2019.07.14 Sunday

『だまし絵のオダリスク』   第18回

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     槙村は23日の午前中ドイツ大使館にマクシミリアン・ベルゲン中佐を訪ねた。
     ドイツ大使館はさすがに立派な建物だった。大使館のつくりはその国が駐在国にどの程度の重要性をおいているかのバロメーターである。ドイツ大使館の威容に比べると日本大使館は大いに見劣りがする。
    「槙村中佐、ドイツ大使館へようこそ。そちらのソファーへどうぞ」
    ベルゲンが張りのある声で言った。ベルゲンの執務室にはトルコ煙草のにおいが漂っていた。ベルゲンが槙村に応接テーブルの煙草ケースを差し出した。
    「トルコ煙草です。私は水煙草の愛好者ですが、さすがに執務室であれをやるのは気がひけましてね。この紙巻煙草で我慢しているのです」 
    ベルゲンはそういいながら、ライターで槙村の煙草に火をつけた。
    「昨日、日本大使館の同僚の武官から聞いた話だと、17世紀のイスタンブールは煙草が大流行で、喫茶店は煙草の煙で客の顔がかすむほどだったそうです。それで、スルタン・ムラト4世が煙草とコーヒーを禁止し、禁止令に背いて煙草やコーヒーにふけっていた者を捕らえて、見せしめに処刑したそうです。執務室で水煙草にふけるアプヴェールの幹部となると、ラインハルト・ハイドリヒのSDにその弛緩ぶりを衝かれそうな図ですな」
    槙村はきわどい冗談で返した。ナチスの親衛隊(SS)の情報機関である親衛隊情報部(SD)が大使館内に勢力を広げ、国軍情報部アプヴェールにとってかわろうとする露骨な動きが広がっていた。SD長官だったラインハルト・ハイドリヒはいまやSDとゲシュタポを参加に持つ国家保安本部(RSHA)の長官として、アプヴェールをRSHAにとりこもうと画策していた。
    「敵地の真ん中で勤務する情報機関員は、一寸先は闇という緊張と、いつも背後にナイフの気配を感じているような不安につつまれて暮らさねばなりません。煙草とコーヒーとウィスキーはきつけ薬代わりです。中立国ではそうした怖さがありません。中立国の首都というのは諜報関係者にとっては天国のようなところがありましてね。ここではドイツとイギリス、それにソ連が情報戦争を繰り広げています。さらにトルコ共和国もドイツ、イギリス、ソ連の腹を探ろうと情報戦争に参入しています。せまい舞台が役者でいっぱいですよ。にもかかわらず、ビシッと役者を統べる演出家がいない。田舎芝居のようなものです。水煙草が似合います」
     ベルゲン中佐はアブヴェールのトルコにおける情報網の統括責任者だといわれている。だが、アンカラの外交筋には別の見方もあって、フランツ・フォン・パーペン大使着任以来、ドイツ大使館全体が巨大な諜報機関になったという。その諜報組織を取り仕切っているのが、諜報・陰謀好きな大使フォン・パーペンその人であるというのが、アンカラ外交筋の見立てだった。
     フォン・パーペンはドイツの裕福な名家に生まれて軍人になり、第1次大戦中ドイツ大使館付武官として、アメリカで諜報活動を繰り広げた。間もなくパーペンはアメリカ合衆国政府からペルソナ・ノン・グラータとして国外退去を命じられるが、そのさいドイツ本国へ送った荷物の中から、パーペンのアメリカにおける諜報網などの資料が見つかった。意外にうかつなスパイであった。
     第1次大戦後、パーペンは政界入りし、ヒンデンブルク大統領の下で首相をつとめ、ナチスの台頭後はヒトラーの下で副首相をつとめた。ドイツと戦っている連合国側の駐アンカラ外交関係者の間では、パーペンは陰謀好きなオポチュニストにすぎないという見方が大勢を占めていた。
    「スパイ天国のことはさておき、日本大使館の田川さんの件ですが……」
    ベルゲンは吸い込んだ紙巻煙草の煙をいきおいよく吐き出しながら槙村をみつめた。
    「イスタンブールやここアンカラで田川の足跡を追ってみて、私はどうも田川がなにか国際的な陰謀に巻き込まれたのでないか、という気がしてきました」
    槙村は素直な感想を述べた。
    「われわれも槙村さんがお感じになっているものと似たような背景あるのではないかと考えています。イスタンブールで情報収集にあたっている部員から、どうやら田川さんはソ連情報に関係した諜報戦あるいは防諜戦に巻き込まれた可能性が濃厚だと報告があがってきました。田川さんはボスポラス通峡権問題を研究なさっていたとか?」
    ベルゲンが紙巻を灰皿におしつけてもみ消しながら言った。
    「ええ、かなり真剣に取り組んでいたようです」
    「田川さんはボスポラス通峡権の歴史的変遷をたどっているうちに、現代の問題に行き着いたのではないかと思います」
    「現代の? 現代のボスポラス通峡権問題とは、具体的にいうと何のことでしょうか」
    「ソ連です」
    ベルゲンが強い口調で断言した。
    「黒海に港湾を持っているソ連は、ボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通過して地中海に出るルートの航行権を喉から手が出るほど欲しがっています。このルートの自由通峡権を確保し、できればそれを独占したいと考えている。ボスポラスの軍艦通航をトルコに認めさせるために、共同でトルコに圧力をかけようではないかと、ソ連がドイツにもちかけたこともありました。ドイツ対イギリスという資本主義国家同士の戦争が長引いて双方の国が疲弊すれば、そのときソ連がヨーロッパを勢力圏に組み込むことができると彼らは考えている。その意味でヨーロッパとアジアの境であるボスポラスがソ連の勢力下に入るということは、黒海―ボスポラス海峡―ダーダネルス海峡―地中海―ジブラルタル海峡―北海と、ヨーロッパを取り囲む海がやがてはソ連のものになるということです」
    「それはまた壮大な戦略ですな。その件はいずれ機会を待って詳しく議論しましょう」
    槙村が皮肉っぽい口調で言った。
    「そうですね。本日の問題とはちょっと遠かったですね。ソ連はボスポラス海峡についてのソ連側情報をちらつかせて田川さんを引きつけ、見返りに田川さんから何かの情報を引き出そうとした」
    「田川の取引相手はボリス・ボフスキーですか?」
    槙村が念を押した。
    「まずそう考えて間違いないでしょう」
    ベルゲンが自信たっぷりに答えた。
    「ボリス・ボフスキーがトルコに帰ってくる可能性はありそうですか」
    槙村が独り言のような口調で言った。
    「それは難しいでしょうね。彼は先月アンカラから姿を消しています。どうやら急遽モスクワに呼び戻されたようです。何のため? 田川さんから仕入れた情報の分析に関わっているか、あるいは、不用意に田川さんに漏らした情報のことで責任を追及されているか、そのどちらかでしょう」
    「ソ連が田川から聞き出したかった情報とはなんでしょうか?」
    「おそらくそれは、槙村中佐、あなたが今回トルコにこられたいまひとつの目的と関連しているのではないかと思います。あなたのトルコ来訪の表向きの理由は田川さんの事件の捜査状況を知ることですが、われわれがベルリンの日本大使館からほのめかされているいまひとつの隠された目的、どちらかというとその方がより重要な目的なのでしょうが、そのこととおおいに関わっているようです」
    「どんな根拠からそのようなことをおっしゃるのでしょうか」
    「モスクワからアブヴェール本部に届く情報では、ソ連情報機関はいま2つのことに神経をとがらせています。いつドイツがソ連攻撃を始めるのか。日本がソ連極東に攻めこむのはいつか。その2点です。連合国側はモスクワに対して、いまにもドイツのソ連攻撃が開始されるだろうという警告を繰返し届けています。それに対してモスクワは疑心暗鬼に陥っています。モスクワがその警告を信じきれないのは、ソ連最高指導部の中にその警告が自陣営にソ連を引き込み、ドイツとの戦争を有利にするためにしかけた連合国側のワナではないかと疑っている者がいるからです。連合国から寄せられる情報の信憑性を検討する材料として、かれらはドイツのソ連攻撃の可能性についての別ルートの情報を欲しがっているのです」
    「しかし、田川はなぜ死ななければならなかったのでしょう」
    「ボリス・ボフスキーが田川さんと接触し、情報を手に入れようとしていたとき、不注意から何か重要なことをふと田川さんに語ってしまったことに気づき、田川さんを生かしておけなくなったとも考えられます。私はソ連の特殊工作員が田川さんを殺害したのではないか疑っているのです」
    ベルゲン中佐が突然、核心に入っていった。

     

    2019.07.04 Thursday

    『だまし絵のオダリスク』   第17回

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      その日の夜、槙村はケレム・オザンを誘って夕食に出かけた。ケレム・オザンは54歳。1890年9月16日夜、台風をついて和歌山県の串本沖を航行中に座礁し、沈没した当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥルル号の殉職した乗組員の遺児だった。エルトゥルル号は親善使節として日本を訪れたあと帰国途中だった。この海難事故で600人近い乗組員が水死あるいは行方不明になった。生存者はわずか70人ほどだった。当時の和歌山県大島村の住民たちが懸命の救援にあたった。日本政府も援助した。民間から義捐金が寄せられた。こうした縁でケレム・オザンは日本の民間団体の奨学金を得て、日本の私立大学で学んだ。1925年日本とトルコ共和国の間で外交関係が結ばれ、日本が正式にイスタンブールに大使館を開いて以来、ケレム・オザンは大使館で働いている古参だった。館員を手際よく補佐し、通訳を務め、トルコ人雇員をひとつにまとめていた。
       日本の大学で学び、日本語を話すケレム・オザンに田川は日本人の同僚には言えない愚痴を聞いてもらっていたようだ。去年7月、松岡洋右が第2次近衛内閣発足にともなって外務大臣に就任し、「松岡人事」と呼ばれるようになった外務省の大幅人事異動を行なった。40人以上もの大使・公使など主要な外交官が帰朝を命じられた。駐ソ大使東郷茂徳を更迭し、
      陸軍中将建川美次を後任にあてた。駐ドイツ大使を来栖三郎から陸軍中将大島浩に代えた。さらに駐アメリカ大使を堀内謙介から海軍大将野村吉三郎とした。キャリアの外交官を軍出身者と入れ替えた。軍の政治介入がとうとう外交にまで及んだ。9月22日には日本軍が仏領インドシナに進駐、同じ月の27日には日独伊三国同盟が締結された。日本の強硬な姿勢に対してルーズベルト大統領が脅迫や威嚇には屈しないと演説し、松岡の登場で日米関係はさらに悪化した。
       駐トルコ大使も武富敏彦から栗原正に代わった。2人ともキャリアの外交官だったが、栗原は軍の主張に共鳴するいわゆる外務省革新派の中心人物白鳥敏夫に近く、大島浩ドイツ大使と同様の枢軸派だった。アンカラの日本大使館でも枢軸派の言説が声高に語られるようになった。大使館随一の枢軸派で、「アナトリア高原の日本オオカミ」とあだ名をつけられた館員は、ドイツが西からソ連を攻め、日本が東からソ連を攻め、やがて日独両国がユーラシア大陸のどこかでまみえる日がくるのだ、など広言していた。だが、それを正面切って世迷いごとと言い返すだけの元気を館員たちは失っているようである。
      「戦争を回避するために妥協点を見つけ出すのが外交の役割なのに、いまは妥協を嫌い戦争も辞さずという荒っぽい風潮が日本外交に蔓延してきている。一体この先、日本の外交はどうなるんだろう、と田川さんが私に言ったことがありました。そのとき田川さんがふと私に漏らした言葉があります。『トルコ女性はいい嫁さんになるかな』と。田川さんはそれ以上のことは何も言いませんでしたが……」
       田川が外務省職員として軍の外交への介入を嫌っていたとしても、それが外交機密を他国に漏らす動機になると疑うのは論理の飛躍だろう。だが、田川がもし別の理由があって機密を漏らそうかどうかと決めかねているときは、こうした不満感が田川の背中を押すことは考えられる。槙村はふといやな予感におそわれた。槙村はケレム・オザンに手をさしのべて握手を求め、ありがとうと礼を言った。そしていまひとつの頼みごとをした。
      「あす朝、アンカラ大学のギュチュリュ教授に電話して面会の約束をとってくれませんか。できるだけ早く会いたい」

       アンカラ大学のギュチュリュ教授との面会の約束はあっさり取れて、槙村は22日の午後、教授と会った。中背だが、太めの胴回りの、アジア風の顔立ちの50前後の男だった。
      「さっそくですが、ソ連大使館のボリス・ボフスキー氏のことですが、田川とはそうとう親しかったと聞いていますが」
      あいさつのあと槙村が切りだした。
      「ええ、お2人ともボスポラス海峡をめぐる議論の歴史について真摯な興味をお持ちでしたが、田川さんは不幸な事件でおなくなりになり、ボフスキー氏は先ごろモスクワに帰任なさったときいています。さびしい限りです」
      「田川はどのくらいの頻度で教授のところへお邪魔していたのでしょうか」
      「田川さんが私の部屋に最初に見えたのは、1年ほど前のことで、イスタンブール大学のスタイナウアー教授の紹介でした。そのときたまたまボフスキー氏もお見えになっていて、お互いの関心のありかがボスポラス海峡問題だということで、意気投合されたようです。2ヵ月に一度程度お見えになりました。たいていボフスキー氏とごいっしょでした」
      「ボスポラス問題以外に、なにか最近の政治事情について2人が話しあっていませんでしたか?」
      「それはもう、お2人とも外交官ですから、今の戦争やトルコの立場、ボスポラス通峡権の今後など、盛んに時事問題を論じ合っていました。私のような書斎人にはなかなか勉強になるお話でした」
      「で、何か極秘情報のやり取りのようなものは?」
      「まさか、わたしが聞いているところでそのような重大なことを話し合われるわけはないでしょう。それに、お2人の話題はどちらかというと、歴史的な資料についてでした。たとえば、1833年にオスマン・トルコとロシアが相互防衛同盟として締結したヒュンキャル・イスケレシ条約の秘密条項である『ロシアが攻撃された場合、トルコは支援の軍を派遣する代わりにロシアを除くすべての外国軍艦の海峡通過を禁止する』が合意された背景を説明する史料などについての情報交換でした。そのあたりは私も興味を持っているところなので、お2人の会話に仲間入りさせていただき、有意義な時間を過すことができました」
      「ボスポラス問題はなかなか奥の深い国際問題なのですね」
      「ボスポラス海峡問題はロシアとトルコの歴史的な勢力争いの象徴です。最近はトルコの旗色が悪い」
      ギュチュリュ教授がおだやかな口調で話し始めた。
      「ロシアとトルコの勢力争いは、それぞれがロシア帝国、オスマン帝国とよばれていた18世紀から繰り返されています。ロシアとトルコのあいだの戦争の理由は、トルコの北方への野心ではなく、黒海から地中海めざして南下しようとするロシアの地中海への情熱です。最初のうちは、そう、18世紀のはじめごろまではオスマン帝国とロシア帝国の戦争遂行能力はほぼ互角で、黒海北岸の支配権をめぐる戦争は一進一退のうちに終始していました。ロシア帝国の実力がオスマン帝国を凌駕するようになったのは18世紀の後半からのことです。エカチェリナ2世の時代のロシア帝国はオスマン帝国の属領だったクリミアを手中におさめました。勢いにのってバルカン北部への進出をねらったロシア帝国は、オスマン帝国とロシア帝国の間の緩衝国だったポーランドの王位継承問題に干渉しました。ロシアに押し出される格好でオスマン帝国領内に逃げてきたポーランド民族主義者を追って、ロシア軍がオスマン帝国領内に侵入し、そこでロシア帝国とオスマン帝国は1768年に戦争状態に入りました。オスマン帝国はこのころ軍事的に弱体化しており、ギリシャでは民族蜂起まで起きた。戦争に勝ったのはロシア帝国でした。この戦争によってロシア帝国は黒海における艦隊の建造権、商船のボスポラス海峡とダーダネルス両海峡の通峡権とを獲得しました。また、オスマン帝国領内におけるギリシャ正教徒に対する保護権も得て、それをオスマン帝国の内政への干渉の口実に使う糸口をつかみました。いや、申し分けない。退屈ですかな。このような初歩的な歴史の話は」
       ギュチュリュ教授が槙村に言った。
      「とんでもない。いい勉強になっています。ぜひとも続きをお聞かせください。田川が興味を持っていたことの真相に迫るために必要な基礎知識ですので」
       槙村が応じた。
      「このあと、ワラキアとモルダビアの支配権をめぐって両国は戦争を開始。ギリシャで民族解放戦争が始まりました。ギリシャ解放戦争を支援したロシア、イギリス、フランスとの海戦でオスマン帝国は敗北しました。オスマン帝国はギリシャの独立を承認しました。ロシアはドナウ川河口の諸島や東部アナトリアのいくつかの地域を割譲させ、黒海の制海権を事実上手に入れました。次にクリミア戦争。19世紀中ごろ、聖地エルサレム管理権問題が発端になってロシア帝国とオスマン帝国が開戦しました。イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニャはオスマン帝国を支援してロシアに宣戦しました。この戦争でロシア帝国は負けました。その結果、黒海は中立地帯に指定されることなどが決まりました。このあとも、ロシア帝国はパン・スラブ主義を掲げてバルカンへ再進出しました。黒海で艦隊の建造を進めた。バルカンで民族蜂起が起こると、ロシア帝国はスラブ民族の救済を口実としてオスマン帝国と戦端をひらきました。この戦争でオスマン帝国はロシア帝国に敗北し、オスマン帝国の領土だったバルカンでロシア帝国の影響力が強まりました。これを機にオスマン帝国の領土は西欧列強の草刈場になりました。フランスがチュニジアを占領し、イギリスがエジプトを占領しました。第1次世界大戦での敗北で、オスマン帝国は瓦解し、トルコはかつての版図の大半を失ってこぢんまりとした弱小共和国として、列強の鼻息をうかがいながら延命しているわけです……」
       槙村はギュチュリュ教授の部屋から早々に退散した。

       

      2019.06.06 Thursday

      『だまし絵のオダリスク』   第16回

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         大使館の保安態勢の確認作業を終えた槙村は、20日から大使館に残されている田川関連の資料、報告書などにあらためて目を通し始めた。
         槙村は田川がここ1年ほどの間に東京へ送った報告書の控えの綴りを点検した。田川の死と結びつくような内容の報告を探そうとしたのだ。だが、大使館でトルコとバルカンの経済情報の収集と分析を担当していた田川の報告は、槙村の目には退屈な代物に映った。
         田川はトルコ政府の経済統計発表資料や現地の新聞報道などを引用した経済報告を数多く外務省に送っていた。内容はともあれ報告書の本数だけで考えれば田川は働き者の官吏だったといえる。田川の報告書はどれも無機的な文章でつづられていた。
         たとえば、1939年のトルコの耕作面積がいくらであるとか、農産物の収穫量の第一は小麦であり、大麦がそれに続き、家畜飼育頭数では羊が第1位で山羊、牛がそれに続く。トルコの1935年の人口が約1600万で、1939年の羊の飼育頭数が約1900万と、この国では人間より羊の方が多い。そういった退屈な数字が並ぶ報告書ばかりだった。田川の報告書は東京で外交政策を決めているお偉方の目に触れることもなく、外務省の文書倉庫の中で眠りこけていることだろう。
         そうした報告の中で、槙村がふと目にとめたのは、トルコの外国貿易統計だった。1938年にはドイツ・オーストリアがトルコの最大の貿易相手国だった。トルコの輸入の47パーセント、輸出の33パーセントを占めていた。輸入相手国ではイギリスの11パーセント、アメリカ合衆国の10パーセント、輸出相手国ではアメリカ合衆国の12パーセント、イタリアの10パーセントに大きく水をあけていた。
         ヨーロッパで始まった戦争を、それぞれ自国に有利な方向へ展開させようとして、ドイツ、イギリス、ソ連がトルコに秋波をおくっている。経済的な依存度からすればトルコとドイツの関係が他の2国をはるかに引き離して濃密である。トルコとソ連の間の貿易関係は輸出入とも全体の4パーセント弱に過ぎない。
         この4月ドイツはトルコに対して軍事協力を執拗に求めた。イラクで親ドイツ路線をとるラシード・アル・ガイラーニーがクーデタを起こしたときのことだった。
         オスマン帝国の衰退は19世紀すでに始まっていたが、第1次世界大戦の結果、オスマン帝国の崩壊がもはや決定的になり、ヨーロッパの列強、イギリス、フランス、イタリア、がオスマン帝国の版図を分割し、新しい支配者になろうとした。北アフリカはイギリス、フランス、イタリアが分捕り、中東ではシリア、レバノンをフランスが、パレスティナをイギリスが手に入れた。
         イラクでは親英国グループと民族主義グループの2つの政治勢力の対立が激しくなっていた。オスマン帝国崩壊にともなってイラクに王国が成立したのは1921年のことだった。そのころイラクはイギリスの委任統治下におかれていた。イラクが正式に独り立ちの国家として成立したのは1932年だったが、イギリス・イラク条約によって事実上のイギリスの間接統治が続いた。このため、イギリスの庇護の下で、親英派の旧オスマン帝国軍人や官僚たちによる政権が続いた。
         一方でイギリスの中東政策に批判的なアラブ民族主義政治グループが台頭してきた。政権の座についた権力者が反対派を封じ込めて体制維持をはかる役目を軍に期待し、軍を増強する例はめずらしくない。増強された軍はやがて軍の権益拡大のために政治グループと結びつき政治に介入し始める。
         第2次世界大戦が始まるとイギリスの支配下にあったイラクで、反英派のイラク人政治家がドイツと組んでイギリスの支配を断ち切ろうとする動きを見せた。1941年3月、軍のアラブ民族主義者たちのクーデタによって、親ドイツ派のラシード・ガイラーニーが首相になった。
         イギリスは追放された前首相を保護下に置き、イラクへ軍を進めた。そこでガイラーニーはドイツに軍事援助を求めた。成り行きによっては、中東でイギリスとドイツの代理戦争が始まりかねない情勢だった。
         ドイツはガイラーニー政権への援助物資をバルカンのトルコ国境まで輸送できる。だが、そこからイラクに輸送するためには、どうしてもトルコ領内を通過しなくてはならない。ドイツはトルコに隣接する西トラキアの一部などをトルコに割譲するのと引き換えにイラクへの援助物資のトルコ領内通過を認めて欲しいと告げた。
         対英関係に配慮するトルコがドイツの要求を呑むことを渋っているうちに、イギリスはインドから送り込んだ部隊を使ってガイラーニー勢力つぶしにかかった。ドイツからの援助物資が届かないかぎり、イギリスによるガイラーニー勢力の一掃は時間の問題だろう。
         触れれば火傷しそうなほど熱い昨今の政治動向に関連した報告書でもあれば田川の死の理由を探る糸口になると槙村は期待していたのだが、それらしいものは見つからなかった。槙村は20日いっぱいをかけて田川が東京に送った報告書や、田川が宿舎に残していた書籍、ノート類に目を通した。だが、これといった収穫はなかった。
         槙村は21日、田川と親しかった二等書記官の島原から、田川の行動について話を聞いた。島原は大使館きってのトルコ語の使い手だった。また、田川より1年早く大使館に赴任してきた先輩でもあった。
        「田川さんがトルコ人の若い女性と一緒に死体で見つかったことは、私にとっても驚きでした。田川さんの身辺にはあまり女っ気が感じられませんでしたから。なんというか、洗濯したてのシャツのような清潔感のある感じの人でしたから。多分、日本に田川さんの帰国を待ちこがれている恋人がいるのかもしれない、などと私たちは思っていたのですよ」
        島原が言った。
        「一緒に死んでいた女性、名前はチチェキというのですが、その名前を田川からお聞きになったことはありませんでしたか」
        槙村が念のために聞いた。
        「いいえ、それらしい名前は耳にしたことがありません。ご覧のとおりアンカラは荒涼とした開発途上の首都でして、ここに駐在する各国の外交官たちは暇をみつけてはイスタンブールに出かけます。そこにはなつかしいヨーロッパの匂いと、海から吹いてくる涼しい風がありますから。アンカラでは連合国側と枢軸国側の外交官は必要な公式接触の場を除いて、顔をあわせることがなくなりました。とはいえ、このとおりの狭い世間ですから、外交官たちの私行に関わる噂は、回りまわって伝わってくるのです。某国大使館高官が最近イスタンブールのフラットにギリシャ系の美女を囲い、用件をつくっては足しげくイスタンブールに通っている、とかなんとか。イスタンブールへ女あさりに出かけることを、ここの外交官連中は『ポアソン・グレック(ギリシャの魚)を味わいに行く』と隠語で言っています。たしかに、マルマラ海はダーダネルス海峡を通じてエーゲ海につながっていますから、本物のギリシャの魚がエーゲ海から入ってくるかもしれない。各国の大使ともなるとアンカラの夏の暑さを避けて涼しい海風の吹くイスタンブールの領事館や大使の別邸に行き、備え付けの小型ヨットに外交団やトルコ政府高官らを招いて海に出て、ボスポラス海峡で本物のポアソン・グレックの釣りを楽しんでいます。そうした釣り大会が密談の場になることもあるそうです。あるいは、某国の書記官がイスタンブール出張のさいはめをはずしてペラのバーでブランデーをあおった勢いで、日ごろ中の悪かった某国の館員と殴り合いのけんかをしたとか。アンカラは外国人にとっては閉塞社会ですから、うさばらしにこの手の噂は珍重されるのです。ですが、田川さんについてはこうした噂はこれっぽっちも聞いたことがありませんでした」
        「大使や総務担当一等書記官から聞いたのですが、田川は経済情報以外にも、ソ連の軍事情報収集の手伝いをしていたそうですね。もっとも、田川が自分の名前でソ連情報を本省に送った形跡は見あたりませんでした。おそらくソ連専門の書記官に情報提供していた程度なのでしょう。島原さん、ソ連情報の関係で田川と何か話をなさったことがおありですか」
        「ええ、ソ連情報に関心があると田川さんはいっていました。いまどき日本の在外公館に勤務している外交官であれば、誰しもそうでしょうが、極東におけるソ連軍の兵力配置に関する情報収集と、ソ連側の対日情報収集工作についての情報集めです。こんなことを武官の方に申しあげるのは気がひけるのですが、ソ連は兵力の一部をヨーロッパ戦線に移したがっている。移動の前提は日本のソ連極東地域への進攻の可能性が薄いと確信できることです。ソ連はその点に関して日本の情報をほしがっている。一方で、ドイツはソ連の兵力をこれまで通り極東部にはりつけておきたい。そういうことで田川さんはソ連とドイツの大使館員と接触を重ねていたのではないでしょうか。田川さんのいまひとつの関心であるボスポラス海峡に対するソ連の野心についての情報収集も目的だったのでしょう」
        「田川はどの程度の情報収集ができていたのでしょうか。その点で何かお気づきになったことは?」
        「こういう言い方は亡くなった田川さんに失礼かもしれませんが、しかるべき訓練を受けたことのない外交官に諜報員もどきの秘密情報盗み出しなどしょせん不可能でしょう。外交官にできることは情報の分析とその分析にもとづいた将来予測です。しかし、その予測を出したところで、天気予報みたいにあたるも八卦あたらぬも八卦と、棚の上に放りあげられておしまいなのですが」
        「田川のいまひとつの関心だったボスポラス海峡へのソ連の野心については、なにかご存知でしょうか」
        「田川さんは学究肌のところがありましてね。イスタンブール大学法学部のスタイナウアー教授と親しく、教授の指導でボスポラス海峡の通航権問題と取り組んでいました。スタイナウアー教授はユダヤ系ドイツ人です。ナチの迫害をうけている一流のドイツ人学者の受け入れに積極的なイスタンブール大学に招かれて、そこで国際法を教えています。ボスポラス通峡権問題では、世界的な権威の1人だそうです。田川さんはイスタンブール出張を利用してはスタイナウアー教授に会って研究の指導を受けていたようです。一方、帝政ロシア時代からのロシアのボスポラス海峡に関する政策については、アンカラのソ連大使館員ボリス・ボフスキーがその専門家で、彼からさまざまな資料や情報を仕入れてもいました。ボフスキーも田川さんもアンカラ大学のギュチュリュ教授の研究室へよく出入りしていました。この教授もトルコ側から見たボスポラス海峡問題の専門家といわれています。私がお話できるのはこの程度のことです。すこしでもお役に立てばうれしいのですが。ところで、大使館のトルコ人職員ケレム・オザンとお話になりましたか。田川さんはトルコ政府や他国の大使館、地元新聞との接触のさい、トルコ語が必要と思われるときはオザンをともなって出かけていましたから、彼から私が知らない部分についてもお聞きになれるかも知れません」
         そう言って島原は自分の仕事へもどっていった。

         

        2019.05.22 Wednesday

        『だまし絵のオダリスク』   第15回

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           列車がアンカラ駅に到着した。風の強い朝だった。槙村は小型の旅行鞄ひとつでアンカラ駅に降り立った。アンカラの鉄道駅は市の中心部からはずれたところにあった。もともとアンカラはイスタンブールにくらべれば小さな田舎町にすぎない。アンカラは田舎町の原野を切り開いて造成されている開発途上の都市だ。不便なうえ気候も厳しい。アンカラの夏は暑く、冬は雪に埋もれる。政務だけのあじけない人工都市だ。
           1923年に成立したトルコ共和国は首都をアンカラに定めた。首都がトルコのイスタンブールからアンカラに移ってからも、各国ともしばらくは大使館をイスタンブールにとどめおいた。大使館のアンカラ移転は1930年代になってからのことで、日本大使館がアンカラからに移転したのも1937年のことだった。
           アンカラの街には一本の大通りがはしり、その名をアタテュルク通りといった。アタテュルク通りの両側にトルコ共和国議事堂、内務省、国防省、外務省をはじめとする政府機関の建物がならんでいた。ドイツ大使館、ソ連大使館、イタリア大使館、ハンガリー大使館、日本大使館、イギリス大使館、フランス大使館、アメリカ合衆国大使館などの外国公館もアタテュルク大通りに沿って建っていた。街にはまだ気のきいたレストランが少なかった。イギリス、ドイツ、イタリアの外交官や実業家、ジャーナリストたちが同じレストランで隣り合わせのテーブルを占めることもあったが、ヒトラーがヨーロッパで戦争を始めてからは、さすがに戦争当事国の外交官同士はそっぽを向き合っていた。
           19日朝、槙村はアンカラ鉄道駅からタクシーで日本大使館へ直行し、さっそくベルリンで指示を受けていた作業を始めた。

           槙村は今回のトルコ出張にあたってベルリンの大使館付海軍武官の飯島少将からトルコでやるべき作業の指示を受けていた。
           5月9日のことだった。槙村は海軍武官事務所の廊下で「槙村君」と飯島少将に声をかけられた。
          「話したいことがある。君、いま手があいていますか」
          「はい」
          「では、私の執務室へ」
          飯島少将の執務室に入った。飯島少将は例によって単刀直入に話の核心に入っていった。
          「間もなくソフィアに出張ですね。そのあとしばらくの間トルコにも出張してくれませんか。アンカラやイスタンブールでやってもらいたい仕事があります。アンカラの大使館の通信部門の保安態勢の点検です」
          槙村はだまって飯島の顔を見ていた。飯島が槙村の顔をじろりと見て話を続けた。
          「外交電報が盗み読みされている疑いがあるのです。東京と大使館との秘密通信がアメリカ合衆国に漏れていると、ドイツから大島大使に警告があった。大島大使は第三帝国べったりで、日本帝国大使というよりドイツ第三帝国のお仲間のような人だ。だが、それなりにヒトラーに好感をもたれていて、リッペントロープ外相らから重要情報を聞き出して東京に報告している。大島大使が東京に送っているその機密情報がどこかで漏れているのではないかとドイツ側は神経をとがらせているのです」
          「たしかな疑惑なのですね」
          「ああ、どうやらね」
          「それで、漏れているとすれば情報伝達ルートのどのあたりからと、見当がついているのでしょうか。情報漏れの場所はベルリンなのか、東京なのか、それともワシントンなのか。あるいは世界のどこかの大使館、あるいは領事館の通信室なのか。ひょっとして、日本の暗号通信が傍受・解読されているという致命的な原因によるものなのか」
          「そのあたりはまださだかではなくてね。ともあれ各大使館の通信室の保安管理についてあらためて点検するよう東京から指示があった。槙村君、ドイツ進攻後のバルカン情勢視察に出かけるついでに、アンカラの大使館で通信保安管理について調べてもらえないだろうか。駐ドイツ海軍武官府がアンカラの大使館の機密保持について調査するというのは違例のことだ。だが、アンカラのほうでも、大使館独自に機密保持体制の点検を進めており、もし君が外部からの目でダメ押しをしてくれるのであればありがたい、と言っている。君がアンカラに出かけることについては、もちろん駐トルコ大使やあちらの武官からも了解をもらっている。海軍武官用の暗号が解読されているという情報はまだないが、こちらの方も、外交電報漏洩についてのトルコの外交筋の噂ともども、気にとめておいていただけるとありがたい」
          「承知しました。できる限りのことはやります」
          槙村は真面目な表情で答えた。
          「ドイツ政府やドイツ国防情報部などに、君の出張について便宜をはかってくれるよう頼んでいる。先ごろ君の甥ごさん、田川君でしたな、イスタンブールで不慮の死をとげられたが、また事件の真相は解明されていないと聞いています。今回のトルコでの任務は暗号に関わる事柄なので、内密にしておきたい。そこで表向きは甥ごさんの死についてのイスタンブール警察の捜査のその後を知るためにトルコを訪れたということにしておいてください。イスタンブールではドイツ、イギリス、ソ連が熾烈な諜報線を展開していると聞いている。トルコで旅行の目的に関連して君に接近してくる人物がいるかもしれない。注意深い目配りと対応をお願いしておく。外交電報漏洩について何か手がかりになる情報がつかめるかもしれない」
          飯島少将が念押しした。

           槙村は5月19日の午前中から大使館で通信保安関係の点検作業を始めた。大使館の通信室には通常の外交通信用の電信機が1台と、通信室の奥に施錠した別室があってそこに九七式欧文印字機とよばれる暗号機が備え付けられていた。機密度の高い通信はこの暗号装置を使っていた。
           外務省は海軍用に開発された暗号機に変更を加えて使用していた。海軍用はカタカナ印字、外務省用はアルファベット印字だった。九七式印字機は九一式印字機の後継機だった。1931年に九一式印字機が完成した。1931年が皇紀二五九一年だったことから九一式と名付けられた。後継機の九七式は1937年(皇紀二五九七年)に完成した。外務省用は暗号機B型と呼ばれた。外務省と同じ九七式欧文印字機が海軍武官用に使われていた。もちろん、一方の暗号が解読されても、残る一方の暗号は解読されないように、内部の暗号化メカニズムは変更されていた。
           暗号機の置いてある別室、つまり暗号通信室は常に施錠されていて、通信担当の二等書記官が1個、総務担当の一等書記官が1個をそれぞれの金庫で保管していた。また、暗号通信室の使用については使用簿に使用者、通信依頼者名、それに使用時間が記録されることになっていた。通常、使用者は通信室の通信担当員だが、機密の高いものは担当の館員が直接自分で暗号機を操作することもあった。
           暗号室に出入りできるものは日本人の館員に限られていた。また、東京や他の大使館から受信した電報は暗号電報をふくめ、通信担当の二等書記官が総務担当の一等書記官にわたし、そこから担当部署に配布されることになっていた。
          槙村は総務担当の一等書記官が中心になってまとめた館内保安調書を読んだ。保安調書は大使館員から外部に機密情報が漏れていることはありえないと結論していた。大使館のトルコ人現地雇員の身元調査からも疑惑につながるような点はうかがえなかった。大使をはじめとする大使館幹部は、大使館関係者からの情報漏れは絶対にありえないと断言していた。この大使館から情報が漏れていたことはありえない、と槙村も感じた。
           

           

          2019.05.01 Wednesday

          『だまし絵のオダリスク』   第14回

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             5月18日の日曜日、槙村はアンカラに向かった。イスタンブールのハイダルパシャ駅から夜行列車に乗って寝台車で一晩眠れば、19日の月曜日午前中にアンカラに着く。
             イスタンブールのヨーロッパ側を出たフェリーが対岸のアジア側の埠頭につくころ、西に傾いた陽をうけて、海岸から海に突き出た壮麗なハイダルパシャ駅の茶色の壁面が赤みをおびて輝いていた。駅舎としては、西欧に向けたオリエント急行のターミナルであるシルケジ駅よりも、アジア・中東に向けて開いたハイダルパシャ駅のほうがはるかに力感にあふれている。それは威容という言葉がぴったりだ。
             ハイダルパシャの駅舎を設計したのはヘルムート・クノとオット・リッターの2人のドイツ人建築家だ。1906年に着工、2年後の1908年にネオ・ルネサンス様式のこの駅舎を完成させた。
             ハイダルパシャ駅の敷地はマルマラ海沿いの軟弱な地盤だったので、長さ20メートルほどの材木を使って、千本を超えるパイルを打ち込んだ。ハイダルパシャ駅のファサードはドイツ人とイタリア人の石工が飾った。
             まるで海の上に浮かんでいるように見えるハイダルパシャ駅はいまや、東ローマ帝国時代やオスマン・トルコ時代の歴史的建造物にひけをとらない、イスタンブールの風景に欠かせない存在になっている。この建物の壮麗さはドイツ帝国が中東地域へむけたぎらぎらする野望の反映であった。
             19世紀末、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオスマン・トルコのスルタン・アブドゥル・ハミト2世に接近し、ハイダルパシャとアンカラを結ぶ鉄道の敷設権を手に入れた。中東へむけて勢力拡張をもくろむヴィルヘルム2世は、さらに、当時まだオスマン・トルコ帝国の領域だったバクダッドに至る鉄道敷設権もあわせて獲得した。
             カイゼル髭で日本でも有名だった膨張主義者ヴィルヘルム2世がトルコに向ける視線は熱く、皇帝(カイゼル)はトルコ訪問にあたって、ヒッポドロームにアルマン・チェシュメシ(ドイツの泉)とよばれる泉亭を建て、これをスルタンに贈っている。
             ハイダルパシャ駅はベルリンからビザンティウムを経てバクダッドを結ぶ3B政策、つまりはドイツ帝国の中東への野望の象徴である、とイギリスやロシアは警戒していた。
             しかし、野望はお互いさまだった。イギリスはそのころケープタウンからカイロを経てカルカッタに至る3C政策で世界制覇を企画していたし、ロシアは虎視眈々とアフガニスタンやペルシャへ南下する機会をうかがっていた。このため、インドを植民地にしていたイギリスは、ロシア相手にトルキスタンの高原で古典的諜報戦「グレートゲーム」を繰り広げていた。ラドヤード・キプリングの『キム』の世界である。
             槙村は見送りに来てくれたイスタンブール駐在の日本大使館員、別所剛三とハイダルパシャ駅の天井の高い気持のよいレストランで軽い食事を済ませた。プラットフォームまでつきあってくれた別所と車両の前で別れた。コンパートメントに入ってしばらくすると、軽い揺れがあり、列車がハイダルパシャ駅を離れていった。
             列車が動き出してしばらくは薄暮のなかに町の灯りが点々と見えていたが、やがてその灯りもまばらになり、列車の窓の外は濃い闇につつまれていった。
             夜空に星が見え始めた。槙村はコンパートメントの寝台に横になり、明日からアンカラでやらねばならないことを手帳に箇条書にしてみた。さして意味ある結果を期待できるような作業とは思えなかったが、ぬかりなさを価値とする役所仕事の手順として踏んでおくべき事柄だった。作業手順のあらましを手帳に書きとめおえて、槙村は眠気を誘い込むために列車の振動に身をゆだね、羊を数える代わりに、海軍暮しで身につけた就眠儀礼を始めた。
             海軍といえども平時の洋上勤務は退屈な毎日の繰返しで、当直勤務からはずれた夜は眠るぐらいしかやることがなかった。どうやって寝つくか。海軍軍人はそれぞれの就眠儀礼を持っていた。国鉄東海道線の駅名を東京から神戸まで数えるやつ、般若心経を繰返し声にはださずとなえ続けるやつ、枕草紙の記憶や自ら体験した濡れ場のシーンのページを頭の中でめくるやつ――これなどはかえって寝つけなくなるのではなかろうか。
             槙村のそれは銭湯談義風に世界史の中を漂い、その愚行の繰返しに苦笑しつつ眠気を呼び込む方法だった。列車の振動の中でいま槙村はその就眠儀礼を試みている。
             ――ヒトラーが率いるドイツはイタリア、日本と三国同盟を結んでヨーロッパを席巻している。ドイツはすでにブルガリアにまで勢力圏を拡大し、トルコを陣営に組み込む機会をうかがっている。ドイツは再びさまざまな利益誘導でトルコを自陣営に引き入れ、さらにはトルコを通過して中東への進出をねらっている。これはカイゼルの時代の3B政策の再現だ。
             かつてドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗して、ロシア、フランス、イギリスが三国協商を結成した。相互の反目はやがて第1次世界大戦へとなだれこんでいった。
             オスマン・トルコがイギリスのアームストロング造船所に発注していた戦艦スルタン・オスマン1世が、1914年、トルコに引き渡される直前になって英国政府に接収されたことがあった。もともとこの戦艦はブラジルが発注し、建造の途中でブラジルがトルコに転売したものだった。それを今度は第1次世界大戦にむけて英国が自国海軍の戦艦として使用することことにしたのだ。トルコに反英感情が沸騰した。これをドイツがうまく利用した。ドイツは巡洋艦2隻をトルコに派遣した。2隻の軍艦はイスタンブールの金角湾に到着した。軍艦が入港するとドイツはこの2隻をトルコに売却することにしたと、大宣伝した。こうしてドイツはオスマン帝国を味方に引き入れ、同盟国として第1次世界大戦に参加させることに成功した。だが、この参戦がオスマン帝国の命取りになった。
            「歴史は繰り返す」と最初に言ったのは、『アレクサンドロス大帝事蹟』を著したクィントゥス・クルティウス・ルーフスで、彼の死後さまざまな人が同様な趣旨の言葉を繰り返した。カール・マルクスは、おそらく彼が書いた本のなかで一番面白い『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の冒頭で、世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるものだとヘーゲルがどこかに書いていたが、私に言わせれば、ヘーゲルは、「最初は悲劇として、二度目は茶番として」と付け加えるのを忘れた、と書いている。
             結局、人間は数限りない茶番を繰り返し、それを歴史とよんでいるのだ。時の権力者とその取り巻き連中の頭の中に巣くっているのは陣取りゲームの図面だ。その図面を権力者たちはマンダラ(涅槃図)とよび、その実現を唱えて人をかり集める。古代エジプト第19王朝のラムセス2世は当時のエジプト人の平均寿命の倍近い80年以上を生きたといわれている。だが、その長い人生のほとんどを、領土拡張と戦争のためについやした。パレスティナをめぐってヒッタイトと争い続けたが決着はつかなかった。そこで平和条約を締結して休戦。大勢の女性に200人近い子どもを産ませた、と伝説は言う。アブシンベルに神殿をつくり自らの巨大な石像を刻ませた。ラムセス2世の号令で戦の場に駆り立てられた兵士もまた、命をかけたゲームの興奮に酔いしれて、前後不覚の状態になっていたのだろう。巨人とその巨人を尊崇するその他大勢の大行進。その懲りない繰り返しが歴史なのだ。もっとましな人生もあったろうに、もったいないことだ。
             ……やがてめでたく槙村は眠りに落ちていった。

            2019.04.19 Friday

            『だまし絵のオダリスク』    第13回

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              「槙村さん」
              ピーター・ケーブルが改まった口調で言った。
              「けさブルー・モスクにいらっしゃいましたね」
               彼は尾行に気づいていたのだ。槙村は認めるしかなかった。
              「ええ、一度中を見たいと思っていましたので」
              「私もイスタンブールに来た知人を案内して来ました。確かに一見の価値があるモスクです。オスマン・トルコ時代にモスクに転用されたアヤ・ソフィアが1930年代に非宗教の博物館になったので、スルタン・アフメト・ジャーミーとシュレイマニイェ・ジャーミーがイスタンブールを代表する2大モスクになっています。スルタン・アフメト・ジャーミーがブルー・モスクとよばれるのは、モスク内部が壁面にはられたタイルの青い色でみたされているからです。スルタン・アフメト・ジャーミーは1609年、アフメト1世が19歳の時に建設を始めた。スルタンはこのモスクに相当いれこんでいたようで、時には現場に立って建設作業を激励・督促したと伝えられています。モスクは1616六年に完成したが、アフメト1世はその翌年の1617年に27歳で若死にしました。ブルー・モスクがおもしろいのは、ミナレットが6本も建てられていることです。スルタンがミナレットを『アルトゥン(金色)にせよ』と言ったのを、建築家が『アルトゥ(6)』と聞き間違ったからだといわれていますが、この手の話の真偽のほどは例によって定かではありません。いやいや、これはどうも。イスタンブールに来る客をしょっちゅう案内するので、すっかり能書きを覚えてしまいました」
              「モスクを建てるだけために生まれてきたようなスルタンだったわけですね。おもしろい話をありがとうございます」
              「歴史がおもしろくなるのはアフメト1世の死後です。アフメト1世の妃キョセムはギリシャ系の奴隷で、アフメト1世の死去後、彼女が生んだ子のオスマン2世、ムラト3世、イブラヒムや、孫のメフメト4世が次々とスルタンになったので、ヴァリデ・スルタン(スルタンの母)として長期間権勢をふるいました。だが、ついにはハレム内の勢力争いで孫のメフメト四世の母后、つまりは息子の嫁であるトゥルハン・ハティゼに殺された。トゥルハン・ハティゼの命を受けたハレムの宦官長が、カーテンの絹の紐でキョセムの首を絞めたそうです」
              「チチェキ嬢も絹の紐で絞殺されていた」
              槙村のこの言葉にピーター・ケーブルの表情がちょっとゆがんだ。だが、彼は再び話題をブルー・モスクにもどした。
              「オスマン2世は叔父にあたるムスタファ1世にスルタンの座を奪われたのち殺された。スルタンを直接手にかけたのは、スルタンの親衛隊イェニチェリでした。イェニチェリはもともとスルタン直属の精鋭部隊で、槙村さんのお国の日本でいえばトクガワ・ショーグンのハタモトのような存在でしたが、オスマン2世のころには堕落の果てに、戦力としてはもはや頼りにできなくなっていた。軍改革を進めようとしていたオスマン2世がイェニチェリを潰すのではないかと恐れたイェニチェリの将軍たちが、スルタンを捕らえて塔に押し込めたすえ絞殺したといわれている。いや、スルタンは睾丸を潰されて殺されたのだ、という説も流布しています。奇妙な殺し方だが、それもスルタンを殺すためのオスマン・トルコの伝統的なやりかたのひとつだったのだそうです。アフメト1世の弟ムスタファ1世が跡をついだが、ほどなく甥のムラト4世によってスルタンの座を奪われた。ムラト4世が死ぬと、残された弟のイブラヒムがスルタンになった。彼は凶暴なだけの無能な君主で、ハレムの女性の不義を疑って妾姫数百人をボスポラス海峡に沈めて殺したと伝えられています。弟の異常な性格を危ぶんでいたムラト4世は死の床で、おれが死んだらイブラヒムを殺せと言い残したそうです。その通りイブラヒムの治世はおおいに乱れ、彼は退位後に監禁され、絞殺されました」
              「スルタンというのはろくな死に方ができない、幸い薄い仕事だったようですね」
              「かれらには死ぬ理由があった。現代では人はこれといった理由なしで殺されている。ゲルニカのように。ところで、チチェキがなぜ田川さんと一緒に死体で見つかったか、その理由はわたしにも謎なのです。田川さんが何らかの理由があって、チチェキをイスタンブールの謀略の世界に連れ込んだのではないか、と疑う気持もあります。さて、せっかくベルリンからお見えになった日本の海軍中佐殿とお目にかかれたのですから、ちょっと職業上のお話もさせていただけませんか」
              ケーブルが静かに言った。
              「外交情報についてはあまりくわしくないほうですが」
              槙村があいまいな口調で返事した。
              「世界の関心は、日本がまずソ連に向かってアジアの北方で戦端を開くのか、それともイギリスに対抗してアジアの南方へ兵を進めるのか、あるいは南北同時に戦線を張るのか、予想を裏切って中国問題で譲歩を見せるのか。戦略的見地から一般論として考えられる選択についてレクチャーしていただける幸いです。もちろん、お聞きしたその分析はオフ・ザ・レコードで、記事の背景説明に使うときあなたの名前がそこに引用されることは絶対にないとお約束します」
              もうこのくらいでおしまいにしてくれというピーター・ケーブルの婉曲な催促だと槙村は聞いた。

               

              2019.04.01 Monday

              『だまし絵のオダリスク』   第12回

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                イケメン・メフメトは槙村が去ったあと、両手で後頭部を支えながらしばらくオフィスの天井を眺めていた。やがて電話をとりあげて、イスタンブール警察本部のオメル・アシク警部と話し始めた。
                「きのう槙村中佐をチチェキの母親のところへ案内した君の部下は、槙村中佐について何か変わった点を報告しなかったか」
                「彼の観察では、中佐とチチェキの母親との話の内容や、中佐の態度にはとくに不自然なものは感じられなかったそうだ」
                オメル・アシクがイケメン・メフメトに言った。
                「信頼できる警官かな」
                もちろん。部下の中でも腕っこきの男だ。例の山羊髯の東洋人の身元調べも担当させている警官だ」
                うちでも調べているが、そっちのほうは何かあたりがあったかい?」
                イケメンが尋ねた。
                 チチェキと田川が死体で発見された3月5日の前々日、つまり3月3日、イスタンブールの空港で東洋人の男が中華民国のパスポートで入国した記録があった。警察は念のため入国管理の職員に槙村の写真を見せた。その中華民国のパスポートで入国した男は、眼鏡をかけ山羊髯を生やしていた、と入国管理の職員は言った。その中国人は田川の死体が発見され日の朝、イスタンブール空港から出国している。
                「この男が日本によって差し向けられた殺し屋ではないかと君が疑う理由はなんだね、イケメン」
                オメルが揶揄するような口調で言った。
                「そやつが日本の殺し屋だったとすると、この殺人事件の真相はいまわれわれが考えているものとは全くちがう方向へ展開して行く可能性がある。田川とチチェキは日本が放った殺し屋によって処分されたという筋書きになる。合理的かつ実証的な捜査のベテランである君から見ると、実にばかばかしいことだろう。だが、なぜ槙村中佐がこの時局多難なおり、甥の殺害事件だとはいえ、彼に捜査ができるわけでもないイスタンブールにまたぞろ現れたことを私は奇妙に思っているのでね。そもそも日本をとりまく状況を思えば、ベルリン駐在の武官がイスタンブールでふらふらしている時間などないはずだ。彼がイスタンブールを再訪した理由は、日本の外交官殺人に日本政府あるいは日本軍の複雑な内部事情が絡んでいるためではあるまいか――わたしはふと思い浮かんだ直感を大切にするほうなのだ」
                イケメンの口調は真剣だった。
                「君の息子のオルファンも君の夢想的なところを引き継いでいるようだな。小学校で同級の僕の息子が、オルファンは昼間から夢を見ていてなかなか覚めない、といっていたよ」
                イケメンの返事に、オメルが笑いながら反応した。
                「そうかい。ところで奥さんとはうまく行っているかい」
                「なんとかね。ところで、わが方の夫婦仲をお訪ねになる君の方こそどうだね」
                「うん、浮気は感づかれているが、まだわかれるところまではいっていない。それはともかく、山羊髯の身元を確認してくれないか。そうしないと、どうも気持がおちつかない」
                イケメンはオメルに穏やかな口調で言って電話を切った。
                 イケメンが受話器を置いて間もなく電話が鳴った。受話器をとると国会議員の父親からだった。首都アンカラからイスタンブールに帰ってきたので、今夜晩飯をいっしょに食おう。家族みんなを連れてレストランに行こう、という内容だった。
                 イケメンの祖父はオスマン朝の高官だった。オスマン朝の崩壊で地位は失ったが、巧妙に立ち回って資産を保全した。その資産で祖父はイケメンの父親と貿易会社を始め、祖父の死後、父親は国会議員になった。祖父と父親の人脈と資産でイケメンはドイツのミュンヘン大学で優雅な留学生活を送り、帰国後、イスタンブールで弁護士事務所を開いたが、弁護士商売の方はあまりはやらなかった。エムニエトの幹部だった父親の友人に誘われて情報機関の仕事をするようになった。
                 情報機関の仕事そのものは、イスタンブールで開業したばかりの新米弁護士が依頼されるような仕事にくらべると刺激があって面白かった。だが、情報機関には政治情報の分析だけでなく、秘密工作という暗い仕事を担当する部門があった。やがてそうした工作部門から漏れ伝わってくる非情な話がイケメンの気持を暗くした。イケメンの妻は彼女の一族が経営する船会社の役員を務めている。彼女は情報機関の仕事を辞めてもとの弁護士の仕事にもどるようイケメンに言うのだが、イケメン自身は辞めるにしても、今度の戦争で見舞われているトルコの危機が去らないうちに、この仕事を放りだすのは卑怯だという思いにもとりつかれていた。
                 イケメンは父親と夕食の約束をし、妻にもそのことを電話で連絡した。

                 その夜、槙村は深川の紹介でパーク・ホテルのテラスでイギリスの新聞特派員ピーター・ケーブルと会った。さすがにイスタンブールはベルリンより暖かく、5月ともなれば東京と同じで、もはや夜の外気が身にしみるということはなかった。テラスの向こうには暗いボスポラス海峡とマルマラ海を航行する船の灯りがちらついていた。黒海からやってきてイスタンブールへ入港する大型客船の盛りたくさんの電飾もあった。目の下のヨーロッパ側の海岸線にはにぎやかな光があった。対岸のアジア側の光もかすかに見えた。
                「田川さんのことはお気の毒だった。あなたのお気持はわかる。私もチチェキを失うことになって残念だ。あなた同様に、今回の不幸な出来事については私もこれという心当たりがないのです」
                 ピーター・ケーブルはとがった鉛筆のように細身の男だった。話し方から生まれや育ちのよさが感じられた。彼は父親が外交官だったのでドイツで子ども時代を過し、ケンブリッジ大学を卒業した後、ドイツの大学でドイツ政治を勉強したことがあった。そういうわけで、槙村とピーター・ケーブルはドイツ語で話した。
                「チチェキ嬢と田川がどういう風にして知り合ったのか、どんなつきあいをしていたのか、もしかしてご存知では?」
                「もし私がそのことを知っていたら、まずなによりもチチェキをわが方に取り戻すべく懸命な努力をしたでしょう。彼ら2人がどのようにして知り合い、どんな関係にあったのか、何も知らなかった」
                「チチェキ嬢の母親と昨日の午後、会いました。ケーブルさん、あなたはチチェキ嬢の母親とお会いになったことは?」
                「いえ、一度も会ったことがありません」
                「チチェキ嬢の周囲には田川のほか、イギリス人やドイツ人、それにシオニストの影がちらついていた、と母親は言っていました。ケーブルさん、あなたはそうした影に心当たりはありませんか?」
                「人間はひとりで生きているわけではありませんから、その周囲にはおのずと人の影がつきまとわります。チチェキは魅力的な女性だったから、その分ちらつく人影は多かったでしょう」
                「わたしはね、イスタンブールの国際情報戦争のなかでチチェキ嬢が何かの役割を占めていたのではなかったかという気もしているのです」
                「たしかにイスタンブールはスパイが跳梁跋扈している土地です。私が日常接触する人々の中には、だれそれはドイツのスパイだから気をつけろ、あいつはイギリスのスパイだが裏でトルコ政府に情報を流し、その情報をドイツや、金次第でソ連にも売っている、などと無責任な噂を流す輩がいます。そうした連中も何らかのわるだくみがあって、噂を流している、というわけです。イスタンブールで真実を探すのは河原で砂金を集める以上に根気のいる仕事です」
                 ピーター・ケーブルの口元に笑いが見えた。槙村にはその口元の笑いが、彼に対するあざけりとも、ケーブルの自嘲のようにも見えた。
                「ケーブルさん、あなたはチチェキ嬢と結婚のお約束でもなさっていたのですか」
                「いいえ」
                「チチェキ嬢のフラットの家賃はあなたがご負担なさっていた?」
                「チチェキには愛人役の謝礼として毎月きまったお金を渡していましたが、その金はそっくりチチェキが母親に渡していたようです。ですから、あのボスポラス海峡が眺められるフラットの家賃はチチェキが自分の才覚で支払っていた。そのあたりはチチェキの個人的な事情なので深く尋ねもしませんでした」
                 ふと気がつくと給仕が近くに立っていて、何かおかわりでもいかがと尋ねた。
                「ブランデーとコーヒーを頼む」
                ピーター・ケーブルが言った。槙村はチャイを頼んだ。ホテルのレストランやバーの窓に人影がちらついていた。室内のやわらかな灯りがふと槙村にモニカ・コールのことを思い出させた。
                 

                2019.03.24 Sunday

                『だまし絵のオダリスク』    第11回

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                    イケメン・メフメト保安課長はオフィスで、渋い表情をつくって槙村を待ち受けていた。
                  「槙村中佐。申し上げておきますが、イスタンブールではあなたに捜査権はありません。どう説明されようと、あなたが今朝おやりなった行為は尾行というもので、れっきとした捜査活動の一つです。さらに、あなたがピーター・ケーブルを尾行したことで、われわれの尾行に支障が生じた。あなたはイスタンブール保安本部の業務の妨害もなさっている。これ以後、ピーター・ケーブルをつけまわさないでいただきたい」
                   イケメンは穏やかな声で言ったが、彼の目は槙村を見据えていた。槙村がイケメンに反論しようとした。イケメンはそれを制して、再び口を開いた。
                  「あなたはイスタンブールで、ある外国人の行動に関心を持ったすえ、その人物の後をつけた。つけられたほうの人物から迷惑行為であると苦情の申し出がないかぎり、当局がしゃしゃり出るような一件ではない。だが、その男がピーター・ケーブルとなるとそうはいかなかったのです。3月のペラ・パラス・ホテルの爆発事件。あの件についてピーター・ケーブルが何らかの情報を持っているとにらんで、われわれは彼の行動を監視していた」
                  「それは申し訳ないことをした。あなた方の仕事を妨害するつもりはまったくなかったのですが」
                  槙村は素直に謝った。その言葉にイケメンはからかうような調子で応じた。
                  「ところで、尾行は面白かったですか。ピーター・ケーブルを尾行しているとき、なにか変わった気配をあたりに感じませんでしたか?」
                  「それはどういうことでしょうか」
                   槙村はイケメン・メフメトの口調に底意地のわるさを感じて聞き返した。
                  「わたしの部下はピーター・ケーブルがあなたの尾行に気づくのではないかと、ハラハラしながら尾行していた。やがて状況がどうも奇妙なことに気がついた。ケーブルをつけている槙村中佐をさらに尾行している者がいたのだ」
                  「私が尾行されていたって」
                  「そうです。あなたは尾行されていた。尾行されるような、なにか心当たりは?」
                  「そんなものはない。なぜその者たちがピーター・ケーブルでなく、私を尾行していたと判断できるのですか」
                  「われわれはピーター・ケーブルの尾行を重ねてきた。これまではわれわれ以外に彼を尾行する者はいなかった。今日はじめてわれわれ以外に、あなたがピーター・ケーブルを尾行した。尾行するあなたの後ろをつける別の人物がいた。彼らの注意はピーター・ケーブルでなく槙村中佐、あなたの方に向けられていた」
                  「そうか。ピーター・ケーブルのあとをつけていたわたしに尾行者がつき、それをあなたの部下が尾行していた。ピーター・ケーブルはまるで金魚のウンコのように尾行者をひきつれて土曜日のイスタンブールを散歩していたのか」
                  「そういうことだ。あなたを尾行していたのは2人組みの男だった。それに私の部下3人がピーター・ケーブルをつけていた。あなたを合わせて6人もの男が団子状になってピーター・ケーブルを尾行していたわけだ。あなたをつけていた2人組みの男は、イェニ・ジャーミーあたりでわれわれの存在に気づいて姿を消した」
                  「そいつらは何者だったのだ。見当がついているのですか」
                  「それについては、いま調査中だ。私の部下によると、あなたを尾行した2人組みの男には、単に尾行するだけでなく、機会があればあなたに危害を加えかねない危険な雰囲気があったそうだ。この道のベテランの意見だから、槙村中佐、暗がりや人気のない場所では今後周囲に十分注意されたほうがいい。この1年ほどの間に田川さんをふくめて5人の外国人がイスタンブールで不審な死に方をしている。いずれも未解決のままだ」
                  「それはどうも。ご注意ありがとう」
                  「ところで、槙村中佐。あなたはベルリンを発つ前に、すでにピーター・ケーブルについて何らかの情報を仕入れていて、それでピーター・ケーブルを尾行していたのではありませんか。でないと、イスタンブール到着3日目に、自らピーター・ケーブルの尾行を始めるという早業の説明がつかなくなる」
                  「さすがに慧眼ですな」
                   槙村はイケメン・メフメトに敬意を表して驚いた表情をつくってみせた。
                  「ベルリンを発つ前、アプヴェールの知人から内々でイスタンブールに陣取っている主要国の情報機関のあらましについて説明してもらった。そのなかにピーター・ケーブルの名前が出てきた」
                   槙村はここで一歩踏み込んで見る気になった。
                  「そのアプヴェールの知人が、イスタンブールはスパイ・ゲームの中心だ、と教えてくれた。前の大戦でドイツに加担して失敗したトルコは、今度の大戦では中立の姿勢を貫こうとしている。だが幸か不幸か、戦略的においしい位置にある中立トルコは垂涎の的だ。ドイツ、イギリス、ソ連のスパイがごちそうにたかるハエのように飛んでくる。そこでトルコの国家安全保障局エムニエトは、外交官や情報機関で働いている疑いのある外国人、ジャーナリストやビジネス旅行者、貿易業者、運輸関係者を徹底した監視下においている。外国人の場合は、トルコの国内旅行をするにも許可証が必要になる。許可証のことをテズケレとかいいましたね。さらに、外国人は国内旅行の先々でも監視下におかれている。エムニエトは、ホテルや外国人が働いたり住んだりしている建物で働くトルコ人をインフォーマントにしたてている。田川といっしょに死体で見つかったチチェキが、実はピーター・ケーブルの動静を探るためにエムニエトが送り込んだ女スパイだったとしても、私は驚きませんね。イスタンブールに再来したマタハリです」
                  槙村の言葉にイケメン・メフメトは怒るどころか、ヒゲがへの字に曲がるほどの大口を開けて笑い出した。
                  「槙村中佐、あなたは才能がおありだ。小説を書かれるといい」
                   槙村はイケメン・メフメトの大げさな反応を無視して、話を続けた。
                  「エムニエトは場合によっては、外国公館の書記官や武官、情報機関員とみられる外国人から、丁重ではあるが遠慮なく直接事情聴取もする。今、私に対しておやりになっているようにね。その一方で、エムニエトの内部は、ドイツ派、イギリス派に分裂しており、エムニエトが得た情報が外部にもれている」
                  「なるほど。それで、そのアプヴェールの知人はエムニエトのだれがドイツ派で、誰と誰がイギリス派だと教えてくれましたか。わたしの処世の参考までに拝聴したいものです」
                  「私が聞いたところでは、現在の長官はドイツに対して友好的で、副長官はイギリスに同調的ということでした。本当にそうなんでしょうかね。それはさておき、ピーター・ケーブルの話にもどりますが、あなた方のお考えでは、彼はどこの国のスパイなのですか」
                  「みんながそれを知りたがっている。イギリスは彼のことをイギリスに忠誠を誓った二重スパイだと信じている。ドイツはピーター・ケーブルが自分たちの二重スパイだと思っている。ソ連は彼がイギリスの二重スパイであれ、ドイツお抱えのスパイであれ、それはいっこうかまわない。重要なことはピーター・ケーブルがソ連社会主義のシンパであることだと考えている。われわれトルコ側にとっては、彼は正体不明の危険人物なのです。ピーター・ケーブルを尾行しているのも彼の接触相手を見つけることが、その目的の一つです。槙村中佐、そちらのほうで何か情報をつかんだ際は、われわれにもご協力ください」
                  「お役に立てるような情報があれば、喜んで提供しましょう。ですが、ご期待に添えるかどうか、あやしいものです」
                  槙村が言った。
                  「ところで、槙村中佐。こういってはなんだが、今日のあなたの尾行はどうも不用意にすぎましたな。ピーター・ケーブルを尾行していた私の部下が、あなたの尾行ぶりは尾行していることに気づいてくれといわんばかりのやり方だったといっている。どうも不自然ですな」
                  イケメンが別れ際に槙村に言った。

                   

                  2019.03.09 Saturday

                  『だまし絵のオダリスク』   第10回

                  0

                     

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                     朝食をすませて槙村はロビーで『イスタンブール・ガゼット』の見出しをながめていた。ルドルフ・ヘスのイギリスへの逃亡についての続報を探していた。5月17日土曜日だった。
                     ピーター・ケーブルがパーク・ホテルの玄関でホテルの従業員に声をかけ、しばらくのあいだ立ち話をしていることに、槙村は気がついた。ピーターは従業員の肩をかるくポンポンとたたいてわかれた。
                     槙村は発作的に椅子から立ち上がり、ピーター・ケーブルの後を追った。チチェキの母親から前日聞かされたピーター・ケーブルの長い週末散歩のことが頭をかすめたからだ。
                     ピーター・ケーブルはホテルの隣の旧ドイツ大使館の方をちらとうかがったあと、タクシム広場へ向かってギュミュシュ・スユの坂をいかにも朝の散歩らしく、ゆったりとした歩調で登っていった。
                     昨日の曇天とはうってかわった明るい朝だった。坂道の下にはボスポラス海峡が空の青に染まって輝いていた。海峡の向こうに広がるアジア側の丘陵と海岸沿いの建物もくっきりと見えた。空気が澄んでいるからだ。槙村はピーター・ケーブルの後をゆっくりと歩いた。
                     坂道を登り終えてタクシム広場に出たピーター・ケーブルは、屋台の花売りのおばあさんから槙村が名前を知らない黄色の花を買い、キオスクにも寄って雑誌を1冊買った。タクシム広場は近代化を模索する新生トルコ共和国最大の都市イスタンブールの新しい中心になり始めていた。オスマン帝国のスルタン・マフムト一世が一八世紀中葉、ここに生活用水の配水場を建設したのがタクシム広場の始まりだといわれている。のちにここには兵舎や軍の演習場、墓地なども造られた。ケマル・アタテュルクがオスマン朝を崩壊させた後、これらの施設は取り払われ、跡地には競技場と広場がつくられた。タクシムとは分割・分配を意味するアラビア語起源の言葉で、配水場が広場の名前の由来だ。
                     時刻はまだ午前10時ちょっと前だったが、さすがに5月も半ばをすぎると晴れた日のイスタンブールの日差しは強い。ピーター・ケーブルはタクシム広場で共和国記念碑をちらりと見やり、イスティクラル通りへ向かって急ぐ様子もなく歩いていった。
                    イスティクラル通りは、ベルリン子がクーダムと短く呼びならわしているクルフュルステンダム通り、パリのシャンゼリゼ通り、ニューヨークの5番街、東京の銀座にあたるイスタンブールの目抜き通りだ。レストラン、菓子屋、バー、カフェ、ナイトクラブ、ダンスホール、衣裳店、劇場など歓楽と消費の施設ばかりでなく、イギリス、フランス、ソ連、アメリカ合衆国、オランダ、ベルギー、スウェーデンなどの旧大使館庁舎が周辺に建ち並んでいる。
                     イスティクラルとはアラビア語起源の言葉で独立を意味する。通りの名はケマル・アタテュルクのトルコ革命後に命名された。それ以前はペラ大通りと呼ばれていた。イスティクラル通りに沿って広がる地域はオスマン帝国時代以前のビザンティン時代からペラと呼ばれてきた。ペラは「〜の向こう」というギリシャ語である。都の中心部だった旧市街のビザンティウムから金角湾を越えた向こうにある土地のことだった。オスマン時代になるとやがてここはベイオール(貴人の息子)とよばれるようになった。その由来はベイと尊称でよばれる貴人の息子がここのあたりに住んでいたことがあるからだと伝えられているが、それが誰だったかについては諸説があって定かではない。
                     イスタンブールはビザンティン時代・オスマン時代を通じて多民族が住み着いた国際都市だった。オスマン帝国末期のころにはベイオールは人口の半分が外国人だといわれるほどの国際色豊かな街区になり、ロシア革命後には革命から逃れて国外に脱出してきた白系ロシア人も多く住みついた。
                     土曜日午前中のイスティクラル通りには、そういったコスモポリタンやディアスポラの哀愁が醸しだすエキゾティシズムと前夜の退廃にみちた歓楽の名残が入り混じり、滓のようになって漂っていた。ピーター・ケーブルはイスティクラル通りをテュネル広場に向かって歩いていった。タクシム広場からテュネル広場までは1キロ半ほどの距離だ。
                    槙村は2、30メートルの距離を保ちながらピーター・ケーブルのあとをつけた。ピーターはあたりを見回すこともせず、振り返ることもなかった。自分が尾行されていることなど想像もしていない無防備な歩き方だった。
                    やがてピーターがサンタマリア・ドゥラペリス教会の前の十字路を右に折れた。ピーター・ケーブルが向かった先はペラ・パレス・ホテルだった。
                     ペラ・パレス・ホテルは応急修理をして、とりあえず営業を再開してはいるものの、3月の爆発事件の傷跡はまだ建物のあちこちに残っていた。ピーターはフロントの係りに話しかけた。フロントが笑顔で対応していた。
                     しばらくして30歳ぐらいの背の高い、イギリス人を思わせる面立ちの女性がロビーに現れて、笑顔でピーター・ケーブルに手を差し出した。ピーター・ケーブルはその手を握りかえし、黄色の花束をわたした。
                     やがて2人はペラ・パラス・ホテルの玄関を出て、イスティクラル通りにもどり、テュネルの駅に向かって歩いた。テュネルの駅で2人は地下ケーブルカーに乗ってカラキョイへと下っていった。
                     イスティクラル通りは金角湾やボスポラス海峡から急な坂道を登った丘の上にある。1875年にこの地下式のケーブルカーが建設された。途中に駅はなく2点を結ぶだけの短い地下鉄道だが、地下鉄であることに変わりはなく、地下鉄としてはロンドンに継ぐ世界で2番目に古いものだ。
                     テュネルを降りるとピーター・ケーブルは連れの女性と肩を並べてガラタ橋に向かった。路面電車や大型自動車が橋を渡ると、浮橋であるガラタ橋が揺れるような気がした。
                     ガラタ橋を渡るとそこは旧市街のエミノニュだ。イェニ・ジャーミーが威容をみせ、その直ぐそばにエジプシャン・バザールがある。
                     ピーター・ケーブルがイェニ・ジャーミーの中へ入っていった。女はエジプシャン・バザールの人ごみを眺めながらモスクの外で待った。観光客相手のお土産売りが女に近づき、スカーフやネックレスを見せたが、女はニッコリとわらって柔らかに勧誘を断った。
                     モスクの中は数人がお祈りをしているだけでがらんとしていた。ピーター・ケーブルはモスクの壁際に立って上方のドームをしばらくながめていた。やがて女が1人接触して来た。ピーター・ケーブルが接触した女には、薄暗いモスクの遠目の観察だが、ヨーロッパの服装を着ていながらどこか中東の雰囲気が漂っていた。2人は短く言葉を交わしたあと、モスクを出た。
                     槙村はモスクの中の弱い光から明るい外へ出たとき、一瞬目がくらんだ。そのとき、モスクの外の数人の男が槙村に鋭い視線を向けていることに気づいた。
                     ピーター・ケーブルら3人はガラタ橋のたもとから路面電車に乗った。イスタンブールの路面電車は19世紀後半に馬が引く軌道馬車として始まり、第1次世界大戦の数年前に電化された。ピーター・ケーブルたちは車両の前方に乗り、槙村は後方の席に座った。ピーター・ケーブルたちはスルタン・アフメト・ジャーミーの近くで電車を降りた。
                    ブルー・モスクの入り口で中東風の女は首にまいていた薄い絹のスカーフを頭からかぶった。もう1人のイギリス人らしい女はスカーフを持っていなかった。入り口の係りがピーター・ケーブルにきちんとたたんである布を手渡した。ピーター・ケーブルがそれを広げて女に渡した。女はそれをかぶった。
                     ピーター・ケーブルたち3人はしばらくドーム内部の青いタイルをながめ、広い床に敷きつめた絨毯に頭をこすりつけてお祈りする人たちを見ていた。
                     ピーター・ケーブルたち3人は出口へ向かった。ピーター・ケーブルが女からスカーフを受け取り、それを丁寧に折りたたんで、出口に立っている男に渡した。ひょっとしてピーター・ケーブルがスカーフに何かを包んで男に渡したのではあるまいかと疑い、槙村はその男の顔を記憶にとどめた
                     3人は急ぐでもなくぶらぶらとエミノニュのフェリー乗り場へ向かって歩いた。
                     フェリー乗り場で3人はアジア側へ渡るフェリーに乗った。3人に続いて船に乗ろうとしたとき、槙村は2人の男に両腕を抱えこまれた。
                    「失礼ですが、イケメン・メフメト保安課長がお目にかかりたいといっています」
                    男の1人が低い声の英語で言った。

                     

                    2019.02.22 Friday

                    『だまし絵のオダリスク』    第9回

                    0


                      槙村は深川の助手アスムをともなって5月16日金曜日、まずイスタンブール保安本部のイケメン・メフメト外事課長とイスタンブール警察本部のオメル・アシク警部を尋ねた。イケメンとオメルとの再会はそれぞれお互いの壮健を確認するだけの内容のないものに終った。ただ、槙村はオメルが語ったチチェキの母親からの聴き取りに興味を覚えた。チチェキはイスタンブールで繊維製品を扱っているユダヤ系トルコ人の貿易商に気に入られ、求婚までされていた。それなのに、日本からきた素寒貧の外交官と一緒になって東京へ行って住むのだ、と娘が言い張った――母親が憤懣やるかたない口調でそう語ったというのである。槙村がその母親に会ってみたいというと、オメルが部下の1人を案内役につけてくれた。
                      チチェキの母親は金角湾沿いのユダヤ人が多く住むバラット地区に住んでいた。槙村が借りあげたハイヤーは新市街から旧市街に向かってガラタ橋を渡った。ガラタ橋は浮橋だった。浮き箱(ポントゥーン)を並べて架橋する軍事目的の応急の橋は昔からあり、とくに珍しい技術ではない。ヘロドトスの『歴史』によると、ペルシャのクセルクセスの軍勢がギリシャを攻めるにあたって、ダーダネルス海峡に舟を並べて2本の浮橋を架け、何万もの大軍をアジアからヨーロッパへ渡らせたそうである。
                      だが、長期間にわたって民生用の橋として使う目的で幅30メートル弱、長さ500メートルほどの鉄製の浮き橋がかけられ、その上を路面電車や自動車が行き来しているのは珍しい風景だった。浮橋が建設されたのは、金角湾の底には泥の層が30メートル以上も堆積していて、橋脚を建設するのが困難だったからだ。
                      車がガラタ橋を渡りきったところにイェニ・ジャーミーがあった。そのモスクの前で車は右折し、金角湾を右手に見ながら湾の奥の方へ向かった。テオドシウスの城壁が金角湾とぶつかる手前あたりがバラットだった。
                      「槙村中佐。イスタンブールには、この街がコンスタンティノープルと呼ばれるようになる前からユダヤ人が住み着いていました。しかし、ユダヤ人のイスタンブール定住が促進されたのは、メフメト2世がコンスタンティノープルを征服し、その後ヨーロッパへ向かって帝国の領域を拡大していったころからです。テッサロニキ、ブルガリア、マケドニア、アルバニアからハンガリア、さらにはスペインからもユダヤ人がイスタンブールに移住してきました。東欧から来たユダヤ人がアシュケナジム、スペインから移住してきたのがセファルディムです。移住してきたユダヤ人たちはバラットのほか、金角湾をはさんでバラットの対岸にあるハスキョイやガラタ、ボスポラス海峡沿いのオルタキョイ、さらにはボスポラス海峡を渡ったアジア側のユスキュダラなどに住みつきました。いま車が走っているあたりがフェネルで、以前はギリシャ人が多く住んでいた地区でした。ここを抜ければバラットはもうすぐです。かつてはバラットには20近いシナゴーグがあったそうですが、いまでは少なくなりました」
                      アスムが槙村に説明した。
                      同行していた警官が運転手に車をとめるよう指示した。警官がアスムにトルコ語で何かを告げた。
                      「ここで車を待たせて、少し歩くそうです」
                      アスムが槙村に言った。
                      石畳の道の両側に木造3階建ての、日本風にいえば長屋のような建物が続いていた。建物の板壁はすでに塗りがはげていた。曇り空の乏しい光が生活のわびしさをより強く感じさせた。二階や三階の出窓の下から洗濯物干し用のポールが何本も路地の上に突き出ていていた。色あせてくすんだ洗濯物が干してあった。
                      路地は土を固めその上に石を敷いただけの簡易舗装だが、敷石が剥れてあちこちにくぼみができていた。路上では子どもが大きな声をあげてはしゃいでいた。その姿を道路端の老人と黒猫がぼんやり眺めていた。
                      荒れた石畳の道を右に折れると、その先に今度は石造りの2階建て、3階建ての建物が続いた。
                      警察官は石造りの3階建ての家に入り、まもなく初老の男をともなって出てきた。
                      「この人が大家さんです。チチェキの母親の部屋に案内してくれます」
                      警官が言った。
                      チチェキの母親は大家の隣のフラットの1階に住んでいた。居間の窓は小さく、明かりもつけていなかったので、室内はうす暗かった。だが、チチェキの母親はかつての美貌がはっきりとわかる面立ちであることが見てとれた。
                      チチェキもおそらくはこの母親の20数年前の容姿そっくりだったのだろう。彼女は不機嫌そうな顔つきで、しかし、大家と警察官の手前、しぶしぶ槙村たちを居間に招き入れた。警官とアスムが交互に訪問の用件を説明した。チチェキの母親が口を開いた。刺のある口調だった。
                      「あの男は娘を使って、危ない情報集めをさせていた。ドイツやロシアやトルコからね。そのうえ、チチェキがユダヤ系ということでここのシオニストたちの動向も探らせていた。娘がそう言っていましたよ。いやな仕事だけれど、それさえ終われば好きな男と日本で暮らせる――なんて馬鹿ばかしいことをね。あなたの親類の若い男と出会ってさえいなかったら、チチェキは死ぬこともなかったでしょうに。せっかく金持の貿易商から結婚の話があったというのに」
                      「チチェキさんに危ない情報集めをさせたという、あの男というのは日本人の男ことですか」
                      槙村が聞いた。
                      「ちがいますよ。チチェキが日本人の男とつきあい始めるまで親しくしていた男ですよ。新聞の特派員でイスタンブールに来ている男。スパイもやっているといううわさのあるイギリス人です」
                      「そのイギリス人の名前はピーター・ケーブルですか」
                      「ええ。そんな名前でした」
                      「チチェキさんはそのピーター・ケーブルというイギリス人のスパイの手伝いをさせられていたのですか。どんなことをやらされていたのですか」
                      「チチェキにダンスの相手を頼んできた男が踊りながらチチェキの耳元で数字をささやく。そうするとチチェキのほうは前もって聞かされて数字を男に伝える。娘はそういっていましたよ。だけどね、その数字が何のことかチチェキにはかいもく見当がつかなかった」
                      「ほかには」
                      槙村が言った。
                      「ときどき散歩のお供をさせられるといっていた。それが退屈な散歩でね。何が面白いんだろうねえ。いつも決まった道ばかり歩いていて。イスティクラルからペラ・パレス・ホテル、ガラタ橋を渡ってシルケジからスルタン・アフメト・ジャーミーへ行く道順だったそうです。週末の午前中が多かったと娘はいっていましたよ」
                      「いまのことは警察にも話してやったのですか」
                      槙村がたずねた。
                      「話しましたよ。尋ねられれば答えるしかないでしょうが。いまではしがない下層の女なんですから」
                      チチックの母親は口をゆがめてかすれた声で言った。
                      「チチェキさんが日本人の男とつきあいだしたのはいつごろからですか」
                      「1年ほど前からだった。娘が死ぬことになった1週間ほど前に、あたしは娘のアパーへ行ったんです。そしたらチチェキが日本へ行くかもしれない、と言った。冗談をお言いでないよと、娘を問い詰めてわかった。日本に行くときは私のためにまとまった金を残しておく。チチェキはそう言ってましたけどね。あのときチチェキは日本の男と1年ほど前からつきあっていると私に言いましたよ」
                      「ピーター・ケーブルという名前以外に、娘さんからイギリス人、あるいはドイツ人、シオニストたちの名前をお聞きになったことはありますか。外国人がしばしば娘さんと会ったり、娘さんのフラットを訪れていましたか」
                      槙村がたずねた。
                      「そんなこと、あたしが知るわけがないでしょうが。あれだけの器量良しだったから、言い寄る男はごまんといたでしょう。最近の娘の様子については、あたしよりも、ボスポラス・サライとかいう店に集まる常連さんの方が良く知っているはずだわ。そっちで聞くといいわ」
                      チチェキの母親はそういうなり黙りこんでしまった。
                      槙村は立ち上がって礼を言い、建物を出た。
                      槙村は前回3月にイスタンブールに来たとき、イスタンブールの旧日本大使館庁舎、アンカラの大使館、田川の宿舎などで彼の遺品の整理に立ち会った。大使館員がすでに田川の業務日誌や郵便物などの通信記録を調べていた。田川の私物についてもあらまし整理ができていた。だが、それらの遺品には田川の死の理由とつながりそうな手がかりはなかった。
                      遺品のなかに田川の日記帳、卓上式写真額、お守り袋があった。額の写真にはアメリカで交通事故死した田川の両親と、幼い田川の3人が写っていた。お守り袋は槙村がベルリンへ発つとき母親がくれた厄除けのお守り袋と同じ袋だったので、槙村の母が孫のイスタンブール行きにあたって与えたものだろう。
                      日記は茶色の革表紙のA5版サイズのやや厚めのノートブックだった。そのノートに田川が昨年12月ごろ書き込んだメモに「花子」の名があった。「花子、贈り物」といった心覚え程度のそっけない記述だった。花子とはたぶんチチェキのことだろう。チチェキとおもわれる人名が書かれているのはそこだけだった。
                      チチェキが母親に、田川とともに日本へ行くつもりだと言っていたわりには、田川の日記にはチチェキの存在感が希薄だった。日本が米英を中心とした勢力と対立を深め、国際的な孤立の道を突き進んでいるときに、外国の女性を日本に連れ帰り妻にしようと決意した若い外交官の、なにかしら気持の昂ぶりのような独白が書き込まれていて当然なのにと、槙村は不思議に思った。
                      槙村はベルリンに帰ってからもときどき田川のメモを読んでいたが、新しい発見はなかった。田川とチチェキの接点についてはわからないままだった。

                       

                      2019.02.11 Monday

                      『だまし絵のオダリスク』   第8回

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                        「いいえ。でも、僕はああいうタイプが好みだなあ。願わくばお知り合いになりたいものです。このホテルのバーは浮世離れしたおとぎの国のようなところです。もともとここはオスマン帝国時代の19世紀後半にイタリア政府が大使公邸を建てようとした土地です。イタリアらしい話なのですが、贅沢な建物を造りすぎたものですから建築費用が払えなくなった。イタリア政府が手放した物件をオスマン・トルコのパシャが手に入れた。そのパシャが海外に出ているあいだ屋敷を貸しに出していたのですが、それが、あなた、火事で焼け落ちてしまった。パシャの夫人、この人はもともとスイスの出なのですが、焼け跡にこぢんまりとしたホテルを建てました。彼女はやがてギリシャ系トルコ人の海運業者にホテルを売却。7年ほど前に大改築がおこなわれて、イスタンブールではペラ・パレスとならび称される現在のような豪華ホテルになりました」
                        「気持のよいホテルですね」
                        「ええ、1938年に死んだケマル・アタテュルクはアンカラからイスタンブールに出てきたとき、この坂道を下った海岸沿いに建つドルマバフチェ宮殿に滞在し、夜になると取り巻き連中を従えてこのホテルのバーに姿をあらわしていました。ドルマバフチェ宮殿は白大理石造りの大きな建物です。オスマン朝が使い勝手のわるい古びたトプカプ宮殿に代わる新しい宮殿として、19世紀の中ごろボスポラス海峡の海岸に新築しました。ドルマバフチェ新宮殿はヨーロッパの宮殿建築様式を模倣する一方で、トプカプ宮殿の過剰な装飾性も残しました。まったくもって、権力者のあくなき浪費ですよ。この海峡沿いの土地は埋め立て地でスルタンの庭園として使われていたところでしてね。ドルマはトルコ語で埋め立て、バフチェは庭園のことだそうです」
                        「スルタンに代わってアタテュルク大統領が寝泊りしたわけですか」
                        「日本の明治維新で徳川の江戸城が皇居になったようなものです。権力者の有為転変は世のならいです。オスマン帝国最後のスルタンとなったメフメト6世は、イギリス軍の助けをかりてイスタンブールを脱出しました。1922年11月16日の早朝のことで、ひどい雨が降っていたそうです。メフメト6世は山の手に新築されたユルドゥズ宮殿で暮らしていて、そのユルドゥズ宮殿の前に救急車が待っていました。メフメト6世は救急車に積み込まれた。救急車は坂道をドルマバフチェ宮殿近くの海軍の埠頭へ向かった。メフメト6世はランチに移され、金角湾沖に停泊していたイギリスの軍艦「マラヤ」に運ばれた。残してきた5人の妻をよろしく頼むとスルタンはイギリス側に頼んだと伝えられています」
                        アルコールのせいか深川の舌がなめらかになってきた。
                        「帝国はいったん拡大しても、やがて自らの重みで崩壊してゆくものなんですね」
                        槙村が言った。
                        「帝国の幕切れはいつもながらみじめです。メフメト6世の逃亡を聞かされたアラビアの王子アリ・ハイデルは『神よ、このような意気地なしのスルタンからわれわれをお守りください』と嘆息したといわれています。ケマル主義者たちは、オスマン帝国の宮廷がボスポラス海峡のヨーロッパ側におかれたために、オスマン朝は柔弱なヨーロッパの風潮にかぶれ、武人としてアジアからやってきたときのテュルク族の魂を忘れはてた末に滅亡したのだ、とあざけりました。したがって、新しいトルコ共和国の首都をヨーロッパ側の歴史ある古都イスタンブールでなく、アジア側のアナトリア中央部にあるアンカラにすることにこだわりました。メフメト6世が逃げだしてから16年後の1938年の11月10日午前9時5分、メフメト6世の将軍だったケマル・パシャことケマル・アタテュルクが、ドルマバフチェ宮殿のかつてのハレム部分に設けられたアタテュルク専用の寝室で死にました。死因は過度の飲酒による肝硬変。享年57歳。いまや1938.11.10.9.5が新生トルコ共和国のもっとも聖なる数字なのです」
                        深川の語りが熱をおびた。
                        「アタテュルクがここで豪快に飲んだくれているのを私も見たことがあります。あれでは肝硬変で死んだのも無理はないといまにして思いますね」
                        「太く短くですか。だが考えてみると、ケマル・アタテュルクは織田信長よりは長生きしている」
                        槙村が軽口で応じた。われながら凡庸なコメントであったと槙村は思った。旅の疲れと酒の酔いの複合作用かもしれなかった。
                        「はっはっは……織田信長はよかった。槙村さん、日本でトルコ帽といっている、例の帽子のてっぺんに房がついているやつ。ここではフェズと呼んでますがね。モロッコの町のフェズです。もともとはあのあたりで被られていた帽子なのですが、19世紀初めマフムト2世が国の近代化の象徴として、ターバンとローブの代わりにフェズとフロックコートの着用を進めたそうです。ちょんまげ姿で洋服を着はじめた日本人のようなものですわ。それで、オスマン朝が終わり、アタテュルクの共和国になると、こんどはアタテュルクがフェズの着用を禁止した。フェズを旧体制の象徴とみなした彼は、『帽子はつばがあるものだ。フェズはオリエントの後進性のあらわれだ』とのたもうたそうです。明治初期の日本の断髪や中国・辛亥革命後の辮髪の廃止を思い出させる話です。ある晩、レセプションにエジプトの外交官がフェズをかぶって現れたとき、アタテュルクはやにわに外交官の頭からそのフェズをはたき落としたそうですよ。たしかに織田信長なんだなあ」
                        「深川さんはだいぶアタテュルクに惚れこんでいらっしゃるようですね」
                        「槙村さん、タクシム広場にある共和国記念碑をご覧になりましたか。あれは1928年に建てられました。オスマン・トルコは第1次世界大戦で敗北したため、戦勝国のイギリスやフランスによって領土をむしりとられた。さらに、英仏の後押しでギリシャが小アジアに攻めこみ、当時スミルナとよばれていたイズミルなどエーゲ海沿岸の地域を占領しました。攻め込んできたギリシャ軍を1922年に追い払い、領土を確定し、スルタン制を廃止して、1923年にトルコ共和国を成立させたのがケマル・アタテュルクです。アタテュルクと彼の同志の群像が彫像になっているタクシム広場の共和国記念碑は、スミルナで宿敵ギリシャを撃破したことを国民の記憶にとどめるための戦勝記念碑であり、同時にまた、トルコが偶像崇拝を禁じたイスラムのくびきからも解き放たれたことを宣言する記念碑でもあるのです」
                        「スミルナの戦いはそうとう凄惨だったようですね」
                        槙村が言った。
                        「凄惨を通り越して阿鼻叫喚の地獄だった、と語り継がれています。追いつめられたギリシャ軍はスミルナから逃げ出しましたが、スミルナの住人やスミルナに逃げ込んできたギリシャ系やアルメニア系の民間人は逃げ場を失い、一説によると何万という人がトルコ軍によって殺されたそうです。トルコ軍はスミルナの街に火を放ったともいわれています」
                        「そうですか。ギリシャ側からみれば、共和国記念碑とはまた違った物語になるわけですね」
                        槙村が言った。
                        そのとき、深川が、
                        「あ、槙村さん、いまホテルの従業員となにやら話している男、あれがピーター・ケーブルです。いまご紹介しましょうか」
                        と言って立ち上がろうとした。その男はホテルのバーから庭に出るドアの近くに立っていた。
                        槙村が深川を押しとどめた。
                        「それは後日あらためてまたお願いできますか。今日は少々疲れましたので」
                        「そうですか。そうしますか。では、私はそろそろ失礼しましょう。ぐっすりお休みください。明朝10時に私の助手のアスムを差し向けます。英語と日本語ができる信頼できるトルコ人です。私がトルコに来る前からうちの通信社で働いています。町の案内役にでも使ってください」

                         

                        2019.02.03 Sunday

                        『だまし絵のオダリスク』   第7回

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                           ガラタ橋の上で路面電車とすれ違った。線路は橋の中央部にあって複線だ。線路の外側に車道があり、大型のトラック、乗用車、荷馬車が走っていた。橋の一番外側が歩道だ。背をまるめ大きな荷物をかついで歩く男たちの姿があった。
                          「この橋は10年ほど前までは通行料をとっていたそうです。ところで槙村さん、話は変わりますが、ルドルフ・ヘスのイギリスへの単独飛行には驚かされました。ナチスの政権内部で何か重大な権力争いでも起こっているのでしょうか? 槙村さんがベルリンをお発ちになられたころ、何かそれらしい徴候がありましたでしょうか」
                          別所のおしゃべりは止まらない。だが、彼の明るい性格のせいだろうか、槙村にはその饒舌がむしろ心地よかった。
                           ヒトラーの側近ルドルフ・ヘスが5月10日、単独飛行で密かに英国に飛んで、スコットランドのグラスゴー近郊にパラシュート降下したところをイギリスの警察に捕まった。5月12日に英国首相官邸が発表していた。おなじ日、ベルリンのナチ党本部が、ルドルフ・ヘスが自ら飛行機を操縦して10日夕にアウスブルクを飛び立ったまま行方不明になっていると発表した。イギリスの発表の翌13日になってナチ党本部はヘスがスコットランドにパラシュート降下したことを認めた。
                           ヒトラーに長年仕え、ヒトラーの『わが闘争』の口述筆記役までつとめたナチ党の重要人物が、ドイツが空からイギリスにばら撒いているスパイのように、パラシュートで舞い降りてきた前代未聞の事件だった。
                          「ドイツ側の発表では、ヘスは精神に異常をきたしていたといっています。一方、イギリス側はルドルフ・ヘスの精神は正常で、パラシュート降下のさいくるぶしを痛めた以外に健康状態に問題はない、と発表しています。ですが、肝心の、彼がイギリスへ飛んでいった理由はまったく不明です」
                          別所がかさねて槙村に問いかけた。
                          「旅行で移動中のことなので、わたしには詳しい情報を仕入れる機会がありませんでした。なるほど、別所さんのほうがおくわしいようですな」
                          槙村が答えた。
                          「ヘスの英国行きについては、独英和平の提案に出かけたといわれていますが、真偽のほどはどうなのでしょうね。和平提案を抱えていたとすれば、ヒトラーの意を受けてのことでしょうか。それとも、狂気の沙汰としか思えないヘスの単独行動だったのでしょうか」
                          「この事件についてトルコ政府がどんな評価をしているのか、あたってみると面白いかもしれませんね。もし、ヒトラーの指示でヘスがイギリスとの和平提案をかかえて行ったとすれば、背後にあるドイツのねらいは何か。おかめ八目、トルコ政府はそのへんを意外に冷静に分析しているかもしれませんよ」
                           槙村は別所にありきたりの返事をした。

                           槙村はパーク・ホテル2階の客室に案内された。部屋の窓を開けた。心地よい風が入ってきた。目を見張らせる海の風景がそこにあった。眼前左右にボスポラス海峡の濃紺の水面が広がっていた。対岸のアジア側の海岸線と丘の稜線が、イスタンブールを海と陸と空に分けていた。
                           オスマン帝国の最盛期である16世紀から17世紀、黒海からボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡、エーゲ海はオスマン帝国の内水だった。18世紀後半から19世紀にかけてオスマン帝国が衰退期に入るとともに、ロシアが南下して黒海周辺を勢力下におき、ボスポラス海峡の優先通峡権を要求し始めた。ボスポラスをはじめとするトルコの海峡は、まずロシア帝国が優先的な通航権を獲得した。続いてヨーロッパの列強が、解体してゆくオスマン帝国の属領の奪い合いに狂奔し、その列強のせめぎあいの中で、通峡権の問題も国際化されていった。ドイツに加担したオスマン・トルコが第1次世界大戦で敗戦国になったことで、海峡は国際管理下におかれ、トルコは海峡における主権そのものを失った。1936年のモントルー条約でトルコは海峡の主権を回復したが、ヒトラーのドイツがヨーロッパで戦争を始めるとともに、ドイツ、ソ連、イギリスが戦略上の必要性から再びこの水路の優先通航権の確保を争っている。
                           ブルガリアを日独伊三国同盟に参加させたドイツが、さらに一歩踏み込んでトルコへ食指を動かせば、イギリスとその背後にいるアメリカ、黒海の北にあるソ連がどう出てくるか。ボスポラス海峡の争奪をめぐって、トルコが大戦の新しい戦場になる可能性もある。トルコは中立という危うい綱渡りのバランスを必死で保とうとしている。
                           右手の金角湾のむこう、旧市街の歴史的建築物群が、3月にペラ・パラス・ホテルから見たときより、すこし距離をおいてながめられた。この距離感も悪くなかった。くわえて初春から初夏へと季節が移ったことで、風景がより明るく色鮮やかになったように槙村は感じた。5月のボスポラス海峡の輝きは目に痛いほど眩しい.
                           このところ世の中の動きが棹を失った舟のように、急加速する時代の濁流に押し流されている不安を槙村は感じていた。ペラ・パレス・ホテルでサボタージュによる爆発があった3月11日には、アメリカで武器貸与法が成立した。アメリカはヨーロッパの戦争に参加せず中立を維持していたが、ついに米議会がルーズベルト大統領に、連合国側に対して武器や食糧を供与する権限を与えたのだ。武器貸与法はまずイギリスに対して適用された。ヨーロッパの大戦にアメリカが一歩踏み込み、ドイツと対峙する姿勢を明らかにした。
                           3月下旬から4月にかけて松岡外相がモスクワ、ベルリン、ローマを訪問し、スターリン、モロトフ、ヒトラー、リッペントロープ、ムッソリーニとそれぞれ会談した。4月12日には日ソ中立条約が調印された。その翌日の13日には、ハル米国務長官と野村大使の間で日米交渉が始まった。ヨーロッパでは3月はじめにブルガリアが、続いて同月末にはユーゴスラビアも日独伊三国同盟に参加。4月はじめにはドイツがギリシャとユーゴスラビアに軍を進めた。ユーゴスラビアとギリシャは4月半ばドイツに降伏した。
                           槙村は、今回、5月12日にベルリンを出てソフィアに2日ほど滞在した。ソフィアのホテルはドイツ軍の制服を着て声高にしゃべる男たちであふれていた。ブルガリアを自陣営にとりこんだドイツは、ドイツ―ブルガリア間の物資や人員の輸送に鉄道を利用した。そうした列車にドイツの鉄道サービス会社ミトローパの客車が連結され始めていた。この新しいオリエント・エクスプレスをドイツ政府や軍やナチスの幹部がさかんに利用していた。槙村はベルリンのアブヴェールの手配でこうした軍用列車の1つを利用できる許可証をもらい、ソフィアから列車でイスタンブールに来た。ブルガリアとトルコの国境からイスタンブールまで陸路半日もかからない距離だ。トルコ政府がドイツの動きに神経をとがらせているのも当然のことだった。

                           

                          「田川さんの事件ですが、どうやら警察は怨恨の線は捨てたようです。むしろ、この戦争と関わりあう謀略の一端に田川さんが巻き込まれたのではないか、と考えているふしがあります。スパイ天国のイスタンブールでは、各国の諜報機関の謀略をめぐるさまざまな噂が、まさに網の目のように絡み合っていて、警察も田川さん殺害の謎を解きほぐすのになかなか苦労しています」
                           日本の通信社のイスタンブール特派員の深川吾朗が槙村に言った。別所が槙村に深川を紹介した。深川はかれこれ5年近くイスタンブールで仕事をしてきた男だ。5月15日の宵だった。2人はパーク・ホテルのバーにいた。
                          「そうですか。とはいえ、このまま迷宮入りなってしまったら、死んだ田川がかわいそうです。なぜ死ぬことになったのか、あだ討ちはできないまでも、死んだわけぐらいははっきりさせてやらないことには」
                          そう言ったあとで槙村は古風で大仰なもの言いをしてしまったことに気づいた。
                          「このホテルはいろんな国から来た新聞記者のたまり場でしてね。その新聞記者の中にはスパイを兼業しているヤツも少なくないという、もっぱらの噂です。とくにイギリスは新聞記者を諜報員に利用することが多いそうです」
                           深川が意味ありげな目つきで槙村を見た。彼は少しばかり声を落して話を続けた。
                          「このホテルにイスタンブールにたむろするさまざまな国のスパイたちが、ビジネスマン、新聞記者、外交官をよそおって集ってきます。スパイたちの情報交換の場であり、憩いの場になっています。呉越同舟といったところです。このあたりは『ギュミュシュ・スユ』、日本語でいえば『銀の水』とよばれています。優雅な地名でしょう。ホテルの隣の建物は元ドイツ大使館で、大使館がアンカラに引っ越したいまは、ドイツ領事館として使われています。建物が立派なので、土地の人は今なおドイツ大使館とよんでいますが。したがって、パーク・ホテルにはドイツ人の客が多く、ドイツのスパイも多い。日本の旧大使館もすぐ近くにあるのですが、イスタンブールの情報戦では日本は脇役ですらありません。このパーク・ホテルを根城にしている記者の1人に、イギリスのクロニクル紙の特派員をしている男で、ピーター・ケーブルというヤツがいましてね。私よりちょっとばかり若く、30半ばのなかなかハンサムな男です。トルコ人の新聞記者の間では、ピーターはイギリス情報機関と新聞記者の二足のわらじをはいていると噂されています」
                           深川はここで一息入れ、テーブルの上のビールで喉を湿らせてから話を続けた。
                          「田川さんと一緒に殺されたチチェキという若い女が、そのピーター・ケーブルの囲い物――いや、囲い物とはちょっと古臭かったです――愛人だった、という噂をつい最近聞きました。田川さんとチチェキが死んでいた、例のボスポラスの眺めの美しいフラットの家賃はピーター・ケーブルが払ってやっていたそうです。チチェキを使って田川さんから何か情報を引き出そうとしていたのではないか、とドイツ紙の記者がささやいていました。多分ドイツの情報機関の見方の受け売りなのでしょうが。槙村さん、ピーター・ケーブルと一度直接お会いになってはいかがですか。なにか、感触がつかめるかもしれませんよ。お膳立てなら私がしましょう」
                          「それはありがたい」
                          槙村が深川に礼を言った。

                           彼らのテーブルの隣にウェイターが数人の男女を案内した。椅子に座るとき色白で黒い髪、大きな黒い瞳の若い女が槙村と深川の方を見て微笑んだ。
                          「お知り合いですか」
                          槙村が深川に尋ねた。

                          2019.01.30 Wednesday

                          『だまし絵のオダリスク』    第6回

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                             陽光きらめく5月のマルマラ海が列車の右手にあった。
                             1941年5月15日木曜日の朝、マルマラ海は晩春から初夏にかけての瀬戸内海によく似ていた。底抜けに明るく、柔らかで、そして優しくみえた。
                             列車はすでに5世紀の初めに築かれたテオドシウスの城壁がマルマラ海に接していたあたりを過ぎていた。列車はマルマラ海を右に見ながら海岸沿いにしばらく直進し、やがて速度を落した。列車は左へ大きくカーブしたが、青い海はなお右側にある。
                             海の向こうにイスタンブールのアジア側がみえる。列車の左手は低い丘で、その上にトプカプ宮殿がある。かつてこのあたりには、マルマラ海の海岸線に沿って海からの攻撃に備えるための城壁が築かれていた。オスマン・トルコ時代にはトプカプ宮殿の離宮「夏の宮殿」と呼ばれる建物があった。その夏の宮殿は19世紀中ごろに火事で焼け落ちている。まもなく焼け跡はかたづけられ、その跡地でイスタンブールとヨーロッパを結ぶ鉄道の敷設工事が始まった。線路は海岸沿いの城壁の跡の内側、つまりトプカプ宮殿の構内の端をかすめて通ることになったが、オスマン朝の王宮はこのときすでにトプカプ宮殿から新築のドルマバフチェ宮殿へ移っていた。この線路をのちにオリエント急行が走ることになった。
                             列車はさらに速度を落して、再び左へカーブした。終着駅シルケジがすぐそこにあった。
                            「長旅、お疲れさまです。ホテルは大使館旧庁舎そばのパーク・ホテルをとってあります。いやいや、3月にお泊りだったペラ・パレス・ホテルの爆弾事件の夜は大変でしたね。ペラ・パレスとはちょっと雰囲気が違いますが、パーク・ホテルもまた居心地のよいホテルですよ」
                            日本大使館のイスタンブール庁舎に駐在している副領事の別所剛三が乗用車でシルケジ駅まで槙村を迎えに来てくれていた。別所はきびきとした明るい声で槙村に話しかけた。
                             槙村を乗せて車はシルケジ駅を出た。エミノニュの港のそばを通り過ぎた。忙しく発着するフェリーがあり、はしけが切れ目なく行き交い、カモメが飛びまわり、埠頭に物売りの姿があった。金角湾の対岸のガラタの埠頭で貨物船が煙突から黒煙を盛大にあげていた。
                             金角湾をまたいで2階建てのガラタ橋が旧市街と新市街を結んでいる。朝の光が旧市街のトプカプ宮殿、ハギア・ソフィアことアヤ・ソフィア、ブルー・モスクことスルタン・アフメト・ジャーミー、イェニ・ジャーミー、シュレイマニイェ・ジャーミーなどイスタンブールの風景を代表する建築物を照らしている。新市街にも歴史的建造物のガラタ塔などがあるが、どちらかというとそこは現代の街だ。すべての外国公館は新市街に建てられている。外国公館が旧市街に建てられることをスルタンが嫌ったからだ。
                            イスタンブールの歴史はヨーロッパ側の旧市街を舞台にして書かれている。東ローマ帝国や、オスマン・トルコ帝国の中心部が旧市街にあったからだ。イスタンブールに最初に街を築いたのはギリシャ人だとされている。そのギリシャ人たちを率いたチーフの名が「ビザス」だったことから、街はビザンティウムとよばれた。紀元後330年にローマ帝国のコンスタンティン帝がここを新首都に定めたことから、コンスタンティヌポリス、コンスタンティノープルと人々はこの街をよぶようになった。
                             13世紀のはじめ第4回十字軍は聖地奪回に向かう途中、ヴェネツィア共和国の誘いに乗ってコンスタンティノープルを攻めた。古文書によると、このときは難攻不落のテオドシウスの城壁ではなく、海側の城壁から攻めた。コンスタンティノープルに入った十字軍は金銀を略奪、虐殺をほしいままにした。女性とみるとてあたりしだい強姦した。尼僧もひきずりだして犯した。十字軍に同行したカソリックの僧はギリシャ正教の修道院に押し入って聖遺物をかっぱらった。戦は人種、宗教、信仰、文明にかかわりなく人を狂気に陥れる。
                             このときコンスタンティノープルのヒッポドローム広場に飾ってあった4体のブロンズの馬の像も略奪されてヴェネツィアに持ち去られた。ブロンズの馬はヴェネツィアのサン・マルコ寺院に飾られていたが、ナポレオンがヴェネツィアを攻めたさい戦利品としてパリに持ち帰った。のちにこのブロンズの馬はヴェネツィアに返還され、再びサン・マルコ寺院に飾られたが、イスタンブールまでもどって来ることはなかった。
                             東ローマ帝国の都コンスタンティノープルは1453年5月29日、メフメット2世率いるオスマン・トルコ軍の総攻撃を受けて陥落した。
                             メフメト2世はコンスタンティノープルを包囲したものの、はじめの数週間、堅固なテェオドシウス城壁に阻まれて攻めあぐねていた。先帝の代からの仕えている古手の将軍たちのなかには、メフメト2世に攻撃中止を進言する者もいた。まだ若者だったメフメト二世は、前線を回って兵を鼓舞した。都を陥落させたあかつきには、3日間にわたって略奪お構いなしと叫んだ。やる気を引き出すのは物欲と、古来、相場は決まっている。
                             東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコはマルマラ海に突き出た小高い丘の上の古代ギリシャの殖民都市ビザンティウム跡に新たな宮殿を建てた。やがてこの街はコンスタンティノープルともイスタンブールとも呼ばれるようになった。町の名前が正式にイスタンブールで統一されたのは、オスマン帝国が崩壊しトルコ共和国になってからのことだ。イスタンブールの語源ははっきりしないが、イスラムボル(イスラムがいっぱい)のなまりではないかとする説もある。
                            車はガラタ橋を渡ってヨーロッパ側新市街に入っていった。
                            「ペラ・パラスの爆弾事件ですが、その後の捜査はどうなりましたか」
                            槙村が別所にたずねた。
                            「結論から言うと未解決です。死者は6人、負傷者は20人を超えました。死者のうち2人は到着したイギリス大使館員らの警備にあたっていたイスタンブール警察の警官でした。警察も身内から死者を出したとあって、相当真剣に調べてはいますが、ここの警察の能力の限界でしょうか、はかばかしい進展はないようです」
                            「ソフィアから持ち込まれたという爆弾の出所については?」
                            「ソフィア脱出のさい、イギリス大使館員が列車に運び込んだ荷物のうち、持ち主不明のものが二つあったそうです。そのうちの一つがペラ・パラス・ホテルで爆発しました。残るいまひとつのスーツケースから不発に終った時限爆弾が発見されましてね。時限装置はドイツ製でした。いずれにせよ、爆弾が国外から持ち込まれたことで、トルコ政府首脳はほっとした様子です。トルコ国内の反政府分子の破壊工作だったらイギリスに対して負い目ができることになりかねませんから。イギリス側にはナチスあるいはナチスの息がかかったブルガリアの組織の仕業と見るむきもあるようです。逆に、ドイツ側はイギリス大使館員がブルガリアを去るにあたって、ブルガリア国内の線路を爆破するサボタージュ工作に使うつもりで爆弾を用意したが、ついうっかりしてイスタンブールまで持ち込んでしまった、という説を一時となえました。しかし、『ついうっかり』説はいくらなんでもイギリス大使館員がうかつすぎるというわけで、説得力に欠けました。トルコ政府はブルガリアの数ある政治組織の一つがやみくもにたくらんだ破壊工作との観測を出しています。この『やみくも』という言葉は意味深長だと思いますね。第1次世界大戦のひきがねになったサラエヴォの銃声を連想させます。火薬庫バルカン。ブルガリアもまたバルカン的分裂と混沌にみまわれている国です。犯行におよんだ組織の特定はまず困難でしょう。トルコ政府はなかなかうまいおとしどころ見つけたとうわさされています」
                            「なるほど。わが軍隊はドイツびいき、わが民はロシアびいき、わが妻はイタリア人なのだ――ブルガリア国王ボリス3世がそういってため息をついたという逸話をソフィアで聞きました」
                            「槙村さん、肝心の田川さんの事件の方ですが、概略、これまでベルリンに連絡したとおりで、こちらも解明への足どりははかばかしくありません。申し訳ないです」
                            別所は田川一郎殺害事件の捜査の停滞の責任が自分にあるかのような、まことに申し訳なさそうな声を出した。
                            「難しい事件になったようですね」
                            槙村が言った。

                            2019.01.20 Sunday

                            「だまし絵のオダリスク」   第5回

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                               内臓をひっくり返して口から飛び出させてしまうような爆発音がペラ・パレス・ホテルにとどろいた。槙村は視野の隅に青白い光を見た。と同時に、体が椅子から吹き飛ばされるほどの風圧と音圧を感じた。調度品が床にたたきつけられる音、窓ガラスが割れて飛び散るけたたましい音がロビーから聞こえた。槙村はイスタンブール庁舎に来ていた日本大使館の副領事別所剛三とともに、約束の時刻に10分ほど遅れてオリエント・バーに現れたイケメン・メフメト課長とオメル・アシク警部との4人で食前酒を飲んだ。午後9時すぎメイン・ダイニングルームに席を移し、それぞれが料理を注文し、その料理が運ばれてくるのを待っていたところだった。
                              メイン・ダイニングルームの客も恐慌をきたした。近くのテーブルの客たちの悲鳴が高い天井に響いた。テーブルの上から、皿、ナイフ、フォーク、グラスが床に落ちた。
                               オメル警部がテーブルの上にころがったワイングラスが床に落ちないようすばやく手でつかんだ。槙村ら4人も椅子から立ち上がった。
                              「ちょっと、失礼します」
                              イケメンとオメルがロビーに向かって走った。
                              「ボイラーでも爆発したのでしょうか?」
                              別所が言った。
                              「いや、爆発物だね。行ってみよう」
                              槙村が緊張した表情で言った。砲撃演習のとき嗅ぐのと同じようなにおいが漂ってきた。
                              「いってみましょう」
                              別所が応じた。
                               ロビーのフロント隣にある荷物保管室の壁が吹き飛ばされていた。壁板が燃え、火が広がろうとしていた。宿泊客のスーツケース数十個があたりに散乱し、ロビーの古風なソファーやテーブルもひっくり返り、窓ガラスが割れ、カーテンがちぎれていた。
                              「ドイツの攻撃だ!」
                              床の上に両膝をついてしゃがみこんでいる男が槙村を見て叫んだ。両腕で気を失っている女性を抱きかかえていた。槙村を見上げた男の顔は、ガラスの破片でもあたったのか血まみれだった。
                               飛び散った家具類の中に、宿泊客が倒れていた。爆発で両足と片手をもぎ取られた女性が玄関の方へ運ばれていった。
                              救急車と消防車が到着した。死傷者が運び出され、消火作業が始まった。次々に到着した警察車両から制服の警官が出て、ホテルの周囲をかためた。
                               1時間ほどたって次の爆発のおそれはないと確認された。爆発当時ロビーにいて、ホテルの庭などで足止めを命じられていた客が、大広間やダイニングルームによびもどされた。警察が聞き取りを始めた。
                               集まってきた新聞記者たちの求めに応じて警察がロビーの一角で状況説明を始めた。
                                別所は日本大使館員で日本人の安否を確認する必要があると警備の警官に告げて、槙村ともども新聞記者の中にもぐりこんだ。状況説明は警察本部次長と捜査部長が行った。イケメンとオメルがその近くに立っていた。警察本部次長が事件の輪郭を説明していた。
                              荷物保管室にはソフィアを脱出してこの夜イスタンブールに到着した駐ブルガリア英国大使館員たちのスーツケースが運びこまれていた。ナチスの支配下に入ったブルガリアはイギリスと断交に踏み切ったばかりだった。駐ブルガリア大使ジョージ・レンドゥル以下約50人の館員が、ブルガリア国王ボリス3世から提供された車両を使って3月11日朝ソフィアを出発、ヨーロッパの大戦が始まった1939年以降定期運行が中断されているオリエント急行と同じ線路を走って、同日午後9時、イスタンブールのシルケジ駅に着いたところだった。9時半ごろには全員がホテルに入り、間もなく爆発が起きた。
                              「確認できた死者は今のところ2人。重軽傷者が30人ほどだ。負傷者のうちイギリス大使館の関係者は10人ほどである。レンドゥル大使は1階の自室にいて無事だった」
                              警察本部次長が説明した。
                              「この階に客室があるのか?」
                              アメリカ人の記者が質問した。
                              「この階はグラウンド・レべルだ。1階はこの階上だ」
                              「イギリスの大使と外交官を狙ったテロだということですね。犯人の目星はついているのですか?」
                              イギリスの記者が質問した。
                              「犯人および動機については、現段階で断定的に言えるものはなにもない。ホテルあるいはトルコ政府に対するサボタージュなのか。あるいはイギリスの外交官に対するテロ行為によって、トルコとイギリスの友好な外交関係にヒビを入れようとする陰謀なのか。注意深く捜査する必要がある」
                              警察本部次長が答えた。
                              「トルコにはいろんな国から破壊工作員が潜入しているといわれている。くわえて、反政府活動を繰り広げている国内グループもある。たとえば、トルコ国内のアルメニア人組織が破壊工作をしたという可能性は考えられるのだろうか。ナチスあるいは他の外国勢力と共謀して」
                              地元トルコの記者が興奮した口調で言った。
                              「可能性としては排除できないが、これまでにわかったところでは、アルメニア人組織が加担しているという可能性は低い。爆弾は時限装置付きで、スーツケースの中に仕掛けられていた疑いが濃厚だ。そのスーツケースはイギリス大使館員の荷物にまぎれこんで、ソフィアで列車に積み込まれ、国境を越えてイスタンブールに運びこまれた。イギリス大使館の一行はゲシュタポやブルガリア警察が監視する中で列車に乗り込んだ。そのときスーツケースなどの手荷物も車両に運びこんだが、列車が動き出した後、持ち主が確認できないスーツケースが複数個あったことをイギリス大使館員から聴取している」
                              捜査部長が言った。
                              「現在、ホテル内で客や従業員から情報の聞き取りを行っているところだ。中立国トルコとそれを取り巻くイギリス、ドイツ、ソ連との微妙な関係については記者諸君がよくご存知のとおりだ。事件の解明は急がれるが、同時に捜査は慎重を期さねばならない。いまのところは以上だ。新しい情報が入り次第、お話しする」
                              警察本部次長が会見をしめくくった。
                               槙村と別所も警察官から質問された。イケメン・メフメト課長とオメル・アシク警部とダイニングルームで食事中だったことを話した。
                              「私はこれから事務所にもどってこの爆発の件を東京に報告します。槙村さんは今夜どうなさいますか」
                              「私の部屋は3階だからおそらく被害はなかったでしょう。しばらくここで様子を眺めていて、それから寝ることにします。不便なことがあるかもしれないが」
                              「では、明日また」
                               別所はホテルの外に出た。消防や警察の車両が緊急灯を点滅させていた。ホテル前の路上にはなおあわただしい雰囲気が残っていた。見上げるとホテル建物は黒々としたどこか不吉な闇につつまれていた。
                               別所がペラ・パレス・ホテルを出るのと入れ違いに、イケメン・メフメトが槙村のところへやってきた。
                              「大変な夜になってしまいました。ベルリンに発たれる前にお電話くだされば、都合をつけてお目にかかれると思います」
                              「明日アンカラの日本大使館へ向かいます。アンカラからイスタンブールに帰ってきたとき、もしお時間の都合をつけていただけるのであれば、お目にかかりたいと存じます。今日はありがとうございました。ごくろうさまです」
                              槙村がイケメン・メフメト課長にねぎらいの言葉をかけた。

                               

                              2019.01.12 Saturday

                              「だまし絵のオダリスク」   第4回

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                                「これはこれは、コンスタンティノープルの歴史をよくご存知で」
                                イケメンが笑顔を見せた。
                                 イケメンと槙村のドイツ語のおしゃべりが終るのを我慢しながら待っていたオメル・アシク警部が脱線した話を実務的な方向に引き戻した。
                                「チチェキの男関係を洗う一方で、凶器に使われた拳銃を追っています。銃弾と現場に残っていた薬莢から、使われた拳銃はルガーP08かワルサーP38だと推定されます。フラットの住民から聞き込みをした限りでは、2人が死んだと考えられる3月5日の未明に、人が争う物音や銃声を聞いた人はいませんでした。深夜のことですから銃声はご近所に響くはずでしょうが、聞いたという証言はいまのところありません。消音器を使った可能性もあります」
                                「槙村中佐。ベルリンで勤務されている武官の方ならご存知でしょうが、ドイツ軍の軍用ピストルはルガーP08からワルサーP38への切り替えが始まっています。先の大戦でトルコはドイツと組んで敗れ、オスマン帝国が崩壊しました。ルガーはそのころトルコに大量に流れ込んできました。新たに誕生したトルコ共和国は、このたびのヨーロッパの戦争では中立を守っています。英国もドイツもソ連も自分たちの戦略上の都合からトルコを自陣営に引っぱりこもうと画策しています。その工作ための要員をトルコに送り込んでくる。ドイツの進撃によってヨーロッパ、特にバルカンから避難民がトルコに流れ込んでいます。こうした人たちとともに、さまざまな武器もまたトルコ共和国に持ち込まれ、その一部がイスタンブールの闇の社会に流入しています。絞りこみはなかなか難しい仕事になります」
                                イケメンが補足的な説明をした。
                                「殺害される前の田川とチチェキの行動についてはどの程度把握できているのでしょうか?」
                                槙村が訪ねた。
                                「ラーレという名のカジノで2人を見かけたという証言を得ています。2人は午後10時ごろやってきて、男2人を交えた4人で酒を飲みながらしばらく話しあっていたそうです。その2人の男については残念ながら詳しいことはわかっていません。テーブルに酒を運んだ給仕は、チチェキはもちろんアジア系の男性についてもよく覚えているが、2人の男については印象が薄かったと言っています。ということは、その男は給仕が普段の生活の中で見なれているトルコ人だったのかもしれません。2人が目撃されたのはそのカジノが最後でした」
                                イケメンが答えた。
                                「田川はこの1年ほどは仕事の応援で頻繁にアンカラからイスタンブールに来ていたそうです。イスタンブール庁舎で留守居役をしていた大使館の同僚の話では、田川はあの日の午後7時ごろ行く先を告げずふらりと庁舎を出たそうです」
                                 日本大使館が1937年にイスタンブールからアンカラに移ったあと、イスタンブールの旧大使館の建物は、日本大使の夏の別邸という名目で、大使館のイスタンブール出張所的な役割を果たしていた。アンカラから派遣された留守居役が庁舎の管理にあたっていた。また、しばしは業務で大使館員がアンカラからここに派遣されていた。
                                 イケメンのオフィスからみえるイスタンブール旧市街の空から茜色が消えて、あたりが闇につつまれ始めていた。エミノニュの街の明かり、金角湾の小船の航行灯がはっきりと見え始めた。甥の田川が生きていた最後の日にイスタンブールの街に出たのはこんな宵だったのだろうか、と槙村は思った。
                                 イケメンは槙村の表情にベルリンからの長旅のせいだけではない疲労感を見た。槙村の方はイケメンの顔にほんの一瞬だが緊張が走るのを見た。
                                「槙村中佐」
                                イケメンが口を開いた。
                                「田川さんの姿が最後に目撃されたベイオールのラーレというカジノは、イスタンブールに住む外国人のたまり場のひとつでしてね。経営者はギリシャ系トルコ人ということになっていますが、実質的なオーナーはドイツのアプヴェール(国防情報部)です。ラーレはトルコ語でチューリップの花のことですが、同時に囚人や狂人に使う首かせの意味もあります。どうも悪趣味な店名ですな」
                                「アプヴェールですって。それはたしかなことですか」
                                「ポルトガルのリスボン、スペインのマドリッドなど他の中立国の大都市と並んで、いまやイスタンブールは各国からおしかけてきたスパイたちのにぎやかな社交場になっています」
                                「そんなににぎやかですか?」
                                「ええ、沸騰寸前です。槙村中佐も職業柄よくご存知でしょうが、聞くところによると、アプヴェールをはじめとする各国の情報機関は軍事情報入手のために、飛行機を使った上空からの偵察や、無線の傍受、捕虜の尋問といった直接的な方法と、プレスの情報や積み重ねてきた情報の比較検討や再評価、あるいはエージェントを使って政府機関や外交公館からの情報入手などに励んでいるそうですね。イスタンブールで流行っているのは、もっぱら盗み見、盗み聞きによる情報入手です。アプヴェールはイスタンブール市内にいくつかのバーやカジノを開いています。情報機関が水商売に手を染めるのも、酒で人の口を軽くし、酒席に侍る女性の脂粉や柔肌を使って国家機密を引き出そうともくろんでいるからでしょう。ラーレはその一つです。こうした店が秘密情報の取引所になっていることは、この街で外交や情報の仕事をしている人々の間ではよく知られていることです。そうした業界のクラブのようなところに、いろんな国の同業者が集まって、歓談しつつ互いの腹を探りあい、情報を交換し、なんらかの意図があって捏造した偽情報を売り込みあっているわけです。イスタンブールだけで200から300人がこの手の情報売買で飯を食っています。ふざけた話です。もちろん、ラーレに来る多くの客は諜報の仕事とは関係のない、くつろぎだけを求める一般のトルコ人や外国人ですが」
                                「なるほど。上海のようですね」
                                「ええ。私自身は上海に行ったことがありませんが、イギリス、フランス、ソ連、アメリカ、日本に加えて、国民党や中国共産党の諜報員でごった返している、なにかと騒がしい街であることは話に聞いています。イスタンブールの諜報合戦は上海のそれに似ている。保安本部としては田川さん殺害の動機として怨恨以外の線も考慮にいれているのです。そこで念のためにお尋ねするのですが、槙村中佐、あなたは田川さんと諜報活動のかかわりあいについて何かお聞きになったことはありませんか」
                                「私はベルリンに勤務して1年ですが、その間、田川に会ったのは今年1月、田川がベルリンにやってきたときの1度だけです。田川のトルコ勤務は2年を過ぎていました。田川は大使館で経済担当の三等書記官でしたが、アンカラから東京やベルリンに送ってくれた手紙には、そのようなことを感じさせるものはありませんでした。日本大使館はなんと言っていましたか?」
                                「アンカラの日本大使館からの公式の回答はそのような接点については心当たりがないというものでした」
                                イケメンに代わってアシク警部が言った。
                                 そのとき、オフィスのドアがノックされ、さきほど槙村を案内した長身の若い男があらわれた。イケメンとオメルは若い男と廊下に出た。しばらくしてイケメン1人が部屋に戻ってきて槙村に言った。
                                「警察本部から至急の連絡が入って、本部庁舎まで行かねばならない。話を中断することになってまことに申し訳ないが、この続きはいずれ機会を見て、ということにしていただけないだろうか」
                                 槙村は椅子から立ち上がった。イケメンが右手を差し出し、手短に別れの言葉を言った。午後6時半すぎだった。
                                「私はこの近くのペラ・パレス・ホテルに泊まっています。もしご迷惑でなければ今夜、ペラ・パレスでお食事をご一緒しながら、話の続きをおうかがいできればよろしいのですが」
                                 ペラ・パレスはイスタンブールを代表するホテルだ。アガサ・クリスティーの『オリエント・エクスプレスの殺人』は1934年に出版された。日本語訳がその翌年の1935年に『十二の刺傷』というタイトルで刊行された。訳者は延原謙。クリスティーはペラ・パレス・ホテルの常連だった。グレアム・グリーンの『スタンブール・トレイン』が出たのはその前の1932年のことであり、物語の最後にやはりペラ・パレス・ホテルが出てくる。ペラ・パレス・ホテルはオリエント急行でヨーロッパからやってくる金持や著名人が泊まる宿だった。このホテルには各国からさし向けられたスパイもたむろしていた。伝説のスパイ「マタハリ」もこのペラ・パレス・ホテルに泊まったと噂されている。
                                「わかりました、槙村中佐。イスタンブールご滞在の日程が短いご様子なので、今日中に事件の情報交換をすませてしまいましょう。2時間後でいかがですか。オメル・アシク警部ともども行けると思います」
                                「では、午後8時半に。オリエント・バーでお待ちしています」


                                 

                                2019.01.06 Sunday

                                「だまし絵のオダリスク」    第3回

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                                   イケメンが捜査の本筋からそれていつもの饒舌に流れている気配を感じたオメルが割って入った。
                                  「まず、チチェキに強い恨みをもつ者の犯行が考えられます。犯行が深夜のことなので現場周辺の聞き込みで得られる情報は限られています。しかしながら、槙村中佐のイスタンブールご滞在中に、なにか良い情報をお伝えできるよう努力します」
                                  「期待しています。わたしは18日にベルリンに帰る予定です。その前にアンカラへも行かねばなりません。ところで警部、チチェキという女性ですが、田川とはどんなつながりがあったのでしょうか。日本大使館では田川とそのような女性との関係にはとくに心当たりがないといっていましたが」
                                  槙村がオメル・アシク警部に問いかけた。
                                  「女性の名はチチェキ・ヤルマン。チチェキはトルコ語で『花』のことです。チチェキはベイオールのナイトクラブやバーのいくつかと出演契約していたダンサーでした。彼女はチチェキの名をダンサーとしての芸名にも使っていました。外国人向けに舞台やフロアで踊ってみせるほか、シャンソンやカンツォーネもほどほどにこなし、ダンスのお相手もつとめていました。踊りも歌もまあまあだったそうです。スタイルのいい体と男心をさそう表情のつくり方で、あれやこれやの仕事を抱えてイスタンブールに長期滞在している外国人紳士のみなさん方の間では人気者でした。ガラタ塔から少しボスポラス海峡側に下ったベイオール斜面にたつ眺めのいいフラットを借りて住んでいたのですから、舞台での稼ぎよりはるかに多い別口の収入があったのだろうと噂されています。私も現場を見ましたが、リビングルームの大きな窓の向こうに海峡がきらめき、行き来する貨物船、フェリー、ヨット、さらには対岸のアジア側の丘の起伏とその斜面に建つ住宅も遠望できる、まことに贅沢な住まいでした。ダンサー仲間のやっかみ半分の噂では、チチェキにはきまったパトロンはいなかったようで、言い寄ってきた男とその夜のベッドをともにし、そのつど結構な謝礼をもらっていたらしい、ということでしたが、真偽のほどはわかりません。それと、チチェキは目のさめるような幾何学模様のピンクのイブニングドレスを着ていました。デザインは19世紀のヨーロッパ貴族の女性が愛用したような古典的なものでした。調べてみるとそのドレスは相当高価なものであることがわかりました。パリのエルザ・スキャパレリの店で買ったものでした」
                                  「ヴァンドーム広場のあの店ですか。ベルリンにもその評判は届いています」
                                  槙村が言った。
                                  「ええ。おそらくチチェキ自身が買ったものではなくて、誰かからの贈り物なのでしょう。ドレスを鑑定した服飾の専門家によると、スキャパレリ自身はナチを嫌って去年の夏ごろニューヨークに移ってしまったそうです」
                                  「なるほど。警部は色恋沙汰が原因の殺人だとお考えなわけですか?」
                                  「田川氏は男と女のこみいった関係に巻き込まれて殺されたのではないか。重要な可能性の1つとしてその線は検討にあたいすると考えています。2人の死体を発見したのはチチェキの母親です。ドアをノックしたが返事がない。娘から預かっている合い鍵を使おうとしたが、使うまでもなく、ドアには鍵がかかっていなかった。母親は旧市街のバラットというユダヤ人が多く住む地区に1人で暮らしていて、ときどきベイオールの娘のフラットを訪ねていました。母親は娘の稼ぎをあてにして暮らしていたようです。豪華な暮らしが約束されていた娘が、なぜ極東のアジア人の男といっしょに死んでしまったのかと、逆上していました。母親は、チチェキはスルタンの一族の血をひいているとさかんに言っていました」
                                  「それは興味深い話ですね」
                                  槙村が言った。
                                  「ま、おそらくは、口からでまかせでしょう。スルタンのハレムは1909年に制度として廃止されています。立憲政治と専制政治のあいだを揺れていたアブデュル・ハミト2世が、青年トルコ派が蜂起する中で1909年に失脚しました。そのときスルタンの宮殿の秘所ハレムが廃止され、数百人の女性がハレムからイスタンブールの街に放り出されました。ハレムで小間使い(オダリスク)をやっていたチチェキの母親もその1人でした。ハレムがなくなってイスタンブールの街に放り出され、10年ほど踊り子をしながら暮らしていたそうです。その踊り子時代にかつてのスルタンの一族の誰かといい仲になってチチェキを産んだのだ、と彼女は言っていました。チチェキを産んだのち、母親はいっときユダヤ系の医者の後妻に納まっていた。だが、その医者とも別れ、やがてバラットのわびしい安フラットに移り住みました。チチェキの父親についてははっきりしません。美貌のチチェキが玉の輿に乗って贅沢三昧の暮らしをおすそわけしてくれる日を母親は心待ちにしていたようです。失われた自分の夢をチチェキに託していたのでしょうが、ことはそううまく運ばなかった。それだけにチチェキの死は母親にとって痛手だったと想像できます」
                                  オメル・アシクが言った。

                                   それをイケメン・メフメトが引き継いだ。
                                  「どこの国でも多かれ少なかれそうでしょうが、この国でも色恋というのは女性が富と権力に近づく手立てだった歴史がありましてね。オスマン朝のハレムがそうでしたし、オスマン・トルコ軍に征服されたビザンティン帝国でもそうでした。旧市街にヒッポドロームという名のビザンティン時代の都の中心になっていた広場があります。東ローマ帝国時代にはここでさまざまな娯楽が提供されました。『パンとサーカス』のサーカスが民衆に提供されたところです。そのヒッポドロームはまた、パンを求める民衆の不満の爆発の場にもなりました。ユスティニアス1世の532年、この広場で反ユスティアス暴動が起きて、皇帝の身に危険が迫ったことがありました。側近たちは、ユスティニアスにコンスタンティノープルから脱出するよう勧めました。ユスティニアスもその気になったのですが、そのとき、ユスティニアスの妻テオドーラが、ユスティニアスをこう言って叱咤したそうです――逃げ出してはなりませぬ。死は生まれたときからの約束事です。国を治めてきた者が、威厳と権力を捨てて生き延びてなるものでしょうか。陛下が王冠と紫のローブを失った姿を人目にさらすことのないように、私が生きながらえて皇妃の称号ぬきで人に呼ばれることのないようにと天に祈りました。陛下、お逃げになりたいのであれば、ここに財宝があります。海には船が浮かんでおります。さりながら、いまお命を惜しまれれば、やがて惨めな亡命とその果ての恥辱にまみれた死を迎えることは必定でございます。そのことこそをお恐れください。王座は栄光に満ちた墓石であるという古の格言に、私はしたがいとう存じます」
                                  イケメンがまるでシェークスピア劇のセリフのような調子で語った。

                                   この男、なかなかの役者だ。
                                  「娼婦あがりの妻に叱咤激励されたユスティニアス1世は決死の覚悟で反乱に立ち向かい、これを鎮圧し、のちに東ローマ帝国の版図拡大に成功して、歴史に残るユスティニアス大帝とよばれることになった。『ニカの乱』のお話ですね。エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の名調子の語り。まだ若いころ海軍士官として演習で長期航海に出たときなど、退屈しのぎに読んだ本です。ユスティニアス大帝を一喝したテオドーラの方は、たしか、ヒッポドロームで走らせる馬の世話をしていた馬方を父に、芸人を母に生まれた下層の娘だった。父親の死後、生活のために母親がテオドーラを舞台に立たせた。チチェキとちがって歌も踊りもできず、パントマイムがせいぜいだった小娘でした。テオドーラは母親によって、昼は舞台、夜はベッドで稼がされた。テオドーラの美貌にひかれたユスティニアス一世は彼女を愛人にし、のちに妻にした。やがてテオドーラは東ローマ帝国史上で最強の女性の権力者になった。歴史のきまぐれというやつです。中国や日本には『三十六計逃げるに如かず』という言葉がありますが、ユスティニアスがもしその言葉に従っていたら東ローマ帝国の歴史は違ったものになっていたでしょうね」
                                  槙村がイケメンのおしゃべりに合いの手をいれた。
                                   

                                  2019.01.02 Wednesday

                                  「だまし絵のオダリスク」    第2回

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                                     槙村忠中佐はリフトを降りた。
                                     槙村をイスタンブール保安本部のイケメン・メフメト外事課長のオフィスに案内したのは、上背が2メートルに届くかと思われる若い男だった。淡い茶色の髪、緑がかった灰色の瞳だった。アジア人らしい人種的な特徴はみあたらず、完全にヨーロッパ型の容貌だった。とはいえ、ベルリンの街で見かけるドイツ人たちとはまた雰囲気が違った。彼らのような北欧人の冷たい硬質感はなかった。その開放感と柔らかさはまさしく南ヨーロッパ人のものだった。
                                     案内の男がドアをノックした。室内から応じる声が聞こえた。男がドアを開けた。西側に開いた大きな窓を背にして2人の男が立っていた。2人とも1メートル80センチほどの背丈で、筋肉質の身体をスーツでつつんでいた。1人は、黒い長髪で葉巻のような太いヒゲを鼻の下に蓄え、濃紺の上下に真紅のネクタイという、いたってにぎやかないでたちだった。そのうえ太い黒縁の眼鏡をかけていた。いま1人は色白で、濃い茶色の髪の毛を短く刈りこんでいた。髪と同系色の背広上下に、こげ茶のストライプのネクタイを合わせていた。こちらの方はなかなかのしゃれ者だ。
                                     1941年3月11日火曜日午後6時をすこしまわったところだった。
                                    「駐ベルリン日本大使館付海軍武官補佐官の槙村忠中佐です」
                                    槙村が2人の男にドイツ語で言った。槙村はベルリンの日本大使館で大使の大島浩に次ぐドイツ語使いといわれていた。
                                    「イケメン・メフメトです。こちらはイスタンブール警察本部のオメル・アシク警部。事件の捜査を指揮しています。旅はいかがでしたか?」
                                    ヒゲを蓄えている黒縁眼鏡の男が一歩前に進み出て、槙村と握手を交わしながらドイツ語で応じた。イケメン・メフメトはミュンヘン大学で法律を学んでいるので、ドイツ語で話しあえると、あらかじめ日本大使館の館員から槙村は聞かされていた。
                                     イケメンの背後の窓の向こうに夕暮れのイスタンブールが見えた。ちょうど夕陽が旧市街の七つの丘の向こうに沈んだところだった。古代ローマのセプテム・モンテス・ロマエ(ローマの7つの丘)にちなんで、東ローマ帝国の都コンスタンティノープルが建設された旧市街の起伏が同じように7つの丘とよばれていた。イケメンのオフィスはベイオールのシシュハネの古びた6階建の最上階にあった。古びてはいるが歴史的建築物にはほど遠く、トルコ政府の雑多な出先機関のオフィスを詰め込んだ、ただのコンクリートの箱にすぎない。金角湾をはさんで対岸のエミノニュのウォーターフロントに建つイェニ・ジャーミーや、その上手の丘にあるシュレイマニイェ・ジャーミーのドームとミナレットがくすんだシルエットになって見えた。少し左手のマルマラ海側にはトプカプ宮殿やアヤ・ソフィア、スルタン・アフメト・ジャーミーが夕闇に溶けこもうとしていた。長い歴史を秘めた古都の黒いスカイラインの上に、茜に染まったバルカンの空があった。
                                     夕焼けの風景画で有名なウィリアム・ターナーの絵を見て、自然の夕焼けはこんな色にならないと言った人がいたそうだ。するとターナーは、私は自分が美しいと感じたように夕焼けを描いたと答えたという。もしもターナーがベニスを超えてイスタンブールまで来ていたとしたら、この夕焼けをどのように描いただろうか。そう思わせる眺めだった。
                                    「槙村中佐、すばらしい景色でしょう。このオフィスに移って来て、もうかれこれ2年になりますが、今日のような夕暮れは見飽きることがありません。イスタンブールはベルリンのような躍動する現代最先端の文物にはこと欠きますが、古い都に特有の、郷愁を誘う風景だけは恵まれています。私たちが持ち合わせているものは、もはやというべきか、あるいは、いまのところというべきか、その程度のことなのですが……。歴史の暮れ方にたたずむ者は愛惜の念でこの夕焼けをながめるのですよ」
                                    イケメンが執務机の前の椅子を槙村に勧めた。
                                    「いや、これは失礼しました。イスタンブールの夕暮れのあまりの美しさにすっかり気をとられてしまいました。死んだ甥の田川一郎がまだ子どもだったころ、彼を連れて出かけた東京の港の夕焼けをふと思い出したものですから。田川の両親は外交官でしたが、赴任先のワシントンで交通事故にあい2人同時に死んでしまいました。田川がまだ4歳になる前のことでした。田川の母親はわたしの姉でした。田川にとっては祖父母にあたるわたしの両親が彼を引き取って育てました。それに田川はこの1月ベルリンにわたしを訪ねてきてくれましてね。そのときの元気な顔をつい思い出したりして、ちょっと感傷的な気分になっていました」
                                    「そうでしたか。お気持、お察しいたします。事件から1週間になります。いまのところ捜査は大きな進展をみせているとはいいがたい状況ですが、捜査には波がありまして、勢いがつけばいっきに解決にいたる例も多いのです。いまは遺漏のないようきっちりした基礎的な捜査を根気よく続けているところです。ところで、日本大使あてにお送りした事件の概略についてはお読みいただきましたか?」
                                     その報告書の概略はアンカラの日本大使館からベルリンの日本大使館経由で槙村のもとに送られてきていた。槙村はベルリンを出発する前にそれを読んだ。
                                     田川の死について連絡を受けたとき、槙村はイタリア出張中だった。ローマからいったんベルリンに戻り、ベルリンからイスタンブールに飛ぶドイツ政府の連絡機に便乗させてもらって3月10日にイスタンブールに着いた。その日の夜のうちに槙村は、アンカラの日本大使館がイスタンブールでの出先として使っている旧日本大使館庁舎でイケメンの報告書の全文に目を通していた。
                                     報告書は保安本部の公用紙3枚にトルコ語で書かれ、イスタンブール保安本部外事課長イケメン・メフメトの署名があった。槙村が読んだのはアンカラの日本大使館翻訳官の手になる日本語訳だった。

                                    ――1941年3月5日水曜日午後2時ごろ、ベイオールのボスポラス海峡をのぞむ斜面に建つフラット3階の一室で田川一郎の死体が見つかった。死体は絨毯を敷いたリビングルームの床に仰向けになって倒れていた。至近距離から発射された拳銃の弾丸が田川の心臓を撃ち抜いていた。検視報告によると即死。田川はグレーの三つ揃いの背広を着て黒い靴をはいていた。上着のポケットの名刺入れから、死体がアンカラの日本大使館三等書記官田川一郎であることはすぐわかった。いまひとつの死体が田川と並んで仰向けに横たわっていた。この部屋に住んでいる女性で、チチェキという名のトルコ国籍のダンサーだった。チチェキはピンクのイブニングドレスを着ていた。チチェキの首には水色の絹の編み紐がまきついていた。絞殺だった。リビングルームには荒らされた形跡がまったくなかった。リビングルームは寝室に続いていた。ベッドには田川の黒いオーバーコートと、チチェキの白いコートが無造作に置かれていた。ベッドが使用された形跡はなかった。寝室にも荒らされたあとはなかった。遺体はともに死後半日ほど経過していた。2人とも3月5日未明に死亡したと推定された。

                                    「それで捜査当局の見方はどうなのですか」
                                    「そのことについてはオメル・アシク警部に説明してもらいましょう」
                                    イケメンがオメルをうながした。オメルはトルコ語で語り、イケメンがドイツ語に翻訳した。
                                    「不可解なのは射殺死体と絞殺死体の組み合わせです。この謎をどう解くべきか。そこがまず悩ましいところです。チチェキの絞殺ですが、拳銃があるにもかかわらずそれを使わないで、わざわざヒモで絞殺したというのは尋常な行為ではありません。殺人という目的の達成よりも、殺人の過程を楽しむ倒錯的行為です。そのうえ、絞殺にはわざわざ絹のヒモを使っています」
                                    「絹のヒモ? それはどういうことですか」
                                    槙村が怪訝な表情で尋ねた。

                                     通訳しているイケメンの顔に苦笑のような、とまどいの表情が浮かんだ。
                                    「絹のヒモを使っての絞殺はオスマン帝国の歴史でしばしば繰り返されたことです。オスマン朝は安定したスルタンの独裁体制を維持するために継続的な親族殺人の制度を導入しました。スルタンは男子継承制で、15世紀から17世紀にかけて、スルタンが世を去り後継者が決まると、その後継者が自分の兄弟と兄弟たちの男の子どもを殺してしまうのがならいでした。権力継承をめぐる内紛の芽をあらかじめ徹底的に摘み取っておくのがその目的でした。もちろんイスラム教は殺人を罪悪としています。しかし、新しいスルタンによるこの兄弟殺しは、政治動乱を予防し、社会の安定を図ることを目的におこなわれるものであるから、支配者にだけは例外的に許される行為である、とウラマーも認めていたそうです。スルタン・メフメット3世は即位ののち、19人の兄弟を、彼らの子を身ごもっている15人の女奴隷ともども皆殺しにしました。1595年のことだとされています。スルタンの身内を殺すにあたっては、高貴な血を流すことがはばかられたので、絹製の紐で首を絞めるか、浴槽で無理やり溺れさせるかして殺したといわれています」
                                    イケメンが説明した。
                                    「ずいぶんと猟奇的なお話ですね。そうした精神の歪んだ犯罪者の仕業だと予想されているわけですか」
                                    槙村が尋ねた。
                                    「オスマン朝の兄弟殺しの制度を猟奇的とただ一言で済ませてしまうことはできません。血筋によって権力を継承する側の責任と倫理という面で、それはなかなか重い問題を提起しているのです……」

                                     

                                    2019.01.01 Tuesday

                                    「だまし絵のオダリスク」     第1回

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                                       1941年3月5日水曜日午前7時。よく晴れたイスタンブールの朝だった。アジア側とヨーロッパ側を結ぶフェリー、ボスポラス海峡を上り下りする渡し船や貨物船が忙しく動き始めていた。汽笛の透明な響きが街の空気を貫いた。
                                       海峡を見おろすヨーロッパ側新市街のベイオールの斜面に、瀟洒な白い3階建てのフラットが建っていた。フラット3階の部屋の50平方メートルほどのリビングルームのカーテンがほんの少しひらいていた。その隙間から眩しい朝日がトルコ絨毯を敷いたフロアに斜めにさし込んでいた。室内の照明はついたままだった。
                                       フロア中央にソファーがあり、窓際にロッキングチェアーが、部屋の隅にライティング・デスクと椅子があった。壁の棚には小ぶりな磁器の壷が置かれていた。白地に藍色の魚の文様が浮き出た渋い壷だ。壷の近くの壁にアングルの有名な『グランド・オダリスク』の複製が掛けられていた。染付けとアングルの官能的な絵の複製の組み合わせは、どこかキッチュな感じを見る人にあたえた。額縁の中のオダリスクはデフォルメされた異様に長い裸の上半身をくねらせて華奢な背中と大きなお尻を誇示していた。振り向いた顔の思わせぶりな眼が室内の一点を見ていた。
                                       オダリスクの視線の先の床の上に人間が2人、並んでころがっていた。1人は東欧系の顔立ちをした茶色の髪の女性。あざやかなピンクの柄のイブニングドレスを着ていた。いま1人は三つ揃いのスーツを着た東洋系の男性で、中国人か朝鮮人か、あるいは日本人のようにみえた。2人は顔を天井に向けて仰向けに倒れていた。男の服の胸に大きな赤い染みができていた。服が吸い取りきれなかった血が床に流れ、トルコ絨毯に新しい模様をつけくわえていた。女の首には水色の紐がまきついていた。2人はカッと目を見開いていた。だが、4つ眼球は固定したまま動かず、もはや彼らには何も見えていなかった。

                                       

                                        ***(Mandala撮影の現代のイスタンブール風景と、著作権が消滅した古いアーカイヴ写真を適宜添えます)

                                       

                                      2018.12.23 Sunday

                                      『ペトルス――謎のガンマン』  第24回(最終)

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                                        鷹石里志はウダヤナ大学の第1学期の授業を12月いっぱいで終えた。2001年の1月初旬に試験をして、あとは2月初旬からの第2学期まで、大学の仕事は休みになっていた。暮れから正月にかけては、日本から友人や弟の娘、つまり鷹石の姪がバリの正月を楽しみにやってきた。いっとき鷹石の周辺に日本のにおいが充満した。
                                         その日本のにおいが消えかかった1月16日の火曜日の朝、グスティ・アグン・ライ警視から鷹石に電話があり、その日の夕方、例によってライ警視の愛車キジャンがきしみ音を立てて、鷹石の家の前に止まった。
                                        「きょうはちょっとあんたの意見を拝聴したいと思いましてね。瀬田誠のパスポートのことで日本の外務省に問い合わせをした。その返事が届いてね。瀬田誠は1961ウルグアイの首都モンテビデオで生まれた。日本人の両親は出生届を現地の日本総領事館に出して誠の日本国籍を確保した。両親の名は父が瀬田良樹、母が瀬田美智子。母親の結婚まえの姓は秋野だった。瀬田誠が12歳の時、一家は日本に帰ってきた」
                                        「ほう、外務省はよく調べたな」
                                        「駐在官事務所の内藤領事が、前任者でいまは東京の外務省でインドネシアを担当している久保田さんに連絡をしてくれた。久保田さんは瀬田沙代殺人事件のときにデンパサールに駐在していた人だから、東京での調査の後押しをしてくれた。そう内藤領事が説明してくれた」
                                        「なるほど」
                                        「それから、われわれが出入国管理の記録を調べたところ、ラファエル・セタ・アキノという男がウルグアイのパスポートで、1998年5月10日にジャカルタのスカルノ・ハッタ空港から入国し、4日後の14日夕方前にデンパサールのングラ・ライ空港から出国していることがわかった。ラファエル・セタ・アキノの生年月日は瀬田誠と同じ1961年4月22日だ」
                                        「それはすごい。やったじゃないか。警視。しかし、瀬田誠はなぜスカルノ・ハッタ空港から入国したのだろうか。デンパサールへ直接来れば時間の節約になったろうに」
                                        「サトシ、それは時間の問題ではないんだ。瀬田はジャカルタに立ち寄る必要があったと考えるべきだ。それがわたしの見方だ」
                                        「あ、そうか。アンワル・ユスフ将軍からもらった拳銃だ」
                                        「おそらく瀬田誠はジャカルタにつくと、ジャカルタのアパートメントに行き、部屋の金庫かあるいは別の隠し場所から拳銃を取り出した。ところで、タカシ、あんたなら、拳銃を持っている場合、ジャカルタからデンパサールまでどんな交通機関を使うかね?」
                                        「飛行機はセキュリティーでひっかかる可能性が大きい。たとえのほほんとしたジャカルタの空港でもね」
                                        「インドネシアの名誉のために言っておくが、空港のセキュリティー・チェックのミスは世界中で起きている」
                                        「それは失礼した。拳銃を発見されないでジャカルタからバリに来る方法は、おそらく長距離高速バスだろう」
                                        「正確に言えば、長距離バスか、列車だ。バスだとジャカルタからデンパサールまで丸一日以上かかる。バスはたいてい遅れるから、1日半、30時間とちょっとみておけば、ジャカルタからデンパサールにたどり着ける。ラファエル・セタ・アキノのジャカルタ入国カードを見ると、搭乗機の記録はガルーダ823便にとなっている。この機はシンガポールを発って、朝8時過ぎにスカルノ・ハッタ空港に着く。ジャカルタからデンパサールに行くバスは毎日午前中に1本、午後に2本ある。アパートに立ち寄って拳銃をとり出し、長距離バス乗り場へいって、午後のデンパサール行きのバスに乗るだけの時間は十分ある。だがね、タカシ。緑の森や田んぼをながめながらジャワ島を縦断するバスの旅は若いバックパッカーだったら面白いだろうが、中年になり始めた外国人には、窮屈な車内に閉じこめられて1日以上もすごさねばならないバス旅行は耐えられないと思うよ
                                        「わたしの想像では、ラファエル・セタ・アキノはジャカルタからスラバヤまで列車で行き、スラバヤからデンパサール行きの長距離バスに乗り換えたはずだ。5月10日の夕方、ジャカルタのガンビル駅から急行の1等車に乗れば、11日の早朝にスラバヤに着く。スラバヤで長距離バスに乗り換えると、フェリーで海峡を渡り、12時間程度でデンパサールに着く。ということは、列車やバスに少々の遅れが出たとしても、11日の深夜までにはデンパサールに到着できる計算だ。11日中にデンパサールに着けば12、13の2日間で沙代殺害の準備は十分できる」
                                        「たしかに。だが、どんな準備をして、ふだんはウブッドに住んでいる彼女をデンパサールの街の路地で銃撃できるようにお膳立てをしたのだろうか?」
                                        「その点は、彼を逮捕してからじっくり聞きだすしかない。4月にジャカルタで2人があったときなにか打ち合わせをしていたのかも知れない。13日にタマン・サリに宿泊することを、沙代がまえもって瀬田誠に言っていたのかも知れない。いずれにせよ、想像の域を出ない」
                                        「14日にラファエル・セタ・アキノはデンパサールにいた。これまでの情報からラファエルと瀬田誠は同一人物である疑いが濃厚になっている。だが、瀬田誠をしょっ引くには彼が5月14日にバリにいた動かぬ証拠が必要だな」
                                        「それは手に入れた」
                                        「どうやって?」
                                        「タカシ、あんたインドネシア入国にあたってどんな手続きをした?」
                                         あっ、そうか。鷹石里志は自分の馬鹿さ加減に苦笑した。
                                        「日本人は観光目的ならビザなしでインドネシアに入国して2ヵ月まで滞在できるので、すっかりビザのことを忘れていた。ビザを免除されていない国の方が多数派だったんだ」
                                        「メキシコシティのインドネシア大使館領事部のビザ申請書のつづりから、ラファエル・セタ・アキノの申請書が出てきた。当然、写真が添付されている。ラファエルの写真はヒゲがあったが、瀬田誠とそっくりだ。さらに、瀬田誠のパスポートの署名のMakoto SetaとRafael Zeta Aquinoの書名の筆跡が同一だと鑑定された。ところで、今日は冷たいトワイニング紅茶は出ないのですか」
                                        「おっ、これは失礼した。スチが用でちょっと出かけているもので」
                                        「なら、アイール・プティ(ただの飲み水)でいいや」
                                        鷹石は立ち上がってキッチンへ行った。ちょうどそこにスチがお使いから帰ってきた。
                                        「ライ警視がお見えで、冷たいお茶をご所望だ」
                                        鷹石はリビングルームにもどった。
                                        「まもなくスチがお茶をもってまいります。これで、瀬田誠が5月14日にデンパサール空港から出国したことは証明されたが、犯行の時刻にデンパサールあるいは現場にいたことの証明はどうなる?」
                                        ライ警視の唇がへの字に曲がった。なんとなくインドネシアのダルマさんのようである。
                                        「そこのところが詰めだな。いまなお最大の難関だ。刑事部長もその点を指摘した。それを解明しないと国外にいる瀬田誠をひっぱれないだろう。それが刑事部長の見解だ。以前のように瀬田がジャカルタに会社を持ち、定期的にジャカルタに来ていれば、やつがジャカルタに現れたとき警察によんで尋問し、突破口を開けたかも知れない。ところが、いまでは瀬田はメキシコ暮らしだ。日本とメキシコの間は往復しているだろうが、インドネシアとは縁が切れた」
                                        「インドネシアは日本やメキシコと犯人引き渡し条約を結んでいないのだろう?」
                                        「結んでいない。日本の『逃亡犯罪人引渡法』という法律では、引き渡し条約を結んでいない国に対して、逃亡犯罪人が日本国民であるときは、引き渡してはならないときめている。一方で、日本の刑法は日本人が外国で犯した殺人などの犯罪については日本の刑法が適用されると定めている」
                                        「そうですか。ライ警視、さすがに詳しいですね」
                                        「したがって、日本に通報して日本の刑事裁判で処理することも可能だが、瀬田沙代がデンパサールで殺された日に、日本とウルグアイの二重国籍者である夫の瀬田誠が、ウルグアイ人の名義で、インドネシアに滞在していた。それだけでは日本の司法当局への説得力がたりない。そのうえ、あっさり、瀬田を日本に渡してしまっては、インドネシア警察のメンツがたたない」
                                        「そうだねえ。ロサンジェルスで殺し屋に頼んで妻を銃撃させて殺した疑いで、日本人の夫が日本の裁判所で裁判にかけられたことがある。一審の東京地方裁判所では殺人の共謀で有罪になったが、1998年に東京高等裁判所で一転して無罪になった。いまある材料だけで日本の裁判にかけるのはむずかしいかもしれないね」
                                        「そういうわけで、瀬田が2つの現場に何か残していかなかったかと、現場から採集された証拠品となりそうなものの当時のリストを、何度も何度も読み返してみたよ。タマン・サリの705号室から採取した指紋と、瀬田が外国人登録の際に出入国管理事務所に残した指紋を見比べたが、残念ながら瀬田のものと判断できるような指紋は出なかった」
                                        残念ながらといいながらも、ライ警視の顔には喜色が漂っていた。
                                        「どうした。嬉しそうじゃないか」
                                        「リストをながめているうちに、以前は無視していた品物があることに気づいた。瀬田沙代とスダルノが射殺された現場で、鑑識がはいつくばって路上から集めたゴミの中にあったかみ捨てられたチューインガムと、スハルトノが死体になっていたタマン・サリの705号室の灰皿に残っていた三つの吸い殻だ」
                                        「DNA検査に出したのか」
                                        鷹石は思わず叫んだ。
                                        「そうだ。ジャカルタのDNAリサーチ・ラボラトリーへ送った」
                                        「で、結果は?」
                                        「昨日届いた。チューインガムから抽出されたDNAのパターンは比較的鮮明だったが、吸い殻の方は鮮明さに欠けた。この2つの試料を正確に比較するには、米国の施設に送って精度の高い最新の機器で分析してもらう必要がある、という報告だった」
                                        「アメリカへ送ったのか」
                                        「まだだ。それに、早晩、瀬田のDNAサンプルも入手する必要がある」
                                        「秘密捜査員に綿棒を持たせてメキシコシティに送り込み、瀬田にお口アーンをさせるのか。あっ、ちょっと待っててくれ。役立つかもしれないものを思い出した」
                                         鷹石は書斎に戻って、キャビネットから1998年分の手紙の束をとりだした。その束の薄さに、鷹石はいまさらながら日本との縁が薄れてゆくような寂しさをふと感じた。
                                        「ここにメキシコから瀬田誠が送ってきた手紙がある。もし幸運にも、瀬田誠が切手をなめて張り、封筒をなめて封をしていれば、この手紙が瀬田誠のDNAをメキシコシティからデンパサールに運んできているはずだ」
                                        ライ警視の顔が喜色ではじけそうになった。
                                        「だめもとで、やってみよう」
                                        「幸運を祈るよ。テンペでめしでもくっていくか?」

                                        2001年3月。そろそろ雨季が終わろうとする日曜日、ライ警視から鷹石に電話があった。
                                        「今夜、うちにバビ・グリンを食べにこないか」
                                         鷹石がライ警視の家につくと、早くもテーブルの大皿にバビ・グリンが切り分けられ、別の皿にご飯が盛り上げられていた。
                                        「ガムと切手から抽出されたDNAについて『同一人のものである可能性が50パーセント以上』という結果報告がアメリカから送られてきた。吸い殻のDNAはアメリカの機器でも判定できるレベルまでには鮮明にならなかった」
                                        「おめでとう。瀬田誠が沙代銃撃の現場にいた証拠が発見されたのだ。そして同じ拳銃でスハルトノが撃ち殺された」
                                        鷹石はよく冷えた缶のビンタン・ビールをライ警視と彼の妻、それに自分のグラスについで、グラスを目の高さまで持ち上げて言った。
                                        「ありがとう。瀬田がスハルトノを射殺した理由や方法は、彼をつかまえてしゃべらせるまでは不明だ。同じ拳銃が使われているので、やつの犯行を疑う十分な根拠がある。妻殺しに使った拳銃をバリのどこに隠していたのか。これも瀬田に吐かせるまではわからない。ングラ・ライから出国するさい、長期間利用可能なロッカーに入れるか、手荷物預けを利用したのかもしれない。カバンか何かに入れてね。宿泊したホテルに保管を頼んだ可能性もありうる。瀬田には1週間もたたないうちに、ングラ・ライに舞い戻ってくることは分かっていたのだから。あとは瀬田の身柄だ。瀬田は仕事でメキシコと日本の間を往復している。インドネシアとは縁が切れている。とはいうものの、警察本部長はデータを日本に渡して、日本で処理してもらうことには消極的だ」
                                        「メンツの問題なのか」
                                        「それもあるが……。問題はいろいろ考えられる。まず、日本の捜査当局がインドネシアの捜査結果をそのまま受け入れてくれるかどうか。日本の捜査当局は裏付け捜査をするだろう。もちろんそうした捜査は極秘に行われるのだろうが、やっているうちにマスメディアに情報が漏洩する可能性も大いにありうる。あんたが話してくれたロサンジェルスの妻謀殺事件の裁判も、もともとマスコミが騒ぎだしたことから裁判にまで行ったということらしいな。この件が日本のメディアに漏れて騒ぎになると、瀬田誠がいまひとつの母国ウルグアイに逃げ込んで、そのうえ日本の国籍を放棄して、ラファエル・セタ・アキノその人になってしまうこともありうる。そうなると、日本も手を出せなくなる。日本は犯罪人引渡し条約を米国と韓国としか結んでいない」
                                        「ありそうな予測だね。それで?」
                                        「日本の殺人事件の時効は15年、インドネシアは18年だ。うちの方が長い。しばらく待とう。これがバリ州警察本部の決定だ」
                                        「そうか。あとは瀬田誠がいつの日かインドネシアに渡って来る日を待つだけだな。おれがヌサ・ドゥアのヤサ・マンダラでこんがりと焼かれ、あんたが円満のうちに定年になる前に、その日がやってくることを祈念して」
                                        と鷹石がグラスをあげた。
                                        「そのうち梢に風が吹く。風が吹けばドリアンが落ちてくる。気長に待つさ」
                                        ライ警視が言った。
                                        「カンパーイ」
                                        ライ警視の妻が叫んだ。
                                        「スラマット」
                                        鷹石が応じた。
                                         3人がグラスをあげた。ジャカルタから列車とバスを乗り継いでデンパサールへと急ぐ瀬田誠の引きつった表情が鷹石の脳裏をよぎった。
                                         さて、デンパサールの路上でペトルスを演じてみせた瀬田誠がその動機をどう説明するか――事件の背後に隠されている沙代と誠の愛の破綻の物語を、瀬田誠がどのように語ってくれるか、楽しみだな。その時もまたこの家に招かれてこんなふうにビンタンを飲むことになるのかな……。
                                         鷹石はあらぬことを考えていた。



                                                                ――完――

                                        2018.12.02 Sunday

                                        『ペトルス――謎のガンマン』  第23回

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                                           翌1212日、2人の刑事と管理事務所の係官は朝9時から部屋に閉じこもって、514日と15日の出国カードをあたった。インドネシア国籍の出国カードと非インドネシア国籍の出国カードは別々の段ボールに入れてあった。

                                          「だいぶ作業になれてきたぞ。警察をしくじったらここで記録保管係に雇ってもらいたい」

                                           マデ刑事がそう言いながら514日の出国カードの1枚をじっとみつめた。

                                          「あったぞ」

                                           マデ刑事が長机の上に置いた出国カードを、ブラタ刑事と管理事務所の係官がのぞき込んだ。

                                           

                                            出国カード番号:      QG0585651

                                            フルネーム:        Rafael Zeta Aquino

                                            性別:           M

                                            パスポート番号:      28338736

                                            発行場所:         Montevideo URUGUAY

                                            有効期限:         2003429

                                            目的地:          Hong Kong

                                            搭乗便名:         CX784

                                           

                                          「カードに押してある入国時のスタンプは? どれどれ、ああ、スカルノ・ハッタのものだ。ジャカルタから入国したわけか。入国日は1998510日だね」

                                          「さあ、いこうか」

                                          マデ刑事が立ち上がりかけた。

                                          「ちょっとまて。残りのカードにウルグアイのパスポート保持者がいないことを確認しておこう」

                                           ブラタ刑事が先輩らしい落ち着きをみせた。

                                          「このカードのフォトコピーをとっていただけますか。それから、現物は証拠として警察が借りることもありますから、慎重に保管していただきたい」

                                           ブラタ刑事とマデ刑事は意気揚々と出入国管理事務所の玄関を出た。お昼の太陽がまぶしかった。雨季でもバリの空はカンカン照りになることがまれではない。

                                          「どこかでミーでも食っていこうか」

                                          ブラタ刑事がマデ刑事を誘った。州警察本部の近くのワルンでミーを食べ、刑事たちは警視の部屋へ報告に行った。

                                          「でかした」

                                           ライ警視が叫んだ。

                                          「では、ジャカルタに出張してチェンカレンの出入国管理事務所で、1998510日に入国したウルグアイ国籍のラファエル・セタ・アキノ氏の誕生日が1961422日であることを入国カードで確認してもらおう。ご苦労だった。俺はこれから昼飯を食いに出る。ミーでもつきあわないか。おごるよ」

                                           

                                           

                                           

                                          2018.11.26 Monday

                                          『ペトルス――謎のガンマン』   第22回

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                                             12月8日、グスティ・アグン・ライ警視はまず瀬田誠の身元を知る作業から始めた。2年前の5月に瀬田誠が州警察本部に来たときにとった彼のパスポートのフォトコピーを瀬田沙代事件の一件書類の中から引っ張り出して来て、デスクに置いた。瀬田誠の旅券を開くと、

                                            「旅券 PASSPORT 日本国 JAPAN」の下に、以下の瀬田のデータが印字されていた。

                                              Type(型): P
                                              Issuing Country(発行国): JPN
                                              passport No.(旅券番号): JT9169636
                                              Surname(姓): SETA
                                              Given name (名): MAKOTO
                                              Nationality(国籍): JAPAN
                                              Date of Birth(生年月日):  22 APR 1961
                                              Sex(性別): M
                                              Registered Domicile(本籍): TOKYO
                                              Date of issue(発行年月日): 11 JUL 1996
                                              Date of expiry(有効期間満了日): 11 JUL 2001
                                              Authority(発行官庁): CONSULATE-GENERAL OF JAPAN
                                              AT JAKARTA

                                              「Makoto Seta」とローマ字の署名がある。そのページの下部に下に追記が一行。

                                              THIS JAPANESE PASSPORT IS NOT MACHINE READABLE

                                             これがいまのところライ警視が瀬田誠について知るデータのすべてだ。これをもとに瀬田のポートレートを描いて行かなければならない。イダ・バグス・チャンドラがガボガンを頭上にのせた上半身裸のイダ・アユ・ングラこと瀬田沙代の妖艶な肖像を描いたように、妻殺しの夫の凶悪なポートレートの細部が、日本やメキシコに出かけて捜査することもできず、デンパサールに閉じこめられているこのおれに描けるか。ライ警視は心許なかった。
                                             ライ警視はスラバヤ総領事館デンパサール駐在官事務所に電話を入れた。さきごろ久保田尚が東京の本省に帰任し、後任領事に内藤明彦がおさまってまっていた。
                                            「内藤さん、これから日本のパスポートのことで質問がありますので、会っていただけますか」
                                            「もちろん、いいですよ。できれば午後2時ごろが私には都合がいいのですが」

                                            ライ警視は内藤の事務所で瀬田の旅券のフォトコピーを一部領事に手渡し、旅券の読み方のレクチャーを受けた。
                                            「まず、最初のタイプPというのは何でしょうか?
                                            「ああ、これですか。Pは英語のパスポートの最初の文字です。つまりこれがパスポートであるという認識符合です。日本では1992年の終りごろから、機械MRP(読取り式旅券)への切り替えが始まりました。それ以前の旅券にはPの符合は印刷されていませんでした。フォトコピーされたパスポートはジャカルタ総領事館で更新されたもので、Pの記号はついているものの、機械読み取り式になっていないタイプです。旅券保持者の身分について記載してあるこのページの一番下に「CONSULATE-GENERAL OF JAPAN AT JAKARTA」と「THIS JAPANESE PASSPORT IS NOT MACHINE READABLE」と印字されている部分に、日本国内で発行されるMPR旅券の場合は、パスポートの記載情報がPで始まるアルファベットと数字で2行にわたって書き込まれています。機械はそれを読み取るわけです」
                                            「そうですか。ところで、ジャカルタの日本総領事館でパスポートの更新手続きをする際は、出生証明書のような書類を提出する必要があるのでしょうか?」
                                            「日本では出生証明書ではなく戸籍謄本を使います。パスポートの有効期間の残りが1年を切ると、新しいものに切り替える申請ができます。その場合、原則として戸籍謄本は必要ありません」
                                            「ということは、最初にパスポートを申請する場合にのみ戸籍謄本が必要になるわけですね。この方の場合、すでに何度も切り替えをしているはずですが、最初の申請のときに提出された戸籍謄本は保存されているでしょうか」
                                            「廃棄されている可能性が高いでしょうね。しかし、この方の本籍地は記録に残されており、そこからこの方の戸籍が登録されている役所で家族関係を調べることができます」
                                            「調べていただけるでしょうか」
                                            「そうですね。1998年5月の殺人事件の確認のために、被害者の夫だった人物の戸籍謄本を見たい、という正式な調査依頼書を出していただければ、スラバヤ総領事館経由で本省に連絡します」

                                             12月11日ライ警視はワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事をよんで二重国籍者である瀬田誠がウルグアイパスポートで1998年5月14日をはさんで、ングラ・ライ空港から入出国している可能性があることを話して聞かせた。
                                            「警視、あてのある見込みなんでしょうね」
                                            ワヤン・ブラタ刑事が仏頂面で言った。
                                            「いま急ぎの事件をかかえているとは聞いていなのだが……」
                                            ライ警視の方も嫌みっぽく言った。
                                            「そういう意味じゃないんですよ。ここはインドネシアです。2年以上も前の出入国カードが残っていると思いますか。残っていたとしても、能率よく探せるように分類してあると思いますか。わたしは警視ほどには長く生きていませんが、それでも、その答えがノーであることぐらい察しがつきます」
                                            「出入国管理事務所のお役人が言いそうな答えだな。本当に無いのではなくて、探すのが面倒だから無いと言うことだってあるんだよ。ここはインドネシアなんだから」
                                            「どんな入出国のカードを探すんですか」
                                            「国籍はウルグアイ。生年月日は1961年4月22日。入出国のときの年齢は37歳だ。わかっているのはそれだけだ」
                                            「警視。ウルグアイの綴りは?」
                                            「URUGUAYだ。まったくどこで勉強してきたんだ」
                                            「デンパサール・アクポル(警察学校)です」
                                            「そこで、勇ましく歌ったろう。『高い山、深い谷――警察はそれらを越えて前進する』。さあ、ングラ・ライ出入国管理事務所へ行ってこい」
                                            「はいはい、わかりましたよ。1日か2日ほどつぶして警視の推理におつきあいしましょ」
                                            マデ刑事がニヤニヤしながらブラタ刑事の肩をポンとたたいた。
                                            2人の刑事がその日の午後、ングラ・ライ入国管理事務所で来意を告げると、係官がいとも簡単に、
                                            「1998年5月のカードなら保存してありますよ」
                                            2人に刑事は何かに裏切られたような、拍子抜けしたような表情を係官に見せてしまったらしい。
                                            「こっちも警察同様、働いてますからね」
                                            「どこのお役所でも、数年前の資料についてたずねると、あるかどうか調べるから2、3日待ってくれ、というよ」
                                            「あのころ、つまり1998年5月のスハルト退陣騒動のあとすぐ、法務省のトップから4、5、6月分の出入国の記録を別途指示のあるまで慎重に保管せよとの指示があった。スハルト退陣前後にCIAやMI6をはじめ、タイ、マレーシア、シンガポール、中国などの情報機関員が、足繁くインドネシアに出入りしていたそうだ。外交官のパスポートだけでなくて、民間人のパスポートも使ってね。やつらが出入りするとなれば、ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港だろうが、国内のすべての管理事務所を対象に保管令をだしたわけだ。さて、入国か、出国か、どちらのカードから始めますかね?」
                                            「数はどっちが少ない?」
                                            「それは圧倒的に入国でしょう。あのときは火の消えたような寂しさで。パスポート・コントロールのブースでは、出国担当官は大汗をかき、入国の方はぼんやり鼻クソをほじくっていた」
                                            「入国から行こう」
                                            「いつからいつまで?」
                                            「5月11日から14日までだ」
                                            しばらく待っていると、係官が文書保管庫から手押し車にのせて段ボールの箱を4つ運んで来た。
                                            「この部屋で作業していいですよ」
                                            古いパイプ椅子や折りたたみ式の長机、バケツやモップまでが放りこまれている雑然とした部屋だが、とりあえず机と椅子があり、天井には蛍光灯がともっていた。私はここであんた方の作業を見守らせてもらう。カードがなくなると私がとがめだてされるんでね」
                                            「なんだ、手伝ってくれるつもりはないのか」
                                            「上司からは手伝えと指示されていない。悪く思わんでくれ」
                                            そう言ってングラ・ライ出入国管理事務所の職員は椅子を持ってきて腰を下ろし、のんびりとクレテック煙草を吸い始めた。クローブが焦げる甘ったるくて、それでいて鼻にツンとくるにおいが漂い始めた。
                                            夕方までかかって、丁寧にカードをチェックしたが、生年月日1961年4月22日のウルグアイのパスポートを持った男性の入国者カードはみあたらなかった。
                                             入官の係官が何となくモジモジしているので、
                                            「きょうはここまで。あすまた出国カードをチェックしよう」
                                            ブラタ刑事が気前よく作業中断を提案した。

                                             

                                            2018.11.19 Monday

                                            『ペトルス――謎のガンマン』   第21回

                                            0

                                               

                                               おもてにライ警視の愛車キジャンが音をきしませて止まった。
                                              ライ警視はリビングルームのソファにどかっと腰を下ろし、お手伝いのスチが運んだアイスティーをごくりと飲んだ。
                                              「ん? いつものやつと味が違うな」
                                              「ジャワティーを切らしてしまったのだ。これはスーパーのトワイニング」
                                              「やはりお茶はジャワにかぎるね。では、さっそくだが面白い話というやつをお聞かせねがいたいものだ」
                                               鷹石はライ警視に、アルベルト・フジモリやウルグアイの日系留学生の二重国籍について説明した。
                                              「それが瀬田沙代の事件とどう関わりがあるんだね」
                                              ライ警視がきょとんとした顔で訪ねた。
                                              「あんた忘れちまったのかい。それとも聞いていなかったのかね。あるいはわたしの通訳がへたくそで理解できなかったのかね。瀬田沙代の両親の倉田夫妻が久保田領事ともどもあんたのオフィスへやって来たとき、父親の倉田伸生が、瀬田誠が遅れてデンパサールにやってくることの説明をしなかったかな」
                                              「ああ、聞いた。彼はメキシコにいたんだ」
                                              「そのとき、わたしはたしか倉田伸生の説明をインドネシア語に翻訳した覚えがあるんだが。彼はこう言った。瀬田誠は両親がウルグアイで仕事をしていたときに生まれ、幼少時代をスペイン語ですごした、とね」
                                              「ウォー」
                                              ライ警視が吠えた。
                                              「瀬田誠は偽パスポートなど必要なかったのだ。ウルグアイのパスポートで堂々とインドネシアに入り、出て行ったのだ。すごい情報だ。恩にきるよ。その情報に基づいて明日から調べを始めるとするか」
                                              「ああ、幸運を祈るよ」
                                              「ところでサトシ、妙なことを聞くがね。このごろ日本では男がペニスにプラスティックを埋め込むのがはやっているのか?」
                                              「なんだ、それは?」
                                              「この間、パラセーリングをやっている日本人の男が失速して海に落ちたんだ。運悪く彼の上にパラシュートがかぶさってきて、紐にもつれてその日本人は溺死した。その遺体の検視のとき、ペニスに小さなイボイボがあってね。プラスティックのつぶが埋め込んであった。インドネシアのムスリムは割礼をするが、あれは日本では割礼のようなものか? なんかのおまじないかな」
                                              「ばかばかしい。中年の刑事のかまととぶりは、グロテスクだよ」
                                              「ハッハッハ……はやっているのか、みんなやっているのか、とたずねたつもりだ」
                                              「そのあたりにはうといもので……。それが事件となにか関わっているのか」
                                              「いや、あれは単なる事故死だった」
                                              「ルバン・ブアヤ以来のインドネシア人のペニス過敏症はまだ治っていないようだね」
                                              「ああ。あの件ね。おれたちはスハルトにまんまとのせられてしまった」
                                               スハルトがスカルノから権力を奪うきっかけになった1965年の9.30事件のときのことだ。ウントン中佐配下の部隊は、軍首脳の6人の将軍と将校1人の7人を殺し、遺体をジャカルタ郊外のハリム空港近くのルバン・ブアヤ(鰐の穴)の井戸に投げ込んだ。

                                               ――7人の遺体は目をくりぬかれ、ペニスが切り落とされていた。ルバン・ブアヤの周りでは、PKI系のゲルワニ(インドネシア女性運動)の女性たちが歓喜のあまり、裸になって乱舞した。

                                               インドネシア国軍系の新聞がそんなでたらめを書きたてた。スカルノは、目もくりぬかれていないし、ペニスも切り取られていない、いい加減なことを書くな、と新聞を非難したが、このつくられた残虐行為の話が広まって、事件後の大虐殺に拍車をかけた。大衆を憤怒に狂わせて殺戮に駆り立てる恐ろしい謀略だったのだ。ゲルワニの女性たちも襲撃され、強姦され、殺害された。のちに、裁判記録の検死報告が公になり、誰ひとりとして目をくりぬかれたものはおらず、7人のペニスも切り取られていなかったことが明らかなった。
                                              「ジャワ人はハルース(優雅)を尊びカサール(粗野)を嫌うとはいうものの、バリ人も含めてインドネシア人ほど陰惨な暴力行為におよぶ民族はいないのではないかと思うことがある」
                                              「おいおい、ライ警視。それはちょっと自虐が過ぎるんじゃないか。まあ、テンペでも食って行かんか」
                                              鷹石が笑いながら言った。

                                              2018.11.10 Saturday

                                              『ペトルス――謎のガンマン』  第20回

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                                                 雨季から乾季へ、乾季から雨季へと繰り返しているうちに、1997年のアジア金融危機や、その翌年のスハルト大統領退陣にまで発展したインドネシア騒乱によって激減していた観光客が、またバリに戻ってきた。バリ島のお得意さんは日本人、オーストラリア人、韓国人で、日本人は毎月3万人近くがやってくるようになった。

                                                 バリ島の住民と観光客はこの2年間を平穏に過ごしたが、マルク諸島では新しい争乱が始まった。1998年末から99年初頭にかけて、マルク諸島のあちこちで、キリスト教徒とイスラム教徒の反目が強まり、やがて大規模な武力抗争にエスカレートしていった。

                                                 インドネシアは宗教的にはムスリムが圧倒的多数派だが、ヒンドゥーの島バリのような例外もある。マルク諸島ではキリスト教徒とイスラム教徒の人口比率が五分五分である。アンボンを中心にした南マルクのキリスト教徒はインドネシアが独立したさい、ムスリムが多数派をしめるインドネシア共和国に組み込まれるのを拒否して、南マルク共和国の樹立を宣言し、共和国からの分離活動をしたことがある。そうした宗教対立が紛争の背景にあるという説や、スハルト退陣後に権力と権益を奪われ始めている軍部が、騒動を起こすことで巻き返しを図っているという政治的陰謀説などがあった。

                                                 マルクに派遣された軍の治安維持部隊や警察の機動隊でさえ、イスラム教徒側とキリスト教徒側に別れて紛争を支援するしまつだ。ジャワ島で結成されたラスカル・ジハードという名のムスリムの民兵組織がマルク諸島へ支援に向かった。

                                                 ハビビ大統領の後継、アブドゥルラフマン・ワヒド大統領はこの動きを阻止するよう治安当局に命令したが、大統領の命令はうやうやしく無視された。武力抗争による流血はますます激しくなった。南海の島は決して楽園ではない。「多様性の中の統一」がインドネシア共和国の国是だが、それはいまなお統一の完成までに長いながい時間を必要とする壮大な希望のスローガンにとどまっている。

                                                 バリ島では時間は比較的平穏に推移した。といって、グスティ・アグン・ライ警視の仕事が暇だったわけではない。瀬田沙代の事件の3ヵ月ほど後には、オーストラリア人の女性が自宅で殺された。オーストラリア資本の工場の管理職だったが、ナイフでめった突きにされて死んでいた。さらにそれから数ヵ月後には、日本人女性が強姦殺人事件の被害者になった。死体はデンパサール郊外の藪の中に放置されていた。この2つの事件はつかまえた容疑者が被害者から奪った高級腕時計を持っていたことや、DNAの一致ですっきりと解決した。

                                                 鷹石里志は引き続きウダヤナ大学で日本語を教えながらバリの隠居生活を楽しんでいた。仙台の倉田夫妻から20001月にもらった年賀状には、「せっかくいただいた絵ですが、見るのがつらくなり、焼いて灰にし、沙代の墓に納めました」とチャンドラ画伯の傑作の顛末が書かれていた。ジャカルタの宮内から、瀬田誠が当初の投資資金の倍額で会社の経営権を譲渡した、という話を聞いた。ジャカルタから撤退し、メキシコシティに仕事も暮らしも移したという。

                                                 こうして瀬田沙代殺しの一件はグスティ・アグン・ライ警視と鷹石里志の頭から消えかかっていた。

                                                 

                                                 200011月中旬、日本を訪問したペルーのアルベルト・フジモリ大統領が日本から大統領職の辞表をペルー議会に送り、事実上日本に亡命した。やがて、フジモリ氏はペルーと日本の二重国籍者であるといううわさが流れはじめた。

                                                 127日の木曜日、鷹石はウダヤナ大学の日本語の授業が終わったあと、教材用に講読している日本の新聞でフジモリの日本国籍のことを興味深く読んだ。1128日の新聞は、アルベルト・フジモリ氏が日本の国籍を持っていることを、日本政府が公式に確認したと報じていた。日本名を藤森謙也という。フジモリ氏がペルーの首都リマで生まれたとき、日本人の両親が日本の領事館にも出生届けを出したために、ペルーと日本の国籍を取得することになった。

                                                 鷹石がまだ日本の大学で比較政治学を教えていたころ、ウルグアイ出身の日系2世の大学院留学生を指導したことがある。その学生は日本の文部省から国費留学生として奨学金付きでウルグアイから招かれていた。その学生が夏休みにタイ、マレーシア、フィリピン、インドネシアを周遊する旅に出るといった。

                                                「日本人は東南アジアの国のほとんどにビザなしで観光旅行ができるが、ウルグアイの人はどうなのかな」

                                                 と鷹石はその学生に尋ねた。

                                                「いや、日本の旅券で出かけますから大丈夫ですよ」

                                                 そのころまでには鷹石に対してうち解けてきていた学生が言った。

                                                「私はウルグアイ国籍ですが、日本国籍ももっています。ウルグアイのモンテビデオで私が生まれたとき、両親が日本領事館に出生届を出しました。ウルグアイは国籍に関しては出生地主義で、日本の方は血統主義です。そういうわけで2つのパスポートを持っています」

                                                「そういうことか、便利なもんだね」

                                                「日本の国籍法は二重国籍者にどちらか一方の国籍を捨てるよう迫りますが、日本とウルグアイの二重国籍者の場合、そうした二者択一では日本国籍を捨てることになるんです。ウルグアイ憲法は、ウルグアイ人はウルグアイの国籍を捨てることができないと定めています。従って日本国は日本人にたいして日本の国籍を捨てろといっているわけです」

                                                 それを聞いて鷹石は思わず笑い出してしまった。なんというブラック・ユーモア。その学生はまた、ウルグアイでは初等教育でウルグアイ人の祖国はスペインだと教えていると聞かせてくれた。中南米はブラジルをのぞき、スペイン語圏だ。そういえば、1990年のペルーの大統領選挙で、アルベルト・フジモリ氏と大統領の椅子を争ったペルーの大作家マリオ・バルガス・リョサ氏はスペインの国籍も持っているといわれている。

                                                 ここで、鷹石はあることを思い出し、急いで電話のある講師の部屋に急いだ。

                                                「こんにちは。グスティ・アグン・ライ警視をお願いします。こちらタカイシ」

                                                「スラマット・シーアン。お待ち下さい」

                                                「おー、鷹石さん。ご機嫌いかが?」

                                                「元気だよ。そっちは? ところで今日帰りに私の家に寄らないか。瀬田沙代の件で面白い話を聞かせるよ」

                                                「わかった。寄るよ。楽しみにしている」

                                                 

                                                 

                                                 

                                                2018.10.29 Monday

                                                『ペトルス――謎のガンマン』   第19回

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                                                  11月12日、ジャカルタ
                                                   グスティ・アグン・ライ警視が参加した『刑事捜査と被疑者の人権』研修会は、施設は古くなったが格式はなお高い、ジャカルタのボロブドゥール・ホテルの大ホールで11月12日に開かれた。朝から夕方まで昼食と休憩時間をはさんで、参加した警察官たちはたっぷりと人権思想を注入された。午後5時に研修が終わり、1時間の休憩のあと研修終了の記念パーティーが開かれた。ライ警視は顔見知りの警察幹部の輪の中に入って、研修後の解放感ではずむ四方山話を聞いていた。
                                                  「確かに、この研修会はハビビ改革の一環だね。だが、私としては、こうした研修は陸軍の特殊部隊コパッススにこそ受けさせるべきだと思うよ。彼らが治安維持と称して東ティモール、イリアン・ジャヤ、アチェで重ねた人権侵害は、世界中のひんしゅくを買ってきた」
                                                  雑談の輪の中でひときわ背の高い男が言った。
                                                  「1997年から今年の初めにかけては、学生運動のリーダーが行方不明になる事件が相次いだからね」
                                                  眼鏡をかけた肥満体の白髪目立つ男が付け加えた。
                                                  「この9月ごろから東ジャワのバニュワンギで黒魔術を使うと噂されているドゥクンが次々と殺されている。警察の捜査をあざ笑うかのように殺害は続いている。ニンジャと呼ばれる一団の犯行だという説もある。このニンジャは高度な訓練を受けた殺し屋集団で、これまた、軍の秘密組織とつながりがあるといわれている」
                                                  「まったくインドネシアの軍隊はろくでもないことばかりしてきた」
                                                  「といって警察が軍人の犯罪を捜査するのも至難の業だ」
                                                  「そもそも警察が軍隊の一組織というあり方が奇妙なのだ。陸軍、海軍、空軍、警察軍というあり方を何とかする必要がある」
                                                  「いいご意見だが、それは本日の研修の範囲を超えた問題だ。ハビビ政権の今後の努力に期待しよう」
                                                  誰かのこの冗談で輪の中に笑いが広がり、やがて笑い声が消え、その輪が崩れていった。
                                                   たしかに、スハルト大統領退陣をうけて副大統領から昇格したハビビ新大統領は矢継ぎ早に政治改革のプログラムをぶちあげていた。スハルトとその取り巻きを肥え太らせたKKN(汚職・癒着・ネポティズム)構造の一掃、報道の自由の保障、スハルト時代の政治犯の釈放、などだった。どれをとってもそう簡単に進みそうにない大きなテーマだったが、少なくとも、スハルト政権崩壊でインドネシアの政治状況が変わり始めているという印象はライ警視も受けていた。スハルト時代でもさっきのようなきわどい会話は交わされていた。だが、それは私的なパーティーでの内輪の会話の中だった。政府が主催する公務員研修会後のパーティーで、そうした会話がおおっぴらに出てくるというのも、時代の変化の証だ。
                                                   刑事警察の幹部たちが豪華ホテルのパーティーで政治漫談を披露しあった11月12日、首都ジャカルタの中心部の路上は、学生デモ隊と治安部隊のにらみ合いで緊迫していた。
                                                   スハルト政権打倒の尖兵になったインドネシアの学生たちが求めていたリフォルマシ(改革)はスカルノ大統領からスハルト大統領に至る権威主義政治を生み出すもとになった現行の1945年憲法を廃止し、新しい時代にふさわしい新しい憲法を制定し、その憲法の下で、新しい政治を実践しようという、革命を志向していた。
                                                   だが、スハルト退陣後にハビビ政権が始めた一連の政治改革が、まあこんなとところだろうと、世間に容認され、「われわれはハビビ政権を拒否する。スハルトを裁判にかけよ」と叫ぶ学生は、スハルト退陣直前の社会的熱気が冷めてゆく中で、世間から浮きあがったものになっていた。
                                                   改革派指導者として尊敬されていたスカルノ元大統領の娘メガワティ・スカルノプトゥリ、インドネシアのイスラム団体ナフダトゥル・ウラマの指導者のアブドゥルラフマン・ワヒド、おなじくムハマディヤのアミン・ライスの3人も、スハルト退陣後には体制内改革に舵を切って、先鋭的な学生と別の路線をとり始めた。3人ともハビビ後の権力トップの座を狙い始めたのだ。
                                                   2日前から開かれている特別国民協議会でのスハルト糾弾を要求して、学生たちは国会周辺や、スマンギ立体交差などに集結していた。政府は3万人近い兵士を動員して暴動に備えていた。兵士たちはモスクの敷地や、国会近くの政府省庁の敷地、あるはスナヤン・スポーツセンターのグラウンドなどにキャンプしていた。
                                                   12日にはすでに治安部隊と学生たちの間で衝突が始まっていた。10代の若者1人と警察官1人が殺され、100人以上が病院に担ぎこまれた。
                                                  『刑事捜査と被疑者の人権』研修会が開催されたのは、5月以来の緊迫した空気がなおジャカルタを覆っているときだった。

                                                   

                                                  11月13日、ジャカルタ・スマンギ
                                                   グスティ・アグン・ライ警視は13日朝、マンダリン・オリエンタル・ホテルを訪ねた。4月9日の瀬田沙代の宿泊記録を見るためだ。バリ州警察本部警視の身分証明書を示すとホテルの宿泊部の責任者がコンピューターから瀬田沙代の記録をとり出してくれた。沙代はホテルのレストランを利用しており、人数が2人と記録されていた。宿泊部の責任者がレストランの事務室に電話すると、4月10日夜にレストランの責任者だった男がやって来た。ライ警視が瀬田沙代の写真を見せたが、彼の記憶にはなかった。オリエンタル・ホテルでの確認作業は午前10時には終わった。
                                                   ライ警視はホテルのロビーから宮内の自宅に電話した。鷹石がライ警視のためにデンパサールから宮内に電話したとき、それでは13日は家で警視を待っている、といっていた。電話には宮内自身が出て、マンダリン・オリエンタルから歩いてすぐのスタン・シャフリル通りのマルク通りとの角のあたりだからすぐわかる、とライ警視にいった。その通りだったし、宮内は自宅の前庭に出てライ警視を待っていてくれた。
                                                  「暑いさなかごくろうさまです」
                                                  冷たい紅茶をもって応接室に現れた宮内夫人が言った。
                                                  「おや、奥様はバリのお方で」
                                                  とライ警視が訪ねた。
                                                  「ジャカルタ生まれですが、母がデンパサールの出身でした。この目がバリ舞踊のダンサーの目を思わせるからでしょう?」
                                                  そういって宮内夫人は大きく目を見開き、眼球を忙しく左右に動かしてみせた。夫人が応接室から出て行くと、宮内が切り出した。
                                                  「お尋ねのご用件はなんでしょうか?」
                                                  「実は、アンワル・ルクマン将軍のことなのです。もちろん宮内さんもご存じのことと思いますが、将軍がバリで心臓発作のために死亡したことを契機に、将軍の私邸から隠し持っていた武器が大量に見つかりました。ご内密にお願いしたいのですが、軍には極秘に、警察ではあの事件を洗いなおしています。将軍は瀬田誠氏と水産物の輸出関連会社をジャカルタで経営しているほか、あちこちでさまざまな企業の経営に参画していたようです。そういうわけで、実入りはよかったらしく軍から貸与されている官舎のほか、ジャカルタやバンドンなど数カ所に私邸を持っていました。その関係の方は別の捜査員が担当していますので、私は瀬田氏と共同経営していた会社についてお聴きするわけです」
                                                  ライ警視は前もって用意しておいた作り話を言った。
                                                  「それでわざわざバリから。たいへんですなあ」
                                                  宮内が感心して見せた。
                                                  「いえいえ、たまたま警察の研修がジャカルタであったので、その出張を利用してお尋ねにあがったしだいです」
                                                  そういってしまったあと、宮内の言った「たいへんですなあ」に、思わず知らずバリ州警察本部の捜査予算の乏しさと結びつけた発言をしてしまった自分を情けないとライ警視は思った。
                                                  「それがですね、ライ警視。先日、9日の月曜日でしたか、亡くなったアンワル・ルクマン将軍の代理人のモハマド・サミン氏が事務所に現れましてね。こう言ったんですよ。アンワル・ルクマン将軍が亡くなったので、将軍のご遺族が会社の権利を別の会社に売却される。この件を急ぎ瀬田誠氏に連絡願いたい。また、来週からあなたに代わって私がこの事務所の事務処理をするよう、遺族の方から指示された。このことも瀬田氏にお伝え願いたい。また、この件について瀬田氏と協議したいので、至急、ジャカルタにお越し願えるよう連絡をとってくれ、そういう話でした。メキシコの瀬田氏と連絡を取ると、相棒が死んだのならしょうがないな。相棒が死んでしまえば政府からのコンセッションもとれなくなるだろうから、これでおしまいということでしょう。落ちついたものでした。瀬田氏は来週後半にもジャカルタにきて、会社の処理の話をサミン氏と協議する予定です。そういうわけで、私はあの会社とも縁が切れました」
                                                  「事情急変ですね」
                                                  「人生そんなもんでしょう」
                                                  「瀬田氏とアンワル・ルクマン将軍は何をきっかけにお知り合いになられたのでしょうか」
                                                  「そのことは私もよく知りません。以前、日本の大手商社のジャカルタ事務所にお勤めのころからお知り合いだったようです。瀬田さんは政府高官に食い込むのがなかなかお上手だったから」
                                                  「瀬田さんは4月にジャカルタでアンワル・ルクマン将軍とお会いになったのでしょうか」
                                                  「少々お待ち下さい」
                                                  宮内は書斎から手帳を持って戻ってきた。
                                                  「瀬田さんは4月8日にジャカルタに帰ってきて、たまっていた案件を処理して、4月16日にメキシコへ発ちました」
                                                  「その間にアンワル・ユスフ将軍と会ったのでしょうか」
                                                  「私の手帳にはアンワル・ユスフ将軍の名が見あたりませんねえ。4月8日はイドゥル・アドハ(イスラム教の犠牲祭)で公休日でした。10日はグッド・フライデーで公休日。あと、11日の土曜日、12日の日曜日と休みが続いて13日の月曜日の夜はレストランで私と妻をねぎらってくれました」
                                                  宮内が手帳を見ながら説明を続けた。
                                                  「14日の火曜日の夜は取引先の日本企業との会食。15日の昼はインドネシア水産会社との昼食会。その日は夜更けまで事務所で書類を読んでいました。16日朝、会社に顔を出して、5月はおそらく来られないからよろしく頼むと私に声をかけてから、スカルノ・ハッタ空港へ向かいました。そうそう、4月9日は夕方、社有車でマンダリン・オリエンタルへ出かけていますね。これからマンダリン・オリエンタルへ行って、用件がすみしだい、ボロブドゥール・ホテルのアパートメントに帰るからと私に言いました。もしアンワル・ユスフ将軍と会ったとすればこのときか、10日から12日にかけての連休中でしょう」
                                                  「そうですか。おっしゃる4月9日、10日から12日にかけてのアンワル・ユスフ将軍の動向を調べてみましょう。それから、今ひとつおうかがいしますが、瀬田さんからアンワル・ユスフ将軍の武器のコレクションについて、ひょっとしてなにかお聞きになったことはありませんでしょうか」
                                                  「瀬田さんは共同経営者との友好関係維持のため、年に数回、アンワル・ユスフ将軍と遊びに出かけていました。ジャカルタ沖へ船を出して魚釣りをしたり、冬の日本に温泉とスキーを楽しみに行ったりして。あれは、去年の中ごろだったかな。瀬田さんは将軍のバンドンの家に招かれました。瀬田さんの話では、バンドンの軍の施設に行って、鉄砲の試射をして腕比べをしたんだそうです。将軍よりいい得点をだしたと得意そうでした。その賞品としてこれをもらったと木の箱を開けて見せてくれました。中に拳銃が入っていました。それで、こんな物騒なものをもっていると、どんな災難が降りかかってくるかわかりませんよ。もし、将軍と不仲になったとき、将軍が警察にこの拳銃のことを告げ口したらどうします。早くお返しになった方がよろしいのでは。そう忠告しました。なるほど、そういう心配もあるな。では、返すことにしよう。そう瀬田さんは言っていました」
                                                  「ほほう。どんな拳銃でした」
                                                  「私は拳銃について無知で、その種類もよく知りません」
                                                  「将軍がバンドンの家にどのくらいの武器をおいていたか、などについて、瀬田さんは何か言っていませんでしたか」
                                                  「その点については話にでませんでしたね」
                                                  「どうもありがとうございました。今日のことはくれぐれも内密にお願いします。私の方も、このことであなたにご迷惑をおかけすることは絶対にありませんとお約束します」
                                                   ライ警視は丁重に礼を言って、宮内の家を辞し、タムリン通りに戻って流しのタクシーを捕まえてスカルノ・ハッタ空港へ向かった。タムリン通りから南へ下ってスディルマン通りのスマンギ立体交差から高速道路に入る道路は、学生のデモで混雑していた。タクシーは迂回路をとって空港に向かった。

                                                   グスティ・アグン・ライ警視は午後6時にデンパサールの自宅に帰りついた。テレビがジャカルタの衝突を伝えていた。スマンギ交差点の近くに集結していた学生・若者・一般人が、午後3時ごろ治安部隊に向かって石や火炎瓶を投げ始めた。治安部隊は空に向けて警告射撃をした。やがてゴム弾を使った水平射撃に変わり、ゴム弾に混じって発射された金属弾に撃たれて死ぬ人が出始めた。夜が更けたころジャカルタからのテレビ中継は、死者がすくなくとも5人になったことを伝えた。ライ警視はジャカルタ出張の疲れからテレビを消して寝た。
                                                   ライ警視も多くのインドネシア人も、のちに事件の詳細を知ることになるだが、スマンギ交差点での銃撃では16人が死に、200人以上が負傷していた。銃撃による傷跡のある死者のうち9人の体内から金属製の銃弾や銃弾の破片が見つかった。検視の専門家によると銃弾は5ミリから6ミリで、発射速度は非常に高かったと推定された。さらに、これは意味深長な説明であるが、検視の専門家は近距離からではなく、かなり離れたところから発射されたようである、と説明した。スナイパーが配置されていたことを示唆したのである。

                                                   

                                                  11月18日、デンパサールの州警察本部
                                                   ムハンマド昇天祭の祝日のあとの11月18日、グスティ・アグン・ライ警視は自分がやっている作業がどこか間が抜けているという思いにとりつかれていた。すでに公式的に決着済みになっている瀬田沙代とスダルノの銃撃とスハルトノの自殺の捜査をむしかえそうとしているのはなぜだろうか。正義のため だとすれば正義のための捜査を待っているのは、トリサクティ大学周辺で何者かによって銃撃されて死んだ学生や、スマンギ陸橋周辺で狙撃者によって撃たれて死んだ学生たちの方だろう。瀬田沙代殺人事件への執着は、正義のためというより、それは自分の事件に対する刑事の執着であろうか。
                                                  「ところで……」
                                                   ライ警視は口に出していった。デスクの上には瀬田誠のパスポートのページのコピーがあった。ジャカルタで宮内が手帳のメモを見ながら説明してくれたように、瀬田誠は4月8日にジャカルタのスカルノ・ハッタ空港から入国し、16日に同じ空港から出国していることが出入国管理のスタンプから確認できた。そのあとは、5月18日にデンパサールのングラ・ライ空港から入国していた。パスポートの記録は4月17日から5月18日のほぼ1ヵ月間、瀬田誠はインドネシア国外にいたことを示している。
                                                   瀬田誠は沙代の殺害を殺し屋に依頼したのだろうか。瀬田のパートナーのアンワル・ユスフ将軍は、その経歴を調べてみると特殊部隊コパッスス勤務だった1990年前後、短期間だが東ティモールに勤務したことがあった。東ティモールの山岳地帯でフレティリンのゲリラ兵士と戦い、尋問し、拷問した特殊部隊を指揮したことがある。
                                                   アンワル・ユスフ将軍なら、瀬田に殺し屋を紹介するのはさほど難しい仕事ではあるまい。東ティモールでゲリラ戦の実戦訓練を受けた兵士か、民兵にいい金儲けの口があると声をかけるのは簡単だろう。拳銃も簡単に用意できる。それに32口径の拳銃に消音器を付けて使用するという発想が、隠密仕事を思わせる。瀬田沙代とスダルノを射殺した腕前は素人離れしたものだ。だが、必要な殺しが終わったあとで、その同じ拳銃を使って殺し屋にスハルトノの殺しを依頼したとすれば、それはどういう理由からだろうか。妻を寝とられた怨みを晴らすためか。だとすれば、ダルマワンやチャンドラを殺さなかったのは変だ。だがこの推測のもっとも不合理な点は、共同経営者に殺し屋の周旋を依頼すれば、共同経営者に弱点を捕まれ、以後の会社経営で相手の意のままに操作される可能性があるからだ。
                                                   もし、瀬田誠が妻沙代を殺そうと決心したのが、沙代にあった4月9日夜だったすれば、アンワル・ユスフ将軍に殺し屋の紹介を頼んだのは10日から12日にかけてであろう。だが、それは不可能だった。国防治安省のアンワル・ユスフ将軍の勤務記録では、彼は武器調達交渉のため4月6日から10日間アメリカ合衆国に出張していた。
                                                   4月以前に殺しを依頼していたとすれば、瀬田誠は2月25日から3月7日までインドネシアに来ていたから、そのときかもしれない。だが、プロの殺し屋がそのとき依頼を受けていたとしたら、もっと早い時期に瀬田沙代は死体になっていたはずだ。それもデンパサールの薄汚れた路地ではなく、人気のないウブッドの森の静かな小径かどこかで……。ライ警視はやはり瀬田誠が自らの手で瀬田沙代を撃ったという気がしてならなかった。
                                                   瀬田誠は彼のパスポートを使わないでインドネシアに密航してきたのだろうか。確かにマレーシアやフィリピンから小型船で密航者を運ぶ密航斡旋業者がいる。密航者の多くはインドネシアに住みたいわけではなく、インドネシアからさらにオーストラリアに密航しようと、その足がかりにインドネシアへ密航してくる。だが船による密航は時間がかかりすぎる。5月14日にデンパサールで沙代を撃ち殺し、再び密航船でインドネシアを離れ、日本時間で15日の深夜までにメキシコシティにたどりつくのは不可能だ。倉田がメキシコシティの瀬田の事務所に電話をかけたのは日本時間で16日の午前零時時過ぎ、日本とメキシコシティの時差は15時間だから、メキシコシティはメキシコ中部標準時で午前9時過ぎだ。
                                                  したがって、犯行のあと、瀬田はできるだけ早くデンパサールからメキシコへ向けて飛び立っていなければならない。航空機を利用するとなるとどうしてもパスポートが必要だ。
                                                   偽造パスポートを使ったのだろう。おそらくその可能性が高い。これがライ警視の推理の実証にとって最大の障害になってくる。
                                                  タイやフィリピンでさまざまな偽造パスポートがつくられている。安物の偽造パスポートは造りが粗雑だが、盗難にあった本物のパスポートに細工した高額な偽造パスポートは識別が難しい。瀬田がバリのパスポート・コントロールで使うとすれば、そのパスポートは日本のものだろう。日本のパスポートなら出入国管理官のチェックも緩くなる。瀬田誠はどこかで日本のパスポーを手に入れたかもしれない。
                                                   日本人が海外でパスポートを盗まれたり紛失したりするケースは年間1万件ほどだ。これらのパスポートのかなりが売買されて、最終的に偽パスポートとして売られているとされる。
                                                   1997年のアジア通貨危機以来バリに来る日本人はがくんと減っているが、それでも毎月2万人前後がデンパサールのングラ・ライ空港から入国してくる。1ヵ月に2万人前後の日本人がングラ・ライ空港から入国してくるということは、1日平均700人弱ということになる。この700人の中から、正規の持ち主のいないパスポートをどうやって探し出すか。
                                                   だが、この5月中旬はスハルト退陣をめぐる動乱のおかげで、インドネシアから国外に脱出する人は多かったが、インドネシアに入国する人は激減しているはずだ。グスティ・アグン・ライ警視は、デンパサールのングラ・ライ空港をつかって5月11日から13日の間に入国し、5月14日に出国した日本人を出入国管理の記録で調べることにした。5人の刑事を出入国管理事務所に送り込んで記録を調べさせたが、該当する日本人は見つからなかった。
                                                   グスティ・アグン・ライ警視は途方に暮れた

                                                   

                                                   

                                                  2018.10.20 Saturday

                                                  『ぺトルス――謎のガンマン』   第18回

                                                  0

                                                       

                                                     

                                                     10月26日、鷹石里志の自宅
                                                     インドネシアはかつて「赤道にかかるエメラルドの首飾り」といわれた。美しい南の海にばらまかれた万を超える島々からなる国だ。島々が散らばるインドネシア共和国の海域はアメリカ合衆国の国土に匹敵する広がりをもつ。
                                                    インドネシアの首都ジャカルタの沖合のジャワ海にもプロウ・スリブ(千の島々)と名のいう小さな島々が、散らばっている。松尾芭蕉が「島々や千々にくだけて夏の海」と詠んだ松島沖の島々よりも広がりはひとまわり大きい。
                                                     この珊瑚礁の島々が広がる海には、第2次世界大戦で日本がインドネシアを占領する以前、金子光晴が訪れていて、そこは「悲しい」までに美しい海だったと書き残している。エメラルド色の海に千々にくだけて散らばる珊瑚礁の島々は、たしかに美しいが、「悲しい」と金子が書いたのは、金子が妻の森三千代を彼女の愛人から取り戻そうとして、妻を連れて悲しい海外貧乏旅行に出たついでに、ここを訪れたからである。
                                                     詩人金子光晴は小説家森三千代に子どもを生ませた。三千代はその子どもを置き去りにして、のちに高名な美術評論家になる若い男と同棲した。金子光晴は子どもを抱いてその男の家に行き、そこにいた三千代に、男をとるか、それとも子どもをとるか、とせまった。どこか貧乏じみた、それでいて自由気ままな恋愛ごっこ。金子光晴は森三千代とヨリをもどすために、子どもを森三千代の両親に預け、なけなしの金をはたいて彼女を海外旅行に連れ出した。
                                                     鷹石はずいぶん昔、フィールドワークでジャカルタに住み着いたとき、プロウ・スリブに行ったことがあった。フィールドワーク開始にあたって意気軒昂だった当時の鷹石には、エメラルド色に輝く明るい海に見えた。やがて、金子光晴の『マレー蘭印紀行』をかかえて、金子光晴の旅をそっくりそのまま追体験しようと、どこか陰気な表情の日本の青年が東南アジアを旅行するようになった。青年たちは東南アジアにやってきて、東南アジアの今を見ようともせず、1930年前後の見聞にもとづいて詩人金子光晴の言葉がつむぎだした幻影の東南アジア島嶼部を彷徨していた。
                                                     熱帯のインドネシア語にも春夏秋冬をさす言葉はある。春は「ムシム・ブンガ」(花の季節)、夏は「ムシム・パナス」(暑い季節)、秋は「ムシム・ググール」(落葉の季節)、冬は「ムシム・ディギン」(寒い季節)というが、実際にはインドネシアには「ムシム・クマロウ」(乾季)と「ムシム・ウジャン」(雨季)の2つしかない。デンパサールの気温は1年中最高が摂氏30度、最低が23度ほどである。米は年に3度とれ、同じ時期にある田では田植えをし、ある田では稲刈りをし、ある田は青々と稲が育っている。デンパサールでは季節の移ろいは風景からは感じにくいが、それでも、10月には乾季から雨季にかわり、雨季が3月いっぱいまでつづく。湿潤な熱帯だから年中湿度は高い。鷹石里志は時々デンパサールから日本に一時帰国するのだが、あるとき、愛用のニコンF3を分解掃除に出したところ、どうしました、水中に落としました、とたずねられた。乾季も雨季も同じように湿度は高いのだが、それでも、乾季の朝夕には、なんとなく空気がさらっと感じられるのである。
                                                    1998年10月26日朝、鷹石はデンパサールの『バリ・ポスト』で興味深い記事を読んだ。鷹石の目にとまった新聞の記事は次のような内容だった。
                                                     国軍憲兵隊が10月24日、国防治安省局長の故アンワル・ルクマン少将のジャカルタの私邸に大量の武器が隠匿されているのを発見した。発見された武器は小銃93丁、拳銃32丁、実弾約2万発、手榴弾10個、野戦用双眼鏡20個などだった。アンワル・ユスフ将軍は6月18日、出張先のバリのホテルで心臓発作を起こし、デンパサールの陸軍病院に運ばれたがすでに死亡していた。軍の将官が在職中に死亡したり、あるいは退職したりした場合、軍の機密保持のためその自宅を検査する決まりになっている。その検査で大量の武器が見つかった。アンワル・ルクマン将軍は以前、陸軍戦略予備軍で武器調達の責任者を務めていたことがある。そのころから武器収集の個人的趣味がつのり、武器を自宅に持ち帰っていたのであろうと、軍高官は説明している。
                                                    ホホウ、とつぶやいて鷹石は電話を置いてある小テーブルへ行き、バリ州警察本部特捜課のグスティ・アグン・ライ警視に電話した。
                                                    「アンワル・ユスフ将軍の家から鉄砲がわんさと出たというニュースを知っているかい」
                                                    「ああ、新聞で読んだ。テレビでも見た」
                                                    「あのアンワル・ユスフという男は、瀬田誠のジャカルタでのビジネスの事実上の共同経営者だった」
                                                    「なんてこった。くそ、これから会議だ。夕方、帰りにあんたの家に寄る。テンペでもごちそうしてくれ。アンワル・ユスフ将軍が相棒だったとはね。夕方6時までにはそこに行く」
                                                     雨季の初めの、まだおとなしいスコールがあがったころに、ライ警視が愛用のキジャンをきしませながら鷹石の家にやってきた。
                                                    「さあ、お聞かせ願おうか」
                                                    鷹石の家のリビングルームに入るやいなや、ライ警視はどすんと椅子に座った。テーブルの上のグラスの冷水を一気に飲み干した。
                                                    「5月の終りにジャカルタに行ったとき、友人の友人で、瀬田の会社で番頭役をしている日本人にあったんだ。彼が言うには、瀬田の会社の名義上の共同経営者はアンワル・ユスフ将軍の手下になっているが、事実上の共同経営者は将軍その人で、スハルト大統領に近かった将軍がライセンスを回してもらい、日本へ輸出するエビのブローカー業をやっていた。実際の業務はインドネシアと日本の水産貿易会社がやる。瀬田とユスフの会社はその中間にあって、輸出手続き代行の既得権を得て、無手勝流のおいしい商売をしてきた」
                                                    「ああ、インドネシアではよく使われるビジネス手法だ。アリババ方式というやつだね。プリブミの有力者と中国系インドネシア人の資本結びついた商売だが、日本人と結びついてもアリババのようなもんだ」
                                                    警視が感想を述べた。
                                                    「あの武器は何のために隠匿されていたのだろうか。地方で争乱が起きるたびに、インドネシア国軍の関与が取りざたされてきた。ああいう形で、将軍が個人的に隠匿した武器が、軍が密かにその手先に使っているならず者の民兵組織へ流れているようだね」
                                                    「アンワル・ユスフ将軍は出張と称してヌサ・ドゥアの超高級ホテルに宿泊して女と戯れているうちに心臓発作を起こしたということだ。陸軍病院に運ばれたときはすでに死んでいた。それをきっかけに大量の武器弾薬のコレクションが見つかった。ひょうたんから駒だ。警察でささやかれている情報では、アンワル・ユスフ将軍は陸軍強硬派の有力者で、やがては陸軍参謀長ともうわさされていた人物だ。ハビビ政権になって軍の改革が求められている。アンワルの死を機会に、アンワルのスキャンダルを暴き、アンワルにつながる将軍たちを軍の中枢から追い出そうとしている勢力もあるのではないかという深読みの説もあった。バリの田舎警察の捜査官には縁のない大政治問題はさておき、将軍が何のために銃器をためこんでいたか? 面白い問題だが、軍はだんまりを続けるだろう」
                                                    「現役の将軍が大量の武器を隠匿していたんだ。そのうちの1丁を商売仲間にやるくらいのことはなんでなかっただろうよ」
                                                    鷹石が言った。
                                                    「そうするとだね、タカシ。瀬田は妻が死ねば遺産が何十億と転がり込んでくる。だが、殺すのは早すぎる。殺すならもっと遺産の額が増えてからだ。たしか、あんたはそう言ったね。こういう状況はどうだ。妻が別居先のバリで性的に放埒な生活をしていることを夫の瀬田誠は知っていた。瀬田沙代はそのことをダルマワン、チャンドラ、スハルトノに隠そうとはせず、むしろおもしろがって話していた節があったから、同じことを夫にもおもしろがってしゃべっていたかも知れない。そして瀬田誠の手元にはアンワル・ユスフ将軍からもらった消音器付ブローニングがあった。ままよ、沙代の両親が死んで、沙代の資産が増えるまでまたず、いま殺してしまえ。瀬田誠がそう決心したとは考えられないか」
                                                    「考えられないことはない。人を殺すために拳銃を捜したやつもいれば、拳銃がそこにあったから人を殺す気になったやつもいる。瀬田が拳銃を持っていて、妻の男関係に怒っていれば、殺すことはあり得るだろう。だが、警視、瀬田沙代死亡の連絡が東京の外務省から沙代の両親にあり、彼らがそれを瀬田に連絡した時、瀬田誠はメキシコシティにいたんだ。メキシコシティで拳銃を撃っても、デンパサールまで弾はとどかない」
                                                    鷹石はじっとライ警視の顔を見た。鷹石はさらに、
                                                    「警察があの事件はスハルトノの自殺で決着を付けている以上、その決定の中心にいたご本人のあんたが話をむしかえすのはむずかしいんじゃないのか」
                                                    とライ警視に語りかけた。
                                                    「難しいというより、無理な話だ。だがね、私は以前から、ひっかかるものを感じていたんだ。スハルトノの自殺にはいくつか奇妙な点があったが、私が不自然だと思うのは、自殺することになった日の朝、出がけに妻に晩飯の注文をしていたことだ。それでいて、スハルトノがタマン・サリで勤務していたその日の午前中には、スハルトノを自殺に追いたてるような出来事は何もなかった。事件の公式的な再捜査は無理だが、個人的に調べてみる値打ちはあるだろう」
                                                    「ハードルは高そうだな。動機は遺産、嫉妬、憎しみで十分だが、瀬田誠の沙代にたいする嫉妬と憎しみについては、なお説得力のある説明が必要だろう」
                                                    「おおせの通りだ。瀬田沙代のクレジットカードを調べたら、4月9日から10日にかけてデンパサール・ジャカルタ間を往復する航空券を買っていた。ジャカルタではマンダリン・オリエンタルへの支払いがあった。私は沙代が夫に会いに行ったのではないかと想像する。この点はジャカルタで確かめなければならないが、もしそうだとすれば、ちょっと変だ。サトシ、あんたから聞いた話だと瀬田誠はジャカルタ市内に高級アパートメントを借りていたそうじゃないか。沙代はなぜ夫のアパートメントに泊まらないで、ホテルに泊まったのだろうか。妙だよね。離婚経験者のサトシのコメントを聞きたいものだね」
                                                    「妻が夫を拒否したか。夫が妻を拒否したか。双方が双方を拒否したか。いずれにせよ。あの夫婦はお互いに相手に愛情を感じられなくなっていた可能性がある。だから、沙代の両親も、沙代と瀬田誠の夫婦としては変則的な生活スタイルについて語ろうとしなかった。もちろん、そのことは事件とは関係なかろうと思っていたわれわれの方にも遠慮があって、話題にしなかったのだが」
                                                    「そこでこれまた想像だが、4月9日に2人は離婚のことで会ったのではないか。沙代が瀬田誠に離婚を求めた。離婚すれば慰謝料は出るだろうが、沙代の遺産に比べれば知れたものだ。おそらくこのとき、瀬田誠は沙代を殺そうと決心した」
                                                    「おいおい、ライ警視。それは想像の翼を広げすぎだよ」
                                                    「わかっているよ。もちろんわかっている。私が言いたいのは、瀬田誠には瀬田沙代を殺す動機がないわけではないということだ。小説ならこの動機をめぐって表現される人間の業や愚かさ、あるいは崇高さといった話が泣かせどころなのだろうが、私は警官だ。必要なのは犯罪の現場に、まさにそのときその人物がいたという証拠だけだ。動機をめぐるお話は犯人を捕まえたあとで、たっぷり時間をかけて聞き出せばよい。いまは、殺意を抱くに十分な動機を持つ可能性があるという推定だけで十分だ」
                                                    「ライ警視。そういうことであれば、5月14日の午前、瀬田誠がメキシコではなくてデンパサールにいたという証明をしなければならんだろうね。警視、あんた瀬田誠のパスポーを調べただろ。5月14日前後、瀬田誠はインドネシアに入国していたかい」
                                                    「いや、入国していなかった。瀬田誠のインドネシア入出国のスタンプは4月中に入出国1回と、事件後の5月18日入国だけだった」
                                                    「健闘を祈る」
                                                    高石がi言った。
                                                     そのとき部屋の外からお手伝いのスチの声がした。
                                                    「夕食の支度ができていますが」
                                                     食事室に入ったライ警視がこげ茶色に光る豚の肉片をみつけた。
                                                    「ワー、これはすごいテンペだ」
                                                    「この近くのバビ・グリンのワルンでスチが買ってきてくれた。あんたの家の自家製のやつほどうまくないかもしれんが、まあ、食べてみてくれ」
                                                    「ライ警視はテーブルの上のおしぼりで手を拭き、バビ・グリンの肉片を手づかみにしてほおばった。口をもぐもぐさせながら、
                                                    「来月中旬、ジャカルタへ出張する予定だ。研修だ。『刑事捜査と被疑者の人権』というテーマで、人権先進国のヨーロッパから先生がやってきて、いろいろ教えてくれるんだ。おれはスハルトとはひと味違うんだというところを見せようと、がんばっているハビビ大統領からのプレゼントだ。それで、ジャカルタに行ったついでに、あんたの友達の友達という瀬田誠の会社で働いている人に会いたいと思う。紹介してくれるか」
                                                    ライ警視が言った。
                                                    「いいとも。その人はインドネシア語を流ちょうにしゃべるから通訳はいらないよ。スケジュールがきまったら、早めに知らせてくれ。面会の約束をとっておこう」

                                                    2018.10.14 Sunday

                                                    『ペトルス――謎のガンマン』   第17回

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                                                      6月8日午前、州警察本部の会議室


                                                       州警察本部で開かれた捜査会議の焦点は、スハルトノが殺されたのか、それとも自殺したのかという点だった。
                                                      「では、鑑識結果から報告してもらいましょう。アフマド鑑識課長」
                                                      司会役のライ警視が指名した。
                                                      「スハルトノの体内から発見されたのは32口径の弾丸で、死体のそばにあったブローニングから発射されていた。同時に、その線条痕は瀬田沙代とスダルノの体内から発見された3発の弾丸のものと同一であることがわかった。スハルトノ、瀬田沙代、スダルノ、この3人の死はこの拳銃によるものである。スダルノの身体には銃弾による以外の傷はなかった。着衣にも皮膚にも物理的に争った痕跡はなかった。弾丸は至近距離からほぼ水平に発射されている。スハルトノの両手に硝煙反応が認められた。デスクの上のグラス、ミネラルウォーターの瓶、灰皿などからはスハルトノの指紋だけが検出された。室内にはクローク、引き出しなどに指紋の痕跡が見られた。これは以前の宿泊客たちが残した指紋だろう。スハルトノの消化器官から毒物の類は検出されなかった。スハルトノの胃から昼飯のミー・ゴレンがかなり未消化のままで発見された。食後30分以内に突然、死が訪れたようだ」
                                                      「捜査員の聞き込みで、スハルトノは午後1時ごろ社員食堂でミー・ゴレンを食べて直ぐ705号室に行ったとの証言を得ている。したがってスハルトノが死んだ時刻は午後1時半前後と推測される」
                                                      ライ警視が補足した。
                                                      「次は室内。イ・クトゥット・コボ捜査主任」
                                                      「まず、部屋のドアは施錠され、廊下側のドアのノブにはジャガン・ディガングのドア・ハンガーが掛けられていた。室内の見取り図と死体の位置は図の通りだ」
                                                      「ありがとう、コボ捜査主任。次はホテルの従業員らからの事情聴取結果をデンパサール警察署のストポ捜査主任から」
                                                      「まず、6月5日のスハルトノの行動から報告します。あの日、スハルトノは午前8時ごろ家を出て、タマン・サリに出勤したとスハルトノの妻が言っています。今日は早めに帰ってくる。晩飯は家で食べるから、何かうまい物をたのむ、と出がけに妻に言ったそうです。妻はちょっと奮発して、最近テレビの料理番組で見たマカッサル風魚の焙り焼きをつくろうと思っていたのに、と言って泣いておりました。スハルトノは8時半にはホテルに着いて、総支配人室で勤務を終えた夜勤の支配人代理から報告を受けたそうです。お昼までにかなりの数の電話に応対し、来客2人と面談しました。いずれも商用で応接室での短い対応でした。ホテルの幹部職員も3人ほどが総支配人室に現れました。それぞれの持ち場の人事管理の話だったということです。12時半に社員食堂へ行き、1時ごろ総支配人室から書類カバンを持ってフロントに行き、705号室のキーをもらってエレベーターで上ってゆきました。6月5日はあの階は客を入れないことになっていたそうです。客がそれほど多くなかったので、利用しないフロアに指定していたのだそうです。重要な案件について検討するので、急ぎのことでなければ電話をするな、と総支配人室の職員に言い残したそうです。総支配人室の職員の話では、スハルトノの態度は普段と変わりなかったということです」
                                                      「スハルトノの私生活についてはなにか?」
                                                      「ホテルの従業員に間でささやかれているうわさ話では、スハルトノは先月殺された日本人女性瀬田沙代と性的な関係があったといわれています。瀬田沙代は毎月1、2回タマン・サリに宿泊していました。そうした夜には、スハルトノが沙代の部屋に招かれて忍び入っていた。スハルトノが沙代の部屋に忍び足で入っていくのを廊下で目撃したというメイドもいた。沙代が殺された5月14日の朝には、ウブッドから沙代のガムランの師匠がタマン・サリに現れて、スハルトノを出せとしつこくフロントに言ったそうです。沙代との関係をネタにスハルトノはこの男に金銭をゆすられていたのではないかという推測を語る従業員もいた。スハルトノの妻は軍人時代の上司の娘だそうです。浮気がばれて、それが妻の父親でいまやタマン・サリの親会社の役員になっている元将軍の耳に入れば、将軍のご不快を買って、いつ総支配人のポストから降ろされるかもしれない」
                                                      「ホテルに出入りした不審な人物はいなかったのか」
                                                      ライ警視がたずねた。
                                                      「方々あたっては見たが、そのような目撃証言は出てこなかった」
                                                      ストポ捜査主任が答えた。
                                                      「デンパサール署の捜査協力を感謝する。ごくろさまでした」
                                                      スパルディ刑事部長が謝辞を述べた。
                                                      「では、拳銃について。ワヤン・ブラタ刑事」
                                                      「使われた32口径のブローニングは古い1910シリーズの1つだ。インドネシア軍もインドネシア警察も制式拳銃として採用したことはない。スハルトノは以前コプカムティブおよびバコルスタナスに勤務していたので、拳銃の入手は容易だったろうと考えられる」
                                                      スハルトノは自殺したのか、殺されたのか。捜査会議の報告と事件の検討は午前9時ごろから始まり、正午近くまで続いた。日本人女性殺人事件と濃厚な関連があるので、スハルトノの死については、ライ警視の特捜チームが捜査を担当する。他の部局も関連事項に関して、求めがあれば協力を惜しまないように願いたい、とスパルディ刑事部長が言って会議が終わった。

                                                       

                                                        6月8日午後、刑事部長室

                                                      「どうやら自殺の線が濃厚なんじゃないかな」
                                                      ライ警視はスパルディ刑事部長のオフィスに呼び出された。ライ警視が部屋に入るやいなや、刑事部長が切り出した。
                                                      「部長は自殺説ですか」
                                                      ライ警視が言った。
                                                      「これまでにわかったことを冷静に判断すれば、スハルトノの死は自殺以外には考えられないだろう」
                                                      「そういう推論は当然です。ただ、スハルトノはあの日の朝、家を出るとき、今日は早く帰って家で晩飯を食べるので何かうまい物をつくってくれ、と妻に注文していました。少なくとも朝、家を出るとき、彼はその日の夕方には生きて家に帰るつもりだった。自殺する気はなかったのです。自殺用の拳銃に消音器を付けたという点もまったく腑に落ちません」
                                                      「心静かな上品な死にざまをのぞんだのではないのかな」
                                                      「そうかもしれません。ですが、『ジャガン・ディガング』のハンガーや消音器は、スハルトノの死体発見を遅らせるための工夫だとは考えられませんか。あの日の午後、時ならぬ乾季のにわか雨に足を取られてホテルの玄関で倒れた客がいなかったら、スハルトノの死体発見はもっと遅くなっていたでしょう」
                                                      「死体発見が遅くなると何かいいことがあるのかね」
                                                      スパルディ刑事部長が皮肉っぽく言った。
                                                      「あの事件が他殺だとすれば、犯人は逃走のための時間がかせげます」
                                                      「あの事件が自殺に見せかけた他殺だとすれば、犯人はなぜ消音器を残していったのだろうか。」
                                                      「おっしゃるとおりです、スパルディ刑事部長。捜査の連中にもそうした見方をする者が多数派です。スハルトノは瀬田沙代との関係が妻に知れることを心配していた。それは自分の将来に大きく影響することだからだ。そのうえ同じように沙代と関係を持っているガムランの師匠のダルマワンが文句をふっかけてきた。5月13日にはスハルトノは瀬田沙代と会って話をしている。その夜、沙代の部屋でスハルトノは沙代と性交渉を持った可能性もある。そのあとで、沙代に別れ話を持ち出して沙代を怒らせ、思いあぐねて沙代をあの路地の近くに呼び出して、射殺した。オジェックのスダルノにそれを目撃されたので、スダルノを背後から撃った。致命傷かどうか自信がなかったので、とどめに頭部を撃った。そのあとで殺人犯として追われる自分の将来が不安になり、自分がやった殺人におののくようになった」
                                                      「話の流れとしてはそれがごく自然だな」
                                                      スパルディ刑事部長がおうように言った。
                                                      「ですが、スハルトノから事情聴取したさい、自殺するほど追い詰められていたようには見えなかったのです」
                                                      「そのあたりのことは、今後の捜査でわかってくるだろう。わかろうとする人に神はみしるしを示したもう――とはコーランの言葉ではなかったかな」
                                                      スパルディ刑事部長が言った。
                                                      「私はインドネシアでは少数派のバリのヒンドゥー教徒なもので、イスラムの真理には縁か薄くて。ですが、今の段階では自殺説の方が、あやふやな推測に過ぎない他殺説よりよほど説得力があることを認めざるをえません。他殺説の最大の問題点は、自殺に見せかけてスハルトノを殺す犯人の心当たりが、スハルトノの周辺に見あたらないことです。スハルトノに殺意を抱く可能性のある人物は、瀬田沙代と情を交わしていた師匠のグデ・ダルマワンと絵描きのバグス・チャンドラの2人でしょう。特にダルマワンについてはひどくスハルトノを憎んでいたようですからね。ですが、この2人には6月5日の午後、きちんとしたアリバイが証明されました。ダルマワンはあの日の午後、妻と水田に出て農作業をしていました。彼が妻と働いている姿は複数の人が目撃しています。また、スハルトノが殺されたと見られる午後1時から2時の間に、ダルマワンはお昼を食べに家に帰る途中、近所の人と出会ってしばらく雑談をしていました。一方、チャンドラですが、あの日は朝から夕方までアトリエで二人の弟子と商売用のバリ絵画の制作に余念がなかった。弟子がそう証言していますし、午後2時ごろはアトリエを訪れた近くの同業者と話をしている。この2人以外にスハルトノと瀬田沙代を殺しそうな人物はいまのところ浮かんでいません」
                                                      「どうやら、結論が出たようだね」
                                                      スパルディ刑事部長がにんまり笑って、話を続けた。
                                                      「先日、うちの本部長がバリ州知事と会ったときに、まあこの2人ともスハルトが去ったあと、この先どうなるか……首を洗ってハビビ後継政権の人事待ちなのだが、知事が本部長にこんなことを言ったそうだ。アジア金融危機とスハルト政権崩壊にともなう動乱で、インドネシアの経済は大打撃を受けた。ここバリは観光が最大の産業だ。観光客は先月から潮が引くようにバリから消えていった。これから、なんとかしてツーリストを呼び戻さなくてはならない。なんといっても日本人とオーストラリア人が二大顧客だ。そういう時期に、日本女性の殺人事件がいつまでも未解決とあっては、バリは見た目ほど安全な所ではない、という風評を呼びかねない。私は懸念しているのだ、とね。去年だったかな、日本のツーリストがバリから帰国したあとコレラを発症したことがあった。バリは熱帯だからコレラ菌ぐらいいるさ。だがね、バリに長期滞在してゆっくりと休養する西洋人の客は滅多にコレラなど発症しない。ほとんど日本人と似たようなものを食っているにもかかわらずだ。団体旅行でバリにやってきて、着いた日の夜から大酒を飲み、翌日からキンタマニー、ブサキ、ウブッド、タナロット、ウルワツ、ビーチと、日差しの強い日中に休む間もなく動き回ってへとへとになった身体に、ちょっとでもコレラ菌が入ればひとたまりもなく発症するだろう。といって、うちの方から、日本人の旅行の仕方に問題があるとは言えないので、衛生管理を徹底すると約束して客を呼び戻すしかなかった。それと同じで、外国人が殺人事件の被害者になるのは、どこの国でもあることだ、他国の観光地に比べてバリがとりわけ危険なわけではないといってもはじまらない。事件の決着をつけて、日本のエージェントを安心させるしかないのだから、一つよろしくご尽力のほどを、と知事にいわれたんだ。本部長はその話を私に聞かせて、プレッシャーをかけてきた。しかし、どうやらこれで一件落着を見ることができそうだな」

                                                       

                                                       6月28日、デンパサールのライ警視の自宅
                                                       バリ州警察本部は6月22日瀬田沙代ならびにスダルノ殺人事件の容疑者が自殺したスハルトノであることを発表した。続いて検察庁が被疑者死亡により不起訴処分にすると発表した。これで発生から1ヵ月あまりで事件が解決した。スハルト政権崩壊という政治動乱中の刑事事件処理としては鮮やかな処理だった。
                                                      「しかし私としては納得がいかない結末なんだ」
                                                      ライ警視が鷹石里志にぼやいた。
                                                       隣家といっしょにバビ・グリン(子豚の丸焼き)をつくるので食べにおいで、とライ警視が鷹石を彼の家に招待した。隣家の家族と大騒ぎしながら子豚をあぶり、タレを塗ってはまたあぶり、ワイワイがやがやと肉片にかぶりつく。ジャワのムスリムが見たら顔を背けたくなるような饗宴だが、なにかまうもんか、ここはバリで、人口の9割がバリ人で、ヒンドゥー教徒だ。インドネシア全体では九割がムスリムで豚を嫌うが、バリでは9割の人が豚肉に寛容なのである。ひとしきり食ったあと、隣家の家族が残った料理の半分を持ち帰って、急に静かになった食卓でライ警視が鷹石に捜査のあらましを語り、その結論として、納得いかないとぼやいたのである。
                                                      「しかしねえ、警視。スハルトノは自殺したのではなく他殺だと主張するには、わたしのような素人目にも、その裏付けになる証拠がないんだなあ。愛情のもつれが犯行の動機とするなら、ダルマワンとチャンドラしかいない。だが、かれらにはアリバイがあった。これは動かしがたい。スハルトノの死体のそばに拳銃があり、その拳銃は瀬田沙代とスダルノを撃ったものだった」
                                                      「男女間のもつれで追いかけたのは、違う筋だったのかも知れない」
                                                      ライ警視がこれまでの自分の捜査の筋を否定する言い方をした。
                                                      「じゃあ、瀬田沙代殺しの動機は物盗りか。金ほしさの犯行か。動機が金なら、恰好の容疑者がいる。沙代の夫の瀬田誠だ。聞いたところでは瀬田沙代は金持の両親から生前贈与を受けて数十億円の資産を持っていたそうだ。その金は沙代が死んだ今では夫がそっくり遺産相続しているはずだ。数十億円という金は人によっては妻を殺すに十分な金額だ」
                                                      ライ警視が真顔になって身を乗り出した。鷹石はニヤッと笑って話を続けた。
                                                      「だが、私なら妻を殺さない。妻は数十億円の資産家だが、彼女の両親が死んだのちは、さらに遺産相続で沙代の資産は増えるはずだった。資産はおそらく現在の何倍にもふくれあがることだろう。妻を殺すのならその時だ。われわれのような貧乏人は瀬田誠が数十億の妻の遺産を相続したことで得をしたと考えるのだが、瀬田誠は妻の死によってうべかりし資産を失ったのだ。かれもまた、瀬田沙代殺人事件の被害者だったのだ」
                                                      鷹石がライ警視に説明した。
                                                       ライ警視は深いため気をついて、鷹石に言った。
                                                      「捜査のあらましは久保田領事に手渡した。彼が翻訳して本省に送り、そこから瀬田沙代の家族に連絡がいくだろう。今日私が話したことを元にして、夫の瀬田氏とご両親の倉田夫妻にことの次第を説明してもらえるとありがたい。夫として、親として大変つらいおもいをされたわけだから、気持の整理になるようなお話をしてあげるのが、お経を読んだあんたに残された仕事だよ」
                                                      「そうだね。過分な謝礼をもらったから、ついでに、その金であんたの言っていたチャンドラが描いた沙代の絵を買い取って、倉田夫妻に贈ってあげようと思う」
                                                      鷹石がしんみりとした口調で言った。

                                                       7月初旬、鷹石は仙台の倉田夫妻と、メキシコシティの瀬田誠あてに事件の決着について手紙を書いた。もちろん、瀬田沙代の男関係については愛情のもつれと簡単に説明した。ついでに、ウブッドに行ってイダ・バグス・チャンドラ画伯から沙代の肖像画を言い値の半額の千ドルで買い取って倉田夫妻に送った。メキシコの瀬田誠からは「事件の結末について詳細なお手紙をいただきました。ありがとうございました。バリ島は私にとってはなお悪夢の島です。メキシコでの仕事も軌道に乗り、最近ではもっぱらメキシコ暮らしで、ジャカルタに行くのも、2ヵ月に1度程度になりました」という返事を封書でもらった。倉田夫妻から「あの娘の絵を見ていると、娘が何かを訴えようとしているように見えてなりません」と封書で返事があった。

                                                      2018.10.07 Sunday

                                                      『ペトルス――謎のガンマン』   第16回

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                                                         瀬田誠は6月2日から4日にかけてウブッドに通い、亡き妻沙代のウブッド暮らしの整理をした。久保田領事が紹介してくれたインドネシア人の通訳も、久保田からまえもっていろいろと事情を説明されていたのだろう、態度は控えめだったが、必要なところでは瀬田への的確なアドバイスを忘れなかった。
                                                         借家の賃貸解約にあたって、不動産屋がどさくさにまぎれて清掃・修理費用をふっかけてきたときなどは、大きな損傷は借り主の責任だが、通常のよごれ程度の清掃費用は月々の家賃の中に含まれているはずだと、瀬田の代わりに反論してくれた。
                                                        沙代の銀行口座の解約でも、沙代の死亡証明書など必要な書類を銀行に問い合わせ、その書類を集める仕事も手伝ってくれた。ガムランの師匠イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの家や芸術学院に挨拶に行く日程をたて、同時に、沙代が未払いになっている謝金の有無も確認してくれた。さらに、ウブッドで沙代がつきあっていた人々をレストランに集めて、お別れの昼食会を開くお膳立てもやってくれた。瀬田誠のメキシコの事務所で働いてもらいたいほどのフットワークのいい通訳だった。
                                                         沙代が買い集めていたガムランの楽器は、鍵盤楽器のグンデルが2台とゴング1台、太鼓1台、それにスリン(笛)とルバブ(胡弓のような弦楽器)だった。由緒ありげな古めかしいものばかりだった。貴重なコレクションだと、ウブッドでガムランを習っている外国人グループのメンバーが言った。沙代とつきあってくれたお礼に、瀬田は彼らにガムランの楽器をプレゼントした。
                                                        沙代が使っていたテレビなどの電気製品や、着ていた衣料品はお手伝いとして働いてくれたカデがもらってくれた。さて、下着はどうしたものかと、瀬田はしばらくとまどった。
                                                         瀬田誠と沙代がジャカルタで立派なお屋敷を借りて住んでいたころの話である。ジャカルタの邸宅はたいてい塀で囲まれ、道路側の塀にコンクリート製のゴミ箱が設けられている。ゴミ箱には家庭の日常生活から出てくるさまざまなゴミが捨てられる。そのゴミをめあてに荷車を引いたトゥカン・サンパ(ゴミ集め)が回ってくる。彼らはゴミの中から空き缶やプラスティック製品、壊れた電気製品、古くなった調理器具といっためぼしいものを拾い集めていく。トゥカン・サンパのあと、野良犬がやって来て残飯を探して食べる。そのあと近所の鶏がやって来る。そのころには、熱帯の暑気に蒸されてゴミ箱はむっとするような臭気を放っている。そのゴミの中に鶏が首をつっこんで、なにやらあさっている。鶏のあとにやって来るのが役所のゴミ収集車だ。その頃にはゴミ箱の中は発酵・腐敗が進んでいて、ゴミはヘドロ状になり始めている。
                                                         沙代がどこかの日本人家庭で聞いた話を誠に教えてくれた。その家の奥様はご自分の肌着を捨てるときは、それをはさみでずたずたに切ってから、ゴミ箱に捨てるのだと沙代に語ったそうだ。沙代が怪訝な顔していると、その奥様はこう言った。
                                                        「だって、ゴミ箱から拾われた私のパンティーが誰かにはかれると思うと、気持悪いでしょ」
                                                         沙代からその話をきいて瀬田誠は大声で笑った。沙代もいっしょに声をあげて笑った。あのころはまだ2人していっしょに笑えるだけの心のゆとりがあった。
                                                        「たとえ洗濯されていたとしても、他人の下着を身につけるのは気持悪いだろう。おなじように、はかれる方も気持悪いのか。その気分、わからなくもないよな」
                                                        瀬田誠はそう言って、また笑った。
                                                         そのことを思い出して瀬田は沙代の下着の処分を思案したのだが、沙代の下着を切り刻むのは、沙代を切り刻んでいるような錯覚に襲われるかもしれないと感じて、カデに、
                                                        「すてておいてください」
                                                        と、下着を袋に詰めて渡した。
                                                         瀬田誠はデンパサールからよんだ運送業者に日本に送る品物を渡した。沙代の本、ノート、カメラ、沙代が撮影した写真、沙代が買い集めたバリの絵画10点ほど……
                                                         こうして瀬田沙代がウブッドで暮らした痕跡はプリアタン村から消えた。
                                                         瀬田誠は6月5日午前中に、駐在官事務所に久保田領事を訪ねて挨拶をし、その日の夜の便で成田に向けて飛び立った。

                                                         

                                                          6月5日午後、デンパサールのタマン・サリ・ホテル
                                                         デンパサールの北の空の一角に墨汁をたらしたような真っ黒な雲が現れた。黒雲はみるまに空いっぱいに広がった。太陽がさえぎられ夕暮れのように暗くなった。まもなく、ぽつりぽつりと雨粒が道路の埃のうえに落ちた。とみるやいなや、一気に大粒の雨が遠慮会釈なしに地面を叩き始めた。雨粒はしたたかに大きく、叩かれる街路樹の葉っぱがちぎれるような激しさだ。
                                                         6月のバリは乾季で、めったに雨が降ることはないが、全く降らないというわけでもない。道路の人々はあっという間にびしょ濡れになり、子どもや大人がゴルフで使うような大きな傘を持って現れて、雨から逃げまどう人を傘に誘い込んでいる。なにがしかの謝礼をいただこうという商売なのである。しかし、傘をさしていても結局のところスブぬれになってしまうのが熱帯のにわか雨だ。
                                                        タマン・サリ・ホテルの庭に出ていた宿泊客の中年の白人男性が雨の中をずぶ濡れになって玄関へ走ってきた。運の悪かったその男は濡れた玄関の石の階段で足をすべらせて倒れた。ドアマンが男の所へ駆けつけた。近くにいた客が手伝って男を玄関先に運び込んだ。ホテルの医者が呼ばれ、救急車が要請された。ホテルのフロントのチーフは、倒れた男が万一、雨で滑るような石段を設けたのはホテルの落ち度だ、と言い出した場合にそなえて、このことは総支配人の耳に入れた方がいいと判断した。
                                                        彼は腕時計を見た。午後3時5分だった。
                                                        「スハルトノさんを頼む」
                                                        「どのスハルトノでしょうか。ふたりいますが」
                                                        受話器から面倒くさそうなさそうな女性職員の声が聞こえた。
                                                        「総支配人に決まっているだろうが」
                                                        「あのー、こちら会計課ですが」
                                                        くそ、と悪態をついて、フロントのチーフはあらためてプッシュボタンを押した。
                                                        「総支配人のスハルトノさんを頼む。こちらはフロントだ」
                                                        「あいにく、総支配人は別室で作業中です」
                                                        「至急ロビーに来るように連絡してくれ。客が玄関で足を滑らせて転倒した。ひどいけがの可能性もある」
                                                        「了解」
                                                         救急車がホテルに到着した。まだ意識が回復しない男に付きそって、ホテルの職員も病院へ行った。だが、総支配人はロビーに現れなかった。
                                                         総支配人室の職員がロビーに現れた。
                                                        「支配人と連絡がとれません」
                                                        「総支配人は外出中なのか?」
                                                        フロントのチーフがいらだった声で聞いた。
                                                        「いえ、別室で作業しているはずなのですが。仕事に使っているはずの7階のセミスイートに電話しても応答がないんです」
                                                        「何号室だ」
                                                        「705です」
                                                        「行ってみよう」
                                                         705号室のドアノブには「ジャガン・ディガング」(ドゥー・ノット・ディスターブ)のタグがかけられていた。チャイムを鳴らしたが、室内からの応答はなかった。
                                                        ドアをノックして「総支配人」「スハルトノさん」と叫んだが、これにも応えがなかった。
                                                        「ここで仕事をしているのはたしかなことなんだな」
                                                        フロントのチーフが念をおした。
                                                        「間違いありません」
                                                        総支配人室の職員が答えた。
                                                        「マスターキーを持ってこさせろ」
                                                         マスターキーが届けられ、ドアを開けて室内に入ったホテルの従業員は一瞬たちすくんだ。
                                                        机の前の床にスハルトノが仰向けに倒れていた。スハルトノは白の長袖シャツに赤いネクタイをしていた。その白いシャツの胸もまた赤く染まっていた。
                                                        「総支配人」
                                                        支配人室の職員がかけ寄ろうとした。
                                                        「まて」
                                                        と、警官から転職してきた警備課長が制した。警備課長はスハルトノのそばにしゃがんで彼の首筋に触った。脈はなかった。
                                                        「みんな、部屋から出て、廊下で待機してくれ。あたりの物に触れないように」
                                                        警備課長が命令した。警備課長は廊下の受話器を取り上げてオペレーターに警察につなぐように言った。
                                                        「警察はすぐ来ると言っている。下に行って警察が来たらここに案内してくれ」
                                                        警備課長がまるで警官にもどったようにてきぱきと指示した。

                                                         雨はすでにあがっていた。警察の一団がタマン・サリに現れた。制服の警察官10人ほどがおそまきながらホテルの出入り口をかためた。私服の、といっても安物のプリント柄のシャツや偽ブランドのポロシャツを着た刑事5人と、制服の鑑識職員が道具を持って現れた。少し遅れて検視を担当する医師が姿を現わした。
                                                         705号室はスイートルームと普通のツインの部屋の中間ぐらいの広さの、セミスイートとよびならわされている部屋だ。部屋の北側に大きめの窓があった。ガラス窓は内側からロックされていた。窓は引き戸になっていたが、転落事故を防ぐためにふだんは10センチほどしか開かないようになっていた。窓を大きく開くには、窓のレールの中ほどに取り付けられたストッパーをはずす必要がある。
                                                         窓のそばに大きめのデスクが置かれていて、ここで仕事ができるようになっていた。デスクのかたわらの床に、スハルトノの書類カバンがおいてあった。ここで書類を読んでいたらしい。デスクの上には半分ほど水が残っているグラスと、ペリエのグリーンの小瓶がおいてあった。部屋の冷蔵庫からとり出したものだろう。机の上にはスハルトノが書いたらしい、クタ地区でのホテル事業拡張計画案の下書きとボールペンがあった。スハルトノはこの案文に手を入れていたと思われる。また机の上には、スハルトノが愛用し得ている紙巻き煙草マールボロの箱と、プラスティック製の使い捨てライターがおいてあった。マールボロの箱の中にまだ半分ほど紙巻きが残っていた。デスクの上には陶製の大きめの灰皿があり、吸い殻が3本残っていた。
                                                         スハルトノはデスクのすぐ横に仰向けになって倒れていた。頭を東に、したがって黒の革靴を履いた足を西に向けていた。死体の南側にはデスクがあり、デスクのさらに南側はホテルの廊下と部屋を仕切る壁である。壁にはバリの王族の絢爛たる葬式の写真が飾られていた。死体の北側、つまり仰向けに倒れているスハルトノの死体の右手のそばに拳銃があった。拳銃の握りには指が絡んでいた。
                                                         拳銃の銃身が異様に長く見えたのは、消音装置がつけてあったからだ。
                                                        「ストポ捜査官、デンパサール署長からお電話です」
                                                        ストポ捜査官が廊下に出て受話器を取った。
                                                        「州警察本部の特捜部のライ警視が指揮を執る。その指揮に従ってくれ。現場はライ警視が到着するまでは、そのままにしておくように。検視と鑑識は進めていいと言うことだった。ところでどうだ、特捜がしゃしゃり出てくるほどやっかいな事件になりそうなのか」
                                                        署長が早口に言った。
                                                        「いま、ドクターが死体を見ているところです。どうなるか見当はまだついていませんよ」
                                                        指揮を州警察本部特捜部に奪われる不快感もあってストポ捜査官はぶっきらぼうに署長に言った。
                                                        医師による検視が終わりかけたころ、ライ警視が現れた。
                                                        「死後2、3時間です。致命傷は心臓に向けて発射された銃弾一発。即死でしょう」
                                                        「そうすると、午後1時から2時にかけてのことだな」
                                                        ライ警視が腕時計をのぞき込んで言った。
                                                        「ストポ捜査官。君は部下を指揮して、スハルトノの今日の行動と、午後1時から2時にかけてホテル内で変ったことがなかったかどうか聞き込みをしてくれないか。他殺か自殺かまだわからないが、とにかく君の事件を横取りするようなかたちなって申し訳ない。ストポ捜査官、君も知っているだろうと思うが、先月の日本人女性路上射殺事件、スハルトノはあの事件の関係者なのだ」
                                                        ライ警視が事情を手短に説明した。
                                                        「了解しました。ライ警視」
                                                        失いかけたメンツがすくわれたストポ捜査官に笑顔がもどった。
                                                        「スハルトを司法解剖に回す手続きをしてくれ」
                                                        ライ警視が警察本部から連れ来た部下の一人に言った。
                                                        「ドクター、死体の外見に何か変った点が見られますか」
                                                        「ないね。自分で撃ったか、誰かに撃たれたか。その点は不明だが、これは百パーセント銃による死だ。解剖して毒物の有無まで確認をとる必要があるのかね」
                                                        「ドクター、拳銃自殺する人間が消音器を使う理由を想像できますか?」
                                                        「はい、はい。よくわかりました、警視殿」
                                                        医師がスハルトノの遺体に付きそってホテルから法医学専門の医師がいる軍の病院へ行った。
                                                        「鑑識は指紋をとりおえたか」
                                                        「警視、まだです。ここはホテルの客室ですぜ。指紋だらけだ。ハウスキーパーの部屋掃除はどうやらおざなりなようだ」
                                                        「それからデスクの上の書類、タバコ、ライター、灰皿、吸い殻、すべて持ち帰って精査してくれ。それからスハルトノのカバン、ドア・タグもだ。何かわかったら直ぐ連絡をくれ。みんな、あとしばらくの間、目をよく見開いて室内をしらべてくれ。思わぬ発見があるかも知れない。それから警備課長さん、この部屋はしばらく現場保存のため閉鎖する。今夜は警官を残してゆく。深夜に警官を交代させるのでよろしく」
                                                        ライ警視がてきぱきと指示をとばした。
                                                         ライ警視が州警察本部のオフィスに戻り、甘ったるいバリコーヒーを飲んでいるところに、デスクの電話が鳴った。鑑識課からだった。
                                                        「ライ警視。出ました、線条痕が。いや、驚きました。瀬田沙代とスダルノを射殺した銃と同一の線条痕が見られる弾丸がスハルトノの体内から出ました。あのブローニング32口径から発射された弾です」
                                                        「鑑識のラボだな。直ぐそこへいく」
                                                         ライ警視が部屋を飛び出した。

                                                         

                                                        2018.09.30 Sunday

                                                        『ペトルス――謎のガンマン』   第15回

                                                        0

                                                           

                                                           6月1日、デンパサール


                                                           鷹石里志は6月1日朝、デンパサールの州警察本部のグスティ・アグン・ライ警視の部屋で、バリ駐在官事務所の久保田尚領事が瀬田誠を連れて現れるのを待っていた。瀬田は1日朝、ライ警視から電話をもらった。瀬田誠と久保田領事からこれから警察本部に来ると連絡を受けたので、急なことで申し訳ないが本部まで来ていただけないかという内容だった。
                                                           瀬田は5月31日の夕刻、デンパサールに到着し、前回と同じサヌール・ビーチのバリ・ハイアットにチェックインした。翌6月1日、瀬田は駐在官事務所に久保田尚領事を訪ねた。領事から、瀬田が捜査のその後の進捗について聞きたいといっているので、会ってもらえるかどうか警視に問い合わせの電話があった。

                                                          「事件発生から2週間、いや、正確にいえば、2週間以上がたちました。事件解決へむけて、なにか新しい進展があったと、私は期待して今日ここに来たのですが……」
                                                          応接室に案内されてソファにすわるとすぐ瀬田が口を開いた。妻が外国で突然、殺人事件の被害者になってしまった夫の無念がこもった、何となく粘っこい感じの日本語の言い回しだった。すくなとも、鷹石にはそう聞こえたが、「新しい進展はあったのでしょうか」と事務的な翻訳をした。
                                                          「5月14日の事件発生以来、捜査本部はあらゆる可能性を考慮に入れてきました。瀬田沙代さんとオジェックの青年スダルノは、ひょっとしてあの日のウダヤナ大学生を中心にしたデモに参加していたか、あるいはプレマンに襲撃されて逃げまどうデモ参加者の流れに巻き込まれたかして、プレマンに銃撃された可能性をまず検討しました」
                                                          職員が冷たい紅茶と小型の餡入り焼き饅頭ピアを盛った皿をはこんできた。警視は「どうぞ」とお茶とお茶菓子を勧めて、話をつづけた。
                                                          「ですが、この仮説は成立しませんでした。デモに参加した学生たちから証言を集めたのですが、殺された2人がデモの列にいたという証言はありませんでした。また、死体の第一発見者であるウダヤナ大学生のニョマンから詳しい聴き取りをしました。ニョマンが言うには、あの路地裏に逃げ込んだのはニョマン1人だけで、ほかのデモの参加者はいなかった。また、プレマンがあとを追ってくる様子もなかった。また、プレマンの動きを監視している警官がプレマン情報を集めてくれましたが、あの日デモ隊に襲いかかったプレマンのなかの誰かが、拳銃を隠し持っていたとか、拳銃で人を撃ったという話も聞こえてきませんでした」
                                                          「デモ襲撃に巻き込まれたという仮説はつぶれたわけですね」
                                                          領事の久保田が念を押した。
                                                          「そう考えています。次に考えられるのは、行きずりの殺人です。動機は物盗りか、人間を射殺すること自体を楽しむ異常者の仕業の2つが考えられます。物盗りですが、スダルノの方はもともと金目のものは何一つ持っていない男です。ですが、彼のポケットの小銭はとられていなかった。瀬田沙代さんの場合も、ウエストバッグから現金が奪われたようですが、ATMカードやクレジットカードは残っていた。腕時計もしゃれたデザインの高価なものでしたが盗られていなかった」
                                                          「ええ、あれは以前、彼女の誕生日のお祝いに私が贈ったものです」
                                                          瀬田が低い声で言った。
                                                          「失礼ですが、いかほどのものでしたか?」
                                                          「米ドルで3000ドルほどでした」
                                                          「警察の専門家の鑑定もその程度でした。おそらくウエストバッグからとられた現金の総額よりはるかに高額な商品でしょう。犯人の目的が物盗りであったのなら、なぜこの腕時計を奪わなかったのか。殺人という重大な行為と奪われた物とのバランスがとれない。では、殺人マニアの、異常者の犯行かといえば、ここ数年、デンパサールではそうした殺人マニアの犯行と思われるような殺人事件、殺人未遂事件は起きていません。従って、この確率は相当低いと考えていいでしょう」
                                                          「インドネシアでは正体不明の殺人事件がよく起こると聞いたことがありますが。たしかむかしペトルス事件というのがありませんでしたか」
                                                          瀬田が警視に質問した。
                                                          「おお、ペトルスのことをご存じでしたか。1980年代にジョクジャカルタで起きたギャングをねらった連続射殺事件――謎の銃撃者(プネンバック・ミステリウス)ですね。あれは街のギャング一掃を狙った超法規的な政府の措置だったと、スハルトが6、7年前に出した自叙伝の中で書いています」
                                                           警視が瀬田に説明した。鷹石は警視のインドネシア語を正確に日本語に翻訳したのち、ペトルスはプネンバック・ミステリウスの略語で、警視は言っていませんが、死刑の宣告と執行を裁判抜きでやったわけですから、スハルトと彼の政権そのものが殺し好きの異常者だったともいえます、と日本語でコメントした。さらに、あの事件はスハルト政権の中枢でナンバー2を目指していた大物が、ライバルの影響力を削ぐために、ライバルの手足になって騒動を起こしてきたギャングたちを始末したのだという説もあります、とつけ足した。
                                                           久保田領事がちらっと視線を鷹石に向けたが、あとはそしらぬ表情を保った。
                                                          「そういうわけで、行きずり殺人の可能性も低い。では、組織犯罪に巻き込まれた可能性はどうでしょうか。例えば、麻薬。バリは国際的な観光地ですから、ヘロインなどの麻薬が流れ込み、またバリを経由してオーストラリアに麻薬が運び込まれている。そうした犯罪に何らかの理由で巻き込まれて、組織の手で殺された可能性も検討してみました。オジェック乗りのスダルノの周辺を洗って見ましたが、置き引き、寸借詐欺などの小犯罪はやっていましたが、麻薬密売の仕事はしていなかった。瀬田沙代さんの周辺にも、もちろん、麻薬犯罪に関連した情報は皆無でした。この線も排除していいでしょう。
                                                          「では、えん恨に関連した殺人なのか。スダルノはバリ人のビーチボーイだと名乗って、片言の英語を使ってオーストラリアなどからやって来た女性のお相手をしていたそうです。こういう推測は夫である瀬田さんにとっては、非常に不愉快なことでしょうが、警察はスダルノと瀬田沙代さんにそのようなつながりがあるかどうかも調べました。その結果、これまでの調べで、瀬田沙代さんとスダルノは面識がなかったことがはっきりしました。したがって、被害者双方に対して共通の怨みを持つ人物の存在は考えにくい。スダルノに対して怨みを持つ犯人がスダルノを殺し、たまたまその現場にいあわせた瀬田沙代さんが巻き添えになった。あるいはその逆で、犯人は瀬田沙代さんに怨みを持っており、スダルノが殺人の巻き添えになった。この二つの可能性が考えられます。このいずれかについては、現段階では警察は判断を保留しています」
                                                          「犯人像については何か」
                                                          「検視報告を読む限り、至近距離とはいえ犯人はなかなかの射撃の腕前のようです。軍か警察にいた人物の可能性も否定できません。あるいは、殺し屋の仕事の可能性もあります。現場に犯人捜しの手がかりになりそうなものを残していません」
                                                          「殺し屋ですって! デンパサールでそう言う商売をしている者がいるのでしょうか?」
                                                          瀬田が驚いてたずねた。
                                                          「います。殺人の請負料はターゲットによって違いますが、闇の世界の相場では普通のインドネシア市民なら1人1000ドル以上。外国人なら5000ドル以上といわれています。ただ、殺し屋に殺人を依頼する場合、依頼者は自分の身元を完全に秘密にしておく必要があります。そうしないと、あとでずるずると脅迫され続け、はてしなく金を絞りとられることになるからです。したがって、殺し屋による殺人も噂で言われているようには頻繁に起きていません。今回の事件で殺し屋が暗躍したという情報は、バリの犯罪者がたむろする闇の世界でも噂にさえなっていません」
                                                          「そうすると、沙代あるいはスダルノという青年のどちらかに怨みを持っている人物が自らの手で、2人を撃ち殺した、という可能性が残されるわけですね。犯人は拳銃を所有しており、射撃の腕前も確かである。銃を扱いなれた人物。ということになれば、犯人捜しはだいぶ絞られてきますね。もし沙代の方が狙われたとすれば、沙代の周辺にちらつくそのような人影になにか心当たりがおありなのでしょうか」
                                                          瀬田がたたみ込んだ。
                                                          「まさにいま、そのあたりのことを捜査しています。これ以上こと細かく言及することは今後の捜査の支障になることもありますので、控えさせていただきます。ご了解いただきたい」
                                                          警視はそう言って、じっと瀬田を見つめた。瀬田もそれ以上警視に対して質問を重ねる気はなかったようだ。
                                                           ライ警視に見送られて瀬田、久保田、鷹石の3人は州警察本部の玄関を出た。表には久保田の車の運転手が待っていた。お送りしましょうか、という久保田がいったが、鷹石はありがたく断った。
                                                          「わたしはこれから久保田さんの事務所に戻って、久保田さんが紹介してくださったインドネシア人の通訳といっしょにウブッドへ出かけます。数日をかけて、沙代が2年間暮らしたウブッドの生活の後片付けをします。ところで、鷹石さん。義父母が鷹石さんにくれぐれもよろしくお伝えするようにと申しておりました。沙代を荼毘に付したときの、鷹石さんのお経は、両親にとってもわたしにとっても、まことにありがたかった。両親から鷹石さんあての礼状をあずかってきましたので、今夜、バリ・ハイアットに私を訪ねていただけませんか。本来なら私が鷹石さんをおたずねしてお渡しするのが礼儀だとは思うのですが、なにぶん、地理に暗いものですから。よろしければ、今夜8時でいかがでしょうか。勝手を申してすみません」
                                                          瀬田が久保田に言った。
                                                          「いいですよ。8時にお尋ねしましょう」

                                                           

                                                           瀬田誠は鷹石里志をバリ・ハイアットのバーに引っ張り込み、テーブル席に座るやいなや2通の封書をカバンから取り出した。いずれの封筒も手触りの良さそうな厚い和紙でつくられた大きめのものだった。
                                                          「1通は倉田からの礼状で、もう1通は鷹石大僧正へのお布施です。瀬田沙代の夫であるわたしと、彼女の両親からです」
                                                          「それはどうも。お手紙はあとでゆっくり読ませていただきましょう。坊主でもない人間が坊主に扮して、うろ覚えの経を読んでお布施をいただくのは内心忸怩たるものがあります。とはいえ、お布施を辞退するというのも余り例のない話で、出されたものをありがたくいただくのがお布施の礼儀。ありがたくいただきましょう」
                                                           鷹石は受け取ったお布施の封筒の厚みに気がついて一瞬ドキとした。さはさりながら、お布施が厚かろうと薄かろうと、そのような俗念をいっさい顔に出さないのもまた、名僧知識の見栄である。
                                                          「ウブッドの片付けは順調に進行しましたでしょうか」
                                                          「今日は不動産仲介業者に賃貸契約の解除手続きをやってもらいました。沙代がお願いしていたお手伝いさんにも、給料の精算をし、半年分の給料にあたる額を退職金として渡しました。ガムランの師匠を訪ねましたが留守でした。明日にでもまたたずねるつもりです」
                                                          「沙代さんがウブッドで暮らした2年分の整理ですし、ここの人は期待するほどにはてきぱきと対応してくれませんから、あと数日はかかるでしょうね」
                                                          「沙代の銀行口座の解約、お友達への挨拶、沙代が集めたガムランや沙代の遺品の楽器を日本に送る手配など、まだいろいろと残っています」
                                                          「沙代さんのここでの暮らしを思い起こしながら、ゆっくりとおやり下さい。よい功徳になるでしょう。それはそうとして、先月末、所用があってジャカルタに行き、ついでに古い友人をたずねたところ、たまたま、瀬田さんの事務所にいらっしゃる宮内孝由さんにお目にかかりました。瀬田さんのことを心配なさっていらっしゃるごようすでした」
                                                          「それはどうも。宮内さんに詳しいことを連絡するだけの心のゆとりがない毎日でした。あの方にもご心配をおかけしたようですね。ところで、宮内さんは私たちのことを何か言っていましたか」
                                                          「と、おっしゃいますと?」
                                                          瀬田は「いやあ」といって、頭に手をやった。
                                                          「私たち夫婦がなぜジャカルタとバリ、最近ではむしろメキシコとバリになってしまいましたが、別れ別れに暮らしていたことについてです。おはずかしい」
                                                          「いえ、そのようなことはなにも。ですが、わたし個人はそうした人間くさい話が嫌いではありません」
                                                          「そういうことであれば、いまさら隠し立てしても始まりませんから、観念してお話いたしましょう」
                                                           瀬田誠がその夜語った話はおよそつぎのようであった。
                                                           瀬田誠と倉田沙代はアメリカの大学で知り合った、瀬田は農業経済を専攻する修士課程の院生。沙代は歴史専攻の学部生だった。やがて2人は日本に帰国してから結婚した。誠30歳、沙代26歳の時だった。そのとき瀬田は大手商社で農業部門の職についていた。結婚後、瀬田はメキシコ支店勤務になり、そのあとジャカルタ勤務になった。ジャカルタに来たのは1994年である。支店で2年ほど働いているうちにアンワル・ユスフ将軍と知り合い、将軍にさそわれて共同で事業を始めた。その資金は沙代の父親が貸してくれた。ユスフ将軍と始めたエビの輸出事務管理会社は安定した手数料収入を得たが、仕事自体は退屈きわまるものだった。
                                                           2年ほど前、瀬田誠がメキシコで新しい事業を手がけ始めたころ、沙代がバリへ行ってガムランを習いたいと言い出した。
                                                          「ジャカルタはインドネシアの政治と経済の中心ですが、文化的には退屈なところです。日本人会もジャカルタ駐在の日本企業従業員の親睦会のようなもので、日本の縦社会をインドネシアに持ちこんだ組織です。私はメキシコとインドネシアを往復しなければならなくなった。わたしがメキシコに行っている間、沙代を一人ぼっちにしてジャカルタで退屈させるのはかわいそうだと思って、ウブッドに送り出したのです。しかし、遠く離れて住んでいるうちに、お互いの気持まで疎遠になってきたことに気づきました。1年ほど前、これはまずいと思って、沙代にメキシコに来て住んだらどうか、と相談したのです。かつてメキシコに駐在したころ、沙代はメキシコをとても気に入っていましたから。ですが、彼女はガムランにうちこんでいて、もはやバリを離れようとしませんでした。私はジャカルタの一軒家の借家を出て、ホテルが経営しているアパートに移りました。年の半分以上はメキシコですから、アパートの方が使いやすい。そうこうしているうちにこんなことになってしまいました」
                                                          瀬田誠は無念きわまるといった表情になった。
                                                          「ところで鷹石さん、バリは長いのですか?」
                                                          「かれこれ4年になります」
                                                          「奥様は日本に帰りたがりませんか」
                                                          「わたしは独り者なんですよ」
                                                          「これは失礼。奥様はお亡くなりになられた?」
                                                          「いや、別れました」
                                                          「それはまた、個人的には興味をひかれる物語ですね」
                                                          「おろかしい話です。わたしはインドネシアをフィールドにした政治学を専攻して、日本の大学で教えていました。妻はタイの歴史が専門でした。やがて、妻が同じタイをフィールドにしている人類学者とぞっこんになってしまいまして。求めに応じて離婚するはめになりました」
                                                          「これは失礼しました。かさぶたをはぐような過去を問いただして申し訳ありませんでした」
                                                          瀬田誠がまじめな表情でわびを言った。
                                                          「なあに、もはや30年以上も前のことです。これまで何度もあちらこちらで、繰り返しくりかえし冗談半分に語ってきたことです。お気遣いはご無用です。まあ、そういうことで、大学を定年退職したあと、ここに来て年金で隠棲しているのです」
                                                          「熱帯にやってきて年金で隠棲というのは珍しい。かつて世界を制覇した大英帝国の場合、熱帯の瘴癘の地に勤務する官吏については年金の繰り上げ支給の恩典が認められていたそうですね。早めに年金暮らしに入って、イングランドの田舎で庭造りをしながらのんびり暮らす日々を夢見て、危険を承知で熱帯勤務を志願する人が多かった。でも、あの当時、熱帯はほんとうに危険なところだったようですね。トマス・スタンフォード・ラッフルズの妻もジャワで死に、ジャカルタの外国人墓地に葬られています。彼女の墓、ご覧になりましたか」
                                                           瀬田誠がウェイターにテキーラを注文した。瀬田は鷹石にもテキーラをすすめたが、鷹石は強い酒はどうもと言って、日本のビールのおかわりを頼んだ。
                                                          「ええ。タマン・プラサスティ墓地公園ですね。あそこはジャカルタではわたしのお気に入りの場所なのです。愛妻オリビアと、親友だったジョン・キャスパー・レイデンの墓が比翼塚になっていて、あの場所を訪れるたびに、わたしはいつも不思議な感動と安らぎを覚えるのです」
                                                           かつてジャカルタの外国人墓地は、独立広場の西側のタナ・アバン一帯に広がっていた。17世紀から19世紀にかけてジャカルタで暮らしたポルトガル人、オランダ人、イギリス人、アメリカ人、インド人、アラビア人、中国人たち、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒の墓があった。しかし、インドネシア独立後の首都ジャカルタの急成長とともに土地不足になり、外国人墓地は1976年に閉鎖された。旧墓地のかなりの部分が中央ジャカルタ市の新庁舎などの敷地に利用された。現在の外国人墓地は1979年に規模を縮小してタマン・プラサスティ(石碑公園)という名の墓地歴史博物館として再び一般に公開されるようになった。この墓地でもっとも有名な墓が、瀬田誠のいうトマス・スタンフォード・ラッフルズの妻オリヴィア・マリアン・ラッフルズの墓である。
                                                          「スタンフォード・ラッフルズがオリヴィアと結婚したのは、彼が23歳の時でした。そのとき妻は10歳年上の33歳。最初の夫とは死別、2度目の結婚でした。オリヴィアは 知性的で、その立ち居振る舞いは洗練され、生き生きとした黒い瞳を持った魅力的な女性だったといわれています」
                                                           テキーラとビールのおかわりが届いた。2人はそれぞれのグラスを持ち上げて会釈した。
                                                          「そうだったんですか。相当な姉さん女房だったわけですね。ふたりはジャワでどんな暮らしをしていたんでしょうか。知りたいな」
                                                          瀬田誠が鷹石を見た。
                                                          「スカルノの2度目の結婚相手、インギット・ガルナシはスカルノより12歳年上でした。年上の妻に抱かれて安心を感じる男もいます。ラッフルズが東インド会社に臨時職員として雇われたのは、14歳の少年のころでした。ウィリアム・ラムゼーという上司に目をかけてもらい、ラムゼーの屋敷に集まる知的な人々の会合に出席を許された。その席で交わされる話題に聞き入ることで、ラッフルズは人間としての成長をとげていったのです。耳学問も馬鹿にできません。このようなラッフルズのおいたちから、オリヴィアはもともとラムゼーの愛人で、ラムゼーがオリヴィアと手を切る方法として、オリヴィアと結婚することを条件に、ラッフルズに東インド会社での昇進の扉を開いてやったのだ。そういう悪意に満ちた噂が流されたこともあったそうです。ともあれ、かくして19世紀初頭の東南アジアに関するイギリスの大戦略家トマス・スタンフォード・ラッフルズはマレー半島のペナンにあるイギリス東インド会社の出先機関の事務次長としてアジアに現れたのです」
                                                          「その手の話は現代の会社でもありますよ。上司にすすめられて結婚したら、実は、上司の元愛人だったなんてね……」
                                                          瀬田誠がため息混じりに言った。
                                                          「そうでしょうな、昔も今も、おなじことを繰り返しているのでしょう」
                                                          と鷹石は瀬田の感想には簡単に応じて、話を続けた。
                                                          「ペナンで暮らし始めてまもなくトマスとオリヴィアの2人は、ジョン・キャスパー・レイデンという医師と深い交流を持つことになります。レイデンはオリヴィアとトマスのちょうど中間の歳でした。レイデンはエディンバラ大学などで神学、文学、医学を学んだ、なかなかに詩心のある人でした。『湖上の麗人』や『アイヴァンホー』などを書いたウォルーター・スコットの友人でもあり、スコットの出世作『スコットランド・ボーダー地方の吟遊詩』の著作に協力したそうです。
                                                          「やがてレイデンは医師としてイギリス東インド会社に雇われ、1803年にマドラスに派遣されました。この航海中にレイデンは体調を崩し、任地到着後にマドラスの病院で治療を受けました。ですが、病状は改善しなかった。そこで東インド会社は転地療養のため、レイデンをペナンに送った。1805年10月のことでした。運命のであいというべきか、ちょうど1ヵ月前の1805年9月に新婚のラッフルズ夫妻がペナンに赴任して来たばかりでした。病気のレイデンが官舎で一人暮らしをしているのを気の毒がって、ラッフルズ夫妻が彼を自宅に引き取り、オリヴィアが手厚い看護をした。こうして3ヵ月にわたってラッフルズの家で病身を養い、回復したレイデンはやがて1806年1月、インドへ帰任しました。
                                                          「この3ヵ月間に、レイデンはおそらくオリヴィアを恋するようになっていたのではないかと、わたしは想像するのです。当時のイギリス人にとってペナンは地の果てともいってよい異郷で、そこで病の身をいたわり、手を尽くして看護してくれる麗人に恋心を抱かない若者はいないでしょう」
                                                          鷹石がその根拠を瀬田に説明した。
                                                           レイデンはオリヴィア宛の手紙に、数行の詩を書いている。レイデンのラッフルズ夫妻に対する敬愛とともに、レイデンのオリヴィアへの思慕もまた行間ににじむ。

                                                           

                                                            かの友の優しき腕の中で幸せに過されんことを
                                                            かの人とあなたが偕老同穴を全うされんことを

                                                           

                                                          一方、オリヴィアの方もレイデン宛の手紙に、

                                                           

                                                           親愛なるドクター・レイデン
                                                           あなたにはたった一人の弟に対する愛と同じ愛情を感じます。あなたが重い病の床にある聞いたとき、私の胸は痛みを感じまし  た。それはあたかも私のあなたに対する誠実な敬愛の証しのように……

                                                          と書いた。

                                                           イギリスはナポレオン戦争に乗じて、1811年ジャワに侵攻した。イギリスのジャワ制圧直後の1811年8月末、遠征に同行していたレイデンが急死した。死因は肺炎ともマラリアともいわれている。あっけない死だった。ラッフルズはレイデンの亡骸をバタヴィアのヨーロッパ人墓地に埋葬した。
                                                           ジャワ副総督になったラッフルズ夫妻は、主としてボゴールに住んだ。ボゴールはジャカルタより標高が高く、少し涼しい。オリヴィアは副総督夫人としてバタヴィア在住のヨーロッパ系住民のだらしない生活習慣を改めさせ、洗練されたヨーロッパ風に戻す生活改善運動を進めたといわれている。オリヴィアもまた開明的な植民地行政官の妻だった。だが、オリヴィアもレイデンの死から3年後の1814年11月にボゴールの屋敷で急死した。ラッフルズはオリヴィアをバタヴィアのヨーロッパ人墓地のレイデンの墓の隣に埋葬した。
                                                           さらに、ラッフルズは、夫妻が暮らしたボゴールの屋敷にオリヴィアとの幸せな日々を記念するテラス式の円形の霊廟を造らせた。オリヴィアを記念するテラスは現在もボゴール植物園内に残っている。生前のオリヴィアの優雅な姿を想像させる、濃い緑の中の白い円柱が印象的なテラスだ。ラッフルズはその霊廟に、オリヴィアが1808年にレイデンに贈った詩の数行を刻ませた。

                                                           

                                                            わが心から片時も消え去ることのなかった君
                                                            定めが我らを分かつとも我を忘却するなかれ

                                                           

                                                          「瀬田さん、人間って不思議なところがありますね。トマス・ラッフルズはなぜオリヴィアの墓をレイデンの墓の隣につくって比翼塚としたのでしょうか? なぜ、トマス・ラッフルズはオリヴィアがレイデンに贈った愛の詩を、そのままのかたちで、トマスからオリヴィアへの永遠の愛の歌として刻みこんだのだのでしょうか――トマス、オリヴィア、ジョンの3人は生涯にわたって破綻することなく、それぞれを同じように深く愛しあっていた、としか言いようがない。トマス・ラッフルズの2番目の妻ソフィア・ラッフルズは、ラッフルズの克明な伝記を書き残しましたが、最初の妻オリヴィアが関わる部分についてはいっさいをラッフルズの生涯から削除したのです。これもまた、独占という愛の形のひとつでしょうが、このことによって、トマス、オリヴィア、ジョンの三人の愛の物語の奥深い謎を解きほぐす糸口が、永遠に失われてしまいました」
                                                           ラッフルズはジャワ副総督時代に、オランダ時代の奴隷制や拷問の廃止、税制改革などの行政・司法改革を手がける一方で、ボロブドゥール遺跡の復元、ラフレシアをはじめとする動植物の新種の発見などの学術文化事業も推進した。それまでのオランダ領東インドの支配者にくらべれば改革志向の植民地支配者だったが、現代のインドネシア人にとっては、ラッフルズも過去のヨーロッパ植民地主義者の一人であり、遠い昔の人である。ラッフルズの時代は長いオランダ支配の中の短い一幕劇にすぎなくなった。
                                                          「シンガポールの街にはトマス・スタンフォード・ラッフルズの像がいまなお飾られています。シンガポールは英雄としてのラッフルズを讃えています。一方、インドネシアは洗練された西欧人としてのラッフルズを記憶に残している。ただし、ほんのひとにぎりの人々の記憶にすぎませんが。わたしがオリヴィア・マリアン・ラッフルズとジョン・キャスパー・レイデンの墓の前で不思議なやすらぎを覚えるのは、英雄としてのラッフルズではなく、ごくありふれた人間の、妻や友人に対する優しさ、寛容といった人間らしい心づかいを教えられるからです。人間らしい優しさについて教えてくれる歴史というのは、めったにあるものではありません」
                                                           瀬田誠が鷹石のグラスにビールを注いだ。
                                                          「トマスと、オリヴィアと、ジョンのために」
                                                          瀬田がテキーラのグラスをあげた。

                                                          2018.09.22 Saturday

                                                          『ペトルス――謎のガンマン』   第14回

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                                                             5月27-8日、ジャカルタ
                                                            鷹石里志は5月27日朝、デンパサールからジャカルタに飛んだ。ジャカルタ在住のインドネシア人の友人ブルハヌディンの出版記念会が27日の夜にひらかれる。それに出席するためだ。28日の木曜日はウダヤナ大学の日本語クラスの授業があったが休講にしてもらった。
                                                             出版した本はブルハヌディンが国立インドネシア大学に提出して博士号をもらったジョン・ロールズの正義論をめぐる論文で、出版しても売れる見込みはない。インドネシアの知識人のなかには派手な出版記念会を開く人がいる。知識人にとっては、出版記念会はムスリム男子の割礼にも似た重要な通過儀礼なのだ。いや、ブルハヌディンは鷹石より少しばかり年長なので、むしろ冥土のみやげという言い方がふさわしいかもしれない。
                                                             鷹石はスカルノ・ハッタ空港からタクシーでタムリン通りのホテルに直行、チェックインしてすぐ古い友人の黒田武に電話した。黒田は商社のインドネシア支店長で定年になり、そのままインドネシアに住み着いてしまった。インドネシアに駐在していた若いころ、目のぱっちりとした隣家の娘とにくからず思う仲になって結婚した。定年までの黒田の40年近くをかえりみると、日本に住んだ期間よりインドネシアをはじめとする国外に住んだ年月の方が長い。
                                                            「お久しぶりですね。おかわりありませんでしたか。きょうはまたどんな風の吹き回しで、この荒れ果てたジャカルタにお越しですか」
                                                            受話器から黒田のはずんだ声が聞こえた。
                                                            「インドネシア人の友人の出版記念会に出ようと思いまして」
                                                            「ほう、それはいつですか」
                                                            「今夜です」
                                                            「じゃあ、明晩、わが家にお越し下さいませんか。久しぶりにいっぱいやりましょう。カルリナも会いたがっているでしょうから」
                                                            カルリナは黒田の妻の名前だ。
                                                            「それから、鷹石さん。ジャカルタの惨状はテレビでご覧になったでしょうが、ひどいものです。見ておくだけの値うちがある。特にグロドックは凄惨としか言いようがない。明日ご予定がなければ、カルリナが運転する車でお泊まりのホテルまで迎えに行きます」
                                                            「ご親切にあまえて、グロドック・ツアーにつれていっていただきましょう。ホテルはタムリン通りのサリ・パン・パシフィックです。」
                                                            「では、明日午前10時にホテルへ行きます」
                                                            「ありがとうございます。イブ・カルリナによろしくお伝え下さい」

                                                             ブルハヌディンの出版記念会は鷹石の泊まっているサリ・パン・パシフィックからそう遠くないインドネシア新聞記者協会のホールで開かれた。ブルハヌディンは元新聞記者だったが、勤めていた新聞社がスハルト政権によって発禁処分を受け、彼自身もインドネシアのジャーナリズム業界から事実上のパージを受けることになった。もはや新聞社にポストは得られなくなったが、評論家としてインドネシアのジャーナリズムの世界では、引き続き影響力を持ち続けていた。
                                                             出版記念会は盛会だった。スハルトに批判的だった現役の記者、スハルト支持者だった新聞社幹部、引退した記者、学者、隣人、ブルハヌディンの美貌の娘に野心を燃やしている若者、それと、案内状をもらって出席する人に誘われてふらっとやって来た、案内状なしのブルハヌディンとはなんの関係もない人――インドネシアでは招待された側が招待した側に断りなしにだれかを連れてくることがよくあるのだが、招待する側はそれを自分の人気の証明とうけとって快く受け入れるのが通例だ――でごった返していた。
                                                             会場に国会議長のハルモコの姿があった。ブルハヌディンと同じころからジャーナリズムの世界で働き、やがて『ポス・コタ』というジャカルタの大衆新聞の社長に出世した。さらにインドネシア新聞記者協会の会長におさまり、その椅子からスハルト政権の情報大臣に転身した。情報大臣として、スハルトの命令に忠実に従って、インドネシアの新聞ジャーナリズムを検閲下においた。次にスハルト与党のゴルカルの総裁に抜擢され、とうとう国会議長にまでのぼりつめた。スハルトが追い詰められた5月18日、スハルトにはもう目がなくなったとみるや、身をひるがえして、国会議長としてスハルトに退陣を要求する声明を出していた。
                                                             短時間だが記念パーティーの席に顔を出したハルモコは、壇上から祝辞を述べさせてはもらえなかったが、フロアでブルハヌディンに祝意を伝え、ブルハヌディンを取り囲んだ人々とにこやかに歓談した。普段はスハルト政権に対する見解で鋭く対立して仇敵同士だった人たちが、パーティーでは満面笑みをたたえて歓談の演技をする風景は、鷹石には、上品な振る舞いを第一とするインドネシアらしい面白い風景に思えた。
                                                             面白かったのはそれだけ。鷹石は機会を見てブルハヌディンに近寄って短くお祝いを述べ、今夜は忙しそうだから、また近いうちに機会を見てロールズの正義論についてのあなたの議論を聞きにくる、といって会場を出た。

                                                             

                                                             28日午前10時、黒田夫妻がサリ・パン・パシフィックにやってきた。
                                                            「まあ、鷹石さん」
                                                            「お久しぶりです、カルリナさん。いつもお美しい」
                                                             カルリナが差し出した手を鷹石が握りかえした。
                                                             ホテルを出てタムリン通りを南下し、巨大な噴水プールのあるロータリーを回って北行き車線に入って北上すれば、ほどなくグロドックに行き着く。
                                                             ヨーロッパ人が最初にジャワ島にやってきたのがジャカルタ北部の海岸スンダ・クラパだ。1522年にポルトガルの船団がこの海岸にやってきた。当時、スンダ・クラパはヒンドゥー教徒の領主が支配しており、ポルトガル人はその領主と交易協定を結んだ。ポルトガル人たちが5年後の1525年に、スンダ・クラパに通商基地を建設しようと戻って来たところ、すでにヒンドゥー教徒の支配者は消え、イスラム教徒の領主に代っていた。新しい領主は基地建設を拒否した。ポルトガル人たちは攻撃を仕掛けたが、戦闘のすえ敗北を喫して退散した。西洋に対するこの戦いの勝利を記念して、1527年をジャカルタ市の起源とする説がある。ジャカルタという名の起源は、この闘いでの勝利と栄光を意味する「ジャヤカルタ」だ。ポルトガル人をスンダ・クラパの海岸から追い払ったのは、ファタヒラという名の将軍で、その名はいまもジャカルタ市内に地名として残っている。そのあと、オランダ人がやって来て、1619年に商館を築いた。ジャカルタはオランダ統治時代にはバタヴィアとよばれた。古代のオランダに住んでいたバタビア人に由来する。
                                                             このバタヴィアの商館が置かれたあたりが、現代のジャカルタではコタ(町)とよばれている。オランダ植民都市の名残を伝える古い洋館群が残っていて、いまではジャカルタの数少ない観光資源になっている。初期のオランダ植民地総督はコタの南側に出稼ぎにやってきた中国人の町をつくった。その地域はやがて中国人が牛耳る流通の中核になっていった。これが今日のグロドックの始まりだった。
                                                            「ジャカルタの暴動はトリサクティ大学生への銃撃があった翌日の13日から始まりました。市内のあちこちで自動車への放火や、商店の打ち壊しと略奪がおこなわれました。ですが、グロドックは極端だった。鷹石さん、前方の右手に黒く焼けこげたビルが見えるでしょう。あれはもともと5階建てのデパートでした。人々がデパートのシャッターをたたき壊し、われさきにデパート内に入り込んで、店内の商品を略奪し始めた。デパートの中で大勢の人が略奪品をかき集めているさなかに、誰かがデパートに火を放った。ひどいことをするものです。たまったものじゃない。建物の火が完全に消えた16日以降、消防や警察が建物内を捜索し、死体運び出し作業を始めた。するとあの建物からだけでも二〇〇以上の死体が見つかった。有毒ガスを吸って死んだ人、焼けこげて人間の形をした巨大な炭になって死んだ人。このあたりにはスーパーマーケットの大型店が多く、多かれ少なかれ似たような略奪にあっています。略奪は市内のあちこちで同時多発的に起こった。東ジャカルタのスーパーでは、指導者らしい男が貧民ふうの人々の一団を引き連れて現れ、スーパーの中に入って何でも好きなものをとれと大声でそそのかした。人々がスーパーの中に入って略奪品を物色している間に、何者かがスーパーの出入り口を閉鎖したうえで火を放ったという目撃証言も出ている。そこでも100人以上の人が火事で死んでいます」
                                                            黒田が鷹石に説明した。
                                                             鷹石はデンパサールで見たジャカルタの略奪のテレビ 映像を思い出した。裸足の男が両手に扇風機だの電気湯沸器だのを持ち、背中に略奪品を詰め込んだ大きなバッグを背負って、煙が流れる商店街を急ぎ足に歩く姿だった。都市貧民街でその日暮らしを送る者には、生涯手に入れることができないような品物が背中のバッグにはいっていたのだろう。
                                                             略奪が市内全域で同時多発的に始まり、ねらわれたのは中国系資本のスーパーが多いとなれば、マレー系インドネシア人の中国系インドネシア人に対する潜在的な敵意「中国カード」を使った組織化された暴動の可能性がある。
                                                            「カルリナ。パンチョラン通りに入れるかな?」
                                                            黒田が妻に日本語で尋ねた。
                                                            「だいぶ片付いたという話を聞いた。だから大丈夫、通れると思う」
                                                            カルリナが日本語で答えた。

                                                             やがてカルリナは左に切って車をパンチョラン通りに入れた。パンチョラン通りもグロドックの一部で、ここには電気製品を売る店が並んでいた。それがいまや、あらゆる店が打ち壊され、焼かれ、通りは無惨な姿になっていた。
                                                            「鷹石さん、ひどいのは略奪や放火だけじゃあないんです。グロドックのように中国系の市民の多いところでは、あの暴動の時、おびただしい強姦事件が起きていたといわれています。私がかかわっている女性団体や人権団体がいま、被害者から聞き取り調査を始めています。ならず者風の男たちが押し入ってきて、その家の女性たちを家族の目の前で輪姦したという事件が多いのです。中国系市民を犠牲者にして、社会全体を恐怖に陥れようとするテロです。背後にいたのはだれか。これだけはインドネシアの名誉のためにもはっきりさせておくことが必要だと思います」
                                                            カルリナがインドネシア語で説明した。そのインドネシア語に憤りがこもっていた。

                                                             

                                                            「ところでデンパサールの暮らしはいかがですか。退屈なさってませんか?」

                                                            カルリナが鷹石にたずねた。
                                                             3人はグロドックを見たあと、グロドックと同じように略奪と放火で大勢の人が死んだ東ジャカルタのジャティヌガラ・プラザを見て、サリ・パン・パシフィックに戻ってきた。コーヒーショップでお昼を食べていた。
                                                            「デンパサールは今度のことでジャカルタから避難してきた人々でにぎわっていました。それに14日は日本人の女性がデンパサールの路上で銃撃されましてね。警察の依頼で日本からやって来た遺族と警察の間の通訳をやったりして、まだ浮き世との縁は切れていません」
                                                            「そうですか。殺されたのは瀬田沙代という、ウブッドへやって来てガムランを習っていた女性ですね。こっちの新聞にも載っていました。私のよく知っている人が働いている会社の経営者の一人がその女性の夫です」
                                                            「えっ、黒田さん、瀬田誠さんのことをご存じだったのですか。瀬田さんもなくなった沙代さんのご両親も、瀬田さんのジャカルタでの仕事や、沙代さんが一人でガムランを習いにウブッドに来ていたことなど、あまりくわしくはお話にならなかった。わたしも私事に立ち入るのを遠慮してお尋ねしませんでした」
                                                            「そうだ、私の知人の宮内さんにも今夜つきあってもらうことにしましょう。瀬田誠氏の会社で働いている方です。よろしいですか? 彼も瀬田沙代さんの事件については知りたいことでしょうから」

                                                             28日夜7時、鷹石がクバヨランの住宅街にある黒田の家を尋ねると、黒田の友人宮内孝由はすでに来ており、黒田とビールを飲んでいた。
                                                            「先にやらせていただいています」
                                                            と黒田が鷹石に笑顔を向けた。
                                                             黒田が宮内のことを鷹石に紹介した。宮内は黒田と同じ60歳代半ばで、かつて黒田のライバル商社員だった。2人とも妻がインドネシア女性ということから家族同士のつきあいが始まり、そういうつきあいになってしまえば、さすがに仕事のことで角つきあわす気も薄れてきた。相談したわけでもないのだが、2人とも子育てが終わり、夫婦2人でインドネシア暮らしを続けることにした。黒田はもう仕事はしていないが、宮内はたのまれて瀬田の会社の嘱託のような仕事を続けている。
                                                            「経営者の1人が瀬田誠さんなのです。いま1人はインドネシア人のモハマド・サミンという人物ですが、この人は代理人で、本当の経営者は国防治安省の局長をしているアンワル・ルクマン将軍です。彼はスハルト派の将軍の1人で、スハルトと近いことを理由にいろいろな利権を得て、商売に手を出してきました。アンワル将軍と瀬田さんがオーナーで、私が留守居役を仰せつかっている会社は、日本へのエビの輸出を専門に扱っているインドネシア側の窓口ということになっています。ですが、ここだけの話、内実はブローカーです。輸出のための手続き書類にOKのサインをして当局に提出するのを主な仕事にして、結構な手数料をいただいている窓口です。スディルマン通りに面した銀行の超高層ビルにある部屋を借りてオフィスにし、数人の事務職を雇って仕事をしています。私がそこの城代家老といった役回りでして」
                                                            「瀬田さんはなかなか抜け目ない商売をしていらっしゃるわけだ」
                                                            鷹石が冷やかし半分の口調で言った。
                                                            「それがあなた、こんどのスハルト大統領退陣でしょう。スハルトが退陣したいまとなっては、その利権のルートが断ち切られる可能性もおおいにありうるわけです。スハルト大統領が辞任した翌日の5月22日には、ウィラント国軍司令官がスハルト大統領の娘婿で戦略予備軍司令官プラボウォ・スビアント中将と、彼の手下で陸軍特殊部隊コパッススの司令官マフディ少将を解任したでしょう。ウィラントが軍内で自らの地位を不動のものにするために、いずれスハルトに近かった将軍の追放を始めるのではないかともっぱらのうわさです」
                                                            「そうすると瀬田氏の会社も潤滑油が切れてくる、ということになりかねないですなあ」
                                                            すでに現役を離れている黒田が同情のこもらない感想を口にした。
                                                            「瀬田さんはシンガポールの知人の紹介で、2年ほど前からメキシコで農産物を日本に輸出する商社を経営しています。インドネシアの会社は何もしないでも一定のパーセンテージで手数料が入る仕掛けになっている。営業努力をかさねれば、それなりに収入が伸びるという仕事ではないのです。それで、インドネシアの会社は私に任せきりにして、もっかは、メキシコで新しい仕事に専念し、楽しんでいますよ。やがてあの人の仕事はメキシコにシフトすることになるでしょう。権力にぶらさがってお下がりをいただくような仕事は、面白いとはいえませんからね。話題を変えて恐縮ですが、瀬田さんの奥さんが殺された理由は何だったのでしょうか」
                                                            宮内が鷹石にたずねた。
                                                            「デンパサールの表通りから路地を入った人気のないところで、拳銃で胸を撃たれました。行きずりの物盗り、いっしょに殺されていた男がジャワの流れ者だったことから麻薬などの組織犯罪がらみ、えん恨や男女関係のもつれが絡んだ殺し、警察はそういったものを念頭においていろいろ調べていますが……。どうなんでしょう、いまのところ捜査が進んでいる気配は伝わってきません」
                                                            「瀬田さんはどうでしたか。落ち込んでいる様子でしたか。私には女房がバリで死んだ。しばらくはジャカルタに行けないのでよろしく頼む、と電話連絡があったきりでしたので」
                                                            「なかなか精神的にしっかりとした方だったようで、冷静に事態を受け止めていらっしゃるようにおみうけしました。ご両親の方の対処も落ち着いたものでした。ご両親はお見受けしたところなかなかの事業家のようでしたね」
                                                            「仙台を拠点にエレクトロニクスから交通、観光まで幅広い会社をお持ちのようです。瀬田さんの奥さんはご両親から生前贈与を受けて、そうした会社の株式や不動産で数十億の資産家だそうです。なにがあってもいまの女房と別れるわけにはいかない。瀬田さんがよく言っていましたよ」
                                                            「瀬田夫妻はなぜバリとメキシコに分かれて住んでいたんでしょうね?」
                                                            鷹石が宮内にビールを注いでやりながら言った。
                                                            「両方が単身赴任したんでしょ。妻はガムランでウブッドへ。夫は仕事でメキシコへ」
                                                            黒田カルリナが「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に」といった口調で言ったので、みんな笑い出した。
                                                            「うちのひとも単身赴任しました。この人、一時期、石油の仕事でイランに行っていたことがあるんですよ。単身赴任で。インドネシア人の私が日本に残っていっしょうけんめい子育てをしました」
                                                            いっしょに来ていた宮内の妻のラフミがいった。単身赴任の経験がある2組の夫婦は昔を思い出して楽しそうに笑い、破綻した結婚生活の経験者である鷹石は寂しく笑って彼らのおつきあいをした。

                                                             

                                                            2018.09.14 Friday

                                                            『ペトルス――謎のガンマン』   第13回

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                                                              「グレゴール・クラウゼがバリの写真集を1920年代に出版すると、それを見たドイツ人の画家ヴァルター・シュピースをはじめとする西洋人がどっとバリにやって来るようになった。1924年にスラバヤとバリのシンガラジャの間に定期航路が開かれた。この時をもってバリが世界に紹介された、と西洋人は言う。バリ人にいわせれば、ひからびて疲れ切った西洋人がバリにやって来て、異質のみずみずしい文化に目覚め、蘇生した時代です。このころ、ヴァルター・シュピースら西洋人とバリの画家たちが「ピタ・マハ」(偉大な光)という芸術家協会をつくり、そこで西洋絵画の技法をバリの伝統絵画に組み込んだいまのようなバリ絵画の基礎が築かれたわけです」
                                                               ヤギひげをはやし、なかなかに眼力のある目でときに優しくときに鋭く相手を見すえるこの四〇男、イダ・バグス・チャンドラはもともと話し好きな性格なのだろう、彼のバリ絵画の歴史についての説明はなかなか終わりそうになかった。急ぐこともないだろう、とライ警視はチャンドラが話を続けるにまかせた。
                                                              「ヴァルター・シュピースにとってはバリの暮らしは、まさに、天国の暮らしだったでしょう。だが、天国もずっと天国のままでは続かない。ドイツ国籍のシュピースは、インドネシアを植民地にしていたオランダに嫌われ、ホモセクシュアルの容疑で逮捕された。そのあと第2次世界大戦が始まると敵国の市民ということで拘束され、1942年にスマトラからセイロンに移されるとき、乗っていた船が日本軍の魚雷攻撃で沈没してしまった。シュピースはそのとき死んだらしい。
                                                              「ざっとそういう話を、あれは1年以上も前のことだが、ウブッドの芸術家の集まりで話したことがありました。そのとき、参加者の中に瀬田沙代がいて、知り合ったのです」
                                                              「なかなかいい講演だったことでしょうね。私もいま拝聴して、目から鱗が落ちる思いです」
                                                              ライ警視は見え透いたお追従を口にした。見え透いていても、お追従を言われて気を悪くするやつは見たことがない。
                                                              「ところで、先ほど拝見した瀬田沙代をモデルにした、あの絵はいつごろから描き始めたものですか」
                                                              「3ヵ月ほど前からです」
                                                              「彼女をモデルにしたいきさつを聞かせてくれませんか」
                                                              「ある日、沙代さんがアトリエの前を通っていたので、お茶でも飲んで行かないかと声をかけた。アトリエで世間話をしていたら、ゴング・ケビャールの話になりましてね。あの耳をつんざくようなバリ独特のガムランであるゴング・ケビャールは20世紀に入ってシンガラジャの村で生まれた新しいガムランの演奏方法だが、あのケビャールとバリにやって来て新しい絵画運動に参加した西洋人とは、何か関係があるのではないかということを彼女は尋ねました。私は絵を描くだけで、ガムランのことはよく知りません。ただ、寺院や王宮で演奏されていた昔のゴング・グデもまた大音響でしたから、音の大きさは西洋人と関係ないのかも知れませんな、などとお茶を濁していたのです。
                                                              「すると、彼女が突然思いがけない提案をしてきました。『費用は惜しまないから、私の肖像画を描いてくれないか』と。絵からガムランの音が響いてくるようなポートレートを仕上げて欲しいという希望でした。サロンを着て、上半身は裸で、頭上にガボガンをのせるポーズは彼女自身の提案でした。沙代さんは何度かここに来て制作のためにポーズをとってくれました。ですが、あの野郎が……」
                                                              とイダ・バグス・チャンドラが憎々しげに言った。
                                                              「誰のことですかな」
                                                                 警視が身を乗り出した。
                                                              「沙代さんのガムランの師匠ですよ」
                                                              「イダ・プトゥ・グデ・ダルマワン?」
                                                              「ああ、沙代の絵を描くのをやめろと、あの野郎ここに来ておれに怒鳴ったんだ。彼女が希望して、自分で制作費を負担して、自分をモデルにして描いてくれと言った仕事だから、彼女の了解なしでやめるわけにはいかん。おれはあいつにそう言ったんだ。するとあいつ、沙代を裸にして描くことはないだろうとわめいた。バリの女はちょっと前まで上半身裸だったぜ。そう言ったら、あいつやにわにおれにつかみかかってきた。それでおれはあの男を突き飛ばしてやったんだ。あいつ床の上に尻餅をつきやがった。てめえ、沙代と寝たな。ダルマワンがそうわめいたんだ。いい歳をしてあいつ嫉妬してやがった。それで俺もあいつに言い返してやった。そうとも、沙代と寝たさ。よかったぜ」
                                                              「絵描きが女のモデルとできるというのは、西洋ではちょいちょい聞く話だが、バリのウブッドでもそうなんだね」
                                                              ライ警視が冷やかし気味に言った。
                                                              「よせやい、売り言葉に買い言葉、あいつをちょっとからかっただけのことだ」
                                                              イダ・バグス・チャンドラが怒ったような声で言い、それから何となく照れくさそうな顔を見せた。
                                                              「そういうことか。被害者の日本人の女は、自分の師匠である五〇男と情を通じる一方で、ウブッドの絵描きさんともいい仲になり、デンパサールにも男がいた、というわけだ。それで3人の男は日本の女に手玉にとられてお互いにいがみあっていた。瀬田沙代は殺されてしまったし、その亭主も親も日本に帰った。話が少々個人的なことに立ち入っても、私がしゃべらなければ、どこからも苦情はこない。嫉妬に狂ったガムラン師匠が女弟子を殺した、なんて筋書きもありうるわけだね」
                                                               警視が皮肉っぽく絵描きに言った。
                                                              「沙代は変った女だった。グデ・ダルマワンやスハルトノと寝たときの様子の一部始終をよく俺に話した。アトリエでサロンだけの姿になって絵のポーズをとりながらそういう話をおれに聞かせるんだ。何を考えているのかよくわからないところのある女だった。スハルトノやイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンにも同じようなことをしゃべって、相手を挑発しておもしろがっていたんだろうな」
                                                              「色情狂だったのだろうか」
                                                              「男だったらあの程度のことは誰だってやっているさ。女だからという理由でニンフォマニアのラベルをはるのは、いまの時代にあわないぜ、警視さん。われらがブン・カルノの愛の遍歴をご存じだろう! 最初が書生として仕えた師チョクロアミノトの娘のウタリ、次にバンドン工科大学生のころの下宿先の人妻インギット、流刑先のスマトラでメガワティの母親のファトマワティ、大統領となってからは5人の子持ちの人妻ハルティニ、日本から輸入した根本七保子ことデウィ、さらにハリヤティ、高校生だったユリケ。それ以外にも昼寝の友として大勢のベッドメイトを用意させた。強精剤や性欲増進剤のお世話になりながら、ブン・カルノはせっせと励んだわけだ。なぜかって? 人間みんな心のどこかにぽっかりとあいた空洞をかかえている。その空洞を埋めるためにせっせとセックスにはげむのだ」
                                                              「瀬田沙代の心の空洞は何が原因だったのだろうか?」
                                                              警視が言った。
                                                              「おれが描いたポートレートをじっと見つめているとそのうちわかってくる。ハッハッハ……冗談はさておき、おれやスハルトノと違って、グデ・ダルマワンは本気であの女に惚れていたのかもしれない。女に惚れると、あいつは昔から突っ走る悪い癖があった」
                                                              イダ・バグス・チャンドラがもったいぶったしゃべりかたをした。やっこさん、しゃべりたくてうずうずしてるな、と警視は感じた。
                                                              「ほう、前にも似たようなことがあったのかい」
                                                              警視が水を向けた。
                                                              「やつの惚れ癖の強さはやつの病気だ。警視さん、ご存じかな。もう何年も前の話だ。グデ・ダルマワンの日本人の女弟子が自殺したことがあった。それがもとであいつは女房と口論続きの毎日になり、とうとう夫婦別れになった。どっこい、ダルマワンのやつ、前の女房と別れたとたん、別の若い女をちゃっかり新しい女房にした。別れた妻というのがかわいそうな人でね。ゲスタプ(9.30事件)のあと、バリでもいろいろもめごとがあった。あのころ、20歳そこそこだったグデ・ダルマワンは、イ・ワヤン・スタマというウブッドではちょっと名の通ったガムランの師匠に弟子入りしていた。師匠は30半ば、グデ・ダルマワンは20前後、師匠の妻はニラといった。中ジャワのソロで生まれ育った30前の女だった。よくあることだが、ダルマワンの野郎、師匠の妻といい仲になりやがった。ゲスタプの時は、中ジャワや東ジャワと同じように、バリの町や村でもおびただしい流血があった。殺された人も多かったが、大勢の人が軍や警察に引っ張られた。その多くがそのまま行く方知れずになった。あれは1966年の初めだったかな。デンパサールの司令部からコプカムティブの兵隊がやって来て、ワヤン・スタマをひっぱって行った。師匠はそれっきり家には帰らなかった。4月ごろにデンパサールの司令部から、師匠は共産主義者で、ブル島の収容所に入れられていたが、最近病死したので島の墓地に埋葬したと連絡してきた。次の年イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンは念願の師匠の妻を手に入れて女房にした。悪知恵をめぐらして手に入れた女とそれから20年ほどして切れたわけだ」
                                                              「面白い話だね。少し詳しく話してもらえないだろうか。いま『悪知恵』をめぐらしていったけれど、どういう悪知恵だったのだ」
                                                              警視がつっこんだ。
                                                              「いまじゃ年寄以外に知る人は少なくなったが、当時はよく知られた話だった。おれはしょっぴかれたイ・ワヤン・スタマの遠縁にあたる。それで親戚のものから話を聞かされて覚えているんだ。ワヤン・スタマがしょっ引かれたのは、グデ・ダルマワンの野郎が、ワヤン・スタマが共産主義者だとあのコプカムティブに野郎がたれこんだからだ。あいつ、いまではコプカムティブにたれこんだというのはためにするいいがかりだ、と言っている。だが、コプカムティブからワヤン・スタマがブル島で死んだという知らせが来た1966年に、ワヤン・スタマの親戚があいつを取り囲んで責めたときは、『このままでは師匠がアンソルの手にかかって殺されてしまうと考えた。師匠は、自分は共産主義者ではないと言っていたので、このことをコプカムティブに告げて師匠を保護してもらおうと思った』と言い逃れを言っていた。師匠が死んだあと、できていた師匠の女房といっしょになったのだから、証拠は歴然たるものだ。師匠に対する弟子として恩義から、尊敬する師匠の死で呆然となっているその妻を守ってやろうとした。あいつは屁理屈を並べ立てた」
                                                               話すイダ・バグス・チャンドラの顔が興奮で紅潮してきた。
                                                              「デンパサールのコプカムティブで働き、いまはホテルの支配人になっている沙代の愛人スハルトノのところにグデ・ダルマワンがおしかけていった。沙代が殺された5月14日朝のことだ。ダルマワンの暗い過去をスハルトノが沙代に告げ口したと、ダルマワンが怒ったということだった」
                                                              バグス・チャンドラの口をなめらかにする潤滑油に、警視は捜査中の情報をまたちょっとだけ持ち出した。
                                                              「それに、ダルマワンは沙代から大金を借りていたらしい。沙代は金持だった。おれに肖像を描いてくれと頼んだとき、アメリカ・ドルで2000ぐらいまでなら出してもいいと言った。あのころはタイで始まったアジア金融危機がインドネシアに波及して、どんどんルピア安になっていたので、彼女がドル建てで提案したのだ。また、沙代は由緒あるガムランの楽器を買い集めてもいた。日本に持ち帰ってガムラン教室をつくるのだと言っていた。そのスタジオにおれが描いた沙代のポートレートをかけるつもりだったらしい。それはさておき、ダルマワンは沙代から借りた金を何に使ったのか。調べみると面白いことがわかるんじゃないか」
                                                                 バグス・チャンドラは得意満面の表情だった。
                                                              「あんたもダルマワンが過去に師匠を裏切ってその女房を奪ったと言う話を瀬田沙代にしたのか」
                                                              「おれが話すまでもなく沙代の方から言い出したよ。スハルトノから聞かされた話をね。沙代はここで肖像画のためのポーズをとりながら、スハルトノが言ったことをおれに話した。それでおれはことの詳細を彼女に話してやった。そのあと、ダルマワンが、沙代とおれができているだとか、スハルトノとできているだとか、嫉妬をめらめら燃え上がらせたとき、沙代は師匠を死なせてその妻を奪った男にそんなことがよく言えるもんだ、とダルマワンをからかった。沙代からそのことを聞いたよ」
                                                              「いつごろのことだ」
                                                              「5月のはじめごろだった」
                                                              「師弟の関係は破綻していたわけだ」
                                                              「おれだったらそんな弟子はすぐさまほうり出すんだが、沙代から大金を借りているうえ、沙代に未練があるダルマワンにはそれができなかった。人生がたそがれ始めた50男の愛には悲しいものがある。それを知っていて、沙代はダルマワンをこづき回して楽しんでいたふしがある」
                                                              「ところで念のために尋ねるのだけれど、5月14日の午前中、あんたはどこにいた?」
                                                              「沙代殺しのことでおれを疑っているのではないが、念のため、おれが事件とは無関係であることをこのさいはっきりさせておこうと、ご親切にもお尋ね下さっているんだね」
                                                              バグス・チャンドラが嫌みたっぷりな顔をライ警視に向けた。
                                                              「ああ、そういうことだ。察しがいいね」
                                                               警視は苦笑した。
                                                              「あの朝は一人でブサキ寺院に行っていた。このヒンドゥーの島の至高の寺院にね」
                                                              「オダランでもあって、画題のために見に行ったのか」
                                                              「そういうんじゃないんだ。神々の膝の上に座って考え事をしようと思っただけのことだ。ブサキ寺院があるグヌン・アグンは、神々の住まいたまう聖なるメール山の土のひとかたまりをバリに運んで出来あがった山だ。頂上に登るまでもなく、ブサキ寺院あたりからでも、バリを見下ろせば、その景観は絶品だよ。西の方角にはバリ第3の高山バトゥカルが見え、南の方角に目を向ければサヌールの海岸がかすんでいる」
                                                               ブサキ寺院はバリ島の東部にそびえる3000メートルを超えるバリの最高峰グヌン・アグンの標高1000メートルほどの斜面につくられた大規模な寺院コンプレックスである。シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーの三大神を祀っている。寺院の中核は18ある大寺院でこれらの寺院はインドネシアのヒンドゥー教徒の全国組織であるパリサダ・ヒンドゥー・ダルマ・プサットが管理している。そのほか地縁血縁で結ばれた共同体のための寺院が並んでいる。
                                                               1963年のグヌン・アグン大噴火のときは、あわや寺院が山の斜面を流れ落ちてくる溶岩にのみこまれるかという危機に見舞われた。だが、ブサキ寺院は奇跡的に難を免れた。溶岩が寺院を避けるようにして流れたのだ。このことでブサキの神聖さがバリの人々の間で一段と高まった。
                                                              「そうか。ブサキでだれか知り合いに会わなかったか」
                                                              警視がたずねた。
                                                              「いや、知り合いには会わなかった」
                                                              「ブサキでなにか記憶に残るような出来事はなかったかね」
                                                              「寺院の入り口で、寺院にたむろしているガイドともめている外国人の家族がいた。ブサキ寺院には寺院公認のガイドの付き添いなしでは観光客は入れないことになっている。ところが、ガイドの中には非公認のものもいるし、法外なガイド料を要求するやつもいる。その外国人はジャカルタからバリに避難してきていた家族づれのドイツ人で、退屈なので、ブサキを見に来たそうだ。ドイツ人の夫婦は、頼みもしないのにこの男が勝手についてきて、何を言っているのかよくわからないことをしゃべり、ここまで帰ってきたらガイド料を払えと要求する。私はガイドをしてくれと頼んだ覚えはない。ブサキで毎日繰り返される外国人観光客と、観光客から金を巻き上げようとする自称ガイドのもめ事だ。間に入ってもめ事を解決してやったが、そのドイツ人の家族はもうジャカルタに帰っているだろうし、ガイドの顔もおれは覚えていない」
                                                              「ここを出たのは何時ごろだった?」
                                                              「朝8時ごろだったと思う」
                                                              「帰ってきたのは」
                                                              「午後1時すぎだ。というわけで、いまのところおれのアリバイは成立していない。容疑者の資格ありだな」
                                                              「瀬田沙代からあの肖像画の制作費は払ってもらったのか」
                                                              「完成してからでいいといって、まだ1セントももらっていなかった」
                                                              「瀬田沙代の銀行口座を調べたが、ドル預金や円預金からそれだけの金を一度に引き出した記録は残っていなかった。だから、あんたが金をもらう前に瀬田沙代を殺すわけはない、というのも理屈だ」
                                                              「警視、あんたは警官にしては言うことが論理的だね」
                                                              バグス・チャンドラがにやりと笑って、警視を冷やかした。

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