍が殺された。当時陸軍戦略予備軍の司令官だったスハルト少将がウントン派の行動を制圧した。その勢いに乗ってスハルト将軍と陸軍は、930事件は、インドネシア共産党(PKI)が企んで、ウントン中佐にやらせた陰謀だと断定し、大がかりな共産党殲滅作戦を開始した。

                             PKIとその支持者たちがスカルノの権力基盤だった。PKIをつぶしてしまえば、スカルノは政治的な動員力を失い、インドネシア独立の父という栄光だけに頼って政治を運営しなければならなくなる。

                             スハルト将軍がこのとき率いたインドネシア国軍の共産党殲滅作戦で死んだインドネシア人の数については10万人から100万人まで、諸説がある。100万人といった大量殺人説は主として外国のメディアが報じた数字がインドネシアに逆輸入されたものだが、インドネシアの宗教団体ナフダトゥル・ウラマを率いるアブドゥルラフマン・ワヒドは、あのときイスラム教徒がインドネシア共産党員やその支持者50万人を殺したと語り、インドネシア人をびっくり仰天させたこともあった。

                             この殺戮事件が悲惨なのは、被害者の多くを殺したのが兵士ではなく、軍に共産党粛清そそのかされて武器を手渡された民間人だったことだ。

                             そして、事件の背後にあったものは、権力奪取のためには国民同士の流血さえものともしない権力者の冷血だった。

                             1989年に出版されたスハルト大統領の自叙伝で、スハルトはこういった。「共産党を破壊することが私の最大の義務である。この闘争には軍を直接使うよりも、国民が自らを防衛し、彼らの周りから邪悪の根源を一掃するのに手を貸す方法を、私は選んだ」。たとえばイスラム教徒と共産主義者の間の亀裂や、地主と小作人の間の土地争いを利用して、共産党に対する憎しみをあおったうえで、一方に武器を与えて昨日までの隣人を殺させた。

                             共産党殲滅作戦はジャワ中部からバリ島にかけて熾烈だった。バリ島での死者は2万から数十万人と伝えられている。

                            「イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンが、バリの共産党殲滅作戦とどのように関わっていたかという点ですが、そのことが今度の日本女性殺しとどんなふうに関わっていると警視は疑っているんですか」

                             イ・バグス・マデ刑事がまじまじとグスティ・アグン・ライ警視をみつめた。

                            「正確に言うとだね、疑いがあると考えているわけではないのだよ。だがね、グデ・ダルマワンはなんと言ったと思う。930事件後のバリのPKI殲滅に、グデ・ダルマワン自身が加担していたと、スハルトノが殺された瀬田沙代に言ったので、スハルトノに文句をいうためにデンパサールまで出てきた。あの男はそう言った。ちょうど同じ朝に、その話を聞かされた女が死体になった。スハルトノが女に話したことの内容と女の死はたぶん関係ないのだろう。930事件の隠蔽された過去が、いまになって日本人の女の死に関係するなどという話は、小説の世界だろうね。おそらく関係はないのだろう。関係がないなら関係がないで、このさいそのことをはっきりさせておきたいわけだ」

                            「さすがに警視だけあって隙のない捜査ですな」

                             イ・バグス・マデ刑事が嫌みっぽく言った。

                            「炎暑の中を情報集めのためにあてもなくほっつき歩くつらさはわかるが、捜査というやつは最初のところをしっかりと固めておかないと、あとの捜査があさっての方を向いてしまうことになる」

                            「警視、お言葉ですが、あてもなくほっつき歩いていたわけでなく、しっかりした情報を仕入れてきました」

                             バグス・マデ刑事が一転、今度は笑顔で警視に語りかけた。

                            「あの事件の記憶はバリ人にとっては一刻も早く消し去りたい悪夢ですよ。何しろ隣人、ご近所、隣村の同じバリ人同士が刃物で殺し合い、片方が殺人者になり、もう一方が被害者になった。だから、普通のバリ人はあのときのことについては、いまでも口を閉ざして語ろうとしません」

                             1963年に聖なる山グヌン・アグンが大噴火を起こして、大勢の人が死んだり家を失ったりした。PKI1964年から、地主の余剰地を奪って、それを小作人に分け与える運動「アクシ・スピハック(一方的活動)」を繰り広げた。バリの人の中には、ヒンドゥー教に信心深く、平穏を第一とするバリの慣習や文化を、PKIが破壊していると考えていた者も少なくなかった。このさい一度バリの地を禊ぎにかけなくてはならないという風潮も蔓延していた。あのころのバリには、共産主義が諸悪の根源というデマゴギーをすんなり受け入れる条件があった。

                            「バリのPKI殲滅は196512月から翌年にかけてがピークでした。スハルトが派遣したジャワからの軍隊がやってきて、バリの村々に共産主義者をやっつけろと号令をかけた。軍と、それに警察も、PKIとその追従者と疑った人々をトラックで倉庫に運び込んで、一斉射撃で射殺した。死体は海に投げ捨てるか、大きな穴を掘って投げ込んだ。PKIと見なされた人々に対する憎しみを、ブラフマンの僧や呪術師のバリアンが村人にふきこんだ。あいつらを殺せと指示した。

                             「インドネシア国民党(PNI)はスカルノが育てた政党だったが、スカルノがPNIよりPKIを寵愛するようになったので、PKIに憎しみを抱くようになった。PNIPKIに対する攻撃を聖なる戦いだと村人に教えた。悪に染まっている人を殺すのは、その人をいい人に生まれ変らせるための慈悲の行いだと教えた。いったん共産党追放が大運動になると、共産党員はあきらめて、白装束でおとなしく警察官に先導されて処刑場に引かれていった――バリの人がPKI殲滅について語るのは、この程度の真偽いりまじった伝説風の漠然とした話で、誰が誰を刺し殺したとか、撃ち殺したとか、石で頭を割って殺したとかの、具体的個別的な話は決して語られることがありません」

                             と、バグス・マデ刑事が力を込めた。

                            「あの事件のころウブッドで警察官をしていた男がいま、ウブッドの近くのテガラランという村に住んでいるという情報を得ましてね。テガラランというのは、それ、外国人の観光客がよく訪れる棚田で有名なところです。チョコとよばれている70がらみの老人です。その男を訪ねたら、すらすらと当時の記憶を話してくれましたよ」

                             刑事が得意げに鼻の穴をふくらませた。

                            「チョコの記憶ではイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンはそのころは20歳前後の若者で、PNIの支持者だった。バリのPNI支持者が集団で共産党員やその支持者を襲い始めたとき、グデ・ダルマワンもその中に加わっていたそうです。彼らは軍から回ってきた共産党員のリストをもって、ムラを回り、該当者を見つけてナイフや刀で刺し殺した。そのリーダー格の一人がグデ・ダルマワンだったそうです」

                            「グデ・ダルマワンが具体的にどこの村の誰をどんな風に殺したかという話をしてくれたか」

                             警視が質問した。

                            「そんなこと、知っていても話すわけがないでしょうが、警視。ですがチョコはこんなことを言いましたよ。グデ・ダルマワンはインドネシア国民党の青年組織のメンバーだった。東ジャワでPKI殲滅に力を貸したイスラム団体ナフダトゥル・ウラマの青年組織アンソルのメンバーが海峡を越えてバリまでやってきた。警視、ご存じでしょう。アル・アンサル、すなわち預言者に従うものというアラビア語に由来する名前で、インドネシア独立前の1934年に結成された組織です。イスラムの暴れ者たちがヒンドゥーの地に乗り込んで殺戮を始めた。グデ・ダルマワンは東ジャワからやってきたアンソルのメンバーともしばしば行動をともにしていたそうです。同時に、やつはデンパサールのウダヤナ師団に足繁く出入りして、師団の方も彼のグループを訓練し、武器も渡していたらしい。グデ・ダルマワンがこれ見よがしに拳銃を見せているのをチョコも見ていると言っています」

                            「警視、あのころはみんながよってたかって相手を殺してしまった恐ろしい時代ですよ。共産党員を殺したが、その共産党がいったいどこのだれだったか覚えていない。大勢で殺したので自分の暴力が致命傷になったのか、いっしょにやっただれかが殺したのかさえもはっきりしない」

                             と、ワヤン・バラタ刑事がつけ足した。

                            「ですが、警視。チョコが面白いことを言っていましたぜ。グデ・ダルマワンの密告で、ガムランの仲間がデンパサールの軍司令部にしょっ引かれたそうです。チョコはそれ以上のことは知りませんが、前にもちょっと話に出た絵描きのイダ・バグス・チャンドラが詳しいことを知っているかも知れないと言っていました。きょうのところはこのくらいです」

                             イ・バグス・マデ刑事はそろそろ帰宅したくなってきたようだ。彼もデンパサールのアマチュア・ガムラン・グループの一員で、4人で叩く楽器レヨン担当の1人だ。今夜は練習の夜かも知れない。

                             

                            酷暑のみぎり暫時休載します。

                             

                             

                             

                            2018.07.08 Sunday

                            『ペトルス――謎のガンマン』   第10回

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                              525日午前中、デンパサールの州警察本部

                               

                               タマン・サリまで出かけてあなたの職場で会えば、変な噂がたったりする可能性なきにしもあらずなので、あなたの方から州警察本部までご足労願えないだろうかと、グスティ・アグン・ライ警視が提案すると、スハルトノは渋々ながらそれを受け入れた。

                               525日朝、警視はスハルトノと警察本部の会議室で向かい合った。

                              「おいで願ったのはこの間の日本人女性、瀬田沙代とインドネシア人男性のスダルノ殺害事件の関係です」

                               会議室には冷房が入っていたが、音のわりには送風口からは少し涼しい風が吹き出しているだけだった。湿度の調整がうまくできていないらしく、部屋の空気は重かった。スハルトノはポケットからハンカチをとりだして額をぬぐった。

                              「これはどうも。あなたのオフィスに比べると居心地はよろしくないでしょうが、ご勘弁願います。われわれ捜査チームはいま、被害者の瀬田沙代が13日朝にデンパサールに来て、14日午前10時ごろデンパサールの路上で死体になるまでの、正確な足取りを追っています。これまでにわかったところでは、瀬田沙代は13日の朝9時ごろ家を出て、タクシーでデンパサールへ向かった。10時ごろにはインドネシア芸術学院に着いた。芸術学院には午後4時までいた。そこまでの行動ははっきりしています。それから午後420分、タマン・サリにチェックインした。あなたはその日の夕方、瀬田沙代と会ったそうですね」

                              「ええ、彼女がジェネラル・マネジャーに会いたいとフロントで言ったものですから。ロビーに出てきて、そこでしばらく話をしました」

                              「何時ごろでしたか」

                              「午後6時ごろだったと記憶しています」

                              「どんな話をなさったのか聞かせていただけますかな」

                              「瀬田沙代さんはタマン・サリの常連のお客さんですし、私にとっては友人です。デンパサールでの用件とかウブッドでの最近の暮らしとかをお話し下さいました」

                              13日夜や14日朝の予定については、何か話しませんでしたか」

                              「ええ、13日の夜はアートセンターへガムランを聴きに行くとおっしゃっていました」

                              14日の予定については何か」

                              「いいえ、それはお聞きしていません」

                              「そのあと、瀬田沙代に会いましたか」

                               スハルトノは一瞬言葉につまった。だが、あきらめたように言った。

                              「お客さまが夕食をなさるので、それにつきあって欲しいというご要望でした。コーヒーショップでおつきあいしました。ついでに申し上げれば、そのときの話題は、お聞きになられたばかりのアートセンターのガムランの演奏ぶりについてでした」

                              「それから?」

                              「それからとは?」

                              「食事のおつきあいが終わったあと、どうしたか、とお尋ねしているのです」

                              「私なら、そのあとまもなく帰宅しました」

                              「何時ごろのことですか」

                              「午後10時ごろだったように記憶しています」

                              「それはおかしいですね。ホテルの地下駐車場からあなたの車が出て行くところを見た人がいます。その人は、それは13日夜の12時すぎのことだと言っています。13日の午後10時ごろから12時ごろの間、あなたはどこにいらっしゃったのですか」

                              「お客さんのお食事につきあったあと、私はオフィスに戻り、書類を整理して部屋を出ました。12時ごろ私の車が駐車場を出るのを見たというのは、その人の勘違いではありませんか。あるいは警視さん、あなたが適当なことを言って、カマをかけているのかもしれない」

                               スハルトノがおだやかな声で反論した。

                              「いずれ、あなたの奥様にもおたずねしてみましょう」

                               そう言ったあと、グスティ・アグン・ライ警視は質問の方向を変えることにした。

                              「ところで、あなたは国軍のご出身だとお聞きしていますが。ホテルの仕事へ転身なさったのはいつごろのことですか」

                              5年前に退役して、ジャカルタのあるホテルで営業関係の幹部になりました。そこに2年ほどいて、3年前に同じ会社が経営するこのタマン・サリ・ホテルのジェネラル・マネジャーになりました」

                              「それはめざましいご出世ですな。入社五年でデンパサールのれっきとしたホテルの経営と管理を任されるとは。40歳で、たいしたものです」

                               警視はスハルトノの年齢にさらりと言及した。いろいろあんたのことは下調べしてあるのだよ、とほのめかしたのだ。

                              「軍では情報部門にいらっしゃったようですな」

                              「コプカムティブ(治安秩序回復作戦本部)に始まりバコルスタナス(国家安定強化支援調整庁)まで、一貫して情報畑を歩きました」

                               スハルトノが急に元気になって、警察の末端の現場にいるグスティ・アグン・ライ警視に圧力をかけるように背筋を伸ばした。インテル(情報機関)と聞いて緊張しないインドネシア人はいない。インテルとは英語のインテリジェンスをインドネシア風に短くした言葉で、情報機関あるいは情報機関員のことである。パソコンの「インテル・インサイド」と印刷されたラベルを見ていると、そのコンピューターを使って書いた文章や、やった作業が政府の情報機関にそのまま流れるのではないかと心配になってくる――そういう冗談が冗談ではなく生々しい事実に聞こえるほど、インドネシアの情報機関はスハルト体制維持のための裏工作を続けていた。

                               スハルトノの贅肉のない体つきや、引き締まった卵形の顔の輪郭、大きな、それでいてずるそうによく動く目、短く借り上げた頭髪、左手薬指の厚手の金の指輪、右手にはめた腕時計――インドネシア国軍兵士の間で流行していた――からは、ホテルのマネジャーというよりは、まだ現役軍人のにおいが強くただよっていた。

                               コプカムティブは1965年の930事件を契機にスハルトがスカルノから権力を奪ってインドネシアの新しい指導者になったさいに設立した。最初は930事件に関わったインドネシア共産党員(PKI)やその支持者の排除が目的だったが、やがて、スハルト体制に批判的な社会勢力全般に対する弾圧を担当するようになった。コプカムティブは1980年代後半になって解体され、代わってバコルスタナスが新設された。

                              「デンパサールの陸軍第九軍管区司令部にも勤務されたことがおありですな」

                              「コプカムティブは独自の組織を持っていたが、バコルスタナスは独自の組織を持たず、全国10の軍管区司令部の情報機能を強化し、同時にバキン(国家情報局)とバイス(軍戦略情報部)の2つの情報機関の情報協力を促進させる調整役だった。国内治安の情報収集の現場を軍管区の司令官がつとめることになった。この時代にスハルトノはデンパサールのウダヤナ師団司令部に治安担当将校として勤務していたのだ。

                              91年から93年までデンパサールで勤務しました。そのあと退役して民間会社に勤め始めました」

                              「カディール・イスマイル将軍のお供をしたわけですね」

                              「ああ、あの方はいってみれば私にとっては父親のような存在だから」

                               カディール将軍は退役後、スハルトのクローニーと組んでジャカルタの高級ホテルを買収し、ホテル・観光業に進出した。バリの観光開発もスハルト政権の手で進められた。観光用のホテルや関連産業はスハルト一族とその周辺にたむろする者たちが手にした。スハルトに近いことが利権を手に入れる近道で、外国資本にとってはさまざまな許認可を手に入れるにはスハルトに近い人物を抱きこむ必要があった。スハルトに近いと言うことでは、彼の家族以上に近いものはいなかった。スハルト一家とその取り巻きがKKN(汚職、癒着、縁故)の輪を作り、インドネシアをくいものにしていた。

                               PPPというアクロニムもちまたで口にされていた。プトゥラ・プトゥリ・プレシデン(大統領の息子・娘)のことだ。子どもたちにまして、スハルトそのものが大統領職を利用して肥え太った。スハルトは10を超えるヤヤサン(財団)をつくって、場合によっては大統領令をだして自らの財団への寄付金納入を義務づけた。ヤヤサンはスハルトの集金機関だった。たとえばスハルトは1996年に貧困者救済のための財団をつくり、高額所得者に所得の2パーセントを財団に納めることを大統領令で義務づけた。スハルトの財団はこうして集めた金で一般企業の株を取得した。

                               インドネシアでは出世の道は高級軍人になることでひらける。高級軍人になって、民間に天下りして裕福な生活をする。これが頭の良い若者の一つのコースだった。インドネシアでスハルトが軍を基盤に権力を強固にした1980年はじめには、インドネシア政府閣僚と閣僚級の中央政府高官の半数近くが軍出身者だった。政府機関の総裁・長官・事務長らの半分以上が軍出身者によって固められた。知事の7割に軍出身者が任命された。高級軍員の進出は内政にとどまらなかった。世界に散らばったインドネシア大使の4割以上に軍出身者が任命された。

                               にもかかわらず、3人いるスハルトの息子たちで軍人になったものはいない。娘婿の1人が軍人だっただけだ。スハルトの子どもたちは、父・大統領の口利きで事業家になった。軍人になってそこからからはいあがっていく必要などなかったのだ。大統領に最も近い実業家のもとに、インドネシア資本はもとより外国資本も群がった。こうして、スハルトの6人の子どもたちは、農業、林業、鉱業・金属、石油・天然ガス、建設、運輸、金融、不動産、商業、観光、メディアなど、ありとあらゆる事業に関係するようになった。

                               首都ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港で発着する航空会社の中にはスハルトの息子の一人がオーナーに名を連ねているものがある。空港からジャカルタ都心に通じる有料道路もスハルトの娘が支配している。市内の高級ホテルに宿泊すれば、そこもまたスハルトの息子が率いる会社の経営だし、そのホテルに隣接する高級モールをのぞきに行くと、そこもまたスハルトの息子が関係している。

                               スハルトの子どもたちはバリでも観光関連事業に参画し、濡れ手で砂金をつかむように稼ぎまくった。スハルトの長男シギットはバリ・クリフ・ホテルとニッコー・ロイヤル・ホテルの、次男バンバンはシェラトン・ヌサ・インダ・ホテルとシェラトン・ラグナ・ヌサ・ドゥアの、三男のトミーことフトモ・マンダラ・プトゥラはジンバランのフォーシーズンズ・リゾートやヌサ・ドゥアのバリ・ゴルフ・アンド・カントリー・クラブの、それぞれ共同経営者になった。

                               バリで観光開発用地を取得するにあたって、トミー・スハルトは軍をつかって半ば強制的に土地を取り上げたと批判された。新しく開発された広大なビーチ付き観光ゾーンであるヌサ・ドゥアは周囲が柵で囲まれ、観光客しか中に入れない。観光客でない一般の人はゲートで追い払われてしまうのだった。

                               小粒ではあるがカディール将軍もそうしたスハルト周辺にたむろする軍人の1人だった。

                              14日の午前中、イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンがタマン・サリにあなたを尋ねたそうですが、あいにくあなたはご不在だったと言っていました。どこかにお出かけでしたか」

                               出し抜けに警視がたずねた。

                              「あの日の朝はレギャンに行っていました。デンパサールのタマン・サリの経営が軌道に乗ったので、レギャンの海岸に良さそうなビーチ着きホテルをみつけ、買収話をまとめて、タマン・サリ・レギャンの名で開業しようという野心がありましてね。それであの日はたまたま午前中に手が空いていたので、レギャンをぶらついていたのです。これはまだ内密の計画なので、配慮をお願いします」

                              「で、誰か知り合いと会いませんでした」

                              「いいえ、知った人には会いませんでした」

                              「そうですか。タマン・サリには何時ごろ?」

                              「正午過ぎには出勤しました」

                              「もう一つうかがいましょうか」

                              「どうぞ」

                               スハルトノの態度はいやに落ち着いていた。

                              「瀬田沙代とはいつごろ、どんなきっかけで知り合ったのですか」

                              「あの方はウブッドでガムランを習いながら、月に2度ほどデンパサールの芸術学院に通っていました。デンパサールに用があって、夜遅くなることがあるとタマン・サリに宿泊していました。美しい方だったので、日本の方ですか、こちらにお住まいなのですか、何をなさっていらっしゃるのですか、と私の方が声をかけたのがきっかけで、お友達になりました」

                              「彼女のガムランの師匠がプリアタンのイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンだと知ったのはいつごろですか」

                              「知り合いになってまもなくのころです。ウブッドに住んで、師匠についてガムランを習っているとお話しになったので、当然のなり行きとして、お師匠さんの名前を聞きました」

                               次に何を聞かれるのか。スハルトノの表情にちらりと不安の影が走った。

                              「グデ・ダルマワンとはいつごろからの知り合いですか」

                              「私がデンパサールで勤務していた1990年代の初めに知り合いました」

                              「どんなきっかけで知り合われたのか、聞いてもいいですか」

                              「バリに来る外国人の情報収集ですよ。彼の所にはウブッドの外国人の出入りが多かった」

                              「ひょっとして、彼はコプカムティブからバコルスタナスに引き継がれた古い情報提供者の1人ではありませんか」

                              「その質問については答えることができない。イエスといってもノーと言っても軍の機密にふれることになる。私はいま民間人だが、軍人であった時代に知り得た事項に関しては守秘義務をかせられている」

                              「そうですな」

                               とグスティ・アグン・ライ警視はあっさり折れた。

                              「警察がウブッドなどで聞き込んだところでは、グデ・ダルマワンは930事件のあと、バリの共産党殲滅作戦で軍の先兵として働いたそうです。スハルトノさん、あなたにはそのころの資料をみて彼のことを知った。それでグデ・ダルマワンに接触して、情報提供者になるように依頼した」

                              「先ほど言った理由で、ノーコメントだね」

                              「あるいは、こういうことも考えられる。グデ・ダルマワンはそれ以前からコプカムティブ、あるいはバコルスタナスに情報を提供していて、あなたが前任者から彼を引き継いだ」

                              「想像するのはあんたの勝手だ。だが、軍の内部情報を詮索しない方が安全だよ。どんな災難が降ってくるかもしれない」

                              「おっと、この国じゃあ、民間人が警官を脅すのか」

                               ライ警視がびっくりしたような声を出してみせた。だが、スハルトノの方もしたたかだった。

                              「とんでもない。インドネシアでは、脅すのは警官の特技だろう。警官は民間人を脅しては小銭を搾り取ろうとしている。バリじゃあ、外国人も警官の被害にあっている。おもに車を運転する人だがね。四輪車やバイクを追いかけては、スピード違反とかなんとかいいがかりをつけて、小銭をゆすり取ろうとする。ジャカルタではもっと大がかりな詐欺のようなことをやっているそうじゃないか。ジャカルタのスマンギの立体交差だ。ガトット・スブロト通りからこの立体交差でおりて、スディルマン通りからタムリン通り方向に向かうためのランプウェーがしょっちゅう通行止めになる。それで車はもうちょっと西まで進んでからヒルトン・ホテル専用の入り口に降りて、駐車料を払ってヒルトン・ホテル構内を抜けて、スディルマン通りの北行き車線に出る。この通行止めがあまりにも頻繁に起きる。調べてみると、警察官とヒルトン・ホテルの駐車場係がぐるになって、通り抜けるために支払われた駐車料金を山分けしていたそうだ。これだけじゃないぞ。警官のゆすりたかりが目に余るので、軍から動員されたMPが街に出て、腐敗警官の取り締まりを始めた。バリの新聞にも載っていたぞ」

                              「ゆすりで稼いでいるのは交通警官だ。私は刑事でいくら待ってもなんのおこぼれも転がってはこない。それはさておき、あなたは殺された瀬田沙代とどのくらい親密だったのかね。グデ・ダルマワンの暗い過去を彼女に教えた意図はなんだね」

                              「ちょっと待ってくれないか。被害者である瀬田沙代についての情報を聞きたいと言いながら、あんたの質問はまるで俺と被害者の間に親密な関係があったと思いこんで、そのことを確かめようとするだけのものじゃないか。これはのぞき趣味で、捜査なんてものじゃない。そろそろこのあたりで失礼させてもらいたいな」

                              「そのまえにあと一つだけゆっくり思い出して教えていただけないだろうか。今一度お尋ねするが、瀬田沙代は13日あんたと会ったとき、翌日の14日の予定について何かいっていなかったかな。どんな小さなことでもいいので、思い出していただけるとたすかるのだが」

                              「心当たりはないな」

                              「どうも、貴重な時間を割いていただいてありがとう。それから、出来るだけ記憶をたどって14日の午前中、あんたがレギャンにいたこと証言してくれそうな人を思い出しておいた方がいいと思うよ。タバコ屋でも、駐車係でも、不動産屋でもいい。れっきとしたホテルのマネジャーが、ホテルの物件を下見に行って、だれとも会わず、建物の外壁をながめただけで帰ってきたという話は、裁判所ではなかなか信じてもらえないかも知れないよ」

                               警視がスハルトノに丁重な礼を言って、ついでにプレッシャーをかけた。

                               

                               

                               

                              2018.07.01 Sunday

                              『ペトルス―‐謎のガンマン』   第9回

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                                524日午後、デンパサールの州警察本部

                                 

                                 グスティ・アグン・ライ警視はデンパサールの州警察本部のオフィスで、ワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事の2人が、ウブッドのプリアタン村からイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンをともなって帰って来るのを待っていた。

                                 23日の夕方、ウブッドから帰ってきた2人の刑事が、イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの女弟子のウルワツの断崖での墜落死について、記録を読み返したいと言い出した。ガムランの師匠の日本人の女弟子が2人とも死んだことに警視も奇妙な暗合を感じた。書類保管庫の棚からかび臭い書類の束を取り出して、3人で事件のあらましをたどった。

                                 1992年の821日のことだった。地図で見るとバリ島の南部にぶら下がるようについているバドゥン半島の南西にあるウルワツ寺院近くの断崖から日本人の女性、三田宏美が墜落死した。ウルワツ寺院で墜落を目撃した観光客らの証言では午後5時すぎのことだったという。「日没前の鈍い黄金色の海に映える断崖から、ふんわりと人間が落ちていった」という目撃談が引用されていた。警察官らが崖下を捜索し、午後550分ごろ三田宏美の死体が見つかった。

                                 ウルワツの断崖はほぼ垂直に50メートルほど波打ち際から切り立っていて、三田宏美は全身打撲と頭蓋骨を含む骨折で、見つかったときはすでに死亡していた。28歳の日本人女性で、ウブッドでイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンについてガムランを習っていることは、彼女が持っていた出入国管理局発行の滞在許可証KIMSからたどれた。三田宏美は199110月にバリにやってきてガムランを習い始めた。日本では1990年代にインドネシアのガムランの人気が出始め、ガムランを習ってみたいと日本人の若者がバリに来るようになった。ジャワにもガムランの名手たちがいるのだが、日本の若者たちにはジャワのガムランよりもバリのガムランの方がお気に入りだった。三田宏美はそうした日本人の1人だった。三田宏美にガムランを教えていたイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンが警察にそのような説明をしていた。

                                 三田宏美の検死結果によると、死因は墜落時の頭蓋骨骨折と脊柱骨折および全身打撲。それ以外に顕著な外傷はなかった。また、薬物の残留も認められなかった。三田宏美は妊娠していて第6週に入っていた。

                                 捜査記録によると、目撃証言や三田宏美が墜落した現場の状況から他殺は考えられず、事故の可能性も低いので、結局、自殺と判断された。三田宏美が妊娠に至った相手もうわさはいろいろとあったが、結局、不明なままに終わった。関係が噂されているガムランの師匠も姉弟弟子のアメリカ人男性も、821日午後はプリアタン村でガムランの練習をしていたというアリバイが成立していた。そういうわけで三田宏美の死は、鬱状態がつのったすえの発作的自殺と結論された。

                                 記録を読みおえた警視はワヤン・ブラタ・刑事とイ・バグス・マデ刑事の2人に、24日朝プリアタンに行って、イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンを警察本部に連れてくるよう命じた。

                                 

                                グデ・ダルマワンが24日の午後、2人の刑事と部屋に入ってくると、警視は手をさしのべて、

                                「デンパサールまでおいでいただき感謝しています」

                                と握手を求めた。あんたを容疑者あるいは重要参考人として連れてきたわけではないんだよと、相手の警戒心を解くためだ。

                                「6年前には日本人の女弟子が自殺し、今度はまた日本人の女弟子が路上で殺された。不運につきまとわれているようですな」

                                 警視がすぐさま本題に切り込んだ。

                                「私になにか落ち度があったとでも?」

                                ガムランの師匠が緊張した声を出した。

                                「あなたに落ち度はなかったでしょう。私がお訪ねしたいのは、6年前の自殺ことではなくて、今度の殺しのことです。被害者の態度に何か変わったところはなかったですか。瀬田沙代に最後にあったのは、たしか512日でしたね」

                                「そうです。その日の朝、私の家の練習場でグンデルの稽古をつけた。午前9時から2時間ほどだ。バリ人の男の弟子もいっしょだった。彼女はいつもと同じように快活にふるまっていた。あのとき沙代が打ち鳴らしたグンデルの音は、あたりの朝の空気を切り裂くような鋭さがあってなかなかよかった。それが、2日後に殺されてしまうなんて……」

                                 グデ・ダルマワンの声が震えた。警視が彼の顔を見ると、目が赤くなっていた。だいぶ感情が乱れているな、と警視は思ったが、気づかないふりをした。

                                「そのとき、瀬田沙代はデンパサールで誰かと会うようなことを言わなかったですか」

                                「誰かとは、誰のことだ……」

                                 そう言ったあと、グデ・ダルマワンはハッとした表情で口を閉ざした。

                                「彼女はスハルトノという名前を口にしませんでしたか」

                                「そうか、あの野郎が沙代を殺したのか」

                                 ガムランの師匠が突然叫んだ。

                                  警視はそれを無視して話題を変えた。

                                「ところで、あんた、去年の7月に瀬田沙代とジョクジャに行ったね」

                                「そのことがあんたの捜査とどんな関係があるんだ」

                                「まあまあ落ち着いて。あんたが瀬田沙代と情を通じたのはジョクジャ行きの前からか、それともジョクジャのホテルでか?」

                                「おれを侮辱しているのか。スハルトの時代は終わったんじゃないのか。そういう言い方はないだろう」

                                「じゃ、あんたの奥さんや、ウブッドの口さがない連中がひそひそ語り合っているあんたと瀬田沙代の情事は全部なかったこと、でっち上げの中傷だというんだな」

                                「根も葉もないうわさだ」

                                「ジョクジャへ行こうと誘ったのは瀬田沙代か、それともあんたか?」

                                「沙代がジョクジャのガムランをよく聞き込んでおきたいからと、おれに同行を頼んだんだ。あんたも知っているだろうが、ガムランはもともとインドからジャワにはいってきた。バリへはジャワから伝えられた。ジャワとバリではガムランの音の作り方が違うんだ。ジャワのガムランの音は、どちらかというとテンポが緩やかで、たたき出される音も柔らかい。たとえて言うと、演奏される音がレースのカーテンを何枚も何枚も通り抜けて伝わってくるようにゆったりと響いている。よくしたもので、あの音はかつてのジャワのスルタンの宮廷の舞踊のように優美でなめらかだ。そういうジャワのガムランの音はスルタンの宮廷で洗練されて出来上がったものだ。ジャワにからバリに伝えられたガムランはジャワ的な洗練が施される以前の原形だ。代表的なのがゴング・グデだ。だが、20世紀に入ってすぐ、いまのバリのガムランであるゴング・ケビャールが考案された。いまではバリのガムランはケビャール一色に塗りかえられた。ケビャール(稲妻)というくらいだから、その音は鋭く鮮烈だ。スルタンの宮廷で磨き抜かれてトゲがなくなったジャワの半分眠ったようなガムランの音よりも、激しく空気を振動させるバリのガムランの音の方が外国人にはうける」

                                「ジョクジャにはどのくらい滞在したんだ」

                                「ガムラン・フェスティバルをやっていた3日間だ」

                                「いい旅だったようだな」

                                「沙代は満足げだった」

                                「師弟ならではの親密な関係が強まったわけだ。ところで、14日の午前中、あんたはどこにいた」

                                イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの顔がひきつった。

                                「家にいたよ」

                                「あんたが14日の朝、ミニバスに乗ってデンパサールへ行ったことはわかっているんだ。あの朝デンパサールで何をしていた」

                                 グデ・ダルマワンは口を閉じ岩のように固まった。

                                「どこで何をしていたんだ。ここは大事なところだぞ。変に細工すると身に覚えのない疑いをかけられることにもなりかねん」

                                 警視が脅した。

                                「タマン・サリ・ホテルへ行った。スハルトノに会うためだ」

                                「何時ごろだ」

                                9時ごろだと思う」

                                「スハルトノに会ったのか」

                                「やつはホテルにいなかった。それで、ロビーで一時間ほどやつを待ったが現れなかった。そのことはホテルのフロントの従業員が知っている。あきらめて、ホテルを出て、ミニバスでウブッドに帰ってきた。」

                                「スハルトノにどんな大事な用があったんだ」

                                 警視がたたみ込んだ。グデ・ダルマワンの顔がゆがんだ。彼は両手で顔をおおい、肩をふるわせた。警視はしばらく黙っていた。

                                「沙代の気を引こうとして、いい加減なことをあの女に吹き込むんじゃないと言いに行ったんだ」

                                 グデ・ダルマワンが叫んだ。

                                「スハルトノは瀬田沙代に何を言ったんだ」

                                「おれのことをウブッドの森の殺戮者だと沙代に言った」

                                「なんのことだ?」

                                「スハルトノは沙代に、おれが930事件のあとバリで起きたインドネシア共産党員虐殺事件に加担していたと、でたらめを言った。おれが沙代に、スハルトノは信用のおけない危険な男だから、もう会うのをやめた方がいい、といった。すると、あの女、子どもみたいなことを言うのはおやめなさい。聞くところでは、あなたも30年ほど前の20歳のころは、冷酷非情で危険な人だったそうじゃないの、と師匠のおれに面と向かって言ったんだ。それでおれはスハルトノに会いに行ったんだ」

                                 

                                 

                                2018.06.24 Sunday

                                『ペトルス――謎のガンマン』   第8回

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                                  5月23日午後3時ごろ、ウブッド芸術文化振興財団


                                   ウブッド芸術文化振興財団事務局は「ウブッド・インフォメーション・センター」の看板を掲げた、文化催事企画、ガイド派遣、ホテル案内、不動産仲介など、外国人をはじめウブッドにやってくるよそ者のための総合案内所の中にあった。中にあったというよりは、案内所と財団事務局は不可分のものだった。案内所の経営者がウブッド芸術文化振興財団の事務局長を兼ねていた。
                                   この案内所の経営者イ・ニョマン・ナデラはバリの舞踊やガムラン、絵描きのグループに顔が売れていた。外国人がバリの芸術とふれあう機会を提供している、というのが彼の自慢である。踊りやガムラン、バリ絵画などの師匠に外国人の弟子入り希望者を紹介し、短期間の旅行グループのためにバリ芸術体験のスケジュールをたててやり、それぞれ手数料をかせいでいる。
                                   1996年4月の終りごろウブッドにやってきた瀬田沙代のために、ウブッドに住み着く条件整備をしてやったのがこの男だった。元弟子の日本人男性からイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンあての紹介状を持っていた沙代を、ニョマン・ナデラがダルマワンの家に案内した。師匠から入門の許可をもらうために口添えし、不動産屋も紹介し、ついでにお手伝いの家族も送り込んだ。
                                   2人の刑事が事務所を訪れたとき、来客はいなかった。冷房を効かせた事務所でイ・ニョマン・ナデラが居眠りをしていた。
                                  「ここだけの話だが、ガムランの師匠であるイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンと日本人の弟子瀬田沙代は、師弟関係を超える密接な間柄だったと、ウブッドでは噂されているようだ。沙代をガムランの師匠の所へ連れて行ったあんたは、ふたりの関係をよく知っているそうだな」
                                  イ・バグス・マデ刑事がしょっぱなから高圧的な態度にでた。
                                  「おいおい、そんな質問の仕方はないだろう。いまや改革(レフォルマシ)と民主主義の時代が始まっているんだぞ」
                                   ワヤン・ブラタ刑事が相棒を押しとどめ、質問をやり直した。
                                  「瀬田沙代が殺された理由を調べているんだ。おれたちは痴情とえん恨の線を追っている。デンパサールの州警察本部へ来てもらって正式な記録をとりながらお聞きするのが筋だが、インドネシア全体がいま取り込み中なので、こうして略式の聴取をしているのだ。捜査の方針を決めるための聞き取りだ。ここでの話が証拠としてそのまま法廷に持ち出されるわけではない」
                                  「そんな言い方をしなくても、あの2人はいい仲だったのかい。教えてくれないかな。捜査上必要なことなんだ。そう素直に言えば教えてやらないこともないんだがね」
                                  「あんたの方に理がある。言い方を変えよう。沙代のことを教えてくれませんか」
                                   なんだかんだと理屈をこねてここで拒絶すれば、いずれデンパサールに呼び出されて、まる1日をつぶすことになるので、イ・ニョマン・ナデラは早々とあきらめてしゃべることにした。
                                  「グデ・ダルマワンには、俺がしゃべったとは言わないでくれよ。刑事さんの見込み通りだよ。あの2人はいい仲だった。去年の7月には2人してジョクジャカルタへ出かけたよ。ジョクジャカルタ・ガムラン・フェスティバルという催しがあって、それを聴きに行ったんだ。グデ・ダルマワンのかみさんはカンカンだった。田んぼの仕事を放り出して女弟子とジョクジャ旅行だ。それも旅費を女弟子がもつという情けない浮気旅行だ。どうしてくれようと、えらい剣幕でご近所に息まいていたそうだ。女房は亭主が女とジョクジャに行っている間に、バリアンをよんで浮気封じの祈祷をしてもらったそうだよ。
                                  「女房が騒ぎまわるのも無理のないことでね。あれは5、6年前のことだった。そのころイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの所には、日本人の女の弟子がいた。その日本の女が弟子入りして半年ほどたったころのある日、バドゥン半島へ出かけて、ウルワツ寺院近くの崖の上から身を投げてしまった。夕方だったが、日没のちょっと前だったので、ウルワツ寺院で夕陽をながめていた観光客らが、ちょっと離れた崖から人間が海に落ちてゆくのを見て騒ぎになった。収容した死体は岩場で身体のあちこちを打って無惨な姿だったそうだ」
                                  「聞いたことがある話だ。本部に帰ったら記録を調べてみよう。グデ・ダルマワンの弟子だったのか」
                                  イ・バグス・マデ刑事が遠い記憶をたどるような目つきをした。
                                  「うん、思い出したぞ。たしか女は妊娠していたな。ウブッドではあのときどんな噂で沸き返ったんだ」
                                  「最初はグデ・ダルマワンがその日本人の弟子に言い寄って妊娠させたという噂だった。だが、その証拠になりそうな愛の現場の目撃については噂が出てこなかった。そうこうするうちに、ダルマワンの所にいたアメリカ人の弟子が予定を切り上げてアメリカに帰っていった。それで今度は、日本の女とできていたのはあのアメリカ野郎だったという噂が広まり、そのうちのそれが定説になった」
                                  イ・ニョマン・ナデラがぺらぺらとしゃべり始めた。
                                  「過去にそんなゴタゴタがあったことを知っていて、瀬田沙代がグデ・ダルマワンに弟子入りする手伝いをしたのかい」
                                  ワヤン・ブラタ刑事がとがめるような口調で言った。
                                  「瀬田沙代はなんとしてもグデ・ダルマワンのところでガムランを習いたいと言った。あんたの前の日本人の女弟子はかくかくしかじかでウルワツから身を投げてしまった。ウブッド界隈には、グデ・ダルマワン以外にも、いいガムランの師匠がたくさんいるので、違う先生を選んだらいかがと、ウブッド文化芸術振興財団事務局長のおれが言い出すわけにはいかんだろう。こう見えても公平がモットーなんだ。ところで刑事さんたちはグデ・ダルマワンに会って話を聞いたかい」
                                  「殺された女が瀬田沙代だとわかった段階ですぐ、彼と会ったよ。思いあたることは何もないといっていた。弟子が殺されたことで、おちこんでいたな」
                                  イ・バグス・マデ刑事が言った。
                                  「いつごろのことだ」
                                  「あれは15日の金曜日だった」
                                  「そのあとどんどん憔悴がひどくなっているよ。もう寝込んでいるかも知れない」
                                   ニョマン・ナデラが声をひそめた。2人の刑事にはニョマン・ナデラが、グデ・ダルマワンのことをわけありだ、と告げ口しているように思えた。
                                  「ありがとう。いい情報があったらまた教えてくれ」
                                   2人の刑事はそう言って、日差しの強い午後のウブッドの通りに出た。
                                  「次はニ・ニョマン・カデだな」

                                   ニ・ニョマン・カデは雇い主がいなくなってしまったお屋敷の内庭で、瀬田沙代が愛用していたテーブルの前に座り、ぼんやりとお茶を飲んでいた。2人の刑事を見ると、何か悪いことをしているところを見られた子どものように、羞じらんだ笑いを見せてイスから立ち上がった。
                                  「刑事さん、きょうはどんなご用で? 亭主のイ・ワヤンは賃大工仕事で出かけている最中です」
                                  「いや、きょうはあんたに聞きたいことがあって来たんだ」
                                  ワヤン・ブラタ刑事がつとめて柔らかい口調で言った。
                                  「お茶にしますか、コーヒーがいいですか」
                                  「煩わせてすまんな。熱いお茶をいただきたいな」
                                  「お茶なら亡くなったイブ・サヨが残した極上のジャワティーがあります」
                                  「ああ、それをごちそうになろうか」
                                   やがて立派なティーカップに透明感あふれる紅茶がティーポットから注がれた。
                                  「いい香りだな」
                                  「イブもそう言っていました。インドのお茶もいいが、ジャワのお茶もそれに負けないとね」
                                  「ところで、ちょっと立ち入ったことをたずねたいんだ。ガムランの師匠のグデ・ダルマワンだが、イブが生きていたころ、ここにちょくちょく来たかね」
                                  ワヤン・ブラタ刑事がさりげない聞き方をした。
                                  「しょっちゅうではありませんが、月に何度かやってきて、イブと一緒にご飯を食べたり、お茶を飲んだりしていましたよ」
                                  「泊まっていったことはなかったかね」
                                  「まさか。そんなこと。刑事さんも、グデ・ダルマワンが沙代さんといい仲だったというムラの噂を信じているわけですか」
                                  ニ・ニョマン・カデが馬鹿にしたような言い方をした。
                                  「あんたは信じていないのかね。じっさい、グデ・ダルマワンのかみさんは嫉妬で怒り狂ったことがあるそうじゃないか」
                                  「あの女はもともとやきもち焼きなのさ。イブの男関係については、私は何も知らないよ。私の知る限り、この家に男が泊まっていったことはないよ」
                                  「オーストラリアの女はどうだ? 泊まったんじゃないか」
                                  「イブはあのオーストラリアの若い娘さんと仲がよくてね。あの子のならよく遊びに来て、私らの家族ともども夜更けまで話をしていたよ。オーストラリアのシドニーから来た娘さんだった。シドニーは海のきれいな町だってね。遅くなると時には泊まって行くこともあった。二ヵ月ほどウブッドにいてシドニーに帰っていったよ」
                                  「どうなんだろう。瀬田沙代はセックスの面で衝動的なところがあったと思うかい」
                                  「イブは男狂いだったとか、男がイブに狂ったとか、ウブッドじゃひそひそ語られているが、なんにも証拠のない話さ。イブはウブッドでは、男にとっても女にとっても、どこか気になるになる存在だった。それで、イダ・アユ・ングラとよばれていたのさ。ところで、先日ここに来たイブのご両親からしばらくのあいだこの家を守っていてくれと、お金を渡された。いずれ家族の誰かが戻ってきて、イブの遺品やこの家の後始末をするということだった。刑事さんたちはなにかそのことでご存じか?」
                                  「家族は日本に帰って葬式をすませ、一段落したらこの家の後始末に帰ってくる。しっかり留守番をしていれば、退職金をはずんでもらえるかもしれんよ」
                                   2人の刑事は瀬田沙代が住んでいた家を出て、デンパサールへ戻っていった。

                                  2018.06.16 Saturday

                                  『ペトルス――謎のガンマン』  第7回

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                                    523日正午ごろ、ウブッド大通り

                                     

                                     スハルト政権の崩壊にまで至ることになったインドネシアの動乱で、各国政府がそれぞれの国民にインドネシアからの退去やインドネシアへの渡航延期をすすめる危険情報を流したため、スハルト退陣劇の幕が下りて2日後の523日、緑濃いウブッドの唯一の繁華街・ウブッド大通りにはなお閑古鳥が鳴き続けていた。

                                     バリに残る王宮のなかでもっとも有名なウブッドの王宮・プリ・サレンもウブッド大通りにある。ここは夜ごと観光客のためにバリ舞踊とガムラン演奏が繰り広げられるウブッド観光の代表的な場所だが、観光客が激減した乾季5月下旬の昼間の太陽に照らされて、夜の幻想的なはなやかさとは対極のげんなりくたびれた姿をみせていた。

                                     プリ・サレンのウブッド大通りをはさんだ向かい側がウブッド市場で、いつもならバリの仮面(トペン)や木彫り(パトゥン)、バティックのシャツやサロン、金銀細工、バリ風のおどろおどろしい悪霊などを描いたるルキサン(絵画)、その他日用雑貨をあさる観光客でごった返しているはずなのだが、いまは閑散としている。首都ジャカルタからバリに避難してきた金持のインドネシア人や外国人たちは、その多くが海岸沿いのホテルに泊まっていて、そこを動こうとしなかった。街に出ると危険だと思いこんでいたらしい。したがって、ウブッドまでやってくる客はほとんどいなかった。

                                    「このあたりでは観光客が落とす金をあてにして暮らしてきた人も多いので、先行きが心配だろうなあ」

                                     ワヤン・ブラタ刑事がテーブルの向こう側に座っているビンタンとよばれている老人に言った。

                                     ワヤン・ブラタ刑事は相棒のイ・バグス・マデ刑事ともども、23日もまた、あきもせずウブッドに来て、瀬田沙代に関する情報を集めていた。沙代のウブッドでの暮らしぶりを克明に追って行けば、やがてその先に沙代と事件の接点が見えてくるのではなかろうかと考えてのことである。

                                    「観光客が減ったことは、これまでにも何度もあったよ。30年以上も前の、930が起きる2年ほど前にグヌン・アグンが大噴火したことがあった。あれはスカルノがまだ威勢のよかった時代でな。スハルトなどはまだ無名の一将軍だったころだ。そのころはバリに来る観光客もいまほど多くなかったので、ここの暮らしにさほどの影響はなかった。いま思えば、あのときのグヌン・アグン噴火の灰でバリの土壌は一層肥沃になった。マラリ(1974115日、田中角栄首相のジャカルタ訪問時に起きた反日をスローガンにした反政府暴動)の時もバリに来る観光客ががたっと減った。だが、まもなくみんなそのことをけろりと忘れて、バリに来る日本人も以前にまして増えることになった。とかく忘れっぽい観光客はいずれ戻ってくるよ。この島にはそれだけの魅力がある」

                                     ビンタン老はそういってワルン(簡易食堂)のテーブルの上のナシゴレンをスプーンですくい、何本かの歯が抜けおちてしまったままの口の中に放り込み、ビン入りの甘い紅茶で胃の中に流し込んだ。二人の刑事もミーアヤムを食った。ゆでたエッグヌードルをどんぶりに入れ、そのうえに鶏のそぼろとゆでた青菜をのせ、さらにバソとよばれる魚肉ミートボール入りのスープをかけ、サンバルをたっぷり入れて食べる。道行く人にはウブッドの怠け者の農家の男どもが3人して闘鶏の賭け事の話でもしているようにみえた。

                                    「そろそろデンパサールで殺された瀬田沙代のことを話してもらえないかな。あんた、いろいろ知っているんだろう」

                                     イ・バグス・マデ刑事がビンタンに催促した。

                                    「ウブッド界隈のうわさでわしの耳に入らないものはない。ここで70年以上生きてきたんだ。オゴオゴも今じゃわしの友達じゃよ」

                                     オゴオゴはバリ暦の新年ニュピの前日にお祓いの対象になる悪霊である。この儀式をすませると、バリの人は何もしない一日を送る。泥棒は盗むのをやめ、警官は泥棒を追いかけるのをやめる。

                                    「お友達のオゴオゴのことは別の日に聞かしてくれ。あの殺された日本の女の噂や評判を聴きたいんだ」

                                    「あの女は2年ほど前だったかな、ウブッドにやってきた。メガワティが民主党を追われた19967月より少し前のことだった。スハルトの奥さんのシティ・ハルティナが亡くなったのが1996年の4月、ちょうど同じころに瀬田沙代がウブッドに現れた。スハルトの運が傾き始めたのは妻に先立たれたあのときからだな。インドネシア人の気持がだんだんとスハルトから離れ、スハルトがつぶしたスカルノの思い出の方に傾き始めた」

                                    「そうだったな。スハルトに嫌気がさしたぶん、スカルノ時代が美しく楽しく見えるようになったんだろう」

                                     イ・バグス・マデ刑事が相づちをうってやった。

                                    「スハルトを嫌い、スカルノ時代を懐かしがるインドネシア人が増えれば増えるほど、スカルノ娘のメガワティの人気があがった。スハルトはメガワティが野党の民主党の党首のままで1997年の国会議員選挙に入ると、大統領である自分の足下が危なくなると思った。それで、19966月にスマトラで民主党の臨時党大会を開かせ、メガワティを党首のイスから追放させた。7月には、メガワティ解任を認めずジャカルタのデポヌゴロ通りの民主党本部に籠城していたメガワティ支持者を、ならず者をやとって追いたてたことから暴動に広がった。これが逆効果になってインドネシア人の気持はますますスハルトから離れ、メガワティに寄せられる同情はさらに熱いものになった。ワフユに見放された人間はこういうものじゃよ」

                                    「瀬田沙代のことなんだが……」

                                     バグス・マデ刑事が催促した。

                                    「瀬田沙代はプリアタンのイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンから10年ほど前にガムランを習ったことのある日本人の紹介で、バリに来て彼の弟子になった。金持の女らしく、プリアタンの王家の血をひく、いまはジャカルタで資本家の仲間入りをした男の留守宅を借りてそこに住み始めた。細身で、あたりを払うような、高貴な印象があったので、だれかがイダ・アユ・ングラという仰々しいあだ名を提供した。タバコが吸いたいな」

                                     ワヤン・ブラタ刑事がシャツの胸のポケットからサンプルナ234を取り出して、ライターと一緒にテーブルの上に置いた。ビンタンがその1本をとりだして火をつけた。強いクローブのにおいがあたりにただよった。

                                    「女の暮らしぶりはどうだった?」

                                    「人間の暮らしぶりは、優雅か悲惨か、金しだいさ。金がなくても優雅に暮らすには、オレくらいの修行が必要ってもんだ。ああ、日本の女は優雅に暮らしていた。普段はガムラン三昧で、毎日のようにイダ・プトゥ・グデのところでガムランの手ほどきを受けていた。買い取ったのか、借りたのか、詳しいことは知らんが、ちょっと響きの良さそうなグンデルを自宅においていた。上物のグンデルの、その魂を鳴らしきれるほどには、まだ腕はあがっていなかったがね。月に何度かデンパサールに下っていって、芸術学院の教師からも手ほどきを受けていた。夜になるとウブッドのあちらこちらで開かれる踊りやガムラン演奏会場をのぞき、時には、自宅に仲間のガムラン練習生を集めて、練習をしていた」

                                    「金持の瀬田沙代から借金を重ねていたようなやつはいなかったのか」

                                     イ・バグス・マデ刑事がテーブルの上のワヤン・ブラタ刑事のクレテックのタバコに手を伸ばした。

                                    「そのあたりのことはよく知らん。わしは金融関係は余り得意じゃないんだ」

                                    マンダラ老がまじめくさった表情で言ったので2人の刑事は苦笑した。

                                    「男はいたのか」

                                     イ・バグス・マデ刑事がニヤニヤ笑いなが尋ねた。

                                    「いたさ。男あっての女。女あっての男。人あれば影あり。スカラ(感覚でとらえうるもの)とニスカラ(感覚でとらええぬもの)、ランダとバロンのようなものだ。バリの夜にはどっちがかけてもならねえ。この2つのものの均衡と調和の上にこの世界がある。

                                    「あの日本の女もひとなみにお盛んだった。だが、男ならダレでもいいというわけではなかったようだな。あの女に言い寄って袖にされたウブッドの若い衆はたくさんいた。そいつらがやっかみ半分にまき散らした噂では、イダ・アユ・ングラの男は、まずガムランの師匠のイダ・プトゥ・グデ・ダルマワン。あの師匠は時にはイダ・アユ・ングラの家に行ってガムランを教えていた。稽古を見ていたやつの見立てでは、2人はできていた。普通、ガムランの教師は、アア、ダメダメ、こうするんだと、楽器を自分でたたいてみせるが、実際に弟子の手を取って楽器を打つようなまねはしないものだ。イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンはイダ・アユ・ングラの背後にたって、自分の身体をぴたりと彼女の背中につけ、女の手に自分の手を添えて、楽器を叩いていたそうだ。

                                    「その稽古ぶりをみていたのはだれだ?」

                                     ワヤン・ブラタ刑事が聞いた。

                                    「街の噂だよ。見たことには興味津々だが、見たやつには誰も興味を示さない。グデ・ダルマワンのかみさんならきっと亭主の浮気に感づいているだろうよ」

                                    「ほかにも男がいたんだな」

                                     イ・バグス・マデ刑事が、ニヤついているビンタン老に言った。

                                    「絵描きだ。観光客用にちょっとこったバリ絵画を描いて売っている。アトリエを、デサ・プヌスタナンに持っているオヤジだ。イダ・バグス・チャンドラ。3人ほどの弟子をかかえている。本人はいっぱしの芸術家を気取ってはいるが、密林の中の悪霊と動物と人間といったバリ風の夢の世界を題材にしたものも描けば、昔懐かしいバリの村の庶民の暮らしや、バリの王家の火葬の絵や、バリ舞踊の可憐なダンサーも描くという器用なおみやげ作家だ。最近、イダ・バグス・チャンドラが、イダ・アユ・ングラをモデルにして裸体画を描いたそうだ。女が裸になってポーズをとり、それを画家が油彩画にしているのを弟子の1人が見ている。その弟子と視線があっとき、女はにっこりと笑顔を見せたそうだ。若い弟子は身震いするほどの興奮を感じた。そのとき、師匠と女はできていると直感した。その弟子がダチ公に打ち明け、それが回り回ってオレの耳にまで届いた。イダ・バグス・チャンドラのアトリエに行って、女の裸体画を見せてもらいな。それがやつをしゃべらせる糸口になるだろうよ」

                                    「ほかには」

                                     ワヤン・ブラタ刑事が言った。

                                    「うわさでは、今年の正月ごろはオーストラリアからバリ舞踊を習いに来ていた女がいたそうだ」

                                     2人の刑事は怪訝な表情をした。

                                    「男だってそういうのはいるだろ。西洋の男の中にはバリへ男の子を探しに来るやつもいるぞ。オーストラリア人の女はイダ・アユ・ングラの家に来て泊まっていくことがあった。このことは、あのうちのプンバントゥーから聞いた。女が2人してゴア・ガジャの洞窟の中で抱き合っていたという噂もあった。それ以外に、ウブッドにやってきた日本人の音楽学者が泊まっているホテルの部屋に、あの日本女が入るのを従業員が目撃している。行きずりの恋も多々ある女だった」

                                    「しかし、あんた、えらくあの女の恋模様に詳しいじゃないか」

                                    「目立つ女だったんだよ。どこか人を引きつけるような、妖しい雰囲気をただよわせた魅力のある女だった」

                                    「あんたはその恋の余得にはあずからなかったのか」

                                    「おれと睦んでいれば、あの女に死霊がとりつくことはなかっただろうに。おしいことだった」

                                     ビンタン老がまじめな顔で言った。

                                     ビンタン老はバリで「バリアン」、ジャワなどで「ドゥクン」あるいは「ボモ」とよばれるまじないだった。人間の病はその人の心身と、その人を取り巻く環境との間の不調和から起こる。その不調和を祈祷やマッサージや薬草などで和らげる仕事をするのがバリアンの仕事だ。薬草に詳しいバリアンをバリアン・ウシャダス、ある時突然もののけにとりつかれてバリアンになったのがバリアン・タクスだ。バリアン・ダサランは人の心を読み取る。バリアン・トゥランは整骨が得意だ。

                                     ビンタンは薬草に詳しいバリアン・ウシャダスだったが、いまでは若手のバリアンにおされてバリアンとしては影の薄い存在になっている。バリアンはシャーマンでもあり、さまざまな人のさまざまな事情に立ち入る立場にある。いってみれば、ウブッドに飛び交うムラの内部情報のアンテナだった。

                                    「これをとっておいてくれ。ワヤン・ブラタ刑事が財布から1万ルピア札2枚を取り出してビンタン老に渡した。

                                    「おや、これっぽっちかい」

                                    「本来なら情報提供の謝礼は警察の決まりで一枚だが、このところルピア安がひどくなったので、2枚にしたんだ。気は心だと思って気持よくうけとってくれ」

                                     ワヤン・ブラタ刑事がビンタン老にウィンクして言った。

                                     

                                     

                                     

                                    2018.06.10 Sunday

                                    『ペトルスー謎のガンマン』    第6回

                                    0


                                       

                                      5月22日夕、警視のオフィス


                                       ワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事がグスティ・アグン・ライ警視の執務室に現れた。2人とも瀬田沙代の殺しを担当している刑事で、ウブッドの聞き込み捜査から帰ってきたところだった。
                                      「いやあ、疾風怒濤の日々だったね」
                                       警視が軽口をたたいた。
                                      「12日のトリサクティ大学の射殺事件からパッ・ハルト(スハルト大統領)の21日の辞任まで、まったく、インドネシアを揺るがした10日間でしたね」
                                       ワヤン・ブラタ刑事が軽口に乗ってきた。
                                      「インドネシアを揺るがした10日間か、学のある人は洒落たもの言いをするね」
                                       警視がニコニコと笑顔で応じた。
                                      「私らのような下っ端は関係ないでしょうが、今度の揺れで足下が液状化しちまったお偉方は少なくないことでしょうねえ」
                                       ブラタ刑事がたたみかけた。
                                      「ここの州知事やウダヤナ師団の司令官などはだいぶストレスがたまっていることでしょう。うちの本部長あたりまで影響が及ぶんでしょうかね」
                                       イ・バグス・マデ刑事がうれしそうな顔をした。他人の難儀はカモの味というやつだ。
                                      「さっそくだが、13日から事件のあった14日にかけての、被害者の行動について、まず聞かせてくれないか」
                                       警視が軽口を切り上げ、仕事の報告を催促した。
                                      「プリアタンの瀬田沙代の家で働いていたイ・ワヤン・サントソとニ・ニョマン・カデから聞き取りをしました13日は、亭主のワヤン・サントソは、ウブッドの民宿改装の賃仕事に朝7時ごろから出かけていました。瀬田沙代は7時前に起き、外庭のガムランの稽古場に座り込んで瞑想していたそうです。8時には内庭に出してあるテーブルで朝飯を食べました。何を喰ったと思います? 警視」
                                       ワヤン・ブラタ刑事がからかうような口調で言った。
                                      「朝飯ならミー(麺)にきまっているだろう」
                                      「どっこい、BLTというやつで」
                                      「BLT?」
                                      「焼いたベーコンとレタスとトマトをロティ(パン)にはさんだやつでさあ。ベーコンはムスリムが食べるような牛のベーコンではなくて、正真正銘のブタの脂肉の燻製。外国人の多いウブッドではスーパーで普通に売ってますよ。それにジャワティーをマグカップに一杯」
                                      「朝からよくそんなものが食えるな。ほっそりした被害者の遺体から考えると、意外な朝飯だ」
                                      「ガイシャの朝飯はロティに決まっていたそうです。それから彼女は身支度をして9時前には家を出て、前日の夕方に頼んでおいた車に乗ってデンパサールに下っていったとニョマン・カデは言っています。その車は瀬田沙代がデンパサール市内に出かけるときはいつも使っている、なじみのホテル・タクシーです。運転手は10時前にはインドネシア芸術学院に沙代を送り届けたと言っています」
                                      「沙代はこの朝上機嫌だったようで、今度泊まりがけでバリの北海岸にドライブに行こうよ、と運転手をからかったそうです。沙代と顔なじみの芸術学院の学生によると、沙代は1時間ほど学生たちが演奏の練習をするのを見学したあと、4人1組で演奏するレヨンに加わって実際に練習したのですが、ちがう、ちがう、と指導教官に何度も怒鳴られていたようです。午後1時ごろ学院のカフェテリアで、友人の学院生とお昼を食べ、そのあと、2時から4時まで、学院の教師からグンデルの奏法の個人指導を受けました。毎月第2と第4の水曜日の2回、この教師から個人指導を受けていたそうです」
                                      「ちょっと、待った」
                                       ワヤン・ブラタ刑事の要領のいい説明に警視が割り込んだ。
                                      「沙代に軽口をたたかれた、その運転手は14日朝どこにいた?」
                                      「ええ、しっかり調べておきました。運転手は、ビーマというごたいそうな名前の男ですが、14日は朝9時に予約を受けていたオーストラリア人のカップルを滞在先のウブッドのホテルでのせてキンタマニーまで運んだそうです。オーストラリア人は暑苦しいウブッドに辟易して、涼しい高原の風に吹かれたかったのでしょう。客は高原のレストランで昼飯を食い、ビーマの案内であたりを散歩して、夕方4時ごろホテルに帰って来たそうです。客はすでにオーストラリアに帰国していますが、ホテルの従業員が、ビーマがその宿泊客を乗せてホテルを出発し、ホテルに帰ってきたのを見ています」
                                       プラタ刑事が得々として説明した。
                                      「行き届いた捜査だ。それと、被害者にグンデルを教えていた教師は、被害者の身辺について何か感想めいたことを言わなかったか」
                                      「沙代の私生活について、彼はあまり知りませんでした。月2回グンデルを教えるだけの間柄だったようです。指導は4時ごろ終り、沙代はそこからタクシーでタマン・サリ・ホテルに行ってチェックインしました。ホテルで調べたところ、チェックインの時刻は4時20分と記録されていました。沙代はバリからデンパサールに出て来た時の定宿にしてようで、タマン・サリのレセプションのみんなが紗代と顔なじみでした」
                                      「ホテルに滞在中、沙代が誰かと連絡をとったりしたことはなかったか? 外からの電話はどうだ?」
                                      「外部からの電話連絡は記録に残っていませんでした。かけてもいないし、かかってもこなかった」
                                      「それからどうした」
                                      「ホテルのフロント係によると、沙代は午後6時ごろフロントに来て、ジェネラル・マネジャーに挨拶したいと言ったそうです。ジェネラル・マネジャーのスハルトノがやってきて、2人してロビーでにこやかに話していたそうです。2人は顔見知りで、沙代はタマン・サリに泊まると、時々、スハルトノと食事をともにしていました。それから沙代はフロントに鍵を預けて、タクシーをよんでもらいました。タクシー係がどちらまでとたずねたら、アートセンターだと告げたそうです。沙代をのせたタクシーはホテルのタクシー係のメモから直ぐわかりました。確認したところ、たしかにアートセンターへ行っていました。あの夜はデンパサールのガムラン・グループが演奏会を開いていました」
                                      「13日は銃撃されて死んだトリサクティ大学生の葬儀にムハマディヤのアミン・ライスや民主党を追われたメガワティ・スカルノプトゥリが参列して、反政府のアジ演説で集会が盛り上がっていた日だ。インドネシア国軍は、スハルトにつくのか、民衆の側につくのか、はっきりしなくてはならない、とジャカルタで反体制指導者が叫び、翌14日には暴動が広がった。そんなときに、デンパサールではガムランをやっていたのか。まったく、のどかなもんだ」
                                      「なくなった学生を弔う曲も臨時に組み入れていたそうです。そういう趣旨の会でもあったといっていました」
                                       警視の誤解をワヤン・ブラタ刑事が指摘した。
                                      「沙代は夜9時ごろタマン・サリにタクシーで帰ってきて、コーヒーショップでビールを飲みながら晩飯を食べました。何を食ったと思います? 警視」
                                      「ハンバーグか?」
                                      「はずれ。サテ・カンビンでビールを飲んで、そのあとナシ・チャンプルです。ジャワでナシ・ラメスといっているやつです」
                                      「あれは手っ取り早くていい。それにごたいそうに飾り立てたホテルのインドネシア料理より味わいが深い」
                                      「その晩飯のテーブルにスハルトノがつきあっていたそうです。スハルトノはクラブハウス・サンドウィッチをかじりながら、熱い紅茶を飲んだ。調べてみると、スハルトノのサンドウィッチと紅茶は沙代のおごりでした。ちょっと、変な感じがしませんか、警視。デンパサールの高級ホテル、タマン・サリのジェネラル・マネジャーが飲食代を客に払ってもらったりして」
                                      「客が払うと言っているので、客の顔をたてたのではないのか。あの女、金持ちだったから」
                                      「それからですね、警視。ホテルのハウスキーピングの従業員の話では、沙代が泊まった部屋はダブルベッドの部屋で、翌日の掃除の時、ベッドやシーツの具合からして、独り寝の様子ではなかったといっております。それと、部屋のミニ・バーからスコッチの小瓶2つとソーダ水が消費され、部屋にはグラスが2つ残っていたそうです。ということは、夜になって、男を密かに招き入れたような気配です」
                                      「どうして男とわかる。女の可能性だってあるだろ」
                                      「私はピーンときましたね。スハルトノは沙代とできていた」
                                      「ワヤン・ブラタ刑事。すごい千里眼だね」
                                      「ヘッヘッヘ……。いずれ真相がわかってくるでしょう。瀬田沙代は14日の午前9時ごろホテルをチェックアウトし、荷物、といってもリュックひとつですが、それを肩にかけて歩いて通りに出で行ったそうです。沙代の行動がわかっているのはそこまでです」
                                      「ごくろうさんでした。では、イ・バグス・マデ刑事の話を聞こうか」
                                      「オジェック乗りのスダルノですが、年齢は26歳。オジェックで小銭を稼ぎ、ビーチをふらついては、バリの青年との一夜にあこがれてやってくる外国女性を捜すのを仕事にしていたようです。この手のビーチボーイは、英語のできるやつはオーストラリア女性、日本語のできるやつは日本女性と守備範囲が決まっている。バリの青年を気取っているが、ジャワやスマトラからの出稼ぎも多い。スダルノを知っているオジェック仲間に聴いてみたのですが、スダルノは日本語が話せなかったと言っていました
                                      「日本の女が足繁くバリにやってくるようになったは90年代になってからです。その日本の女を目指してインドネシア各地から仕事にあぶれた若者がバリに集まるようになった。やって来る女は旅先の快楽を求め、男は女から金を引き出そうとする。クタ周辺にたむろしているビーチボーイと称する男娼に言わせれば、日本の女は簡単におとせるのだそうです。それはそうでしょうなあ。もともとその気でバリの海岸に来ているのだから。ですが、今のところスダルノと瀬田沙代を結ぶ線は何も見つかっていません」
                                      「麻薬の線はどうだった」
                                       警視が聞いた。
                                      「麻薬情報に詳しいクタの情報源に接触したところでは、スダルノが麻薬の密売に関係していたという情報はまったくありませんでした」
                                       ブラタ刑事が答えた。
                                      「そうだろうね。ウブッドに住んで2年にもなる女が、いまさらクタあたりの安手のビーチボーイに用があるはずもなかろう。それに、検視結果では、殺された2人から薬物使用の反応はなかったのだから、麻薬の線をこれ以上追う必要はなかろう」
                                       ライ警視はそう結論した。
                                      「これまでに得た情報をもとに考えると、同じ動機で瀬田沙代とスダルノを殺すことは考えにくい。スダルノ殺しを目撃されて沙代を殺した。沙代殺しを目撃されてスダルノを殺した。この2つだな」
                                      「スダルノを殺したがるようなやつの話はこれまでの聞き込みでは出てこなかった。スダルノをピストルで銃撃するような洒落たやつはクタにはいない」
                                       ブラタ刑事が力を込めた。
                                      警視の部屋の窓からみえるデンパサールの空が夕焼けでほんのりオレンジ色になってきた。よく見ると、2人の刑事とも疲れたなあ、そろそろ家に帰って休みたいなあ、という顔つきをしている。
                                      「今日はこのくらいにしておこう」
                                       グスティ・アグン・ライ警視が言った。
                                       

                                      2018.06.03 Sunday

                                      『ペトルス――謎のガンマン』  第5回

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                                        5月19日朝、バリ駐在領事事務所

                                         

                                         スラバヤ総領事館デンパサール駐在官事務所の久保田尚領事が5月19日朝8時ごろ鷹石里志の自宅に電話してきた。
                                        「おはようございます。領事の久保田です。朝っぱらから、すみません」
                                        世の中には聞くだけで気が滅入る声もあれば、久保田のように、話しかけられた方がすーっと気が軽くなるようなしゃべり方をする人もいる。
                                        「おはようございます」
                                        鷹石も朗らかな口調で応じた。
                                        「ご都合がつけば、9時に駐在官事務所までご足労願えませんでしょうか。実は先ほど倉田伸生さんから電話をいただきましてね。なくなられた瀬田沙代さんのご遺体のことで、9時に事務所におみえになります。ご遺体をそのまま運ぶか、ここで荼毘にふすか、その選択の話になると思います」
                                        「なかなかに辛い選択の時ですね」
                                        「その選択をなさったあと、警察へ行って遺体の引き取りをする手順になるのですが、あいにく私は午前11時から正午まで、バリ州の知事と会見の予定があるため、倉田さんご夫妻に同行できないのです。遺体引き取りの手続きについて、警察の説明をインドネシア語から日本語に翻訳する仕事をお引き受け願えないかと思って電話しました」
                                        「いいですよ。ウダヤナ大学で教えているのは木曜日だけですから。その日以外は遊民です。9時に事務所ですね」

                                         

                                         久保田領事の事務所に倉田夫妻、瀬田誠、和田俊夫があらわれた。
                                        「私はきょう警察で沙代の遺体と対面しますが、そのあと、警察と遺体の引き取りについて打ち合わせすることになるでしょう。沙代を日本に連れ帰るについては、遺体のままで空輸するか、ここで荼毘に付して遺骨を持ち帰るかのどちらかですが、それを決めるにあたって少々お尋ねします。まず、遺体のままで日本へ空輸するにはどんな手続きが必要でしょうか」
                                        瀬田誠が領事に尋ねた。
                                        「まず、死体検案書ですが、デンパサールで沙代さんのご遺体を検視した医師が作成します。この死体検案書は警察で発行してもらえます。念のため4通ほど書いてもらってください。日本国内で死亡届を出す時などに必要になる書類です。警察のインドネシア語の検案書には日本語の翻訳が必要です。駐在官事務所で翻訳します。また、この事務所も遺体証明書を発行します。ご遺体の空輸にともなう通関手続きについての書類なども事務所の方で作成のお手伝いをいたします。また、ご遺体を運ぶ作業は作業に手慣れた当地の業者をご紹介し、空輸の指示についてもお手伝いできると思います。日本へ着いてからのご遺体の受け取りなどについては、瀬田さんと倉田さんの方で、日本側の葬儀社に依頼なさってください」
                                        久保田が答えた。
                                        「荼毘に付すとすれば?」
                                        瀬田がたずねた。
                                        「バリでお亡くなりなった外国人を火葬するための施設がヌサ・ドゥア地区にあります。こちらの方も準備は事務所でお手伝いできます」
                                        久保田がゆっくりと丁重な口調で返事した。
                                        「鷹石さん、昨夜あなたがお帰りになったあと、瀬田誠君とわれわれ3人で遺体を日本に運ぶか、ここで火葬にしたうえで遺骨を持ち帰るか、いろいろ話し合いました。外国で肉親の遺体を荼毘に付すということが、私にはちょっとぞんざいなことに思えて、沙代を遺体のまま日本へ運ぼうと言ったのです。ですが、妻の伊津子が沙代の遺体と沙代への思いをずるずると日本までひきずらないで、このさいバリできっぱりと沙代の遺体とはお別れする方がいいのではないか、と反対意見を出しました。夫である誠君も伊津子の意見に賛成しましたので、昨夜、原則的に当地で荼毘という結論をみました。ところでその外国人火葬施設はどんなところですか」
                                        倉田伸生が久保田と鷹石に尋ねた。
                                        「バリでなくなった旅行者やバリに長期間滞在していた外国人が当地で死んだ場合、家族の希望に応じて遺体を火葬する施設です。国際火葬場ともヤサ・マンダラともよばれています。バリのヒンドゥー教徒の火葬は通常、屋外で行います。かつてバリに存在したさまざまな王家の末裔などの有力者の火葬となると、火葬の1ヵ月もまえから、準備や前触れの催しが始まり、大そうなお金をかけた行事になります。インドネシア中や、遠く外国からも火葬を見ようと大勢の見物人が集まってきます。ヒンドゥー教徒にとっては、死というのは魂の問題であって、もはや魂が帰ってくることがなくなった肉体は不用のものであり、すみやかに自然に返すべきものなのです。
                                        「われわれ日本人にとっては、葬儀は厳粛なもので、そしてしめやかに行われなければなりません。それが死者に対するわれわれの敬意なのです。バリのヒンドゥー教徒が着飾って賑々しくお祭り騒ぎのうちに火葬をおこなうのは、それもまた死者の魂への敬意の表明であるからです。彼らはそう理解しています。バリのヒンドゥー教徒は、火葬は屋外で行うものだと信じています。私は学生のころ、インドのすべてのヒンドゥー教徒が人生の最後をそこで迎えたいと願っているベナレスを訪れたことがあります。ボートに乗ってガンジス川から岸辺をながめると、川岸のあちこちに薪を積み上げて野焼き方式で火葬をする煙がのぼっているのが見えました。薪で遺体を焼いて遺骨をガンジス川に流すのが最上の葬儀だと彼らは考えています。ベナレス市当局も現代式の火葬炉を備えた施設をつくっていますが、狭い炉の中で遺体を焼くことを嫌っているのか、いっこうに屋外での火葬が減らないそうです」
                                        久保田が説明した。
                                        「去年のことです。ヤサ・マンダラで、バリのある王家の末裔の高名な医師がオランダ生まれの妻の葬儀をおこなって、ちょっとした議論になったことがありました。そのような安直な葬儀は、華麗にして豪華なバリの王宮の文化的伝統から外れたものである、と批判の声があがりました。バリの有力者の大がかりな葬儀にはそれなりの支出がともないます。したがって地域に相当の金が落ちるわけで、一種の富の再配分の役割も果たしてきたわけです。
                                        「日本流にいえば喪主にあたるその医師は、実務的かつ効率的な葬儀を行っただけのことだ、と説明しました。妻は遺言で簡素な葬儀を望んでいた。バリ・ヒンドゥーのさまざまな約束事を切り捨てた葬儀でしたが、葬儀にはパンデタの称号を持つヒンドゥーの高僧を招いて立ち会ってもらったそうです」
                                        久保田が補足した。
                                        「国際火葬場でお骨にしていただきましょうよ。沙代の半分はあの子が好きだったバリに残し、半分を私たちが日本に連れ帰りましょう」
                                        倉田伊津子がきっぱりとした口調で言った。
                                        「お話のその王家の末裔のお医者さまが、奥さまの火葬の時にヒンドゥーの高僧をおよびになられたように、沙代のためにどなたか仏教のお坊さまかキリスト教の牧師さまか神父さまに導師をお願いしたところだけど、ここでは無理よね」
                                        伊津子が伸生と誠に言った。
                                        「仏教の高僧ならここにいらっしゃいますよ」
                                        領事の久保田がいたずらっぽい目で言った。
                                        「デンパサールに仏教のお坊さんがいらっしゃるのですか」
                                        瀬田誠が問い返した。
                                        「そうです、いま私たちの目の前にいらっしゃいます」
                                        久保田の目が鷹石里志を指していた。
                                        「鷹石さん、お坊さんでいらっしゃる?」
                                        瀬田誠が言った。
                                        「いやいや、これはどうも……。わたしはお寺に生まれました。大学卒業後、寺を継げと言われて、坊さんの修行をして、寺に帰って副住職をつとめましたが、一年ともちませんでした。結局、大学院に入って教師になってしまいました。寺は弟がつぎました。落第坊主です」
                                        「ご謙遜を。米国の大学で哲学博士の学位を取得された学僧でいらっしゃる」
                                        久保田がダメをおした。
                                        「鷹石さん、沙代のために是非お願いします」
                                        伊津子が懇願した。
                                        「わかりました。倉田家のご宗旨は?」
                                        「臨済です」
                                        「そうですか。偶然ですね。私も短い間ですが臨済の僧でした。日程が決まりましたらヌサ・ドゥアにご一緒して『大悲心陀羅尼』を唱えさせていただきましょう。葬式の時の定番のお経で、私が覚えている数少ないお経です」
                                         話が決まったので、久保田がグスティ・アグン・ライ警視と電話連絡を取り、これから直ぐ会ってもいいとの了解を取り付けた。倉石夫妻と和田は借り上げたホテルのリムジンで、瀬田誠は鷹石の車に同乗してバリ州警察本部へ向かった。
                                        瀬田誠が遺体になってコンテナの中に横たわる沙代と対面した。瀬田は亡骸となった妻をみて、ううっと嗚咽のような小さい声を漏らした。誠の嗚咽に誘われて伊津子の目に涙があふれた。さよ、さようなら、と伸生が言った。和田が家族を見守るようにちょっと離れたところに立っていた。
                                         警察本部の応接室に戻り、瀬田誠が警視に、沙代の遺体をバリでの荼毘に付すためや、日本で死亡届など出すために必要な警察関係の書類の用意を依頼した。
                                        「必要書類はすでに用意しています。本日の午後以降いつでも、そちらのご都合のよいときに遺体の引き取りにおいでください。そのとき、必要書類と警察が保管している遺品をお渡しします。それから瀬田さん。沙代さんに関する書類や遺品は、夫であるあなたあてに発行し、あるいはお返しすることになります。書類作成にあたっての確認のためにパスポートを拝借できますか」
                                         ライ警視は瀬田からパスポートを受け取り、ひかえていた刑事に渡した。刑事はそれを持って部屋から出て行った。
                                        まもなく、瀬田にパスポートが返され、
                                        「もっと楽しいことでバリにおいでくださったのであればほんとうによかったのですが。あらためて、被害者のご家族のみなさまにお悔やみを申し上げます。バリ警察は総力を挙げて犯人を追っています。解決までにいま少しの時間をください。かならずや犯人をとらえ、事件を解決してみせます」
                                         警視が丁重にして堂々たる挨拶をした。

                                         ヌサ・ドゥアの国際火葬場・ヤサ・マンダラが久保田の手配で、20日の午後1時から使えることになった。葬儀には瀬田誠、倉田夫妻、和田俊夫、久保田尚、鷹石里志が集まった。それにグスティ・アグン・ライ警視が警察本部長と一緒に加わった。鷹石はいたずら半分の雲水気分でバリに持ってきていた、夏用の麻の墨染めの衣を着て現れた。

                                           なむからたんのーとらやーやー
                                           南無喝囉怛那 哆羅夜耶
                                           なむおりやー ぼりょきちーしふらやー
                                           南無阿唎耶 婆盧羯帝爍鉗囉耶
                                           ふじさとぼやーもこさとぼやー
                                           菩提薩埵婆耶 摩訶薩埵婆耶
                                           もこきゃるにきゃやー …………
                                           摩訶迦盧尼迦耶 …………

                                         火葬炉の前で、鷹石が『大悲心陀羅尼』をゆっくりと唱え始めた。
                                         やがて、炉のスイッチが入れられた。ボッと低い音を立てて炉の中に炎が充満する気配を皆が感じた。みんな頭を垂れた。あふれ出た伊津子の涙がぽたりと床に落ちた。
                                         倉石伸生と瀬田誠が精進落しにといって、20日の夕食にさそったが、警視と久保田はスハルト政権が倒れるかどうか、いまやインドネシア情勢は正念場に来ているので、残念ながらと辞退した。
                                        「紗代のことで外交官本来のお仕事に支障が出たのではないでしょうか」
                                        倉田伸生が言った。
                                        「邦人保護は領事の主要任務です」
                                        久保田が答えた。
                                         鷹石だけが述べ送りに立ち会った僧侶の儀礼として精進落としにつきあった。亡くなった人をこの世からあの世へやすらかに送りだすのが僧侶の唱えるお経であり、この世に残された方の人の気持ちが安らかになるよう手だすけするのもまた僧のしごとだ。

                                         バリ・ハイアットの庭園でガムラン演奏つきのディーナーをやっているので席を予約していると瀬田誠が言った。娘の面影をしのぶには、この夜のガムランの演奏は客が埋まらないテーブルが目立ち、金属打楽器の音がとがりすぎたな、と鷹石は遺族の気持ちを思いやり、気の毒に思った。
                                         沙代は子どものころバイオリンの繊細な音がお気に入りで、バイオリンを習っていたが、いつまでたっても子どものころ聞いたようなデリケートでニュアンスにとんだ音を自分のバイオリンでつくりだすことができず、そのうちバイオリンを習うのをやめてしまった。激しいガムランの音にひきこまれた心のうちを沙代から直接聞いてみたかった。そうすれば今聞いている金属製の音に、モーツアルトおとらない優しさが聞き取れたかもしれない。倉田伊津子はだれにともなくそんな感想を述べた。
                                        こうして5月20日が終わった。

                                         

                                         



                                         明けて1998年5月21日はキリスト昇天祭でインドネシアの祝日だった。同時にこの日はインドネシア人にとってはもちろん、インドネシア在住の外国人にとっても忘れられない日となった。
                                         午前9時、スハルト大統領はテレビカメラの前で大統領を辞任すると発表した。地元インドネシアのテレビはもちろん、BBC、CNN、NHKなどもこの大ニュースを流した。倉田夫妻はホテルの部屋にいてNHKのチャンネルでこのニュースをみた。
                                        ロビーへ降りると、ジャカルタから避難してきている日本人たちが寄り集まってがやがやと情報を交換しあっていた。
                                        「スハルトが大統領を辞任するなど信じられない。テレビを見て本当にびっくりしました」
                                        バティックのシャツを着た50がらみの頭髪の薄い男が言った。
                                        「私もそうです。国軍ににらみをきかせていたはずだから、最後は軍を動かして危機を乗り切ると思っていましたよ」
                                        30過ぎのポロシャツを着た男性が同意した。
                                        「私は航空券がとれて19日にジャカルタからバリへ来たのですが、18日のジャカルタは革命前夜のような雰囲気がただよっていましたよ。朝から学生たちが続々と国会に集結し始めましてね。そうこうするうちに、国会議長のハルモコがシャルワン・ハミド国会副議長と会ったというニュースが流れた。あれは、午後3時過ぎでしたか、ハルモコ国会議長がハミド副議長と共同で、スハルト大統領に辞任を呼びかける声明を発表しました。ハルモコといえば、長らくにわたるスハルトの腰巾着で、スハルトに『ノー』と言ったことのない男でしたからね。くわえて、副議長のシャルワン・ハミドは国軍から議会に送り込まれた議員たちで構成する国軍会派の代表でしょ。スハルトにしてみれば、飼い犬に吠えかかられたような気分だったことでしょうよ。高齢のスハルトはこれで気力を奪われてしまったのではないですか」
                                        40がらみの口ひげの男がいっぱしの政治分析をしてみせた。
                                         飼い犬に吠えられて退陣を迫られる老いた支配者の屈辱感は倉田伸生には痛いほど理解できた。いずれ自分のところにもその順番が回ってくるだろう。専務をやっている長男が全権をおれに譲れと老いた父親に引退を求めるかも知れない。油断していると、外部資本が社内の反体制派を抱き込んでクーデターを起こすかも知れない。倉田伸生が娘の沙代のことでバリに来た17日には、スハルトは内閣改造で危機を乗り切れると考えていた。それがほんの4、5日でこの様変わりだ。きのうまでスハルトの前でもみ手をしていた連中が、いっせいに背を向けた。突然、娘を失ってしまった倉田には、さだめなき世の寂寞が身にしみるのだった。
                                        「そうですわね。私、きのうの夜、ジャカルタで仲良くしているインドネシア人の奥さんに電話を入れてみたんです。その奥さんの話だと、国会構内には学生を中心に3万を超える人が集まった。この学生たちを支援しようと、ジャカルタ市民が立ち上がったそうです。女性たちがボランティアでグループを作り、学生たちのもとへ食事を届けた。その奥さんも国会占拠学生の支援活動に加わって弁当を運んだと誇らしく話していました。国会構内には市民がさまざまな支援の物資を運び込んでいたそうです。移動トイレ。無料の洗濯サービス。マッサージのサービス。ロックバンドの慰問。ついには移動郵便局まで設置されたそうですよ」
                                         日本人たちの会話には、これで政治危機は終った。まもなく、ジャカルタに帰って、引き続き日本では住めないような邸宅で、大勢の使用人を使う以前の大名暮らしに戻れる、という安堵感がただよっていた。

                                         

                                         鷹石も自宅でスハルト辞任のテレビ中継を見ていた。この日、テレビはスハルトの辞任演説を繰り返しくりかえし1日中放送した。テレビは淡々と辞任を表明するスハルトの姿を映していた。
                                         スハルトは政治改革委員会の設置と内閣改造で政治の刷新を図ろうとしたが受け入れてもらえなかった、と辞任声明の原稿を読み上げた。
                                        「そこで、1945年憲法第8条の規定と、国会の見解について真剣に考慮したすえ、1998年5月21日木曜日をもって、私はインドネシア共和国大統領を辞任することにした」
                                         ここでテレビの前にいたお手伝いのスチが歓声をあげた。
                                        「憲法第8条の規定にしたがって、ブハルッディン・ハビビ副大統領が2003年までの私の残る任期を大統領として引き継ぐ」
                                         このくだりではスチの歓声はなかった。
                                        「私の大統領任期中に寄せられた国民の支持・支援に感謝するとともに、私の側にいたらぬところや過ちがあったことをお詫びする」
                                         スハルトのお詫びはジャワ人の儀礼としてのレトリックであって、それ以上の意味はなかった。ホー・チ・ミン大統領が路上のベトナム人に「食事はすみましたか」と言うのを聞いた西洋人が、ホー・チ・ミンは国民の食生活にまで思いをいたしているのだ、と感心したという伝聞があったが、実は、「飯くったか」がベトナム人にとっては単なる日常の挨拶に過ぎなかったのと同じである。
                                        スハルトの時代はこれで終りか――スハルトの30年余りを観察してきた鷹石には感慨深いものがあった。1960年代後半、スカルノから権力を奪ってしばらくの間、スハルトは慎重で、柔軟で、笑顔を絶やさない配慮の人だった。1970年代に入って、その権力基盤が固まるにつれて、スハルトはスカルノ打倒のために彼に手を貸した政党人、知識人や学生を遠ざけて、ひたすら軍の力を利用するようになった。1974年の田中角栄首相のジャカルタ訪問の時は、学生から激しいデモをかけられた。学生のスハルトへの挑戦であり、一方で、スハルト政権内部の権力闘争の反映でもあった。
                                         1980年代には、スハルトは政権にとって最大の脅威であるイスラム教徒を封じ込めた。そのあとスハルトは軍の有能な若手を大統領補佐官に引き抜いて薫陶し、そのあとで彼らを軍の中枢に送り返した。スハルトはインドネシア国軍を半ば私兵化したのだ。さらに、スハルトは自分に続く政権ナンバー2を次々と取り替え、切り捨てた。おとなしい放送メディアと違って、口うるさい新聞を発禁処分で脅し続けた。最後には、野党まで金を使って抱き込んだ。こうしてスハルトの個人支配体制が確立したのだが、同時に、スハルトの長期支配体制は疲労の兆候を見せ始めた。
                                         スハルトによる軍の私兵化は一部の将軍たちから批判を招き、彼らのスハルト離れが進んだ。そして誰の目にも余るスハルトと家族、スハルト・クローニーによる富の独占が反発を招いた。
                                         そうして、スハルトの破局は思いがけないところから始まった。1997年にタイではじまったアジア通貨危機である。IMがインドネシアに融資の条件として財政構造改革を求めた。燃料補助金のカットだ。ガソリンなど燃料費が上がり、交通料金をはじめとする公共料金の値上げにつながった。
                                         スハルトが大統領代行から正式な大統領に就任した1968年ごろ、スハルトはガソリン1リットルの値段を四ルピアから16ルピアに引きあげる決定をしたことがあった。側近の補佐官は「値上げを決定すれば、国民は暴動を起こし、政府はつぶれる」と反対した。

                                        「当時、国民は1リットル入りのお茶のボトル1本に25ルピアを払っていた。ガソリン1リットル16ルピアで問題が起きるとは考えられないと判断した。そして、なにごとも起きなかった」とスハルトは自伝に書いていた。
                                         1998年のIMFの要請にしたがったガソリン・灯油の補助金カットにともなう値上げは、政権崩壊へとつながった。スハルトの政治センスは鈍り、周囲が見えなくなっていた。

                                         

                                         久保田尚は休日だったがデンパサール駐在官事務所の執務室にいた。アメリカ合衆国はインドネシア沖に海軍艦艇を遊弋させていた。万一の場合の合衆国市民のインドネシア脱出に備えた動きと説明していたが、インドネシアに無言の圧力をかけるための動きでもあった。日本もシンガポール政府の了解を得て、日本人のインドネシア脱出に備えて自衛隊の輸送機をシンガポール空軍基地に待機させた。
                                         14日のジャカルタのトリサクティ大学生射殺事件以降、インドネシアから脱出する外国人が増えた。外務省もそれまでのインドネシアに適用していた海外危険情報の危険度3を17日には危険度4に引き揚げて「家族等退避勧告」を出した。オランダ植民地支配に対する住民蜂起記念日である5月20日の「国民覚醒の日」には、反スハルト勢力が100万人デモを計画していた。日本に一時帰国したり、シンガポールに避難したりする人が増えた。インドネシア国内で比較的平穏なバリに退避する日本人も多かった。デンパサール駐在官としては避難してきた日本人の安全に配慮する必要があり、そのうえ、瀬田沙代の殺人事件でバリに来た家族への対応が重なって、久保田はインドネシア情勢が一段落へと向かい始めた21日、さすがにいささかの疲労を感じていた。
                                         しかし、スハルトはあっさりと退陣したものだな、と久保田は意外に感じた。1996年に夫人のシティ・ハルティナに先立たれて以来、スハルトの影が薄くなったともっぱら噂されていた。夫人は独裁者スハルトの最大の相談相手で、こんな冗談が語られていた。
                                         シンガポールのリー・クアンユーは首相を退いたのち、世界各国のリーダーを相手に政治コンサルタント役を引き受けていたが、あるとき某国で相当難しい相談をもちかけられた。少々お待ちを。そう言ってからリーはジャカルタのスハルトに電話をしてアドバイスを求めた。話を聞いたスハルトは、ちょっと待ってくれ、ティン(スハルト夫人の愛称)に聞いてみるから、とリーに言った。
                                        夫人を失ったことで、スハルトからカリスマ的な霊力・ワフユが消えてしまったという噂が広がっていた。スハルト大統領のジャカルタ・チェンダナの私邸の屋根の上からワフユがすうーっと夜空に舞い上がってゆくのをみた、と言いふらす人まで出てきた。
                                        冗談はさておき、アメリカのオルブライト国務長官が、事実上スハルト退陣を要求するスピーチをしたことがとどめとなって、スハルトがもはやこれまでと観念したのだろうか。スハルトはスカルノを倒すことでインドネシアの権力を握ったが、スハルト台頭の背後にはアメリカ政府とCIAの後押しがあった。ベトナム戦争に手を焼いていたアメリカはスカルノの左傾化路線を気に病んでいた。インドネシアに社会主義政権ができることを恐れていた。赤道をはさんで東南アジアの北に統一社会主義ベトナム、南に社会主義国家インドネシアができれば、アメリカのアジア政策は大きな打撃をうけることになる。アメリカはスハルトと組んでスカルノをつぶし、インドネシアを親米国家に変えた。
                                         あれから30年余、東南アジアの国際環境が変わり、スハルトはアメリカにとって必須の人ではなくなった。ありていにいえばご用済みの男になってしまった。スハルトはアメリカに拾い上げられ、アメリカに捨てられた。歴史ではしばしば起こることだ。

                                         

                                         グスティ・アグン・ライ警視も州警察本部に出勤していた。彼もまた一つの時代の終りを感じていた。
                                         1955年生まれの警視は初代大統領スカルノの演説を肉声で聴いたことはなかった。だが、彼の父親がよく言っていた。スカルノの演説を聴いているとエモシ(情念)がゆさぶられ、燃えあがってゆく。そのスカルノは、性力は政力であると信じていたような女好きで、くわえて国の金を惜しげもなく使った。スカルノにとって代わったスハルトも、ともに専制的な手法の政治指導者だった。スカルノは国庫の金を私事で消費した。スハルトは国庫に入るべき金を私物化し、財産形成に励んだ。
                                        政治指導者が国の富の一部を自分の懐に入れるのは、役得として認めてやってもいい。それにスハルトはスカルノ時代に傾いていたインドネシアの経済を、アメリカや日本の手助けで復興させた。スハルト時代にインドネシア人の生活水準はずいぶんと向上した。その成功報酬として、国家の金を少々くすねる程度なら文句は言わない。だが、スハルトがくすねた金額は見すごすにはいかにも膨大にすぎた。それにスハルトがインドネシアの指導者だったからこそインドネシアはここまでこられたのか、スハルトでもここまでこられたのだから、スハルト以外の有能で清廉な指導者だったら、もっとインドネシアは成功していたのか。これは重要な問題提起だが、これに答えるすべはない。
                                         インドネシアの前途はこれから多難だろうが、まあ、何とかなるだろう。では、あらためて瀬田沙代とスダルノの殺しの捜査に専念するか。
                                        「さて」
                                        と声を出して、警視は自分を鼓舞した。

                                         倉田夫妻、瀬田誠と和田の4人は成田行きの座席が確保できて、スハルト辞任の翌日の5月22日の夜、沙代の遺骨を抱いてデンパサールを飛び立った。鷹石と久保田は4人を空港まで見送った。
                                        「日本で葬儀その他が一段落したら、沙代のウブッドの家や、使用人の退職金など、沙代の暮らしの後始末のために、私が舞い戻ってまいります。そのときはまた、よろしくお願いします」
                                        瀬田誠が深々と頭を下げた。
                                        「久保田さん、お世話になりました。鷹石さん、あなたがいてくださって本当に助かりました」
                                        倉田伸生が妻の伊津子ともども、こちらもまた深々とお辞儀をした。

                                         

                                           (続きは6月10日の日曜日)

                                         

                                         

                                         

                                        2018.05.27 Sunday

                                        『ペトルス―‐謎のガンマン』  第4回

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                                          5月18日夜、サヌール・ビーチのホテル


                                           「インドネシアの人口はざっと2億人で、その9割がイスラム教徒といわれていますから、世界で最多のイスラム人口をかかえる国家です。ですが、1945年の独立宣言以来、インドネシアは宗教国家になることを断固として拒否し、世俗国家を貫いている面白い国でもあります。ここのムスリムには2つのタイプがあります。1つはサントリとよばれるタイプです。白い衣装をまとったオーソドックスにして教義に忠実なイスラム教徒というイメージで語られます。いま1つが名目上はイスラム教徒ですが、イスラム教到来以前の土着信仰や仏教、ヒンドゥー教の影響をとどめているアバガン。アバンとはジャワ語で茶色味を帯びた赤い色という意味で、アバガンはそういう人たちという意味になります。インドネシアを見ていて興味深いのはこのサントリ的なものとアバガン的なものの文化的な影響力でして、きわめて大雑把にいうと、サントリ文化のグループは政治的には近代主義、文化的には個人主義、イスラム教については教条的な傾向が見られます。アバガン文化のグループは政治的には伝統主義、文化的には集団主義、イスラム教については教条的なところを嫌う傾向があります。このサントリーアバガンという考え方はインドネシア社会の亀裂線を説明するには便利ですが、きちんと説明しきれないところもあります。たとえば初代大統領だったスカルノの支持母体の1つであったインドネシア共産党の基盤はジャワのアバガンでした。インドネシア共産党に対抗したのがサントリ系の人々でした。インドネシアにおける白と赤の区分は日本の源氏と平氏、小学校の運動会よりは少しばかり複雑です。神式、仏式で人生の諸行事をこなし、ついでにクリスマスも祝うわれわれ名目仏教徒である日本人もそうとうにアバガン的ですが、日本における神道的なもの、白い衣装の神職に代表される日本のサントリの政治面での影響力には無視できないところがあります。

                                           「こうしたインドネシアにあって、バリ島だけがヒンドゥー教徒の島です。初代大統領のスカルノの母親はバリの人でした。スカルノはウブッドの北隣のタンパクシリンに大統領別邸を持っていて、バリにはよく休養に来たそうです。いまやスハルト批判勢力がアイドルとしてかつぎあげているスカルノの娘メガワティ・スカルノプトゥリはバリ人の血をひいているということで、バリで人気が高いのです」
                                           5月18日の夜、鷹石里志は倉田伸生夫妻を相手にバリ案内の入門編を語るはめになってしまった。

                                           瀬田沙代が住んでいたプリアタン村の家で、倉田夫妻は弔問に来た沙代の友人たちと30分ほど語らった。ウブッドのプリアタン村を出発してサヌール・ビーチのホテルへ帰るとき、倉田伸生が鷹石にぜひともお願いしたことがあると言った。
                                           「沙代はどうしてバリ島へ来て、ガムランを習う気になったのでしょうか。ニューヨークで芝居の勉強をしたり、パリで絵の修行をしたり、ウィーンで西洋音楽を習うというのであれば、私たちのような門外漢でも、その動機はわかる気がします。ですが、なぜバリで、なぜガムランだったのか。沙代は気まぐれにおぼれて命を落としたのでしょうか。家内も同じことが気にかっていましてね。鷹石さんはずいぶんとバリにご関心を寄せていらっしゃるご様子なので、沙代がバリに惹かれた気持を理解するための参考になるお話をお聞きできないかと思いまして……。厚かましいお願いですが、今夜、私たちにつきあっていただけませんでしょうか」

                                           鷹石は倉田夫妻の気持がわかる気がした。失ってしまった娘の旧居の庭でガムランを通じて紗代と知り合った友だちから、夫妻はありし日の娘のすがたを聞かされた。バリに住み、ウブッドでガムランを習うということが、紗代にとって幸せの日々であった。倉田夫妻はそう信じ、そう納得したいのであろう。そのための一助としてバリやガムランの話が聞きたいのだろう、と鷹石は思った。娘を失った老夫婦の穴の開いた心を修復する手立てになるのなら、お相手を務めるしかないだろう。無下に断れば人情にそむく。
                                          そういうわけで、鷹石は夕方デンパサールの自宅に帰り、マンディー(沐浴)のあと30分ほど休んで、午後8時にバリ・ハイアットに現れた。その少し前に、瀬田沙代の夫である瀬田誠がメキシコから到着し、バリ・ハイアットにチェックインしていた。
                                          鷹石は夫である瀬田誠にお悔やみを言った。
                                           瀬田誠は、
                                          「どうも……突然のことで、私もまだこの現実が信じられません」
                                          と短く言った。
                                          瀬田はほっそりした長身で、引き締まった顔はよく日焼けしていた。きりっと結んだ薄い唇は意志の強さをあらわすと同時に、思わぬ不幸に負けまいとする必死の踏ん張りも感じさせ。
                                           倉田夫妻、瀬田誠、和田の4人を相手に鷹石はバリ案内の講釈を続けた。
                                           「ヒンドゥー教がバリに伝来したのは紀元9世紀ごろだといわれています。イスラム教到来以前に、ジャワ島にはヒンドゥー教や仏教がすでに伝えられていました。ジャワ島中部のボロブドゥールは仏教遺跡です。そこからさほど遠くないプランバナンにはヒンドゥー教の遺跡群があります。11世紀ごろからバリはジャワのヒンドゥー王国と関係を深め、後にはジャワのヒンドゥー王国によって征服されました。その後、ジャワはイスラム化した王国が支配するようになり、ジャワ・ヒンドゥーの文化の担い手だったヒンドゥー僧や文化人が、イスラム勢力に追われてヒンドゥーの島バリに逃げ出してきたのです。したがって、バリのヒンドゥー文化をたどってゆけば、かつてのジャワのヒンドゥー文化の形がおぼろげながら見えてくる可能性があります。まあ、このあたりの興味は学者の領域ですが……。一般人にとっての興味は、イスラム化した後のジャワの文化や、ジャワを植民地にしたオランダに代表される西洋文化から切り離されて、バリ島で独自の進化をとげた『ヒンドゥー・バリの文化』がつくりだしたこの島の人々の暮らしでしょう。
                                           「バリ島は言ってみれば西洋文明の影響下で育った今の日本人にとっては、1930年代にバリにやってきた大勢の西洋人がおもしろがったのとおなじ、大人のワンダーランドです。バリ人はヒンドゥー教の教義については、その理論の深化のための努力をしませんでした。ですが、ヒンドゥー教到来以前からバリにあった土着の宗教的行為、つまり呪術、祖霊崇拝といったものを、バリ人はヒンドゥーの儀礼に取り込みました。ヒンドゥーの祭礼とそれにともなう供物づくり、行列、浄めの儀式、祭礼を盛り上げるガムラン音楽やバリ舞踊。そうした複雑な儀礼の網の目を読み解いてゆくと、そこに見えてくるものがあります。昼間ちょっとだけお話した聖なる方位としての山側、不浄の方位の海側といった対立概念、今日の午後バリへ行く途中で通りがかったバトゥブランという村で見た神と悪霊の石像といったものになって表されるのです。
                                           「善なる神と悪なる神の永遠に決着のつかない戦いの場がこの世界である――これがバリ人の世界観だ、という説を大勢の学者が語りますが、そういう言い方がとりもなおさず、一般大衆のバリへの興味を増幅させるのです」
                                          バーのテーブル席で倉石夫妻ら4人はまじめに鷹石の説明を聞いた。
                                           「日本いえば岩手県の遠野のようなところなのでしょうか」
                                          倉石伊津子が尋ねた。
                                           「ええ。優しくて美しい風景と、光の加減でふとその風景の中に感じる薄気味の悪さ。熱帯の昼間の明るさと目のくらむようなまばゆい色彩。そして一転、日没後の闇の深さ。ウブッドの王宮で定期的に観光客のためにバリ舞踊を上演していますが、あれは大勢の人といっしょに見ているから怖くないのであって、もしたった一人で悪霊ランダだの、善霊バロンだのを見ていると想像したら、あんなおっかない見せ物はないです。いまにもウブッドの深い森の奥の闇に連れていかれそうな恐怖感におそわれます。
                                          「オランダがバリ島全体を最終的にオランダ領東インドに加えたのは20世紀の初めです。1930年代になると、西洋文明に汚されていない高度に洗練された独自の文化を持つ島として、欧米から芸術家や学者が大挙してやってくるようになりました。画家で音楽家でもあったドイツ人のヴァルター・シュピースという人が、このころのバリの欧米文化人グループのリーダー的存在でした。メキシコの画家ミゲル・コバルビアス、米国のマーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンの人類学者夫妻がシュピースの周辺にいました。彼ら欧米の芸術家や学者に評価され、紹介されたことがきっかけで、ガムランや、レゴン、ケチャといったダンスが再生され、創造されたのです。
                                          「先の第2次大戦の際は、バリは日本軍に占領されましたが、日本軍は『ビンタ』や『カシラミギ』など、程度の低いことばを残したにすぎませんでした。昨今のバリは、1930年代に欧米の芸術家たちの目に映った『不思議の島』あるいは『夢の島』のイメージを、現代のインドネシアが観光収入をめあてに、国策として人為的に再現しているものだとみなす人たちもいます。
                                           「このホテルが建っているサヌール・ビーチは、かつては悪霊が出没する海岸といわれていました。バリの人はここに近づくのを恐れていたそうです。1960年代に日本の戦後賠償でサヌール・ビーチにグランド・バリ・ビーチ・ホテルという大型の豪華ホテルが建てられました。その後、現在のサヌール・ビーチ・ホテルや、このバリ・ハイアット・ホテルがあいついで建築され、サヌールの海岸は悪霊のすみかから一転して、インドネシア財政のドル箱になったのです。
                                           「瀬田沙代さんがウブッドでガムランを習おうとされた動機については、私には分かりませんが、私がいま申し上げたバリ観光の手練手管で呼び寄せられたわけではなく、ガムランの響きに心底魅せられたからだと思いますよ。そうでないと、プリアタンの山の中で2年間も暮らせるわけがないですから。沙代さんが見たいと思ったバリの風景が、聞きたいと思ったバリの音が、1930代の欧米の芸術家たちが感銘を受けたものと同じなのか、それとも、沙代さんは彼らとはもっと違ったバリを発見しようとなさったのか、こればかりはご本人に聞くしかないのですが、いまではそれは不可能になりました」
                                          鷹石はテーブルのビールで喉をうるおした。
                                           「私たちは沙代がやろうとしたことにあまり関心を示さなかった。沙代が死んで初めてあの子が何をしたがっていたのかについて、本気で考える気になった。皮肉なことですね」
                                           倉田伸生がしんみりと言った。
                                           「沙代がバリに遊びにきたら、と言ってくれたことがあったのです。あのとき、バリに来て、あの子がバリで何を考え、何をしようとしていたのか、聞いておけばよかった」
                                           倉田伊津子が潤んだ声で言った。
                                          「ジャカルタで暮らしてきたころ仕事で関係のあった会社からワヤンをやるからと招待されたことがありました。鷹石さん、インドネシアではお祝いごとにワヤンをやりますよね。沙代とふたりで行ったのですが、沙代は生のガムランの音にたいそう興味をもった様子でした。その後、ふたりしてジョグジャカルタへ出かけたことがあります。チェックインしたホテルのロビーで静かなガムランがかなでられていました。ジャワ風に髪を結い、バティックの衣装を着た女性の歌手、プシンデンとかいいましたね、その人が透明な声で不思議な音調の歌を歌っていました。戸外の暑気から逃れてホテルの空調で火照ったからだが冷される快感と相まって、心地よい響きでした。沙代はしばらくロビーの椅子に座ってガムランに聞きほれていました。それを機に沙代はバリのガムランに惹かれ、この島に通うようになりました。ジャカルタは暑苦しいだけで人間的な楽しみの少ない街です。ジャカルタの暮らしに飽き飽きしてきた沙代がガムランに強く惹かれたのは理解できます。バリに住みついて、ガムランの没頭したのも、心底あの音が心地よかったせいでしょう。あるいは、沙代は何かを忘れようとしてガムランを追求したのか。人間、どんなに幸せなときだって、ふとむなしさを感じる瞬間がある。男がそうした心の隙間を埋めるためにがむしゃらに仕事に逃げ込むように、沙代もふと感じたむなしさを忘れるために、ガムランに没頭していたのではないだろうかと、私は自分の心の迷いを沙代が死んでしまったいまになって感じています」
                                           瀬田誠が誰にともなく言った。どこか瀬田誠と沙代の関係に隠れた断層が走っていたことを示唆するようなことばであった。だが、これについては、倉田夫妻は別段の感想を口にしなかった。鷹石も瀬田夫妻の私的領域に踏み込む気にはなれなかった。夫婦の断層については、鷹石は痛いほどよく知っていた。
                                           「ところで、鷹石さんご自身は何を求めてバリにお住まいなのですか」
                                           瀬田誠が鷹石に尋ねた。
                                          「わたしもまた、おっしゃるような心の隙間を埋めようとして、隠居場所、ひょっとしたら死に場所としてバリを選んだのかもしれません」

                                           

                                           

                                          (この続きは6月3日の日曜日)

                                           

                                          2018.05.19 Saturday

                                          『ペトルス――謎のガンマン』  第3回

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                                            5月18日午後、ウブッド郡プリアタン村


                                             バリ島の中央部には標高2000メートルほどの火山脈が東西に走っている。最高峰は東の端に位置する火山グヌン・アグンで標高3000メートルちょっと。最近では1963年に大噴火をしている。そのときは1500人を超える人が死んだ。
                                             島の中央部に山塊があるので、島の東西南北は山裾になっている。この山の斜面を伝って無数の川が海に向かって流れ下っている。川は長い時間をかけて山肌を削り、深い渓谷を形づくった。これらの渓谷を熱帯の稠密な森が覆い隠している。
                                            こうした地形なのでバリの山麓から山腹にかけては、海側から山側へ、山側から海側への縦の移動の道路は何本もあるが、横に移動する道路は少ない。渓谷にかかる橋が少ないからだ。多くの場合、山腹のある地点から山腹の別の地点に移動するには、一度平地まで降りてきて、そこで橋を渡って横に移動し、しかる後に再び山道を登っていくしかない。
                                             バリ島の南斜面には豊かな農地が広がっている。ウブッドはこの南側斜面西寄りにある地域だ。広義のウブッドは行政的にはバリ州ギアニャール県ウブッド郡のことをいい、狭義にはウブッド郡ウブッド村をさす。デンパサールの街からは田舎道を――田舎道だから当然ゆっくり走らざるをえない――車でのんびり走って一時間弱の距離だ。
                                             午後1時。風が緑の葉をゆらす木陰か、冷房を効かせたオフィスでバリコーヒーでもすすって暑さを避けたい時間帯に、イダ・バグス・ライ警視の一行はデンパサールのW・R・スプラトマン通りの州警察本部からウブッドに向かって出発した。警視と部下の刑事が一人、それに鷹石が乗った捜査車両が先導し、そのあとを倉田夫妻と和田を乗せたリムジンが追った。午前中に体調を崩した倉田伊津子は、ホテルで2時間ほど休んだおかげでだいぶ回復したので、娘の沙代が暮らしていた家をどうしても見ておきたいと、ウブッドに行くことをのぞんだ。
                                             バリ・ヒンドゥーの神々や悪霊を砂岩に彫った石像製作で有名な村・バトゥブランは、ちょうどデンパサールとウブッドの中間にある。道路端の工房の前に、石像がところせましと並べられている。倉田伊津子の体調を心配した警視はこの村で車を止め、リムジンの倉田夫妻に、
                                            「少し休みますか、それともこのままウブッドに直行しますか」
                                            と声をかけた。
                                            「あとどのくらいでウブッドですか」
                                            倉田伊津子がたずねた。
                                            「20分ほどです」
                                            「では、直行していただけますか」

                                            2台の車はウブッドの中心で、いつもならにぎやかなはずのウブッド郡ウブッド村のジャラン・ラヤ・ウブッド(ウブッド大通り)を抜け、アンドン大通りとの交差点を右折して、プリアタン大通りに入った。このあたりからはウブッド郡プリアタン村でウブッド村とは別のデサ・アダット(慣習村)なのだが、外国人観光客はもとより、同じインドネシア人でもバリ島以外から来た人は、ウブッド村とプリアタン村の区分などにはなんの関心も示さない。ウブッド郡の中はすべてウブッド村でまにあわせている。
                                             プリアタン大通りに入ってまもなく、警視の車は左折して、緑の生い茂った細い道を奥へ入っていった。50メートルほど入ったところに、数軒の住宅が間隔をおいて並んでいた。それらの住宅は煉瓦造りの赤い塀に取り囲まれてひっそりとたっていた。
                                            自動車が止まる音を聞きつけて、手前から2番目の家から制服の警官が出てきて、警視に敬礼をした。瀬田沙代の殺人事件発生から彼女の住宅を警備してきたウブッド署の警官だった。
                                            「こちらのお2人が被害者の瀬田沙代さんのご両親だ。倉田伸生さん、倉田伊津子さんだ」
                                            警視が警官に説明した。警官はきまじめな表情で、倉田夫妻にも敬礼した。お辞儀で答礼する倉田夫妻に、警官が情のこもった口調でお悔やみをいった。
                                            「お悔やみ申しあげます。ウブッドの通りで何度がお見かけしたことがあります。日本からガムランの勉強にこられたご婦人ということで、このあたりでは有名人でした。最近はガムランもずいぶん上達されたと聞き及んでいました。残念なことになってしまいました」
                                             瀬田沙代が借家して住んでいた家は、現在はジャカルタで仕事をしている土地の有力者の持ち家だ。広々としていて邸宅とよぶ方があたっている感じだった。
                                            「道路に面した門にはバリにふさわしいチャンディ・ブンタル(割れ門)があり、ここを入ると敷地の最初の区画の両側に、四本の柱の上に屋根を載せただけの風通しのよい開放的な舞台のような建物があります。通常、人が集まって話し合いをしたたり、踊やガムランの練習に使われます。それからさらに今ひとつの壁が屋敷の敷地を仕切り、奥に通じるコリ・アグン(中門)がつくられています。コリ・アグンを抜けるとそこは第2の敷地で、居住区になっています。バリの伝統的な住宅のつくりかたです」
                                             鷹石が歩きながら倉田夫妻に屋敷の構造を説明した。中門を入ると30代の男女が2人たって挨拶した。
                                            「この家で働いているイ・ワヤン・サントソとニ・ニョマン・カデです」
                                            警察官が二人を紹介した。2人は両手を合わせてみんなに挨拶した。
                                            「敷地の一番奥の左手が祀堂、その隣は沙代さんが寝室に使っていた建物、手前が儀式を行う部屋のある建物で来客用に使っていました。続いて、わたしたちが住んでいる家、その向かいが台所です」
                                            ワヤン・サントソが説明した。それぞれが独立家屋になっていた。
                                             バリ人の住宅の構成はバリ・ヒンドゥーのコスモロジー(宇宙観)の表象である。聖なる山グヌン・アグンの方角がカジャ(山側)で聖なる方角となり、バリ人の屋敷内の建物の配置でも山側に祭祀の施設や主人の寝室がおかれる。海の方角はクロッドで、こちらは不浄の方位とされている。台所はこちらの方角におかれる。
                                             伝統的なバリ人の住宅では、寝室は眠るだけの建物だったので、建物には窓がなかった。壁と屋根の間に通風口があるだけだった。しかし、現代ではそのような建物は使い勝手が悪く、瀬田沙代にこの邸宅を貸した大家は、寝室用の建物をバリの伝統を残しつつも窓をつけ、ついでにエアコンも設置していた。
                                            「私は大工ですが、妻のニョマン・カデがここでお手伝いとして働き、私も暇なときは手伝っていました」
                                            ワヤン・サントソが言った。
                                            「お子さんはいらっしゃるの」
                                            倉田伊津子がたずねた。
                                            「はい。中学生の娘と小学生の息子がいます。イブ・サヨ(沙代さま)にはとてもかわいがっていただいていました」
                                            ニョマン・カデが答えた。
                                            「では、沙代さんの部屋に入ってみましょうか。鍵は?」
                                            警視が言った。
                                            「私が預かっています」
                                            警官が答えた。
                                             瀬田沙代が使っていた建物のドアを開けて中にはいると、むっとする暑気と、沙代が焚いていたお香の残り香がただよっていた。ニョマン・カデが部屋の明かりをつけ、エアコンのスイッチ入れ、ついでに空気の入れ換えのために窓を開け放った。
                                            蒸し暑さで立ちくらみでもしたのだろうか、倉田伊津子がふらっとなって夫の腕をつかんだ。倉田伸生が伊津子を支えた。警視が沙代のデスク用のイスを持ってきた。いつもながら気の利く男だ。伊津子はいすに座り部屋の中を見回した。部屋はきれいに片付いていて、ベッドも新しいシーツで整えられていた。
                                            「沙代さまは13日の朝、ここを出てデンパサールのインドネシア芸術学院へお出かけになりました。その夜はデンパサールのホテルにお泊まりになり、14日にお帰りになる予定でした。13日にお出かけになったあと、私がこの部屋をととのえました。沙代さまは月に2、3度は芸術学院へガムランのお勉強でお出かけになっていました」
                                            伊津子の視線を感じたニョマン・カデが説明した。
                                            「金庫を開けさせていただいてよろしいか」
                                            警視が倉田夫妻にたずねた。夫妻がどうぞと返事した。
                                            「この鍵束は沙代さんが肩にかけていたリュックの中の小物入れにあったものです。この中に金庫の鍵があるといいのですが。遺品類は警察が保管していますので、ご遺体をお返しするさい、いっしょにお渡しします」
                                            警視は何本かの鍵を試した。ほどなく金庫の鍵が見つかったらしく、小型の金庫の扉が開いた。金庫の中からは、ネックレスやブローチなどの装飾品のほか、現金とこの家の賃貸契約書などの書類、パスポート、外国人登録証が出てきた。現金は日本の1万円札で30万円、米国の50ドル札で2000ドル、インドネシアのルピア札で2000万ルピアほどがそれぞれ封筒に入っていた。銀行の口座番号などを書き留めた備忘録もあった。それだけだった。沙代の死と関係ありそうなものは何もなかった。
                                             沙代の机の上にノートがあった。書かれていたことはガムランの奏法に関する心覚えばかりだった。ガムランのスケッチがあり、「そっとふれるように」とか「はっしとうつ」などのコメントが日本語で書き込まれていた。
                                             倉田夫妻と和田の3人は沙代の居室を調べたが、沙代あての手紙類にも事件に関連するようなものはなかった。
                                            「この家の賃貸契約解除や、沙代の遺品の運び出し、雇っていた人への退職金などについては、誠君が来たら相談するが、君も力添えをしてくれないか」
                                            倉田伸生が和田に言った。
                                            「外庭に沙代さんのお友達が集まっていて、ご両親にお悔やみを申しあげたいと言っています」
                                            庭に出ていたワヤン・サントソがみなに告げた。
                                            「お目にかかりましょう。こちらも沙代がこれまでお世話になったお礼を申しあげなくてはならない」
                                            倉田伸生が言った。
                                             中門をぬけて外側の庭に出ると、吹き抜けの建物に10人ほどの男女が集まっていた。倉田夫妻の姿を見ると、みんな建物の外へ出ようとした。
                                            「日差しが強いので、屋根の下でお話ししましょう。ワヤン・サントソさん、イブ(奥さん)のために椅子を持ってきてくれませんか」
                                            鷹石が依頼した。
                                             倉田伸生と和田、グスティ・アグン・ライ警視、鷹石と沙代の友人たちが板張りの床の上にあぐらをかいた。倉田伊津子はそのそばでイスに腰かけた。ニョマン・カデがお茶を運んできた。
                                             みなさんのおかげで沙代はバリの音楽の勉強に打ち込むことができた。みなさん、ありがとう。その幸せをもっと長く味あわせてやりたかったのだが、不幸な事件で2年ほどの短い期間で終わってしまった。残念だ。倉田伸生が型どおりのあいさつをした。
                                            「沙代さんは、私が教えた日本人では3番目の弟子でした。練習熱心なかたで、才能に恵まれ、この2年でずいぶん上達された。最近では、いくつかのグループに入れてもらって演奏活動をするほか、女性のガムラン演奏グループをつくる準備もなさっていました。バリのガムラン奏者は伝統的に男ですが、時代の変化で今では女性の奏者も育っています。ガムランの技法とバリ音楽の精妙な響きを次の世代に伝えるのが私の仕事ですが、やんぬるかな、惜しい才能を失ってしまいました。ご両親の落胆は察してあまりあるものと思いますが、ガムランの教師としての私も、失ったものの大きさに心がちぎれるような感じがしています」
                                            沙代にガムランを教えていたイ・プトゥ・グデ・ダルマワンが弔辞のようなものを述べた。
                                             バリ人を含めてインドネシア人は話術に長けているが、このときのグデ・ダルマワンの語調は、たんなるレトリックにとどまらないように、インドネシア語を聞きなれた鷹石には聞こえた。グデ・ダルマワンは倉石夫妻と同じように、ひどくうちひしがれた様子だった。
                                             プリアタン村でバリの舞踊を習っている20代後半の日本人女性、松島真理が、沙代さんはやさしくていいお姉さんだったと、目を潤ませながら思い出を語った。オーストラリア人の大学院生で、グデ・ダルマワンについてガムランの実技を習っているロジャー・バースという名の若い男性が、最近、沙代さんがうちならすガムランの音には、激しいバリの呼吸だけでなく、遠い日本の優しい息づかいふと感じられるような響きもまじるようになってきたので、沙代さんがつくりだす音はこれからどう磨かれていくのだろうかと、大変楽しみにしていた矢先のご不幸だった。彼は母国語の英語でなく、習得したインドネシア語で沙代のことを情のこもった言葉で語った。

                                             (5月27日に続く)

                                             

                                             

                                             

                                             

                                             

                                            2018.05.13 Sunday

                                            『ペトルス――謎のガンマン』     第2回

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                                              5月17日夕、サヌール・ビーチ


                                               バリ島はジャワ島のすぐ東に位置する。バリ島とジャワ島を隔てるバリ海峡のもっとも狭い部分は幅2キロほどだ。島は菱餅を左右に引っ張ってのばしたような、ゆがんだ形をしている。島の南側の突起部分がくびれ、その先にしずく状の小さな半島がぶら下がっている。島の面積は5500平方キロで日本の愛媛県程度の広さだ。人口は300万弱。こちらは愛媛県の人口の2倍近い。バリ島南部のこのくびれの部分にングラ・ライ国際空港が位置している。ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港、スラバヤのジュアンダ国際空港に次いで、インドネシアで3番目に利用客が多い空港だ。
                                               5月17日夕刻、ングラ・ライ国際空港の出発ロビーは混雑していたが、到着ロビーは閑散としたものだった。普段なら家族や知人を迎えに来た人たち、団体ツアー客を出迎える旅行会社の社員、ホテルの客引き、ヤミのタクシー・ドライバーたちが、税関エリアを抜けてロビーに現れる到着客を熱いまなざしで見つめる。だが、このところのインドネシア動乱で、どの国の政府もインドネシアからの退去とインドネシアへの渡航を思いとどまるよう自国民にアドバイスしている。したがって、バリへの到着客は激減、それにあわせて出迎えの人影もまばらになった。
                                               駐スラバヤ日本総領事館デンパサール駐在官事務所の領事久保田尚は「倉田伸生・伊津子様」と書いたボードを掲げた事務所の職員と2人で瀬田沙代の両親を待った。邦人援護が領事の重要業務のひとつであり、とくに海外で命を落とすことになった人の家族への対応は慎重な配慮を必要とする仕事だった。
                                               この時間帯に東京からの便と前後して、シンガポールかオーストラリアからの便が到着したのだろうか。白シャツを着て紺のジャケットを左腕に抱え、右手にブリーフケースをさげた若い白人の男や、ジーンズにTシャツのこれも白人の男女があらわれた。その後ろを日本人風の中年の男と白髪の老夫婦が続いた。いつもなら見かけるはずのお気楽を絵に描いたような表情の日本の若者の姿はなかった。日本人風の中年の男が数少ないボードの中から「倉田」の名前を見つけ、緊張した表情で久保田に近寄って来た。
                                              「領事館の方ですか」
                                              「駐在官事務所の久保田です」
                                               老夫婦もそばにやってきた。
                                              「倉田伸生です。こちらは妻の伊津子。それからお供をお願いした和田俊夫君です」
                                              「領事の久保田尚です。長旅お疲れ様でした。このたびのお嬢さまのご不幸をお悔やみ申し上げます」
                                              「どうも、娘のことでお手数をおかけして恐縮です」
                                              倉田がしっかりとした声で応じた。妻の伊津子はだまったままで深々と久保田にお辞儀をした。和田もそのお辞儀につきあった。
                                              「ホテルはサヌール・ビーチにおとりになったと本省から連絡をうけていますが……」
                                              「サヌール・ビーチのバリ・ハイアットです。旅行代理店で航空券を手配したさい、いっしょに予約してもらいました。空港からもデンパサールの町からもそう遠くなく、それでいて静かな海岸にあるホテルだといっておりました。私はこれからホテルまでのリムジンの手配に行きたいのですが、リムジンのデスクはどのあたりかご存知でしょうか」
                                              倉田に代わって和田が久保田に尋ねた。久保田がその場所を教えると和田は急ぎ足でそこへ向かった。
                                              「倉田さん、まずはバリ・ハイアットへ行って落ち着かれてはいかがですか。そのあとで明日の打ち合わせを始めましょう」
                                              「そうですね。よろしくおねがいします」
                                              倉田が言った。
                                               倉田は紺のポロシャツに仕立てのよい白の夏のスーツを、背筋をしゃんと伸ばして姿勢よく着こなしていた。つやつやとした白髪と歳のわりには力を感じさせる眼ときりっとした口もと、そしてすっきりしたあごの線――倉田は一言で言えばダンディーな金持の年寄りと見受けられた。妻もコバルトブルーの夏のパンツスーツに、藤色のブラウスを上品に着こなしていた。そうか、殺された瀬田沙代はこういう家のご令嬢だったのか、と久保田は思った。そのご令嬢がどうしてまた、デンパサールの路上で横死するはめになったのだろうか。
                                               和田がリムジンの乗り場まで小型のスーツケース3個を積んだトロリーを押して行った。運転手がそれを引き取ってリムジンのトランクに放り込んだ。
                                              「さすが熱帯ですな。蒸しますね。和田君、上着を脱いで、ネクタイも取ったらどうかね」
                                              倉田が短く言って、妻を後部シートに乗せ、続いて自分も乗り込んだ。律儀なスーツ姿の和田がそのドアを閉めてから助手席に乗り込んだ。
                                              「スラマット・シーアン(こんにちは)」
                                              運転手が柔らかな口調で迎えた。
                                              「バリ・ハイアット」
                                              和田が英語の発音で告げた。
                                              「イエス・サー」
                                              運転手が英語で答えた。
                                               サヌール・ビーチは空港から東北の方向、デンパサールの市街は北の方角だ。空港からサヌール・ビーチまでは、道路の状況しだいだが車で30分弱だが、サヌール・ビーチからデンパサール市街中心部までは10分ぐらいの距離だ。
                                              この夕方は道路がすいていたので、バリ・ハイアットまで20分少々で到着した。
                                               倉田たち3人がチェックインをすませたあと、久保田が彼らに言った。
                                              「お部屋でシャワーでも浴びて、夕食でも召し上がって、おくつろぎください。私は事務所に帰って残った仕事を片付けてから、またこのホテルにもどってきます」
                                              「本来なら私たちが久保田さんを事務所にお訪ねするべきだとは思うのですが、こういう状況でのつらい長旅です。さすがに疲れました。歳に免じてご好意に甘えさせていただきましょう」
                                              「ご心配なく。私はこの近くのサヌール・ビーチ・ホテルのレジデンスを自宅に使っています。ご近所です。いま6時半ですか。遅くとも8時半ごろにはお訪ねできると思います」

                                               再び久保田がバリ・ハイアットに現れたのは午後8時半すぎだった。倉田と和田は遅まきながら久保田と名刺を交換した。倉田の名刺には「宮城エレクトロニックス株式会社 会長」の肩書がついていた。和田の名刺には同じ会社の役員室長とあった。
                                              「明日は少々早いのですが、8時半にデンパサールの州警察本部を尋ねて、今回の事件の捜査主任をしているグスティ・アグン・ライ警視と面会することになっています。瀬田沙代さんの捜査で参考になりそうなことについて、警視から質問があるでしょう。また、倉田さんのほうからお尋ねになりたいことがありましたら、何なりとご遠慮なくおたずねください。明日は州警察本部が公式に委嘱している日本人の方が通訳します。鷹石里志さんとおっしゃる方です。日本で大学の先生をなさったあとバリに住み着かれ、デンパサールのウダヤナ大学で日本語の講師もなさっています。私はあす8時にここに立ち寄ります。ところでお車の手配の方は?」
                                              久保田は和田に向かってたずねた。
                                              「ホテルのリムジンを借りあげるつもりです」
                                              和田が答えた。
                                              「では、ここを朝8時すぎに出発しましょう。公式通訳の鷹石さんはデンパサール市内にお住まいなので、警察本部へ直行します。手順としては型どおりに瀬田沙代さんのご遺体を確認していただくことになります。そうそう、手続き上、警察はご遺体の確認をされる倉田さんご夫妻の身元を確認するでしょうから、パスポートをお忘れなく。ご遺体の確認のあとで警視との話し合いになると思います。ご遺体の確認が終わった段階で、私はいったん事務所に引きあげさせていただきます。鷹石さんは、明日は大学で教える予定がないので、必要であれば一日中付き添ってくださるそうです。ご支障がなければ瀬田沙代さんがお住まいだったウブッドへ警視がご案内すると言っています。」
                                              「沙代の夫の瀬田誠がいま、仕事先のメキシコからバリに向かっているところです」
                                              倉田が言った。
                                              「そうでしたか。結婚なさっていらっしゃったのですか。事務所がいただいている瀬田沙代さんの在留届の連絡先には、倉田さんのご住所と電話番号だけしか記載されていなかったものですから」
                                              久保田が事務的な口調で言った。
                                              「あの子ったら。なんて子でしょう」
                                               倉田伊津子が小さくつぶやいたのを久保田は聞き取った。家族内で何か事情があったのだろうか。だが、もしこみ入った家族の問題があったとしても、そのことについてたずねるのは久保田の仕事ではない。それはどちらかといえば殺人事件を捜査するグスティ・アグン・ライ警視の守備範囲だ。
                                              「瀬田誠はいま仕事でメキシコシティに長期滞在していましてね。沙代のことで外務省から15日夕にに連絡をいただいたあと、私の方からメキシコの瀬田の事務所に電話しました。時差や瀬田がグアダラハラへ出張していたせいで、彼から折り返し電話をもらったのは16日の朝になってからでした。私が沙代の死を告げると、一番早い便を見つけてバリへ飛ぶつもりだと、彼は言いました。バリに到着したら久保田さんの事務所に連絡するよう言っておきましたので、なにぶんよろしくお願いします。明日中には着くのでないかと思いますが。和田君、誠君の部屋をとっておいてくれないか」
                                              「なにかそちらの方から、私にお尋ねのことはございませんでしょうか」
                                              久保田が丁重な口調で言った。倉田夫妻からこれといった質問がなかったので、久保田は、では、また明日、お休みなさい、といって帰って行った。

                                              5月18日午前、遺体安置室


                                              「ご遺体は瀬田沙代さんですね」
                                               グスティ・アグン・ライ警視の質問を鷹石が日本語に翻訳した。倉田夫妻は金属製のコンテナに納められた沙代の遺体を見つめていた。
                                              「娘の沙代です」
                                              倉田伸生が言った。
                                              「かわいそうに」
                                              とため息を添えた。
                                              「沙代、沙代……」
                                              倉田伊津子が遺体によびかけ、娘の髪をなでた。
                                               警視と鷹石は倉田夫妻と少し離れた所にたち、領事の久保田は和田とともにさらに離れたところに立っていた。倉田伊津子の嗚咽が低く聞こえた。倉田伸生はポケットからハンカチを出して涙をぬぐった。
                                              「娘をこんな風に死なせた犯人をなんとしても捕まえ、裁判にかけてください」
                                              倉田伸生が声をふるわせた。被害者の両親のこの訴えを鷹石がインドネシア語に翻訳して警視に伝えた。警視の、
                                              「警察は全力を挙げて犯人を捜し出す決意です」
                                              という言葉に倉田夫妻は素直にうなずいた。
                                               警察本部の応接室で倉田夫妻は遺体が娘の瀬田沙代であることを確認したという書類に署名をした。これをもとに遺体ひきとりの手続きが始められる、と警視は2人に説明し、身元確認のために預かった倉田夫妻と和田の3人のパスポートを返した。
                                              「ご遺体は明日にでもお引き渡しできる予定です。ご遺体をそのまま日本までお運びになられますか。それともバリで荼毘にふされますか。警視がそうたずねています」
                                              鷹石が倉田夫妻にたずねた。
                                              「いますぐお答えせねばなりませんか」
                                              倉田伸生が聞き返した。
                                              「沙代の夫の瀬田誠がいまメキシコシティからデンパサールへ飛んでいる最中です」
                                              「ほう、メキシコですか」
                                              ライ警視が問い返した。
                                              「ジャカルタで経営している会社を見る一方で、もっか新規の事業でメキシコをとび回っています。瀬田はご両親がウルグアイで仕事をされていたときに生まれて、幼少時代をスペイン語ですごしたものだから、どうも、ラテン・アメリカの方に、インドネシアよりも愛着を感じているようでして。瀬田はおそくとも明日朝までにはこちらに到着するでしょう。遺体をどのようにして運ぶかについては、夫である彼の意見が尊重されてしかるべきでしょう。ご返事は明日ということにしていただけませんか。明日あたり瀬田誠が沙代に会うためにここに来ることになるでしょう。そのさいご返事するということでいかがでしょうか」
                                              倉田伸生が続けた。
                                              「もちろん、それで結構です」
                                              警視がきっぱりとした口調で言った。警視が話を続けた。
                                              「そこで、事件のあらましですが、瀬田沙代さんは5月14日午前10時すぎ、デンパサール市のスディルマン通りとつながる細い路地で死体になって発見されました。発見したのはウダヤナ大学の学生で、彼は反スハルトのデモに参加していてスハルト支持のならず者たちと治安警備の警察機動隊に追われて路地に逃げ込んでいました。沙代さんの近くでインドネシア人の若者も殺されていました。検死の結果、沙代さんは正面2メートルほどの距離から32口径の拳銃で胸を撃たれ、その場に仰向けに倒れていました。インドネシア人の若者の方は、背後から胸と頭を撃たれていました。使われたのは同じ拳銃だとわかりました」
                                              「奥さん、ご気分がよくないのですか。警視に頼んで、女性の警官に付きそってもらって別室で少しお休みになってはいかがですか」
                                              鷹石が青ざめて小刻みに震えている倉田伊津子に気がついて言った。
                                              「伊津子、そうしたら」
                                              倉田伸生が言った。
                                               警視が女性の警官を呼び、彼女が倉田伊津子を別室に連れて行った。
                                              「瀬田沙代さんは、苦しむことのない死でした。14日のデモ騒ぎのなかで何らかの拍子に撃たれたのか。物盗りなのか、あるいは別の事件の巻き添えになったのか。それとも、彼女に怨みを持っていた人物の犯行なのか。いま判断材料を慎重に集めているところです。犯行時間は午前10時よりすこし前と推定されます。デモ騒ぎを警戒してかその路地の周辺には人気がなかったようで、今のところ目撃者は見つかっていません。銃声を聞いたという証言もまだ出てこない状態です」
                                               警視の説明を翻訳しながら、鷹石はこのとき、倉田の顔にいらだちの表情を見てとった。
                                              「倉田さん、お尋ねになりたいことがあればいつでもご遠慮なく」
                                              鷹石が倉田に言った。
                                              「巻き添え、物盗り、遺恨の三つの可能性のうちで警察がいま、もっとも重視しているのはどの線でしょうか」
                                              「いまのところ捜査方針を一つに絞るのはかえって今後の捜査の進展を阻害することになるというのが私の考えです。まず可能性を広く考慮し、そののちに、可能性の一つ一つをデータと照らし合わせて検討し、理屈に合わないものを排除して、最終的に犯人にたどりつきたいと考えています。時間がかかりそうな方法ですが、結局、このやり方が真実に近づく最良の方法であることは、経験からわかっています。参考までにおたずねするのですが、瀬田沙代さんから今度の事件と関係のありそうなお話を電話か手紙でお聞きになったことはありませんか。例えば、だれかに脅されているとか、そういったことはありませんでしたか?」
                                              「妻が時々沙代と電話で話したり、手紙のやり取りをしたりしていたが、事件に関わりのあるような物騒な内容の話はなかったようです。あれば当然私も聞かされていますから」
                                              「そうでしょうね。捜査の資料にするために、今日の午後、ウブッドへ行って瀬田沙代さんの自宅を調べたいと思っています。肉親の方からご了解をいただき、捜索にも立ち会っていただきたいのです。ご協力願えますか」
                                              警視の言葉の調子は丁重だった。
                                              「もちろん協力いたします。妻の様子が心配なのでこれからホテルに連れて帰り、少し休ませましょう。心労に旅の疲れが重なったのでしょう。ところで、午後は何時に警察に来ればよろしいか」
                                              「午後1時でお願いします」
                                              警視が言って立ち上がり、倉田と握手した。
                                              「ウブッドへは私も同行いたします」
                                              鷹石が言った。
                                               おつきの和田は終始無言だった。その存在は空気のようで、まるでそこに存在してないかのように思えた。アラジンの魔法のランプのように主人が必要とするときにのみその姿を現す。和田もそうしたよき付き人のひとりなのだろうなと、鷹石はさっと立ち上がって倉田のために会議室のドアを開けた和田のとりすました表情を感心してながめていた。

                                               

                                              (つづきは5月20日(日)掲載予定)

                                               

                                               

                                               

                                              2018.05.10 Thursday

                                               『ぺトルス――謎のガンマン』      第1回 

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                                                1998年5月14日木曜日、デンパサール市街

                                                 

                                                 すこしばかり風変わりな行列だった。
                                                 日ごと繰り返されているヒンドゥーの祭礼・オダランの列のようにも見えた。だが、それにしては参加者すべてが同じ年頃の若い男女で、年配者の姿がなかった。オダランの行進に参加する人は老いも若きも晴れ着で着飾り、頭髪や耳にハイビスカスの花を添える。その行列の参加者の服装はそうした華やぎからほど遠く、表情にはどこか殺気だった、思いつめた感じがうかがえた。
                                                 信仰心に厚く伝統を守ることに熱心なこの島では、毎日のように祭礼の行列が町の中、村の中をねり歩く。というのも、この島では地域共同体の寺院、農業水利組合・スバックの寺院、一族・血縁者の寺院と、日本風にいえば一人の人がいくつもの寺院の檀家になっている。したがって塀で囲まれ、門を構えた、れっきとしたヒンドゥー寺院が島内に数万もある。さらに人々はそれぞれの住宅の敷地内にも、少なくとも一つ以上の小さな祠を祀っている。かつて日本の住宅にあって、いまは廃れてしまった神棚を庭に出して大型化したようなものだ。
                                                 祭礼の行列に参加するとき、女性は正装の上着であるクバヤを着て腰にサロンを巻き、男性は白いシャツに白いサロン、それに男の正装に欠かせないウドゥンとよばれる白いはちまきのようなかぶり物を着用する。女性は果物などを円筒形に盛り上げて形を整えた祭礼の供物・ガボガンを頭の上にのせて運ぶ。大がかりな行列だと、こうした男女数百人が列をつくり、赤や白や黄色の幟をたて、大きな日傘も掲げて、ついでに御輿もかついで、しずしず、しゃなりしゃなりと行進する。鉦や太鼓、ときにはガムランで使う重いゴングまでがもち出され、鳴り物入りの大行進になることもある。

                                                 1998年5月14日の木曜日の朝、インドネシア共和国バリ州の州都デンパサールで目撃されたその行列の参加者は100人ほどだった。男性も女性も、大半が柄物のシャツにジーンズや茶、ブルー、グレーのズボン姿だった。なかにはズボンの上から白い布をサロンのつもりで腰に巻いている者もわずかながらいた。行列の先頭を進む男性たちだけが頭にウドゥンを着けていた。頭の上にガボガンをのせた女性の姿はみあたらなかった。何本かの幟は立てていたが、風のない市街地の蒸し暑さのなかで竹竿から白い布がだらりと垂れていた。
                                                 祭礼の行列というよりは、それはシュプレヒコールを押し殺した沈黙のデモ行進のように見えた。行列はショッピングセンター近くの通りを進んでいた。カキリマ(移動式屋台)を押している行商人、新聞売り、幼児の手を引いた買い物の女性など、道ばたの人々が一瞬けげんな表情でこの奇妙な行列を見つめた。子どもたちがおもしろがって行列を追いかけていった。だが、すぐさま状況を理解して、
                                                「やめなさい、帰ってきなさい」
                                                と、親が大あわてで子どもを制止した。行進の次にやってくる暴力的な混乱を予感したかのようだった。
                                                そのとおり――行列はデンパサールのウダヤナ大学の学生を中心にした若者たちが組織したスハルト大統領の退陣を要求する非合法街頭デモだった。
                                                 インドネシアでは街頭での政治デモは禁止されていた。スハルト政権下では、大学生の政治デモは大学キャンパスの狭い空間に限って許されていた。
                                                 大学構内で政治デモをしたところで、そこには自慰的行動特有のむなしさがあった。デモを遠巻きにながめているのは、加齢とともに異議申し立てをする覇気を失い、いまや政治的には抜け殻のようになってしまった教授たちだけだった。一度でいいから街頭デモを敢行し、大衆にこの国の無惨な政治的現実を直視するきっかけを提供したい。かねがね学生たちはそう熱望していた。
                                                どこの国でも大学生時代というのは人の一生のうちでもっとも政治的異議申し立てに情熱を傾ける時期だ。大学生が異議申し立てをしなくなった国はもはや老いた下り坂の国といってよかろう。この日、ウダヤナ大学の学生たちには、今はもうキャンパスから街頭に出てデモを決行するしかないという、やむにやまれぬ気持の高ぶりがあった。

                                                 

                                                 トリサクティの虐殺に抗議しよう!
                                                 ウダヤナ大学生も合流せよ!

                                                 

                                                 ウダヤナ大学生だけでなく、インドネシア全土の主要都市で大学生たちがスハルト政権の政治暴力に抗議する街頭デモを繰り返していた。
                                                 事の起こりはこういうことだった。
                                                1997年にタイで始まったアジア金融危機が、あっという間にインドネシアにも襲いかかってきた。スハルト政権はIMF(国際通貨基金)から金融支援を受けるのとひきかえに、IMFが求めるインドネシア経済の構造改革を約束した。だが、インドネシアの通貨ルピアの暴落は止まらなかった。インドネシア経済はガタガタになり、庶民の生活は追いつめられ、苦しくなった。スハルト政権の強圧的な政治のやり方には、インドネシアの人々はかねがね反感を持ってはいたが、これまでの経済成長がその反感を相殺してきた。経済が左前になると、反感だけがつのった。スハルト大統領への不満が日ごとに高まっていった。
                                                 2日前の5月12日、首都ジャカルタのトリサクティ大学の学生たちが街頭デモ隊を組織した。トリサクティ大学はジャカルタでは名門の私立大学だ。学生は実業家、官僚、高級軍人など中流上層の息子や娘が多かった。デモ参加者は大学構内の駐車場付近に午前11時前ごろから集まり始めた。彼らはまず国歌『インドネシア・ラヤ』を歌い、そのあと「スハルト退陣」を叫んだ。午後零時過ぎ、学生数千人が校門からガトット・スブロト通り出て行った。
                                                 当然のこととして、学生デモ隊は警備の警官隊と路上でにらみあうことになった。路上のにらみあいは午後4時ごろまで続いた。炎暑にうんざりした学生たちが、やがて三々五々大学に引きあげ始めた。午後5時過ぎ、警官隊が実力行使を始めた。学生たちは大学構内に逃げ込み、柵越しに警官隊めがけて投石した。警官隊はゴム弾を発射した。だがゴム弾にまじって、実弾が発射されていた。逃げまどう学生たちの背後から発射された実弾が彼らの身体を貫いた。四人の学生が撃ち殺された。デモ警備にあたって、警察の部隊はゴム弾しか支給されていなかったはずだ。実弾は誰が撃ったのだろうか?
                                                 翌13日には4人の学生の埋葬が行われた。インドネシアのイスラム団体ムハマディヤを率いてきたアミン・ライス、スカルノ初代大統領の娘で野党・民主党党首だったメガワティ・スカルノプトゥリといった反スハルト勢力の大物が葬儀に出席してスハルト批判をぶった。葬儀の席でアミン・ライスは、インドネシア国軍はスハルト一族を守るのか、それとも全国民をまもるのか、態度を決めよ、と叫んだ。13日からジャカルタ市内のあちこちで暴動が始まった。
                                                 デンパサールのウダヤナ大学生が彼らのデモをヒンドゥーの祭礼の行列に見せかけたのは、警察の居丈高な警備からデモ参加者を守るためのおまじないだった。と同時に、ジャカルタでねらい撃ちされたトリサクティ大学の4人の学生に対する慰霊でもあった。
                                                ウダヤナ大学生のデモ行進はデンパサールの町中をしずしずと進んだ。目指す地点はデンパサールの中心部にあるラパガン・ププタン・バドゥンだった。木立に囲まれた緑の木陰が涼しげなオープン・スペースである。デモ隊はその途中のスディルマン通りに面したティアラ・デワタ・ショッピングセンター近くまで進んでいた。
                                                 そのとき前方に、デモ隊の前進を阻むように棍棒や鉄パイプを手にした若者の一団が現れた。スハルト支持派の街のならずもの・プレマンたちだ。その数、50人ほどだった。
                                                「死にたくなかったら大学に戻れ」
                                                頭髪を兵隊のように短く刈りあげたプレマンのリーダーが、汗でてらてら光る手で握りしめた鉄パイプの先を学生たちの方に向け、目をつり上げて叫んだ。
                                                「そこをどいてくれ。祭礼の列のじゃまをしないでくれ」
                                                眼鏡をかけた長髪のデモ行進のリーダーの学生が大声で怒鳴り返した。

                                                 大学生たちのグループは女子学生を列の中心に移動させ、その周りを男子学生が取り囲んで守ろうとした。プレマンたちの集団がジリ、ジリっと学生の列に肉薄していった。
                                                 プレマンたちの後ろに、警察の車両が5台ほど到着した。乱闘服で身を固めた機動隊員が車から道路に飛び降りた。だが、機動隊員はその地点にとどまり、デモ隊ににじりよるプレマンたちをながめているだけだった。
                                                「コムニス(共産主義者)め!」
                                                プレマンたちが叫び、いっせいに棍棒や鉄パイプをふりあげて学生たちを脅した。
                                                「サンパ・マシャラカット(クズ野郎)!」
                                                学生たちが罵声を返した。
                                                「共産主義者をインドネシアから追い出せ」
                                                プレマンのリーダーが絶叫した。
                                                 それを合図にプレマンたちが学生に襲いかかった。数人の学生が幟の竹竿を振り回してプレマンの攻撃を防ごうとした。だが、棍棒や鉄パイプで武装し、けんか慣れしたプレマンの攻撃を防ぐには学生たちは非力にすぎた。
                                                「やめなさい。暴力行為をやめて、すぐ解散しなさい」
                                                拡声器から警察官の声が通りに響いた。プレマンが学生たちの列に突っこんできた。

                                                 ニョマンはウダヤナ大学社会・政治学部2年生で、これが初めての街頭デモへの参加だった。5月のバリはすでに乾季に入っていた。午前10時ちょっと前。デンパサールの太陽の照りつけはいっそう厳しくなっていた。額から吹き出して顔をつたい落ちる汗を、ニョマンは左手でぬぐった。暑さだけではなく、緊張による発汗もあった。プレマンの突入で大学生の列はくずれ、デモ参加者たちは路上に四散した。ある者はいま来た方角へ走って逃げ、ある者は大通りから横道のガン(小路)へ走った。そのあとをプレマンたちが追い、警官たちがどちらかというとのろのろとした動きでそのあとに続いた。
                                                 ニョマンはデモ隊がやって来た路を走って引き返した。その途中で手近な小路を見つけて駆け込んだ。その小地を奥へ奥へと走った。ふと気づくと、一緒に行進していた大学の仲間の姿も、追いかけてくるプレマンの姿も、警官の姿もなかった。ニョマンはほっとして走るのをやめた。歩きながら乱れた呼吸を整えようとした。小路の両側は家屋の壁や塀が続いていた。30メートルほど先に、大きな通りが見えた。
                                                「たすかった」
                                                ニョマンがつぶやいた。
                                                 落ち着きをとり戻したニョマンの目に、小路に人が倒れているのが見えた。倒れているのは2人だった。その近くにバイクが止めてあった。ニョマンが近づくと、女は仰向けに、男はうつぶせに倒れていた。淡いブルーのジーンズをはき、白地に青いポルカ・ドットのコットン・シャツを着た女のふくらんだ胸から血が流れていた。男の方はジーンズにTシャツで、Tシャツの痩せた背中がべっとりと血でぬれ、頭からも血を流していた。
                                                 私より先にここに逃げ込んできたデモ行進の仲間がいて、その2人がここでプレマンに襲われたのだ。この人たちを襲撃した奴らはまだこの近くにいるかも知れない。熱帯の路地裏のかすかな腐敗臭にまじった生の血のにおいをかいだような気がして、ニョマンはいいしれぬ殺気を自分の近くに感じた。足がすくんだ。
                                                「あわわわ……」
                                                言葉にならない悲鳴のようなかすれ声を漏らしながら、ニョマンは広い通りの方へ向かって必死で走った。


                                                5月15日、ハヤム・ワルック通り

                                                 

                                                 バリで隠居生活を楽しんでいる鷹石里志はハヤム・ワルック通りの借家で、バリのたそがれ時をくつろいで過ごしていた。5月15 日の夕刻だった。
                                                 デンパサールでは空を真っ赤に染める夕焼けを見る機会はそれほど多くない。西の空が一部赤く、一部黄色くなるだけで、夕陽が沈んだあとの残照の時間はきわめて短い。あっという間に夜のとばりが降りてくる。そして熱帯バリの闇は気のせいか、深い。
                                                熱帯のインドネシアで心身がしゃきっと保てるのは比較的涼しい朝のうちだけだ。だからインドネシアの人の朝は早い。会社や役所のなかには午前7時半には仕事を始めるところがある。公立の小学校などは朝七時から授業が始まる。
                                                午前10時を過ぎると酷暑が始まる。その暑さは夕方まで続き、日が沈むころには日中の身体にへばりつくような暑気がやわらぎ、いくらかほっとできる時間が始まる。
                                                 鷹石は小さな庭に籐椅子を出して、冷たいジャワティーをすすった。ジャワティーは冷たいだけでなくたいへん甘かった。鷹石がインドネシアとつきあい始めて間もないころは、やたら甘い紅茶やコーヒーに違和感があった。しかし今ではすっかりその甘さになじんでしまった。紅茶の甘ったるさが酷暑と喧噪にみちた一日の疲労をとかし、流し去ってくれるように感じる。飲み物の甘さと、熱帯のたそがれ時のけだるさ。これらにどっぷりとつかることに快感を覚えるようになると、いっぱしの熱帯病患者、あるいは熱帯ぼけである。
                                                 借家の庭には何本かの木がある。その中にドリアンの木、マンゴスチンの木、それにランブータンの木があると、この家を借りたとき大家が言っていた。
                                                 5月のバリはすでに乾期に入っている。熱帯のフルーツの最盛期は雨季なので、果物の種類が減り始める時期だ。とくにドリアンは雨季にしか出回らない。といっても、大家がいっていた庭のドリアンの木は、この家を借りて3年になるのだが、これまで一度も実をつけたことがない。鷹石は大家に、
                                                「あれは本当にドリアンの木なのか。風に吹かれてドリアンが落ちてくる幸運にめぐまれたことはまだ一度もないよ」
                                                と冷やかしたことがあった。
                                                 大家はすました顔で応じた。
                                                「早く実をつけろと、あんたがドリアンの木をにらんでいるから、木の方がおびえて実を結ばないのだ」
                                                鷹石はときどきドリアンを食べたくなることがあった。最初はプンバントゥ(お手伝い)のスチに頼んで買ってきてもらっていたが、ある時、そのスチが大のドリアン嫌いだということがわかった。
                                                「あのにおいを嗅ぐとクパラ・プシン(頭痛がする)」
                                                とスチはいった。
                                                 なるほど、ドリアンのにおいについて、ある日本の本が、くみ取り便所の中で1週間はき続けた靴下を鼻に押しあてて深呼吸したような強烈さ、と紹介していたことを思い出した。たしかに臭うけれど、そこまでひどくはない。鷹石はそう思うのだが、お手伝いのスチの健康のために、以後、自分でドリアン――インドネシアではドゥリアンと発音している――を買いに行くことにした。
                                                雨季にはデンパサールのあちこちの小屋がけの果物屋や、路上でドリアンが並べて売られる。乾季にはいると、ドリアンが買えるのは大きなスーパーマーケットに限られてくる。並んでいるのはタイから輸入したドリアンだ。ドリアン好きは一種の依存症のようなものだと鷹石は思う。地元産のものが食えないとなると、輸入してまで食いたくなる。
                                                 庭のマンギス(マンゴスチン)の木は小さな実を少しだけだがつける。試しに食べてみたが、味は街で売っているものよりはるかに劣った。
                                                 なんとか食べられる実をつけるのは、庭の木なかではランブータンだけだ。実は小粒だが甘みは強かった。ランブータンは赤い果皮から無数のヒゲをはやしたゴルフボールより小さめの果物で、皮を割ると中からジューシーな白い果肉が出てくる。ランブートとはヒゲとか毛のことで、その語尾に接尾辞「アン」がついて「ランブータン」となって「ヒゲのあるもの」という意味になる。ドリアンは「ドゥリ」(トゲ)に「アン」がついて、「ドゥリアン」、すなわちトゲのあるものの意味だ。ランブータンは東南アジア在留の日本人の間ではひそかに「トラキン」とよばれている。虎の睾丸の意味だが、その色といい、もじゃもじゃの剛毛といい、見たことはないが言い得て妙という気のする形状である。。ちなみにドリアンは「ドゥリアン」が現地の発音で、「ドゥリ」(トゲ)に接尾辞「アン」がついて「ドゥリアン」、すなわちトゲのあるものの意味だ。

                                                「パッ・ティルポン(電話です)」
                                                スチが家の中から庭の鷹石を呼んだ。
                                                 受話器の向こうはバリ州警察本部のグスティ・アグン・ライ警視だった。
                                                「帰りにお宅に寄りたいのだが、いいかな?」
                                                「もちろん、いいとも。で、何時ごろだい」
                                                「7時半ごろには行けると思う」
                                                「では、ささやかな晩飯を用意しておくよ。ガドガドとテンペだけだがね」
                                                「ガドガドとテンペだって? おれはバリ人で、ジャワ人ではないんだよ。でも、せっかくのご厚意だからいただくことにしよう。用件は例によって通訳の依頼です」
                                                「わかった。じゃ、待っています」
                                                 リビングルームのテレビがここ数日のジャカルタの暴動の模様を特集で伝えていた。
                                                テレビが映し出す14日午後のジャカルタはまるで革命にともなう内乱状態を思わせた。鷹石は南米かアフリカのどこかの国の内戦の映像を見ているような錯覚に襲われた。普段はなんともおだやかな物腰のインドネシア人が、あるときふとアモックに襲われ、思いもかけない凶暴な姿をあらわにする。熱帯の発作というやつだろうか。バリの舞踏劇ケチャもある種のトランス状態を表現している。
                                                 高層ビルの上からジャカルタ市街を見渡した映像には、街のあちこちで立ち上る煙の柱が映し出されていた。暴徒が放火を始めたのだ。テレビのアナウンスはそう説明した。上空には警察や軍のヘリコプターが旋回していた。この映像は14日夜にすでに見たものだったが、インドネシアの首都ジャカルタ特別市がガラガラと音をたてて崩壊し、深い破滅の淵に沈んでゆくような不気味さを、あらためて鷹石に感じさせた。
                                                 テレビが地上の惨状を映した。暴徒たちに破壊され、火をつけられた自動車が駐車場や路上でひっくり返って燃えていた。そのぶざまな姿は殺虫剤にやられたゴキブリを連想させた。商店街のショーウィンドウが壊された。オフィスビルの窓ガラスもたたき割られた。
                                                 テレビは暴徒による被害が集中したジャカルタ市街地北部の商業地区グロドックの映像を映していた。商店が破壊され、デパートが打ち壊され、人々が店舗から略奪した商品を抱えて出てくる姿が映っていた。人々が略奪に夢中になっているとき、誰かがデパートに放火した。デパートは瞬く間に炎上し、このときデパートの中にいた何百人もの人が炎に包まれ、煙に巻かれ、焼けこげて死んだようだ。テレビはそう伝えた。消防車が集まって放水していた。救急車がサイレンを鳴らして走っていた。
                                                 このジャカルタ暴動ではインドネシアの過去の暴動の例にもれず、中国系インドネシア人が経営する商店が狙われた。中国系の人々はインドネシアがオランダ領東インドとよばれていたオランダ植民地時代に、インドネシア各地に出稼ぎにやってきた。人口圧力によって貧しい中国から押出されるようにしてインドネシアに渡ってきた。彼らは一旗揚げようと渡航費を借金で工面し、下層労働による賃金でその借金を返し、やがて資金をためて流通業や金融業を始めた。何世代かあとの現在の中国系インドネシア人が、インドネシア経済を牛耳る存在になった。プリブミと称するマレー系インドネシア人にとって、こうしたノン・プリブミ(中国系インドネシア人)の存在が面白かろうはずがない。マレー系のプリブミと中国系ノン・プリブミの暴力的対立は、キリスト教徒とイスラム教徒の衝突とならんで、スハルト政権下で繰り返されたインドネシアの宿痾であった。
                                                 こんどのジャカルタ暴動で、スハルトの古くからのクローニーで中国系の大資本家リム・スーリヨンの自宅が襲撃を受けた。また、テレビのニュースは14日の暴動で、暴徒がグロドックの中国系市民を集中的に襲撃し、殺害したと伝えた。テレビはあからさまにはいわなかったが、この襲撃のさなか多くの強姦も行われたことだろうと、インドネシア政治史の研究をしたこともある鷹石は想像した。暴力行為と男の発情はどのように連動しているのだろうか。
                                                 ジャカルタに住む多くの中国系市民がシンガポールに避難しようとスカルノ・ハッタ空港に向かった。市街から郊外の空港に向かっている車をならず者たちが停車させて、金品を奪った。空港に通じる有料道路は14日の夕方になって、ついに閉鎖されてしまった。
                                                 大統領官邸や政府の役所、金融機関、交差点など、ジャカルタの要所に配置された軍の車両と兵隊をテレビが映しだしていた。1万以上の兵が動員されている模様だ、とテレビは説明した。それは非常に奇妙な光景だったのだが、テレビは街角にトラックを止めて待機する兵隊と暴徒らしい男たちが妙になれなれしく話している姿を記録していた。
                                                 玄関の方から自動車が止まる音が聞こえた。
                                                「パッ・アダ・タム(来客ですよ)」
                                                お手伝いのスチが鷹石を呼びに来た。
                                                「パッ・グスティ・アグン?」
                                                「ヤー・ブトゥル(はい、そうです)」
                                                答えたのはグスティ・アグン・ライ警視その人だった。スチのあとについて玄関からリビングルームに入って来た。
                                                リビングルームのソファにグスティ・アグン・ライ警視がにこやかな表情でドテっと座った。

                                                 身長は鷹石とほぼ同じ1・7メートルほどだが、その胴回りときたら痩せ形の鷹石の2倍はあろうかと思える肥満体だ。その胴体から太い首が生え、その上にまんまるな顔がのっている。バリ人にしろ、ジャワ人、スンダ人にしろ、たいていのインドネシア人はやたら愛想がいい。知人に会えば、それがひどい夫婦げんかの直後だったとしても、その大きな目を見開いて、じつににこやかな笑顔をつくってみせる。この夕べもグスティ・アグン・ライ警視は心からなる微笑を満面に浮かばせて鷹石を見た。
                                                「また仕事をお願いしようと思っておじゃました」
                                                「通訳の公務だね」
                                                「きのう日本人の女性が殺された。その家族がまもなくバリにやってくる」
                                                「殺人事件か」
                                                「ああ。昨日の午前中、ウダヤナ大学の学生たちが大学構内を出て、ラパガン・ププタン・バドゥンへ向かってデモ行進をしようとした」
                                                「そうらしいな。昨日の午前中は非常勤講師をしているウダヤナ大学の観光学科の上級生を対象にした日本語のクラスで教えていた。いつもより出席者が少ないので、学生たちにたずねたところ、デモに出かけた者がいるということだった」
                                                「デンパサールでは、学生デモはめったにない珍しい出来事だ」
                                                「それでふと即興で学生たちに日本語でディスカッションを試みさせたんだ。インドネシアの最高額紙幣5万ルピアにはスハルト大統領の肖像が使われていて、『バパ・プンバグナン(開発の父)』の文字が添えられている。日本の最高額紙幣1万円札は福沢諭吉の肖像を使っている。福沢諭吉は東京の慶應義塾大学を創設した人だ。幕末に天皇の官軍と徳川の幕府軍が江戸の上野で小競り合いをしたとき、我がことにあらずと福沢は学舎にこもって経済学の教科書の講読をしていた。動乱の世を嫌って学問に没頭しようとした福沢のこの態度をネタに、学生たちに現在のインドネシアの政治的混乱について議論させてみた」
                                                「それで学生たちの意見はどうだった」
                                                 鷹石がしょっぱなから話を脱線させてしまったのだが、警視はいやな顔もみせず、無駄話を続けさせた。夜はこの先まだ長い。相手がしゃべる気を見せたときはしゃべらせておくのが警視のやりかただった。
                                                「12日にジャカルタで、スハルト大統領の辞任を要求する街頭デモに出たトリサクティ大学の学生が治安部隊の実弾射撃で殺された。その怒りはインドネシア中に充満していて、クラスの学生の圧倒的多数が、教室でおとなしく勉強するよりはデモに行くべきだという意見だった」
                                                「当然だね。正義の怒りを忘れた若者は飛べないガルーダと同じだよ」
                                                警視が聞きようによっては過激ともとれる感想をさらっと口にした。
                                                「しかし考えてみると奇妙だね。クラスの圧倒的多数がデモに行くべきだという意見であるにもかかわらず、なぜクラスはからっぽにならなかったのか」
                                                「クッ、クッ、ク……」
                                                警視は鶏がのどを絞められたときのような声を出して笑った。
                                                「大学で教えているにしては思考法が子どもっぽいね。教室でおとなしく勉強しているよりはデモに行く方が面白い。だが、デモに行って警官やスハルト支持のならず者に追いかけられて殴られるよりは教室でおとなしくしていた方がいい――。それで昨日のウダヤナ大学の学生たちのデモだが、プレマンの一隊が学生の行進を阻止しようとした。プレマンたちは学生たちと罵声の応酬を重ねたすえ、デモ隊に襲いかかった」
                                                「それで学生はどうした。プレマンとわたりあったのか」
                                                「ちりぢりに四散した」
                                                「おやおや、バリのププタンの伝統はもはや消え去ったのか」
                                                 バリ島は島の中央部に山脈があり、その山肌を無数の川が流れ下っている。かつてはその川筋ごとに村落国家があったが、小王国のつぶし合いで、19世紀の終りごろには、バリ島南部にはタバナン、バドゥン、ギアニャール、クルンクン、カランアセム、バンリ、メンウィの七王国が残っていた。やがて20世紀初めにオランダ領東インドの軍隊がジャワ島から海を渡って攻め込んできて、これらの王国は滅亡する。1906年、オランダ領東インドの軍隊がバドゥン王国を攻めたとき、盛装したバドゥンの国王とその妻子、国王の臣下が、発砲するオランダ領東インドの兵士に向かって真っ正面から行進した。ある者は敵の眼前でクリス(短剣)で自刃し、ある者は銃撃されて死んだ。その2年後の1908年にはクルンクン王国で同じ自殺行進が繰り返された。オランダ領東インドの兵士は一瞬、行進の列への銃撃をためらったが、戦争である発砲せざるをえなかった。この行進がププタンよばれ、デンパサールの通りや公園の名になって残っている。
                                                「伝統というより、あれは儀式化されたやけくそだね。日本でもむかしセップクという儀式をやっていたじゃないか。日本がアメリカと戦争を始めたのも、戦で負けがこんできたころにバンザイ・アタックを始めたのも、日本式のププタンといえなくもないな」
                                                ライ警視がつまらそうな声をだした。
                                                「すまん。話を横道に逸らせてしまったようだ。それでは通訳の公務についてお聞きしましょう。晩飯を食べながら話を聞かせてくれないか」
                                                鷹石はやっと話を本筋に戻し、警視をリビングルームの横の食事室にさそった。
                                                「ありがとう。これでいい。休んでいいよ」
                                                鷹石がスチに声をかけた。彼女が食事室から姿を消すと、警視が話を続けた。
                                                「デモ隊の中にニョマンという名のウダヤナ大学社会・政治学部の学生がいてね。この学生がプレマンに襲われて路地に逃げ込んだ。そこで射殺死体を二つ見つけたというわけだ。凶器は32口径の拳銃で、女性は正面から胸を撃たれ、男の方は同じ拳銃で背後から胸部と頭部を撃たれていた。検死報告によると2人は即死だった。ねらいは正確で、銃を扱いなれた奴の犯行だ」
                                                「その事件のことは『バリ・ポスト』で読んだ。被害者の女性は日本人らしいと記事はいっていた。そうか、やはり日本人だったのか」
                                                「女性が日本人らしいことは、持っていたクレジットカードからわかった。日本で発行されたクレジットカードだったので、てっきり短期の観光旅行者だと思った。念のためデンパサール駐在の日本領事に連絡した。領事からウブッドに住んでいる日本人に同じ名前の人がいると連絡があった。そこで、出入国管理事務所で外国人登録の原本をみせてもらった。よくあることだが、外国人登録のさいの指紋と遺体の指紋の照合にちょっと手間取り、最終的な身元確認が遅れた。お役所の棚からその女性の記録を捜し出すのに時間がかかったのだ。今日の午前中にその指紋の記録が見つかった。ウブッドに住みついてガムランを習っていたセタ・サヨという34歳の女性だとわかった。そこで、ウブッドで彼女にガムランを教えていた師匠と、バリ駐在領事に来てもらって、今日の午後に身元を確認した。
                                                「この女性、ウブッドではイダ・アユ・ングラとよばれていたそうだ。麗しきブラフマンの女といった意味の名前だ。男の方はオジェック(バイク・タクシー)で小遣い稼ぎをしていたジョクジャカルタからの流れ者のジャワ人で、スダルノという26歳の男だった。バリ島へやってくる女性のツーリストの情事のお相手をつとめる仕事もしていたと、オジェック稼業の仲間たちはニヤニヤしていた」
                                                「そのブラフマン階級を自称する日本人の女と、ジャワ人の流れ者は、昨日のデモに参加していて、プレマンか警官機動隊に追いかけられたすえに射殺されたか?」
                                                「いや、どうもそうではないらしい。ニョマンやデモに参加していた大学生たちにたずねたところでは、そういう2人はデモ隊の中には見かけなかったそうだ。被害者の男女2人がおたがい知り合いだったのか、そうでなかったのかについては情報がまだない。いっしょに殺害現場の路地にやってきたのか、たまたま現場で一緒になったのかについても判断する材料がない」
                                                「行きずりの強盗殺人だろうか」
                                                「その可能性もある。男の方はもともと素寒貧だが、それでもポケットに1万ルピア程度の小銭が残っていた。女がジーンズの腰に巻いていたウエストバッグには皮製のカード入れがあり、クレジットカードと銀行のATMカードが入っていた。リュックの中には着替えの下着やガムランの本、ガムラン演奏会のプログラムが入っていた。ウエストバッグに入れていた現金がとられた可能性はある」
                                                「女がほかに貴重品を身につけるか持っているかして、それがとられたという可能性はないのだろうか。パスポートや外国人登録証はあったのか」
                                                「それは見つかっていない。しかし、わたしが引っかかるのは、ウエストバッグから現金を盗むためだけに、無抵抗な人を拳銃で撃ち殺すだろうかという点だ。拳銃を突きつけられれば、ウエストバッグに入るくらいのルピア札なら抵抗せずに渡すだろう。現場や死体には争った後が残っていない。有無を言わさずまず射殺して、そのあとでウエストバッグから現金などを盗んだとみられる。物盗りの犯行に見せかけるためにウエストバッグの中身を盗んだ可能性だってある。犯人はなぜ被害者のリュックを盗んでいかなかったのか?」
                                                「そうか。物盗りの線は薄いのか。ところでうちのガドガドの味はどうかね。今日のはチキンも入っていてうまいだろう」
                                                鷹石が警視に同意を求めた。
                                                「うん。ガドガドもうまいが、今日はソト・アヤム(チキン・スープ)が抜群だね」
                                                「ああ、スチはソト・アヤムを得意にしている。元亭主がバリ人の例にもれず闘鶏が大好きだった。賭け事にのめり込んでいっこうに働こうとしない。スチはとうとう我慢できなくなって、あるとき亭主が大切にしている闘鶏用のトリをつぶしてスープにして、亭主に喰わせたそうだ。それがもとで夫婦わかれさ」
                                                「バリ人にとって闘鶏は男らしさを象徴する遊戯なのだ。中ジャワあたりの農家では、家の門の横に高いポールがたててあってね。朝になると亭主が鳥かごをさげて現れ、するするするっと鳥かごをポールの上にあげる。国旗掲揚の要領だね。それから亭主はイスを出してポールのそばに日がな一日座り込んで、カゴの小鳥が『チチチチ…』と鳴くのを待っている。その間、畑や田んぼに出て働くのは女房の方だ。これがインドネシアの極楽トンボの相場さ。ちょっとだけ違いがあるとすれば、バリの男にとっては、闘鶏に使う雄鶏は彼の男らしさや性的能力の象徴なんだな。離婚に至ったのは当然のことだ」
                                                「スチはそのあとでやたらソト・アヤムをつくるようになったそうだ。わたしはこの家に住んだ3年というものスチのソト・アヤムにどっぷりつかって過ごしてきた。この間などはソト・アヤムの海でおぼれて死ぬ夢を見たほどだ」
                                                「それは豪勢な夢だね。ところで、殺しの現場だが、表通りから離れた、奥まった路地の中なので、今のところ目撃者をさがし出せていない。付近で聞き込みをしているのだが、銃声らしい音を聞いたという証言はいまのところない」
                                                「他殺死体が2つ見つかった。身元は判明した。今のところはっきりしているのはそれだけか」
                                                「そういうことだ。たいていの殺人事件はこのようなはっきりしない状況で始まるのさ」
                                                「ところで麻薬関係の可能性はないのか」
                                                「そっちの方も一応あたっている。死んだ男も、女の方も麻薬関係のコネクションはいまのところ出てきていない。ただ、手際のいい殺しなので、その道のプロの犯行の可能性については留意しておくことが必要だと思っているよ」
                                                 警視はゆでた青菜にピーナツソースをたっぷりと絡ませて、ガドガドを食べ終えた。
                                                「それで通訳の仕事だが」
                                                鷹石が警視を見た。
                                                「ソト・アヤムもガドガドもうまいし、あんたとのおしゃべりも楽しい。それで肝心のここに立ち寄った用向きをまだ話さないままでいた。スラバヤ総領事館デンパサール駐在官事務所の久保田尚領事がセタ・サヨの在留届の緊急連絡先になっている両親に今日の午後連絡をとる手配をしてくれた。両親は仙台という町に住んでいるらしい」
                                                「仙台か。5月の仙台は街をとりかこむ木々の新緑が鮮やかな季節だ。呼吸をすると肺の中が薄緑に染まるような錯覚におちいる。いい街だよ」
                                                「領事の久保田さんの話では、仙台から東京に出て、成田からデンパサールに飛ぶことになるそうだ。航空券の手配などが終わったら、到着の日時を改めて連絡してくれることになっている。ジャカルタでは海外に脱出しようとするノン・プリブミや外国人などが、スカルノ・ハッタ空港から出発する国際便の席を争って入手しようとしている。バリのングラ・ライ空港もだいぶ混み合っているそうだ。一方でかなりの外国人がジャカルタからバリのビーチに避難してきている。ジャカルタのオフィスビルはスプレーのペンキで『プリブミ』と壁に書いたり、『リフォルマシ(改革)支持』と書いたりしてお守り代わりにしている。個人の家ではイスラムのお祈りのための個人用絨毯・ティカル・スンバヤンを吊して魔除けにしている。金のあるやつは外国人同様、バリに逃げ出してきているがね。一方で、デンパサールに飛んでくる国際便の方はガラガラだ。定期便が運行を停止しない限り席の方はなんの問題もない」
                                                「そうするとデンパサール到着は早くても明後日17日のことになりそうだね。その心づもりでいるよ」
                                                「ありがとう。いつもながらのご協力を感謝する」
                                                警視がまん丸い顔をにっこりとさせた。
                                                「ところでスハルト大統領だが、訪問先のカイロで辞任を口にしたと14日付のコンパス紙が伝えて、ちょっとした騒ぎになっているが、辞任する気なのかい」
                                                鷹石がたずねた。
                                                「辞任する気もないだろうし、辞任したくても辞任できない。死ぬまで大統領を辞められない。スハルトは大統領に7選され、これまで30年余りにわたってインドネシアを支配し続ける強固なシステムを築いたが、円満引退の環境を整えておくことを忘れてしまった。大統領をやめたとたん、不正蓄財、人権侵害、1965年の共産党殲滅作戦による大量殺人の容疑を追及されることになる。辞めたくても辞められないんだよ。1990年にシンガポールの首相を円満退職した盟友のリー・クアンユーのことを、スハルトは大いにうらやましがっていることだろう」
                                                「そうだろうなあ。わたしなんかも、ついこのあいだまでは、民主化を要求する勢力など蟷螂の斧でしかない、スハルトのインドネシア支配は彼が死ぬまで続くと思っていたよ。それがタイで始まったアジア金融危機であれほど強固だったスハルトの権力基盤があっとの間に崩れてしまった」
                                                「鷹石さん、すべからくものごとには終わりがある。夜のとばりがおりて始まったワヤンの長いながい物語も、いずれ夜明けとともに終りを告げることになる。さて、夜が明けないうちに私は自宅に帰ることにしましょう。ごちそうさま。通訳の件の詳細についてはおっつけ連絡します」
                                                鷹石は警視を玄関先まで見送った。
                                                「スラマット・マラム(おやすみ)」
                                                 警視は愛用のインドネシアの国民車キジャンを運転して帰って行った。

                                                 

                                                      (つづきはおおむね毎週日曜日に掲載)

                                                 

                                                 

                                                 

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