2019.11.22 Friday

『だまし絵のオダリスク』   第29回

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     マルマラ海に浮かぶビュユック島のアフメト・エルキンの別荘に一泊して、槙村は6月1日の日曜日の朝の船で島を発った。正午ごろ槙村はエミノニュの埠頭で船をおり、そこでムス・スルタンと別れた。槙村はぶらぶらとシルケジ駅の方へ歩いていった。
     シルケジ駅と道路を挟んで向かい側にある菓子屋兼喫茶店に入って、トルコ紅茶とペーストリーを頼んだ。槙村はペーストリーをちぎって口に入れ、砂糖ぬきのトルコ紅茶を飲んだ。トルコのパンは素朴なおいしさがあり、お菓子の方も甘さの極致といった味わいだが、この店のペーストリーはひたすら甘いだけで、ざらついた舌ざわりだった。槙村はそれとなく周囲をうかがった。店のなかにも店の外の道路にも、槙村を尾行しているような人影はなかった。われながらスパイ入門の初級コースの演習をやっているようなくすぐったい気分だった。
     槙村は喫茶店を出て、シルケジ駅前で客待ちしていたタクシーに乗ってパーク・ホテルに帰った。フロントで「領事館まで電話願いたい。マクシミリアン・ベルゲン」という伝言メモを渡された。ベルゲンは土曜日の夕刻と日曜日の朝の二度電話かけてきていた。槙村は部屋に入って荷物をおき、ドイツ領事館のベルゲンに電話をかけた。
    「日曜日におよびたてして申し訳ないが、お見せしたいものがある。そうだな、午後3時、領事館にわたしを訪ねていただけないだろうか」
     ベルゲンが言った。
    「いいとも。ホテルのすぐ隣だ。では、3時に」
     槙村が答えた。
     午後3時、ドイツ領事館の玄関まで迎えに出てきたベルゲンに案内されて、領事館の廊下に入ったとき、初老の小柄な男がオフィスに入ろうとしていた。彼はドアを開け、部屋に入る前にベルゲンと槙村の方を振り返った。槙村はその男がかすかに微笑んだような気がした。
    「ベルゲンが槙村を2階のオフィスに案内した。オフィスの大型作業デスクに書類がいくつかおかれていた。二人の男が立ちあがってベルゲンと槙村を迎え入れた。
    「さっそくですが、これまでに集めた情報から、アルメニア系の反トルコ組織が田川さんの殺害に関わったと思われます」
     二人の男のうち年かさの方がベルゲンよりも槙村にむかって報告した。
    「われわれがアルメニア人組織の中に潜らせているエージェントからそのような報告が寄せられています。イスタンブール警察も同じような結論に達していると予想されますが、なにしろアルメニア問題はここでは爆弾のようなものですから、トルコ政府はその情報をいまのところ伏せているようです」
     トルコは19世紀末から20世紀はじめにかけて、当時のオスマン帝国内に暮らしていたアルメニア人を二度にわたって迫害している。1890年代にロシアの支援を受けて民族主義運動を開始し、反トルコ色を鮮明にしたアルメニア人を、アブドゥル・ハミト二世が迫害した。第一次世界大戦中には、青年トルコ党政権がアナトリアからアルメニア人を追放しょた。このときの混乱で数百万人のアルメニア人が命を失ったとされている。第一次大戦が終結すると、アルメニア民族主義者がアルメニア人の国家の建設をもくろんだ。この運動はトルコの領土を守ろうとするケマル・アタテュルクのトルコ革命軍と、アルメニアを社会主義化しようと目論むロシア赤軍によって打ち砕かれた。
    「田川とアルメニア人との間にどのような遺恨があったというのですか」
     槙村が説明してくれた男に聞き返した。
    「いや遺恨ではなくて、アルメニア人の組織は依頼を受けて殺人を請け負ったのではないかとわれわれは考えています。トルコと日本・ドイツ・イギリス・ソ連のあいだに相互不信を起こさせ、トルコの立場を揺さぶるのが目的でしょう。アルメニア人の組織の犯行とトルコ政府が発表すれば、そのときは適当な理由をでっち上げて、トルコによる過去のアルメニア人大量殺害事件の記憶を世界に呼び戻させるだけのことだ、と彼らは考えたのです」
    「われわれにわからないのは、なぜ田川さんが標的になったか、という点です。田川さんは、何ゆえにそれほどの重要人物だったのでしょうか? 槙村さん、ご存知なら教えてください。報告書は持ち出し禁止ですので、この部屋でお読みください。メモも取らないでください。コーヒーでもさしあげましょう。では」
     ベルゲンはそう言って槙村と握手し、年かさの方の男とともに部屋を出て行った。部屋には槙村と若い方の男の二人だけになった。トルコ人の職員がコーヒーポットとカップをもって部屋に入ってきた。槙村はたっぷり2時間かけて報告書を熟読した。
     午後6時過ぎパーク・ホテルにもどると、フロント係りがこぼれるような笑みを浮かべて槙村にルームキーを差し出し、メッセージをお預かりしていますといった。伝言用紙には「このホテルに泊まっています。モニカ」と書かれていた。筆跡はモニカのものだった。
     槙村の目にパーク・ホテルのロビーが急に明るく輝いて見えた。槙村は階段を二段とびでかけあがり、自室に急いだ。槙村が自室のドアを開けたとき、部屋の中がさきほど出て行ったときと違うことに気がついた。思わず一歩部屋の中に入った瞬間、後頭部に激しい衝撃を感じ、槙村は目の前が暗くなるのを感じた。
     

     

    2019.11.10 Sunday

    『だまし絵のオダリスク』    第28回

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      「ムス・スルタンから聞いたのですが、槙村さんは最近、ギリシャではなく、イタリアへお出かけになって、イギリス軍のターラント奇襲攻撃の現場を視察なさったとか」
      アサノヴィッチが言った。
      「ええ、あれは私のような海軍軍人にとっては非常に興味をそそられる作戦です。これまでの大艦巨砲主義の戦艦同士の一騎打ちから、空と海の戦いに転換した画期的な出来事でした。戦争における航空機の優位性については、アメリカ陸軍のウィリアム・ミッチェル将軍が盛んに唱導してきたもので、日本でも主として駐米武官を経験した軍人たちの中に、このミッチェルの兵学に共鳴する者がいる。それはたしかです。ただいえることは、航空戦力第一主義の兵学思想は日本ではまだ少数派で、態勢作りにしてもまだ研究段階といえるでしょう。それに、航空機による戦術を研究しているのは日本だけではありませんよ」
      槙村が答えた。するとアサノヴィッチがたたみかけてきた。
      「リスボンのイギリス諜報部の幹部が、日本はシンガポール奇襲攻撃の準備をしているのではないかと気をもんでいるという話を耳にしました。彼らが言うには、日本はイタリアやドイツにターラントに関する資料収集のための協力を求めた。どうやら水深の浅いターラント軍港での航空機からの魚雷攻撃のやり方を熱心に研究しているようだ。その調査のために、日本が武官をターラントに派遣した」
      「ははは、それは貴重な情報をありがとうございます。ベルリンに帰ったらさっそくシンガポール奇襲攻撃作戦を検討するよう東京に提案してみましょう。しかし、そもそもシンガポール港に奇襲に値するほどのイギリス艦艇が集結しているのでしょうかね。そのあたりはよく調べてみるだけの値打ちがあると思いますよ。ところで、皆さんはこうした軍事情報の専門家でいらっしゃるのですか」
      槙村が尋ねた。
      「わたしとアフメト・エルキンは貿易商です。マルコ・アサノヴィッチも似たような商売をリスボンでやっています。このたびは輸入商品の選別のためにイスタンブールに来ました。トルコの絨毯を仕入れるのか、あるいは別の商品に目をつけているのか、よくわかりませんが。いずれにせよ、われわれ貿易商人は時の政治動向と無縁ではいられないわけでして。武器商人などはその典型でしょう。つまり、情報というのは諜報員にとってはそれが商品そのものですが、われわれ貿易商人にとっては、それは必ずしも商品ではありませんが、取り扱う商品が利益を生み出すか損失を招くか判断するために不可欠な判断材料でありまして……。それやこれやで、まるでスパイのように国際機密情報について過敏に反応するのですよ」
      ムス・スルタンが落ち着いた低い声で槙村に説明した。それを受けてアフメト・エルキンが口を開いた。
      「いまの時代、外交官だけではなく、鉄道員、船員、貿易商、技術者、新聞記者、亡命者、難民など国境を跨いで移動する人々が、いろんな国の情報機関に目をつけられ、エージェントに仕立てあげられています。哀れな下請け諜報労働者ですよ。われわれが貿易でもうけるために仕入れた情報の中には、情報そのものに値段がつくものがたまにあります。そうした情報を買いたいという組織があれば、われわれは市場原理にもとづいて、偏見なしにいい値段をつけた方に売り渡しています。また、実際の作戦のお手伝いをすることもあります」
      「そうだね。1939年のポーランドの金塊輸送はいい商売になった。槙村中佐、ご存知ですかな。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したのは9月1日でのことで、これが今度の大戦の始まりですが、ドイツがポーランドに侵攻してくる直前に、ポーランドの中央銀行にあった75トンの金塊が銀行のスタッフによって持ち出されました」
      ムス・スルタンが懐かしい思い出を語るような口調で話し始めた。それを受けて、アフメト・エルキンが続きを話し始めた。
      「ポーランド銀行の人たちは、金塊を列車に積み、バスに乗せ、トラックに積みかえて、ルーマニアの黒海に面した港町コンスタンツァへ向かった。ドイツがポーランドに攻めこんだ9月1日、黒海のバクー油田に向かっていたイギリスのタンカー『イーオシーン』に急遽コンスタンツァに入港するよう連絡が入った。港にはイギリスの領事が待っていて、バクーの石油の代わりに、間もなくここに到着することになっているポーランドの75トンの金塊を運びだしてくれとイーオシーン号の船長に頼んだ。船長は気風のいいイギリスの船乗りで、なんて名だったかな」
      アフメト・エルキンがムス・スルタンに言った。
      「ロバート・ブレット。ポーランド中央銀行の人たちは、中央銀行から金塊が輸送されたことを知ったドイツ軍の追跡をなんとか振り切って、9月15日に金塊をコンスタンツァまで運びこんできた。ブレット船長は金塊を積みこむや、船を反転させて黒海をボスポラス海峡へ向かい、海峡を抜けてイスタンブール沖まで無事に金塊を運び出した。イギリスとフランスがトルコと協議したすえ、金塊を陸路でイスタンブールからベイルートまで運び、そこからフランスの軍艦でフランス経由ロンドンに運んだ」
      ムス・スルタンはそういって、ブランデーのグラスを目の高さにあげ、槙村を見て微笑んだ。
      「ロンドンに着いた金塊は、ポーランド亡命政府の資金になりました。金塊をイスタンブールから貨物船でイギリスに輸送する手もあったが、地中海でUボートに攻撃され金塊が海底の黄金になるおそれがあった。それで金塊を列車で陸路シリア経由ベイルートまで送る準備のお手伝いを頼まれたのですが、その報酬は思いのほかよいものでした」
      アフメト・エルキンが話を締めくくった。
      「ところが、最近では、そうした爽快な秘密工作が少なくなり、伝統的なスパイ芸術とは無縁の色仕掛け、脅迫、盗み、といった即物的な手法で目的を達成しようとする傾向が強まっています。彼らの副業も味気なくなってきているのですよ」
      アサノヴィッチが揶揄するような口ぶりで言った。
      「そういうことであれば、冒険ではありませんが、結構な商売のタネをお教えしましょう。ターラントでのイタリア側の失敗は、十分な魚雷防御網をもっていなかったことです。ターラントでは1万3千メートルほどの魚雷防御網が必要だったが、イタリアはその三分の一の4千メートルほどしか設置していなかった。加えてこの魚雷防御網は古いタイプのもので、魚雷が戦艦の側面にあたって作動し爆発する接触型の信管を使ったものには有効だったが、イギリスが開発した戦艦の下で爆発する磁気型信管を使った魚雷には役立たなかった。新型魚雷に対抗できる魚雷防御網をつくれば、これはいい商売になると思います。ご参考までに」
      槙村は3人の諜報業者を揶揄し、彼らの表情をのぞきこむような目つきで言葉をつないだ。
      「ところで、先ほどリスボンのイギリス情報部の幹部が、日本が武官をターラントに派遣したと言っているのを耳にした、とおっしゃいましたが、わたしがターラントへ出向くことがリスボンのイギリス情報部まで伝わっていたことには驚かされました。わたしをターラントで見かけたとおっしゃるムス・スルタンさんがイギリスに連絡なさったのでしょうか」
       三人の男が一瞬息を呑んだ。
      「いやいや、これはわたしの話に説明不足なところがあったようです。イギリスのターラント攻撃は去年11月のことで、私がリスボンで日本が武官を派遣したという話を聞いたのは今年1月上旬でした。したがって、ムス・スルタンがターラントで槙村中佐を見かける以前のことです。イタリアの日本大使館付武官のことではないでしょうか。それにイギリスはことのほか諜報戦を好む国です。ターラントにもエージェントをおいているでしょうし、空中に飛び書く無線通信もアメリカと協力しあって傍受・解読して、盛んに各国の動向をさぐっています」
      アサノヴィッチがごく自然な声で言った。
      「情報戦の最前線にいる奴らは命がけで情報を集めているのだが、集められた情報がどのように利用されているかという点では、愚劣なところなきにしも非ず、でしてね。ヒトラーは情報を検討して戦略を決めるのではなくて、自分の頭にある戦略を支持してくれるような都合のいい情報を優先して受け入れている、とアプヴェールの面々は嘆いているそうです」
       アフメト・アルキンが話を受けた。
      「ヒトラーだけではないさ。日本がソ連極東部への攻撃をすぐさま実行することはないだろう、という情報は、各国の情報部からスターリンに届いているはずだ。また、ドイツがいずれソ連攻撃に踏み切るだろうという警告も、自国の情報機関や英米の情報機関からも受けている。しかし、英米の情報機関はスターリンが情報機関のいうことに耳を貸そうとしないと嘆いている。チャーチルがスターリンに親書を送って、ドイツのソ連攻撃が近いと警告したけれど、スターリンはソ連を対ドイツ戦争に引き込もうとするイギリスの陰謀だと言って無視した。そういう情報があることも聞いている。日本の暗号が解読されている可能性についてはどうなんでしょうね、植村中佐?」
      ムス・スルタンが切り込んできた。
      「大方の暗号は解読されている。第一次世界大戦中のツィンマーマン電報がいい例だ。ドイツの外交通信の暗号がイギリス側に傍受され解読されてしまった事件。この業界でメシを食っている人ならみんな知っている」
       植村が退屈を装って反応した。
      「ああ、メキシコがドイツ側について参戦してくれれば、アメリカ合衆国がそのむかしメキシコから奪ったテキサス、ニューメキシコ、アリゾナの三州をアメリカから奪還してメキシコに与えるという条件で、メキシコに働きかけよという内容の、ドイツ本国からアメリカ大使経由メキシコ大使あての暗号電報でした。「イギリスが解読した暗号電報はアメリカに渡された。アメリカ合衆国政府がこのツィンマーマン電報を公表しので、もともとドイツ潜水艦による船舶無制限撃沈宣言などで高まっていたアメリカ国民の反ドイツ感情がさらにあおり立てられることになった。この暗号解読が、アメリカが連合国側について参戦する要素の一つになった、と本に書かれている」
      ムス・スルタンが調子を合わせた。
      「おっしゃる通りです、ムス・スルタン。ツィンマーマン電報以来、外交電報の傍受と暗号解読はお互い様だ、というのが常識になった。わたし自身は日本の外交電報がアメリカの手によって解読されている可能性は相当高いのではないかと思っている。アメリカによる日本の暗号解読には前例がありましてね。一九二一年から二二年にかけてのワシントン軍縮会議のさい、アメリカは日本の軍縮会議全権代表団と東京の日本政府の間の暗号電報のやりとりを解読していた。つまり、アメリカ側は日本の持ち札を知ったうえで、軍縮会議のテーブルでかけひきをするという有利な立場にあったわけだ。このとき暗号電報を解読したのは、俗にブラック・チェインバーとよばれていたアメリカ陸軍の暗号解読班だった。一〇年後の一九三一年になって、そのときの班長だったハーバート・ヤードレーが、出版した本の中でそのことを暴露した。ところが、ワシントンの日本大使館はどこかで外交電報の内容が外部に漏れた疑いはあるが、どこで、どんな電報が漏れたのかははっきりしない、と結論を出した。彼らは日本の暗号が破られるわけはないと自信満々らしい。情報の機密保持態勢を強化するにとどめただけだ。ツィンマーマン電報事件のときも、ドイツ政府は同じような結論を出した。政府は調査委員会を設けて、電報漏洩の原因を調査させた。調査のすえ、暗号は解読されたのではなく、誰かの手によってアメリカ政府に渡ったのだ、と結論した。日本がいま使っている暗号は解読が難しいものであるのは事実だ。日本政府はそれの暗号は解読不能と自負している。その自負と誇りを維持するために、暗号が解読されているという可能性を探るよりも、情報を持ち出したやつがいるとか、盗み出されたという人的理由をさがす方に、つい力が入ったのだろう」
       植村は長広舌をつかったあと、余計なことを言わなかっただろうかと、言説を反芻し、ムス・スルタンら3 人の表情をさぐった。
       ルマラ海に夜風が出たのだろうか。窓の外の松の枝がざわめく音がした。松籟というには音が少したちすぎた感じだった。そろそろトロツキーの幽霊が出てもいい時刻になっていた。

      2019.11.02 Saturday

      『だまし絵のオダリスク』    第27回

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         二階を見に行きましょうかとアフメト・エルキンがみんなを誘った。
         二階の窓から初夏の太陽に輝く青いマルマラ海がみえた。その向こうにイスタンブールのアジア側がみえた。その距離は驚くほど近く感じられた。槙村はこのとき初めて別荘が海岸近くの小さな丘の上に建っていることを知った。
        「レオン・トロツキーがスターリンによって追放され、イスタンブールで亡命生活を始めたのは1929年のことでした。イスタンブールは西欧への通過点にすぎない。トロツキーはそう考えていたのですが、亡命生活は結局4年半ほどに長びきました。トロツキーが亡命したかった西欧の国々、ドイツ、フランス、イギリスなどがトロツキーの亡命を受け入れなかったためです。トロツキーはビザンティン時代の王侯貴族と同じようにプリンキポ島に閉じ込められたわけです。ここでは釣りをするぐらいしか暇つぶしがなかったので、トロツキーは著作に専念することができた。名著『ロシア革命史』はカフェスのたまものです」
        ムス・スルタンが説明した。
        「そうだったのですか。ところで、カフェスとは?」
        槙村が尋ねた。
        「鳥などを入れておくような、いわゆる『カゴ』の類をトルコ語でカフェスといいます。ですが、オスマン・トルコの歴史では、カフェスは独特の意味を持つ言葉です。それはスルタンの親族を軟禁する陰惨な制度のことでした。槙村中佐、スルタンの兄弟殺しの制度についてはもうお聞きになりましたか?」
        「ええ、今回のイスタンブール訪問で初めて聞きました」
        「兄弟殺しをやりすぎたせいで、やがてスルタンの後継候補の男子が減ってしまった。スルタンの血筋が消えてしまうおそれが生じたので、17世紀ごろからオスマン朝はスルタンの兄弟を殺す代わりに、トプカプの奥まったところに隔離用の宮殿を建て、そこにスルタンの兄弟たちを軟禁しておく制度に切り替えました。その隔離宮殿から出る機会は二つしかなかった。一つは運よく次ぎのスルタンになる場合。いまひとつは、死。その隔離宮殿を人々はカフェスとよんだのです。オスマン・トルコ最後のスルタンだったメフメト6世は56歳でスルタンになるまでカフェスで暮らした。権力というものはまことに人間に残酷な仕打ちをするものです」
        アフメト・エルキンが槙村に説明した。
         トルコ情勢に絡めて微妙な話が持ち出されたのは夕食後だった。四人の男たちは広間でそれぞれ安楽椅子やソファーに座って、ブランデーを飲み、葉巻を吹かしていた。
        「槙村中佐、次にお見えのときは水煙草を用意しておきましょう。とはいうものの、はて、この次があるのかどうか。トルコ共和国は欧州の戦争に中立を保つ必死の努力をしていますが、こういうご時勢ですからいつ何時トルコが戦場になるかもしれない」
        アフメト・エルキンが口を開いた。
        「私に言わせれば、風前の灯だね」
        リスボンからやってきたエルキンの友人だというマルコ・アサノヴィッチが、エルキンに呼応した。
        「いまやヨーロッパでヒトラーの攻撃をまぬがれているのはスペイン、ポルトガル、スイス、スウェーデン、それにここトルコの五ヵ国だけになってしまった。イギリスはドイツから激しい空襲をうけながらも必死に頑張っているが、フランスはすでに占領されてしまった。地中海の南側ではモロッコとアルジェリアがフランスのヴィシー政府の統治下にある。ヴィシー政府そのものがヒトラーの傀儡だ。ドイツのアフリカ軍団はこの二月にリビアに上陸してイギリス軍が占拠しているエジプトへ向かっている。トルコが何とか中立政策を遂行できているのも、黒海の北にソ連があり、イギリスがイラン、パレスティナ、シリア南部を支配下においているという地政学上のバランスがあるからだ。しぶとく耐えながら徹底抗戦を続けるイギリスをこのところヒトラーは攻めあぐんでいる。ヒトラーの気持がふと変わって、その矛先をソ連に向けないとも限らない。ヒトラーがソ連に攻めこめば、トルコの中立政策を支えている条件の一つが変わってくる」
        「しかし、ヒトラーに対英、対ソの二正面で戦争をおこなえるだけの軍事能力があるかどうか」
        ムス・スルタンがアサノヴィッチの独ソ開戦の予想に疑問を呈した。
        「ヒトラーがソ連に攻めこむかどうかは、日本とにらみあっているソ連極東の情勢にもよるね。日本は満州国の権益を守り、中国との戦争を遂行するために、ソ連を攻撃する気があるのかどうか。ヒトラーはソ連攻撃を始めるよう日本に催促しているそうじゃないか。ということは、ドイツは近々ソ連攻撃を始める気があるのだろう。独ソ戦が始まれば極東からヨーロッパへの陸の通路になっているシベリア鉄道の利用が難しくなってくる。日本の方々は不便をかこつことになるのでは。さて、ドイツがソ連攻撃をいつ始めるか。それを日本に連絡していることは想像に難くない。奇妙なことだが、スターリンは日本のソ連極東地区への侵攻は想定しているが、一方で、ドイツからの攻撃については、真剣に吟味してないようだ。この点について、ぜひ槙村中佐のご意見を伺いたいものですな」
        そう言ってアフメト・エルキンが槙村の顔をじっとみつめた。
         槙村は必死で驚きを抑えようとした。シベリア鉄道が間もなく利用できなるというのは、大島大使が東京に送ったドイツのソ連攻撃に関する一連の暗号電報で使われた予言だったからだ。偶然の一致なのだろうか。
        「みなさんなかなかに鋭い洞察力をお持ちのようですな。政治の動向に敏感でないとヨーロッパでは商売もできないということでしょうか。それはさておき、日本の出方について、ソ連に対抗するためにまず北に向かって軍を進めるのではないかという観測があります。同時に、南のフランス領インドシナ、あるいは鉱物資源の豊かな英領マレー、オランダ領東インドを狙っているのではないかという見方もあります。このところ流布している北進論と南進論です。ですが、不思議なことに適当な妥協点が見つかれば日本は北へも南へも攻撃をしないだろうという説は、欧州ではあまり流布していないようです。ミュンヘン協定の破綻で、宥和政策に見切りをつけたためでしょうか」
        槙村が答えた。
        「それで日本は南北両方で戦線を開くだけの能力があるのでしょうか。あるいは、日本の軍中枢は、自分たちにその能力があると判断しているのでしょうか」
        エルキンがたずねた。
        「その点についは、私などよりもあなた方のほうが詳しいのではありませんか。どうやらその方面にからんだご商売をなさっているとお見受けしました。ベルリンの日本大使館に着任して以来、戦略の現場から離れていますので、感覚が鈍っています。おそらくあなた方が考えていらっしゃるように、日本は北と南で同時に戦線を開く能力をもちあわせていないでしょう。それに、現在は中国の問題をめぐって日米間で野村大使とハル国務長官の協議が始まったばかりですから、その成り行き次第では、北にも南にも攻撃をかけないという展開もありうるでしょう。それに第一、この四月に日ソ中立条約を結んだばかりですよ」
        槙村が言った。
        「そつのないお答えですな、槙村中佐。中佐と同じように、世間もそういう見方をしています。日本は日ソ中立条約に関係なくドイツの期待通りソ連の極東地区へ攻めこむ。あるいは、日ソ中立条約で北からの脅威が減少したので、フランス領インドシナ、オランダ領インドネシア、英領マレーに侵攻して、戦争遂行に必要な食糧、鉱物資源を抑えようとする。そうでなければ、当面、戦線は開かないものの南北両にらみの態勢で、日米交渉の成り行きを見守りながら戦争準備を整える。考えられる選択肢はその三つですが、そのうちどれの道をたどることになるか……」
        アサノヴィッチが槙村の顔を見つめながら言った。
        「その点については、ギリシャのデルフォイへ出向いてご神託をいただくしかないでしょうね」
        槙村の一言でみんな笑い出した。

        2019.10.27 Sunday

        『だまし絵のオダリスク』     第26回

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           トロツキーはイスタンブール沖の島に住んでいたのか、と槙村は思った。トロツキーがソ連を追われてからメキシコに移るまでの一時期、イスタンブールに住んだことは槙村も知っていていたが、マルマラ海の島だったとは知らなかった。しかし、かつて流刑地だった島であるからには、トロツキーを幽閉すると同時に、トロツキーの警備という面でも便利であったに違いない。
           トロツキーといい、ブルーノ・タウトといい、スタイナウアーといい、イスタンブールに逃れてきた外国人はどんな気持で暮らしたのだろうか、と槙村は彼らの私生活や感情生活に思いをはせた。
           槙村自身が海軍内部の勢力争いに巻き込まれて東京にいづらくなり、槙村の才能を惜しむ上層部の配慮でベルリンの日本大使館海軍武官補佐官として、ていよく東京から追い払われた。その苦い記憶が襲ってきた。
           槙村の妻は海軍中将の娘だったが、槙村と結婚して間もなくのころから、独身の時代からの知り合いだった陸軍将校と情事をかさねるようになった。槙村はそのことを知っていたが、知らない風をよそおって世間体を保っていた。もちろん槙村の方も妻以外の何人かの女性とねんごろになっていたのだが。
           1939年の暮れのことだった。ふとしたはずみで槙村は妻の浮気相手の陸軍将校と夜の銀座で殴り合いの大喧嘩をしてしまった。
           喧嘩両成敗で両者とも昇級停止などの処分を受けた。軍令部で切れ者として一目おかれていた槙村だったが、軍令部の上層部には槙村を生意気だと嫌っているグループがあった。彼らは槙村を軍令部からはずして連合艦隊の船上勤務に更迭しようとした。それを察知した槙村を評価しているグループの幹部が、ドイツの潜水艦戦略の研究でもして来いと、槙村をベルリン勤務に避難させた。ベルリンに赴任する前に槙村は妻からの求めで離婚した。妻は1940年の暮れに不倫の相手だった陸軍将校と再婚した。元妻の父親から槙村宛に詫び状のようなものが届いた。「私が君にほれていたほど娘は君にほれていなかったようだ。親ばかと思って許してほしい」とその手紙にあった。
           元妻の父親はいわゆる海軍の大角人事によって1930年代の中ごろ予備役にまわされた。大角人事とは海軍の反軍縮強硬派の大角岑生大将が海軍大臣をつとめていた1933年から1934年にかけておこなった海軍内の穏健派を一掃する人事である。
           海軍では1920年代初頭のワシントン会議から20年代後半のジュネーブ会議を経て1930年のロンドン会議にいたる一連の海軍軍縮会議の決定を支持する条約派と、軍縮に猛反対する艦隊派の対立が続いてきた。大角人事によって海軍の穏健派である条約派のおもだったメンバーは海軍から一掃された。条約派の若手論客だった槙村は上層部の後ろ盾を失った。
           大角海軍大臣の時代に日本は第二次ロンドン会議から脱退した。その大角は1941年2月、視察旅行先の中国で搭乗した飛行機が墜落して死んだ。
           気が付くと注文したままテーブルの上に置かれたビールがぬるくなっていた。意気消沈させる過去の記憶を槙村はその生ぬるいビールとともにのみこんだ。ボスポラス海峡に薄暮が広がっていた。対岸のアジア側の灯りや、航行する船の灯りがはっきりしてきた。

           5月31日土曜日の朝、若い女性が槙村を迎えに来た。
           トロツキーの亡命中の住宅だった別荘のあるビュユック島まで、エミノニュの港から2時間あまりの船旅だった。マルマラ海は晴天で微風、霧もなく視界が十分に確保されて、格好の航海日和だった。
           ムス・スルタンの友人の別荘は島の町のはずれにあった。二階建ての建物は高い生垣に囲まれ、庭には雑木が生い茂っていた。長年海風に吹かれたせいだろうか、建物の壁面のあちこちに汚れと傷みが目立った。
           槙村がムス・スルタンと玄関に立つと同時に、中から痩せた背の高い六〇がらみの男が現れた。
          「レオン・トロツキーの隠れ家にようこそ。アフメト・エルキンです」
          背の高い男が槙村に手を差し出した。
          「槙村忠です」
          槙村も名乗ってその手を握り返し、招待の礼を言った。
           案内された一階部分の中央に大きな広間があった。こぢんまりとした舞踏会ならできそうな広さがあった。広間のソファーに小柄な四〇代と思える男が座っていた。男は立ち上がって槙村たちの方へ歩いてきた。
          「マルコ・アサノヴィッチです」
           テーブルの上にワインの瓶とワイングラスが無造作においてあった。アフメト・エルキンがグラスにワインを注いだ。
          「どうぞ。間もなくオードブルもでてくるでしょうから」
          アフメト・エルキンが話し続けた。
          「トロツキーがこの家を借りたとき、家は無住のままで、大家も長らく手入れをおこたっていたので、壁も床も汚れ放題だったそうです。トロツキーとその家族にしても、この家は仮住まいという意識だったのでしょう、大した修理もせず住み続けました。トロツキーは二階を書斎に使い、そこで大量の論文を執筆しました。一階のこの広間を中心に、トロツキーの秘書らが事務所を構えていたそうです。ジャーナリストなど世界中から来客があったそうですが、来客の感想は、もっと住んで楽しい家にする方法があろうものを、というものだったそうです。革命家の住まいらしい乱雑さだったようです。彼らは未来を夢見るあまり、つい現在を粗略に扱ってしまうのでしょうな。革命家にとっては、現在は未来への通過点にすぎない、ということでしょうか。トロツキーがここを去った後、私が所有者からこの家を買い取りました。私もトロツキーと同じで、家を美しく飾るデリカシーが欠如しています。居心地の悪さはおゆるしください」
           

          2019.10.19 Saturday

          『だまし絵のオダリスク』    第25回

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             槙村はアンカラでドイツ大使館のベルゲンと会ったときの記憶を反芻していた。イスタンブールのドイツ人社会はヒトラー支持派と反ヒトラー派に真っ二つに割れていると、ベルゲンは槙村に語った。
             反ヒトラー派の核になっているのが、ヒトラーの迫害から逃れてきたユダヤ系ドイツ人のグループだった。少なくともイスタンブール大学だけで百人を超える亡命ドイツ人学者が雇われている、とベルゲンは槙村に説明した。トルコ共和国の指導者ケマル・アタテュルクは、新しくスタートした国家からイスラム的なものを排除し、徹底した世俗政治の道を選ぶと同時に、大学近代化のため積極的に優秀な外国の学者を集めた。そうした伝統もあって、ヒトラーから迫害を受けているドイツのユダヤ系の学者がイスタンブール大学に集まることになった。トルコ政府は1921年のノーベル物理学賞受賞者アルベルト・アインシュタインにも誘いをかけた。しかしアインシュタインはアメリカに渡ってプリンストン大学に職を得た。
             これは槙村にはよく理解できた。明治維新後の日本も近代国家形成と高等教育近代化のために多くのお雇い外国人を雇ったからである。
             槙村は小さめのグラスのトルコ紅茶を飲み終えた。給仕に紅茶のお代わりを頼んだ。槙村はトルコ紅茶がすっかり気に入ってきた。
             そういえば、と槙村はナチ政権を嫌って日本にやってきたドイツ人ブルーノ・タウトのことを思い出した。タウトが日本滞在の経験にもとづいて書いた『ヨーロッパ人の眼で見たニッポンの芸術』といったような表題の本を、槙村はちらっと眺めたことがあった。
             ブルーノ・タウトはロシア革命に憧憬を感じて1932年から33年にかけてソ連で仕事をしたが、ソ連の建築家たちと意見があわずドイツにもどった。しかし、ドイツでは1933年にナチスが政権を掌握しており、ブルーノ・タウトは親ソ派のレッテルをはられてドイツに住みづらくなり、日本にやってきた。日本に3年ほど滞在したのち、トルコ政府に招かれてイスタンブール芸術アカデミー教授に就任した。1938年にイスタンブールで死んでいる。
             イスタンブール大学のユダヤ系ドイツ人学者の中には、反ナチ組織をつくって、ドイツ国内の反ナチス・グループとイギリスなどの諜報機関の橋渡し役の活動をし、また、ユダヤ人難民のパレスティナ移住を支援している者がいる。
             ベルゲンによると、スタイナウアー教授はミュンスター大学で国際法を教えていたが、1935年のニュルンベルク法のころからナチス政権がユダヤ系の市民に対する迫害を強めてきたことに不安を感じ、1936年にドイツを出てフランスに渡り、1年後の37年にイスタンブール大学に招かれてやってきた。以来、イスタンブール大学で国際法を教え、特にボスポラス海峡問題の研究で有名になった。
             イスタンブール大学に集まった亡命学者たちには、イギリスと親しい者、ソ連に親近感をいだく者、あるいはスタイナウアー教授のようなシオニストの活動の支持者など、さまざまな政治的傾向が見られた。イスタンブールの情報・治安当局もこうした亡命教授グループの動向に目を光らせている。
             イスタンブール大学の亡命ドイツ系教授の中に、コード・ネームをジャカランダというイギリス情報部(SIS)のエージェントがいる、とベルゲンが言っていた。ジャカランダはSISのイスタンブール機関と接触を重ねていた。ジャカランダは亡命教授たちのなかに反ナチス組織を拡大してゆき、その組織を利用してドイツ情報やドイツが占領したヨーロッパ各地の情報をイギリス側に提供していた。SISのイスタンブール機関にはバルカン全域の情報を収集する特別本部が置かれていた。そのことはドイツの情報機関もトルコ情報機関も承知していた。
             アプヴェールもまた亡命教授グループの中にドイツ側のエージェントをもぐり込ませていた。だが、イギリスの情報機関も、ドイツの情報機関も、ソ連の情報機関も、亡命教授の中につくられた特定の協力者のグループに対して直接的な圧力をかけることはしなった。もしそれをやるとすれば、その仕事はトルコ政府がやるべきことだった。しかし、ドイツ、イギリス、ソ連からの圧力をかわしながら中立を維持するために、トルコ政府はそれぞれの政府と親密さを保ちつつ警戒を深め、しかし特定の政府と極端な対立にはまりこむことをさけ、外交全般のバランスを何とか保とうという、微妙な立場にあったので、教授たちのなかのエージェントは監視するが、かれらに手出しをすることは避けてきた。

             パーク・ホテルに帰り着くと、フロントの係りが伝言を槙村に手渡した。伝言はアンカラからイスタンブールに帰る車中であったムス・スルタンからだった。「プリンキポ島の週末にお誘いしたいので折り返し電話いただきたい」と文面にあり、列車内でムス・スルタンが槙村に教えたのと同じ電話番号が書かれていた。
             槙村はその番号に電話した。
            「スルタン商会でございます」
            電話に出た女性はのっけから英語で会社名を名乗った。
            「ムス・スルタンさんとお話したいのですが。こちらは槙村中佐です」
            槙村も英語で言った。
            「あいにく、ただいまムス・スルタンは来客と面談中でございます。終りましたらこちらから電話させていただきます。よろしければ電話番号をどうぞ」
            「パーク・ホテルに滞在中の槙村中佐とお伝えください」
             槙村は電話を切ってパーク・ホテルのテラスに出た。ウェイターがニコッと微笑んでくれたので、ビールを持ってきてくれないかと注文した。
             しばらくしてウェイターがビールといっしょに連絡も持ってきた。
            「槙村さまに電話が入っています。あちらの電話機でどうぞ」
            ウェイターがロビーからテラスへの出口においてある受話器を示した。
            「槙村です」
            「こんにちは、槙村中佐。先ほど電話いただいたさいは失礼しました。ところで、この週末の31日から6月1日かけて、何か特別のご予定でもおありでしょうか。もしよろしければ、マルマラ海のプリンキポ島でのひとときにお誘いしようと思いましてね」
            「どういうご趣旨のお招きでしょうか」
            「いやいや、ごく気楽な集まりです。私の友人がマルマラ海に浮かぶプリンス諸島のなかで一番大きな島『ビュユックアダ』に別荘を持っているんです。ビュユックアダはプリンキポ島の名で外国人にはおなじみだろうと思います。スターリンに追放されたレオン・トロツキーがオデッサ港から黒海に出て1929年にイスタンブールにたどり着き、そののちこの島に来て、邸宅を借りて1933年まで亡命生活を送りました。そのトロツキーが住んでいた別荘を私の友人が買い取りましてね。トロツキーが去年メキシコでスターリンの手の者らしき男によって暗殺されてからは、この別荘にトロツキーの幽霊が現れるようになった、と島の人々はもっぱら噂しています。面白いところですよ」
            「トロツキーの住んでいた別荘となると、ちょっと拝見したい気持になります」
            槙村が興味を示した。
            「ええ。ぜひおこしください。プリンキポ島という名前からご想像がつくと思いますが、ビザンティン時代、皇帝に忌み嫌われた王侯貴族たちが島流しにされた場所だったといわれています。19世紀になってイスタンブールとこの島の間に蒸気船が就航するようになり、イスタンブールのトルコ人の金持や、ユダヤ系、アルメニア系、ギリシャ系の金持が別荘を建てて、夏のあいだ避暑地として利用するようになりました。ところで、そのトロツキーの幽霊が出るという噂の別荘で週末を過そうというのは、槙村さんと私と、別荘の持ち主である私の友人、それにリスボンからやってきた彼の友人、あわせて4人です」
            「それでは王侯気分の週末を楽しませていただきましょうか。ご招待ありがとうございます」
            「では、31日の朝9時、パーク・ホテルへ迎えを出しましょう。その者が槙村さんをエミノニュのビュユックアダ行き船乗り場にご案内します。私はそこでお待ちしています」
            ムス・スルタンが電話を切った。
             

            2019.10.14 Monday

            『だまし絵のオダリスク』    第24回

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               槙村がボスポラス・サライでハーミアと会っている間に、イスタンブール大学のスタイナウアー教授からパーク・ホテルに電話があったらしい。槙村はホテルのレセプションでメッセージを渡された。会って話したいことがあるので28日水曜日の午前中に大学までご足労ねがえないだろうかと書かれていた。
               28日午前中、槙村はイスタンブールの旧日本大使館庁舎でアンカラの日本大使館あての手紙を書かねばならなかった。田川一郎三等書記官の死に関する現地警察の捜査状況や、槙村自身がイスタンブールやアンカラで聞き取り調査した内容のあらましを駐トルコ大使あてに報告する作業だった。
               槙村は午前9時ごろスタイナウアー教授に電話をかけ、面会を午後にしていただけないだろうかとたのんだ。それでは午後は知人をたずねて考古学博物館に行っているので、そちらの方へご足労願えないか、とスタイナウアー教授が言った。
              「館内に有名なアレキサンダーの石棺が展示してあります。午後3時にその前でお待ちしています」
              オスマン帝国は16世紀のシュレイマン1世の時代に最盛期を迎えた。オスマン朝はバルカン半島を版図に加えて神聖ローマ帝国と国境を接した。地中海沿いの北アフリカに版図を拡大した。黒海の北でロシアと接し、カスピ海でペルシャに接した。だが、あらゆる帝国がそうであったように、その後ゆっくりと衰退を始めた。かわって近代化で力をつけたイギリスをはじめとするヨーロッパの列強が、衰退の道をたどるオスマン・トルコからその支配地を掠め取る番だった。
               イスタンブールの考古学博物館はそうしたオスマン帝国の黄昏期にトプカプ宮殿の庭園のかたわらにつくられた。帝国の衰退は近代化という点で西洋に遅れをとったのが原因であり、オスマン帝国も西洋風の近代化をしなければならぬ、という遅まきながらの近代化政策の一環としての博物館だった。
               さすがに一度は地中海をとりまく地域の相当部分を属領にしていただけあって、イスタンブールの考古学博物館には、メソポタミアやエジプトなど古代オリエントに始まり、古代ギリシャからヘレニズム時代、ローマ帝国時代にいたる珍しい展示物が多くある。
              なかでも逸品といわれているものの一つがアレキサンダーの石棺だ。白色大理石で造られた巨大な石の棺だが、実際にアレキサンダーの遺骸をおさめたわけではない。だが、造りは華麗にして荘重で、もちろんお棺であるからそれなりの妖気もただよってくるのだ。
               博物館特有の照度を落とした展示室の重く沈んだ空気の中に、長身痩躯のスタイナウアー教授が鶴のように立っていた。
              「槙村さんがこういうものに興味をお持ちだとよろしいのですが」
              「ベルリンの博物館島(ムゼウムスインゼル)は私の好きな場所です」
              「それはよかった。アレキサンダーの石棺は1887年に、当時オスマン帝国の帝国博物館長だったオスマン・ハムディ・ベイが、古代フェニキュアの中心都市シドンのネクロポリスで発掘したものです。彼はこのほかにもおびただしい石棺を発掘し、イスタンブールに持ち帰って博物館に収蔵しました。オスマン・ハムディは当初、この石棺をアレキサンダーのものと推定したのですが、あとになって別人の埋葬に使われたものとわかった。白色大理石の棺の四面にアレキサンダーが狩をしている姿や、戦闘の場面が浮き彫りにされているので、いまなおアレキサンダーの石棺とよばれ続けています」
               アレキサンダーの石棺が発掘された19世紀は、文化財強奪の時代でもあった。イギリスのエルギン卿はオスマン・トルコ支配下のアテネのパルテノン神殿からめぼしい大理石彫刻をイギリスに持ち帰り、大英博物館に飾った。オスマン・トルコの威光がかげりをみせるなか、シュリーマンがトロイの遺跡から「プリアモスの黄金」を勝手に国外に持ち出した。弱体化するオスマン帝国支配下のレバノンでフランスが影響力を強め、考古学調査隊をレバノンに派遣し、発掘品を持ち帰ってルーブルに収めた。そうした西洋諸国による考古学資料の持ち出しを「盗み」とみなしたオスマン・ハムディは、1884四年に貴重な考古学資料のオスマン帝国外への持ち出しを禁止する法律をつくらせた。
               つまりこういうことだ。西洋はオスマン帝国をふくむオリエントから文化財を盗み、オリエント圏内にあっては先んじて西洋化の道を歩み始めたオスマン帝国の人々が支配下のアラブ世界から文化財を盗んだ。博物館というのはつまるところ歴史的盗品倉庫のようなものだ。

              「華麗にして重厚なものですね」
              槙村が言った。
              「なかなかの逸品だといわれています。それはさておき、槙村さん。お話があるというのは、田川さんとソ連の接点についてです。田川さんはイスタンブールのソ連領事館のある人物と親密でした。ウリヤノフとよばれていた男です」
              「そのウリヤノフという男と田川はどんな情報のやり取りをしていたのでしょうか。何かお聞きになっていますか」
              「田川さんは、ウリヤノフという外交官にボスポラス海峡問題の資料の入手に協力してもらっている、と私に言いました。そのウリヤノフというソ連外交官は、私が聞いたところでは、ソ連の情報部に関わりのある人物だということでした」
              「スタイナウアー教授、田川があなたにそう言ったのですか」
              槙村が念を押した。
              「ウリヤノフとソ連情報部の関わりについては、田川さんは私に何も話しませんでした。実はそのことは死んだピーター・ケーブルから聞いたのです」
              「これは驚いた。スタイナウアー教授はピーター・ケーブルともお知り合いでしたか。それはそうとして、ピーター・ケーブルは田川とウリヤノフについてどんなことを言ったのでしょうか。詳しくお話願えますでしょうか」
              「イスタンブールでは外国人の世間は思いのほか狭いのですよ、槙村中佐。田川さんをウリヤノフに紹介したのがピーター・ケーブルだったのです。田川さんとピーター・ケーブルがどんな関わりを持っていたのかは、二人が死んでしまった今となっては、手がかりは失われてしまいました。田川さんとチチェキ嬢もピーター・ケーブルを介して会ったのだと思われます」
              「それはたしかなことですね」
              「たしかです。田川さんとチチェキ嬢が死体で発見されたのは3月のことで、そのあとしばらくしてピーター・ケーブルが訪ねてきて、田川さんの研究内容のことや、ソ連外交官らとの接触の様子を私から聞こうとしたのです。そのとき田川さんをウリヤノフに紹介したのがピーター・ケーブルだったと聞かされました。ピーター・ケーブルは田川さんをウリヤノフに紹介し、田川さんがウリヤノフから聞き出したソ連情報を、チチェキを通じて手に入れようとしていたのかもしれません。まあ、これは私の推測にすぎませんが」
              「ところでスタイナウアー教授。あなたは以前からチチェキさんともご面識がおありだったのでしょう?」
              田川の質問にスタイナウアー教授が一瞬どぎまぎした。視線を槙村からそらした。やがてスタイナウアー教授は平静をとりもどして言った。
              「私はナチ政権から逃れてきたユダヤ系ドイツ人です。チチェキ嬢はイスタンブールで育ったユダヤ系のトルコ人でした。ヨーロッパのユダヤ人を迫害から救出する善意の組織にお互い協力していました。それよりも、私が槙村さんにお会いしてぜひ申し上げたかったのは、田川さん、チチェキ、ピーター・ケーブルの三人の死の背後にはなにか不気味な陰が広がっているような気がしたからです。槙村さん、あなたはそのようなものをお感じになりませんか。三人の死の理由を知ろうとなさっているあなたもどうかご用心を。ご用がすみしだいベルリンに引き揚げる方が安全だと申し上げておくべきだと、昨日、ピーター・ケーブルの死を聞いて思ったものですから。イスタンブールでは、殺された人への哀悼は薄く、その人が殺されなければならなかった理由への関心があるのみです」
               しかし、これはアドバイスというよりは脅しのようなものではないか、と槙村は感じた。
               槙村はスタイナウアー教授のアドバイスに感謝するように軽く頭を下げてみせた。
              「それから、これは前回お渡しするのを忘れていたものです。今日お会いすることにしたのは、これをお渡しするためでした」
              スタイナウアー教授が封筒を差し出した。中には「ボスポラス政策での独ソ連携の可能性」とタイトルされたタイプ打ち一〇枚程度の英文草稿があった。
              「田川さんが亡くなる一〇日ほど前、私に預けた英文の研究計画です。田川さんの叔父上であるあなたにお返ししておきましょう。田川さんはお亡くなりになる直前に、ソ連の現代のボスポラス政策に関心を集中していたようです。トルコでイギリスの影響力が増大するよりも、ドイツの影響力が増大する方が自国のボスポラス通峡権の拡大に有利になるとソ連は考えているという仮説を立て、その仮説を証明できる資料を集めていました」
               槙村はスタイナウアー教授に情報提供のお礼を丁重に言って考古学博物館を出て、シルケジ駅の方角へ歩いた。ガラタ橋のたもとに建つイェニ・ジャーミーの裏手にあるチャイハネ(茶屋)で休憩してトルコ紅茶を飲んだ。
               

              2019.10.05 Saturday

              『だまし絵のオダリスク』     第23回

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                 槙村はその日の夜、ボスポラス・サライへ行った。そこはバーというよりは酒も飲め、食事もでき、ショーもあり、ダンスもでき、ご婦人連れでもよし、男性だけの場合はバーお抱えの女性がご機嫌をうかがってくれるナイトクラブのような店だった。イスティクラル通りから横道に折れてすぐのところにあった。午後10時。店がもっともにぎわう時間帯だった。
                ピアノを中心にした小さな楽団がヨゼフ・リクスナーの『碧空』を演奏していた。数年前、東京でもずいぶん流行ったドイツ製のタンゴだった。店の中央のフロアで数組の男女が踊っていた。
                    槙村の姿を見たウェイターが近寄ってきた。
                「お一人ですか」
                ウェイターが言った。
                「ハーミアさんに会いたいのだが。私はマキムラ中佐だ」
                槙村が答えた。
                「少々お待ちください」
                バーのカウンター席はほとんどがうまっていた。テーブル席もその八割方がうまっていた。槙村はハーミアが現れるまでの10分間ほど、テーブル席でウィスキーを飲みながら待った。店内の薄暗がりのどこかからじっと槙村の振る舞いを見つめている視線の気配を感じて、槙村はつい彼の背後をふりむいた。それらしき人物は見あたらなかった。田川のことで、これだけおおっぴらにイスタンブールの諜報戦についてかぎまわっているのだから、警戒したスパイたちが槙村を監視下においてもおかしくない。槙村がそう考えたとき、
                「こんばんは」
                イブニングドレスを着た若い女が立っていた。
                 槙村は立ち上がって笑顔で返事した。
                「こんばんは、ハーミアさん。私は槙村中佐。チチェキさんといっしょに死体で発見された日本大使館員、田川一郎の叔父です。はじめまして。まあ、おかけください」
                 照明を落とした店内のテーブルの上のランプの光が椅子に座ったハーミアのこわばった顔を照らし出した。
                「何かおのみになりませんか。ブランデーでもいかがですか」
                槙村がウェイターに合図を送った。
                「チチェキさんとは何年ぐらいお知り合いでしたか」
                「2年ほど前からです」
                「よいお友達でしたか」
                「ええ、心を許せる友人でした」
                「そこでね、ハーミアさん、私が知りたいことは、チチェキさんと私の甥の田川が恋人同士だったのか、それとも仕事のうえでの知り合いだったのかという点です」
                「仕事のうえの知り合いと言う意味がよくわかりませんが」
                ハーミアが問い返してきた。
                「つまり、ピーター・ケーブルという名前のイギリス人を挟んで、チチェキさんと田川がいっしょになって何か同じ目的で働いていた、というような意味なのですが」
                「それはもう、間違いなく二人は恋人同士でした。三人がいっしょになにか同じ目的で働いていたという話は聞いたことがありません。チチェキと私は姉妹のように仲良しでしたから、思っていることを率直に話しあってきました。チチェキは田川さんとの将来を私に語ったことがあります。私に意見を求めました。田川さんの国である日本へ渡るべきか、田川さんにイスタンブールで暮らしてくれるよう頼んだほうがいいのか、と。こういう時代ですから、イスタンブールに住んでも、東京に住んでも、戦争の恐ろしい影はついてまわります。ですが、私はチチェキに、田川さんにお願いして、イスタンブールに住んだほうがいいわよ、と言ったのです」
                「それはいつごろのことでしたか」
                「チチェキと田川さんが死ぬことになる4ヵ月ほど前のことだったと記憶しています」
                「では、昨年の暮れごろですね」
                「そうです」
                「それでチチェキさんはあなたのアドバイスをどのように受けとめられたのですか」
                「チチェキは私にこう言いました――わたしもそうできれば一番良いと思っているのだけれど。でも彼は気が進まないようなの。彼は仕事と収入を失うことになるし、日本人がここできちんとした仕事を見つけるのはなかなか難しいだろうと、田川さんが言った。そう私に聞かせてくれました」
                ハーミアは白い両手でブランデー・グラスを包みこみかすかに揺らせていた。
                「それで?」
                「それで、チチェキがわたしに言ったのです。まとまったお金が手にはいればそれを元手にイスタンブールに住み、二人で事業を始められるのだけれど、と。うらやましい、とわたしは思いました。ふたりはお金の工面さえつけば、イスタンブールで仲良く暮らせるわけです。お金がなくても、きっと幸せに暮らせたはずです」
                「ハーミアさんは田川にもお会いになったのですか」
                「もちろんですわ。幸せいっぱいのチチェキは田川さんをわたしに紹介しないでいられなかったのでしょうね。パーク・ホテルのレストランに行って三人で食事したことがあります。あれは昨年の11月はじめの寒い夜のことでしたわ」
                ハーミアが話を続けた。
                「私は田川さんを愛したチチェキを憎み、チチェキを奪った田川さんを恨んだピーター・ケーブルの仕業だと思っています。チチェキはユダヤ系の血を引いていますから、ドイツから迫害を受けているユダヤ系のヨーロッパ人をイスタンブール経由でパレスティナに送り込む救援組織の活動を手伝っていました。ユダヤ人がパレスティナに移住してくることについてはパレスティナのアラブ人の間に強い反対があります。彼らはイギリスにユダヤ人の移住を厳しく制限するようを求めています。イギリス側もアラブ人がユダヤ人移住問題で不満をつのらせることをおそれています。不満が爆発してアラブの支持がイギリスからドイツに移ると大変ですから。そんなことから、ユダヤ人難民をイスタンブールからパレスティナに送る活動も難しくなってきています。救援組織の活動にはどうしてもイギリスの助力が必要で、ピーターがその口利きをしていたようです。その縁でチチェキはピーターと一度は親しくなったのです。ですが、田川さんと知り合ってからは彼女の気持に変化が出てきたようです。わたしはドイツ系ハンガリー人ですが、ドイツ人をはじめとするヨーロッパ人はわたしをハンガリー人である以上にジプシーだと見ています。わたしの親がハンガリーのジプシー集落に住んでいたからです。チチェキはドイツ人からトルコ人である以上にユダヤ人だとみなされていました。田川さんにはそうした視線はありませんでした。あのかたはとっても上品なあたたかい人でした。チチェキが好きになったのも当然です」
                「どうもありがとう。二人は愛しあっていたのですね。あなたからそのことが聞けて本当によかった」
                槙村はハーミアに丁重な礼を言った。だが、田川とチチェキがまとまった金を欲しがっていたことが槙村の気持を重くした。チチェキの母親も、チチェキがまとまった金を残していくと約束したと言っていた。まさかとは思うが、田川が金とひきかえに情報を売るということも、一応記憶に留めておく必要がありそうだと槙村は感じた。

                 

                2019.09.28 Saturday

                『だまし絵のオダリスク』     第22回

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                   5月27日火曜日の日の出前、エミノニュのフェリー埠頭へ向かう早朝勤務の船員がガラタ塔の横を通りかかった。ガラタ塔は金角湾に面したベイオールの南斜面に建つ60メートルを超す石造りの塔だ。金角湾の対岸の旧市街地のトプカプ宮殿、アヤ・ソフィア、ブルー・モスク、シュレイマニイェ・ジャーミーなどと向かいあっている。ガラタ塔の起源はビザンティン時代の6世紀に建てられた木造の灯台だった。それが石造りになったのは14世紀中ごろのことだ。
                   コンスタンティノープルがメフメト2世に率いられたオスマン・トルコ軍に征服された15世紀以降、ガラタ塔は軍事用の監視塔や天体観測塔として使われた。港湾労働に従事する奴隷の宿舎になったこともあったといわれている。17世紀のはじめ、ハザルフェン・アフメト・チェレビという人物がこの塔の上から人工の翼をつけて飛び立ち、巧みに風をつかんでボスポラス海峡を越えて6キロも飛び、対岸のアジア側に着地したと伝えられている。この飛翔の技術を軍事的な脅威と感じたスルタンは、ハザルフェンをアルジェリアへ追放した。ハザルフェンは飛んで火にいる夏の虫だったわけだ。
                   東の空が明るくなり始めていた。薄暗がりの中、ガラタ塔の石の壁に寄りかかって男が眠っているのが見えた。酔っ払いか、あのバカ風邪をひくぞ、と早朝勤務で出勤途上の船員は思った。船員の後ろを歩いてきた別の男が、ご親切にも酔っ払いの様子を見るために塔に近づいていった。そしてその男が大声で叫んだ。
                  「うわ、大変だ。この男死んでいる」
                   連絡を受けた警察官2人が現場にすっ飛んできた。やがて殺人課の刑事や鑑識がやってきた。男は銃で胸を撃たれていた。血が男のジャケットをぬらし、男がいた石のうえに血だまりができていた。刑事たちは死んでいる男の風貌がトルコ的でなく西欧風であり、上着のポケットから出てきたトルコ政府発行のプレスカードから、男の名がピーター・ケーブルだと知った。このことを所轄警察署に連絡すると、イスタンブール警察本部のオメル・アシク警部、イスタンブール保安本部のイケメン・メフメト課長が現場に現れた。
                  「このたびはチチェキのスポンサーだったイギリス人か。またお荷物がひとつ増えたわけだ」
                  イケメンがオメルにため息混じりに言った。

                   槙村はスタイナウアー教授から聞かされた田川とソ連情報機関の接触についてあれこれ想像を巡らしていて、未明近くまで寝そびれてしまった。午前10時ごろレストランで遅い朝食をとっていると、給仕に電話だと声をかけられた。受話器をとると、日本語だった。深川一郎の興奮した声が槙村の耳に飛び込んできた。
                  「ピーター・ケーブルが銃で撃たれて死んだ」
                  「えっ」
                  と言ったきり槙村はしばらく声が出なかった。
                  「撃ったのはだれだ」
                  落ち着きを取り戻した槙村がたずねた。
                  「まだわからない。これから警察が事件の発表をする。それを聞いたあと、あちらこちらで情報を仕入れ、夕方にはパーク・ホテルへ行けるとおもう。そうですね、午後7時ごろお目にかかってこの一件についてお話ししましょう。なにか田川さんの死と関わりがあるような気がしてならないのです」
                   深川は約束の時刻どおり午後7時きっかりにパーク・ホテルのロビーに現れた。そのころまでにはパーク・ホテルのバーはピーター・ケーブルが殺された理由についての推測・憶測があふれた。
                  「警察はピーター・ケーブルの死を他殺と自殺の両面で捜査しています。ピーター・ケーブルの死体の状況は検死によるとこういうことです。まず死亡時刻ですが、27日の午前3時から4時の間と推定されています。ピーター・ケーブルはガラタ塔の壁面に背をあずけ、石畳の上に直接尻をおいて90度の角度で身体を折り、座り込む姿勢をとっていた。銃弾は心臓に一発。死体のそばに拳銃があった。イタリアの軍用拳銃ベレッタM1934でした。ピーター・ケーブルの着衣に火薬による焼け焦げがある、極めて近い距離から発射されたもののようです。拳銃からピーター・ケーブルの指紋が出た。また、ケーブルの右手に硝煙反応があった。ケーブルは大量のアルコール飲料を摂取していた」
                  「なるほど、自殺と断定するに十分な状況ですね」
                  槙村がビールを口にしながら言った。
                  「そういうことです。チチェキを田川に奪われてしまい、そのうえチチェキが死んだことで、悲嘆のあまりピーター・ケーブルは自殺したのではなかろうかという、メロドラマ的な解釈もうんぬんされています。ですが、イスタンブールにたむろするジャーナリストのような、すれっからしの大人の自殺の動機としては、いまひとつ説得力に欠けます」
                  「自殺の動機としては他になにかでていますか」
                  「それはいまのところないようですね。いまひとつの線である他殺説の方ですが、こちらの方も状況から十分考えられるところがありましてね。ピーター・ケーブルをガラタ塔まで連れてきて石畳の上にすわらせた。彼の手に拳銃を握らせて、銃口を胸にあて、発射した。警察の検死結果によると、死亡時刻ころピーター・ケーブルは泥酔状態だったと想像されます。血中アルコール濃度も高く、胃の中からもアルコール飲料の残りが検出されています」
                  「だとすれば、ピーター・ケーブルに銃を握らせて自殺に見せかけて殺す偽装は、それほど難しいことではなかったでしょうね」
                  「そうなんですよ。ピーター・ケーブルは26日夜の10時ごろペラ地区のバーに姿を現して、1時間ほど酒を飲んでいたそうです。バーテンダーによると、考えことをしながらちびりちびりと飲んでいたそうです。なんと言うか、バーテンダーが声をかけても口を開くのさえ億劫といわんばかりの、屈託のきわみといった様子だったそうです。ですが、泥酔するほどには飲んでいなかった。11時ごろ、しゃんとした足取りでバーを出て行ったそうです。そのあとの、ピーター・ケーブルはどこかで泥酔にいたるほどの酒を飲んだのでしょうが、11時以降の彼の足取りはわかっていません」
                  「ピーター・ケーブルには殺されるような理由があったのでしょうか」
                  「そのあたりについては警察も慎重でしてね。他殺の可能性も排除していない、というばかりで、その理由については具体的な言及を避けています。あれこれ尾ひれをつけて探偵ごっこをしているのは、外国特派員の連中でしてね。今年の2月でしたか、アメリカのワシントンの三流ホテルでヴァルター・クリヴィツキーと名乗っていた亡命ソ連諜報機関員が死体で発見された事件をご記憶でしょう」
                  「ええ、新聞で読みました。1937年にスターリン体制を逃れて、パリで亡命した男ですね。スターリン時代のソ連の内幕を暴露した記事をアメリカの週刊雑誌に連載し、それをまとめた本が1940年に出版された。その本の中で、1936年ごろ、当時ベルリン大使館付武官だった大島浩少将と東京が交わした暗号電報をナチスの秘密機関が傍受・記録していた綴りをクリヴィツキーの部下が手に入れたと書いてあった。本当のことかホラ話なのかわかりませんが。雑誌連載の記事は日本の週刊雑誌にも翻訳掲載されました」
                  「その男ですよ。クリヴィツキーはホテルのベッドで死体となって見つかったのです。致命傷は頭にくらった銃弾一発。自ら撃った銃弾なのか、誰かによって撃ちこまれた銃弾なのか。結局、警察は自殺であると結論しましたが、誰しもがそれに納得したわけでない。祖国を裏切ったクリヴィツキーをソ連が送り込んだ暗殺者が殺害したという説も出ました」
                  「クリヴィツキーとピーター・ケーブルとどんな関わりがあるのですか」
                  「関わりがあるわけではありませんが、ピーター・ケーブルはジャーナリストの仕事をする一方で、イスタンブールでの諜報戦にも一役買い、政治情報の取引に深く関わっていたという疑惑をもたれています。ケーブルはイスタンブールに来る前は、マドリッドでフリーランスの記者をしながら贅沢に暮らしていたそうです。それは原稿料だけでまかなえる以上の暮らしぶりだったと噂されています。ピーター・ケーブルがマドリッドで日ごろ接触していた相手にイギリス情報部の幹部がいた。マドリッドで仕事をしたあと、彼はイスタンブールに特派員の口を見つけて移ってきた」
                  「それはいつ頃のことですか」
                  「1939年の初めのことです。このころにはスペイン内戦は、フランコ側の猛攻で共和国側は総崩れという状態になっていました。それ以後、2年あまりピーター・ケーブルはここイスタンブールで仕事をしています。彼の役どころをめぐっては、ドイツ側ではイギリスとソ連の二重スパイだといっています。といっても、彼の忠誠がイギリスにむけられているのか、ソ連にむけられているのか、それがはっきりしないようです。ソ連は彼をイギリスとドイツの二重スパイであると見ているようです。イギリスは彼が祖国を裏切っているのではないと疑いをかけている。ここにはジャーナリストになりすました各国の情報機関員、あるいは情報機関の下請けをしているジャーナリストなどが少なくありませんが、ピーター・ケーブルはある意味で独立自営業者としての情報のプロで、仕入れた情報に良い値をつけてくれた側に、イデオロギーに関係なく売っている男ではないかと疑っている者も少なくありません」
                  「したがって、これという情報はないが、状況によっては英独ソの情報機関がそれぞれピーター・ケーブルを殺す理由をもつはずである、という推測にいたるわけですね」
                  「そういうことです。それから、もうひとつ。警察情報に詳しいトルコ人の記者から聞いた話なのですが、ハーミアというドイツ系ハンガリー人の女性がチチェキと親しくしていて、田川さんとチチェキについていろいろ知っているようです。警察はこの女性からも事情聴取をしていますが、いまのところ捜査に役立つような新しい事実を聞きだすことはできなかったようです。しかし、槙村さんがお聞きになれば、田川さんの当地での暮らしぶりについて、なにか新しい事実が聞き出せるかもしれません」
                  深川はそういいながらメモ用紙にハーミアの連絡先の電話番号と彼女が働いているバー名前を書き、槙村に手渡した。店の名は「ボスポラス・サライ」。チチェキの母親と会ったとき彼女が口にした名前だった。
                  「なんでも、このバーはアプヴェールの息のかかった連中が経営しているそうです」


                   

                  2019.09.21 Saturday

                  「だまし絵のオダリスク」     第21回

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                    「ええ、たしかに田川さんはときどき私の研究室をたずねてきました。私たちの話題はボスポラス海峡の通峡権問題の史的展開に関するものでした」
                     イスタンブールの旧市街側にあるイスタンブール大学本部の応接室で、ヨーゼフ・スタイナウアー教授が槙村に言った。5月26日月曜日の午前10時だった。
                     イスタンブール大学は広大な屋根付き市場グラン・バザールの隣のベヤズト・モスクがある広場に面している。堂々とした門とがっしりとした建物だ。19世紀中ごろ軍事省として建てられ、トルコが共和国なったときイスタンブール大学の施設になった。
                    イスタンブール大学の起源は1453年にスルタン・メフメット2世が東ローマ帝国を倒したのちに設立したマドラサ(イスラム学院)である。エジプト・カイロのアル・アズハル大学の起源とされる975年や、イタリアのボローニャ大学の1088年、パリ大学の1150年、オクスフォード大学の1167年、スペインのサラマンカ大学の1218年にはおよばないが、長い歴史をもつ大学である。
                    大学正門と大学本部の建物の間には広い庭があった。その庭に高さ80メートルほどの石造りの塔が屹立していた。ベヤズト・タワーである。一九世紀中ごろに再建されたイスタンブールの火の見やぐらだ。それ以前にも木造の火の見やぐらがたっていたのだが、なんとこれが火事で焼け落ちたために、こんどは石造りの塔を建てたという。
                     軍と大学がケマル・アタテュルクの世俗主義政治の砦である。アタテュルクはトルコ近代化のために、イスラムを後進性のしがらみとみなしてイスラム離れを推し進めた。シャリーアに基づくイスラムの宗教法廷を廃止した。一夫多妻を禁止する民法を制定した。マドラサでの教育を禁止し、すべての教育を世俗主義の下で行うよう教育制度を改めた。
                    イスラムを排除し徹底的な世俗国家の道を進もうとするケマル・アタテュルクの政策に沿ってトルコの教育システムが変更され、イスタンブール大学をはじめトルコの大学ではヘッドスカーフを被った女子学生やイスラム風のひげをはやした男子学生は、クラスに出席することが原則として許されなくなっていた。
                     スタイナウアー教授は身長が1メートル90センチもある痩せた50過ぎの男だった。頭髪の生え際が額から頭のてっぺん近くまで後退し、残った薄茶色の髪を左で八二くらいに分けていた。縁なしの眼鏡をかけ、その奥に神経質そうな薄茶色の目があった。スタイナウアー教授は槙村を大学本部の建物の2階にある応接室に迎えた。大学の事務員らしい男性がトルコ紅茶を運んできた。
                    スタイナウアー教授は田川の研究テーマについて語ってくれた。
                    「ボスポラス海峡の地政学的な重要性は、その国の名が帝政ロシアであれソ連であれ、スラブ民族にとっては普遍的なものです。冬も凍らない水路の重要性がそれです。不凍港を求めてロシアは南下政策をとり、その膨張主義を脅威と感じたヨーロッパ諸国は、ロシアの南下政策を食い止めようとする。そうしたロシア帝国の膨張主義メンタリティーと南下政策の実際を念頭に置きながら、ロシアのロマノフ王朝時代からレーニン、スターリンの時代にかけての、ボスポラス通峡権をめぐる対トルコ外交の変遷をあとづける。それが田川さんの研究テーマでした。私の専門はどちらかといえば、国際法の理論面に重点をおいています。田川さんの関心はロシアとトルコの外交面でのせめぎあいの歴史でした。外交官としても敏腕な方だったとうかがっていますが、研究者としてもすぐれた才能をお持ちでした」
                    「おたずねしますが、田川はどの時代の海峡政策により関心を寄せていたのでしょうか。帝政ロシアとオスマン帝国の時代でしょうか。あるいはソ連対トルコ共和国の時代でしょうか」
                    「彼が欲しがっていたものは、まさにいま現在のソ連のボスポラス海峡への野望と、それに伴うソ連の対トルコ、対ドイツ政策に関わる資料でした」
                    「そうですか。スターリン体制化のいま現在の政治情報となると、公開されている資料は少なく、公開されている資料にしてもプロパガンダと見分けのつかないものである、というのが一般的な意見でしょうね。田川は自分の仮説を支える情報をどの程度集めることができていたのでしょうか。研究の核心に迫る情報をどうやって集めようとしていたのでしょうか。スタイナウアー教授、あなたが田川を指導なさるなかでお感じになった印象はどうでしたか」
                    「田川さんはどうやらイスタンブールで活動しているソ連の情報関係者とも接触があったようです。ボスポラス関連の情報を集めるうち、学術研究の枠を超えて、つまりはボスポラス海峡問題に関わる資料収集の作業を超えて、微妙な国際情報戦がらみのソ連情報についても、接触を深めたソ連情報筋から集めようとしていたような気配を、私は感じたことがあります。具体的な事例があるわけではありませんが、田川さんとの会話の中でふとそう感じる瞬間がありました。私は何度か、諜報ごっこはやめにして、研究者本来の研究方法に限定してはどうかと助言したのですが、彼は『私はまた大使館員でもある』と言って笑っていました」
                     スタイナウアー教授は視線を槙村からテーブルの上に移し、おや、お茶が冷めましたかな、と言った。槙村は、いやいやこれで十分ですと答えた。
                    「そうそう、田川さんが亡くなったあとイスタンブール警察の方が私を訪ねてきたことがあります。その警察官にも、今と同じような話をしました。その警察官は私にいくつかの質問をしましたが、それらを通じての私の印象では、イスタンブール警察は田川さんがどうやら日本におけるソ連の情報網の浸透についての情報集めに関心があったのではないかと疑っているように感じられました。おや、槙村中佐、何かお心当たりでもおありですか」
                    槙村の表情の変化に気がついてスタイナウアー教授が問いかけてきた。
                    「国際謀略に巻き込まれて死んだという可能性に驚きました」
                    槙村はそう言い訳をしながら、ふと想像した。
                     田川といっしょに死体で発見されたチチェキはイギリス人のジャーナリスト、ピーター・ケーブルとつながりがあった。ピーター・ケーブルがこの女を使って田川を利用していたのではなかろうか。田川にイギリス側がつかんでいるソ連情報を小出しに与え、その見返りに田川から日本情報を引き出してはそれをイギリス本国に送っていたのではあるまいか。そのような形で素人の田川が諜報戦に関わっていて、あるとき、田川の存在が厄介になった組織が田川を始末した。ありうる筋書きだと槙村は思った。
                     

                     

                    2019.09.15 Sunday

                    だまし絵のオダリスク       第20回

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                       イスタンブール行き急行列車はアンカラ駅を定刻どおり5月23日の午後4時に発車した。金曜日だったが客は少なかった。さてこれからイスタンブールのハイダルパシャ駅までおよそ15時間の道のりだ。列車が予定通り運行されることはまず期待薄で、おそらく2時間から4時間の延着は覚悟しておいた方がよいだろう。槙村は切符を手配してくれた大使館の職員からそう聞かされていた。
                      夕日がアナトリアの大地に沈んでゆくのが車窓から見えた。槙村は食堂車へ出かけた。空腹を感じたわけではなかったが、なるべく早く夕食とそのあとの腹ごなしをすませて、いつもより早めに寝るつもりだった。
                       まだ時刻が早いせいか食堂車はすいていた。右カーブを曲がったのだろうか、列車がぐらりと揺れ、体が左側にひっぱられる感じがあった。食堂車に入って2つ目のテーブルに太っちょのトルコ人らしい男が1人で陣取って食事していた。50歳前後で、ダルマのように大きな威圧するような眼だったが、顔のつくりはなんとなく愛嬌があった。食堂車のウェイターが槙村をその男の隣のテーブルに案内した。槙村は椅子に腰掛け、ウェイターからメニューを受け取った。ウェイターは槙村のそばに立って注文を待った。
                      「ヤキトリはありませんが、ケバブが美味しいですよ。トルコのワインとあいます。私もそれをいただいています。マキムラ中佐」
                      達者な英語だった。一瞬虚をつかれた槙村に、男はウィンクして立ち上がり、
                      「夕食を同席させていただく栄誉を賜りたいものですな。私の名はムス・スルタン。貿易商で、何年か前、ヨコハマに行ったことがあります。勝手ながら私のテーブルにお越しいただけるのであれば光栄です。ぜひ、どうぞ」
                      と、大きな右手をさしだして握手を求めた。男の背丈は身長1メートル75センチの槙村より少し高いだけだったが、体の厚みは槙村の2倍もありそうだった。
                      「おかけになって、まずはワインでも」
                      ムス・スルタンが槙村に微笑みかけた。槙村はすすめられるままムス・スルタンのテーブルに移った。椅子に座るとムス・スルタンが言った。
                      「失礼しました。この列車に乗るとき駅でお姿を見かけました。車掌にあの方は日本の政治家のヨシオカさんか、と聞きました。前に一度ヨコハマでお目にかかったことがある。ヨシオカさんなら挨拶しなくては。すると車掌がお人違いでございます。日本大使館海軍武官のマキムラ中佐でいらっしゃいます――そういうわけでした。失礼の段お許しください。また、口の軽い車掌についてもお許しください。あの車掌は私の長年の知りあいなものですから」
                      ムス・スルタンがウェイターにワイングラスを持ってくるように言った。ムス・スルタンがマキムラのグラスにワインを注ぎ始めたとき、列車がまた揺れた。ムス・スルタンはさっと瓶の口を上に向けてワインがグラスの外にこぼれるのを避けた。この太っちょなかなかの反射神経の持ち主だ。油断ならないなと槙村は思った。
                      「大使館がイスタンブールからアンカラに移ったせいで、どこの国の外交官の方々もご不便をお感じなっていらっしゃるでしょうな。アンカラは緯度からいえばナポリやマドリッドと同じあたりですが、とんでもない田舎町のうえに、夏は極端に暑く冬は極度に寒い。寒いだけではなく大雪が降る。アンカラの冬の暇つぶしといえば、オオカミ狩りくらいなものです」
                      ムス・スルタンが陽気な口調で話し始めた。
                      「ほう、それはなかなか勇壮な暇つぶしですね」
                      槙村はお世辞のつもりで調子をあわせてやった。
                      「アンカラの外交団のなかでは、ドイツ大使のフランツ・フォン・パーペン氏がこのオオカミ狩りがお好きでしてね。アンカラでは原野まで出向かなくても、オオカミのほうから街外れまでやってきてくれます。ヒトラーがヨーロッパで戦争を始めて以来、イギリスを中心とする連合国側の外交団から白眼視され遠ざけられているパーペン氏は、アンカラではオオカミ狩りで憂さを晴らすしかないのでしょう。いずれあなたにもお誘いがくるかもしれません」
                      「残念ながらわたしはアンカラではなくベルリン駐在です。西ヨーロッパ勤務の経験のある日本大使館員も、オオカミ狩りこそしませんが、アンカラは退屈だとこぼしていました」
                      「おや、ベルリンからお見えでしたか。パリ、ロンドンと並ぶ都会ですな。ところがアンカラときたら、オペラもコンサートもめったにない。田舎町で世間は狭いから、若い外交官の方々には情熱を発散させる機会も少ない。恋愛沙汰はすぐお仲間の噂になり、場合によってはさまざまな外交上の取引材料、世間では脅迫などという品のよろしくない言葉を使っているようですが、そのネタにされてしまう。したがって、われわれが今乗っているこの列車は外交団や政府高級官僚の利用がひんぱんでしてね。アンカラを逃げ出してイスタンブールへはめをはずしに行く」
                      「ポアソン・グレックを求めて……」
                      槙村が日本大使館員から聞いた話は、アンカラではどうやら手垢にまみれた世間話のひとつになっているようだ。
                      「おや、ご存知でしたか」
                      「ところで、アンカラにおけるパーペン大使の好敵手であるイギリス大使のヒュー・ナッチブル・ヒュゲッセン氏は雪に埋もれたアンカラの冬をどう過されているのでしょうかね」
                      槙村が言った。
                      「あいにく私はイギリス大使館筋に知り合いが少なくて、彼については詳しいことは知りません。まあ、イギリス人は単調な生活というか、退屈をもって人生の楽しみとするような妙な性癖があるとうかがっております。イギリス大使閣下におかれてはアンカラの生活を、イングランドの田園生活の単調さを愛でるのと同じ気持で、たっぷりと楽しまれているのではないでしょうか」
                      「そうですね。アンカラで平穏な田園生活を楽しんでいらっしゃるのであれば、ご同慶の至りです。なにぶんナッチブル・ヒュゲッセン大使閣下は、前任地の中国で大使をなさっていたとき、1937年8月の暑いさかりと聞いておりますが、日本の攻撃機から機銃掃射をうけて、重傷を負われたことがありました。大使が南京から上海に自動車で移動中のことで、日本政府は誤射について遺憾の意を表しましたが……」
                      槙村が注文したケバブが運ばれてきた。槙村がその肉片の一つを口に入れたとき、ムス・スルタンがさりげなく、しかし声を心もち落して槙村に語りかけた。
                      「槙村中佐。私はこの3月上旬、イタリアに出かけていましてね。商用で南イタリアのターラントを訪れました。ターラント湾に面した軍港のある港町です。イギリス軍が停泊中のイタリア海軍軍艦に奇襲攻撃をかけて成功した町です」
                      この男の意図はなんだろう。槙村はケバブを食べる手をとめて心の中で身構えた。
                      「泊まっていたターラントのホテルのロビーで、ある朝、とある東洋の紳士をお見かけした。いま思い出してみると、どうもそのお方は槙村中佐ではなかったという気がしてならないのです」
                      「なるほど。以前にお目にとまっていたのですか。それにしても私たち極東のアジア人にとっては、ヨーロッパの人々の容姿からその国籍を推測するのはなかなか難しいことなのですが、あなた方には中国人や韓国人や日本人の見分けが簡単におできになるようですね」
                      槙村はとっさに言葉を濁した。だが、彼の気持は動揺していた。槙村はその動揺が表情に現れないようケバブにかじりつくことでごまかそうとした。
                       たしかに槙村は用あって3月上旬にターラントを訪れていた。ターラントはイタリア南東部のターラント湾に面した都市で、古くは紀元前8世紀ごろ古代ギリシアのスパルタがここに植民地を築いていた。中世には十字軍が装備をととのえ、遠征に出発する港だった。オスマン・トルコ帝国はその拡張期に何度もターラントを攻撃した。ナポレオン戦争のときはフランスの軍港として利用された。そののち、イタリア海軍の軍港として整備された。
                       イタリア海軍の主力軍港の一つであるターラントは1940年11月11日から12日にかけてイギリス空母の艦載機による奇襲攻撃を受けた。イタリア海軍の戦艦3隻が大破・損傷するなどの痛手を受けた。日本の海軍はターラントにおける航空機による艦船攻撃という奇手に大きな関心を寄せた。日本はドイツとイタリアに協力を求めて、イギリスによるターラント奇襲のデータを集めていた。
                      「去年のイギリスの奇襲以来、ターラントにはいろいろな国の軍人が視察にやって来ているようですな。海での戦争が艦隊と艦隊の一騎打ちという伝統から離れ、空からの艦隊攻撃の有効性に目を向けさせる格好のデータのようで、いろんな国の航空機優先思想の戦術家たちがターラントに集まった。日本も世界有数の海軍国の一つですから、当然、ターラントの戦術にも興味があるだろうと思い、ターラントで見かけた東洋の紳士を、もしかしてあなたではなかったろうかと、ふとそう思っただけのことです」
                      それを最後に、ムス・スルタンは話題をイスタンブールの建築物の美へと切り替えた。
                      「ところで槙村中佐、ハギア・ソフィアはご覧になりましたかな。いまではトルコ人はアヤ・ソフィアと呼び、ギリシア人はアギア・ソフィアとよんでいる建物です。もともとは東ローマ帝国を開き、その都をコンスタンティノープルに定めたコンスタンティヌス大帝の子であるコンスタンティウス2世が紀元4世紀にキリスト教の聖堂として建てたものです。のちに15世紀になってコンスタンティノープルを占領したメフメト2世がこの建物をモスクに変更した。20世紀なってトルコを共和国として発足させたケマル・アタテュルクはイスラム教を毛嫌いして、この建物を無宗教の博物館に変えた。したがって女性はお隣のブルー・モスクに入るとき頭に布をかぶることを強制されますが、アヤ・ソフィアではその必要がない」
                      「暇を見つけて是非拝見したいものです」
                      槙村はそっけない調子の返事をした。
                      「イスタンブールの古典建築物のうちで最高のものといわれていますが、これまでに何度も壊れていましてね。5世紀の初め内乱で焼け落ちた。再建されたが、6世紀になって、有名なニカの乱でまた焼けてしまった。ユスティニアス大帝が再建工事を始めたのですが、建物が巨大すぎてあちこちでねじれやゆがみ亀裂が生じた。なんだかんだと手を入れながら完成したのですが、間もなく地震によって中央のドームの半分が崩落してしまった。オスマン帝国時代にも補修工事がおこなわれて、何とか現在まで奇跡的に建っているのです。つまりは如何なる威容も立ち入ってみれば満身創痍であるという教訓話でして……」
                      建築物に詳しくもなく興味もない槙村は、ムス・スルタンの饒舌を聞き流しながらケバブを食べた。
                      食事を終えた槙村にムス・スルタンが名刺を渡しながら言った。
                      「イスタンブールでもし何かご用がおありの節はこの電話番号にどうぞ。お役にたてることがあるかも知れません。ところで、槙村中佐のイスタンブールでのお宿はどこでしょうかな」
                      「パーク・ホテルです」
                      槙村は滞在しているホテルの名を告げた。ムス・スルタンがどのような意図でターラントのことを口にしたのか、場合によってはそのことを詳しく知る必要があるかもしれない。ムス・スルタンと接触点を残しておきたい気がしたからだった。
                      「それは素敵なところにお泊りですね。パーク・ホテルからのボスポラス海峡の眺めはイスタンブールで屈指の景観です。これとならぶのはガラタ塔からの眺めくらいなものです」
                       食事を終えた槙村は立ち上がってムス・スルタンに手をさしのべた。ムス・スルタンがその手を握った。
                      「よい旅を」
                      ムス・スルタンが言った。
                      「商売繁盛を」
                      槙村が返した。
                       

                      2019.07.28 Sunday

                      『だまし絵のオダリスク』   第19回

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                          ベルゲンの顔を見つめる槙村の目が鋭くなった。ベルゲンが語り続けた。
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                        「田川が書いた報告書やメモや日記を見ましたが、ソ連極秘情報を手に入れたことをほのめかすような記述はどこにもなかった。ベルゲン中佐、ソ連が田川を殺害しなくてはならない理由が不透明ですね」
                        槙村が突っ込んだ。
                        「理由が不透明では根拠不明の憶測にすぎませんな」
                        そう言ってベルゲンは新しい煙草に火をつけた。
                        「あのチチェキという女性と関わりのあるイギリスのジャーナリストのピーター・ケーブルが昨年秋、フォン・パーペン大使へのインタビューを申し込んできたことがありました。インタビューに応じるまえに、彼のことを調べてみると、ピーター・ケーブルはイギリス情報部のエージェントであるが、同時にソ連とも通じており、時にはトルコ情報部とも取引をしていることがわかった。チチェキは彼の情報収集係りだった。田川さんとチチェキが殺害された3月上旬、ピーター・ケーブルがペラのあやしげなバーでおかまといちゃついているのをトルコ情報部のエージェントが目撃していました。そのエージェントは金でアプヴェールにも情報を横流ししている男です。彼の目撃談からそのおかまは、NKVDが送り込んできた特殊工作班員の1人で通称「ナターシャ」という女装癖がある男だとわかった。話の中身は不明でしたが、ともあれ、ピーター・ケーブルとNKVDはどこかでつながっているようです。ピーター・ケーブルがふとしたことで、機密情報をチチェキに知られ、それをチチェキが田川さんに知らせた。そこで、ピーター・ケーブルが、ナターシャに2人の始末をたのんだ」
                        「ベルゲン中佐、あなたは才能がおありだ。小説を書かれるといい」
                        槙村はイケメン・メフメトに言われたのとそっくり同じセリフをベルゲンに言った。


                          

                        お知らせ

                          暑中につき、9月中旬まで休載します。

                         

                        2019.07.14 Sunday

                        『だまし絵のオダリスク』   第18回

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                           槙村は23日の午前中ドイツ大使館にマクシミリアン・ベルゲン中佐を訪ねた。
                           ドイツ大使館はさすがに立派な建物だった。大使館のつくりはその国が駐在国にどの程度の重要性をおいているかのバロメーターである。ドイツ大使館の威容に比べると日本大使館は大いに見劣りがする。
                          「槙村中佐、ドイツ大使館へようこそ。そちらのソファーへどうぞ」
                          ベルゲンが張りのある声で言った。ベルゲンの執務室にはトルコ煙草のにおいが漂っていた。ベルゲンが槙村に応接テーブルの煙草ケースを差し出した。
                          「トルコ煙草です。私は水煙草の愛好者ですが、さすがに執務室であれをやるのは気がひけましてね。この紙巻煙草で我慢しているのです」 
                          ベルゲンはそういいながら、ジッポーのオイル・ライターで槙村の紙巻煙草に火をつけた。
                          「昨日、日本大使館の同僚の武官から聞いた話だと、17世紀のイスタンブールは煙草が大流行で、喫茶店は煙草の煙で客の顔がかすむほどだったそうです。それで、スルタン・ムラト4世が煙草とコーヒーを禁止し、禁止令に背いて煙草やコーヒーにふけっていた者を捕らえて、見せしめに処刑したそうです。執務室で水煙草にふけるアプヴェールの幹部となると、ラインハルト・ハイドリヒのSDにその弛緩ぶりを衝かれそうな図ですな」
                          槙村はきわどい冗談で返した。ナチスの親衛隊(SS)の情報機関である親衛隊情報部(SD)が大使館内に勢力を広げ、国軍情報部アプヴェールにとってかわろうとする露骨な動きが広がっていた。SD長官だったラインハルト・ハイドリヒはいまやSDとゲシュタポを参加に持つ国家保安本部(RSHA)の長官として、アプヴェールをRSHAにとりこもうと画策していた。
                          「敵地の真ん中で勤務する情報機関員は、一寸先は闇という緊張と、いつも背後にナイフの気配を感じているような不安につつまれて暮らさねばなりません。煙草とコーヒーとウィスキーはきつけ薬代わりです。中立国ではそうした怖さがありません。中立国の首都というのは諜報関係者にとっては天国のようなところがありましてね。ここではドイツとイギリス、それにソ連が情報戦争を繰り広げています。さらにトルコ共和国もドイツ、イギリス、ソ連の腹を探ろうと情報戦争に参入しています。せまい舞台が役者でいっぱいですよ。にもかかわらず、ビシッと役者を統べる演出家がいない。田舎芝居のようなものです。水煙草が似合います」
                           ベルゲン中佐はアブヴェールのトルコにおける情報網の統括責任者だといわれている。だが、アンカラの外交筋には別の見方もあって、フランツ・フォン・パーペン大使着任以来、ドイツ大使館全体が巨大な諜報機関になったという。その諜報組織を取り仕切っているのが、諜報・陰謀好きな大使フォン・パーペンその人であるというのが、アンカラ外交筋の見立てだった。
                           フォン・パーペンはドイツの裕福な名家に生まれて軍人になり、第1次大戦中ドイツ大使館付武官として、アメリカで諜報活動を繰り広げた。間もなくパーペンはアメリカ合衆国政府からペルソナ・ノン・グラータとして国外退去を命じられるが、そのさいドイツ本国へ送った荷物の中から、パーペンのアメリカにおける諜報網などの資料が見つかった。意外にうかつなスパイであった。
                           第1次大戦後、パーペンは政界入りし、ヒンデンブルク大統領の下で首相をつとめ、ナチスの台頭後はヒトラーの下で副首相をつとめた。ドイツと戦っている連合国側の駐アンカラ外交関係者の間では、パーペンは陰謀好きなオポチュニストにすぎないという見方が大勢を占めていた。
                          「スパイ天国のことはさておき、日本大使館の田川さんの件ですが……」
                          ベルゲンは吸い込んだ紙巻煙草の煙をいきおいよく吐き出しながら槙村をみつめた。
                          「イスタンブールやここアンカラで田川の足跡を追ってみて、私はどうも田川がなにか国際的な陰謀に巻き込まれたのでないか、という気がしてきました」
                          槙村は素直な感想を述べた。
                          「われわれも槙村さんがお感じになっているものと似たような背景あるのではないかと考えています。イスタンブールで情報収集にあたっている部員から、どうやら田川さんはソ連情報に関係した諜報戦あるいは防諜戦に巻き込まれた可能性が濃厚だと報告があがってきました。田川さんはボスポラス通峡権問題を研究なさっていたとか?」
                          ベルゲンが紙巻を灰皿におしつけてもみ消しながら言った。
                          「ええ、かなり真剣に取り組んでいたようです」
                          「田川さんはボスポラス通峡権の歴史的変遷をたどっているうちに、現代の問題に行き着いたのではないかと思います」
                          「現代の? 現代のボスポラス通峡権問題とは、具体的にいうと何のことでしょうか」
                          「ソ連です」
                          ベルゲンが強い口調で断言した。
                          「黒海に港湾を持っているソ連は、ボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通過して地中海に出るルートの航行権を喉から手が出るほど欲しがっています。このルートの自由通峡権を確保し、できればそれを独占したいと考えている。ボスポラスの軍艦通航をトルコに認めさせるために、共同でトルコに圧力をかけようではないかと、ソ連がドイツにもちかけたこともありました。ドイツ対イギリスという資本主義国家同士の戦争が長引いて双方の国が疲弊すれば、そのときソ連がヨーロッパを勢力圏に組み込むことができると彼らは考えている。その意味でヨーロッパとアジアの境であるボスポラスがソ連の勢力下に入るということは、黒海―ボスポラス海峡―ダーダネルス海峡―地中海―ジブラルタル海峡―北海と、ヨーロッパを取り囲む海がやがてはソ連のものになるということです」
                          「それはまた壮大な戦略ですな。その件はいずれ機会を待って詳しく議論しましょう」
                          槙村が皮肉っぽい口調で言った。
                          「そうですね。本日の問題とはちょっと遠かったですね。ソ連はボスポラス海峡についてのソ連側情報をちらつかせて田川さんを引きつけ、見返りに田川さんから何かの情報を引き出そうとした」
                          「田川の取引相手はボリス・ボフスキーですか?」
                          槙村が念を押した。
                          「まずそう考えて間違いないでしょう」
                          ベルゲンが自信たっぷりに答えた。
                          「ボリス・ボフスキーがトルコに帰ってくる可能性はありそうですか」
                          槙村が独り言のような口調で言った。
                          「それは難しいでしょうね。彼は先月アンカラから姿を消しています。どうやら急遽モスクワに呼び戻されたようです。何のため? 田川さんから仕入れた情報の分析に関わっているか、あるいは、不用意に田川さんに漏らした情報のことで責任を追及されているか、そのどちらかでしょう」
                          「ソ連が田川から聞き出したかった情報とはなんでしょうか?」
                          「おそらくそれは、槙村中佐、あなたが今回トルコにこられたいまひとつの目的と関連しているのではないかと思います。あなたのトルコ来訪の表向きの理由は田川さんの事件の捜査状況を知ることですが、われわれがベルリンの日本大使館からほのめかされているいまひとつの隠された目的、どちらかというとその方がより重要な目的なのでしょうが、そのこととおおいに関わっているようです」
                          「どんな根拠からそのようなことをおっしゃるのでしょうか」
                          「モスクワからアブヴェール本部に届く情報では、ソ連情報機関はいま2つのことに神経をとがらせています。いつドイツがソ連攻撃を始めるのか。日本がソ連極東に攻めこむのはいつか。その2点です。連合国側はモスクワに対して、いまにもドイツのソ連攻撃が開始されるだろうという警告を繰返し届けています。それに対してモスクワは疑心暗鬼に陥っています。モスクワがその警告を信じきれないのは、ソ連最高指導部の中にその警告が自陣営にソ連を引き込み、ドイツとの戦争を有利にするためにしかけた連合国側のワナではないかと疑っている者がいるからです。連合国から寄せられる情報の信憑性を検討する材料として、かれらはドイツのソ連攻撃の可能性についての別ルートの情報を欲しがっているのです」
                          「しかし、田川はなぜ死ななければならなかったのでしょう」
                          「ボリス・ボフスキーが田川さんと接触し、情報を手に入れようとしていたとき、不注意から何か重要なことをふと田川さんに語ってしまったことに気づき、田川さんを生かしておけなくなったとも考えられます。私はソ連の特殊工作員が田川さんを殺害したのではないか疑っているのです」
                          ベルゲン中佐が突然、核心に入っていった。

                           

                          2019.07.04 Thursday

                          『だまし絵のオダリスク』   第17回

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                            その日の夜、槙村はケレム・オザンを誘って夕食に出かけた。ケレム・オザンは54歳。1890年9月16日夜、台風をついて和歌山県の串本沖を航行中に座礁し、沈没した当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥルル号の殉職した乗組員の遺児だった。エルトゥルル号は親善使節として日本を訪れたあと帰国途中だった。この海難事故で600人近い乗組員が水死あるいは行方不明になった。生存者はわずか70人ほどだった。当時の和歌山県大島村の住民たちが懸命の救援にあたった。日本政府も援助した。民間から義捐金が寄せられた。こうした縁でケレム・オザンは日本の民間団体の奨学金を得て、日本の私立大学で学んだ。1925年日本とトルコ共和国の間で外交関係が結ばれ、日本が正式にイスタンブールに大使館を開いて以来、ケレム・オザンは大使館で働いている古参だった。館員を手際よく補佐し、通訳を務め、トルコ人雇員をひとつにまとめていた。
                             日本の大学で学び、日本語を話すケレム・オザンに田川は日本人の同僚には言えない愚痴を聞いてもらっていたようだ。去年7月、松岡洋右が第2次近衛内閣発足にともなって外務大臣に就任し、「松岡人事」と呼ばれるようになった外務省の大幅人事異動を行なった。40人以上もの大使・公使など主要な外交官が帰朝を命じられた。駐ソ大使東郷茂徳を更迭し、
                            陸軍中将建川美次を後任にあてた。駐ドイツ大使を来栖三郎から陸軍中将大島浩に代えた。さらに駐アメリカ大使を堀内謙介から海軍大将野村吉三郎とした。キャリアの外交官を軍出身者と入れ替えた。軍の政治介入がとうとう外交にまで及んだ。9月22日には日本軍が仏領インドシナに進駐、同じ月の27日には日独伊三国同盟が締結された。日本の強硬な姿勢に対してルーズベルト大統領が脅迫や威嚇には屈しないと演説し、松岡の登場で日米関係はさらに悪化した。
                             駐トルコ大使も武富敏彦から栗原正に代わった。2人ともキャリアの外交官だったが、栗原は軍の主張に共鳴するいわゆる外務省革新派の中心人物白鳥敏夫に近く、大島浩ドイツ大使と同様の枢軸派だった。アンカラの日本大使館でも枢軸派の言説が声高に語られるようになった。大使館随一の枢軸派で、「アナトリア高原の日本オオカミ」とあだ名をつけられた館員は、ドイツが西からソ連を攻め、日本が東からソ連を攻め、やがて日独両国がユーラシア大陸のどこかでまみえる日がくるのだ、など広言していた。だが、それを正面切って世迷いごとと言い返すだけの元気を館員たちは失っているようである。
                            「戦争を回避するために妥協点を見つけ出すのが外交の役割なのに、いまは妥協を嫌い戦争も辞さずという荒っぽい風潮が日本外交に蔓延してきている。一体この先、日本の外交はどうなるんだろう、と田川さんが私に言ったことがありました。そのとき田川さんがふと私に漏らした言葉があります。『トルコ女性はいい嫁さんになるかな』と。田川さんはそれ以上のことは何も言いませんでしたが……」
                             田川が外務省職員として軍の外交への介入を嫌っていたとしても、それが外交機密を他国に漏らす動機になると疑うのは論理の飛躍だろう。だが、田川がもし別の理由があって機密を漏らそうかどうかと決めかねているときは、こうした不満感が田川の背中を押すことは考えられる。槙村はふといやな予感におそわれた。槙村はケレム・オザンに手をさしのべて握手を求め、ありがとうと礼を言った。そしていまひとつの頼みごとをした。
                            「あす朝、アンカラ大学のギュチュリュ教授に電話して面会の約束をとってくれませんか。できるだけ早く会いたい」

                             アンカラ大学のギュチュリュ教授との面会の約束はあっさり取れて、槙村は22日の午後、教授と会った。中背だが、太めの胴回りの、アジア風の顔立ちの50前後の男だった。
                            「さっそくですが、ソ連大使館のボリス・ボフスキー氏のことですが、田川とはそうとう親しかったと聞いていますが」
                            あいさつのあと槙村が切りだした。
                            「ええ、お2人ともボスポラス海峡をめぐる議論の歴史について真摯な興味をお持ちでしたが、田川さんは不幸な事件でおなくなりになり、ボフスキー氏は先ごろモスクワに帰任なさったときいています。さびしい限りです」
                            「田川はどのくらいの頻度で教授のところへお邪魔していたのでしょうか」
                            「田川さんが私の部屋に最初に見えたのは、1年ほど前のことで、イスタンブール大学のスタイナウアー教授の紹介でした。そのときたまたまボフスキー氏もお見えになっていて、お互いの関心のありかがボスポラス海峡問題だということで、意気投合されたようです。2ヵ月に一度程度お見えになりました。たいていボフスキー氏とごいっしょでした」
                            「ボスポラス問題以外に、なにか最近の政治事情について2人が話しあっていませんでしたか?」
                            「それはもう、お2人とも外交官ですから、今の戦争やトルコの立場、ボスポラス通峡権の今後など、盛んに時事問題を論じ合っていました。私のような書斎人にはなかなか勉強になるお話でした」
                            「で、何か極秘情報のやり取りのようなものは?」
                            「まさか、わたしが聞いているところでそのような重大なことを話し合われるわけはないでしょう。それに、お2人の話題はどちらかというと、歴史的な資料についてでした。たとえば、1833年にオスマン・トルコとロシアが相互防衛同盟として締結したヒュンキャル・イスケレシ条約の秘密条項である『ロシアが攻撃された場合、トルコは支援の軍を派遣する代わりにロシアを除くすべての外国軍艦の海峡通過を禁止する』が合意された背景を説明する史料などについての情報交換でした。そのあたりは私も興味を持っているところなので、お2人の会話に仲間入りさせていただき、有意義な時間を過すことができました」
                            「ボスポラス問題はなかなか奥の深い国際問題なのですね」
                            「ボスポラス海峡問題はロシアとトルコの歴史的な勢力争いの象徴です。最近はトルコの旗色が悪い」
                            ギュチュリュ教授がおだやかな口調で話し始めた。
                            「ロシアとトルコの勢力争いは、それぞれがロシア帝国、オスマン帝国とよばれていた18世紀から繰り返されています。ロシアとトルコのあいだの戦争の理由は、トルコの北方への野心ではなく、黒海から地中海めざして南下しようとするロシアの地中海への情熱です。最初のうちは、そう、18世紀のはじめごろまではオスマン帝国とロシア帝国の戦争遂行能力はほぼ互角で、黒海北岸の支配権をめぐる戦争は一進一退のうちに終始していました。ロシア帝国の実力がオスマン帝国を凌駕するようになったのは18世紀の後半からのことです。エカチェリナ2世の時代のロシア帝国はオスマン帝国の属領だったクリミアを手中におさめました。勢いにのってバルカン北部への進出をねらったロシア帝国は、オスマン帝国とロシア帝国の間の緩衝国だったポーランドの王位継承問題に干渉しました。ロシアに押し出される格好でオスマン帝国領内に逃げてきたポーランド民族主義者を追って、ロシア軍がオスマン帝国領内に侵入し、そこでロシア帝国とオスマン帝国は1768年に戦争状態に入りました。オスマン帝国はこのころ軍事的に弱体化しており、ギリシャでは民族蜂起まで起きた。戦争に勝ったのはロシア帝国でした。この戦争によってロシア帝国は黒海における艦隊の建造権、商船のボスポラス海峡とダーダネルス両海峡の通峡権とを獲得しました。また、オスマン帝国領内におけるギリシャ正教徒に対する保護権も得て、それをオスマン帝国の内政への干渉の口実に使う糸口をつかみました。いや、申し分けない。退屈ですかな。このような初歩的な歴史の話は」
                             ギュチュリュ教授が槙村に言った。
                            「とんでもない。いい勉強になっています。ぜひとも続きをお聞かせください。田川が興味を持っていたことの真相に迫るために必要な基礎知識ですので」
                             槙村が応じた。
                            「このあと、ワラキアとモルダビアの支配権をめぐって両国は戦争を開始。ギリシャで民族解放戦争が始まりました。ギリシャ解放戦争を支援したロシア、イギリス、フランスとの海戦でオスマン帝国は敗北しました。オスマン帝国はギリシャの独立を承認しました。ロシアはドナウ川河口の諸島や東部アナトリアのいくつかの地域を割譲させ、黒海の制海権を事実上手に入れました。次にクリミア戦争。19世紀中ごろ、聖地エルサレム管理権問題が発端になってロシア帝国とオスマン帝国が開戦しました。イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニャはオスマン帝国を支援してロシアに宣戦しました。この戦争でロシア帝国は負けました。その結果、黒海は中立地帯に指定されることなどが決まりました。このあとも、ロシア帝国はパン・スラブ主義を掲げてバルカンへ再進出しました。黒海で艦隊の建造を進めた。バルカンで民族蜂起が起こると、ロシア帝国はスラブ民族の救済を口実としてオスマン帝国と戦端をひらきました。この戦争でオスマン帝国はロシア帝国に敗北し、オスマン帝国の領土だったバルカンでロシア帝国の影響力が強まりました。これを機にオスマン帝国の領土は西欧列強の草刈場になりました。フランスがチュニジアを占領し、イギリスがエジプトを占領しました。第1次世界大戦での敗北で、オスマン帝国は瓦解し、トルコはかつての版図の大半を失ってこぢんまりとした弱小共和国として、列強の鼻息をうかがいながら延命しているわけです……」
                             槙村はギュチュリュ教授の部屋から早々に退散した。

                             

                            2019.06.06 Thursday

                            『だまし絵のオダリスク』   第16回

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                               大使館の保安態勢の確認作業を終えた槙村は、20日から大使館に残されている田川関連の資料、報告書などにあらためて目を通し始めた。
                               槙村は田川がここ1年ほどの間に東京へ送った報告書の控えの綴りを点検した。田川の死と結びつくような内容の報告を探そうとしたのだ。だが、大使館でトルコとバルカンの経済情報の収集と分析を担当していた田川の報告は、槙村の目には退屈な代物に映った。
                               田川はトルコ政府の経済統計発表資料や現地の新聞報道などを引用した経済報告を数多く外務省に送っていた。内容はともあれ報告書の本数だけで考えれば田川は働き者の官吏だったといえる。田川の報告書はどれも無機的な文章でつづられていた。
                               たとえば、1939年のトルコの耕作面積がいくらであるとか、農産物の収穫量の第一は小麦であり、大麦がそれに続き、家畜飼育頭数では羊が第1位で山羊、牛がそれに続く。トルコの1935年の人口が約1600万で、1939年の羊の飼育頭数が約1900万と、この国では人間より羊の方が多い。そういった退屈な数字が並ぶ報告書ばかりだった。田川の報告書は東京で外交政策を決めているお偉方の目に触れることもなく、外務省の文書倉庫の中で眠りこけていることだろう。
                               そうした報告の中で、槙村がふと目にとめたのは、トルコの外国貿易統計だった。1938年にはドイツ・オーストリアがトルコの最大の貿易相手国だった。トルコの輸入の47パーセント、輸出の33パーセントを占めていた。輸入相手国ではイギリスの11パーセント、アメリカ合衆国の10パーセント、輸出相手国ではアメリカ合衆国の12パーセント、イタリアの10パーセントに大きく水をあけていた。
                               ヨーロッパで始まった戦争を、それぞれ自国に有利な方向へ展開させようとして、ドイツ、イギリス、ソ連がトルコに秋波をおくっている。経済的な依存度からすればトルコとドイツの関係が他の2国をはるかに引き離して濃密である。トルコとソ連の間の貿易関係は輸出入とも全体の4パーセント弱に過ぎない。
                               この4月ドイツはトルコに対して軍事協力を執拗に求めた。イラクで親ドイツ路線をとるラシード・アル・ガイラーニーがクーデタを起こしたときのことだった。
                               オスマン帝国の衰退は19世紀すでに始まっていたが、第1次世界大戦の結果、オスマン帝国の崩壊がもはや決定的になり、ヨーロッパの列強、イギリス、フランス、イタリア、がオスマン帝国の版図を分割し、新しい支配者になろうとした。北アフリカはイギリス、フランス、イタリアが分捕り、中東ではシリア、レバノンをフランスが、パレスティナをイギリスが手に入れた。
                               イラクでは親英国グループと民族主義グループの2つの政治勢力の対立が激しくなっていた。オスマン帝国崩壊にともなってイラクに王国が成立したのは1921年のことだった。そのころイラクはイギリスの委任統治下におかれていた。イラクが正式に独り立ちの国家として成立したのは1932年だったが、イギリス・イラク条約によって事実上のイギリスの間接統治が続いた。このため、イギリスの庇護の下で、親英派の旧オスマン帝国軍人や官僚たちによる政権が続いた。
                               一方でイギリスの中東政策に批判的なアラブ民族主義政治グループが台頭してきた。政権の座についた権力者が反対派を封じ込めて体制維持をはかる役目を軍に期待し、軍を増強する例はめずらしくない。増強された軍はやがて軍の権益拡大のために政治グループと結びつき政治に介入し始める。
                               第2次世界大戦が始まるとイギリスの支配下にあったイラクで、反英派のイラク人政治家がドイツと組んでイギリスの支配を断ち切ろうとする動きを見せた。1941年3月、軍のアラブ民族主義者たちのクーデタによって、親ドイツ派のラシード・ガイラーニーが首相になった。
                               イギリスは追放された前首相を保護下に置き、イラクへ軍を進めた。そこでガイラーニーはドイツに軍事援助を求めた。成り行きによっては、中東でイギリスとドイツの代理戦争が始まりかねない情勢だった。
                               ドイツはガイラーニー政権への援助物資をバルカンのトルコ国境まで輸送できる。だが、そこからイラクに輸送するためには、どうしてもトルコ領内を通過しなくてはならない。ドイツはトルコに隣接する西トラキアの一部などをトルコに割譲するのと引き換えにイラクへの援助物資のトルコ領内通過を認めて欲しいと告げた。
                               対英関係に配慮するトルコがドイツの要求を呑むことを渋っているうちに、イギリスはインドから送り込んだ部隊を使ってガイラーニー勢力つぶしにかかった。ドイツからの援助物資が届かないかぎり、イギリスによるガイラーニー勢力の一掃は時間の問題だろう。
                               触れれば火傷しそうなほど熱い昨今の政治動向に関連した報告書でもあれば田川の死の理由を探る糸口になると槙村は期待していたのだが、それらしいものは見つからなかった。槙村は20日いっぱいをかけて田川が東京に送った報告書や、田川が宿舎に残していた書籍、ノート類に目を通した。だが、これといった収穫はなかった。
                               槙村は21日、田川と親しかった二等書記官の島原から、田川の行動について話を聞いた。島原は大使館きってのトルコ語の使い手だった。また、田川より1年早く大使館に赴任してきた先輩でもあった。
                              「田川さんがトルコ人の若い女性と一緒に死体で見つかったことは、私にとっても驚きでした。田川さんの身辺にはあまり女っ気が感じられませんでしたから。なんというか、洗濯したてのシャツのような清潔感のある感じの人でしたから。多分、日本に田川さんの帰国を待ちこがれている恋人がいるのかもしれない、などと私たちは思っていたのですよ」
                              島原が言った。
                              「一緒に死んでいた女性、名前はチチェキというのですが、その名前を田川からお聞きになったことはありませんでしたか」
                              槙村が念のために聞いた。
                              「いいえ、それらしい名前は耳にしたことがありません。ご覧のとおりアンカラは荒涼とした開発途上の首都でして、ここに駐在する各国の外交官たちは暇をみつけてはイスタンブールに出かけます。そこにはなつかしいヨーロッパの匂いと、海から吹いてくる涼しい風がありますから。アンカラでは連合国側と枢軸国側の外交官は必要な公式接触の場を除いて、顔をあわせることがなくなりました。とはいえ、このとおりの狭い世間ですから、外交官たちの私行に関わる噂は、回りまわって伝わってくるのです。某国大使館高官が最近イスタンブールのフラットにギリシャ系の美女を囲い、用件をつくっては足しげくイスタンブールに通っている、とかなんとか。イスタンブールへ女あさりに出かけることを、ここの外交官連中は『ポアソン・グレック(ギリシャの魚)を味わいに行く』と隠語で言っています。たしかに、マルマラ海はダーダネルス海峡を通じてエーゲ海につながっていますから、本物のギリシャの魚がエーゲ海から入ってくるかもしれない。各国の大使ともなるとアンカラの夏の暑さを避けて涼しい海風の吹くイスタンブールの領事館や大使の別邸に行き、備え付けの小型ヨットに外交団やトルコ政府高官らを招いて海に出て、ボスポラス海峡で本物のポアソン・グレックの釣りを楽しんでいます。そうした釣り大会が密談の場になることもあるそうです。あるいは、某国の書記官がイスタンブール出張のさいはめをはずしてペラのバーでブランデーをあおった勢いで、日ごろ中の悪かった某国の館員と殴り合いのけんかをしたとか。アンカラは外国人にとっては閉塞社会ですから、うさばらしにこの手の噂は珍重されるのです。ですが、田川さんについてはこうした噂はこれっぽっちも聞いたことがありませんでした」
                              「大使や総務担当一等書記官から聞いたのですが、田川は経済情報以外にも、ソ連の軍事情報収集の手伝いをしていたそうですね。もっとも、田川が自分の名前でソ連情報を本省に送った形跡は見あたりませんでした。おそらくソ連専門の書記官に情報提供していた程度なのでしょう。島原さん、ソ連情報の関係で田川と何か話をなさったことがおありですか」
                              「ええ、ソ連情報に関心があると田川さんはいっていました。いまどき日本の在外公館に勤務している外交官であれば、誰しもそうでしょうが、極東におけるソ連軍の兵力配置に関する情報収集と、ソ連側の対日情報収集工作についての情報集めです。こんなことを武官の方に申しあげるのは気がひけるのですが、ソ連は兵力の一部をヨーロッパ戦線に移したがっている。移動の前提は日本のソ連極東地域への進攻の可能性が薄いと確信できることです。ソ連はその点に関して日本の情報をほしがっている。一方で、ドイツはソ連の兵力をこれまで通り極東部にはりつけておきたい。そういうことで田川さんはソ連とドイツの大使館員と接触を重ねていたのではないでしょうか。田川さんのいまひとつの関心であるボスポラス海峡に対するソ連の野心についての情報収集も目的だったのでしょう」
                              「田川はどの程度の情報収集ができていたのでしょうか。その点で何かお気づきになったことは?」
                              「こういう言い方は亡くなった田川さんに失礼かもしれませんが、しかるべき訓練を受けたことのない外交官に諜報員もどきの秘密情報盗み出しなどしょせん不可能でしょう。外交官にできることは情報の分析とその分析にもとづいた将来予測です。しかし、その予測を出したところで、天気予報みたいにあたるも八卦あたらぬも八卦と、棚の上に放りあげられておしまいなのですが」
                              「田川のいまひとつの関心だったボスポラス海峡へのソ連の野心については、なにかご存知でしょうか」
                              「田川さんは学究肌のところがありましてね。イスタンブール大学法学部のスタイナウアー教授と親しく、教授の指導でボスポラス海峡の通航権問題と取り組んでいました。スタイナウアー教授はユダヤ系ドイツ人です。ナチの迫害をうけている一流のドイツ人学者の受け入れに積極的なイスタンブール大学に招かれて、そこで国際法を教えています。ボスポラス通峡権問題では、世界的な権威の1人だそうです。田川さんはイスタンブール出張を利用してはスタイナウアー教授に会って研究の指導を受けていたようです。一方、帝政ロシア時代からのロシアのボスポラス海峡に関する政策については、アンカラのソ連大使館員ボリス・ボフスキーがその専門家で、彼からさまざまな資料や情報を仕入れてもいました。ボフスキーも田川さんもアンカラ大学のギュチュリュ教授の研究室へよく出入りしていました。この教授もトルコ側から見たボスポラス海峡問題の専門家といわれています。私がお話できるのはこの程度のことです。すこしでもお役に立てばうれしいのですが。ところで、大使館のトルコ人職員ケレム・オザンとお話になりましたか。田川さんはトルコ政府や他国の大使館、地元新聞との接触のさい、トルコ語が必要と思われるときはオザンをともなって出かけていましたから、彼から私が知らない部分についてもお聞きになれるかも知れません」
                               そう言って島原は自分の仕事へもどっていった。

                               

                              2019.05.22 Wednesday

                              『だまし絵のオダリスク』   第15回

                              0

                                 
                                 列車がアンカラ駅に到着した。風の強い朝だった。槙村は小型の旅行鞄ひとつでアンカラ駅に降り立った。アンカラの鉄道駅は市の中心部からはずれたところにあった。もともとアンカラはイスタンブールにくらべれば小さな田舎町にすぎない。アンカラは田舎町の原野を切り開いて造成されている開発途上の都市だ。不便なうえ気候も厳しい。アンカラの夏は暑く、冬は雪に埋もれる。政務だけのあじけない人工都市だ。
                                 1923年に成立したトルコ共和国は首都をアンカラに定めた。首都がトルコのイスタンブールからアンカラに移ってからも、各国ともしばらくは大使館をイスタンブールにとどめおいた。大使館のアンカラ移転は1930年代になってからのことで、日本大使館がアンカラからに移転したのも1937年のことだった。
                                 アンカラの街には一本の大通りがはしり、その名をアタテュルク通りといった。アタテュルク通りの両側にトルコ共和国議事堂、内務省、国防省、外務省をはじめとする政府機関の建物がならんでいた。ドイツ大使館、ソ連大使館、イタリア大使館、ハンガリー大使館、日本大使館、イギリス大使館、フランス大使館、アメリカ合衆国大使館などの外国公館もアタテュルク大通りに沿って建っていた。街にはまだ気のきいたレストランが少なかった。イギリス、ドイツ、イタリアの外交官や実業家、ジャーナリストたちが同じレストランで隣り合わせのテーブルを占めることもあったが、ヒトラーがヨーロッパで戦争を始めてからは、さすがに戦争当事国の外交官同士はそっぽを向き合っていた。
                                 19日朝、槙村はアンカラ鉄道駅からタクシーで日本大使館へ直行し、さっそくベルリンで指示を受けていた作業を始めた。

                                 槙村は今回のトルコ出張にあたってベルリンの大使館付海軍武官の飯島少将からトルコでやるべき作業の指示を受けていた。
                                 5月9日のことだった。槙村は海軍武官事務所の廊下で「槙村君」と飯島少将に声をかけられた。
                                「話したいことがある。君、いま手があいていますか」
                                「はい」
                                「では、私の執務室へ」
                                飯島少将の執務室に入った。飯島少将は例によって単刀直入に話の核心に入っていった。
                                「間もなくソフィアに出張ですね。そのあとしばらくの間トルコにも出張してくれませんか。アンカラやイスタンブールでやってもらいたい仕事があります。アンカラの大使館の通信部門の保安態勢の点検です」
                                槙村はだまって飯島の顔を見ていた。飯島が槙村の顔をじろりと見て話を続けた。
                                「外交電報が盗み読みされている疑いがあるのです。東京と大使館との秘密通信がアメリカ合衆国に漏れていると、ドイツから大島大使に警告があった。大島大使は第三帝国べったりで、日本帝国大使というよりドイツ第三帝国のお仲間のような人だ。だが、それなりにヒトラーに好感をもたれていて、リッペントロープ外相らから重要情報を聞き出して東京に報告している。大島大使が東京に送っているその機密情報がどこかで漏れているのではないかとドイツ側は神経をとがらせているのです」
                                「たしかな疑惑なのですね」
                                「ああ、どうやらね」
                                「それで、漏れているとすれば情報伝達ルートのどのあたりからと、見当がついているのでしょうか。情報漏れの場所はベルリンなのか、東京なのか、それともワシントンなのか。あるいは世界のどこかの大使館、あるいは領事館の通信室なのか。ひょっとして、日本の暗号通信が傍受・解読されているという致命的な原因によるものなのか」
                                「そのあたりはまださだかではなくてね。ともあれ各大使館の通信室の保安管理についてあらためて点検するよう東京から指示があった。槙村君、ドイツ進攻後のバルカン情勢視察に出かけるついでに、アンカラの大使館で通信保安管理について調べてもらえないだろうか。駐ドイツ海軍武官府がアンカラの大使館の機密保持について調査するというのは違例のことだ。だが、アンカラのほうでも、大使館独自に機密保持体制の点検を進めており、もし君が外部からの目でダメ押しをしてくれるのであればありがたい、と言っている。君がアンカラに出かけることについては、もちろん駐トルコ大使やあちらの武官からも了解をもらっている。海軍武官用の暗号が解読されているという情報はまだないが、こちらの方も、外交電報漏洩についてのトルコの外交筋の噂ともども、気にとめておいていただけるとありがたい」
                                「承知しました。できる限りのことはやります」
                                槙村は真面目な表情で答えた。
                                「ドイツ政府やドイツ国防情報部などに、君の出張について便宜をはかってくれるよう頼んでいる。先ごろ君の甥ごさん、田川君でしたな、イスタンブールで不慮の死をとげられたが、また事件の真相は解明されていないと聞いています。今回のトルコでの任務は暗号に関わる事柄なので、内密にしておきたい。そこで表向きは甥ごさんの死についてのイスタンブール警察の捜査のその後を知るためにトルコを訪れたということにしておいてください。イスタンブールではドイツ、イギリス、ソ連が熾烈な諜報線を展開していると聞いている。トルコで旅行の目的に関連して君に接近してくる人物がいるかもしれない。注意深い目配りと対応をお願いしておく。外交電報漏洩について何か手がかりになる情報がつかめるかもしれない」
                                飯島少将が念押しした。

                                 槙村は5月19日の午前中から大使館で通信保安関係の点検作業を始めた。大使館の通信室には通常の外交通信用の電信機が1台と、通信室の奥に施錠した別室があってそこに九七式欧文印字機とよばれる暗号機が備え付けられていた。機密度の高い通信はこの暗号装置を使っていた。
                                 外務省は海軍用に開発された暗号機に変更を加えて使用していた。海軍用はカタカナ印字、外務省用はアルファベット印字だった。九七式印字機は九一式印字機の後継機だった。1931年に九一式印字機が完成した。1931年が皇紀二五九一年だったことから九一式と名付けられた。後継機の九七式は1937年(皇紀二五九七年)に完成した。外務省用は暗号機B型と呼ばれた。外務省と同じ九七式欧文印字機が海軍武官用に使われていた。もちろん、一方の暗号が解読されても、残る一方の暗号は解読されないように、内部の暗号化メカニズムは変更されていた。
                                 暗号機の置いてある別室、つまり暗号通信室は常に施錠されていて、通信担当の二等書記官が1個、総務担当の一等書記官が1個をそれぞれの金庫で保管していた。また、暗号通信室の使用については使用簿に使用者、通信依頼者名、それに使用時間が記録されることになっていた。通常、使用者は通信室の通信担当員だが、機密の高いものは担当の館員が直接自分で暗号機を操作することもあった。
                                 暗号室に出入りできるものは日本人の館員に限られていた。また、東京や他の大使館から受信した電報は暗号電報をふくめ、通信担当の二等書記官が総務担当の一等書記官にわたし、そこから担当部署に配布されることになっていた。
                                槙村は総務担当の一等書記官が中心になってまとめた館内保安調書を読んだ。保安調書は大使館員から外部に機密情報が漏れていることはありえないと結論していた。大使館のトルコ人現地雇員の身元調査からも疑惑につながるような点はうかがえなかった。大使をはじめとする大使館幹部は、大使館関係者からの情報漏れは絶対にありえないと断言していた。この大使館から情報が漏れていたことはありえない、と槙村も感じた。
                                 

                                 

                                2019.05.01 Wednesday

                                『だまし絵のオダリスク』   第14回

                                0

                                   

                                        

                                   

                                   5月18日の日曜日、槙村はアンカラに向かった。イスタンブールのハイダルパシャ駅から夜行列車に乗って寝台車で一晩眠れば、19日の月曜日午前中にアンカラに着く。
                                   イスタンブールのヨーロッパ側を出たフェリーが対岸のアジア側の埠頭につくころ、西に傾いた陽をうけて、海岸から海に突き出た壮麗なハイダルパシャ駅の茶色の壁面が赤みをおびて輝いていた。駅舎としては、西欧に向けたオリエント急行のターミナルであるシルケジ駅よりも、アジア・中東に向けて開いたハイダルパシャ駅のほうがはるかに力感にあふれている。それは威容という言葉がぴったりだ。
                                   ハイダルパシャの駅舎を設計したのはヘルムート・クノとオット・リッターの2人のドイツ人建築家だ。1906年に着工、2年後の1908年にネオ・ルネサンス様式のこの駅舎を完成させた。
                                   ハイダルパシャ駅の敷地はマルマラ海沿いの軟弱な地盤だったので、長さ20メートルほどの材木を使って、千本を超えるパイルを打ち込んだ。ハイダルパシャ駅のファサードはドイツ人とイタリア人の石工が飾った。
                                   まるで海の上に浮かんでいるように見えるハイダルパシャ駅はいまや、東ローマ帝国時代やオスマン・トルコ時代の歴史的建造物にひけをとらない、イスタンブールの風景に欠かせない存在になっている。この建物の壮麗さはドイツ帝国が中東地域へむけたぎらぎらする野望の反映であった。
                                   19世紀末、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオスマン・トルコのスルタン・アブドゥル・ハミト2世に接近し、ハイダルパシャとアンカラを結ぶ鉄道の敷設権を手に入れた。中東へむけて勢力拡張をもくろむヴィルヘルム2世は、さらに、当時まだオスマン・トルコ帝国の領域だったバクダッドに至る鉄道敷設権もあわせて獲得した。
                                   カイゼル髭で日本でも有名だった膨張主義者ヴィルヘルム2世がトルコに向ける視線は熱く、皇帝(カイゼル)はトルコ訪問にあたって、ヒッポドロームにアルマン・チェシュメシ(ドイツの泉)とよばれる泉亭を建て、これをスルタンに贈っている。
                                   ハイダルパシャ駅はベルリンからビザンティウムを経てバクダッドを結ぶ3B政策、つまりはドイツ帝国の中東への野望の象徴である、とイギリスやロシアは警戒していた。
                                   しかし、野望はお互いさまだった。イギリスはそのころケープタウンからカイロを経てカルカッタに至る3C政策で世界制覇を企画していたし、ロシアは虎視眈々とアフガニスタンやペルシャへ南下する機会をうかがっていた。このため、インドを植民地にしていたイギリスは、ロシア相手にトルキスタンの高原で古典的諜報戦「グレートゲーム」を繰り広げていた。ラドヤード・キプリングの『キム』の世界である。
                                   槙村は見送りに来てくれたイスタンブール駐在の日本大使館員、別所剛三とハイダルパシャ駅の天井の高い気持のよいレストランで軽い食事を済ませた。プラットフォームまでつきあってくれた別所と車両の前で別れた。コンパートメントに入ってしばらくすると、軽い揺れがあり、列車がハイダルパシャ駅を離れていった。
                                   列車が動き出してしばらくは薄暮のなかに町の灯りが点々と見えていたが、やがてその灯りもまばらになり、列車の窓の外は濃い闇につつまれていった。
                                   夜空に星が見え始めた。槙村はコンパートメントの寝台に横になり、明日からアンカラでやらねばならないことを手帳に箇条書にしてみた。さして意味ある結果を期待できるような作業とは思えなかったが、ぬかりなさを価値とする役所仕事の手順として踏んでおくべき事柄だった。作業手順のあらましを手帳に書きとめおえて、槙村は眠気を誘い込むために列車の振動に身をゆだね、羊を数える代わりに、海軍暮しで身につけた就眠儀礼を始めた。
                                   海軍といえども平時の洋上勤務は退屈な毎日の繰返しで、当直勤務からはずれた夜は眠るぐらいしかやることがなかった。どうやって寝つくか。海軍軍人はそれぞれの就眠儀礼を持っていた。国鉄東海道線の駅名を東京から神戸まで数えるやつ、般若心経を繰返し声にはださずとなえ続けるやつ、枕草紙の記憶や自ら体験した濡れ場のシーンのページを頭の中でめくるやつ――これなどはかえって寝つけなくなるのではなかろうか。
                                   槙村のそれは銭湯談義風に世界史の中を漂い、その愚行の繰返しに苦笑しつつ眠気を呼び込む方法だった。列車の振動の中でいま槙村はその就眠儀礼を試みている。
                                   ――ヒトラーが率いるドイツはイタリア、日本と三国同盟を結んでヨーロッパを席巻している。ドイツはすでにブルガリアにまで勢力圏を拡大し、トルコを陣営に組み込む機会をうかがっている。ドイツは再びさまざまな利益誘導でトルコを自陣営に引き入れ、さらにはトルコを通過して中東への進出をねらっている。これはカイゼルの時代の3B政策の再現だ。
                                   かつてドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗して、ロシア、フランス、イギリスが三国協商を結成した。相互の反目はやがて第1次世界大戦へとなだれこんでいった。
                                   オスマン・トルコがイギリスのアームストロング造船所に発注していた戦艦スルタン・オスマン1世が、1914年、トルコに引き渡される直前になって英国政府に接収されたことがあった。もともとこの戦艦はブラジルが発注し、建造の途中でブラジルがトルコに転売したものだった。それを今度は第1次世界大戦にむけて英国が自国海軍の戦艦として使用することことにしたのだ。トルコに反英感情が沸騰した。これをドイツがうまく利用した。ドイツは巡洋艦2隻をトルコに派遣した。2隻の軍艦はイスタンブールの金角湾に到着した。軍艦が入港するとドイツはこの2隻をトルコに売却することにしたと、大宣伝した。こうしてドイツはオスマン帝国を味方に引き入れ、同盟国として第1次世界大戦に参加させることに成功した。だが、この参戦がオスマン帝国の命取りになった。
                                  「歴史は繰り返す」と最初に言ったのは、『アレクサンドロス大帝事蹟』を著したクィントゥス・クルティウス・ルーフスで、彼の死後さまざまな人が同様な趣旨の言葉を繰り返した。カール・マルクスは、おそらく彼が書いた本のなかで一番面白い『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の冒頭で、世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるものだとヘーゲルがどこかに書いていたが、私に言わせれば、ヘーゲルは、「最初は悲劇として、二度目は茶番として」と付け加えるのを忘れた、と書いている。
                                   結局、人間は数限りない茶番を繰り返し、それを歴史とよんでいるのだ。時の権力者とその取り巻き連中の頭の中に巣くっているのは陣取りゲームの図面だ。その図面を権力者たちはマンダラ(涅槃図)とよび、その実現を唱えて人をかり集める。古代エジプト第19王朝のラムセス2世は当時のエジプト人の平均寿命の倍近い80年以上を生きたといわれている。だが、その長い人生のほとんどを、領土拡張と戦争のためについやした。パレスティナをめぐってヒッタイトと争い続けたが決着はつかなかった。そこで平和条約を締結して休戦。大勢の女性に200人近い子どもを産ませた、と伝説は言う。アブシンベルに神殿をつくり自らの巨大な石像を刻ませた。ラムセス2世の号令で戦の場に駆り立てられた兵士もまた、命をかけたゲームの興奮に酔いしれて、前後不覚の状態になっていたのだろう。巨人とその巨人を尊崇するその他大勢の大行進。その懲りない繰り返しが歴史なのだ。もっとましな人生もあったろうに、もったいないことだ。
                                   ……やがてめでたく槙村は眠りに落ちていった。

                                  2019.04.19 Friday

                                  『だまし絵のオダリスク』    第13回

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                                    「槙村さん」
                                    ピーター・ケーブルが改まった口調で言った。
                                    「けさブルー・モスクにいらっしゃいましたね」
                                     彼は尾行に気づいていたのだ。槙村は認めるしかなかった。
                                    「ええ、一度中を見たいと思っていましたので」
                                    「私もイスタンブールに来た知人を案内して来ました。確かに一見の価値があるモスクです。オスマン・トルコ時代にモスクに転用されたアヤ・ソフィアが1930年代に非宗教の博物館になったので、スルタン・アフメト・ジャーミーとシュレイマニイェ・ジャーミーがイスタンブールを代表する2大モスクになっています。スルタン・アフメト・ジャーミーがブルー・モスクとよばれるのは、モスク内部が壁面にはられたタイルの青い色でみたされているからです。スルタン・アフメト・ジャーミーは1609年、アフメト1世が19歳の時に建設を始めた。スルタンはこのモスクに相当いれこんでいたようで、時には現場に立って建設作業を激励・督促したと伝えられています。モスクは1616六年に完成したが、アフメト1世はその翌年の1617年に27歳で若死にしました。ブルー・モスクがおもしろいのは、ミナレットが6本も建てられていることです。スルタンがミナレットを『アルトゥン(金色)にせよ』と言ったのを、建築家が『アルトゥ(6)』と聞き間違ったからだといわれていますが、この手の話の真偽のほどは例によって定かではありません。いやいや、これはどうも。イスタンブールに来る客をしょっちゅう案内するので、すっかり能書きを覚えてしまいました」
                                    「モスクを建てるだけために生まれてきたようなスルタンだったわけですね。おもしろい話をありがとうございます」
                                    「歴史がおもしろくなるのはアフメト1世の死後です。アフメト1世の妃キョセムはギリシャ系の奴隷で、アフメト1世の死去後、彼女が生んだ子のオスマン2世、ムラト3世、イブラヒムや、孫のメフメト4世が次々とスルタンになったので、ヴァリデ・スルタン(スルタンの母)として長期間権勢をふるいました。だが、ついにはハレム内の勢力争いで孫のメフメト四世の母后、つまりは息子の嫁であるトゥルハン・ハティゼに殺された。トゥルハン・ハティゼの命を受けたハレムの宦官長が、カーテンの絹の紐でキョセムの首を絞めたそうです」
                                    「チチェキ嬢も絹の紐で絞殺されていた」
                                    槙村のこの言葉にピーター・ケーブルの表情がちょっとゆがんだ。だが、彼は再び話題をブルー・モスクにもどした。
                                    「オスマン2世は叔父にあたるムスタファ1世にスルタンの座を奪われたのち殺された。スルタンを直接手にかけたのは、スルタンの親衛隊イェニチェリでした。イェニチェリはもともとスルタン直属の精鋭部隊で、槙村さんのお国の日本でいえばトクガワ・ショーグンのハタモトのような存在でしたが、オスマン2世のころには堕落の果てに、戦力としてはもはや頼りにできなくなっていた。軍改革を進めようとしていたオスマン2世がイェニチェリを潰すのではないかと恐れたイェニチェリの将軍たちが、スルタンを捕らえて塔に押し込めたすえ絞殺したといわれている。いや、スルタンは睾丸を潰されて殺されたのだ、という説も流布しています。奇妙な殺し方だが、それもスルタンを殺すためのオスマン・トルコの伝統的なやりかたのひとつだったのだそうです。アフメト1世の弟ムスタファ1世が跡をついだが、ほどなく甥のムラト4世によってスルタンの座を奪われた。ムラト4世が死ぬと、残された弟のイブラヒムがスルタンになった。彼は凶暴なだけの無能な君主で、ハレムの女性の不義を疑って妾姫数百人をボスポラス海峡に沈めて殺したと伝えられています。弟の異常な性格を危ぶんでいたムラト4世は死の床で、おれが死んだらイブラヒムを殺せと言い残したそうです。その通りイブラヒムの治世はおおいに乱れ、彼は退位後に監禁され、絞殺されました」
                                    「スルタンというのはろくな死に方ができない、幸い薄い仕事だったようですね」
                                    「かれらには死ぬ理由があった。現代では人はこれといった理由なしで殺されている。ゲルニカのように。ところで、チチェキがなぜ田川さんと一緒に死体で見つかったか、その理由はわたしにも謎なのです。田川さんが何らかの理由があって、チチェキをイスタンブールの謀略の世界に連れ込んだのではないか、と疑う気持もあります。さて、せっかくベルリンからお見えになった日本の海軍中佐殿とお目にかかれたのですから、ちょっと職業上のお話もさせていただけませんか」
                                    ケーブルが静かに言った。
                                    「外交情報についてはあまりくわしくないほうですが」
                                    槙村があいまいな口調で返事した。
                                    「世界の関心は、日本がまずソ連に向かってアジアの北方で戦端を開くのか、それともイギリスに対抗してアジアの南方へ兵を進めるのか、あるいは南北同時に戦線を張るのか、予想を裏切って中国問題で譲歩を見せるのか。戦略的見地から一般論として考えられる選択についてレクチャーしていただける幸いです。もちろん、お聞きしたその分析はオフ・ザ・レコードで、記事の背景説明に使うときあなたの名前がそこに引用されることは絶対にないとお約束します」
                                    もうこのくらいでおしまいにしてくれというピーター・ケーブルの婉曲な催促だと槙村は聞いた。

                                     

                                    2019.04.01 Monday

                                    『だまし絵のオダリスク』   第12回

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                                      イケメン・メフメトは槙村が去ったあと、両手で後頭部を支えながらしばらくオフィスの天井を眺めていた。やがて電話をとりあげて、イスタンブール警察本部のオメル・アシク警部と話し始めた。
                                      「きのう槙村中佐をチチェキの母親のところへ案内した君の部下は、槙村中佐について何か変わった点を報告しなかったか」
                                      「彼の観察では、中佐とチチェキの母親との話の内容や、中佐の態度にはとくに不自然なものは感じられなかったそうだ」
                                      オメル・アシクがイケメン・メフメトに言った。
                                      「信頼できる警官かな」
                                      もちろん。部下の中でも腕っこきの男だ。例の山羊髯の東洋人の身元調べも担当させている警官だ」
                                      うちでも調べているが、そっちのほうは何かあたりがあったかい?」
                                      イケメンが尋ねた。
                                       チチェキと田川が死体で発見された3月5日の前々日、つまり3月3日、イスタンブールの空港で東洋人の男が中華民国のパスポートで入国した記録があった。警察は念のため入国管理の職員に槙村の写真を見せた。その中華民国のパスポートで入国した男は、眼鏡をかけ山羊髯を生やしていた、と入国管理の職員は言った。その中国人は田川の死体が発見され日の朝、イスタンブール空港から出国している。
                                      「この男が日本によって差し向けられた殺し屋ではないかと君が疑う理由はなんだね、イケメン」
                                      オメルが揶揄するような口調で言った。
                                      「そやつが日本の殺し屋だったとすると、この殺人事件の真相はいまわれわれが考えているものとは全くちがう方向へ展開して行く可能性がある。田川とチチェキは日本が放った殺し屋によって処分されたという筋書きになる。合理的かつ実証的な捜査のベテランである君から見ると、実にばかばかしいことだろう。だが、なぜ槙村中佐がこの時局多難なおり、甥の殺害事件だとはいえ、彼に捜査ができるわけでもないイスタンブールにまたぞろ現れたことを私は奇妙に思っているのでね。そもそも日本をとりまく状況を思えば、ベルリン駐在の武官がイスタンブールでふらふらしている時間などないはずだ。彼がイスタンブールを再訪した理由は、日本の外交官殺人に日本政府あるいは日本軍の複雑な内部事情が絡んでいるためではあるまいか――わたしはふと思い浮かんだ直感を大切にするほうなのだ」
                                      イケメンの口調は真剣だった。
                                      「君の息子のオルファンも君の夢想的なところを引き継いでいるようだな。小学校で同級の僕の息子が、オルファンは昼間から夢を見ていてなかなか覚めない、といっていたよ」
                                      イケメンの返事に、オメルが笑いながら反応した。
                                      「そうかい。ところで奥さんとはうまく行っているかい」
                                      「なんとかね。ところで、わが方の夫婦仲をお訪ねになる君の方こそどうだね」
                                      「うん、浮気は感づかれているが、まだわかれるところまではいっていない。それはともかく、山羊髯の身元を確認してくれないか。そうしないと、どうも気持がおちつかない」
                                      イケメンはオメルに穏やかな口調で言って電話を切った。
                                       イケメンが受話器を置いて間もなく電話が鳴った。受話器をとると国会議員の父親からだった。首都アンカラからイスタンブールに帰ってきたので、今夜晩飯をいっしょに食おう。家族みんなを連れてレストランに行こう、という内容だった。
                                       イケメンの祖父はオスマン朝の高官だった。オスマン朝の崩壊で地位は失ったが、巧妙に立ち回って資産を保全した。その資産で祖父はイケメンの父親と貿易会社を始め、祖父の死後、父親は国会議員になった。祖父と父親の人脈と資産でイケメンはドイツのミュンヘン大学で優雅な留学生活を送り、帰国後、イスタンブールで弁護士事務所を開いたが、弁護士商売の方はあまりはやらなかった。エムニエトの幹部だった父親の友人に誘われて情報機関の仕事をするようになった。
                                       情報機関の仕事そのものは、イスタンブールで開業したばかりの新米弁護士が依頼されるような仕事にくらべると刺激があって面白かった。だが、情報機関には政治情報の分析だけでなく、秘密工作という暗い仕事を担当する部門があった。やがてそうした工作部門から漏れ伝わってくる非情な話がイケメンの気持を暗くした。イケメンの妻は彼女の一族が経営する船会社の役員を務めている。彼女は情報機関の仕事を辞めてもとの弁護士の仕事にもどるようイケメンに言うのだが、イケメン自身は辞めるにしても、今度の戦争で見舞われているトルコの危機が去らないうちに、この仕事を放りだすのは卑怯だという思いにもとりつかれていた。
                                       イケメンは父親と夕食の約束をし、妻にもそのことを電話で連絡した。

                                       その夜、槙村は深川の紹介でパーク・ホテルのテラスでイギリスの新聞特派員ピーター・ケーブルと会った。さすがにイスタンブールはベルリンより暖かく、5月ともなれば東京と同じで、もはや夜の外気が身にしみるということはなかった。テラスの向こうには暗いボスポラス海峡とマルマラ海を航行する船の灯りがちらついていた。黒海からやってきてイスタンブールへ入港する大型客船の盛りたくさんの電飾もあった。目の下のヨーロッパ側の海岸線にはにぎやかな光があった。対岸のアジア側の光もかすかに見えた。
                                      「田川さんのことはお気の毒だった。あなたのお気持はわかる。私もチチェキを失うことになって残念だ。あなた同様に、今回の不幸な出来事については私もこれという心当たりがないのです」
                                       ピーター・ケーブルはとがった鉛筆のように細身の男だった。話し方から生まれや育ちのよさが感じられた。彼は父親が外交官だったのでドイツで子ども時代を過し、ケンブリッジ大学を卒業した後、ドイツの大学でドイツ政治を勉強したことがあった。そういうわけで、槙村とピーター・ケーブルはドイツ語で話した。
                                      「チチェキ嬢と田川がどういう風にして知り合ったのか、どんなつきあいをしていたのか、もしかしてご存知では?」
                                      「もし私がそのことを知っていたら、まずなによりもチチェキをわが方に取り戻すべく懸命な努力をしたでしょう。彼ら2人がどのようにして知り合い、どんな関係にあったのか、何も知らなかった」
                                      「チチェキ嬢の母親と昨日の午後、会いました。ケーブルさん、あなたはチチェキ嬢の母親とお会いになったことは?」
                                      「いえ、一度も会ったことがありません」
                                      「チチェキ嬢の周囲には田川のほか、イギリス人やドイツ人、それにシオニストの影がちらついていた、と母親は言っていました。ケーブルさん、あなたはそうした影に心当たりはありませんか?」
                                      「人間はひとりで生きているわけではありませんから、その周囲にはおのずと人の影がつきまとわります。チチェキは魅力的な女性だったから、その分ちらつく人影は多かったでしょう」
                                      「わたしはね、イスタンブールの国際情報戦争のなかでチチェキ嬢が何かの役割を占めていたのではなかったかという気もしているのです」
                                      「たしかにイスタンブールはスパイが跳梁跋扈している土地です。私が日常接触する人々の中には、だれそれはドイツのスパイだから気をつけろ、あいつはイギリスのスパイだが裏でトルコ政府に情報を流し、その情報をドイツや、金次第でソ連にも売っている、などと無責任な噂を流す輩がいます。そうした連中も何らかのわるだくみがあって、噂を流している、というわけです。イスタンブールで真実を探すのは河原で砂金を集める以上に根気のいる仕事です」
                                       ピーター・ケーブルの口元に笑いが見えた。槙村にはその口元の笑いが、彼に対するあざけりとも、ケーブルの自嘲のようにも見えた。
                                      「ケーブルさん、あなたはチチェキ嬢と結婚のお約束でもなさっていたのですか」
                                      「いいえ」
                                      「チチェキ嬢のフラットの家賃はあなたがご負担なさっていた?」
                                      「チチェキには愛人役の謝礼として毎月きまったお金を渡していましたが、その金はそっくりチチェキが母親に渡していたようです。ですから、あのボスポラス海峡が眺められるフラットの家賃はチチェキが自分の才覚で支払っていた。そのあたりはチチェキの個人的な事情なので深く尋ねもしませんでした」
                                       ふと気がつくと給仕が近くに立っていて、何かおかわりでもいかがと尋ねた。
                                      「ブランデーとコーヒーを頼む」
                                      ピーター・ケーブルが言った。槙村はチャイを頼んだ。ホテルのレストランやバーの窓に人影がちらついていた。室内のやわらかな灯りがふと槙村にモニカ・コールのことを思い出させた。
                                       

                                      2019.03.24 Sunday

                                      『だまし絵のオダリスク』    第11回

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                                          イケメン・メフメト保安課長はオフィスで、渋い表情をつくって槙村を待ち受けていた。
                                        「槙村中佐。申し上げておきますが、イスタンブールではあなたに捜査権はありません。どう説明されようと、あなたが今朝おやりなった行為は尾行というもので、れっきとした捜査活動の一つです。さらに、あなたがピーター・ケーブルを尾行したことで、われわれの尾行に支障が生じた。あなたはイスタンブール保安本部の業務の妨害もなさっている。これ以後、ピーター・ケーブルをつけまわさないでいただきたい」
                                         イケメンは穏やかな声で言ったが、彼の目は槙村を見据えていた。槙村がイケメンに反論しようとした。イケメンはそれを制して、再び口を開いた。
                                        「あなたはイスタンブールで、ある外国人の行動に関心を持ったすえ、その人物の後をつけた。つけられたほうの人物から迷惑行為であると苦情の申し出がないかぎり、当局がしゃしゃり出るような一件ではない。だが、その男がピーター・ケーブルとなるとそうはいかなかったのです。3月のペラ・パラス・ホテルの爆発事件。あの件についてピーター・ケーブルが何らかの情報を持っているとにらんで、われわれは彼の行動を監視していた」
                                        「それは申し訳ないことをした。あなた方の仕事を妨害するつもりはまったくなかったのですが」
                                        槙村は素直に謝った。その言葉にイケメンはからかうような調子で応じた。
                                        「ところで、尾行は面白かったですか。ピーター・ケーブルを尾行しているとき、なにか変わった気配をあたりに感じませんでしたか?」
                                        「それはどういうことでしょうか」
                                         槙村はイケメン・メフメトの口調に底意地のわるさを感じて聞き返した。
                                        「わたしの部下はピーター・ケーブルがあなたの尾行に気づくのではないかと、ハラハラしながら尾行していた。やがて状況がどうも奇妙なことに気がついた。ケーブルをつけている槙村中佐をさらに尾行している者がいたのだ」
                                        「私が尾行されていたって」
                                        「そうです。あなたは尾行されていた。尾行されるような、なにか心当たりは?」
                                        「そんなものはない。なぜその者たちがピーター・ケーブルでなく、私を尾行していたと判断できるのですか」
                                        「われわれはピーター・ケーブルの尾行を重ねてきた。これまではわれわれ以外に彼を尾行する者はいなかった。今日はじめてわれわれ以外に、あなたがピーター・ケーブルを尾行した。尾行するあなたの後ろをつける別の人物がいた。彼らの注意はピーター・ケーブルでなく槙村中佐、あなたの方に向けられていた」
                                        「そうか。ピーター・ケーブルのあとをつけていたわたしに尾行者がつき、それをあなたの部下が尾行していた。ピーター・ケーブルはまるで金魚のウンコのように尾行者をひきつれて土曜日のイスタンブールを散歩していたのか」
                                        「そういうことだ。あなたを尾行していたのは2人組みの男だった。それに私の部下3人がピーター・ケーブルをつけていた。あなたを合わせて6人もの男が団子状になってピーター・ケーブルを尾行していたわけだ。あなたをつけていた2人組みの男は、イェニ・ジャーミーあたりでわれわれの存在に気づいて姿を消した」
                                        「そいつらは何者だったのだ。見当がついているのですか」
                                        「それについては、いま調査中だ。私の部下によると、あなたを尾行した2人組みの男には、単に尾行するだけでなく、機会があればあなたに危害を加えかねない危険な雰囲気があったそうだ。この道のベテランの意見だから、槙村中佐、暗がりや人気のない場所では今後周囲に十分注意されたほうがいい。この1年ほどの間に田川さんをふくめて5人の外国人がイスタンブールで不審な死に方をしている。いずれも未解決のままだ」
                                        「それはどうも。ご注意ありがとう」
                                        「ところで、槙村中佐。あなたはベルリンを発つ前に、すでにピーター・ケーブルについて何らかの情報を仕入れていて、それでピーター・ケーブルを尾行していたのではありませんか。でないと、イスタンブール到着3日目に、自らピーター・ケーブルの尾行を始めるという早業の説明がつかなくなる」
                                        「さすがに慧眼ですな」
                                         槙村はイケメン・メフメトに敬意を表して驚いた表情をつくってみせた。
                                        「ベルリンを発つ前、アプヴェールの知人から内々でイスタンブールに陣取っている主要国の情報機関のあらましについて説明してもらった。そのなかにピーター・ケーブルの名前が出てきた」
                                         槙村はここで一歩踏み込んで見る気になった。
                                        「そのアプヴェールの知人が、イスタンブールはスパイ・ゲームの中心だ、と教えてくれた。前の大戦でドイツに加担して失敗したトルコは、今度の大戦では中立の姿勢を貫こうとしている。だが幸か不幸か、戦略的においしい位置にある中立トルコは垂涎の的だ。ドイツ、イギリス、ソ連のスパイがごちそうにたかるハエのように飛んでくる。そこでトルコの国家安全保障局エムニエトは、外交官や情報機関で働いている疑いのある外国人、ジャーナリストやビジネス旅行者、貿易業者、運輸関係者を徹底した監視下においている。外国人の場合は、トルコの国内旅行をするにも許可証が必要になる。許可証のことをテズケレとかいいましたね。さらに、外国人は国内旅行の先々でも監視下におかれている。エムニエトは、ホテルや外国人が働いたり住んだりしている建物で働くトルコ人をインフォーマントにしたてている。田川といっしょに死体で見つかったチチェキが、実はピーター・ケーブルの動静を探るためにエムニエトが送り込んだ女スパイだったとしても、私は驚きませんね。イスタンブールに再来したマタハリです」
                                        槙村の言葉にイケメン・メフメトは怒るどころか、ヒゲがへの字に曲がるほどの大口を開けて笑い出した。
                                        「槙村中佐、あなたは才能がおありだ。小説を書かれるといい」
                                         槙村はイケメン・メフメトの大げさな反応を無視して、話を続けた。
                                        「エムニエトは場合によっては、外国公館の書記官や武官、情報機関員とみられる外国人から、丁重ではあるが遠慮なく直接事情聴取もする。今、私に対しておやりになっているようにね。その一方で、エムニエトの内部は、ドイツ派、イギリス派に分裂しており、エムニエトが得た情報が外部にもれている」
                                        「なるほど。それで、そのアプヴェールの知人はエムニエトのだれがドイツ派で、誰と誰がイギリス派だと教えてくれましたか。わたしの処世の参考までに拝聴したいものです」
                                        「私が聞いたところでは、現在の長官はドイツに対して友好的で、副長官はイギリスに同調的ということでした。本当にそうなんでしょうかね。それはさておき、ピーター・ケーブルの話にもどりますが、あなた方のお考えでは、彼はどこの国のスパイなのですか」
                                        「みんながそれを知りたがっている。イギリスは彼のことをイギリスに忠誠を誓った二重スパイだと信じている。ドイツはピーター・ケーブルが自分たちの二重スパイだと思っている。ソ連は彼がイギリスの二重スパイであれ、ドイツお抱えのスパイであれ、それはいっこうかまわない。重要なことはピーター・ケーブルがソ連社会主義のシンパであることだと考えている。われわれトルコ側にとっては、彼は正体不明の危険人物なのです。ピーター・ケーブルを尾行しているのも彼の接触相手を見つけることが、その目的の一つです。槙村中佐、そちらのほうで何か情報をつかんだ際は、われわれにもご協力ください」
                                        「お役に立てるような情報があれば、喜んで提供しましょう。ですが、ご期待に添えるかどうか、あやしいものです」
                                        槙村が言った。
                                        「ところで、槙村中佐。こういってはなんだが、今日のあなたの尾行はどうも不用意にすぎましたな。ピーター・ケーブルを尾行していた私の部下が、あなたの尾行ぶりは尾行していることに気づいてくれといわんばかりのやり方だったといっている。どうも不自然ですな」
                                        イケメンが別れ際に槙村に言った。

                                         

                                        2019.03.09 Saturday

                                        『だまし絵のオダリスク』   第10回

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                                           朝食をすませて槙村はロビーで『イスタンブール・ガゼット』の見出しをながめていた。ルドルフ・ヘスのイギリスへの逃亡についての続報を探していた。5月17日土曜日だった。
                                           ピーター・ケーブルがパーク・ホテルの玄関でホテルの従業員に声をかけ、しばらくのあいだ立ち話をしていることに、槙村は気がついた。ピーターは従業員の肩をかるくポンポンとたたいてわかれた。
                                           槙村は発作的に椅子から立ち上がり、ピーター・ケーブルの後を追った。チチェキの母親から前日聞かされたピーター・ケーブルの長い週末散歩のことが頭をかすめたからだ。
                                           ピーター・ケーブルはホテルの隣の旧ドイツ大使館の方をちらとうかがったあと、タクシム広場へ向かってギュミュシュ・スユの坂をいかにも朝の散歩らしく、ゆったりとした歩調で登っていった。
                                           昨日の曇天とはうってかわった明るい朝だった。坂道の下にはボスポラス海峡が空の青に染まって輝いていた。海峡の向こうに広がるアジア側の丘陵と海岸沿いの建物もくっきりと見えた。空気が澄んでいるからだ。槙村はピーター・ケーブルの後をゆっくりと歩いた。
                                           坂道を登り終えてタクシム広場に出たピーター・ケーブルは、屋台の花売りのおばあさんから槙村が名前を知らない黄色の花を買い、キオスクにも寄って雑誌を1冊買った。タクシム広場は近代化を模索する新生トルコ共和国最大の都市イスタンブールの新しい中心になり始めていた。オスマン帝国のスルタン・マフムト一世が一八世紀中葉、ここに生活用水の配水場を建設したのがタクシム広場の始まりだといわれている。のちにここには兵舎や軍の演習場、墓地なども造られた。ケマル・アタテュルクがオスマン朝を崩壊させた後、これらの施設は取り払われ、跡地には競技場と広場がつくられた。タクシムとは分割・分配を意味するアラビア語起源の言葉で、配水場が広場の名前の由来だ。
                                           時刻はまだ午前10時ちょっと前だったが、さすがに5月も半ばをすぎると晴れた日のイスタンブールの日差しは強い。ピーター・ケーブルはタクシム広場で共和国記念碑をちらりと見やり、イスティクラル通りへ向かって急ぐ様子もなく歩いていった。
                                          イスティクラル通りは、ベルリン子がクーダムと短く呼びならわしているクルフュルステンダム通り、パリのシャンゼリゼ通り、ニューヨークの5番街、東京の銀座にあたるイスタンブールの目抜き通りだ。レストラン、菓子屋、バー、カフェ、ナイトクラブ、ダンスホール、衣裳店、劇場など歓楽と消費の施設ばかりでなく、イギリス、フランス、ソ連、アメリカ合衆国、オランダ、ベルギー、スウェーデンなどの旧大使館庁舎が周辺に建ち並んでいる。
                                           イスティクラルとはアラビア語起源の言葉で独立を意味する。通りの名はケマル・アタテュルクのトルコ革命後に命名された。それ以前はペラ大通りと呼ばれていた。イスティクラル通りに沿って広がる地域はオスマン帝国時代以前のビザンティン時代からペラと呼ばれてきた。ペラは「〜の向こう」というギリシャ語である。都の中心部だった旧市街のビザンティウムから金角湾を越えた向こうにある土地のことだった。オスマン時代になるとやがてここはベイオール(貴人の息子)とよばれるようになった。その由来はベイと尊称でよばれる貴人の息子がここのあたりに住んでいたことがあるからだと伝えられているが、それが誰だったかについては諸説があって定かではない。
                                           イスタンブールはビザンティン時代・オスマン時代を通じて多民族が住み着いた国際都市だった。オスマン帝国末期のころにはベイオールは人口の半分が外国人だといわれるほどの国際色豊かな街区になり、ロシア革命後には革命から逃れて国外に脱出してきた白系ロシア人も多く住みついた。
                                           土曜日午前中のイスティクラル通りには、そういったコスモポリタンやディアスポラの哀愁が醸しだすエキゾティシズムと前夜の退廃にみちた歓楽の名残が入り混じり、滓のようになって漂っていた。ピーター・ケーブルはイスティクラル通りをテュネル広場に向かって歩いていった。タクシム広場からテュネル広場までは1キロ半ほどの距離だ。
                                          槙村は2、30メートルの距離を保ちながらピーター・ケーブルのあとをつけた。ピーターはあたりを見回すこともせず、振り返ることもなかった。自分が尾行されていることなど想像もしていない無防備な歩き方だった。
                                          やがてピーターがサンタマリア・ドゥラペリス教会の前の十字路を右に折れた。ピーター・ケーブルが向かった先はペラ・パレス・ホテルだった。
                                           ペラ・パレス・ホテルは応急修理をして、とりあえず営業を再開してはいるものの、3月の爆発事件の傷跡はまだ建物のあちこちに残っていた。ピーターはフロントの係りに話しかけた。フロントが笑顔で対応していた。
                                           しばらくして30歳ぐらいの背の高い、イギリス人を思わせる面立ちの女性がロビーに現れて、笑顔でピーター・ケーブルに手を差し出した。ピーター・ケーブルはその手を握りかえし、黄色の花束をわたした。
                                           やがて2人はペラ・パラス・ホテルの玄関を出て、イスティクラル通りにもどり、テュネルの駅に向かって歩いた。テュネルの駅で2人は地下ケーブルカーに乗ってカラキョイへと下っていった。
                                           イスティクラル通りは金角湾やボスポラス海峡から急な坂道を登った丘の上にある。1875年にこの地下式のケーブルカーが建設された。途中に駅はなく2点を結ぶだけの短い地下鉄道だが、地下鉄であることに変わりはなく、地下鉄としてはロンドンに継ぐ世界で2番目に古いものだ。
                                           テュネルを降りるとピーター・ケーブルは連れの女性と肩を並べてガラタ橋に向かった。路面電車や大型自動車が橋を渡ると、浮橋であるガラタ橋が揺れるような気がした。
                                           ガラタ橋を渡るとそこは旧市街のエミノニュだ。イェニ・ジャーミーが威容をみせ、その直ぐそばにエジプシャン・バザールがある。
                                           ピーター・ケーブルがイェニ・ジャーミーの中へ入っていった。女はエジプシャン・バザールの人ごみを眺めながらモスクの外で待った。観光客相手のお土産売りが女に近づき、スカーフやネックレスを見せたが、女はニッコリとわらって柔らかに勧誘を断った。
                                           モスクの中は数人がお祈りをしているだけでがらんとしていた。ピーター・ケーブルはモスクの壁際に立って上方のドームをしばらくながめていた。やがて女が1人接触して来た。ピーター・ケーブルが接触した女には、薄暗いモスクの遠目の観察だが、ヨーロッパの服装を着ていながらどこか中東の雰囲気が漂っていた。2人は短く言葉を交わしたあと、モスクを出た。
                                           槙村はモスクの中の弱い光から明るい外へ出たとき、一瞬目がくらんだ。そのとき、モスクの外の数人の男が槙村に鋭い視線を向けていることに気づいた。
                                           ピーター・ケーブルら3人はガラタ橋のたもとから路面電車に乗った。イスタンブールの路面電車は19世紀後半に馬が引く軌道馬車として始まり、第1次世界大戦の数年前に電化された。ピーター・ケーブルたちは車両の前方に乗り、槙村は後方の席に座った。ピーター・ケーブルたちはスルタン・アフメト・ジャーミーの近くで電車を降りた。
                                          ブルー・モスクの入り口で中東風の女は首にまいていた薄い絹のスカーフを頭からかぶった。もう1人のイギリス人らしい女はスカーフを持っていなかった。入り口の係りがピーター・ケーブルにきちんとたたんである布を手渡した。ピーター・ケーブルがそれを広げて女に渡した。女はそれをかぶった。
                                           ピーター・ケーブルたち3人はしばらくドーム内部の青いタイルをながめ、広い床に敷きつめた絨毯に頭をこすりつけてお祈りする人たちを見ていた。
                                           ピーター・ケーブルたち3人は出口へ向かった。ピーター・ケーブルが女からスカーフを受け取り、それを丁寧に折りたたんで、出口に立っている男に渡した。ひょっとしてピーター・ケーブルがスカーフに何かを包んで男に渡したのではあるまいかと疑い、槙村はその男の顔を記憶にとどめた
                                           3人は急ぐでもなくぶらぶらとエミノニュのフェリー乗り場へ向かって歩いた。
                                           フェリー乗り場で3人はアジア側へ渡るフェリーに乗った。3人に続いて船に乗ろうとしたとき、槙村は2人の男に両腕を抱えこまれた。
                                          「失礼ですが、イケメン・メフメト保安課長がお目にかかりたいといっています」
                                          男の1人が低い声の英語で言った。

                                           

                                          2019.02.22 Friday

                                          『だまし絵のオダリスク』    第9回

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                                            槙村は深川の助手アスムをともなって5月16日金曜日、まずイスタンブール保安本部のイケメン・メフメト外事課長とイスタンブール警察本部のオメル・アシク警部を尋ねた。イケメンとオメルとの再会はそれぞれお互いの壮健を確認するだけの内容のないものに終った。ただ、槙村はオメルが語ったチチェキの母親からの聴き取りに興味を覚えた。チチェキはイスタンブールで繊維製品を扱っているユダヤ系トルコ人の貿易商に気に入られ、求婚までされていた。それなのに、日本からきた素寒貧の外交官と一緒になって東京へ行って住むのだ、と娘が言い張った――母親が憤懣やるかたない口調でそう語ったというのである。槙村がその母親に会ってみたいというと、オメルが部下の1人を案内役につけてくれた。
                                            チチェキの母親は金角湾沿いのユダヤ人が多く住むバラット地区に住んでいた。槙村が借りあげたハイヤーは新市街から旧市街に向かってガラタ橋を渡った。ガラタ橋は浮橋だった。浮き箱(ポントゥーン)を並べて架橋する軍事目的の応急の橋は昔からあり、とくに珍しい技術ではない。ヘロドトスの『歴史』によると、ペルシャのクセルクセスの軍勢がギリシャを攻めるにあたって、ダーダネルス海峡に舟を並べて2本の浮橋を架け、何万もの大軍をアジアからヨーロッパへ渡らせたそうである。
                                            だが、長期間にわたって民生用の橋として使う目的で幅30メートル弱、長さ500メートルほどの鉄製の浮き橋がかけられ、その上を路面電車や自動車が行き来しているのは珍しい風景だった。浮橋が建設されたのは、金角湾の底には泥の層が30メートル以上も堆積していて、橋脚を建設するのが困難だったからだ。
                                            車がガラタ橋を渡りきったところにイェニ・ジャーミーがあった。そのモスクの前で車は右折し、金角湾を右手に見ながら湾の奥の方へ向かった。テオドシウスの城壁が金角湾とぶつかる手前あたりがバラットだった。
                                            「槙村中佐。イスタンブールには、この街がコンスタンティノープルと呼ばれるようになる前からユダヤ人が住み着いていました。しかし、ユダヤ人のイスタンブール定住が促進されたのは、メフメト2世がコンスタンティノープルを征服し、その後ヨーロッパへ向かって帝国の領域を拡大していったころからです。テッサロニキ、ブルガリア、マケドニア、アルバニアからハンガリア、さらにはスペインからもユダヤ人がイスタンブールに移住してきました。東欧から来たユダヤ人がアシュケナジム、スペインから移住してきたのがセファルディムです。移住してきたユダヤ人たちはバラットのほか、金角湾をはさんでバラットの対岸にあるハスキョイやガラタ、ボスポラス海峡沿いのオルタキョイ、さらにはボスポラス海峡を渡ったアジア側のユスキュダラなどに住みつきました。いま車が走っているあたりがフェネルで、以前はギリシャ人が多く住んでいた地区でした。ここを抜ければバラットはもうすぐです。かつてはバラットには20近いシナゴーグがあったそうですが、いまでは少なくなりました」
                                            アスムが槙村に説明した。
                                            同行していた警官が運転手に車をとめるよう指示した。警官がアスムにトルコ語で何かを告げた。
                                            「ここで車を待たせて、少し歩くそうです」
                                            アスムが槙村に言った。
                                            石畳の道の両側に木造3階建ての、日本風にいえば長屋のような建物が続いていた。建物の板壁はすでに塗りがはげていた。曇り空の乏しい光が生活のわびしさをより強く感じさせた。二階や三階の出窓の下から洗濯物干し用のポールが何本も路地の上に突き出ていていた。色あせてくすんだ洗濯物が干してあった。
                                            路地は土を固めその上に石を敷いただけの簡易舗装だが、敷石が剥れてあちこちにくぼみができていた。路上では子どもが大きな声をあげてはしゃいでいた。その姿を道路端の老人と黒猫がぼんやり眺めていた。
                                            荒れた石畳の道を右に折れると、その先に今度は石造りの2階建て、3階建ての建物が続いた。
                                            警察官は石造りの3階建ての家に入り、まもなく初老の男をともなって出てきた。
                                            「この人が大家さんです。チチェキの母親の部屋に案内してくれます」
                                            警官が言った。
                                            チチェキの母親は大家の隣のフラットの1階に住んでいた。居間の窓は小さく、明かりもつけていなかったので、室内はうす暗かった。だが、チチェキの母親はかつての美貌がはっきりとわかる面立ちであることが見てとれた。
                                            チチェキもおそらくはこの母親の20数年前の容姿そっくりだったのだろう。彼女は不機嫌そうな顔つきで、しかし、大家と警察官の手前、しぶしぶ槙村たちを居間に招き入れた。警官とアスムが交互に訪問の用件を説明した。チチェキの母親が口を開いた。刺のある口調だった。
                                            「あの男は娘を使って、危ない情報集めをさせていた。ドイツやロシアやトルコからね。そのうえ、チチェキがユダヤ系ということでここのシオニストたちの動向も探らせていた。娘がそう言っていましたよ。いやな仕事だけれど、それさえ終われば好きな男と日本で暮らせる――なんて馬鹿ばかしいことをね。あなたの親類の若い男と出会ってさえいなかったら、チチェキは死ぬこともなかったでしょうに。せっかく金持の貿易商から結婚の話があったというのに」
                                            「チチェキさんに危ない情報集めをさせたという、あの男というのは日本人の男ことですか」
                                            槙村が聞いた。
                                            「ちがいますよ。チチェキが日本人の男とつきあい始めるまで親しくしていた男ですよ。新聞の特派員でイスタンブールに来ている男。スパイもやっているといううわさのあるイギリス人です」
                                            「そのイギリス人の名前はピーター・ケーブルですか」
                                            「ええ。そんな名前でした」
                                            「チチェキさんはそのピーター・ケーブルというイギリス人のスパイの手伝いをさせられていたのですか。どんなことをやらされていたのですか」
                                            「チチェキにダンスの相手を頼んできた男が踊りながらチチェキの耳元で数字をささやく。そうするとチチェキのほうは前もって聞かされて数字を男に伝える。娘はそういっていましたよ。だけどね、その数字が何のことかチチェキにはかいもく見当がつかなかった」
                                            「ほかには」
                                            槙村が言った。
                                            「ときどき散歩のお供をさせられるといっていた。それが退屈な散歩でね。何が面白いんだろうねえ。いつも決まった道ばかり歩いていて。イスティクラルからペラ・パレス・ホテル、ガラタ橋を渡ってシルケジからスルタン・アフメト・ジャーミーへ行く道順だったそうです。週末の午前中が多かったと娘はいっていましたよ」
                                            「いまのことは警察にも話してやったのですか」
                                            槙村がたずねた。
                                            「話しましたよ。尋ねられれば答えるしかないでしょうが。いまではしがない下層の女なんですから」
                                            チチックの母親は口をゆがめてかすれた声で言った。
                                            「チチェキさんが日本人の男とつきあいだしたのはいつごろからですか」
                                            「1年ほど前からだった。娘が死ぬことになった1週間ほど前に、あたしは娘のアパーへ行ったんです。そしたらチチェキが日本へ行くかもしれない、と言った。冗談をお言いでないよと、娘を問い詰めてわかった。日本に行くときは私のためにまとまった金を残しておく。チチェキはそう言ってましたけどね。あのときチチェキは日本の男と1年ほど前からつきあっていると私に言いましたよ」
                                            「ピーター・ケーブルという名前以外に、娘さんからイギリス人、あるいはドイツ人、シオニストたちの名前をお聞きになったことはありますか。外国人がしばしば娘さんと会ったり、娘さんのフラットを訪れていましたか」
                                            槙村がたずねた。
                                            「そんなこと、あたしが知るわけがないでしょうが。あれだけの器量良しだったから、言い寄る男はごまんといたでしょう。最近の娘の様子については、あたしよりも、ボスポラス・サライとかいう店に集まる常連さんの方が良く知っているはずだわ。そっちで聞くといいわ」
                                            チチェキの母親はそういうなり黙りこんでしまった。
                                            槙村は立ち上がって礼を言い、建物を出た。
                                            槙村は前回3月にイスタンブールに来たとき、イスタンブールの旧日本大使館庁舎、アンカラの大使館、田川の宿舎などで彼の遺品の整理に立ち会った。大使館員がすでに田川の業務日誌や郵便物などの通信記録を調べていた。田川の私物についてもあらまし整理ができていた。だが、それらの遺品には田川の死の理由とつながりそうな手がかりはなかった。
                                            遺品のなかに田川の日記帳、卓上式写真額、お守り袋があった。額の写真にはアメリカで交通事故死した田川の両親と、幼い田川の3人が写っていた。お守り袋は槙村がベルリンへ発つとき母親がくれた厄除けのお守り袋と同じ袋だったので、槙村の母が孫のイスタンブール行きにあたって与えたものだろう。
                                            日記は茶色の革表紙のA5版サイズのやや厚めのノートブックだった。そのノートに田川が昨年12月ごろ書き込んだメモに「花子」の名があった。「花子、贈り物」といった心覚え程度のそっけない記述だった。花子とはたぶんチチェキのことだろう。チチェキとおもわれる人名が書かれているのはそこだけだった。
                                            チチェキが母親に、田川とともに日本へ行くつもりだと言っていたわりには、田川の日記にはチチェキの存在感が希薄だった。日本が米英を中心とした勢力と対立を深め、国際的な孤立の道を突き進んでいるときに、外国の女性を日本に連れ帰り妻にしようと決意した若い外交官の、なにかしら気持の昂ぶりのような独白が書き込まれていて当然なのにと、槙村は不思議に思った。
                                            槙村はベルリンに帰ってからもときどき田川のメモを読んでいたが、新しい発見はなかった。田川とチチェキの接点についてはわからないままだった。

                                             

                                            2019.02.11 Monday

                                            『だまし絵のオダリスク』   第8回

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                                              「気持のよいホテルですね」
                                              「ええ、1938年に死んだケマル・アタテュルクはアンカラからイスタンブールに出てきたとき、この坂道を下った海岸沿いに建つドルマバフチェ宮殿に滞在し、夜になると取り巻き連中を従えてこのホテルのバーに姿をあらわしていました。ドルマバフチェ宮殿は白大理石造りの大きな建物です。オスマン朝が使い勝手のわるい古びたトプカプ宮殿に代わる新しい宮殿として、19世紀の中ごろボスポラス海峡の海岸に新築しました。ドルマバフチェ新宮殿はヨーロッパの宮殿建築様式を模倣する一方で、トプカプ宮殿の過剰な装飾性も残しました。まったくもって、権力者のあくなき浪費ですよ。この海峡沿いの土地は埋め立て地でスルタンの庭園として使われていたところでしてね。ドルマはトルコ語で埋め立て、バフチェは庭園のことだそうです」
                                              「スルタンに代わってアタテュルク大統領が寝泊りしたわけですか」
                                              「日本の明治維新で徳川の江戸城が皇居になったようなものです。権力者の有為転変は世のならいです。オスマン帝国最後のスルタンとなったメフメト6世は、イギリス軍の助けをかりてイスタンブールを脱出しました。1922年11月16日の早朝のことで、ひどい雨が降っていたそうです。メフメト6世は山の手に新築されたユルドゥズ宮殿で暮らしていて、そのユルドゥズ宮殿の前に救急車が待っていました。メフメト6世は救急車に積み込まれた。救急車は坂道をドルマバフチェ宮殿近くの海軍の埠頭へ向かった。メフメト6世はランチに移され、金角湾沖に停泊していたイギリスの軍艦「マラヤ」に運ばれた。残してきた5人の妻をよろしく頼むとスルタンはイギリス側に頼んだと伝えられています」
                                              アルコールのせいか深川の舌がなめらかになってきた。
                                              「帝国はいったん拡大しても、やがて自らの重みで崩壊してゆくものなんですね」
                                              槙村が言った。
                                              「帝国の幕切れはいつもながらみじめです。メフメト6世の逃亡を聞かされたアラビアの王子アリ・ハイデルは『神よ、このような意気地なしのスルタンからわれわれをお守りください』と嘆息したといわれています。ケマル主義者たちは、オスマン帝国の宮廷がボスポラス海峡のヨーロッパ側におかれたために、オスマン朝は柔弱なヨーロッパの風潮にかぶれ、武人としてアジアからやってきたときのテュルク族の魂を忘れはてた末に滅亡したのだ、とあざけりました。したがって、新しいトルコ共和国の首都をヨーロッパ側の歴史ある古都イスタンブールでなく、アジア側のアナトリア中央部にあるアンカラにすることにこだわりました。メフメト6世が逃げだしてから16年後の1938年の11月10日午前9時5分、メフメト6世の将軍だったケマル・パシャことケマル・アタテュルクが、ドルマバフチェ宮殿のかつてのハレム部分に設けられたアタテュルク専用の寝室で死にました。死因は過度の飲酒による肝硬変。享年57歳。いまや1938.11.10.9.5が新生トルコ共和国のもっとも聖なる数字なのです」
                                              深川の語りが熱をおびた。
                                              「アタテュルクがここで豪快に飲んだくれているのを私も見たことがあります。あれでは肝硬変で死んだのも無理はないといまにして思いますね」
                                              「太く短くですか。だが考えてみると、ケマル・アタテュルクは織田信長よりは長生きしている」
                                              槙村が軽口で応じた。われながら凡庸なコメントであったと槙村は思った。旅の疲れと酒の酔いの複合作用かもしれなかった。
                                              「はっはっは……織田信長はよかった。槙村さん、日本でトルコ帽といっている、例の帽子のてっぺんに房がついているやつ。ここではフェズと呼んでますがね。モロッコの町のフェズです。もともとはあのあたりで被られていた帽子なのですが、19世紀初めマフムト2世が国の近代化の象徴として、ターバンとローブの代わりにフェズとフロックコートの着用を進めたそうです。ちょんまげ姿で洋服を着はじめた日本人のようなものですわ。それで、オスマン朝が終わり、アタテュルクの共和国になると、こんどはアタテュルクがフェズの着用を禁止した。フェズを旧体制の象徴とみなした彼は、『帽子はつばがあるものだ。フェズはオリエントの後進性のあらわれだ』とのたもうたそうです。明治初期の日本の断髪や中国・辛亥革命後の辮髪の廃止を思い出させる話です。ある晩、レセプションにエジプトの外交官がフェズをかぶって現れたとき、アタテュルクはやにわに外交官の頭からそのフェズをはたき落としたそうですよ。たしかに織田信長なんだなあ」
                                              「深川さんはだいぶアタテュルクに惚れこんでいらっしゃるようですね」
                                              「槙村さん、タクシム広場にある共和国記念碑をご覧になりましたか。あれは1928年に建てられました。オスマン・トルコは第1次世界大戦で敗北したため、戦勝国のイギリスやフランスによって領土をむしりとられた。さらに、英仏の後押しでギリシャが小アジアに攻めこみ、当時スミルナとよばれていたイズミルなどエーゲ海沿岸の地域を占領しました。攻め込んできたギリシャ軍を1922年に追い払い、領土を確定し、スルタン制を廃止して、1923年にトルコ共和国を成立させたのがケマル・アタテュルクです。アタテュルクと彼の同志の群像が彫像になっているタクシム広場の共和国記念碑は、スミルナで宿敵ギリシャを撃破したことを国民の記憶にとどめるための戦勝記念碑であり、同時にまた、トルコが偶像崇拝を禁じたイスラムのくびきからも解き放たれたことを宣言する記念碑でもあるのです」
                                              「スミルナの戦いはそうとう凄惨だったようですね」
                                              槙村が言った。
                                              「凄惨を通り越して阿鼻叫喚の地獄だった、と語り継がれています。追いつめられたギリシャ軍はスミルナから逃げ出しましたが、スミルナの住人やスミルナに逃げ込んできたギリシャ系やアルメニア系の民間人は逃げ場を失い、一説によると何万という人がトルコ軍によって殺されたそうです。トルコ軍はスミルナの街に火を放ったともいわれています」
                                              「そうですか。ギリシャ側からみれば、共和国記念碑とはまた違った物語になるわけですね」
                                              槙村が言った。
                                              そのとき、深川が、
                                              「あ、槙村さん、いまホテルの従業員となにやら話している男、あれがピーター・ケーブルです。いまご紹介しましょうか」
                                              と言って立ち上がろうとした。その男はホテルのバーから庭に出るドアの近くに立っていた。
                                              槙村が深川を押しとどめた。
                                              「それは後日あらためてまたお願いできますか。今日は少々疲れましたので」
                                              「そうですか。そうしますか。では、私はそろそろ失礼しましょう。ぐっすりお休みください。明朝10時に私の助手のアスムを差し向けます。英語と日本語ができる信頼できるトルコ人です。私がトルコに来る前からうちの通信社で働いています。町の案内役にでも使ってください」

                                               

                                              2019.02.03 Sunday

                                              『だまし絵のオダリスク』   第7回

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                                                 ガラタ橋の上で路面電車とすれ違った。線路は橋の中央部にあって複線だ。線路の外側に車道があり、大型のトラック、乗用車、荷馬車が走っていた。橋の一番外側が歩道だ。背をまるめ大きな荷物をかついで歩く男たちの姿があった。
                                                「この橋は10年ほど前までは通行料をとっていたそうです。ところで槙村さん、話は変わりますが、ルドルフ・ヘスのイギリスへの単独飛行には驚かされました。ナチスの政権内部で何か重大な権力争いでも起こっているのでしょうか? 槙村さんがベルリンをお発ちになられたころ、何かそれらしい徴候がありましたでしょうか」
                                                別所のおしゃべりは止まらない。だが、彼の明るい性格のせいだろうか、槙村にはその饒舌がむしろ心地よかった。
                                                 ヒトラーの側近ルドルフ・ヘスが5月10日、単独飛行で密かに英国に飛んで、スコットランドのグラスゴー近郊にパラシュート降下したところをイギリスの警察に捕まった。5月12日に英国首相官邸が発表していた。おなじ日、ベルリンのナチ党本部が、ルドルフ・ヘスが自ら飛行機を操縦して10日夕にアウスブルクを飛び立ったまま行方不明になっていると発表した。イギリスの発表の翌13日になってナチ党本部はヘスがスコットランドにパラシュート降下したことを認めた。
                                                 ヒトラーに長年仕え、ヒトラーの『わが闘争』の口述筆記役までつとめたナチ党の重要人物が、ドイツが空からイギリスにばら撒いているスパイのように、パラシュートで舞い降りてきた前代未聞の事件だった。
                                                「ドイツ側の発表では、ヘスは精神に異常をきたしていたといっています。一方、イギリス側はルドルフ・ヘスの精神は正常で、パラシュート降下のさいくるぶしを痛めた以外に健康状態に問題はない、と発表しています。ですが、肝心の、彼がイギリスへ飛んでいった理由はまったく不明です」
                                                別所がかさねて槙村に問いかけた。
                                                「旅行で移動中のことなので、わたしには詳しい情報を仕入れる機会がありませんでした。なるほど、別所さんのほうがおくわしいようですな」
                                                槙村が答えた。
                                                「ヘスの英国行きについては、独英和平の提案に出かけたといわれていますが、真偽のほどはどうなのでしょうね。和平提案を抱えていたとすれば、ヒトラーの意を受けてのことでしょうか。それとも、狂気の沙汰としか思えないヘスの単独行動だったのでしょうか」
                                                「この事件についてトルコ政府がどんな評価をしているのか、あたってみると面白いかもしれませんね。もし、ヒトラーの指示でヘスがイギリスとの和平提案をかかえて行ったとすれば、背後にあるドイツのねらいは何か。おかめ八目、トルコ政府はそのへんを意外に冷静に分析しているかもしれませんよ」
                                                 槙村は別所にありきたりの返事をした。

                                                 槙村はパーク・ホテル2階の客室に案内された。部屋の窓を開けた。心地よい風が入ってきた。目を見張らせる海の風景がそこにあった。眼前左右にボスポラス海峡の濃紺の水面が広がっていた。対岸のアジア側の海岸線と丘の稜線が、イスタンブールを海と陸と空に分けていた。
                                                 オスマン帝国の最盛期である16世紀から17世紀、黒海からボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡、エーゲ海はオスマン帝国の内水だった。18世紀後半から19世紀にかけてオスマン帝国が衰退期に入るとともに、ロシアが南下して黒海周辺を勢力下におき、ボスポラス海峡の優先通峡権を要求し始めた。ボスポラスをはじめとするトルコの海峡は、まずロシア帝国が優先的な通航権を獲得した。続いてヨーロッパの列強が、解体してゆくオスマン帝国の属領の奪い合いに狂奔し、その列強のせめぎあいの中で、通峡権の問題も国際化されていった。ドイツに加担したオスマン・トルコが第1次世界大戦で敗戦国になったことで、海峡は国際管理下におかれ、トルコは海峡における主権そのものを失った。1936年のモントルー条約でトルコは海峡の主権を回復したが、ヒトラーのドイツがヨーロッパで戦争を始めるとともに、ドイツ、ソ連、イギリスが戦略上の必要性から再びこの水路の優先通航権の確保を争っている。
                                                 ブルガリアを日独伊三国同盟に参加させたドイツが、さらに一歩踏み込んでトルコへ食指を動かせば、イギリスとその背後にいるアメリカ、黒海の北にあるソ連がどう出てくるか。ボスポラス海峡の争奪をめぐって、トルコが大戦の新しい戦場になる可能性もある。トルコは中立という危うい綱渡りのバランスを必死で保とうとしている。
                                                 右手の金角湾のむこう、旧市街の歴史的建築物群が、3月にペラ・パラス・ホテルから見たときより、すこし距離をおいてながめられた。この距離感も悪くなかった。くわえて初春から初夏へと季節が移ったことで、風景がより明るく色鮮やかになったように槙村は感じた。5月のボスポラス海峡の輝きは目に痛いほど眩しい.
                                                 このところ世の中の動きが棹を失った舟のように、急加速する時代の濁流に押し流されている不安を槙村は感じていた。ペラ・パレス・ホテルでサボタージュによる爆発があった3月11日には、アメリカで武器貸与法が成立した。アメリカはヨーロッパの戦争に参加せず中立を維持していたが、ついに米議会がルーズベルト大統領に、連合国側に対して武器や食糧を供与する権限を与えたのだ。武器貸与法はまずイギリスに対して適用された。ヨーロッパの大戦にアメリカが一歩踏み込み、ドイツと対峙する姿勢を明らかにした。
                                                 3月下旬から4月にかけて松岡外相がモスクワ、ベルリン、ローマを訪問し、スターリン、モロトフ、ヒトラー、リッペントロープ、ムッソリーニとそれぞれ会談した。4月12日には日ソ中立条約が調印された。その翌日の13日には、ハル米国務長官と野村大使の間で日米交渉が始まった。ヨーロッパでは3月はじめにブルガリアが、続いて同月末にはユーゴスラビアも日独伊三国同盟に参加。4月はじめにはドイツがギリシャとユーゴスラビアに軍を進めた。ユーゴスラビアとギリシャは4月半ばドイツに降伏した。
                                                 槙村は、今回、5月12日にベルリンを出てソフィアに2日ほど滞在した。ソフィアのホテルはドイツ軍の制服を着て声高にしゃべる男たちであふれていた。ブルガリアを自陣営にとりこんだドイツは、ドイツ―ブルガリア間の物資や人員の輸送に鉄道を利用した。そうした列車にドイツの鉄道サービス会社ミトローパの客車が連結され始めていた。この新しいオリエント・エクスプレスをドイツ政府や軍やナチスの幹部がさかんに利用していた。槙村はベルリンのアブヴェールの手配でこうした軍用列車の1つを利用できる許可証をもらい、ソフィアから列車でイスタンブールに来た。ブルガリアとトルコの国境からイスタンブールまで陸路半日もかからない距離だ。トルコ政府がドイツの動きに神経をとがらせているのも当然のことだった。

                                                 

                                                「田川さんの事件ですが、どうやら警察は怨恨の線は捨てたようです。むしろ、この戦争と関わりあう謀略の一端に田川さんが巻き込まれたのではないか、と考えているふしがあります。スパイ天国のイスタンブールでは、各国の諜報機関の謀略をめぐるさまざまな噂が、まさに網の目のように絡み合っていて、警察も田川さん殺害の謎を解きほぐすのになかなか苦労しています」
                                                 日本の通信社のイスタンブール特派員の深川吾朗が槙村に言った。別所が槙村に深川を紹介した。深川はかれこれ5年近くイスタンブールで仕事をしてきた男だ。5月15日の宵だった。2人はパーク・ホテルのバーにいた。
                                                「そうですか。とはいえ、このまま迷宮入りなってしまったら、死んだ田川がかわいそうです。なぜ死ぬことになったのか、あだ討ちはできないまでも、死んだわけぐらいははっきりさせてやらないことには」
                                                そう言ったあとで槙村は古風で大仰なもの言いをしてしまったことに気づいた。
                                                「このホテルはいろんな国から来た新聞記者のたまり場でしてね。その新聞記者の中にはスパイを兼業しているヤツも少なくないという、もっぱらの噂です。とくにイギリスは新聞記者を諜報員に利用することが多いそうです」
                                                 深川が意味ありげな目つきで槙村を見た。彼は少しばかり声を落して話を続けた。
                                                「このホテルにイスタンブールにたむろするさまざまな国のスパイたちが、ビジネスマン、新聞記者、外交官をよそおって集ってきます。スパイたちの情報交換の場であり、憩いの場になっています。呉越同舟といったところです。このあたりは『ギュミュシュ・スユ』、日本語でいえば『銀の水』とよばれています。優雅な地名でしょう。ホテルの隣の建物は元ドイツ大使館で、大使館がアンカラに引っ越したいまは、ドイツ領事館として使われています。建物が立派なので、土地の人は今なおドイツ大使館とよんでいますが。したがって、パーク・ホテルにはドイツ人の客が多く、ドイツのスパイも多い。日本の旧大使館もすぐ近くにあるのですが、イスタンブールの情報戦では日本は脇役ですらありません。このパーク・ホテルを根城にしている記者の1人に、イギリスのクロニクル紙の特派員をしている男で、ピーター・ケーブルというヤツがいましてね。私よりちょっとばかり若く、30半ばのなかなかハンサムな男です。トルコ人の新聞記者の間では、ピーターはイギリス情報機関と新聞記者の二足のわらじをはいていると噂されています」
                                                 深川はここで一息入れ、テーブルの上のビールで喉を湿らせてから話を続けた。
                                                「田川さんと一緒に殺されたチチェキという若い女が、そのピーター・ケーブルの囲い物――いや、囲い物とはちょっと古臭かったです――愛人だった、という噂をつい最近聞きました。田川さんとチチェキが死んでいた、例のボスポラスの眺めの美しいフラットの家賃はピーター・ケーブルが払ってやっていたそうです。チチェキを使って田川さんから何か情報を引き出そうとしていたのではないか、とドイツ紙の記者がささやいていました。多分ドイツの情報機関の見方の受け売りなのでしょうが。槙村さん、ピーター・ケーブルと一度直接お会いになってはいかがですか。なにか、感触がつかめるかもしれませんよ。お膳立てなら私がしましょう」
                                                「それはありがたい」
                                                槙村が深川に礼を言った。

                                                 彼らのテーブルの隣にウェイターが数人の男女を案内した。椅子に座るとき色白で黒い髪、大きな黒い瞳の若い女が槙村と深川の方を見て微笑んだ。
                                                「お知り合いですか」
                                                槙村が深川に尋ねた。

                                                2019.01.30 Wednesday

                                                『だまし絵のオダリスク』    第6回

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                                                   陽光きらめく5月のマルマラ海が列車の右手にあった。
                                                   1941年5月15日木曜日の朝、マルマラ海は晩春から初夏にかけての瀬戸内海によく似ていた。底抜けに明るく、柔らかで、そして優しくみえた。
                                                   列車はすでに5世紀の初めに築かれたテオドシウスの城壁がマルマラ海に接していたあたりを過ぎていた。列車はマルマラ海を右に見ながら海岸沿いにしばらく直進し、やがて速度を落した。列車は左へ大きくカーブしたが、青い海はなお右側にある。
                                                   海の向こうにイスタンブールのアジア側がみえる。列車の左手は低い丘で、その上にトプカプ宮殿がある。かつてこのあたりには、マルマラ海の海岸線に沿って海からの攻撃に備えるための城壁が築かれていた。オスマン・トルコ時代にはトプカプ宮殿の離宮「夏の宮殿」と呼ばれる建物があった。その夏の宮殿は19世紀中ごろに火事で焼け落ちている。まもなく焼け跡はかたづけられ、その跡地でイスタンブールとヨーロッパを結ぶ鉄道の敷設工事が始まった。線路は海岸沿いの城壁の跡の内側、つまりトプカプ宮殿の構内の端をかすめて通ることになったが、オスマン朝の王宮はこのときすでにトプカプ宮殿から新築のドルマバフチェ宮殿へ移っていた。この線路をのちにオリエント急行が走ることになった。
                                                   列車はさらに速度を落して、再び左へカーブした。終着駅シルケジがすぐそこにあった。
                                                  「長旅、お疲れさまです。ホテルは大使館旧庁舎そばのパーク・ホテルをとってあります。いやいや、3月にお泊りだったペラ・パレス・ホテルの爆弾事件の夜は大変でしたね。ペラ・パレスとはちょっと雰囲気が違いますが、パーク・ホテルもまた居心地のよいホテルですよ」
                                                  日本大使館のイスタンブール庁舎に駐在している副領事の別所剛三が乗用車でシルケジ駅まで槙村を迎えに来てくれていた。別所はきびきとした明るい声で槙村に話しかけた。
                                                   槙村を乗せて車はシルケジ駅を出た。エミノニュの港のそばを通り過ぎた。忙しく発着するフェリーがあり、はしけが切れ目なく行き交い、カモメが飛びまわり、埠頭に物売りの姿があった。金角湾の対岸のガラタの埠頭で貨物船が煙突から黒煙を盛大にあげていた。
                                                   金角湾をまたいで2階建てのガラタ橋が旧市街と新市街を結んでいる。朝の光が旧市街のトプカプ宮殿、ハギア・ソフィアことアヤ・ソフィア、ブルー・モスクことスルタン・アフメト・ジャーミー、イェニ・ジャーミー、シュレイマニイェ・ジャーミーなどイスタンブールの風景を代表する建築物を照らしている。新市街にも歴史的建造物のガラタ塔などがあるが、どちらかというとそこは現代の街だ。すべての外国公館は新市街に建てられている。外国公館が旧市街に建てられることをスルタンが嫌ったからだ。
                                                  イスタンブールの歴史はヨーロッパ側の旧市街を舞台にして書かれている。東ローマ帝国や、オスマン・トルコ帝国の中心部が旧市街にあったからだ。イスタンブールに最初に街を築いたのはギリシャ人だとされている。そのギリシャ人たちを率いたチーフの名が「ビザス」だったことから、街はビザンティウムとよばれた。紀元後330年にローマ帝国のコンスタンティン帝がここを新首都に定めたことから、コンスタンティヌポリス、コンスタンティノープルと人々はこの街をよぶようになった。
                                                   13世紀のはじめ第4回十字軍は聖地奪回に向かう途中、ヴェネツィア共和国の誘いに乗ってコンスタンティノープルを攻めた。古文書によると、このときは難攻不落のテオドシウスの城壁ではなく、海側の城壁から攻めた。コンスタンティノープルに入った十字軍は金銀を略奪、虐殺をほしいままにした。女性とみるとてあたりしだい強姦した。尼僧もひきずりだして犯した。十字軍に同行したカソリックの僧はギリシャ正教の修道院に押し入って聖遺物をかっぱらった。戦は人種、宗教、信仰、文明にかかわりなく人を狂気に陥れる。
                                                   このときコンスタンティノープルのヒッポドローム広場に飾ってあった4体のブロンズの馬の像も略奪されてヴェネツィアに持ち去られた。ブロンズの馬はヴェネツィアのサン・マルコ寺院に飾られていたが、ナポレオンがヴェネツィアを攻めたさい戦利品としてパリに持ち帰った。のちにこのブロンズの馬はヴェネツィアに返還され、再びサン・マルコ寺院に飾られたが、イスタンブールまでもどって来ることはなかった。
                                                   東ローマ帝国の都コンスタンティノープルは1453年5月29日、メフメット2世率いるオスマン・トルコ軍の総攻撃を受けて陥落した。
                                                   メフメト2世はコンスタンティノープルを包囲したものの、はじめの数週間、堅固なテェオドシウス城壁に阻まれて攻めあぐねていた。先帝の代からの仕えている古手の将軍たちのなかには、メフメト2世に攻撃中止を進言する者もいた。まだ若者だったメフメト二世は、前線を回って兵を鼓舞した。都を陥落させたあかつきには、3日間にわたって略奪お構いなしと叫んだ。やる気を引き出すのは物欲と、古来、相場は決まっている。
                                                   東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコはマルマラ海に突き出た小高い丘の上の古代ギリシャの殖民都市ビザンティウム跡に新たな宮殿を建てた。やがてこの街はコンスタンティノープルともイスタンブールとも呼ばれるようになった。町の名前が正式にイスタンブールで統一されたのは、オスマン帝国が崩壊しトルコ共和国になってからのことだ。イスタンブールの語源ははっきりしないが、イスラムボル(イスラムがいっぱい)のなまりではないかとする説もある。
                                                  車はガラタ橋を渡ってヨーロッパ側新市街に入っていった。
                                                  「ペラ・パラスの爆弾事件ですが、その後の捜査はどうなりましたか」
                                                  槙村が別所にたずねた。
                                                  「結論から言うと未解決です。死者は6人、負傷者は20人を超えました。死者のうち2人は到着したイギリス大使館員らの警備にあたっていたイスタンブール警察の警官でした。警察も身内から死者を出したとあって、相当真剣に調べてはいますが、ここの警察の能力の限界でしょうか、はかばかしい進展はないようです」
                                                  「ソフィアから持ち込まれたという爆弾の出所については?」
                                                  「ソフィア脱出のさい、イギリス大使館員が列車に運び込んだ荷物のうち、持ち主不明のものが二つあったそうです。そのうちの一つがペラ・パラス・ホテルで爆発しました。残るいまひとつのスーツケースから不発に終った時限爆弾が発見されましてね。時限装置はドイツ製でした。いずれにせよ、爆弾が国外から持ち込まれたことで、トルコ政府首脳はほっとした様子です。トルコ国内の反政府分子の破壊工作だったらイギリスに対して負い目ができることになりかねませんから。イギリス側にはナチスあるいはナチスの息がかかったブルガリアの組織の仕業と見るむきもあるようです。逆に、ドイツ側はイギリス大使館員がブルガリアを去るにあたって、ブルガリア国内の線路を爆破するサボタージュ工作に使うつもりで爆弾を用意したが、ついうっかりしてイスタンブールまで持ち込んでしまった、という説を一時となえました。しかし、『ついうっかり』説はいくらなんでもイギリス大使館員がうかつすぎるというわけで、説得力に欠けました。トルコ政府はブルガリアの数ある政治組織の一つがやみくもにたくらんだ破壊工作との観測を出しています。この『やみくも』という言葉は意味深長だと思いますね。第1次世界大戦のひきがねになったサラエヴォの銃声を連想させます。火薬庫バルカン。ブルガリアもまたバルカン的分裂と混沌にみまわれている国です。犯行におよんだ組織の特定はまず困難でしょう。トルコ政府はなかなかうまいおとしどころ見つけたとうわさされています」
                                                  「なるほど。わが軍隊はドイツびいき、わが民はロシアびいき、わが妻はイタリア人なのだ――ブルガリア国王ボリス3世がそういってため息をついたという逸話をソフィアで聞きました」
                                                  「槙村さん、肝心の田川さんの事件の方ですが、概略、これまでベルリンに連絡したとおりで、こちらも解明への足どりははかばかしくありません。申し訳ないです」
                                                  別所は田川一郎殺害事件の捜査の停滞の責任が自分にあるかのような、まことに申し訳なさそうな声を出した。
                                                  「難しい事件になったようですね」
                                                  槙村が言った。

                                                  2019.01.20 Sunday

                                                  「だまし絵のオダリスク」   第5回

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                                                     内臓をひっくり返して口から飛び出させてしまうような爆発音がペラ・パレス・ホテルにとどろいた。槙村は視野の隅に青白い光を見た。と同時に、体が椅子から吹き飛ばされるほどの風圧と音圧を感じた。調度品が床にたたきつけられる音、窓ガラスが割れて飛び散るけたたましい音がロビーから聞こえた。槙村はイスタンブール庁舎に来ていた日本大使館の副領事別所剛三とともに、約束の時刻に10分ほど遅れてオリエント・バーに現れたイケメン・メフメト課長とオメル・アシク警部との4人で食前酒を飲んだ。午後9時すぎメイン・ダイニングルームに席を移し、それぞれが料理を注文し、その料理が運ばれてくるのを待っていたところだった。
                                                    メイン・ダイニングルームの客も恐慌をきたした。近くのテーブルの客たちの悲鳴が高い天井に響いた。テーブルの上から、皿、ナイフ、フォーク、グラスが床に落ちた。
                                                     オメル警部がテーブルの上にころがったワイングラスが床に落ちないようすばやく手でつかんだ。槙村ら4人も椅子から立ち上がった。
                                                    「ちょっと、失礼します」
                                                    イケメンとオメルがロビーに向かって走った。
                                                    「ボイラーでも爆発したのでしょうか?」
                                                    別所が言った。
                                                    「いや、爆発物だね。行ってみよう」
                                                    槙村が緊張した表情で言った。砲撃演習のとき嗅ぐのと同じようなにおいが漂ってきた。
                                                    「いってみましょう」
                                                    別所が応じた。
                                                     ロビーのフロント隣にある荷物保管室の壁が吹き飛ばされていた。壁板が燃え、火が広がろうとしていた。宿泊客のスーツケース数十個があたりに散乱し、ロビーの古風なソファーやテーブルもひっくり返り、窓ガラスが割れ、カーテンがちぎれていた。
                                                    「ドイツの攻撃だ!」
                                                    床の上に両膝をついてしゃがみこんでいる男が槙村を見て叫んだ。両腕で気を失っている女性を抱きかかえていた。槙村を見上げた男の顔は、ガラスの破片でもあたったのか血まみれだった。
                                                     飛び散った家具類の中に、宿泊客が倒れていた。爆発で両足と片手をもぎ取られた女性が玄関の方へ運ばれていった。
                                                    救急車と消防車が到着した。死傷者が運び出され、消火作業が始まった。次々に到着した警察車両から制服の警官が出て、ホテルの周囲をかためた。
                                                     1時間ほどたって次の爆発のおそれはないと確認された。爆発当時ロビーにいて、ホテルの庭などで足止めを命じられていた客が、大広間やダイニングルームによびもどされた。警察が聞き取りを始めた。
                                                     集まってきた新聞記者たちの求めに応じて警察がロビーの一角で状況説明を始めた。
                                                      別所は日本大使館員で日本人の安否を確認する必要があると警備の警官に告げて、槙村ともども新聞記者の中にもぐりこんだ。状況説明は警察本部次長と捜査部長が行った。イケメンとオメルがその近くに立っていた。警察本部次長が事件の輪郭を説明していた。
                                                    荷物保管室にはソフィアを脱出してこの夜イスタンブールに到着した駐ブルガリア英国大使館員たちのスーツケースが運びこまれていた。ナチスの支配下に入ったブルガリアはイギリスと断交に踏み切ったばかりだった。駐ブルガリア大使ジョージ・レンドゥル以下約50人の館員が、ブルガリア国王ボリス3世から提供された車両を使って3月11日朝ソフィアを出発、ヨーロッパの大戦が始まった1939年以降定期運行が中断されているオリエント急行と同じ線路を走って、同日午後9時、イスタンブールのシルケジ駅に着いたところだった。9時半ごろには全員がホテルに入り、間もなく爆発が起きた。
                                                    「確認できた死者は今のところ2人。重軽傷者が30人ほどだ。負傷者のうちイギリス大使館の関係者は10人ほどである。レンドゥル大使は1階の自室にいて無事だった」
                                                    警察本部次長が説明した。
                                                    「この階に客室があるのか?」
                                                    アメリカ人の記者が質問した。
                                                    「この階はグラウンド・レべルだ。1階はこの階上だ」
                                                    「イギリスの大使と外交官を狙ったテロだということですね。犯人の目星はついているのですか?」
                                                    イギリスの記者が質問した。
                                                    「犯人および動機については、現段階で断定的に言えるものはなにもない。ホテルあるいはトルコ政府に対するサボタージュなのか。あるいはイギリスの外交官に対するテロ行為によって、トルコとイギリスの友好な外交関係にヒビを入れようとする陰謀なのか。注意深く捜査する必要がある」
                                                    警察本部次長が答えた。
                                                    「トルコにはいろんな国から破壊工作員が潜入しているといわれている。くわえて、反政府活動を繰り広げている国内グループもある。たとえば、トルコ国内のアルメニア人組織が破壊工作をしたという可能性は考えられるのだろうか。ナチスあるいは他の外国勢力と共謀して」
                                                    地元トルコの記者が興奮した口調で言った。
                                                    「可能性としては排除できないが、これまでにわかったところでは、アルメニア人組織が加担しているという可能性は低い。爆弾は時限装置付きで、スーツケースの中に仕掛けられていた疑いが濃厚だ。そのスーツケースはイギリス大使館員の荷物にまぎれこんで、ソフィアで列車に積み込まれ、国境を越えてイスタンブールに運びこまれた。イギリス大使館の一行はゲシュタポやブルガリア警察が監視する中で列車に乗り込んだ。そのときスーツケースなどの手荷物も車両に運びこんだが、列車が動き出した後、持ち主が確認できないスーツケースが複数個あったことをイギリス大使館員から聴取している」
                                                    捜査部長が言った。
                                                    「現在、ホテル内で客や従業員から情報の聞き取りを行っているところだ。中立国トルコとそれを取り巻くイギリス、ドイツ、ソ連との微妙な関係については記者諸君がよくご存知のとおりだ。事件の解明は急がれるが、同時に捜査は慎重を期さねばならない。いまのところは以上だ。新しい情報が入り次第、お話しする」
                                                    警察本部次長が会見をしめくくった。
                                                     槙村と別所も警察官から質問された。イケメン・メフメト課長とオメル・アシク警部とダイニングルームで食事中だったことを話した。
                                                    「私はこれから事務所にもどってこの爆発の件を東京に報告します。槙村さんは今夜どうなさいますか」
                                                    「私の部屋は3階だからおそらく被害はなかったでしょう。しばらくここで様子を眺めていて、それから寝ることにします。不便なことがあるかもしれないが」
                                                    「では、明日また」
                                                     別所はホテルの外に出た。消防や警察の車両が緊急灯を点滅させていた。ホテル前の路上にはなおあわただしい雰囲気が残っていた。見上げるとホテル建物は黒々としたどこか不吉な闇につつまれていた。
                                                     別所がペラ・パレス・ホテルを出るのと入れ違いに、イケメン・メフメトが槙村のところへやってきた。
                                                    「大変な夜になってしまいました。ベルリンに発たれる前にお電話くだされば、都合をつけてお目にかかれると思います」
                                                    「明日アンカラの日本大使館へ向かいます。アンカラからイスタンブールに帰ってきたとき、もしお時間の都合をつけていただけるのであれば、お目にかかりたいと存じます。今日はありがとうございました。ごくろうさまです」
                                                    槙村がイケメン・メフメト課長にねぎらいの言葉をかけた。

                                                     

                                                    2019.01.12 Saturday

                                                    「だまし絵のオダリスク」   第4回

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                                                      「これはこれは、コンスタンティノープルの歴史をよくご存知で」
                                                      イケメンが笑顔を見せた。
                                                       イケメンと槙村のドイツ語のおしゃべりが終るのを我慢しながら待っていたオメル・アシク警部が脱線した話を実務的な方向に引き戻した。
                                                      「チチェキの男関係を洗う一方で、凶器に使われた拳銃を追っています。銃弾と現場に残っていた薬莢から、使われた拳銃はルガーP08かワルサーP38だと推定されます。フラットの住民から聞き込みをした限りでは、2人が死んだと考えられる3月5日の未明に、人が争う物音や銃声を聞いた人はいませんでした。深夜のことですから銃声はご近所に響くはずでしょうが、聞いたという証言はいまのところありません。消音器を使った可能性もあります」
                                                      「槙村中佐。ベルリンで勤務されている武官の方ならご存知でしょうが、ドイツ軍の軍用ピストルはルガーP08からワルサーP38への切り替えが始まっています。先の大戦でトルコはドイツと組んで敗れ、オスマン帝国が崩壊しました。ルガーはそのころトルコに大量に流れ込んできました。新たに誕生したトルコ共和国は、このたびのヨーロッパの戦争では中立を守っています。英国もドイツもソ連も自分たちの戦略上の都合からトルコを自陣営に引っぱりこもうと画策しています。その工作ための要員をトルコに送り込んでくる。ドイツの進撃によってヨーロッパ、特にバルカンから避難民がトルコに流れ込んでいます。こうした人たちとともに、さまざまな武器もまたトルコ共和国に持ち込まれ、その一部がイスタンブールの闇の社会に流入しています。絞りこみはなかなか難しい仕事になります」
                                                      イケメンが補足的な説明をした。
                                                      「殺害される前の田川とチチェキの行動についてはどの程度把握できているのでしょうか?」
                                                      槙村が訪ねた。
                                                      「ラーレという名のカジノで2人を見かけたという証言を得ています。2人は午後10時ごろやってきて、男2人を交えた4人で酒を飲みながらしばらく話しあっていたそうです。その2人の男については残念ながら詳しいことはわかっていません。テーブルに酒を運んだ給仕は、チチェキはもちろんアジア系の男性についてもよく覚えているが、2人の男については印象が薄かったと言っています。ということは、その男は給仕が普段の生活の中で見なれているトルコ人だったのかもしれません。2人が目撃されたのはそのカジノが最後でした」
                                                      イケメンが答えた。
                                                      「田川はこの1年ほどは仕事の応援で頻繁にアンカラからイスタンブールに来ていたそうです。イスタンブール庁舎で留守居役をしていた大使館の同僚の話では、田川はあの日の午後7時ごろ行く先を告げずふらりと庁舎を出たそうです」
                                                       日本大使館が1937年にイスタンブールからアンカラに移ったあと、イスタンブールの旧大使館の建物は、日本大使の夏の別邸という名目で、大使館のイスタンブール出張所的な役割を果たしていた。アンカラから派遣された留守居役が庁舎の管理にあたっていた。また、しばしは業務で大使館員がアンカラからここに派遣されていた。
                                                       イケメンのオフィスからみえるイスタンブール旧市街の空から茜色が消えて、あたりが闇につつまれ始めていた。エミノニュの街の明かり、金角湾の小船の航行灯がはっきりと見え始めた。甥の田川が生きていた最後の日にイスタンブールの街に出たのはこんな宵だったのだろうか、と槙村は思った。
                                                       イケメンは槙村の表情にベルリンからの長旅のせいだけではない疲労感を見た。槙村の方はイケメンの顔にほんの一瞬だが緊張が走るのを見た。
                                                      「槙村中佐」
                                                      イケメンが口を開いた。
                                                      「田川さんの姿が最後に目撃されたベイオールのラーレというカジノは、イスタンブールに住む外国人のたまり場のひとつでしてね。経営者はギリシャ系トルコ人ということになっていますが、実質的なオーナーはドイツのアプヴェール(国防情報部)です。ラーレはトルコ語でチューリップの花のことですが、同時に囚人や狂人に使う首かせの意味もあります。どうも悪趣味な店名ですな」
                                                      「アプヴェールですって。それはたしかなことですか」
                                                      「ポルトガルのリスボン、スペインのマドリッドなど他の中立国の大都市と並んで、いまやイスタンブールは各国からおしかけてきたスパイたちのにぎやかな社交場になっています」
                                                      「そんなににぎやかですか?」
                                                      「ええ、沸騰寸前です。槙村中佐も職業柄よくご存知でしょうが、聞くところによると、アプヴェールをはじめとする各国の情報機関は軍事情報入手のために、飛行機を使った上空からの偵察や、無線の傍受、捕虜の尋問といった直接的な方法と、プレスの情報や積み重ねてきた情報の比較検討や再評価、あるいはエージェントを使って政府機関や外交公館からの情報入手などに励んでいるそうですね。イスタンブールで流行っているのは、もっぱら盗み見、盗み聞きによる情報入手です。アプヴェールはイスタンブール市内にいくつかのバーやカジノを開いています。情報機関が水商売に手を染めるのも、酒で人の口を軽くし、酒席に侍る女性の脂粉や柔肌を使って国家機密を引き出そうともくろんでいるからでしょう。ラーレはその一つです。こうした店が秘密情報の取引所になっていることは、この街で外交や情報の仕事をしている人々の間ではよく知られていることです。そうした業界のクラブのようなところに、いろんな国の同業者が集まって、歓談しつつ互いの腹を探りあい、情報を交換し、なんらかの意図があって捏造した偽情報を売り込みあっているわけです。イスタンブールだけで200から300人がこの手の情報売買で飯を食っています。ふざけた話です。もちろん、ラーレに来る多くの客は諜報の仕事とは関係のない、くつろぎだけを求める一般のトルコ人や外国人ですが」
                                                      「なるほど。上海のようですね」
                                                      「ええ。私自身は上海に行ったことがありませんが、イギリス、フランス、ソ連、アメリカ、日本に加えて、国民党や中国共産党の諜報員でごった返している、なにかと騒がしい街であることは話に聞いています。イスタンブールの諜報合戦は上海のそれに似ている。保安本部としては田川さん殺害の動機として怨恨以外の線も考慮にいれているのです。そこで念のためにお尋ねするのですが、槙村中佐、あなたは田川さんと諜報活動のかかわりあいについて何かお聞きになったことはありませんか」
                                                      「私はベルリンに勤務して1年ですが、その間、田川に会ったのは今年1月、田川がベルリンにやってきたときの1度だけです。田川のトルコ勤務は2年を過ぎていました。田川は大使館で経済担当の三等書記官でしたが、アンカラから東京やベルリンに送ってくれた手紙には、そのようなことを感じさせるものはありませんでした。日本大使館はなんと言っていましたか?」
                                                      「アンカラの日本大使館からの公式の回答はそのような接点については心当たりがないというものでした」
                                                      イケメンに代わってアシク警部が言った。
                                                       そのとき、オフィスのドアがノックされ、さきほど槙村を案内した長身の若い男があらわれた。イケメンとオメルは若い男と廊下に出た。しばらくしてイケメン1人が部屋に戻ってきて槙村に言った。
                                                      「警察本部から至急の連絡が入って、本部庁舎まで行かねばならない。話を中断することになってまことに申し訳ないが、この続きはいずれ機会を見て、ということにしていただけないだろうか」
                                                       槙村は椅子から立ち上がった。イケメンが右手を差し出し、手短に別れの言葉を言った。午後6時半すぎだった。
                                                      「私はこの近くのペラ・パレス・ホテルに泊まっています。もしご迷惑でなければ今夜、ペラ・パレスでお食事をご一緒しながら、話の続きをおうかがいできればよろしいのですが」
                                                       ペラ・パレスはイスタンブールを代表するホテルだ。アガサ・クリスティーの『オリエント・エクスプレスの殺人』は1934年に出版された。日本語訳がその翌年の1935年に『十二の刺傷』というタイトルで刊行された。訳者は延原謙。クリスティーはペラ・パレス・ホテルの常連だった。グレアム・グリーンの『スタンブール・トレイン』が出たのはその前の1932年のことであり、物語の最後にやはりペラ・パレス・ホテルが出てくる。ペラ・パレス・ホテルはオリエント急行でヨーロッパからやってくる金持や著名人が泊まる宿だった。このホテルには各国からさし向けられたスパイもたむろしていた。伝説のスパイ「マタハリ」もこのペラ・パレス・ホテルに泊まったと噂されている。
                                                      「わかりました、槙村中佐。イスタンブールご滞在の日程が短いご様子なので、今日中に事件の情報交換をすませてしまいましょう。2時間後でいかがですか。オメル・アシク警部ともども行けると思います」
                                                      「では、午後8時半に。オリエント・バーでお待ちしています」


                                                       

                                                      2019.01.06 Sunday

                                                      「だまし絵のオダリスク」    第3回

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                                                         イケメンが捜査の本筋からそれていつもの饒舌に流れている気配を感じたオメルが割って入った。
                                                        「まず、チチェキに強い恨みをもつ者の犯行が考えられます。犯行が深夜のことなので現場周辺の聞き込みで得られる情報は限られています。しかしながら、槙村中佐のイスタンブールご滞在中に、なにか良い情報をお伝えできるよう努力します」
                                                        「期待しています。わたしは18日にベルリンに帰る予定です。その前にアンカラへも行かねばなりません。ところで警部、チチェキという女性ですが、田川とはどんなつながりがあったのでしょうか。日本大使館では田川とそのような女性との関係にはとくに心当たりがないといっていましたが」
                                                        槙村がオメル・アシク警部に問いかけた。
                                                        「女性の名はチチェキ・ヤルマン。チチェキはトルコ語で『花』のことです。チチェキはベイオールのナイトクラブやバーのいくつかと出演契約していたダンサーでした。彼女はチチェキの名をダンサーとしての芸名にも使っていました。外国人向けに舞台やフロアで踊ってみせるほか、シャンソンやカンツォーネもほどほどにこなし、ダンスのお相手もつとめていました。踊りも歌もまあまあだったそうです。スタイルのいい体と男心をさそう表情のつくり方で、あれやこれやの仕事を抱えてイスタンブールに長期滞在している外国人紳士のみなさん方の間では人気者でした。ガラタ塔から少しボスポラス海峡側に下ったベイオール斜面にたつ眺めのいいフラットを借りて住んでいたのですから、舞台での稼ぎよりはるかに多い別口の収入があったのだろうと噂されています。私も現場を見ましたが、リビングルームの大きな窓の向こうに海峡がきらめき、行き来する貨物船、フェリー、ヨット、さらには対岸のアジア側の丘の起伏とその斜面に建つ住宅も遠望できる、まことに贅沢な住まいでした。ダンサー仲間のやっかみ半分の噂では、チチェキにはきまったパトロンはいなかったようで、言い寄ってきた男とその夜のベッドをともにし、そのつど結構な謝礼をもらっていたらしい、ということでしたが、真偽のほどはわかりません。それと、チチェキは目のさめるような幾何学模様のピンクのイブニングドレスを着ていました。デザインは19世紀のヨーロッパ貴族の女性が愛用したような古典的なものでした。調べてみるとそのドレスは相当高価なものであることがわかりました。パリのエルザ・スキャパレリの店で買ったものでした」
                                                        「ヴァンドーム広場のあの店ですか。ベルリンにもその評判は届いています」
                                                        槙村が言った。
                                                        「ええ。おそらくチチェキ自身が買ったものではなくて、誰かからの贈り物なのでしょう。ドレスを鑑定した服飾の専門家によると、スキャパレリ自身はナチを嫌って去年の夏ごろニューヨークに移ってしまったそうです」
                                                        「なるほど。警部は色恋沙汰が原因の殺人だとお考えなわけですか?」
                                                        「田川氏は男と女のこみいった関係に巻き込まれて殺されたのではないか。重要な可能性の1つとしてその線は検討にあたいすると考えています。2人の死体を発見したのはチチェキの母親です。ドアをノックしたが返事がない。娘から預かっている合い鍵を使おうとしたが、使うまでもなく、ドアには鍵がかかっていなかった。母親は旧市街のバラットというユダヤ人が多く住む地区に1人で暮らしていて、ときどきベイオールの娘のフラットを訪ねていました。母親は娘の稼ぎをあてにして暮らしていたようです。豪華な暮らしが約束されていた娘が、なぜ極東のアジア人の男といっしょに死んでしまったのかと、逆上していました。母親は、チチェキはスルタンの一族の血をひいているとさかんに言っていました」
                                                        「それは興味深い話ですね」
                                                        槙村が言った。
                                                        「ま、おそらくは、口からでまかせでしょう。スルタンのハレムは1909年に制度として廃止されています。立憲政治と専制政治のあいだを揺れていたアブデュル・ハミト2世が、青年トルコ派が蜂起する中で1909年に失脚しました。そのときスルタンの宮殿の秘所ハレムが廃止され、数百人の女性がハレムからイスタンブールの街に放り出されました。ハレムで小間使い(オダリスク)をやっていたチチェキの母親もその1人でした。ハレムがなくなってイスタンブールの街に放り出され、10年ほど踊り子をしながら暮らしていたそうです。その踊り子時代にかつてのスルタンの一族の誰かといい仲になってチチェキを産んだのだ、と彼女は言っていました。チチェキを産んだのち、母親はいっときユダヤ系の医者の後妻に納まっていた。だが、その医者とも別れ、やがてバラットのわびしい安フラットに移り住みました。チチェキの父親についてははっきりしません。美貌のチチェキが玉の輿に乗って贅沢三昧の暮らしをおすそわけしてくれる日を母親は心待ちにしていたようです。失われた自分の夢をチチェキに託していたのでしょうが、ことはそううまく運ばなかった。それだけにチチェキの死は母親にとって痛手だったと想像できます」
                                                        オメル・アシクが言った。

                                                         それをイケメン・メフメトが引き継いだ。
                                                        「どこの国でも多かれ少なかれそうでしょうが、この国でも色恋というのは女性が富と権力に近づく手立てだった歴史がありましてね。オスマン朝のハレムがそうでしたし、オスマン・トルコ軍に征服されたビザンティン帝国でもそうでした。旧市街にヒッポドロームという名のビザンティン時代の都の中心になっていた広場があります。東ローマ帝国時代にはここでさまざまな娯楽が提供されました。『パンとサーカス』のサーカスが民衆に提供されたところです。そのヒッポドロームはまた、パンを求める民衆の不満の爆発の場にもなりました。ユスティニアス1世の532年、この広場で反ユスティアス暴動が起きて、皇帝の身に危険が迫ったことがありました。側近たちは、ユスティニアスにコンスタンティノープルから脱出するよう勧めました。ユスティニアスもその気になったのですが、そのとき、ユスティニアスの妻テオドーラが、ユスティニアスをこう言って叱咤したそうです――逃げ出してはなりませぬ。死は生まれたときからの約束事です。国を治めてきた者が、威厳と権力を捨てて生き延びてなるものでしょうか。陛下が王冠と紫のローブを失った姿を人目にさらすことのないように、私が生きながらえて皇妃の称号ぬきで人に呼ばれることのないようにと天に祈りました。陛下、お逃げになりたいのであれば、ここに財宝があります。海には船が浮かんでおります。さりながら、いまお命を惜しまれれば、やがて惨めな亡命とその果ての恥辱にまみれた死を迎えることは必定でございます。そのことこそをお恐れください。王座は栄光に満ちた墓石であるという古の格言に、私はしたがいとう存じます」
                                                        イケメンがまるでシェークスピア劇のセリフのような調子で語った。

                                                         この男、なかなかの役者だ。
                                                        「娼婦あがりの妻に叱咤激励されたユスティニアス1世は決死の覚悟で反乱に立ち向かい、これを鎮圧し、のちに東ローマ帝国の版図拡大に成功して、歴史に残るユスティニアス大帝とよばれることになった。『ニカの乱』のお話ですね。エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の名調子の語り。まだ若いころ海軍士官として演習で長期航海に出たときなど、退屈しのぎに読んだ本です。ユスティニアス大帝を一喝したテオドーラの方は、たしか、ヒッポドロームで走らせる馬の世話をしていた馬方を父に、芸人を母に生まれた下層の娘だった。父親の死後、生活のために母親がテオドーラを舞台に立たせた。チチェキとちがって歌も踊りもできず、パントマイムがせいぜいだった小娘でした。テオドーラは母親によって、昼は舞台、夜はベッドで稼がされた。テオドーラの美貌にひかれたユスティニアス一世は彼女を愛人にし、のちに妻にした。やがてテオドーラは東ローマ帝国史上で最強の女性の権力者になった。歴史のきまぐれというやつです。中国や日本には『三十六計逃げるに如かず』という言葉がありますが、ユスティニアスがもしその言葉に従っていたら東ローマ帝国の歴史は違ったものになっていたでしょうね」
                                                        槙村がイケメンのおしゃべりに合いの手をいれた。
                                                         

                                                        2019.01.02 Wednesday

                                                        「だまし絵のオダリスク」    第2回

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                                                           槙村忠中佐はリフトを降りた。
                                                           槙村をイスタンブール保安本部のイケメン・メフメト外事課長のオフィスに案内したのは、上背が2メートルに届くかと思われる若い男だった。淡い茶色の髪、緑がかった灰色の瞳だった。アジア人らしい人種的な特徴はみあたらず、完全にヨーロッパ型の容貌だった。とはいえ、ベルリンの街で見かけるドイツ人たちとはまた雰囲気が違った。彼らのような北欧人の冷たい硬質感はなかった。その開放感と柔らかさはまさしく南ヨーロッパ人のものだった。
                                                           案内の男がドアをノックした。室内から応じる声が聞こえた。男がドアを開けた。西側に開いた大きな窓を背にして2人の男が立っていた。2人とも1メートル80センチほどの背丈で、筋肉質の身体をスーツでつつんでいた。1人は、黒い長髪で葉巻のような太いヒゲを鼻の下に蓄え、濃紺の上下に真紅のネクタイという、いたってにぎやかないでたちだった。そのうえ太い黒縁の眼鏡をかけていた。いま1人は色白で、濃い茶色の髪の毛を短く刈りこんでいた。髪と同系色の背広上下に、こげ茶のストライプのネクタイを合わせていた。こちらの方はなかなかのしゃれ者だ。
                                                           1941年3月11日火曜日午後6時をすこしまわったところだった。
                                                          「駐ベルリン日本大使館付海軍武官補佐官の槙村忠中佐です」
                                                          槙村が2人の男にドイツ語で言った。槙村はベルリンの日本大使館で大使の大島浩に次ぐドイツ語使いといわれていた。
                                                          「イケメン・メフメトです。こちらはイスタンブール警察本部のオメル・アシク警部。事件の捜査を指揮しています。旅はいかがでしたか?」
                                                          ヒゲを蓄えている黒縁眼鏡の男が一歩前に進み出て、槙村と握手を交わしながらドイツ語で応じた。イケメン・メフメトはミュンヘン大学で法律を学んでいるので、ドイツ語で話しあえると、あらかじめ日本大使館の館員から槙村は聞かされていた。
                                                           イケメンの背後の窓の向こうに夕暮れのイスタンブールが見えた。ちょうど夕陽が旧市街の七つの丘の向こうに沈んだところだった。古代ローマのセプテム・モンテス・ロマエ(ローマの7つの丘)にちなんで、東ローマ帝国の都コンスタンティノープルが建設された旧市街の起伏が同じように7つの丘とよばれていた。イケメンのオフィスはベイオールのシシュハネの古びた6階建の最上階にあった。古びてはいるが歴史的建築物にはほど遠く、トルコ政府の雑多な出先機関のオフィスを詰め込んだ、ただのコンクリートの箱にすぎない。金角湾をはさんで対岸のエミノニュのウォーターフロントに建つイェニ・ジャーミーや、その上手の丘にあるシュレイマニイェ・ジャーミーのドームとミナレットがくすんだシルエットになって見えた。少し左手のマルマラ海側にはトプカプ宮殿やアヤ・ソフィア、スルタン・アフメト・ジャーミーが夕闇に溶けこもうとしていた。長い歴史を秘めた古都の黒いスカイラインの上に、茜に染まったバルカンの空があった。
                                                           夕焼けの風景画で有名なウィリアム・ターナーの絵を見て、自然の夕焼けはこんな色にならないと言った人がいたそうだ。するとターナーは、私は自分が美しいと感じたように夕焼けを描いたと答えたという。もしもターナーがベニスを超えてイスタンブールまで来ていたとしたら、この夕焼けをどのように描いただろうか。そう思わせる眺めだった。
                                                          「槙村中佐、すばらしい景色でしょう。このオフィスに移って来て、もうかれこれ2年になりますが、今日のような夕暮れは見飽きることがありません。イスタンブールはベルリンのような躍動する現代最先端の文物にはこと欠きますが、古い都に特有の、郷愁を誘う風景だけは恵まれています。私たちが持ち合わせているものは、もはやというべきか、あるいは、いまのところというべきか、その程度のことなのですが……。歴史の暮れ方にたたずむ者は愛惜の念でこの夕焼けをながめるのですよ」
                                                          イケメンが執務机の前の椅子を槙村に勧めた。
                                                          「いや、これは失礼しました。イスタンブールの夕暮れのあまりの美しさにすっかり気をとられてしまいました。死んだ甥の田川一郎がまだ子どもだったころ、彼を連れて出かけた東京の港の夕焼けをふと思い出したものですから。田川の両親は外交官でしたが、赴任先のワシントンで交通事故にあい2人同時に死んでしまいました。田川がまだ4歳になる前のことでした。田川の母親はわたしの姉でした。田川にとっては祖父母にあたるわたしの両親が彼を引き取って育てました。それに田川はこの1月ベルリンにわたしを訪ねてきてくれましてね。そのときの元気な顔をつい思い出したりして、ちょっと感傷的な気分になっていました」
                                                          「そうでしたか。お気持、お察しいたします。事件から1週間になります。いまのところ捜査は大きな進展をみせているとはいいがたい状況ですが、捜査には波がありまして、勢いがつけばいっきに解決にいたる例も多いのです。いまは遺漏のないようきっちりした基礎的な捜査を根気よく続けているところです。ところで、日本大使あてにお送りした事件の概略についてはお読みいただきましたか?」
                                                           その報告書の概略はアンカラの日本大使館からベルリンの日本大使館経由で槙村のもとに送られてきていた。槙村はベルリンを出発する前にそれを読んだ。
                                                           田川の死について連絡を受けたとき、槙村はイタリア出張中だった。ローマからいったんベルリンに戻り、ベルリンからイスタンブールに飛ぶドイツ政府の連絡機に便乗させてもらって3月10日にイスタンブールに着いた。その日の夜のうちに槙村は、アンカラの日本大使館がイスタンブールでの出先として使っている旧日本大使館庁舎でイケメンの報告書の全文に目を通していた。
                                                           報告書は保安本部の公用紙3枚にトルコ語で書かれ、イスタンブール保安本部外事課長イケメン・メフメトの署名があった。槙村が読んだのはアンカラの日本大使館翻訳官の手になる日本語訳だった。

                                                          ――1941年3月5日水曜日午後2時ごろ、ベイオールのボスポラス海峡をのぞむ斜面に建つフラット3階の一室で田川一郎の死体が見つかった。死体は絨毯を敷いたリビングルームの床に仰向けになって倒れていた。至近距離から発射された拳銃の弾丸が田川の心臓を撃ち抜いていた。検視報告によると即死。田川はグレーの三つ揃いの背広を着て黒い靴をはいていた。上着のポケットの名刺入れから、死体がアンカラの日本大使館三等書記官田川一郎であることはすぐわかった。いまひとつの死体が田川と並んで仰向けに横たわっていた。この部屋に住んでいる女性で、チチェキという名のトルコ国籍のダンサーだった。チチェキはピンクのイブニングドレスを着ていた。チチェキの首には水色の絹の編み紐がまきついていた。絞殺だった。リビングルームには荒らされた形跡がまったくなかった。リビングルームは寝室に続いていた。ベッドには田川の黒いオーバーコートと、チチェキの白いコートが無造作に置かれていた。ベッドが使用された形跡はなかった。寝室にも荒らされたあとはなかった。遺体はともに死後半日ほど経過していた。2人とも3月5日未明に死亡したと推定された。

                                                          「それで捜査当局の見方はどうなのですか」
                                                          「そのことについてはオメル・アシク警部に説明してもらいましょう」
                                                          イケメンがオメルをうながした。オメルはトルコ語で語り、イケメンがドイツ語に翻訳した。
                                                          「不可解なのは射殺死体と絞殺死体の組み合わせです。この謎をどう解くべきか。そこがまず悩ましいところです。チチェキの絞殺ですが、拳銃があるにもかかわらずそれを使わないで、わざわざヒモで絞殺したというのは尋常な行為ではありません。殺人という目的の達成よりも、殺人の過程を楽しむ倒錯的行為です。そのうえ、絞殺にはわざわざ絹のヒモを使っています」
                                                          「絹のヒモ? それはどういうことですか」
                                                          槙村が怪訝な表情で尋ねた。

                                                           通訳しているイケメンの顔に苦笑のような、とまどいの表情が浮かんだ。
                                                          「絹のヒモを使っての絞殺はオスマン帝国の歴史でしばしば繰り返されたことです。オスマン朝は安定したスルタンの独裁体制を維持するために継続的な親族殺人の制度を導入しました。スルタンは男子継承制で、15世紀から17世紀にかけて、スルタンが世を去り後継者が決まると、その後継者が自分の兄弟と兄弟たちの男の子どもを殺してしまうのがならいでした。権力継承をめぐる内紛の芽をあらかじめ徹底的に摘み取っておくのがその目的でした。もちろんイスラム教は殺人を罪悪としています。しかし、新しいスルタンによるこの兄弟殺しは、政治動乱を予防し、社会の安定を図ることを目的におこなわれるものであるから、支配者にだけは例外的に許される行為である、とウラマーも認めていたそうです。スルタン・メフメット3世は即位ののち、19人の兄弟を、彼らの子を身ごもっている15人の女奴隷ともども皆殺しにしました。1595年のことだとされています。スルタンの身内を殺すにあたっては、高貴な血を流すことがはばかられたので、絹製の紐で首を絞めるか、浴槽で無理やり溺れさせるかして殺したといわれています」
                                                          イケメンが説明した。
                                                          「ずいぶんと猟奇的なお話ですね。そうした精神の歪んだ犯罪者の仕業だと予想されているわけですか」
                                                          槙村が尋ねた。
                                                          「オスマン朝の兄弟殺しの制度を猟奇的とただ一言で済ませてしまうことはできません。血筋によって権力を継承する側の責任と倫理という面で、それはなかなか重い問題を提起しているのです……」

                                                           

                                                          2019.01.01 Tuesday

                                                          「だまし絵のオダリスク」     第1回

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                                                             1941年3月5日水曜日午前7時。よく晴れたイスタンブールの朝だった。アジア側とヨーロッパ側を結ぶフェリー、ボスポラス海峡を上り下りする渡し船や貨物船が忙しく動き始めていた。汽笛の透明な響きが街の空気を貫いた。
                                                             海峡を見おろすヨーロッパ側新市街のベイオールの斜面に、瀟洒な白い3階建てのフラットが建っていた。フラット3階の部屋の50平方メートルほどのリビングルームのカーテンがほんの少しひらいていた。その隙間から眩しい朝日がトルコ絨毯を敷いたフロアに斜めにさし込んでいた。室内の照明はついたままだった。
                                                             フロア中央にソファーがあり、窓際にロッキングチェアーが、部屋の隅にライティング・デスクと椅子があった。壁の棚には小ぶりな磁器の壷が置かれていた。白地に藍色の魚の文様が浮き出た渋い壷だ。壷の近くの壁にアングルの有名な『グランド・オダリスク』の複製が掛けられていた。染付けとアングルの官能的な絵の複製の組み合わせは、どこかキッチュな感じを見る人にあたえた。額縁の中のオダリスクはデフォルメされた異様に長い裸の上半身をくねらせて華奢な背中と大きなお尻を誇示していた。振り向いた顔の思わせぶりな眼が室内の一点を見ていた。
                                                             オダリスクの視線の先の床の上に人間が2人、並んでころがっていた。1人は東欧系の顔立ちをした茶色の髪の女性。あざやかなピンクの柄のイブニングドレスを着ていた。いま1人は三つ揃いのスーツを着た東洋系の男性で、中国人か朝鮮人か、あるいは日本人のようにみえた。2人は顔を天井に向けて仰向けに倒れていた。男の服の胸に大きな赤い染みができていた。服が吸い取りきれなかった血が床に流れ、トルコ絨毯に新しい模様をつけくわえていた。女の首には水色の紐がまきついていた。2人はカッと目を見開いていた。だが、4つ眼球は固定したまま動かず、もはや彼らには何も見えていなかった。

                                                             

                                                              ***(Mandala撮影の現代のイスタンブール風景と、著作権が消滅した古いアーカイヴ写真を適宜添えます)

                                                             

                                                            2018.12.23 Sunday

                                                            『ペトルス――謎のガンマン』  第24回(最終)

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                                                              鷹石里志はウダヤナ大学の第1学期の授業を12月いっぱいで終えた。2001年の1月初旬に試験をして、あとは2月初旬からの第2学期まで、大学の仕事は休みになっていた。暮れから正月にかけては、日本から友人や弟の娘、つまり鷹石の姪がバリの正月を楽しみにやってきた。いっとき鷹石の周辺に日本のにおいが充満した。
                                                               その日本のにおいが消えかかった1月16日の火曜日の朝、グスティ・アグン・ライ警視から鷹石に電話があり、その日の夕方、例によってライ警視の愛車キジャンがきしみ音を立てて、鷹石の家の前に止まった。
                                                              「きょうはちょっとあんたの意見を拝聴したいと思いましてね。瀬田誠のパスポートのことで日本の外務省に問い合わせをした。その返事が届いてね。瀬田誠は1961ウルグアイの首都モンテビデオで生まれた。日本人の両親は出生届を現地の日本総領事館に出して誠の日本国籍を確保した。両親の名は父が瀬田良樹、母が瀬田美智子。母親の結婚まえの姓は秋野だった。瀬田誠が12歳の時、一家は日本に帰ってきた」
                                                              「ほう、外務省はよく調べたな」
                                                              「駐在官事務所の内藤領事が、前任者でいまは東京の外務省でインドネシアを担当している久保田さんに連絡をしてくれた。久保田さんは瀬田沙代殺人事件のときにデンパサールに駐在していた人だから、東京での調査の後押しをしてくれた。そう内藤領事が説明してくれた」
                                                              「なるほど」
                                                              「それから、われわれが出入国管理の記録を調べたところ、ラファエル・セタ・アキノという男がウルグアイのパスポートで、1998年5月10日にジャカルタのスカルノ・ハッタ空港から入国し、4日後の14日夕方前にデンパサールのングラ・ライ空港から出国していることがわかった。ラファエル・セタ・アキノの生年月日は瀬田誠と同じ1961年4月22日だ」
                                                              「それはすごい。やったじゃないか。警視。しかし、瀬田誠はなぜスカルノ・ハッタ空港から入国したのだろうか。デンパサールへ直接来れば時間の節約になったろうに」
                                                              「サトシ、それは時間の問題ではないんだ。瀬田はジャカルタに立ち寄る必要があったと考えるべきだ。それがわたしの見方だ」
                                                              「あ、そうか。アンワル・ユスフ将軍からもらった拳銃だ」
                                                              「おそらく瀬田誠はジャカルタにつくと、ジャカルタのアパートメントに行き、部屋の金庫かあるいは別の隠し場所から拳銃を取り出した。ところで、タカシ、あんたなら、拳銃を持っている場合、ジャカルタからデンパサールまでどんな交通機関を使うかね?」
                                                              「飛行機はセキュリティーでひっかかる可能性が大きい。たとえのほほんとしたジャカルタの空港でもね」
                                                              「インドネシアの名誉のために言っておくが、空港のセキュリティー・チェックのミスは世界中で起きている」
                                                              「それは失礼した。拳銃を発見されないでジャカルタからバリに来る方法は、おそらく長距離高速バスだろう」
                                                              「正確に言えば、長距離バスか、列車だ。バスだとジャカルタからデンパサールまで丸一日以上かかる。バスはたいてい遅れるから、1日半、30時間とちょっとみておけば、ジャカルタからデンパサールにたどり着ける。ラファエル・セタ・アキノのジャカルタ入国カードを見ると、搭乗機の記録はガルーダ823便にとなっている。この機はシンガポールを発って、朝8時過ぎにスカルノ・ハッタ空港に着く。ジャカルタからデンパサールに行くバスは毎日午前中に1本、午後に2本ある。アパートに立ち寄って拳銃をとり出し、長距離バス乗り場へいって、午後のデンパサール行きのバスに乗るだけの時間は十分ある。だがね、タカシ。緑の森や田んぼをながめながらジャワ島を縦断するバスの旅は若いバックパッカーだったら面白いだろうが、中年になり始めた外国人には、窮屈な車内に閉じこめられて1日以上もすごさねばならないバス旅行は耐えられないと思うよ
                                                              「わたしの想像では、ラファエル・セタ・アキノはジャカルタからスラバヤまで列車で行き、スラバヤからデンパサール行きの長距離バスに乗り換えたはずだ。5月10日の夕方、ジャカルタのガンビル駅から急行の1等車に乗れば、11日の早朝にスラバヤに着く。スラバヤで長距離バスに乗り換えると、フェリーで海峡を渡り、12時間程度でデンパサールに着く。ということは、列車やバスに少々の遅れが出たとしても、11日の深夜までにはデンパサールに到着できる計算だ。11日中にデンパサールに着けば12、13の2日間で沙代殺害の準備は十分できる」
                                                              「たしかに。だが、どんな準備をして、ふだんはウブッドに住んでいる彼女をデンパサールの街の路地で銃撃できるようにお膳立てをしたのだろうか?」
                                                              「その点は、彼を逮捕してからじっくり聞きだすしかない。4月にジャカルタで2人があったときなにか打ち合わせをしていたのかも知れない。13日にタマン・サリに宿泊することを、沙代がまえもって瀬田誠に言っていたのかも知れない。いずれにせよ、想像の域を出ない」
                                                              「14日にラファエル・セタ・アキノはデンパサールにいた。これまでの情報からラファエルと瀬田誠は同一人物である疑いが濃厚になっている。だが、瀬田誠をしょっ引くには彼が5月14日にバリにいた動かぬ証拠が必要だな」
                                                              「それは手に入れた」
                                                              「どうやって?」
                                                              「タカシ、あんたインドネシア入国にあたってどんな手続きをした?」
                                                               あっ、そうか。鷹石里志は自分の馬鹿さ加減に苦笑した。
                                                              「日本人は観光目的ならビザなしでインドネシアに入国して2ヵ月まで滞在できるので、すっかりビザのことを忘れていた。ビザを免除されていない国の方が多数派だったんだ」
                                                              「メキシコシティのインドネシア大使館領事部のビザ申請書のつづりから、ラファエル・セタ・アキノの申請書が出てきた。当然、写真が添付されている。ラファエルの写真はヒゲがあったが、瀬田誠とそっくりだ。さらに、瀬田誠のパスポートの署名のMakoto SetaとRafael Zeta Aquinoの書名の筆跡が同一だと鑑定された。ところで、今日は冷たいトワイニング紅茶は出ないのですか」
                                                              「おっ、これは失礼した。スチが用でちょっと出かけているもので」
                                                              「なら、アイール・プティ(ただの飲み水)でいいや」
                                                              鷹石は立ち上がってキッチンへ行った。ちょうどそこにスチがお使いから帰ってきた。
                                                              「ライ警視がお見えで、冷たいお茶をご所望だ」
                                                              鷹石はリビングルームにもどった。
                                                              「まもなくスチがお茶をもってまいります。これで、瀬田誠が5月14日にデンパサール空港から出国したことは証明されたが、犯行の時刻にデンパサールあるいは現場にいたことの証明はどうなる?」
                                                              ライ警視の唇がへの字に曲がった。なんとなくインドネシアのダルマさんのようである。
                                                              「そこのところが詰めだな。いまなお最大の難関だ。刑事部長もその点を指摘した。それを解明しないと国外にいる瀬田誠をひっぱれないだろう。それが刑事部長の見解だ。以前のように瀬田がジャカルタに会社を持ち、定期的にジャカルタに来ていれば、やつがジャカルタに現れたとき警察によんで尋問し、突破口を開けたかも知れない。ところが、いまでは瀬田はメキシコ暮らしだ。日本とメキシコの間は往復しているだろうが、インドネシアとは縁が切れた」
                                                              「インドネシアは日本やメキシコと犯人引き渡し条約を結んでいないのだろう?」
                                                              「結んでいない。日本の『逃亡犯罪人引渡法』という法律では、引き渡し条約を結んでいない国に対して、逃亡犯罪人が日本国民であるときは、引き渡してはならないときめている。一方で、日本の刑法は日本人が外国で犯した殺人などの犯罪については日本の刑法が適用されると定めている」
                                                              「そうですか。ライ警視、さすがに詳しいですね」
                                                              「したがって、日本に通報して日本の刑事裁判で処理することも可能だが、瀬田沙代がデンパサールで殺された日に、日本とウルグアイの二重国籍者である夫の瀬田誠が、ウルグアイ人の名義で、インドネシアに滞在していた。それだけでは日本の司法当局への説得力がたりない。そのうえ、あっさり、瀬田を日本に渡してしまっては、インドネシア警察のメンツがたたない」
                                                              「そうだねえ。ロサンジェルスで殺し屋に頼んで妻を銃撃させて殺した疑いで、日本人の夫が日本の裁判所で裁判にかけられたことがある。一審の東京地方裁判所では殺人の共謀で有罪になったが、1998年に東京高等裁判所で一転して無罪になった。いまある材料だけで日本の裁判にかけるのはむずかしいかもしれないね」
                                                              「そういうわけで、瀬田が2つの現場に何か残していかなかったかと、現場から採集された証拠品となりそうなものの当時のリストを、何度も何度も読み返してみたよ。タマン・サリの705号室から採取した指紋と、瀬田が外国人登録の際に出入国管理事務所に残した指紋を見比べたが、残念ながら瀬田のものと判断できるような指紋は出なかった」
                                                              残念ながらといいながらも、ライ警視の顔には喜色が漂っていた。
                                                              「どうした。嬉しそうじゃないか」
                                                              「リストをながめているうちに、以前は無視していた品物があることに気づいた。瀬田沙代とスダルノが射殺された現場で、鑑識がはいつくばって路上から集めたゴミの中にあったかみ捨てられたチューインガムと、スハルトノが死体になっていたタマン・サリの705号室の灰皿に残っていた三つの吸い殻だ」
                                                              「DNA検査に出したのか」
                                                              鷹石は思わず叫んだ。
                                                              「そうだ。ジャカルタのDNAリサーチ・ラボラトリーへ送った」
                                                              「で、結果は?」
                                                              「昨日届いた。チューインガムから抽出されたDNAのパターンは比較的鮮明だったが、吸い殻の方は鮮明さに欠けた。この2つの試料を正確に比較するには、米国の施設に送って精度の高い最新の機器で分析してもらう必要がある、という報告だった」
                                                              「アメリカへ送ったのか」
                                                              「まだだ。それに、早晩、瀬田のDNAサンプルも入手する必要がある」
                                                              「秘密捜査員に綿棒を持たせてメキシコシティに送り込み、瀬田にお口アーンをさせるのか。あっ、ちょっと待っててくれ。役立つかもしれないものを思い出した」
                                                               鷹石は書斎に戻って、キャビネットから1998年分の手紙の束をとりだした。その束の薄さに、鷹石はいまさらながら日本との縁が薄れてゆくような寂しさをふと感じた。
                                                              「ここにメキシコから瀬田誠が送ってきた手紙がある。もし幸運にも、瀬田誠が切手をなめて張り、封筒をなめて封をしていれば、この手紙が瀬田誠のDNAをメキシコシティからデンパサールに運んできているはずだ」
                                                              ライ警視の顔が喜色ではじけそうになった。
                                                              「だめもとで、やってみよう」
                                                              「幸運を祈るよ。テンペでめしでもくっていくか?」

                                                              2001年3月。そろそろ雨季が終わろうとする日曜日、ライ警視から鷹石に電話があった。
                                                              「今夜、うちにバビ・グリンを食べにこないか」
                                                               鷹石がライ警視の家につくと、早くもテーブルの大皿にバビ・グリンが切り分けられ、別の皿にご飯が盛り上げられていた。
                                                              「ガムと切手から抽出されたDNAについて『同一人のものである可能性が50パーセント以上』という結果報告がアメリカから送られてきた。吸い殻のDNAはアメリカの機器でも判定できるレベルまでには鮮明にならなかった」
                                                              「おめでとう。瀬田誠が沙代銃撃の現場にいた証拠が発見されたのだ。そして同じ拳銃でスハルトノが撃ち殺された」
                                                              鷹石はよく冷えた缶のビンタン・ビールをライ警視と彼の妻、それに自分のグラスについで、グラスを目の高さまで持ち上げて言った。
                                                              「ありがとう。瀬田がスハルトノを射殺した理由や方法は、彼をつかまえてしゃべらせるまでは不明だ。同じ拳銃が使われているので、やつの犯行を疑う十分な根拠がある。妻殺しに使った拳銃をバリのどこに隠していたのか。これも瀬田に吐かせるまではわからない。ングラ・ライから出国するさい、長期間利用可能なロッカーに入れるか、手荷物預けを利用したのかもしれない。カバンか何かに入れてね。宿泊したホテルに保管を頼んだ可能性もありうる。瀬田には1週間もたたないうちに、ングラ・ライに舞い戻ってくることは分かっていたのだから。あとは瀬田の身柄だ。瀬田は仕事でメキシコと日本の間を往復している。インドネシアとは縁が切れている。とはいうものの、警察本部長はデータを日本に渡して、日本で処理してもらうことには消極的だ」
                                                              「メンツの問題なのか」
                                                              「それもあるが……。問題はいろいろ考えられる。まず、日本の捜査当局がインドネシアの捜査結果をそのまま受け入れてくれるかどうか。日本の捜査当局は裏付け捜査をするだろう。もちろんそうした捜査は極秘に行われるのだろうが、やっているうちにマスメディアに情報が漏洩する可能性も大いにありうる。あんたが話してくれたロサンジェルスの妻謀殺事件の裁判も、もともとマスコミが騒ぎだしたことから裁判にまで行ったということらしいな。この件が日本のメディアに漏れて騒ぎになると、瀬田誠がいまひとつの母国ウルグアイに逃げ込んで、そのうえ日本の国籍を放棄して、ラファエル・セタ・アキノその人になってしまうこともありうる。そうなると、日本も手を出せなくなる。日本は犯罪人引渡し条約を米国と韓国としか結んでいない」
                                                              「ありそうな予測だね。それで?」
                                                              「日本の殺人事件の時効は15年、インドネシアは18年だ。うちの方が長い。しばらく待とう。これがバリ州警察本部の決定だ」
                                                              「そうか。あとは瀬田誠がいつの日かインドネシアに渡って来る日を待つだけだな。おれがヌサ・ドゥアのヤサ・マンダラでこんがりと焼かれ、あんたが円満のうちに定年になる前に、その日がやってくることを祈念して」
                                                              と鷹石がグラスをあげた。
                                                              「そのうち梢に風が吹く。風が吹けばドリアンが落ちてくる。気長に待つさ」
                                                              ライ警視が言った。
                                                              「カンパーイ」
                                                              ライ警視の妻が叫んだ。
                                                              「スラマット」
                                                              鷹石が応じた。
                                                               3人がグラスをあげた。ジャカルタから列車とバスを乗り継いでデンパサールへと急ぐ瀬田誠の引きつった表情が鷹石の脳裏をよぎった。
                                                               さて、デンパサールの路上でペトルスを演じてみせた瀬田誠がその動機をどう説明するか――事件の背後に隠されている沙代と誠の愛の破綻の物語を、瀬田誠がどのように語ってくれるか、楽しみだな。その時もまたこの家に招かれてこんなふうにビンタンを飲むことになるのかな……。
                                                               鷹石はあらぬことを考えていた。



                                                                                      ――完――

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