2018.07.16 Monday

『ペトルス―‐謎のガンマン』   第11回

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     25日の午後遅くなってワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事の2人が聞き込みから帰ってきた。部屋に入ってきた刑事たちの体は、屋外の熱気をたっぷりと吸い込んでいた。そして今度はそれを部屋中に放出熱した。暑苦しいったらありゃしない。

    「お疲れさん。こっちの方はスハルトノから聞き出すのに失敗した。930事件当時の若かりしころのイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの活動について、そっちのほうはどうだった」

     警視が尋ねた。

    「あいつそうとうなあらくれだったようです」

     イ・バグス・マデ刑事が陽気な口調で言った。

    「いまはガムランを叩くだけの優しそうな手ですがね、昔はあの手にナイフや拳銃を持って手当たり次第に人を殺して回っていたようです」

     ワヤン・ブラタ刑事が補足した。

    「そうか。では、たっぷり聞かせてもらおうか」

     イ・バグス・マデ刑事とワヤン・ブラタ刑事の2人は、この日聞き込みのため再びウブッドに行っていた。

     インドネシアの初代大統領だったスカルノは、大統領職の後半の期間、独裁的な権力を握り、終身大統領の称号を議会から与えられた。そのスカルを退けて、スハルトが第2代大統領になった。スハルトは5年ごとに確実に大統領に選出されるシステムをつくりあげてスカルノをしのぐ権勢を誇ることになった。

     スハルト台頭のきっかけが1965930日夜から101日未明にかけて起きた930事件だ。これはいまだにその謎が解き明かされていないクーデター未遂とされている事件である。スカルノ大統領親衛隊長だったウントン中佐が、反スカルノ派の将軍たちが集まって将軍評議会なる組織をつくり、スカルノ打倒のクーデターを計画しているので、それを事前に防止しようと軍事行動を起こした事件で、陸軍参謀長ら6人の軍の将軍が殺された。当時陸軍戦略予備軍の司令官だったスハルト少将がウントン派の行動を制圧した。その勢いに乗ってスハルト将軍と陸軍は、930事件は、インドネシア共産党(PKI)が企んで、ウントン中佐にやらせた陰謀だと断定し、大がかりな共産党殲滅作戦を開始した。

     PKIとその支持者たちがスカルノの権力基盤だった。PKIをつぶしてしまえば、スカルノは政治的な動員力を失い、インドネシア独立の父という栄光だけに頼って政治を運営しなければならなくなる。

     スハルト将軍がこのとき率いたインドネシア国軍の共産党殲滅作戦で死んだインドネシア人の数については10万人から100万人まで、諸説がある。100万人といった大量殺人説は主として外国のメディアが報じた数字がインドネシアに逆輸入されたものだが、インドネシアの宗教団体ナフダトゥル・ウラマを率いるアブドゥルラフマン・ワヒドは、あのときイスラム教徒がインドネシア共産党員やその支持者50万人を殺したと語り、インドネシア人をびっくり仰天させたこともあった。

     この殺戮事件が悲惨なのは、被害者の多くを殺したのが兵士ではなく、軍に共産党粛清そそのかされて武器を手渡された民間人だったことだ。

     そして、事件の背後にあったものは、権力奪取のためには国民同士の流血さえものともしない権力者の冷血だった。

     1989年に出版されたスハルト大統領の自叙伝で、スハルトはこういった。「共産党を破壊することが私の最大の義務である。この闘争には軍を直接使うよりも、国民が自らを防衛し、彼らの周りから邪悪の根源を一掃するのに手を貸す方法を、私は選んだ」。たとえばイスラム教徒と共産主義者の間の亀裂や、地主と小作人の間の土地争いを利用して、共産党に対する憎しみをあおったうえで、一方に武器を与えて昨日までの隣人を殺させた。

     共産党殲滅作戦はジャワ中部からバリ島にかけて熾烈だった。バリ島での死者は2万から数十万人と伝えられている。

    「イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンが、バリの共産党殲滅作戦とどのように関わっていたかという点ですが、そのことが今度の日本女性殺しとどんなふうに関わっていると警視は疑っているんですか」

     イ・バグス・マデ刑事がまじまじとグスティ・アグン・ライ警視をみつめた。

    「正確に言うとだね、疑いがあると考えているわけではないのだよ。だがね、グデ・ダルマワンはなんと言ったと思う。930事件後のバリのPKI殲滅に、グデ・ダルマワン自身が加担していたと、スハルトノが殺された瀬田沙代に言ったので、スハルトノに文句をいうためにデンパサールまで出てきた。あの男はそう言った。ちょうど同じ朝に、その話を聞かされた女が死体になった。スハルトノが女に話したことの内容と女の死はたぶん関係ないのだろう。930事件の隠蔽された過去が、いまになって日本人の女の死に関係するなどという話は、小説の世界だろうね。おそらく関係はないのだろう。関係がないなら関係がないで、このさいそのことをはっきりさせておきたいわけだ」

    「さすがに警視だけあって隙のない捜査ですな」

     イ・バグス・マデ刑事が嫌みっぽく言った。

    「炎暑の中を情報集めのためにあてもなくほっつき歩くつらさはわかるが、捜査というやつは最初のところをしっかりと固めておかないと、あとの捜査があさっての方を向いてしまうことになる」

    「警視、お言葉ですが、あてもなくほっつき歩いていたわけでなく、しっかりした情報を仕入れてきました」

     バグス・マデ刑事が一転、今度は笑顔で警視に語りかけた。

    「あの事件の記憶はバリ人にとっては一刻も早く消し去りたい悪夢ですよ。何しろ隣人、ご近所、隣村の同じバリ人同士が刃物で殺し合い、片方が殺人者になり、もう一方が被害者になった。だから、普通のバリ人はあのときのことについては、いまでも口を閉ざして語ろうとしません」

     1963年に聖なる山グヌン・アグンが大噴火を起こして、大勢の人が死んだり家を失ったりした。PKI1964年から、地主の余剰地を奪って、それを小作人に分け与える運動「アクシ・スピハック(一方的活動)」を繰り広げた。バリの人の中には、ヒンドゥー教に信心深く、平穏を第一とするバリの慣習や文化を、PKIが破壊していると考えていた者も少なくなかった。このさい一度バリの地を禊ぎにかけなくてはならないという風潮も蔓延していた。あのころのバリには、共産主義が諸悪の根源というデマゴギーをすんなり受け入れる条件があった。

    「バリのPKI殲滅は196512月から翌年にかけてがピークでした。スハルトが派遣したジャワからの軍隊がやってきて、バリの村々に共産主義者をやっつけろと号令をかけた。軍と、それに警察も、PKIとその追従者と疑った人々をトラックで倉庫に運び込んで、一斉射撃で射殺した。死体は海に投げ捨てるか、大きな穴を掘って投げ込んだ。PKIと見なされた人々に対する憎しみを、ブラフマンの僧や呪術師のバリアンが村人にふきこんだ。あいつらを殺せと指示した。

     「インドネシア国民党(PNI)はスカルノが育てた政党だったが、スカルノがPNIよりPKIを寵愛するようになったので、PKIに憎しみを抱くようになった。PNIPKIに対する攻撃を聖なる戦いだと村人に教えた。悪に染まっている人を殺すのは、その人をいい人に生まれ変らせるための慈悲の行いだと教えた。いったん共産党追放が大運動になると、共産党員はあきらめて、白装束でおとなしく警察官に先導されて処刑場に引かれていった――バリの人がPKI殲滅について語るのは、この程度の真偽いりまじった伝説風の漠然とした話で、誰が誰を刺し殺したとか、撃ち殺したとか、石で頭を割って殺したとかの、具体的個別的な話は決して語られることがありません」

     と、バグス・マデ刑事が力を込めた。

    「あの事件のころウブッドで警察官をしていた男がいま、ウブッドの近くのテガラランという村に住んでいるという情報を得ましてね。テガラランというのは、それ、外国人の観光客がよく訪れる棚田で有名なところです。チョコとよばれている70がらみの老人です。その男を訪ねたら、すらすらと当時の記憶を話してくれましたよ」

     刑事が得意げに鼻の穴をふくらませた。

    「チョコの記憶ではイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンはそのころは20歳前後の若者で、PNIの支持者だった。バリのPNI支持者が集団で共産党員やその支持者を襲い始めたとき、グデ・ダルマワンもその中に加わっていたそうです。彼らは軍から回ってきた共産党員のリストをもって、ムラを回り、該当者を見つけてナイフや刀で刺し殺した。そのリーダー格の一人がグデ・ダルマワンだったそうです」

    「グデ・ダルマワンが具体的にどこの村の誰をどんな風に殺したかという話をしてくれたか」

     警視が質問した。

    「そんなこと、知っていても話すわけがないでしょうが、警視。ですがチョコはこんなことを言いましたよ。グデ・ダルマワンはインドネシア国民党の青年組織のメンバーだった。東ジャワでPKI殲滅に力を貸したイスラム団体ナフダトゥル・ウラマの青年組織アンソルのメンバーが海峡を越えてバリまでやってきた。警視、ご存じでしょう。アル・アンサル、すなわち預言者に従うものというアラビア語に由来する名前で、インドネシア独立前の1934年に結成された組織です。イスラムの暴れ者たちがヒンドゥーの地に乗り込んで殺戮を始めた。グデ・ダルマワンは東ジャワからやってきたアンソルのメンバーともしばしば行動をともにしていたそうです。同時に、やつはデンパサールのウダヤナ師団に足繁く出入りして、師団の方も彼のグループを訓練し、武器も渡していたらしい。グデ・ダルマワンがこれ見よがしに拳銃を見せているのをチョコも見ていると言っています」

    「警視、あのころはみんながよってたかって相手を殺してしまった恐ろしい時代ですよ。共産党員を殺したが、その共産党がいったいどこのだれだったか覚えていない。大勢で殺したので自分の暴力が致命傷になったのか、いっしょにやっただれかが殺したのかさえもはっきりしない」

     と、ワヤン・バラタ刑事がつけ足した。

    「ですが、警視。チョコが面白いことを言っていましたぜ。グデ・ダルマワンの密告で、ガムランの仲間がデンパサールの軍司令部にしょっ引かれたそうです。チョコはそれ以上のことは知りませんが、前にもちょっと話に出た絵描きのイダ・バグス・チャンドラが詳しいことを知っているかも知れないと言っていました。きょうのところはこのくらいです」

     イ・バグス・マデ刑事はそろそろ帰宅したくなってきたようだ。彼もデンパサールのアマチュア・ガムラン・グループの一員で、4人で叩く楽器レヨン担当の1人だ。今夜は練習の夜かも知れない。

     

    酷暑のみぎり暫時休載します。

     

     

     

    2018.07.08 Sunday

    『ペトルス――謎のガンマン』   第10回

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      525日午前中、デンパサールの州警察本部

       

       タマン・サリまで出かけてあなたの職場で会えば、変な噂がたったりする可能性なきにしもあらずなので、あなたの方から州警察本部までご足労願えないだろうかと、グスティ・アグン・ライ警視が提案すると、スハルトノは渋々ながらそれを受け入れた。

       525日朝、警視はスハルトノと警察本部の会議室で向かい合った。

      「おいで願ったのはこの間の日本人女性、瀬田沙代とインドネシア人男性のスダルノ殺害事件の関係です」

       会議室には冷房が入っていたが、音のわりには送風口からは少し涼しい風が吹き出しているだけだった。湿度の調整がうまくできていないらしく、部屋の空気は重かった。スハルトノはポケットからハンカチをとりだして額をぬぐった。

      「これはどうも。あなたのオフィスに比べると居心地はよろしくないでしょうが、ご勘弁願います。われわれ捜査チームはいま、被害者の瀬田沙代が13日朝にデンパサールに来て、14日午前10時ごろデンパサールの路上で死体になるまでの、正確な足取りを追っています。これまでにわかったところでは、瀬田沙代は13日の朝9時ごろ家を出て、タクシーでデンパサールへ向かった。10時ごろにはインドネシア芸術学院に着いた。芸術学院には午後4時までいた。そこまでの行動ははっきりしています。それから午後420分、タマン・サリにチェックインした。あなたはその日の夕方、瀬田沙代と会ったそうですね」

      「ええ、彼女がジェネラル・マネジャーに会いたいとフロントで言ったものですから。ロビーに出てきて、そこでしばらく話をしました」

      「何時ごろでしたか」

      「午後6時ごろだったと記憶しています」

      「どんな話をなさったのか聞かせていただけますかな」

      「瀬田沙代さんはタマン・サリの常連のお客さんですし、私にとっては友人です。デンパサールでの用件とかウブッドでの最近の暮らしとかをお話し下さいました」

      13日夜や14日朝の予定については、何か話しませんでしたか」

      「ええ、13日の夜はアートセンターへガムランを聴きに行くとおっしゃっていました」

      14日の予定については何か」

      「いいえ、それはお聞きしていません」

      「そのあと、瀬田沙代に会いましたか」

       スハルトノは一瞬言葉につまった。だが、あきらめたように言った。

      「お客さまが夕食をなさるので、それにつきあって欲しいというご要望でした。コーヒーショップでおつきあいしました。ついでに申し上げれば、そのときの話題は、お聞きになられたばかりのアートセンターのガムランの演奏ぶりについてでした」

      「それから?」

      「それからとは?」

      「食事のおつきあいが終わったあと、どうしたか、とお尋ねしているのです」

      「私なら、そのあとまもなく帰宅しました」

      「何時ごろのことですか」

      「午後10時ごろだったように記憶しています」

      「それはおかしいですね。ホテルの地下駐車場からあなたの車が出て行くところを見た人がいます。その人は、それは13日夜の12時すぎのことだと言っています。13日の午後10時ごろから12時ごろの間、あなたはどこにいらっしゃったのですか」

      「お客さんのお食事につきあったあと、私はオフィスに戻り、書類を整理して部屋を出ました。12時ごろ私の車が駐車場を出るのを見たというのは、その人の勘違いではありませんか。あるいは警視さん、あなたが適当なことを言って、カマをかけているのかもしれない」

       スハルトノがおだやかな声で反論した。

      「いずれ、あなたの奥様にもおたずねしてみましょう」

       そう言ったあと、グスティ・アグン・ライ警視は質問の方向を変えることにした。

      「ところで、あなたは国軍のご出身だとお聞きしていますが。ホテルの仕事へ転身なさったのはいつごろのことですか」

      5年前に退役して、ジャカルタのあるホテルで営業関係の幹部になりました。そこに2年ほどいて、3年前に同じ会社が経営するこのタマン・サリ・ホテルのジェネラル・マネジャーになりました」

      「それはめざましいご出世ですな。入社五年でデンパサールのれっきとしたホテルの経営と管理を任されるとは。40歳で、たいしたものです」

       警視はスハルトノの年齢にさらりと言及した。いろいろあんたのことは下調べしてあるのだよ、とほのめかしたのだ。

      「軍では情報部門にいらっしゃったようですな」

      「コプカムティブ(治安秩序回復作戦本部)に始まりバコルスタナス(国家安定強化支援調整庁)まで、一貫して情報畑を歩きました」

       スハルトノが急に元気になって、警察の末端の現場にいるグスティ・アグン・ライ警視に圧力をかけるように背筋を伸ばした。インテル(情報機関)と聞いて緊張しないインドネシア人はいない。インテルとは英語のインテリジェンスをインドネシア風に短くした言葉で、情報機関あるいは情報機関員のことである。パソコンの「インテル・インサイド」と印刷されたラベルを見ていると、そのコンピューターを使って書いた文章や、やった作業が政府の情報機関にそのまま流れるのではないかと心配になってくる――そういう冗談が冗談ではなく生々しい事実に聞こえるほど、インドネシアの情報機関はスハルト体制維持のための裏工作を続けていた。

       スハルトノの贅肉のない体つきや、引き締まった卵形の顔の輪郭、大きな、それでいてずるそうによく動く目、短く借り上げた頭髪、左手薬指の厚手の金の指輪、右手にはめた腕時計――インドネシア国軍兵士の間で流行していた――からは、ホテルのマネジャーというよりは、まだ現役軍人のにおいが強くただよっていた。

       コプカムティブは1965年の930事件を契機にスハルトがスカルノから権力を奪ってインドネシアの新しい指導者になったさいに設立した。最初は930事件に関わったインドネシア共産党員(PKI)やその支持者の排除が目的だったが、やがて、スハルト体制に批判的な社会勢力全般に対する弾圧を担当するようになった。コプカムティブは1980年代後半になって解体され、代わってバコルスタナスが新設された。

      「デンパサールの陸軍第九軍管区司令部にも勤務されたことがおありですな」

      「コプカムティブは独自の組織を持っていたが、バコルスタナスは独自の組織を持たず、全国10の軍管区司令部の情報機能を強化し、同時にバキン(国家情報局)とバイス(軍戦略情報部)の2つの情報機関の情報協力を促進させる調整役だった。国内治安の情報収集の現場を軍管区の司令官がつとめることになった。この時代にスハルトノはデンパサールのウダヤナ師団司令部に治安担当将校として勤務していたのだ。

      91年から93年までデンパサールで勤務しました。そのあと退役して民間会社に勤め始めました」

      「カディール・イスマイル将軍のお供をしたわけですね」

      「ああ、あの方はいってみれば私にとっては父親のような存在だから」

       カディール将軍は退役後、スハルトのクローニーと組んでジャカルタの高級ホテルを買収し、ホテル・観光業に進出した。バリの観光開発もスハルト政権の手で進められた。観光用のホテルや関連産業はスハルト一族とその周辺にたむろする者たちが手にした。スハルトに近いことが利権を手に入れる近道で、外国資本にとってはさまざまな許認可を手に入れるにはスハルトに近い人物を抱きこむ必要があった。スハルトに近いと言うことでは、彼の家族以上に近いものはいなかった。スハルト一家とその取り巻きがKKN(汚職、癒着、縁故)の輪を作り、インドネシアをくいものにしていた。

       PPPというアクロニムもちまたで口にされていた。プトゥラ・プトゥリ・プレシデン(大統領の息子・娘)のことだ。子どもたちにまして、スハルトそのものが大統領職を利用して肥え太った。スハルトは10を超えるヤヤサン(財団)をつくって、場合によっては大統領令をだして自らの財団への寄付金納入を義務づけた。ヤヤサンはスハルトの集金機関だった。たとえばスハルトは1996年に貧困者救済のための財団をつくり、高額所得者に所得の2パーセントを財団に納めることを大統領令で義務づけた。スハルトの財団はこうして集めた金で一般企業の株を取得した。

       インドネシアでは出世の道は高級軍人になることでひらける。高級軍人になって、民間に天下りして裕福な生活をする。これが頭の良い若者の一つのコースだった。インドネシアでスハルトが軍を基盤に権力を強固にした1980年はじめには、インドネシア政府閣僚と閣僚級の中央政府高官の半数近くが軍出身者だった。政府機関の総裁・長官・事務長らの半分以上が軍出身者によって固められた。知事の7割に軍出身者が任命された。高級軍員の進出は内政にとどまらなかった。世界に散らばったインドネシア大使の4割以上に軍出身者が任命された。

       にもかかわらず、3人いるスハルトの息子たちで軍人になったものはいない。娘婿の1人が軍人だっただけだ。スハルトの子どもたちは、父・大統領の口利きで事業家になった。軍人になってそこからからはいあがっていく必要などなかったのだ。大統領に最も近い実業家のもとに、インドネシア資本はもとより外国資本も群がった。こうして、スハルトの6人の子どもたちは、農業、林業、鉱業・金属、石油・天然ガス、建設、運輸、金融、不動産、商業、観光、メディアなど、ありとあらゆる事業に関係するようになった。

       首都ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港で発着する航空会社の中にはスハルトの息子の一人がオーナーに名を連ねているものがある。空港からジャカルタ都心に通じる有料道路もスハルトの娘が支配している。市内の高級ホテルに宿泊すれば、そこもまたスハルトの息子が率いる会社の経営だし、そのホテルに隣接する高級モールをのぞきに行くと、そこもまたスハルトの息子が関係している。

       スハルトの子どもたちはバリでも観光関連事業に参画し、濡れ手で砂金をつかむように稼ぎまくった。スハルトの長男シギットはバリ・クリフ・ホテルとニッコー・ロイヤル・ホテルの、次男バンバンはシェラトン・ヌサ・インダ・ホテルとシェラトン・ラグナ・ヌサ・ドゥアの、三男のトミーことフトモ・マンダラ・プトゥラはジンバランのフォーシーズンズ・リゾートやヌサ・ドゥアのバリ・ゴルフ・アンド・カントリー・クラブの、それぞれ共同経営者になった。

       バリで観光開発用地を取得するにあたって、トミー・スハルトは軍をつかって半ば強制的に土地を取り上げたと批判された。新しく開発された広大なビーチ付き観光ゾーンであるヌサ・ドゥアは周囲が柵で囲まれ、観光客しか中に入れない。観光客でない一般の人はゲートで追い払われてしまうのだった。

       小粒ではあるがカディール将軍もそうしたスハルト周辺にたむろする軍人の1人だった。

      14日の午前中、イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンがタマン・サリにあなたを尋ねたそうですが、あいにくあなたはご不在だったと言っていました。どこかにお出かけでしたか」

       出し抜けに警視がたずねた。

      「あの日の朝はレギャンに行っていました。デンパサールのタマン・サリの経営が軌道に乗ったので、レギャンの海岸に良さそうなビーチ着きホテルをみつけ、買収話をまとめて、タマン・サリ・レギャンの名で開業しようという野心がありましてね。それであの日はたまたま午前中に手が空いていたので、レギャンをぶらついていたのです。これはまだ内密の計画なので、配慮をお願いします」

      「で、誰か知り合いと会いませんでした」

      「いいえ、知った人には会いませんでした」

      「そうですか。タマン・サリには何時ごろ?」

      「正午過ぎには出勤しました」

      「もう一つうかがいましょうか」

      「どうぞ」

       スハルトノの態度はいやに落ち着いていた。

      「瀬田沙代とはいつごろ、どんなきっかけで知り合ったのですか」

      「あの方はウブッドでガムランを習いながら、月に2度ほどデンパサールの芸術学院に通っていました。デンパサールに用があって、夜遅くなることがあるとタマン・サリに宿泊していました。美しい方だったので、日本の方ですか、こちらにお住まいなのですか、何をなさっていらっしゃるのですか、と私の方が声をかけたのがきっかけで、お友達になりました」

      「彼女のガムランの師匠がプリアタンのイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンだと知ったのはいつごろですか」

      「知り合いになってまもなくのころです。ウブッドに住んで、師匠についてガムランを習っているとお話しになったので、当然のなり行きとして、お師匠さんの名前を聞きました」

       次に何を聞かれるのか。スハルトノの表情にちらりと不安の影が走った。

      「グデ・ダルマワンとはいつごろからの知り合いですか」

      「私がデンパサールで勤務していた1990年代の初めに知り合いました」

      「どんなきっかけで知り合われたのか、聞いてもいいですか」

      「バリに来る外国人の情報収集ですよ。彼の所にはウブッドの外国人の出入りが多かった」

      「ひょっとして、彼はコプカムティブからバコルスタナスに引き継がれた古い情報提供者の1人ではありませんか」

      「その質問については答えることができない。イエスといってもノーと言っても軍の機密にふれることになる。私はいま民間人だが、軍人であった時代に知り得た事項に関しては守秘義務をかせられている」

      「そうですな」

       とグスティ・アグン・ライ警視はあっさり折れた。

      「警察がウブッドなどで聞き込んだところでは、グデ・ダルマワンは930事件のあと、バリの共産党殲滅作戦で軍の先兵として働いたそうです。スハルトノさん、あなたにはそのころの資料をみて彼のことを知った。それでグデ・ダルマワンに接触して、情報提供者になるように依頼した」

      「先ほど言った理由で、ノーコメントだね」

      「あるいは、こういうことも考えられる。グデ・ダルマワンはそれ以前からコプカムティブ、あるいはバコルスタナスに情報を提供していて、あなたが前任者から彼を引き継いだ」

      「想像するのはあんたの勝手だ。だが、軍の内部情報を詮索しない方が安全だよ。どんな災難が降ってくるかもしれない」

      「おっと、この国じゃあ、民間人が警官を脅すのか」

       ライ警視がびっくりしたような声を出してみせた。だが、スハルトノの方もしたたかだった。

      「とんでもない。インドネシアでは、脅すのは警官の特技だろう。警官は民間人を脅しては小銭を搾り取ろうとしている。バリじゃあ、外国人も警官の被害にあっている。おもに車を運転する人だがね。四輪車やバイクを追いかけては、スピード違反とかなんとかいいがかりをつけて、小銭をゆすり取ろうとする。ジャカルタではもっと大がかりな詐欺のようなことをやっているそうじゃないか。ジャカルタのスマンギの立体交差だ。ガトット・スブロト通りからこの立体交差でおりて、スディルマン通りからタムリン通り方向に向かうためのランプウェーがしょっちゅう通行止めになる。それで車はもうちょっと西まで進んでからヒルトン・ホテル専用の入り口に降りて、駐車料を払ってヒルトン・ホテル構内を抜けて、スディルマン通りの北行き車線に出る。この通行止めがあまりにも頻繁に起きる。調べてみると、警察官とヒルトン・ホテルの駐車場係がぐるになって、通り抜けるために支払われた駐車料金を山分けしていたそうだ。これだけじゃないぞ。警官のゆすりたかりが目に余るので、軍から動員されたMPが街に出て、腐敗警官の取り締まりを始めた。バリの新聞にも載っていたぞ」

      「ゆすりで稼いでいるのは交通警官だ。私は刑事でいくら待ってもなんのおこぼれも転がってはこない。それはさておき、あなたは殺された瀬田沙代とどのくらい親密だったのかね。グデ・ダルマワンの暗い過去を彼女に教えた意図はなんだね」

      「ちょっと待ってくれないか。被害者である瀬田沙代についての情報を聞きたいと言いながら、あんたの質問はまるで俺と被害者の間に親密な関係があったと思いこんで、そのことを確かめようとするだけのものじゃないか。これはのぞき趣味で、捜査なんてものじゃない。そろそろこのあたりで失礼させてもらいたいな」

      「そのまえにあと一つだけゆっくり思い出して教えていただけないだろうか。今一度お尋ねするが、瀬田沙代は13日あんたと会ったとき、翌日の14日の予定について何かいっていなかったかな。どんな小さなことでもいいので、思い出していただけるとたすかるのだが」

      「心当たりはないな」

      「どうも、貴重な時間を割いていただいてありがとう。それから、出来るだけ記憶をたどって14日の午前中、あんたがレギャンにいたこと証言してくれそうな人を思い出しておいた方がいいと思うよ。タバコ屋でも、駐車係でも、不動産屋でもいい。れっきとしたホテルのマネジャーが、ホテルの物件を下見に行って、だれとも会わず、建物の外壁をながめただけで帰ってきたという話は、裁判所ではなかなか信じてもらえないかも知れないよ」

       警視がスハルトノに丁重な礼を言って、ついでにプレッシャーをかけた。

       

       

       

      2018.07.01 Sunday

      『ペトルス―‐謎のガンマン』   第9回

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        524日午後、デンパサールの州警察本部

         

         グスティ・アグン・ライ警視はデンパサールの州警察本部のオフィスで、ワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事の2人が、ウブッドのプリアタン村からイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンをともなって帰って来るのを待っていた。

         23日の夕方、ウブッドから帰ってきた2人の刑事が、イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの女弟子のウルワツの断崖での墜落死について、記録を読み返したいと言い出した。ガムランの師匠の日本人の女弟子が2人とも死んだことに警視も奇妙な暗合を感じた。書類保管庫の棚からかび臭い書類の束を取り出して、3人で事件のあらましをたどった。

         1992年の821日のことだった。地図で見るとバリ島の南部にぶら下がるようについているバドゥン半島の南西にあるウルワツ寺院近くの断崖から日本人の女性、三田宏美が墜落死した。ウルワツ寺院で墜落を目撃した観光客らの証言では午後5時すぎのことだったという。「日没前の鈍い黄金色の海に映える断崖から、ふんわりと人間が落ちていった」という目撃談が引用されていた。警察官らが崖下を捜索し、午後550分ごろ三田宏美の死体が見つかった。

         ウルワツの断崖はほぼ垂直に50メートルほど波打ち際から切り立っていて、三田宏美は全身打撲と頭蓋骨を含む骨折で、見つかったときはすでに死亡していた。28歳の日本人女性で、ウブッドでイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンについてガムランを習っていることは、彼女が持っていた出入国管理局発行の滞在許可証KIMSからたどれた。三田宏美は199110月にバリにやってきてガムランを習い始めた。日本では1990年代にインドネシアのガムランの人気が出始め、ガムランを習ってみたいと日本人の若者がバリに来るようになった。ジャワにもガムランの名手たちがいるのだが、日本の若者たちにはジャワのガムランよりもバリのガムランの方がお気に入りだった。三田宏美はそうした日本人の1人だった。三田宏美にガムランを教えていたイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンが警察にそのような説明をしていた。

         三田宏美の検死結果によると、死因は墜落時の頭蓋骨骨折と脊柱骨折および全身打撲。それ以外に顕著な外傷はなかった。また、薬物の残留も認められなかった。三田宏美は妊娠していて第6週に入っていた。

         捜査記録によると、目撃証言や三田宏美が墜落した現場の状況から他殺は考えられず、事故の可能性も低いので、結局、自殺と判断された。三田宏美が妊娠に至った相手もうわさはいろいろとあったが、結局、不明なままに終わった。関係が噂されているガムランの師匠も姉弟弟子のアメリカ人男性も、821日午後はプリアタン村でガムランの練習をしていたというアリバイが成立していた。そういうわけで三田宏美の死は、鬱状態がつのったすえの発作的自殺と結論された。

         記録を読みおえた警視はワヤン・ブラタ・刑事とイ・バグス・マデ刑事の2人に、24日朝プリアタンに行って、イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンを警察本部に連れてくるよう命じた。

         

        グデ・ダルマワンが24日の午後、2人の刑事と部屋に入ってくると、警視は手をさしのべて、

        「デンパサールまでおいでいただき感謝しています」

        と握手を求めた。あんたを容疑者あるいは重要参考人として連れてきたわけではないんだよと、相手の警戒心を解くためだ。

        「6年前には日本人の女弟子が自殺し、今度はまた日本人の女弟子が路上で殺された。不運につきまとわれているようですな」

         警視がすぐさま本題に切り込んだ。

        「私になにか落ち度があったとでも?」

        ガムランの師匠が緊張した声を出した。

        「あなたに落ち度はなかったでしょう。私がお訪ねしたいのは、6年前の自殺ことではなくて、今度の殺しのことです。被害者の態度に何か変わったところはなかったですか。瀬田沙代に最後にあったのは、たしか512日でしたね」

        「そうです。その日の朝、私の家の練習場でグンデルの稽古をつけた。午前9時から2時間ほどだ。バリ人の男の弟子もいっしょだった。彼女はいつもと同じように快活にふるまっていた。あのとき沙代が打ち鳴らしたグンデルの音は、あたりの朝の空気を切り裂くような鋭さがあってなかなかよかった。それが、2日後に殺されてしまうなんて……」

         グデ・ダルマワンの声が震えた。警視が彼の顔を見ると、目が赤くなっていた。だいぶ感情が乱れているな、と警視は思ったが、気づかないふりをした。

        「そのとき、瀬田沙代はデンパサールで誰かと会うようなことを言わなかったですか」

        「誰かとは、誰のことだ……」

         そう言ったあと、グデ・ダルマワンはハッとした表情で口を閉ざした。

        「彼女はスハルトノという名前を口にしませんでしたか」

        「そうか、あの野郎が沙代を殺したのか」

         ガムランの師匠が突然叫んだ。

          警視はそれを無視して話題を変えた。

        「ところで、あんた、去年の7月に瀬田沙代とジョクジャに行ったね」

        「そのことがあんたの捜査とどんな関係があるんだ」

        「まあまあ落ち着いて。あんたが瀬田沙代と情を通じたのはジョクジャ行きの前からか、それともジョクジャのホテルでか?」

        「おれを侮辱しているのか。スハルトの時代は終わったんじゃないのか。そういう言い方はないだろう」

        「じゃ、あんたの奥さんや、ウブッドの口さがない連中がひそひそ語り合っているあんたと瀬田沙代の情事は全部なかったこと、でっち上げの中傷だというんだな」

        「根も葉もないうわさだ」

        「ジョクジャへ行こうと誘ったのは瀬田沙代か、それともあんたか?」

        「沙代がジョクジャのガムランをよく聞き込んでおきたいからと、おれに同行を頼んだんだ。あんたも知っているだろうが、ガムランはもともとインドからジャワにはいってきた。バリへはジャワから伝えられた。ジャワとバリではガムランの音の作り方が違うんだ。ジャワのガムランの音は、どちらかというとテンポが緩やかで、たたき出される音も柔らかい。たとえて言うと、演奏される音がレースのカーテンを何枚も何枚も通り抜けて伝わってくるようにゆったりと響いている。よくしたもので、あの音はかつてのジャワのスルタンの宮廷の舞踊のように優美でなめらかだ。そういうジャワのガムランの音はスルタンの宮廷で洗練されて出来上がったものだ。ジャワにからバリに伝えられたガムランはジャワ的な洗練が施される以前の原形だ。代表的なのがゴング・グデだ。だが、20世紀に入ってすぐ、いまのバリのガムランであるゴング・ケビャールが考案された。いまではバリのガムランはケビャール一色に塗りかえられた。ケビャール(稲妻)というくらいだから、その音は鋭く鮮烈だ。スルタンの宮廷で磨き抜かれてトゲがなくなったジャワの半分眠ったようなガムランの音よりも、激しく空気を振動させるバリのガムランの音の方が外国人にはうける」

        「ジョクジャにはどのくらい滞在したんだ」

        「ガムラン・フェスティバルをやっていた3日間だ」

        「いい旅だったようだな」

        「沙代は満足げだった」

        「師弟ならではの親密な関係が強まったわけだ。ところで、14日の午前中、あんたはどこにいた」

        イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの顔がひきつった。

        「家にいたよ」

        「あんたが14日の朝、ミニバスに乗ってデンパサールへ行ったことはわかっているんだ。あの朝デンパサールで何をしていた」

         グデ・ダルマワンは口を閉じ岩のように固まった。

        「どこで何をしていたんだ。ここは大事なところだぞ。変に細工すると身に覚えのない疑いをかけられることにもなりかねん」

         警視が脅した。

        「タマン・サリ・ホテルへ行った。スハルトノに会うためだ」

        「何時ごろだ」

        9時ごろだと思う」

        「スハルトノに会ったのか」

        「やつはホテルにいなかった。それで、ロビーで一時間ほどやつを待ったが現れなかった。そのことはホテルのフロントの従業員が知っている。あきらめて、ホテルを出て、ミニバスでウブッドに帰ってきた。」

        「スハルトノにどんな大事な用があったんだ」

         警視がたたみ込んだ。グデ・ダルマワンの顔がゆがんだ。彼は両手で顔をおおい、肩をふるわせた。警視はしばらく黙っていた。

        「沙代の気を引こうとして、いい加減なことをあの女に吹き込むんじゃないと言いに行ったんだ」

         グデ・ダルマワンが叫んだ。

        「スハルトノは瀬田沙代に何を言ったんだ」

        「おれのことをウブッドの森の殺戮者だと沙代に言った」

        「なんのことだ?」

        「スハルトノは沙代に、おれが930事件のあとバリで起きたインドネシア共産党員虐殺事件に加担していたと、でたらめを言った。おれが沙代に、スハルトノは信用のおけない危険な男だから、もう会うのをやめた方がいい、といった。すると、あの女、子どもみたいなことを言うのはおやめなさい。聞くところでは、あなたも30年ほど前の20歳のころは、冷酷非情で危険な人だったそうじゃないの、と師匠のおれに面と向かって言ったんだ。それでおれはスハルトノに会いに行ったんだ」

         

         

        2018.06.24 Sunday

        『ペトルス――謎のガンマン』   第8回

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          5月23日午後3時ごろ、ウブッド芸術文化振興財団


           ウブッド芸術文化振興財団事務局は「ウブッド・インフォメーション・センター」の看板を掲げた、文化催事企画、ガイド派遣、ホテル案内、不動産仲介など、外国人をはじめウブッドにやってくるよそ者のための総合案内所の中にあった。中にあったというよりは、案内所と財団事務局は不可分のものだった。案内所の経営者がウブッド芸術文化振興財団の事務局長を兼ねていた。
           この案内所の経営者イ・ニョマン・ナデラはバリの舞踊やガムラン、絵描きのグループに顔が売れていた。外国人がバリの芸術とふれあう機会を提供している、というのが彼の自慢である。踊りやガムラン、バリ絵画などの師匠に外国人の弟子入り希望者を紹介し、短期間の旅行グループのためにバリ芸術体験のスケジュールをたててやり、それぞれ手数料をかせいでいる。
           1996年4月の終りごろウブッドにやってきた瀬田沙代のために、ウブッドに住み着く条件整備をしてやったのがこの男だった。元弟子の日本人男性からイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンあての紹介状を持っていた沙代を、ニョマン・ナデラがダルマワンの家に案内した。師匠から入門の許可をもらうために口添えし、不動産屋も紹介し、ついでにお手伝いの家族も送り込んだ。
           2人の刑事が事務所を訪れたとき、来客はいなかった。冷房を効かせた事務所でイ・ニョマン・ナデラが居眠りをしていた。
          「ここだけの話だが、ガムランの師匠であるイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンと日本人の弟子瀬田沙代は、師弟関係を超える密接な間柄だったと、ウブッドでは噂されているようだ。沙代をガムランの師匠の所へ連れて行ったあんたは、ふたりの関係をよく知っているそうだな」
          イ・バグス・マデ刑事がしょっぱなから高圧的な態度にでた。
          「おいおい、そんな質問の仕方はないだろう。いまや改革(レフォルマシ)と民主主義の時代が始まっているんだぞ」
           ワヤン・ブラタ刑事が相棒を押しとどめ、質問をやり直した。
          「瀬田沙代が殺された理由を調べているんだ。おれたちは痴情とえん恨の線を追っている。デンパサールの州警察本部へ来てもらって正式な記録をとりながらお聞きするのが筋だが、インドネシア全体がいま取り込み中なので、こうして略式の聴取をしているのだ。捜査の方針を決めるための聞き取りだ。ここでの話が証拠としてそのまま法廷に持ち出されるわけではない」
          「そんな言い方をしなくても、あの2人はいい仲だったのかい。教えてくれないかな。捜査上必要なことなんだ。そう素直に言えば教えてやらないこともないんだがね」
          「あんたの方に理がある。言い方を変えよう。沙代のことを教えてくれませんか」
           なんだかんだと理屈をこねてここで拒絶すれば、いずれデンパサールに呼び出されて、まる1日をつぶすことになるので、イ・ニョマン・ナデラは早々とあきらめてしゃべることにした。
          「グデ・ダルマワンには、俺がしゃべったとは言わないでくれよ。刑事さんの見込み通りだよ。あの2人はいい仲だった。去年の7月には2人してジョクジャカルタへ出かけたよ。ジョクジャカルタ・ガムラン・フェスティバルという催しがあって、それを聴きに行ったんだ。グデ・ダルマワンのかみさんはカンカンだった。田んぼの仕事を放り出して女弟子とジョクジャ旅行だ。それも旅費を女弟子がもつという情けない浮気旅行だ。どうしてくれようと、えらい剣幕でご近所に息まいていたそうだ。女房は亭主が女とジョクジャに行っている間に、バリアンをよんで浮気封じの祈祷をしてもらったそうだよ。
          「女房が騒ぎまわるのも無理のないことでね。あれは5、6年前のことだった。そのころイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの所には、日本人の女の弟子がいた。その日本の女が弟子入りして半年ほどたったころのある日、バドゥン半島へ出かけて、ウルワツ寺院近くの崖の上から身を投げてしまった。夕方だったが、日没のちょっと前だったので、ウルワツ寺院で夕陽をながめていた観光客らが、ちょっと離れた崖から人間が海に落ちてゆくのを見て騒ぎになった。収容した死体は岩場で身体のあちこちを打って無惨な姿だったそうだ」
          「聞いたことがある話だ。本部に帰ったら記録を調べてみよう。グデ・ダルマワンの弟子だったのか」
          イ・バグス・マデ刑事が遠い記憶をたどるような目つきをした。
          「うん、思い出したぞ。たしか女は妊娠していたな。ウブッドではあのときどんな噂で沸き返ったんだ」
          「最初はグデ・ダルマワンがその日本人の弟子に言い寄って妊娠させたという噂だった。だが、その証拠になりそうな愛の現場の目撃については噂が出てこなかった。そうこうするうちに、ダルマワンの所にいたアメリカ人の弟子が予定を切り上げてアメリカに帰っていった。それで今度は、日本の女とできていたのはあのアメリカ野郎だったという噂が広まり、そのうちのそれが定説になった」
          イ・ニョマン・ナデラがぺらぺらとしゃべり始めた。
          「過去にそんなゴタゴタがあったことを知っていて、瀬田沙代がグデ・ダルマワンに弟子入りする手伝いをしたのかい」
          ワヤン・ブラタ刑事がとがめるような口調で言った。
          「瀬田沙代はなんとしてもグデ・ダルマワンのところでガムランを習いたいと言った。あんたの前の日本人の女弟子はかくかくしかじかでウルワツから身を投げてしまった。ウブッド界隈には、グデ・ダルマワン以外にも、いいガムランの師匠がたくさんいるので、違う先生を選んだらいかがと、ウブッド文化芸術振興財団事務局長のおれが言い出すわけにはいかんだろう。こう見えても公平がモットーなんだ。ところで刑事さんたちはグデ・ダルマワンに会って話を聞いたかい」
          「殺された女が瀬田沙代だとわかった段階ですぐ、彼と会ったよ。思いあたることは何もないといっていた。弟子が殺されたことで、おちこんでいたな」
          イ・バグス・マデ刑事が言った。
          「いつごろのことだ」
          「あれは15日の金曜日だった」
          「そのあとどんどん憔悴がひどくなっているよ。もう寝込んでいるかも知れない」
           ニョマン・ナデラが声をひそめた。2人の刑事にはニョマン・ナデラが、グデ・ダルマワンのことをわけありだ、と告げ口しているように思えた。
          「ありがとう。いい情報があったらまた教えてくれ」
           2人の刑事はそう言って、日差しの強い午後のウブッドの通りに出た。
          「次はニ・ニョマン・カデだな」

           ニ・ニョマン・カデは雇い主がいなくなってしまったお屋敷の内庭で、瀬田沙代が愛用していたテーブルの前に座り、ぼんやりとお茶を飲んでいた。2人の刑事を見ると、何か悪いことをしているところを見られた子どものように、羞じらんだ笑いを見せてイスから立ち上がった。
          「刑事さん、きょうはどんなご用で? 亭主のイ・ワヤンは賃大工仕事で出かけている最中です」
          「いや、きょうはあんたに聞きたいことがあって来たんだ」
          ワヤン・ブラタ刑事がつとめて柔らかい口調で言った。
          「お茶にしますか、コーヒーがいいですか」
          「煩わせてすまんな。熱いお茶をいただきたいな」
          「お茶なら亡くなったイブ・サヨが残した極上のジャワティーがあります」
          「ああ、それをごちそうになろうか」
           やがて立派なティーカップに透明感あふれる紅茶がティーポットから注がれた。
          「いい香りだな」
          「イブもそう言っていました。インドのお茶もいいが、ジャワのお茶もそれに負けないとね」
          「ところで、ちょっと立ち入ったことをたずねたいんだ。ガムランの師匠のグデ・ダルマワンだが、イブが生きていたころ、ここにちょくちょく来たかね」
          ワヤン・ブラタ刑事がさりげない聞き方をした。
          「しょっちゅうではありませんが、月に何度かやってきて、イブと一緒にご飯を食べたり、お茶を飲んだりしていましたよ」
          「泊まっていったことはなかったかね」
          「まさか。そんなこと。刑事さんも、グデ・ダルマワンが沙代さんといい仲だったというムラの噂を信じているわけですか」
          ニ・ニョマン・カデが馬鹿にしたような言い方をした。
          「あんたは信じていないのかね。じっさい、グデ・ダルマワンのかみさんは嫉妬で怒り狂ったことがあるそうじゃないか」
          「あの女はもともとやきもち焼きなのさ。イブの男関係については、私は何も知らないよ。私の知る限り、この家に男が泊まっていったことはないよ」
          「オーストラリアの女はどうだ? 泊まったんじゃないか」
          「イブはあのオーストラリアの若い娘さんと仲がよくてね。あの子のならよく遊びに来て、私らの家族ともども夜更けまで話をしていたよ。オーストラリアのシドニーから来た娘さんだった。シドニーは海のきれいな町だってね。遅くなると時には泊まって行くこともあった。二ヵ月ほどウブッドにいてシドニーに帰っていったよ」
          「どうなんだろう。瀬田沙代はセックスの面で衝動的なところがあったと思うかい」
          「イブは男狂いだったとか、男がイブに狂ったとか、ウブッドじゃひそひそ語られているが、なんにも証拠のない話さ。イブはウブッドでは、男にとっても女にとっても、どこか気になるになる存在だった。それで、イダ・アユ・ングラとよばれていたのさ。ところで、先日ここに来たイブのご両親からしばらくのあいだこの家を守っていてくれと、お金を渡された。いずれ家族の誰かが戻ってきて、イブの遺品やこの家の後始末をするということだった。刑事さんたちはなにかそのことでご存じか?」
          「家族は日本に帰って葬式をすませ、一段落したらこの家の後始末に帰ってくる。しっかり留守番をしていれば、退職金をはずんでもらえるかもしれんよ」
           2人の刑事は瀬田沙代が住んでいた家を出て、デンパサールへ戻っていった。

          2018.06.16 Saturday

          『ペトルス――謎のガンマン』  第7回

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            523日正午ごろ、ウブッド大通り

             

             スハルト政権の崩壊にまで至ることになったインドネシアの動乱で、各国政府がそれぞれの国民にインドネシアからの退去やインドネシアへの渡航延期をすすめる危険情報を流したため、スハルト退陣劇の幕が下りて2日後の523日、緑濃いウブッドの唯一の繁華街・ウブッド大通りにはなお閑古鳥が鳴き続けていた。

             バリに残る王宮のなかでもっとも有名なウブッドの王宮・プリ・サレンもウブッド大通りにある。ここは夜ごと観光客のためにバリ舞踊とガムラン演奏が繰り広げられるウブッド観光の代表的な場所だが、観光客が激減した乾季5月下旬の昼間の太陽に照らされて、夜の幻想的なはなやかさとは対極のげんなりくたびれた姿をみせていた。

             プリ・サレンのウブッド大通りをはさんだ向かい側がウブッド市場で、いつもならバリの仮面(トペン)や木彫り(パトゥン)、バティックのシャツやサロン、金銀細工、バリ風のおどろおどろしい悪霊などを描いたるルキサン(絵画)、その他日用雑貨をあさる観光客でごった返しているはずなのだが、いまは閑散としている。首都ジャカルタからバリに避難してきた金持のインドネシア人や外国人たちは、その多くが海岸沿いのホテルに泊まっていて、そこを動こうとしなかった。街に出ると危険だと思いこんでいたらしい。したがって、ウブッドまでやってくる客はほとんどいなかった。

            「このあたりでは観光客が落とす金をあてにして暮らしてきた人も多いので、先行きが心配だろうなあ」

             ワヤン・ブラタ刑事がテーブルの向こう側に座っているビンタンとよばれている老人に言った。

             ワヤン・ブラタ刑事は相棒のイ・バグス・マデ刑事ともども、23日もまた、あきもせずウブッドに来て、瀬田沙代に関する情報を集めていた。沙代のウブッドでの暮らしぶりを克明に追って行けば、やがてその先に沙代と事件の接点が見えてくるのではなかろうかと考えてのことである。

            「観光客が減ったことは、これまでにも何度もあったよ。30年以上も前の、930が起きる2年ほど前にグヌン・アグンが大噴火したことがあった。あれはスカルノがまだ威勢のよかった時代でな。スハルトなどはまだ無名の一将軍だったころだ。そのころはバリに来る観光客もいまほど多くなかったので、ここの暮らしにさほどの影響はなかった。いま思えば、あのときのグヌン・アグン噴火の灰でバリの土壌は一層肥沃になった。マラリ(1974115日、田中角栄首相のジャカルタ訪問時に起きた反日をスローガンにした反政府暴動)の時もバリに来る観光客ががたっと減った。だが、まもなくみんなそのことをけろりと忘れて、バリに来る日本人も以前にまして増えることになった。とかく忘れっぽい観光客はいずれ戻ってくるよ。この島にはそれだけの魅力がある」

             ビンタン老はそういってワルン(簡易食堂)のテーブルの上のナシゴレンをスプーンですくい、何本かの歯が抜けおちてしまったままの口の中に放り込み、ビン入りの甘い紅茶で胃の中に流し込んだ。二人の刑事もミーアヤムを食った。ゆでたエッグヌードルをどんぶりに入れ、そのうえに鶏のそぼろとゆでた青菜をのせ、さらにバソとよばれる魚肉ミートボール入りのスープをかけ、サンバルをたっぷり入れて食べる。道行く人にはウブッドの怠け者の農家の男どもが3人して闘鶏の賭け事の話でもしているようにみえた。

            「そろそろデンパサールで殺された瀬田沙代のことを話してもらえないかな。あんた、いろいろ知っているんだろう」

             イ・バグス・マデ刑事がビンタンに催促した。

            「ウブッド界隈のうわさでわしの耳に入らないものはない。ここで70年以上生きてきたんだ。オゴオゴも今じゃわしの友達じゃよ」

             オゴオゴはバリ暦の新年ニュピの前日にお祓いの対象になる悪霊である。この儀式をすませると、バリの人は何もしない一日を送る。泥棒は盗むのをやめ、警官は泥棒を追いかけるのをやめる。

            「お友達のオゴオゴのことは別の日に聞かしてくれ。あの殺された日本の女の噂や評判を聴きたいんだ」

            「あの女は2年ほど前だったかな、ウブッドにやってきた。メガワティが民主党を追われた19967月より少し前のことだった。スハルトの奥さんのシティ・ハルティナが亡くなったのが1996年の4月、ちょうど同じころに瀬田沙代がウブッドに現れた。スハルトの運が傾き始めたのは妻に先立たれたあのときからだな。インドネシア人の気持がだんだんとスハルトから離れ、スハルトがつぶしたスカルノの思い出の方に傾き始めた」

            「そうだったな。スハルトに嫌気がさしたぶん、スカルノ時代が美しく楽しく見えるようになったんだろう」

             イ・バグス・マデ刑事が相づちをうってやった。

            「スハルトを嫌い、スカルノ時代を懐かしがるインドネシア人が増えれば増えるほど、スカルノ娘のメガワティの人気があがった。スハルトはメガワティが野党の民主党の党首のままで1997年の国会議員選挙に入ると、大統領である自分の足下が危なくなると思った。それで、19966月にスマトラで民主党の臨時党大会を開かせ、メガワティを党首のイスから追放させた。7月には、メガワティ解任を認めずジャカルタのデポヌゴロ通りの民主党本部に籠城していたメガワティ支持者を、ならず者をやとって追いたてたことから暴動に広がった。これが逆効果になってインドネシア人の気持はますますスハルトから離れ、メガワティに寄せられる同情はさらに熱いものになった。ワフユに見放された人間はこういうものじゃよ」

            「瀬田沙代のことなんだが……」

             バグス・マデ刑事が催促した。

            「瀬田沙代はプリアタンのイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンから10年ほど前にガムランを習ったことのある日本人の紹介で、バリに来て彼の弟子になった。金持の女らしく、プリアタンの王家の血をひく、いまはジャカルタで資本家の仲間入りをした男の留守宅を借りてそこに住み始めた。細身で、あたりを払うような、高貴な印象があったので、だれかがイダ・アユ・ングラという仰々しいあだ名を提供した。タバコが吸いたいな」

             ワヤン・ブラタ刑事がシャツの胸のポケットからサンプルナ234を取り出して、ライターと一緒にテーブルの上に置いた。ビンタンがその1本をとりだして火をつけた。強いクローブのにおいがあたりにただよった。

            「女の暮らしぶりはどうだった?」

            「人間の暮らしぶりは、優雅か悲惨か、金しだいさ。金がなくても優雅に暮らすには、オレくらいの修行が必要ってもんだ。ああ、日本の女は優雅に暮らしていた。普段はガムラン三昧で、毎日のようにイダ・プトゥ・グデのところでガムランの手ほどきを受けていた。買い取ったのか、借りたのか、詳しいことは知らんが、ちょっと響きの良さそうなグンデルを自宅においていた。上物のグンデルの、その魂を鳴らしきれるほどには、まだ腕はあがっていなかったがね。月に何度かデンパサールに下っていって、芸術学院の教師からも手ほどきを受けていた。夜になるとウブッドのあちらこちらで開かれる踊りやガムラン演奏会場をのぞき、時には、自宅に仲間のガムラン練習生を集めて、練習をしていた」

            「金持の瀬田沙代から借金を重ねていたようなやつはいなかったのか」

             イ・バグス・マデ刑事がテーブルの上のワヤン・ブラタ刑事のクレテックのタバコに手を伸ばした。

            「そのあたりのことはよく知らん。わしは金融関係は余り得意じゃないんだ」

            マンダラ老がまじめくさった表情で言ったので2人の刑事は苦笑した。

            「男はいたのか」

             イ・バグス・マデ刑事がニヤニヤ笑いなが尋ねた。

            「いたさ。男あっての女。女あっての男。人あれば影あり。スカラ(感覚でとらえうるもの)とニスカラ(感覚でとらええぬもの)、ランダとバロンのようなものだ。バリの夜にはどっちがかけてもならねえ。この2つのものの均衡と調和の上にこの世界がある。

            「あの日本の女もひとなみにお盛んだった。だが、男ならダレでもいいというわけではなかったようだな。あの女に言い寄って袖にされたウブッドの若い衆はたくさんいた。そいつらがやっかみ半分にまき散らした噂では、イダ・アユ・ングラの男は、まずガムランの師匠のイダ・プトゥ・グデ・ダルマワン。あの師匠は時にはイダ・アユ・ングラの家に行ってガムランを教えていた。稽古を見ていたやつの見立てでは、2人はできていた。普通、ガムランの教師は、アア、ダメダメ、こうするんだと、楽器を自分でたたいてみせるが、実際に弟子の手を取って楽器を打つようなまねはしないものだ。イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンはイダ・アユ・ングラの背後にたって、自分の身体をぴたりと彼女の背中につけ、女の手に自分の手を添えて、楽器を叩いていたそうだ。

            「その稽古ぶりをみていたのはだれだ?」

             ワヤン・ブラタ刑事が聞いた。

            「街の噂だよ。見たことには興味津々だが、見たやつには誰も興味を示さない。グデ・ダルマワンのかみさんならきっと亭主の浮気に感づいているだろうよ」

            「ほかにも男がいたんだな」

             イ・バグス・マデ刑事が、ニヤついているビンタン老に言った。

            「絵描きだ。観光客用にちょっとこったバリ絵画を描いて売っている。アトリエを、デサ・プヌスタナンに持っているオヤジだ。イダ・バグス・チャンドラ。3人ほどの弟子をかかえている。本人はいっぱしの芸術家を気取ってはいるが、密林の中の悪霊と動物と人間といったバリ風の夢の世界を題材にしたものも描けば、昔懐かしいバリの村の庶民の暮らしや、バリの王家の火葬の絵や、バリ舞踊の可憐なダンサーも描くという器用なおみやげ作家だ。最近、イダ・バグス・チャンドラが、イダ・アユ・ングラをモデルにして裸体画を描いたそうだ。女が裸になってポーズをとり、それを画家が油彩画にしているのを弟子の1人が見ている。その弟子と視線があっとき、女はにっこりと笑顔を見せたそうだ。若い弟子は身震いするほどの興奮を感じた。そのとき、師匠と女はできていると直感した。その弟子がダチ公に打ち明け、それが回り回ってオレの耳にまで届いた。イダ・バグス・チャンドラのアトリエに行って、女の裸体画を見せてもらいな。それがやつをしゃべらせる糸口になるだろうよ」

            「ほかには」

             ワヤン・ブラタ刑事が言った。

            「うわさでは、今年の正月ごろはオーストラリアからバリ舞踊を習いに来ていた女がいたそうだ」

             2人の刑事は怪訝な表情をした。

            「男だってそういうのはいるだろ。西洋の男の中にはバリへ男の子を探しに来るやつもいるぞ。オーストラリア人の女はイダ・アユ・ングラの家に来て泊まっていくことがあった。このことは、あのうちのプンバントゥーから聞いた。女が2人してゴア・ガジャの洞窟の中で抱き合っていたという噂もあった。それ以外に、ウブッドにやってきた日本人の音楽学者が泊まっているホテルの部屋に、あの日本女が入るのを従業員が目撃している。行きずりの恋も多々ある女だった」

            「しかし、あんた、えらくあの女の恋模様に詳しいじゃないか」

            「目立つ女だったんだよ。どこか人を引きつけるような、妖しい雰囲気をただよわせた魅力のある女だった」

            「あんたはその恋の余得にはあずからなかったのか」

            「おれと睦んでいれば、あの女に死霊がとりつくことはなかっただろうに。おしいことだった」

             ビンタン老がまじめな顔で言った。

             ビンタン老はバリで「バリアン」、ジャワなどで「ドゥクン」あるいは「ボモ」とよばれるまじないだった。人間の病はその人の心身と、その人を取り巻く環境との間の不調和から起こる。その不調和を祈祷やマッサージや薬草などで和らげる仕事をするのがバリアンの仕事だ。薬草に詳しいバリアンをバリアン・ウシャダス、ある時突然もののけにとりつかれてバリアンになったのがバリアン・タクスだ。バリアン・ダサランは人の心を読み取る。バリアン・トゥランは整骨が得意だ。

             ビンタンは薬草に詳しいバリアン・ウシャダスだったが、いまでは若手のバリアンにおされてバリアンとしては影の薄い存在になっている。バリアンはシャーマンでもあり、さまざまな人のさまざまな事情に立ち入る立場にある。いってみれば、ウブッドに飛び交うムラの内部情報のアンテナだった。

            「これをとっておいてくれ。ワヤン・ブラタ刑事が財布から1万ルピア札2枚を取り出してビンタン老に渡した。

            「おや、これっぽっちかい」

            「本来なら情報提供の謝礼は警察の決まりで一枚だが、このところルピア安がひどくなったので、2枚にしたんだ。気は心だと思って気持よくうけとってくれ」

             ワヤン・ブラタ刑事がビンタン老にウィンクして言った。

             

             

             

            2018.06.10 Sunday

            『ペトルスー謎のガンマン』    第6回

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              5月22日夕、警視のオフィス


               ワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事がグスティ・アグン・ライ警視の執務室に現れた。2人とも瀬田沙代の殺しを担当している刑事で、ウブッドの聞き込み捜査から帰ってきたところだった。
              「いやあ、疾風怒濤の日々だったね」
               警視が軽口をたたいた。
              「12日のトリサクティ大学の射殺事件からパッ・ハルト(スハルト大統領)の21日の辞任まで、まったく、インドネシアを揺るがした10日間でしたね」
               ワヤン・ブラタ刑事が軽口に乗ってきた。
              「インドネシアを揺るがした10日間か、学のある人は洒落たもの言いをするね」
               警視がニコニコと笑顔で応じた。
              「私らのような下っ端は関係ないでしょうが、今度の揺れで足下が液状化しちまったお偉方は少なくないことでしょうねえ」
               ブラタ刑事がたたみかけた。
              「ここの州知事やウダヤナ師団の司令官などはだいぶストレスがたまっていることでしょう。うちの本部長あたりまで影響が及ぶんでしょうかね」
               イ・バグス・マデ刑事がうれしそうな顔をした。他人の難儀はカモの味というやつだ。
              「さっそくだが、13日から事件のあった14日にかけての、被害者の行動について、まず聞かせてくれないか」
               警視が軽口を切り上げ、仕事の報告を催促した。
              「プリアタンの瀬田沙代の家で働いていたイ・ワヤン・サントソとニ・ニョマン・カデから聞き取りをしました13日は、亭主のワヤン・サントソは、ウブッドの民宿改装の賃仕事に朝7時ごろから出かけていました。瀬田沙代は7時前に起き、外庭のガムランの稽古場に座り込んで瞑想していたそうです。8時には内庭に出してあるテーブルで朝飯を食べました。何を喰ったと思います? 警視」
               ワヤン・ブラタ刑事がからかうような口調で言った。
              「朝飯ならミー(麺)にきまっているだろう」
              「どっこい、BLTというやつで」
              「BLT?」
              「焼いたベーコンとレタスとトマトをロティ(パン)にはさんだやつでさあ。ベーコンはムスリムが食べるような牛のベーコンではなくて、正真正銘のブタの脂肉の燻製。外国人の多いウブッドではスーパーで普通に売ってますよ。それにジャワティーをマグカップに一杯」
              「朝からよくそんなものが食えるな。ほっそりした被害者の遺体から考えると、意外な朝飯だ」
              「ガイシャの朝飯はロティに決まっていたそうです。それから彼女は身支度をして9時前には家を出て、前日の夕方に頼んでおいた車に乗ってデンパサールに下っていったとニョマン・カデは言っています。その車は瀬田沙代がデンパサール市内に出かけるときはいつも使っている、なじみのホテル・タクシーです。運転手は10時前にはインドネシア芸術学院に沙代を送り届けたと言っています」
              「沙代はこの朝上機嫌だったようで、今度泊まりがけでバリの北海岸にドライブに行こうよ、と運転手をからかったそうです。沙代と顔なじみの芸術学院の学生によると、沙代は1時間ほど学生たちが演奏の練習をするのを見学したあと、4人1組で演奏するレヨンに加わって実際に練習したのですが、ちがう、ちがう、と指導教官に何度も怒鳴られていたようです。午後1時ごろ学院のカフェテリアで、友人の学院生とお昼を食べ、そのあと、2時から4時まで、学院の教師からグンデルの奏法の個人指導を受けました。毎月第2と第4の水曜日の2回、この教師から個人指導を受けていたそうです」
              「ちょっと、待った」
               ワヤン・ブラタ刑事の要領のいい説明に警視が割り込んだ。
              「沙代に軽口をたたかれた、その運転手は14日朝どこにいた?」
              「ええ、しっかり調べておきました。運転手は、ビーマというごたいそうな名前の男ですが、14日は朝9時に予約を受けていたオーストラリア人のカップルを滞在先のウブッドのホテルでのせてキンタマニーまで運んだそうです。オーストラリア人は暑苦しいウブッドに辟易して、涼しい高原の風に吹かれたかったのでしょう。客は高原のレストランで昼飯を食い、ビーマの案内であたりを散歩して、夕方4時ごろホテルに帰って来たそうです。客はすでにオーストラリアに帰国していますが、ホテルの従業員が、ビーマがその宿泊客を乗せてホテルを出発し、ホテルに帰ってきたのを見ています」
               プラタ刑事が得々として説明した。
              「行き届いた捜査だ。それと、被害者にグンデルを教えていた教師は、被害者の身辺について何か感想めいたことを言わなかったか」
              「沙代の私生活について、彼はあまり知りませんでした。月2回グンデルを教えるだけの間柄だったようです。指導は4時ごろ終り、沙代はそこからタクシーでタマン・サリ・ホテルに行ってチェックインしました。ホテルで調べたところ、チェックインの時刻は4時20分と記録されていました。沙代はバリからデンパサールに出て来た時の定宿にしてようで、タマン・サリのレセプションのみんなが紗代と顔なじみでした」
              「ホテルに滞在中、沙代が誰かと連絡をとったりしたことはなかったか? 外からの電話はどうだ?」
              「外部からの電話連絡は記録に残っていませんでした。かけてもいないし、かかってもこなかった」
              「それからどうした」
              「ホテルのフロント係によると、沙代は午後6時ごろフロントに来て、ジェネラル・マネジャーに挨拶したいと言ったそうです。ジェネラル・マネジャーのスハルトノがやってきて、2人してロビーでにこやかに話していたそうです。2人は顔見知りで、沙代はタマン・サリに泊まると、時々、スハルトノと食事をともにしていました。それから沙代はフロントに鍵を預けて、タクシーをよんでもらいました。タクシー係がどちらまでとたずねたら、アートセンターだと告げたそうです。沙代をのせたタクシーはホテルのタクシー係のメモから直ぐわかりました。確認したところ、たしかにアートセンターへ行っていました。あの夜はデンパサールのガムラン・グループが演奏会を開いていました」
              「13日は銃撃されて死んだトリサクティ大学生の葬儀にムハマディヤのアミン・ライスや民主党を追われたメガワティ・スカルノプトゥリが参列して、反政府のアジ演説で集会が盛り上がっていた日だ。インドネシア国軍は、スハルトにつくのか、民衆の側につくのか、はっきりしなくてはならない、とジャカルタで反体制指導者が叫び、翌14日には暴動が広がった。そんなときに、デンパサールではガムランをやっていたのか。まったく、のどかなもんだ」
              「なくなった学生を弔う曲も臨時に組み入れていたそうです。そういう趣旨の会でもあったといっていました」
               警視の誤解をワヤン・ブラタ刑事が指摘した。
              「沙代は夜9時ごろタマン・サリにタクシーで帰ってきて、コーヒーショップでビールを飲みながら晩飯を食べました。何を食ったと思います? 警視」
              「ハンバーグか?」
              「はずれ。サテ・カンビンでビールを飲んで、そのあとナシ・チャンプルです。ジャワでナシ・ラメスといっているやつです」
              「あれは手っ取り早くていい。それにごたいそうに飾り立てたホテルのインドネシア料理より味わいが深い」
              「その晩飯のテーブルにスハルトノがつきあっていたそうです。スハルトノはクラブハウス・サンドウィッチをかじりながら、熱い紅茶を飲んだ。調べてみると、スハルトノのサンドウィッチと紅茶は沙代のおごりでした。ちょっと、変な感じがしませんか、警視。デンパサールの高級ホテル、タマン・サリのジェネラル・マネジャーが飲食代を客に払ってもらったりして」
              「客が払うと言っているので、客の顔をたてたのではないのか。あの女、金持ちだったから」
              「それからですね、警視。ホテルのハウスキーピングの従業員の話では、沙代が泊まった部屋はダブルベッドの部屋で、翌日の掃除の時、ベッドやシーツの具合からして、独り寝の様子ではなかったといっております。それと、部屋のミニ・バーからスコッチの小瓶2つとソーダ水が消費され、部屋にはグラスが2つ残っていたそうです。ということは、夜になって、男を密かに招き入れたような気配です」
              「どうして男とわかる。女の可能性だってあるだろ」
              「私はピーンときましたね。スハルトノは沙代とできていた」
              「ワヤン・ブラタ刑事。すごい千里眼だね」
              「ヘッヘッヘ……。いずれ真相がわかってくるでしょう。瀬田沙代は14日の午前9時ごろホテルをチェックアウトし、荷物、といってもリュックひとつですが、それを肩にかけて歩いて通りに出で行ったそうです。沙代の行動がわかっているのはそこまでです」
              「ごくろうさんでした。では、イ・バグス・マデ刑事の話を聞こうか」
              「オジェック乗りのスダルノですが、年齢は26歳。オジェックで小銭を稼ぎ、ビーチをふらついては、バリの青年との一夜にあこがれてやってくる外国女性を捜すのを仕事にしていたようです。この手のビーチボーイは、英語のできるやつはオーストラリア女性、日本語のできるやつは日本女性と守備範囲が決まっている。バリの青年を気取っているが、ジャワやスマトラからの出稼ぎも多い。スダルノを知っているオジェック仲間に聴いてみたのですが、スダルノは日本語が話せなかったと言っていました
              「日本の女が足繁くバリにやってくるようになったは90年代になってからです。その日本の女を目指してインドネシア各地から仕事にあぶれた若者がバリに集まるようになった。やって来る女は旅先の快楽を求め、男は女から金を引き出そうとする。クタ周辺にたむろしているビーチボーイと称する男娼に言わせれば、日本の女は簡単におとせるのだそうです。それはそうでしょうなあ。もともとその気でバリの海岸に来ているのだから。ですが、今のところスダルノと瀬田沙代を結ぶ線は何も見つかっていません」
              「麻薬の線はどうだった」
               警視が聞いた。
              「麻薬情報に詳しいクタの情報源に接触したところでは、スダルノが麻薬の密売に関係していたという情報はまったくありませんでした」
               ブラタ刑事が答えた。
              「そうだろうね。ウブッドに住んで2年にもなる女が、いまさらクタあたりの安手のビーチボーイに用があるはずもなかろう。それに、検視結果では、殺された2人から薬物使用の反応はなかったのだから、麻薬の線をこれ以上追う必要はなかろう」
               ライ警視はそう結論した。
              「これまでに得た情報をもとに考えると、同じ動機で瀬田沙代とスダルノを殺すことは考えにくい。スダルノ殺しを目撃されて沙代を殺した。沙代殺しを目撃されてスダルノを殺した。この2つだな」
              「スダルノを殺したがるようなやつの話はこれまでの聞き込みでは出てこなかった。スダルノをピストルで銃撃するような洒落たやつはクタにはいない」
               ブラタ刑事が力を込めた。
              警視の部屋の窓からみえるデンパサールの空が夕焼けでほんのりオレンジ色になってきた。よく見ると、2人の刑事とも疲れたなあ、そろそろ家に帰って休みたいなあ、という顔つきをしている。
              「今日はこのくらいにしておこう」
               グスティ・アグン・ライ警視が言った。
               

              2018.06.03 Sunday

              『ペトルス――謎のガンマン』  第5回

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                5月19日朝、バリ駐在領事事務所

                 

                 スラバヤ総領事館デンパサール駐在官事務所の久保田尚領事が5月19日朝8時ごろ鷹石里志の自宅に電話してきた。
                「おはようございます。領事の久保田です。朝っぱらから、すみません」
                世の中には聞くだけで気が滅入る声もあれば、久保田のように、話しかけられた方がすーっと気が軽くなるようなしゃべり方をする人もいる。
                「おはようございます」
                鷹石も朗らかな口調で応じた。
                「ご都合がつけば、9時に駐在官事務所までご足労願えませんでしょうか。実は先ほど倉田伸生さんから電話をいただきましてね。なくなられた瀬田沙代さんのご遺体のことで、9時に事務所におみえになります。ご遺体をそのまま運ぶか、ここで荼毘にふすか、その選択の話になると思います」
                「なかなかに辛い選択の時ですね」
                「その選択をなさったあと、警察へ行って遺体の引き取りをする手順になるのですが、あいにく私は午前11時から正午まで、バリ州の知事と会見の予定があるため、倉田さんご夫妻に同行できないのです。遺体引き取りの手続きについて、警察の説明をインドネシア語から日本語に翻訳する仕事をお引き受け願えないかと思って電話しました」
                「いいですよ。ウダヤナ大学で教えているのは木曜日だけですから。その日以外は遊民です。9時に事務所ですね」

                 

                 久保田領事の事務所に倉田夫妻、瀬田誠、和田俊夫があらわれた。
                「私はきょう警察で沙代の遺体と対面しますが、そのあと、警察と遺体の引き取りについて打ち合わせすることになるでしょう。沙代を日本に連れ帰るについては、遺体のままで空輸するか、ここで荼毘に付して遺骨を持ち帰るかのどちらかですが、それを決めるにあたって少々お尋ねします。まず、遺体のままで日本へ空輸するにはどんな手続きが必要でしょうか」
                瀬田誠が領事に尋ねた。
                「まず、死体検案書ですが、デンパサールで沙代さんのご遺体を検視した医師が作成します。この死体検案書は警察で発行してもらえます。念のため4通ほど書いてもらってください。日本国内で死亡届を出す時などに必要になる書類です。警察のインドネシア語の検案書には日本語の翻訳が必要です。駐在官事務所で翻訳します。また、この事務所も遺体証明書を発行します。ご遺体の空輸にともなう通関手続きについての書類なども事務所の方で作成のお手伝いをいたします。また、ご遺体を運ぶ作業は作業に手慣れた当地の業者をご紹介し、空輸の指示についてもお手伝いできると思います。日本へ着いてからのご遺体の受け取りなどについては、瀬田さんと倉田さんの方で、日本側の葬儀社に依頼なさってください」
                久保田が答えた。
                「荼毘に付すとすれば?」
                瀬田がたずねた。
                「バリでお亡くなりなった外国人を火葬するための施設がヌサ・ドゥア地区にあります。こちらの方も準備は事務所でお手伝いできます」
                久保田がゆっくりと丁重な口調で返事した。
                「鷹石さん、昨夜あなたがお帰りになったあと、瀬田誠君とわれわれ3人で遺体を日本に運ぶか、ここで火葬にしたうえで遺骨を持ち帰るか、いろいろ話し合いました。外国で肉親の遺体を荼毘に付すということが、私にはちょっとぞんざいなことに思えて、沙代を遺体のまま日本へ運ぼうと言ったのです。ですが、妻の伊津子が沙代の遺体と沙代への思いをずるずると日本までひきずらないで、このさいバリできっぱりと沙代の遺体とはお別れする方がいいのではないか、と反対意見を出しました。夫である誠君も伊津子の意見に賛成しましたので、昨夜、原則的に当地で荼毘という結論をみました。ところでその外国人火葬施設はどんなところですか」
                倉田伸生が久保田と鷹石に尋ねた。
                「バリでなくなった旅行者やバリに長期間滞在していた外国人が当地で死んだ場合、家族の希望に応じて遺体を火葬する施設です。国際火葬場ともヤサ・マンダラともよばれています。バリのヒンドゥー教徒の火葬は通常、屋外で行います。かつてバリに存在したさまざまな王家の末裔などの有力者の火葬となると、火葬の1ヵ月もまえから、準備や前触れの催しが始まり、大そうなお金をかけた行事になります。インドネシア中や、遠く外国からも火葬を見ようと大勢の見物人が集まってきます。ヒンドゥー教徒にとっては、死というのは魂の問題であって、もはや魂が帰ってくることがなくなった肉体は不用のものであり、すみやかに自然に返すべきものなのです。
                「われわれ日本人にとっては、葬儀は厳粛なもので、そしてしめやかに行われなければなりません。それが死者に対するわれわれの敬意なのです。バリのヒンドゥー教徒が着飾って賑々しくお祭り騒ぎのうちに火葬をおこなうのは、それもまた死者の魂への敬意の表明であるからです。彼らはそう理解しています。バリのヒンドゥー教徒は、火葬は屋外で行うものだと信じています。私は学生のころ、インドのすべてのヒンドゥー教徒が人生の最後をそこで迎えたいと願っているベナレスを訪れたことがあります。ボートに乗ってガンジス川から岸辺をながめると、川岸のあちこちに薪を積み上げて野焼き方式で火葬をする煙がのぼっているのが見えました。薪で遺体を焼いて遺骨をガンジス川に流すのが最上の葬儀だと彼らは考えています。ベナレス市当局も現代式の火葬炉を備えた施設をつくっていますが、狭い炉の中で遺体を焼くことを嫌っているのか、いっこうに屋外での火葬が減らないそうです」
                久保田が説明した。
                「去年のことです。ヤサ・マンダラで、バリのある王家の末裔の高名な医師がオランダ生まれの妻の葬儀をおこなって、ちょっとした議論になったことがありました。そのような安直な葬儀は、華麗にして豪華なバリの王宮の文化的伝統から外れたものである、と批判の声があがりました。バリの有力者の大がかりな葬儀にはそれなりの支出がともないます。したがって地域に相当の金が落ちるわけで、一種の富の再配分の役割も果たしてきたわけです。
                「日本流にいえば喪主にあたるその医師は、実務的かつ効率的な葬儀を行っただけのことだ、と説明しました。妻は遺言で簡素な葬儀を望んでいた。バリ・ヒンドゥーのさまざまな約束事を切り捨てた葬儀でしたが、葬儀にはパンデタの称号を持つヒンドゥーの高僧を招いて立ち会ってもらったそうです」
                久保田が補足した。
                「国際火葬場でお骨にしていただきましょうよ。沙代の半分はあの子が好きだったバリに残し、半分を私たちが日本に連れ帰りましょう」
                倉田伊津子がきっぱりとした口調で言った。
                「お話のその王家の末裔のお医者さまが、奥さまの火葬の時にヒンドゥーの高僧をおよびになられたように、沙代のためにどなたか仏教のお坊さまかキリスト教の牧師さまか神父さまに導師をお願いしたところだけど、ここでは無理よね」
                伊津子が伸生と誠に言った。
                「仏教の高僧ならここにいらっしゃいますよ」
                領事の久保田がいたずらっぽい目で言った。
                「デンパサールに仏教のお坊さんがいらっしゃるのですか」
                瀬田誠が問い返した。
                「そうです、いま私たちの目の前にいらっしゃいます」
                久保田の目が鷹石里志を指していた。
                「鷹石さん、お坊さんでいらっしゃる?」
                瀬田誠が言った。
                「いやいや、これはどうも……。わたしはお寺に生まれました。大学卒業後、寺を継げと言われて、坊さんの修行をして、寺に帰って副住職をつとめましたが、一年ともちませんでした。結局、大学院に入って教師になってしまいました。寺は弟がつぎました。落第坊主です」
                「ご謙遜を。米国の大学で哲学博士の学位を取得された学僧でいらっしゃる」
                久保田がダメをおした。
                「鷹石さん、沙代のために是非お願いします」
                伊津子が懇願した。
                「わかりました。倉田家のご宗旨は?」
                「臨済です」
                「そうですか。偶然ですね。私も短い間ですが臨済の僧でした。日程が決まりましたらヌサ・ドゥアにご一緒して『大悲心陀羅尼』を唱えさせていただきましょう。葬式の時の定番のお経で、私が覚えている数少ないお経です」
                 話が決まったので、久保田がグスティ・アグン・ライ警視と電話連絡を取り、これから直ぐ会ってもいいとの了解を取り付けた。倉石夫妻と和田は借り上げたホテルのリムジンで、瀬田誠は鷹石の車に同乗してバリ州警察本部へ向かった。
                瀬田誠が遺体になってコンテナの中に横たわる沙代と対面した。瀬田は亡骸となった妻をみて、ううっと嗚咽のような小さい声を漏らした。誠の嗚咽に誘われて伊津子の目に涙があふれた。さよ、さようなら、と伸生が言った。和田が家族を見守るようにちょっと離れたところに立っていた。
                 警察本部の応接室に戻り、瀬田誠が警視に、沙代の遺体をバリでの荼毘に付すためや、日本で死亡届など出すために必要な警察関係の書類の用意を依頼した。
                「必要書類はすでに用意しています。本日の午後以降いつでも、そちらのご都合のよいときに遺体の引き取りにおいでください。そのとき、必要書類と警察が保管している遺品をお渡しします。それから瀬田さん。沙代さんに関する書類や遺品は、夫であるあなたあてに発行し、あるいはお返しすることになります。書類作成にあたっての確認のためにパスポートを拝借できますか」
                 ライ警視は瀬田からパスポートを受け取り、ひかえていた刑事に渡した。刑事はそれを持って部屋から出て行った。
                まもなく、瀬田にパスポートが返され、
                「もっと楽しいことでバリにおいでくださったのであればほんとうによかったのですが。あらためて、被害者のご家族のみなさまにお悔やみを申し上げます。バリ警察は総力を挙げて犯人を追っています。解決までにいま少しの時間をください。かならずや犯人をとらえ、事件を解決してみせます」
                 警視が丁重にして堂々たる挨拶をした。

                 ヌサ・ドゥアの国際火葬場・ヤサ・マンダラが久保田の手配で、20日の午後1時から使えることになった。葬儀には瀬田誠、倉田夫妻、和田俊夫、久保田尚、鷹石里志が集まった。それにグスティ・アグン・ライ警視が警察本部長と一緒に加わった。鷹石はいたずら半分の雲水気分でバリに持ってきていた、夏用の麻の墨染めの衣を着て現れた。

                   なむからたんのーとらやーやー
                   南無喝囉怛那 哆羅夜耶
                   なむおりやー ぼりょきちーしふらやー
                   南無阿唎耶 婆盧羯帝爍鉗囉耶
                   ふじさとぼやーもこさとぼやー
                   菩提薩埵婆耶 摩訶薩埵婆耶
                   もこきゃるにきゃやー …………
                   摩訶迦盧尼迦耶 …………

                 火葬炉の前で、鷹石が『大悲心陀羅尼』をゆっくりと唱え始めた。
                 やがて、炉のスイッチが入れられた。ボッと低い音を立てて炉の中に炎が充満する気配を皆が感じた。みんな頭を垂れた。あふれ出た伊津子の涙がぽたりと床に落ちた。
                 倉石伸生と瀬田誠が精進落しにといって、20日の夕食にさそったが、警視と久保田はスハルト政権が倒れるかどうか、いまやインドネシア情勢は正念場に来ているので、残念ながらと辞退した。
                「紗代のことで外交官本来のお仕事に支障が出たのではないでしょうか」
                倉田伸生が言った。
                「邦人保護は領事の主要任務です」
                久保田が答えた。
                 鷹石だけが述べ送りに立ち会った僧侶の儀礼として精進落としにつきあった。亡くなった人をこの世からあの世へやすらかに送りだすのが僧侶の唱えるお経であり、この世に残された方の人の気持ちが安らかになるよう手だすけするのもまた僧のしごとだ。

                 バリ・ハイアットの庭園でガムラン演奏つきのディーナーをやっているので席を予約していると瀬田誠が言った。娘の面影をしのぶには、この夜のガムランの演奏は客が埋まらないテーブルが目立ち、金属打楽器の音がとがりすぎたな、と鷹石は遺族の気持ちを思いやり、気の毒に思った。
                 沙代は子どものころバイオリンの繊細な音がお気に入りで、バイオリンを習っていたが、いつまでたっても子どものころ聞いたようなデリケートでニュアンスにとんだ音を自分のバイオリンでつくりだすことができず、そのうちバイオリンを習うのをやめてしまった。激しいガムランの音にひきこまれた心のうちを沙代から直接聞いてみたかった。そうすれば今聞いている金属製の音に、モーツアルトおとらない優しさが聞き取れたかもしれない。倉田伊津子はだれにともなくそんな感想を述べた。
                こうして5月20日が終わった。

                 

                 



                 明けて1998年5月21日はキリスト昇天祭でインドネシアの祝日だった。同時にこの日はインドネシア人にとってはもちろん、インドネシア在住の外国人にとっても忘れられない日となった。
                 午前9時、スハルト大統領はテレビカメラの前で大統領を辞任すると発表した。地元インドネシアのテレビはもちろん、BBC、CNN、NHKなどもこの大ニュースを流した。倉田夫妻はホテルの部屋にいてNHKのチャンネルでこのニュースをみた。
                ロビーへ降りると、ジャカルタから避難してきている日本人たちが寄り集まってがやがやと情報を交換しあっていた。
                「スハルトが大統領を辞任するなど信じられない。テレビを見て本当にびっくりしました」
                バティックのシャツを着た50がらみの頭髪の薄い男が言った。
                「私もそうです。国軍ににらみをきかせていたはずだから、最後は軍を動かして危機を乗り切ると思っていましたよ」
                30過ぎのポロシャツを着た男性が同意した。
                「私は航空券がとれて19日にジャカルタからバリへ来たのですが、18日のジャカルタは革命前夜のような雰囲気がただよっていましたよ。朝から学生たちが続々と国会に集結し始めましてね。そうこうするうちに、国会議長のハルモコがシャルワン・ハミド国会副議長と会ったというニュースが流れた。あれは、午後3時過ぎでしたか、ハルモコ国会議長がハミド副議長と共同で、スハルト大統領に辞任を呼びかける声明を発表しました。ハルモコといえば、長らくにわたるスハルトの腰巾着で、スハルトに『ノー』と言ったことのない男でしたからね。くわえて、副議長のシャルワン・ハミドは国軍から議会に送り込まれた議員たちで構成する国軍会派の代表でしょ。スハルトにしてみれば、飼い犬に吠えかかられたような気分だったことでしょうよ。高齢のスハルトはこれで気力を奪われてしまったのではないですか」
                40がらみの口ひげの男がいっぱしの政治分析をしてみせた。
                 飼い犬に吠えられて退陣を迫られる老いた支配者の屈辱感は倉田伸生には痛いほど理解できた。いずれ自分のところにもその順番が回ってくるだろう。専務をやっている長男が全権をおれに譲れと老いた父親に引退を求めるかも知れない。油断していると、外部資本が社内の反体制派を抱き込んでクーデターを起こすかも知れない。倉田伸生が娘の沙代のことでバリに来た17日には、スハルトは内閣改造で危機を乗り切れると考えていた。それがほんの4、5日でこの様変わりだ。きのうまでスハルトの前でもみ手をしていた連中が、いっせいに背を向けた。突然、娘を失ってしまった倉田には、さだめなき世の寂寞が身にしみるのだった。
                「そうですわね。私、きのうの夜、ジャカルタで仲良くしているインドネシア人の奥さんに電話を入れてみたんです。その奥さんの話だと、国会構内には学生を中心に3万を超える人が集まった。この学生たちを支援しようと、ジャカルタ市民が立ち上がったそうです。女性たちがボランティアでグループを作り、学生たちのもとへ食事を届けた。その奥さんも国会占拠学生の支援活動に加わって弁当を運んだと誇らしく話していました。国会構内には市民がさまざまな支援の物資を運び込んでいたそうです。移動トイレ。無料の洗濯サービス。マッサージのサービス。ロックバンドの慰問。ついには移動郵便局まで設置されたそうですよ」
                 日本人たちの会話には、これで政治危機は終った。まもなく、ジャカルタに帰って、引き続き日本では住めないような邸宅で、大勢の使用人を使う以前の大名暮らしに戻れる、という安堵感がただよっていた。

                 

                 鷹石も自宅でスハルト辞任のテレビ中継を見ていた。この日、テレビはスハルトの辞任演説を繰り返しくりかえし1日中放送した。テレビは淡々と辞任を表明するスハルトの姿を映していた。
                 スハルトは政治改革委員会の設置と内閣改造で政治の刷新を図ろうとしたが受け入れてもらえなかった、と辞任声明の原稿を読み上げた。
                「そこで、1945年憲法第8条の規定と、国会の見解について真剣に考慮したすえ、1998年5月21日木曜日をもって、私はインドネシア共和国大統領を辞任することにした」
                 ここでテレビの前にいたお手伝いのスチが歓声をあげた。
                「憲法第8条の規定にしたがって、ブハルッディン・ハビビ副大統領が2003年までの私の残る任期を大統領として引き継ぐ」
                 このくだりではスチの歓声はなかった。
                「私の大統領任期中に寄せられた国民の支持・支援に感謝するとともに、私の側にいたらぬところや過ちがあったことをお詫びする」
                 スハルトのお詫びはジャワ人の儀礼としてのレトリックであって、それ以上の意味はなかった。ホー・チ・ミン大統領が路上のベトナム人に「食事はすみましたか」と言うのを聞いた西洋人が、ホー・チ・ミンは国民の食生活にまで思いをいたしているのだ、と感心したという伝聞があったが、実は、「飯くったか」がベトナム人にとっては単なる日常の挨拶に過ぎなかったのと同じである。
                スハルトの時代はこれで終りか――スハルトの30年余りを観察してきた鷹石には感慨深いものがあった。1960年代後半、スカルノから権力を奪ってしばらくの間、スハルトは慎重で、柔軟で、笑顔を絶やさない配慮の人だった。1970年代に入って、その権力基盤が固まるにつれて、スハルトはスカルノ打倒のために彼に手を貸した政党人、知識人や学生を遠ざけて、ひたすら軍の力を利用するようになった。1974年の田中角栄首相のジャカルタ訪問の時は、学生から激しいデモをかけられた。学生のスハルトへの挑戦であり、一方で、スハルト政権内部の権力闘争の反映でもあった。
                 1980年代には、スハルトは政権にとって最大の脅威であるイスラム教徒を封じ込めた。そのあとスハルトは軍の有能な若手を大統領補佐官に引き抜いて薫陶し、そのあとで彼らを軍の中枢に送り返した。スハルトはインドネシア国軍を半ば私兵化したのだ。さらに、スハルトは自分に続く政権ナンバー2を次々と取り替え、切り捨てた。おとなしい放送メディアと違って、口うるさい新聞を発禁処分で脅し続けた。最後には、野党まで金を使って抱き込んだ。こうしてスハルトの個人支配体制が確立したのだが、同時に、スハルトの長期支配体制は疲労の兆候を見せ始めた。
                 スハルトによる軍の私兵化は一部の将軍たちから批判を招き、彼らのスハルト離れが進んだ。そして誰の目にも余るスハルトと家族、スハルト・クローニーによる富の独占が反発を招いた。
                 そうして、スハルトの破局は思いがけないところから始まった。1997年にタイではじまったアジア通貨危機である。IMがインドネシアに融資の条件として財政構造改革を求めた。燃料補助金のカットだ。ガソリンなど燃料費が上がり、交通料金をはじめとする公共料金の値上げにつながった。
                 スハルトが大統領代行から正式な大統領に就任した1968年ごろ、スハルトはガソリン1リットルの値段を四ルピアから16ルピアに引きあげる決定をしたことがあった。側近の補佐官は「値上げを決定すれば、国民は暴動を起こし、政府はつぶれる」と反対した。

                「当時、国民は1リットル入りのお茶のボトル1本に25ルピアを払っていた。ガソリン1リットル16ルピアで問題が起きるとは考えられないと判断した。そして、なにごとも起きなかった」とスハルトは自伝に書いていた。
                 1998年のIMFの要請にしたがったガソリン・灯油の補助金カットにともなう値上げは、政権崩壊へとつながった。スハルトの政治センスは鈍り、周囲が見えなくなっていた。

                 

                 久保田尚は休日だったがデンパサール駐在官事務所の執務室にいた。アメリカ合衆国はインドネシア沖に海軍艦艇を遊弋させていた。万一の場合の合衆国市民のインドネシア脱出に備えた動きと説明していたが、インドネシアに無言の圧力をかけるための動きでもあった。日本もシンガポール政府の了解を得て、日本人のインドネシア脱出に備えて自衛隊の輸送機をシンガポール空軍基地に待機させた。
                 14日のジャカルタのトリサクティ大学生射殺事件以降、インドネシアから脱出する外国人が増えた。外務省もそれまでのインドネシアに適用していた海外危険情報の危険度3を17日には危険度4に引き揚げて「家族等退避勧告」を出した。オランダ植民地支配に対する住民蜂起記念日である5月20日の「国民覚醒の日」には、反スハルト勢力が100万人デモを計画していた。日本に一時帰国したり、シンガポールに避難したりする人が増えた。インドネシア国内で比較的平穏なバリに退避する日本人も多かった。デンパサール駐在官としては避難してきた日本人の安全に配慮する必要があり、そのうえ、瀬田沙代の殺人事件でバリに来た家族への対応が重なって、久保田はインドネシア情勢が一段落へと向かい始めた21日、さすがにいささかの疲労を感じていた。
                 しかし、スハルトはあっさりと退陣したものだな、と久保田は意外に感じた。1996年に夫人のシティ・ハルティナに先立たれて以来、スハルトの影が薄くなったともっぱら噂されていた。夫人は独裁者スハルトの最大の相談相手で、こんな冗談が語られていた。
                 シンガポールのリー・クアンユーは首相を退いたのち、世界各国のリーダーを相手に政治コンサルタント役を引き受けていたが、あるとき某国で相当難しい相談をもちかけられた。少々お待ちを。そう言ってからリーはジャカルタのスハルトに電話をしてアドバイスを求めた。話を聞いたスハルトは、ちょっと待ってくれ、ティン(スハルト夫人の愛称)に聞いてみるから、とリーに言った。
                夫人を失ったことで、スハルトからカリスマ的な霊力・ワフユが消えてしまったという噂が広がっていた。スハルト大統領のジャカルタ・チェンダナの私邸の屋根の上からワフユがすうーっと夜空に舞い上がってゆくのをみた、と言いふらす人まで出てきた。
                冗談はさておき、アメリカのオルブライト国務長官が、事実上スハルト退陣を要求するスピーチをしたことがとどめとなって、スハルトがもはやこれまでと観念したのだろうか。スハルトはスカルノを倒すことでインドネシアの権力を握ったが、スハルト台頭の背後にはアメリカ政府とCIAの後押しがあった。ベトナム戦争に手を焼いていたアメリカはスカルノの左傾化路線を気に病んでいた。インドネシアに社会主義政権ができることを恐れていた。赤道をはさんで東南アジアの北に統一社会主義ベトナム、南に社会主義国家インドネシアができれば、アメリカのアジア政策は大きな打撃をうけることになる。アメリカはスハルトと組んでスカルノをつぶし、インドネシアを親米国家に変えた。
                 あれから30年余、東南アジアの国際環境が変わり、スハルトはアメリカにとって必須の人ではなくなった。ありていにいえばご用済みの男になってしまった。スハルトはアメリカに拾い上げられ、アメリカに捨てられた。歴史ではしばしば起こることだ。

                 

                 グスティ・アグン・ライ警視も州警察本部に出勤していた。彼もまた一つの時代の終りを感じていた。
                 1955年生まれの警視は初代大統領スカルノの演説を肉声で聴いたことはなかった。だが、彼の父親がよく言っていた。スカルノの演説を聴いているとエモシ(情念)がゆさぶられ、燃えあがってゆく。そのスカルノは、性力は政力であると信じていたような女好きで、くわえて国の金を惜しげもなく使った。スカルノにとって代わったスハルトも、ともに専制的な手法の政治指導者だった。スカルノは国庫の金を私事で消費した。スハルトは国庫に入るべき金を私物化し、財産形成に励んだ。
                政治指導者が国の富の一部を自分の懐に入れるのは、役得として認めてやってもいい。それにスハルトはスカルノ時代に傾いていたインドネシアの経済を、アメリカや日本の手助けで復興させた。スハルト時代にインドネシア人の生活水準はずいぶんと向上した。その成功報酬として、国家の金を少々くすねる程度なら文句は言わない。だが、スハルトがくすねた金額は見すごすにはいかにも膨大にすぎた。それにスハルトがインドネシアの指導者だったからこそインドネシアはここまでこられたのか、スハルトでもここまでこられたのだから、スハルト以外の有能で清廉な指導者だったら、もっとインドネシアは成功していたのか。これは重要な問題提起だが、これに答えるすべはない。
                 インドネシアの前途はこれから多難だろうが、まあ、何とかなるだろう。では、あらためて瀬田沙代とスダルノの殺しの捜査に専念するか。
                「さて」
                と声を出して、警視は自分を鼓舞した。

                 倉田夫妻、瀬田誠と和田の4人は成田行きの座席が確保できて、スハルト辞任の翌日の5月22日の夜、沙代の遺骨を抱いてデンパサールを飛び立った。鷹石と久保田は4人を空港まで見送った。
                「日本で葬儀その他が一段落したら、沙代のウブッドの家や、使用人の退職金など、沙代の暮らしの後始末のために、私が舞い戻ってまいります。そのときはまた、よろしくお願いします」
                瀬田誠が深々と頭を下げた。
                「久保田さん、お世話になりました。鷹石さん、あなたがいてくださって本当に助かりました」
                倉田伸生が妻の伊津子ともども、こちらもまた深々とお辞儀をした。

                 

                   (続きは6月10日の日曜日)

                 

                 

                 

                2018.05.27 Sunday

                『ペトルス―‐謎のガンマン』  第4回

                0

                   

                  5月18日夜、サヌール・ビーチのホテル


                   「インドネシアの人口はざっと2億人で、その9割がイスラム教徒といわれていますから、世界で最多のイスラム人口をかかえる国家です。ですが、1945年の独立宣言以来、インドネシアは宗教国家になることを断固として拒否し、世俗国家を貫いている面白い国でもあります。ここのムスリムには2つのタイプがあります。1つはサントリとよばれるタイプです。白い衣装をまとったオーソドックスにして教義に忠実なイスラム教徒というイメージで語られます。いま1つが名目上はイスラム教徒ですが、イスラム教到来以前の土着信仰や仏教、ヒンドゥー教の影響をとどめているアバガン。アバンとはジャワ語で茶色味を帯びた赤い色という意味で、アバガンはそういう人たちという意味になります。インドネシアを見ていて興味深いのはこのサントリ的なものとアバガン的なものの文化的な影響力でして、きわめて大雑把にいうと、サントリ文化のグループは政治的には近代主義、文化的には個人主義、イスラム教については教条的な傾向が見られます。アバガン文化のグループは政治的には伝統主義、文化的には集団主義、イスラム教については教条的なところを嫌う傾向があります。このサントリーアバガンという考え方はインドネシア社会の亀裂線を説明するには便利ですが、きちんと説明しきれないところもあります。たとえば初代大統領だったスカルノの支持母体の1つであったインドネシア共産党の基盤はジャワのアバガンでした。インドネシア共産党に対抗したのがサントリ系の人々でした。インドネシアにおける白と赤の区分は日本の源氏と平氏、小学校の運動会よりは少しばかり複雑です。神式、仏式で人生の諸行事をこなし、ついでにクリスマスも祝うわれわれ名目仏教徒である日本人もそうとうにアバガン的ですが、日本における神道的なもの、白い衣装の神職に代表される日本のサントリの政治面での影響力には無視できないところがあります。

                   「こうしたインドネシアにあって、バリ島だけがヒンドゥー教徒の島です。初代大統領のスカルノの母親はバリの人でした。スカルノはウブッドの北隣のタンパクシリンに大統領別邸を持っていて、バリにはよく休養に来たそうです。いまやスハルト批判勢力がアイドルとしてかつぎあげているスカルノの娘メガワティ・スカルノプトゥリはバリ人の血をひいているということで、バリで人気が高いのです」
                   5月18日の夜、鷹石里志は倉田伸生夫妻を相手にバリ案内の入門編を語るはめになってしまった。

                   瀬田沙代が住んでいたプリアタン村の家で、倉田夫妻は弔問に来た沙代の友人たちと30分ほど語らった。ウブッドのプリアタン村を出発してサヌール・ビーチのホテルへ帰るとき、倉田伸生が鷹石にぜひともお願いしたことがあると言った。
                   「沙代はどうしてバリ島へ来て、ガムランを習う気になったのでしょうか。ニューヨークで芝居の勉強をしたり、パリで絵の修行をしたり、ウィーンで西洋音楽を習うというのであれば、私たちのような門外漢でも、その動機はわかる気がします。ですが、なぜバリで、なぜガムランだったのか。沙代は気まぐれにおぼれて命を落としたのでしょうか。家内も同じことが気にかっていましてね。鷹石さんはずいぶんとバリにご関心を寄せていらっしゃるご様子なので、沙代がバリに惹かれた気持を理解するための参考になるお話をお聞きできないかと思いまして……。厚かましいお願いですが、今夜、私たちにつきあっていただけませんでしょうか」

                   鷹石は倉田夫妻の気持がわかる気がした。失ってしまった娘の旧居の庭でガムランを通じて紗代と知り合った友だちから、夫妻はありし日の娘のすがたを聞かされた。バリに住み、ウブッドでガムランを習うということが、紗代にとって幸せの日々であった。倉田夫妻はそう信じ、そう納得したいのであろう。そのための一助としてバリやガムランの話が聞きたいのだろう、と鷹石は思った。娘を失った老夫婦の穴の開いた心を修復する手立てになるのなら、お相手を務めるしかないだろう。無下に断れば人情にそむく。
                  そういうわけで、鷹石は夕方デンパサールの自宅に帰り、マンディー(沐浴)のあと30分ほど休んで、午後8時にバリ・ハイアットに現れた。その少し前に、瀬田沙代の夫である瀬田誠がメキシコから到着し、バリ・ハイアットにチェックインしていた。
                  鷹石は夫である瀬田誠にお悔やみを言った。
                   瀬田誠は、
                  「どうも……突然のことで、私もまだこの現実が信じられません」
                  と短く言った。
                  瀬田はほっそりした長身で、引き締まった顔はよく日焼けしていた。きりっと結んだ薄い唇は意志の強さをあらわすと同時に、思わぬ不幸に負けまいとする必死の踏ん張りも感じさせ。
                   倉田夫妻、瀬田誠、和田の4人を相手に鷹石はバリ案内の講釈を続けた。
                   「ヒンドゥー教がバリに伝来したのは紀元9世紀ごろだといわれています。イスラム教到来以前に、ジャワ島にはヒンドゥー教や仏教がすでに伝えられていました。ジャワ島中部のボロブドゥールは仏教遺跡です。そこからさほど遠くないプランバナンにはヒンドゥー教の遺跡群があります。11世紀ごろからバリはジャワのヒンドゥー王国と関係を深め、後にはジャワのヒンドゥー王国によって征服されました。その後、ジャワはイスラム化した王国が支配するようになり、ジャワ・ヒンドゥーの文化の担い手だったヒンドゥー僧や文化人が、イスラム勢力に追われてヒンドゥーの島バリに逃げ出してきたのです。したがって、バリのヒンドゥー文化をたどってゆけば、かつてのジャワのヒンドゥー文化の形がおぼろげながら見えてくる可能性があります。まあ、このあたりの興味は学者の領域ですが……。一般人にとっての興味は、イスラム化した後のジャワの文化や、ジャワを植民地にしたオランダに代表される西洋文化から切り離されて、バリ島で独自の進化をとげた『ヒンドゥー・バリの文化』がつくりだしたこの島の人々の暮らしでしょう。
                   「バリ島は言ってみれば西洋文明の影響下で育った今の日本人にとっては、1930年代にバリにやってきた大勢の西洋人がおもしろがったのとおなじ、大人のワンダーランドです。バリ人はヒンドゥー教の教義については、その理論の深化のための努力をしませんでした。ですが、ヒンドゥー教到来以前からバリにあった土着の宗教的行為、つまり呪術、祖霊崇拝といったものを、バリ人はヒンドゥーの儀礼に取り込みました。ヒンドゥーの祭礼とそれにともなう供物づくり、行列、浄めの儀式、祭礼を盛り上げるガムラン音楽やバリ舞踊。そうした複雑な儀礼の網の目を読み解いてゆくと、そこに見えてくるものがあります。昼間ちょっとだけお話した聖なる方位としての山側、不浄の方位の海側といった対立概念、今日の午後バリへ行く途中で通りがかったバトゥブランという村で見た神と悪霊の石像といったものになって表されるのです。
                   「善なる神と悪なる神の永遠に決着のつかない戦いの場がこの世界である――これがバリ人の世界観だ、という説を大勢の学者が語りますが、そういう言い方がとりもなおさず、一般大衆のバリへの興味を増幅させるのです」
                  バーのテーブル席で倉石夫妻ら4人はまじめに鷹石の説明を聞いた。
                   「日本いえば岩手県の遠野のようなところなのでしょうか」
                  倉石伊津子が尋ねた。
                   「ええ。優しくて美しい風景と、光の加減でふとその風景の中に感じる薄気味の悪さ。熱帯の昼間の明るさと目のくらむようなまばゆい色彩。そして一転、日没後の闇の深さ。ウブッドの王宮で定期的に観光客のためにバリ舞踊を上演していますが、あれは大勢の人といっしょに見ているから怖くないのであって、もしたった一人で悪霊ランダだの、善霊バロンだのを見ていると想像したら、あんなおっかない見せ物はないです。いまにもウブッドの深い森の奥の闇に連れていかれそうな恐怖感におそわれます。
                  「オランダがバリ島全体を最終的にオランダ領東インドに加えたのは20世紀の初めです。1930年代になると、西洋文明に汚されていない高度に洗練された独自の文化を持つ島として、欧米から芸術家や学者が大挙してやってくるようになりました。画家で音楽家でもあったドイツ人のヴァルター・シュピースという人が、このころのバリの欧米文化人グループのリーダー的存在でした。メキシコの画家ミゲル・コバルビアス、米国のマーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンの人類学者夫妻がシュピースの周辺にいました。彼ら欧米の芸術家や学者に評価され、紹介されたことがきっかけで、ガムランや、レゴン、ケチャといったダンスが再生され、創造されたのです。
                  「先の第2次大戦の際は、バリは日本軍に占領されましたが、日本軍は『ビンタ』や『カシラミギ』など、程度の低いことばを残したにすぎませんでした。昨今のバリは、1930年代に欧米の芸術家たちの目に映った『不思議の島』あるいは『夢の島』のイメージを、現代のインドネシアが観光収入をめあてに、国策として人為的に再現しているものだとみなす人たちもいます。
                   「このホテルが建っているサヌール・ビーチは、かつては悪霊が出没する海岸といわれていました。バリの人はここに近づくのを恐れていたそうです。1960年代に日本の戦後賠償でサヌール・ビーチにグランド・バリ・ビーチ・ホテルという大型の豪華ホテルが建てられました。その後、現在のサヌール・ビーチ・ホテルや、このバリ・ハイアット・ホテルがあいついで建築され、サヌールの海岸は悪霊のすみかから一転して、インドネシア財政のドル箱になったのです。
                   「瀬田沙代さんがウブッドでガムランを習おうとされた動機については、私には分かりませんが、私がいま申し上げたバリ観光の手練手管で呼び寄せられたわけではなく、ガムランの響きに心底魅せられたからだと思いますよ。そうでないと、プリアタンの山の中で2年間も暮らせるわけがないですから。沙代さんが見たいと思ったバリの風景が、聞きたいと思ったバリの音が、1930代の欧米の芸術家たちが感銘を受けたものと同じなのか、それとも、沙代さんは彼らとはもっと違ったバリを発見しようとなさったのか、こればかりはご本人に聞くしかないのですが、いまではそれは不可能になりました」
                  鷹石はテーブルのビールで喉をうるおした。
                   「私たちは沙代がやろうとしたことにあまり関心を示さなかった。沙代が死んで初めてあの子が何をしたがっていたのかについて、本気で考える気になった。皮肉なことですね」
                   倉田伸生がしんみりと言った。
                   「沙代がバリに遊びにきたら、と言ってくれたことがあったのです。あのとき、バリに来て、あの子がバリで何を考え、何をしようとしていたのか、聞いておけばよかった」
                   倉田伊津子が潤んだ声で言った。
                  「ジャカルタで暮らしてきたころ仕事で関係のあった会社からワヤンをやるからと招待されたことがありました。鷹石さん、インドネシアではお祝いごとにワヤンをやりますよね。沙代とふたりで行ったのですが、沙代は生のガムランの音にたいそう興味をもった様子でした。その後、ふたりしてジョグジャカルタへ出かけたことがあります。チェックインしたホテルのロビーで静かなガムランがかなでられていました。ジャワ風に髪を結い、バティックの衣装を着た女性の歌手、プシンデンとかいいましたね、その人が透明な声で不思議な音調の歌を歌っていました。戸外の暑気から逃れてホテルの空調で火照ったからだが冷される快感と相まって、心地よい響きでした。沙代はしばらくロビーの椅子に座ってガムランに聞きほれていました。それを機に沙代はバリのガムランに惹かれ、この島に通うようになりました。ジャカルタは暑苦しいだけで人間的な楽しみの少ない街です。ジャカルタの暮らしに飽き飽きしてきた沙代がガムランに強く惹かれたのは理解できます。バリに住みついて、ガムランの没頭したのも、心底あの音が心地よかったせいでしょう。あるいは、沙代は何かを忘れようとしてガムランを追求したのか。人間、どんなに幸せなときだって、ふとむなしさを感じる瞬間がある。男がそうした心の隙間を埋めるためにがむしゃらに仕事に逃げ込むように、沙代もふと感じたむなしさを忘れるために、ガムランに没頭していたのではないだろうかと、私は自分の心の迷いを沙代が死んでしまったいまになって感じています」
                   瀬田誠が誰にともなく言った。どこか瀬田誠と沙代の関係に隠れた断層が走っていたことを示唆するようなことばであった。だが、これについては、倉田夫妻は別段の感想を口にしなかった。鷹石も瀬田夫妻の私的領域に踏み込む気にはなれなかった。夫婦の断層については、鷹石は痛いほどよく知っていた。
                   「ところで、鷹石さんご自身は何を求めてバリにお住まいなのですか」
                   瀬田誠が鷹石に尋ねた。
                  「わたしもまた、おっしゃるような心の隙間を埋めようとして、隠居場所、ひょっとしたら死に場所としてバリを選んだのかもしれません」

                   

                   

                  (この続きは6月3日の日曜日)

                   

                  2018.05.19 Saturday

                  『ペトルス――謎のガンマン』  第3回

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                    5月18日午後、ウブッド郡プリアタン村


                     バリ島の中央部には標高2000メートルほどの火山脈が東西に走っている。最高峰は東の端に位置する火山グヌン・アグンで標高3000メートルちょっと。最近では1963年に大噴火をしている。そのときは1500人を超える人が死んだ。
                     島の中央部に山塊があるので、島の東西南北は山裾になっている。この山の斜面を伝って無数の川が海に向かって流れ下っている。川は長い時間をかけて山肌を削り、深い渓谷を形づくった。これらの渓谷を熱帯の稠密な森が覆い隠している。
                    こうした地形なのでバリの山麓から山腹にかけては、海側から山側へ、山側から海側への縦の移動の道路は何本もあるが、横に移動する道路は少ない。渓谷にかかる橋が少ないからだ。多くの場合、山腹のある地点から山腹の別の地点に移動するには、一度平地まで降りてきて、そこで橋を渡って横に移動し、しかる後に再び山道を登っていくしかない。
                     バリ島の南斜面には豊かな農地が広がっている。ウブッドはこの南側斜面西寄りにある地域だ。広義のウブッドは行政的にはバリ州ギアニャール県ウブッド郡のことをいい、狭義にはウブッド郡ウブッド村をさす。デンパサールの街からは田舎道を――田舎道だから当然ゆっくり走らざるをえない――車でのんびり走って一時間弱の距離だ。
                     午後1時。風が緑の葉をゆらす木陰か、冷房を効かせたオフィスでバリコーヒーでもすすって暑さを避けたい時間帯に、イダ・バグス・ライ警視の一行はデンパサールのW・R・スプラトマン通りの州警察本部からウブッドに向かって出発した。警視と部下の刑事が一人、それに鷹石が乗った捜査車両が先導し、そのあとを倉田夫妻と和田を乗せたリムジンが追った。午前中に体調を崩した倉田伊津子は、ホテルで2時間ほど休んだおかげでだいぶ回復したので、娘の沙代が暮らしていた家をどうしても見ておきたいと、ウブッドに行くことをのぞんだ。
                     バリ・ヒンドゥーの神々や悪霊を砂岩に彫った石像製作で有名な村・バトゥブランは、ちょうどデンパサールとウブッドの中間にある。道路端の工房の前に、石像がところせましと並べられている。倉田伊津子の体調を心配した警視はこの村で車を止め、リムジンの倉田夫妻に、
                    「少し休みますか、それともこのままウブッドに直行しますか」
                    と声をかけた。
                    「あとどのくらいでウブッドですか」
                    倉田伊津子がたずねた。
                    「20分ほどです」
                    「では、直行していただけますか」

                    2台の車はウブッドの中心で、いつもならにぎやかなはずのウブッド郡ウブッド村のジャラン・ラヤ・ウブッド(ウブッド大通り)を抜け、アンドン大通りとの交差点を右折して、プリアタン大通りに入った。このあたりからはウブッド郡プリアタン村でウブッド村とは別のデサ・アダット(慣習村)なのだが、外国人観光客はもとより、同じインドネシア人でもバリ島以外から来た人は、ウブッド村とプリアタン村の区分などにはなんの関心も示さない。ウブッド郡の中はすべてウブッド村でまにあわせている。
                     プリアタン大通りに入ってまもなく、警視の車は左折して、緑の生い茂った細い道を奥へ入っていった。50メートルほど入ったところに、数軒の住宅が間隔をおいて並んでいた。それらの住宅は煉瓦造りの赤い塀に取り囲まれてひっそりとたっていた。
                    自動車が止まる音を聞きつけて、手前から2番目の家から制服の警官が出てきて、警視に敬礼をした。瀬田沙代の殺人事件発生から彼女の住宅を警備してきたウブッド署の警官だった。
                    「こちらのお2人が被害者の瀬田沙代さんのご両親だ。倉田伸生さん、倉田伊津子さんだ」
                    警視が警官に説明した。警官はきまじめな表情で、倉田夫妻にも敬礼した。お辞儀で答礼する倉田夫妻に、警官が情のこもった口調でお悔やみをいった。
                    「お悔やみ申しあげます。ウブッドの通りで何度がお見かけしたことがあります。日本からガムランの勉強にこられたご婦人ということで、このあたりでは有名人でした。最近はガムランもずいぶん上達されたと聞き及んでいました。残念なことになってしまいました」
                     瀬田沙代が借家して住んでいた家は、現在はジャカルタで仕事をしている土地の有力者の持ち家だ。広々としていて邸宅とよぶ方があたっている感じだった。
                    「道路に面した門にはバリにふさわしいチャンディ・ブンタル(割れ門)があり、ここを入ると敷地の最初の区画の両側に、四本の柱の上に屋根を載せただけの風通しのよい開放的な舞台のような建物があります。通常、人が集まって話し合いをしたたり、踊やガムランの練習に使われます。それからさらに今ひとつの壁が屋敷の敷地を仕切り、奥に通じるコリ・アグン(中門)がつくられています。コリ・アグンを抜けるとそこは第2の敷地で、居住区になっています。バリの伝統的な住宅のつくりかたです」
                     鷹石が歩きながら倉田夫妻に屋敷の構造を説明した。中門を入ると30代の男女が2人たって挨拶した。
                    「この家で働いているイ・ワヤン・サントソとニ・ニョマン・カデです」
                    警察官が二人を紹介した。2人は両手を合わせてみんなに挨拶した。
                    「敷地の一番奥の左手が祀堂、その隣は沙代さんが寝室に使っていた建物、手前が儀式を行う部屋のある建物で来客用に使っていました。続いて、わたしたちが住んでいる家、その向かいが台所です」
                    ワヤン・サントソが説明した。それぞれが独立家屋になっていた。
                     バリ人の住宅の構成はバリ・ヒンドゥーのコスモロジー(宇宙観)の表象である。聖なる山グヌン・アグンの方角がカジャ(山側)で聖なる方角となり、バリ人の屋敷内の建物の配置でも山側に祭祀の施設や主人の寝室がおかれる。海の方角はクロッドで、こちらは不浄の方位とされている。台所はこちらの方角におかれる。
                     伝統的なバリ人の住宅では、寝室は眠るだけの建物だったので、建物には窓がなかった。壁と屋根の間に通風口があるだけだった。しかし、現代ではそのような建物は使い勝手が悪く、瀬田沙代にこの邸宅を貸した大家は、寝室用の建物をバリの伝統を残しつつも窓をつけ、ついでにエアコンも設置していた。
                    「私は大工ですが、妻のニョマン・カデがここでお手伝いとして働き、私も暇なときは手伝っていました」
                    ワヤン・サントソが言った。
                    「お子さんはいらっしゃるの」
                    倉田伊津子がたずねた。
                    「はい。中学生の娘と小学生の息子がいます。イブ・サヨ(沙代さま)にはとてもかわいがっていただいていました」
                    ニョマン・カデが答えた。
                    「では、沙代さんの部屋に入ってみましょうか。鍵は?」
                    警視が言った。
                    「私が預かっています」
                    警官が答えた。
                     瀬田沙代が使っていた建物のドアを開けて中にはいると、むっとする暑気と、沙代が焚いていたお香の残り香がただよっていた。ニョマン・カデが部屋の明かりをつけ、エアコンのスイッチ入れ、ついでに空気の入れ換えのために窓を開け放った。
                    蒸し暑さで立ちくらみでもしたのだろうか、倉田伊津子がふらっとなって夫の腕をつかんだ。倉田伸生が伊津子を支えた。警視が沙代のデスク用のイスを持ってきた。いつもながら気の利く男だ。伊津子はいすに座り部屋の中を見回した。部屋はきれいに片付いていて、ベッドも新しいシーツで整えられていた。
                    「沙代さまは13日の朝、ここを出てデンパサールのインドネシア芸術学院へお出かけになりました。その夜はデンパサールのホテルにお泊まりになり、14日にお帰りになる予定でした。13日にお出かけになったあと、私がこの部屋をととのえました。沙代さまは月に2、3度は芸術学院へガムランのお勉強でお出かけになっていました」
                    伊津子の視線を感じたニョマン・カデが説明した。
                    「金庫を開けさせていただいてよろしいか」
                    警視が倉田夫妻にたずねた。夫妻がどうぞと返事した。
                    「この鍵束は沙代さんが肩にかけていたリュックの中の小物入れにあったものです。この中に金庫の鍵があるといいのですが。遺品類は警察が保管していますので、ご遺体をお返しするさい、いっしょにお渡しします」
                    警視は何本かの鍵を試した。ほどなく金庫の鍵が見つかったらしく、小型の金庫の扉が開いた。金庫の中からは、ネックレスやブローチなどの装飾品のほか、現金とこの家の賃貸契約書などの書類、パスポート、外国人登録証が出てきた。現金は日本の1万円札で30万円、米国の50ドル札で2000ドル、インドネシアのルピア札で2000万ルピアほどがそれぞれ封筒に入っていた。銀行の口座番号などを書き留めた備忘録もあった。それだけだった。沙代の死と関係ありそうなものは何もなかった。
                     沙代の机の上にノートがあった。書かれていたことはガムランの奏法に関する心覚えばかりだった。ガムランのスケッチがあり、「そっとふれるように」とか「はっしとうつ」などのコメントが日本語で書き込まれていた。
                     倉田夫妻と和田の3人は沙代の居室を調べたが、沙代あての手紙類にも事件に関連するようなものはなかった。
                    「この家の賃貸契約解除や、沙代の遺品の運び出し、雇っていた人への退職金などについては、誠君が来たら相談するが、君も力添えをしてくれないか」
                    倉田伸生が和田に言った。
                    「外庭に沙代さんのお友達が集まっていて、ご両親にお悔やみを申しあげたいと言っています」
                    庭に出ていたワヤン・サントソがみなに告げた。
                    「お目にかかりましょう。こちらも沙代がこれまでお世話になったお礼を申しあげなくてはならない」
                    倉田伸生が言った。
                     中門をぬけて外側の庭に出ると、吹き抜けの建物に10人ほどの男女が集まっていた。倉田夫妻の姿を見ると、みんな建物の外へ出ようとした。
                    「日差しが強いので、屋根の下でお話ししましょう。ワヤン・サントソさん、イブ(奥さん)のために椅子を持ってきてくれませんか」
                    鷹石が依頼した。
                     倉田伸生と和田、グスティ・アグン・ライ警視、鷹石と沙代の友人たちが板張りの床の上にあぐらをかいた。倉田伊津子はそのそばでイスに腰かけた。ニョマン・カデがお茶を運んできた。
                     みなさんのおかげで沙代はバリの音楽の勉強に打ち込むことができた。みなさん、ありがとう。その幸せをもっと長く味あわせてやりたかったのだが、不幸な事件で2年ほどの短い期間で終わってしまった。残念だ。倉田伸生が型どおりのあいさつをした。
                    「沙代さんは、私が教えた日本人では3番目の弟子でした。練習熱心なかたで、才能に恵まれ、この2年でずいぶん上達された。最近では、いくつかのグループに入れてもらって演奏活動をするほか、女性のガムラン演奏グループをつくる準備もなさっていました。バリのガムラン奏者は伝統的に男ですが、時代の変化で今では女性の奏者も育っています。ガムランの技法とバリ音楽の精妙な響きを次の世代に伝えるのが私の仕事ですが、やんぬるかな、惜しい才能を失ってしまいました。ご両親の落胆は察してあまりあるものと思いますが、ガムランの教師としての私も、失ったものの大きさに心がちぎれるような感じがしています」
                    沙代にガムランを教えていたイ・プトゥ・グデ・ダルマワンが弔辞のようなものを述べた。
                     バリ人を含めてインドネシア人は話術に長けているが、このときのグデ・ダルマワンの語調は、たんなるレトリックにとどまらないように、インドネシア語を聞きなれた鷹石には聞こえた。グデ・ダルマワンは倉石夫妻と同じように、ひどくうちひしがれた様子だった。
                     プリアタン村でバリの舞踊を習っている20代後半の日本人女性、松島真理が、沙代さんはやさしくていいお姉さんだったと、目を潤ませながら思い出を語った。オーストラリア人の大学院生で、グデ・ダルマワンについてガムランの実技を習っているロジャー・バースという名の若い男性が、最近、沙代さんがうちならすガムランの音には、激しいバリの呼吸だけでなく、遠い日本の優しい息づかいふと感じられるような響きもまじるようになってきたので、沙代さんがつくりだす音はこれからどう磨かれていくのだろうかと、大変楽しみにしていた矢先のご不幸だった。彼は母国語の英語でなく、習得したインドネシア語で沙代のことを情のこもった言葉で語った。

                     (5月27日に続く)

                     

                     

                     

                     

                     

                    2018.05.13 Sunday

                    『ペトルス――謎のガンマン』     第2回

                    0

                       

                      5月17日夕、サヌール・ビーチ


                       バリ島はジャワ島のすぐ東に位置する。バリ島とジャワ島を隔てるバリ海峡のもっとも狭い部分は幅2キロほどだ。島は菱餅を左右に引っ張ってのばしたような、ゆがんだ形をしている。島の南側の突起部分がくびれ、その先にしずく状の小さな半島がぶら下がっている。島の面積は5500平方キロで日本の愛媛県程度の広さだ。人口は300万弱。こちらは愛媛県の人口の2倍近い。バリ島南部のこのくびれの部分にングラ・ライ国際空港が位置している。ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港、スラバヤのジュアンダ国際空港に次いで、インドネシアで3番目に利用客が多い空港だ。
                       5月17日夕刻、ングラ・ライ国際空港の出発ロビーは混雑していたが、到着ロビーは閑散としたものだった。普段なら家族や知人を迎えに来た人たち、団体ツアー客を出迎える旅行会社の社員、ホテルの客引き、ヤミのタクシー・ドライバーたちが、税関エリアを抜けてロビーに現れる到着客を熱いまなざしで見つめる。だが、このところのインドネシア動乱で、どの国の政府もインドネシアからの退去とインドネシアへの渡航を思いとどまるよう自国民にアドバイスしている。したがって、バリへの到着客は激減、それにあわせて出迎えの人影もまばらになった。
                       駐スラバヤ日本総領事館デンパサール駐在官事務所の領事久保田尚は「倉田伸生・伊津子様」と書いたボードを掲げた事務所の職員と2人で瀬田沙代の両親を待った。邦人援護が領事の重要業務のひとつであり、とくに海外で命を落とすことになった人の家族への対応は慎重な配慮を必要とする仕事だった。
                       この時間帯に東京からの便と前後して、シンガポールかオーストラリアからの便が到着したのだろうか。白シャツを着て紺のジャケットを左腕に抱え、右手にブリーフケースをさげた若い白人の男や、ジーンズにTシャツのこれも白人の男女があらわれた。その後ろを日本人風の中年の男と白髪の老夫婦が続いた。いつもなら見かけるはずのお気楽を絵に描いたような表情の日本の若者の姿はなかった。日本人風の中年の男が数少ないボードの中から「倉田」の名前を見つけ、緊張した表情で久保田に近寄って来た。
                      「領事館の方ですか」
                      「駐在官事務所の久保田です」
                       老夫婦もそばにやってきた。
                      「倉田伸生です。こちらは妻の伊津子。それからお供をお願いした和田俊夫君です」
                      「領事の久保田尚です。長旅お疲れ様でした。このたびのお嬢さまのご不幸をお悔やみ申し上げます」
                      「どうも、娘のことでお手数をおかけして恐縮です」
                      倉田がしっかりとした声で応じた。妻の伊津子はだまったままで深々と久保田にお辞儀をした。和田もそのお辞儀につきあった。
                      「ホテルはサヌール・ビーチにおとりになったと本省から連絡をうけていますが……」
                      「サヌール・ビーチのバリ・ハイアットです。旅行代理店で航空券を手配したさい、いっしょに予約してもらいました。空港からもデンパサールの町からもそう遠くなく、それでいて静かな海岸にあるホテルだといっておりました。私はこれからホテルまでのリムジンの手配に行きたいのですが、リムジンのデスクはどのあたりかご存知でしょうか」
                      倉田に代わって和田が久保田に尋ねた。久保田がその場所を教えると和田は急ぎ足でそこへ向かった。
                      「倉田さん、まずはバリ・ハイアットへ行って落ち着かれてはいかがですか。そのあとで明日の打ち合わせを始めましょう」
                      「そうですね。よろしくおねがいします」
                      倉田が言った。
                       倉田は紺のポロシャツに仕立てのよい白の夏のスーツを、背筋をしゃんと伸ばして姿勢よく着こなしていた。つやつやとした白髪と歳のわりには力を感じさせる眼ときりっとした口もと、そしてすっきりしたあごの線――倉田は一言で言えばダンディーな金持の年寄りと見受けられた。妻もコバルトブルーの夏のパンツスーツに、藤色のブラウスを上品に着こなしていた。そうか、殺された瀬田沙代はこういう家のご令嬢だったのか、と久保田は思った。そのご令嬢がどうしてまた、デンパサールの路上で横死するはめになったのだろうか。
                       和田がリムジンの乗り場まで小型のスーツケース3個を積んだトロリーを押して行った。運転手がそれを引き取ってリムジンのトランクに放り込んだ。
                      「さすが熱帯ですな。蒸しますね。和田君、上着を脱いで、ネクタイも取ったらどうかね」
                      倉田が短く言って、妻を後部シートに乗せ、続いて自分も乗り込んだ。律儀なスーツ姿の和田がそのドアを閉めてから助手席に乗り込んだ。
                      「スラマット・シーアン(こんにちは)」
                      運転手が柔らかな口調で迎えた。
                      「バリ・ハイアット」
                      和田が英語の発音で告げた。
                      「イエス・サー」
                      運転手が英語で答えた。
                       サヌール・ビーチは空港から東北の方向、デンパサールの市街は北の方角だ。空港からサヌール・ビーチまでは、道路の状況しだいだが車で30分弱だが、サヌール・ビーチからデンパサール市街中心部までは10分ぐらいの距離だ。
                      この夕方は道路がすいていたので、バリ・ハイアットまで20分少々で到着した。
                       倉田たち3人がチェックインをすませたあと、久保田が彼らに言った。
                      「お部屋でシャワーでも浴びて、夕食でも召し上がって、おくつろぎください。私は事務所に帰って残った仕事を片付けてから、またこのホテルにもどってきます」
                      「本来なら私たちが久保田さんを事務所にお訪ねするべきだとは思うのですが、こういう状況でのつらい長旅です。さすがに疲れました。歳に免じてご好意に甘えさせていただきましょう」
                      「ご心配なく。私はこの近くのサヌール・ビーチ・ホテルのレジデンスを自宅に使っています。ご近所です。いま6時半ですか。遅くとも8時半ごろにはお訪ねできると思います」

                       再び久保田がバリ・ハイアットに現れたのは午後8時半すぎだった。倉田と和田は遅まきながら久保田と名刺を交換した。倉田の名刺には「宮城エレクトロニックス株式会社 会長」の肩書がついていた。和田の名刺には同じ会社の役員室長とあった。
                      「明日は少々早いのですが、8時半にデンパサールの州警察本部を尋ねて、今回の事件の捜査主任をしているグスティ・アグン・ライ警視と面会することになっています。瀬田沙代さんの捜査で参考になりそうなことについて、警視から質問があるでしょう。また、倉田さんのほうからお尋ねになりたいことがありましたら、何なりとご遠慮なくおたずねください。明日は州警察本部が公式に委嘱している日本人の方が通訳します。鷹石里志さんとおっしゃる方です。日本で大学の先生をなさったあとバリに住み着かれ、デンパサールのウダヤナ大学で日本語の講師もなさっています。私はあす8時にここに立ち寄ります。ところでお車の手配の方は?」
                      久保田は和田に向かってたずねた。
                      「ホテルのリムジンを借りあげるつもりです」
                      和田が答えた。
                      「では、ここを朝8時すぎに出発しましょう。公式通訳の鷹石さんはデンパサール市内にお住まいなので、警察本部へ直行します。手順としては型どおりに瀬田沙代さんのご遺体を確認していただくことになります。そうそう、手続き上、警察はご遺体の確認をされる倉田さんご夫妻の身元を確認するでしょうから、パスポートをお忘れなく。ご遺体の確認のあとで警視との話し合いになると思います。ご遺体の確認が終わった段階で、私はいったん事務所に引きあげさせていただきます。鷹石さんは、明日は大学で教える予定がないので、必要であれば一日中付き添ってくださるそうです。ご支障がなければ瀬田沙代さんがお住まいだったウブッドへ警視がご案内すると言っています。」
                      「沙代の夫の瀬田誠がいま、仕事先のメキシコからバリに向かっているところです」
                      倉田が言った。
                      「そうでしたか。結婚なさっていらっしゃったのですか。事務所がいただいている瀬田沙代さんの在留届の連絡先には、倉田さんのご住所と電話番号だけしか記載されていなかったものですから」
                      久保田が事務的な口調で言った。
                      「あの子ったら。なんて子でしょう」
                       倉田伊津子が小さくつぶやいたのを久保田は聞き取った。家族内で何か事情があったのだろうか。だが、もしこみ入った家族の問題があったとしても、そのことについてたずねるのは久保田の仕事ではない。それはどちらかといえば殺人事件を捜査するグスティ・アグン・ライ警視の守備範囲だ。
                      「瀬田誠はいま仕事でメキシコシティに長期滞在していましてね。沙代のことで外務省から15日夕にに連絡をいただいたあと、私の方からメキシコの瀬田の事務所に電話しました。時差や瀬田がグアダラハラへ出張していたせいで、彼から折り返し電話をもらったのは16日の朝になってからでした。私が沙代の死を告げると、一番早い便を見つけてバリへ飛ぶつもりだと、彼は言いました。バリに到着したら久保田さんの事務所に連絡するよう言っておきましたので、なにぶんよろしくお願いします。明日中には着くのでないかと思いますが。和田君、誠君の部屋をとっておいてくれないか」
                      「なにかそちらの方から、私にお尋ねのことはございませんでしょうか」
                      久保田が丁重な口調で言った。倉田夫妻からこれといった質問がなかったので、久保田は、では、また明日、お休みなさい、といって帰って行った。

                      5月18日午前、遺体安置室


                      「ご遺体は瀬田沙代さんですね」
                       グスティ・アグン・ライ警視の質問を鷹石が日本語に翻訳した。倉田夫妻は金属製のコンテナに納められた沙代の遺体を見つめていた。
                      「娘の沙代です」
                      倉田伸生が言った。
                      「かわいそうに」
                      とため息を添えた。
                      「沙代、沙代……」
                      倉田伊津子が遺体によびかけ、娘の髪をなでた。
                       警視と鷹石は倉田夫妻と少し離れた所にたち、領事の久保田は和田とともにさらに離れたところに立っていた。倉田伊津子の嗚咽が低く聞こえた。倉田伸生はポケットからハンカチを出して涙をぬぐった。
                      「娘をこんな風に死なせた犯人をなんとしても捕まえ、裁判にかけてください」
                      倉田伸生が声をふるわせた。被害者の両親のこの訴えを鷹石がインドネシア語に翻訳して警視に伝えた。警視の、
                      「警察は全力を挙げて犯人を捜し出す決意です」
                      という言葉に倉田夫妻は素直にうなずいた。
                       警察本部の応接室で倉田夫妻は遺体が娘の瀬田沙代であることを確認したという書類に署名をした。これをもとに遺体ひきとりの手続きが始められる、と警視は2人に説明し、身元確認のために預かった倉田夫妻と和田の3人のパスポートを返した。
                      「ご遺体は明日にでもお引き渡しできる予定です。ご遺体をそのまま日本までお運びになられますか。それともバリで荼毘にふされますか。警視がそうたずねています」
                      鷹石が倉田夫妻にたずねた。
                      「いますぐお答えせねばなりませんか」
                      倉田伸生が聞き返した。
                      「沙代の夫の瀬田誠がいまメキシコシティからデンパサールへ飛んでいる最中です」
                      「ほう、メキシコですか」
                      ライ警視が問い返した。
                      「ジャカルタで経営している会社を見る一方で、もっか新規の事業でメキシコをとび回っています。瀬田はご両親がウルグアイで仕事をされていたときに生まれて、幼少時代をスペイン語ですごしたものだから、どうも、ラテン・アメリカの方に、インドネシアよりも愛着を感じているようでして。瀬田はおそくとも明日朝までにはこちらに到着するでしょう。遺体をどのようにして運ぶかについては、夫である彼の意見が尊重されてしかるべきでしょう。ご返事は明日ということにしていただけませんか。明日あたり瀬田誠が沙代に会うためにここに来ることになるでしょう。そのさいご返事するということでいかがでしょうか」
                      倉田伸生が続けた。
                      「もちろん、それで結構です」
                      警視がきっぱりとした口調で言った。警視が話を続けた。
                      「そこで、事件のあらましですが、瀬田沙代さんは5月14日午前10時すぎ、デンパサール市のスディルマン通りとつながる細い路地で死体になって発見されました。発見したのはウダヤナ大学の学生で、彼は反スハルトのデモに参加していてスハルト支持のならず者たちと治安警備の警察機動隊に追われて路地に逃げ込んでいました。沙代さんの近くでインドネシア人の若者も殺されていました。検死の結果、沙代さんは正面2メートルほどの距離から32口径の拳銃で胸を撃たれ、その場に仰向けに倒れていました。インドネシア人の若者の方は、背後から胸と頭を撃たれていました。使われたのは同じ拳銃だとわかりました」
                      「奥さん、ご気分がよくないのですか。警視に頼んで、女性の警官に付きそってもらって別室で少しお休みになってはいかがですか」
                      鷹石が青ざめて小刻みに震えている倉田伊津子に気がついて言った。
                      「伊津子、そうしたら」
                      倉田伸生が言った。
                       警視が女性の警官を呼び、彼女が倉田伊津子を別室に連れて行った。
                      「瀬田沙代さんは、苦しむことのない死でした。14日のデモ騒ぎのなかで何らかの拍子に撃たれたのか。物盗りなのか、あるいは別の事件の巻き添えになったのか。それとも、彼女に怨みを持っていた人物の犯行なのか。いま判断材料を慎重に集めているところです。犯行時間は午前10時よりすこし前と推定されます。デモ騒ぎを警戒してかその路地の周辺には人気がなかったようで、今のところ目撃者は見つかっていません。銃声を聞いたという証言もまだ出てこない状態です」
                       警視の説明を翻訳しながら、鷹石はこのとき、倉田の顔にいらだちの表情を見てとった。
                      「倉田さん、お尋ねになりたいことがあればいつでもご遠慮なく」
                      鷹石が倉田に言った。
                      「巻き添え、物盗り、遺恨の三つの可能性のうちで警察がいま、もっとも重視しているのはどの線でしょうか」
                      「いまのところ捜査方針を一つに絞るのはかえって今後の捜査の進展を阻害することになるというのが私の考えです。まず可能性を広く考慮し、そののちに、可能性の一つ一つをデータと照らし合わせて検討し、理屈に合わないものを排除して、最終的に犯人にたどりつきたいと考えています。時間がかかりそうな方法ですが、結局、このやり方が真実に近づく最良の方法であることは、経験からわかっています。参考までにおたずねするのですが、瀬田沙代さんから今度の事件と関係のありそうなお話を電話か手紙でお聞きになったことはありませんか。例えば、だれかに脅されているとか、そういったことはありませんでしたか?」
                      「妻が時々沙代と電話で話したり、手紙のやり取りをしたりしていたが、事件に関わりのあるような物騒な内容の話はなかったようです。あれば当然私も聞かされていますから」
                      「そうでしょうね。捜査の資料にするために、今日の午後、ウブッドへ行って瀬田沙代さんの自宅を調べたいと思っています。肉親の方からご了解をいただき、捜索にも立ち会っていただきたいのです。ご協力願えますか」
                      警視の言葉の調子は丁重だった。
                      「もちろん協力いたします。妻の様子が心配なのでこれからホテルに連れて帰り、少し休ませましょう。心労に旅の疲れが重なったのでしょう。ところで、午後は何時に警察に来ればよろしいか」
                      「午後1時でお願いします」
                      警視が言って立ち上がり、倉田と握手した。
                      「ウブッドへは私も同行いたします」
                      鷹石が言った。
                       おつきの和田は終始無言だった。その存在は空気のようで、まるでそこに存在してないかのように思えた。アラジンの魔法のランプのように主人が必要とするときにのみその姿を現す。和田もそうしたよき付き人のひとりなのだろうなと、鷹石はさっと立ち上がって倉田のために会議室のドアを開けた和田のとりすました表情を感心してながめていた。

                       

                      (つづきは5月20日(日)掲載予定)

                       

                       

                       

                      2018.05.10 Thursday

                       『ぺトルス――謎のガンマン』      第1回 

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                        1998年5月14日木曜日、デンパサール市街

                         

                         すこしばかり風変わりな行列だった。
                         日ごと繰り返されているヒンドゥーの祭礼・オダランの列のようにも見えた。だが、それにしては参加者すべてが同じ年頃の若い男女で、年配者の姿がなかった。オダランの行進に参加する人は老いも若きも晴れ着で着飾り、頭髪や耳にハイビスカスの花を添える。その行列の参加者の服装はそうした華やぎからほど遠く、表情にはどこか殺気だった、思いつめた感じがうかがえた。
                         信仰心に厚く伝統を守ることに熱心なこの島では、毎日のように祭礼の行列が町の中、村の中をねり歩く。というのも、この島では地域共同体の寺院、農業水利組合・スバックの寺院、一族・血縁者の寺院と、日本風にいえば一人の人がいくつもの寺院の檀家になっている。したがって塀で囲まれ、門を構えた、れっきとしたヒンドゥー寺院が島内に数万もある。さらに人々はそれぞれの住宅の敷地内にも、少なくとも一つ以上の小さな祠を祀っている。かつて日本の住宅にあって、いまは廃れてしまった神棚を庭に出して大型化したようなものだ。
                         祭礼の行列に参加するとき、女性は正装の上着であるクバヤを着て腰にサロンを巻き、男性は白いシャツに白いサロン、それに男の正装に欠かせないウドゥンとよばれる白いはちまきのようなかぶり物を着用する。女性は果物などを円筒形に盛り上げて形を整えた祭礼の供物・ガボガンを頭の上にのせて運ぶ。大がかりな行列だと、こうした男女数百人が列をつくり、赤や白や黄色の幟をたて、大きな日傘も掲げて、ついでに御輿もかついで、しずしず、しゃなりしゃなりと行進する。鉦や太鼓、ときにはガムランで使う重いゴングまでがもち出され、鳴り物入りの大行進になることもある。

                         1998年5月14日の木曜日の朝、インドネシア共和国バリ州の州都デンパサールで目撃されたその行列の参加者は100人ほどだった。男性も女性も、大半が柄物のシャツにジーンズや茶、ブルー、グレーのズボン姿だった。なかにはズボンの上から白い布をサロンのつもりで腰に巻いている者もわずかながらいた。行列の先頭を進む男性たちだけが頭にウドゥンを着けていた。頭の上にガボガンをのせた女性の姿はみあたらなかった。何本かの幟は立てていたが、風のない市街地の蒸し暑さのなかで竹竿から白い布がだらりと垂れていた。
                         祭礼の行列というよりは、それはシュプレヒコールを押し殺した沈黙のデモ行進のように見えた。行列はショッピングセンター近くの通りを進んでいた。カキリマ(移動式屋台)を押している行商人、新聞売り、幼児の手を引いた買い物の女性など、道ばたの人々が一瞬けげんな表情でこの奇妙な行列を見つめた。子どもたちがおもしろがって行列を追いかけていった。だが、すぐさま状況を理解して、
                        「やめなさい、帰ってきなさい」
                        と、親が大あわてで子どもを制止した。行進の次にやってくる暴力的な混乱を予感したかのようだった。
                        そのとおり――行列はデンパサールのウダヤナ大学の学生を中心にした若者たちが組織したスハルト大統領の退陣を要求する非合法街頭デモだった。
                         インドネシアでは街頭での政治デモは禁止されていた。スハルト政権下では、大学生の政治デモは大学キャンパスの狭い空間に限って許されていた。
                         大学構内で政治デモをしたところで、そこには自慰的行動特有のむなしさがあった。デモを遠巻きにながめているのは、加齢とともに異議申し立てをする覇気を失い、いまや政治的には抜け殻のようになってしまった教授たちだけだった。一度でいいから街頭デモを敢行し、大衆にこの国の無惨な政治的現実を直視するきっかけを提供したい。かねがね学生たちはそう熱望していた。
                        どこの国でも大学生時代というのは人の一生のうちでもっとも政治的異議申し立てに情熱を傾ける時期だ。大学生が異議申し立てをしなくなった国はもはや老いた下り坂の国といってよかろう。この日、ウダヤナ大学の学生たちには、今はもうキャンパスから街頭に出てデモを決行するしかないという、やむにやまれぬ気持の高ぶりがあった。

                         

                         トリサクティの虐殺に抗議しよう!
                         ウダヤナ大学生も合流せよ!

                         

                         ウダヤナ大学生だけでなく、インドネシア全土の主要都市で大学生たちがスハルト政権の政治暴力に抗議する街頭デモを繰り返していた。
                         事の起こりはこういうことだった。
                        1997年にタイで始まったアジア金融危機が、あっという間にインドネシアにも襲いかかってきた。スハルト政権はIMF(国際通貨基金)から金融支援を受けるのとひきかえに、IMFが求めるインドネシア経済の構造改革を約束した。だが、インドネシアの通貨ルピアの暴落は止まらなかった。インドネシア経済はガタガタになり、庶民の生活は追いつめられ、苦しくなった。スハルト政権の強圧的な政治のやり方には、インドネシアの人々はかねがね反感を持ってはいたが、これまでの経済成長がその反感を相殺してきた。経済が左前になると、反感だけがつのった。スハルト大統領への不満が日ごとに高まっていった。
                         2日前の5月12日、首都ジャカルタのトリサクティ大学の学生たちが街頭デモ隊を組織した。トリサクティ大学はジャカルタでは名門の私立大学だ。学生は実業家、官僚、高級軍人など中流上層の息子や娘が多かった。デモ参加者は大学構内の駐車場付近に午前11時前ごろから集まり始めた。彼らはまず国歌『インドネシア・ラヤ』を歌い、そのあと「スハルト退陣」を叫んだ。午後零時過ぎ、学生数千人が校門からガトット・スブロト通り出て行った。
                         当然のこととして、学生デモ隊は警備の警官隊と路上でにらみあうことになった。路上のにらみあいは午後4時ごろまで続いた。炎暑にうんざりした学生たちが、やがて三々五々大学に引きあげ始めた。午後5時過ぎ、警官隊が実力行使を始めた。学生たちは大学構内に逃げ込み、柵越しに警官隊めがけて投石した。警官隊はゴム弾を発射した。だがゴム弾にまじって、実弾が発射されていた。逃げまどう学生たちの背後から発射された実弾が彼らの身体を貫いた。四人の学生が撃ち殺された。デモ警備にあたって、警察の部隊はゴム弾しか支給されていなかったはずだ。実弾は誰が撃ったのだろうか?
                         翌13日には4人の学生の埋葬が行われた。インドネシアのイスラム団体ムハマディヤを率いてきたアミン・ライス、スカルノ初代大統領の娘で野党・民主党党首だったメガワティ・スカルノプトゥリといった反スハルト勢力の大物が葬儀に出席してスハルト批判をぶった。葬儀の席でアミン・ライスは、インドネシア国軍はスハルト一族を守るのか、それとも全国民をまもるのか、態度を決めよ、と叫んだ。13日からジャカルタ市内のあちこちで暴動が始まった。
                         デンパサールのウダヤナ大学生が彼らのデモをヒンドゥーの祭礼の行列に見せかけたのは、警察の居丈高な警備からデモ参加者を守るためのおまじないだった。と同時に、ジャカルタでねらい撃ちされたトリサクティ大学の4人の学生に対する慰霊でもあった。
                        ウダヤナ大学生のデモ行進はデンパサールの町中をしずしずと進んだ。目指す地点はデンパサールの中心部にあるラパガン・ププタン・バドゥンだった。木立に囲まれた緑の木陰が涼しげなオープン・スペースである。デモ隊はその途中のスディルマン通りに面したティアラ・デワタ・ショッピングセンター近くまで進んでいた。
                         そのとき前方に、デモ隊の前進を阻むように棍棒や鉄パイプを手にした若者の一団が現れた。スハルト支持派の街のならずもの・プレマンたちだ。その数、50人ほどだった。
                        「死にたくなかったら大学に戻れ」
                        頭髪を兵隊のように短く刈りあげたプレマンのリーダーが、汗でてらてら光る手で握りしめた鉄パイプの先を学生たちの方に向け、目をつり上げて叫んだ。
                        「そこをどいてくれ。祭礼の列のじゃまをしないでくれ」
                        眼鏡をかけた長髪のデモ行進のリーダーの学生が大声で怒鳴り返した。

                         大学生たちのグループは女子学生を列の中心に移動させ、その周りを男子学生が取り囲んで守ろうとした。プレマンたちの集団がジリ、ジリっと学生の列に肉薄していった。
                         プレマンたちの後ろに、警察の車両が5台ほど到着した。乱闘服で身を固めた機動隊員が車から道路に飛び降りた。だが、機動隊員はその地点にとどまり、デモ隊ににじりよるプレマンたちをながめているだけだった。
                        「コムニス(共産主義者)め!」
                        プレマンたちが叫び、いっせいに棍棒や鉄パイプをふりあげて学生たちを脅した。
                        「サンパ・マシャラカット(クズ野郎)!」
                        学生たちが罵声を返した。
                        「共産主義者をインドネシアから追い出せ」
                        プレマンのリーダーが絶叫した。
                         それを合図にプレマンたちが学生に襲いかかった。数人の学生が幟の竹竿を振り回してプレマンの攻撃を防ごうとした。だが、棍棒や鉄パイプで武装し、けんか慣れしたプレマンの攻撃を防ぐには学生たちは非力にすぎた。
                        「やめなさい。暴力行為をやめて、すぐ解散しなさい」
                        拡声器から警察官の声が通りに響いた。プレマンが学生たちの列に突っこんできた。

                         ニョマンはウダヤナ大学社会・政治学部2年生で、これが初めての街頭デモへの参加だった。5月のバリはすでに乾季に入っていた。午前10時ちょっと前。デンパサールの太陽の照りつけはいっそう厳しくなっていた。額から吹き出して顔をつたい落ちる汗を、ニョマンは左手でぬぐった。暑さだけではなく、緊張による発汗もあった。プレマンの突入で大学生の列はくずれ、デモ参加者たちは路上に四散した。ある者はいま来た方角へ走って逃げ、ある者は大通りから横道のガン(小路)へ走った。そのあとをプレマンたちが追い、警官たちがどちらかというとのろのろとした動きでそのあとに続いた。
                         ニョマンはデモ隊がやって来た路を走って引き返した。その途中で手近な小路を見つけて駆け込んだ。その小地を奥へ奥へと走った。ふと気づくと、一緒に行進していた大学の仲間の姿も、追いかけてくるプレマンの姿も、警官の姿もなかった。ニョマンはほっとして走るのをやめた。歩きながら乱れた呼吸を整えようとした。小路の両側は家屋の壁や塀が続いていた。30メートルほど先に、大きな通りが見えた。
                        「たすかった」
                        ニョマンがつぶやいた。
                         落ち着きをとり戻したニョマンの目に、小路に人が倒れているのが見えた。倒れているのは2人だった。その近くにバイクが止めてあった。ニョマンが近づくと、女は仰向けに、男はうつぶせに倒れていた。淡いブルーのジーンズをはき、白地に青いポルカ・ドットのコットン・シャツを着た女のふくらんだ胸から血が流れていた。男の方はジーンズにTシャツで、Tシャツの痩せた背中がべっとりと血でぬれ、頭からも血を流していた。
                         私より先にここに逃げ込んできたデモ行進の仲間がいて、その2人がここでプレマンに襲われたのだ。この人たちを襲撃した奴らはまだこの近くにいるかも知れない。熱帯の路地裏のかすかな腐敗臭にまじった生の血のにおいをかいだような気がして、ニョマンはいいしれぬ殺気を自分の近くに感じた。足がすくんだ。
                        「あわわわ……」
                        言葉にならない悲鳴のようなかすれ声を漏らしながら、ニョマンは広い通りの方へ向かって必死で走った。


                        5月15日、ハヤム・ワルック通り

                         

                         バリで隠居生活を楽しんでいる鷹石里志はハヤム・ワルック通りの借家で、バリのたそがれ時をくつろいで過ごしていた。5月15 日の夕刻だった。
                         デンパサールでは空を真っ赤に染める夕焼けを見る機会はそれほど多くない。西の空が一部赤く、一部黄色くなるだけで、夕陽が沈んだあとの残照の時間はきわめて短い。あっという間に夜のとばりが降りてくる。そして熱帯バリの闇は気のせいか、深い。
                        熱帯のインドネシアで心身がしゃきっと保てるのは比較的涼しい朝のうちだけだ。だからインドネシアの人の朝は早い。会社や役所のなかには午前7時半には仕事を始めるところがある。公立の小学校などは朝七時から授業が始まる。
                        午前10時を過ぎると酷暑が始まる。その暑さは夕方まで続き、日が沈むころには日中の身体にへばりつくような暑気がやわらぎ、いくらかほっとできる時間が始まる。
                         鷹石は小さな庭に籐椅子を出して、冷たいジャワティーをすすった。ジャワティーは冷たいだけでなくたいへん甘かった。鷹石がインドネシアとつきあい始めて間もないころは、やたら甘い紅茶やコーヒーに違和感があった。しかし今ではすっかりその甘さになじんでしまった。紅茶の甘ったるさが酷暑と喧噪にみちた一日の疲労をとかし、流し去ってくれるように感じる。飲み物の甘さと、熱帯のたそがれ時のけだるさ。これらにどっぷりとつかることに快感を覚えるようになると、いっぱしの熱帯病患者、あるいは熱帯ぼけである。
                         借家の庭には何本かの木がある。その中にドリアンの木、マンゴスチンの木、それにランブータンの木があると、この家を借りたとき大家が言っていた。
                         5月のバリはすでに乾期に入っている。熱帯のフルーツの最盛期は雨季なので、果物の種類が減り始める時期だ。とくにドリアンは雨季にしか出回らない。といっても、大家がいっていた庭のドリアンの木は、この家を借りて3年になるのだが、これまで一度も実をつけたことがない。鷹石は大家に、
                        「あれは本当にドリアンの木なのか。風に吹かれてドリアンが落ちてくる幸運にめぐまれたことはまだ一度もないよ」
                        と冷やかしたことがあった。
                         大家はすました顔で応じた。
                        「早く実をつけろと、あんたがドリアンの木をにらんでいるから、木の方がおびえて実を結ばないのだ」
                        鷹石はときどきドリアンを食べたくなることがあった。最初はプンバントゥ(お手伝い)のスチに頼んで買ってきてもらっていたが、ある時、そのスチが大のドリアン嫌いだということがわかった。
                        「あのにおいを嗅ぐとクパラ・プシン(頭痛がする)」
                        とスチはいった。
                         なるほど、ドリアンのにおいについて、ある日本の本が、くみ取り便所の中で1週間はき続けた靴下を鼻に押しあてて深呼吸したような強烈さ、と紹介していたことを思い出した。たしかに臭うけれど、そこまでひどくはない。鷹石はそう思うのだが、お手伝いのスチの健康のために、以後、自分でドリアン――インドネシアではドゥリアンと発音している――を買いに行くことにした。
                        雨季にはデンパサールのあちこちの小屋がけの果物屋や、路上でドリアンが並べて売られる。乾季にはいると、ドリアンが買えるのは大きなスーパーマーケットに限られてくる。並んでいるのはタイから輸入したドリアンだ。ドリアン好きは一種の依存症のようなものだと鷹石は思う。地元産のものが食えないとなると、輸入してまで食いたくなる。
                         庭のマンギス(マンゴスチン)の木は小さな実を少しだけだがつける。試しに食べてみたが、味は街で売っているものよりはるかに劣った。
                         なんとか食べられる実をつけるのは、庭の木なかではランブータンだけだ。実は小粒だが甘みは強かった。ランブータンは赤い果皮から無数のヒゲをはやしたゴルフボールより小さめの果物で、皮を割ると中からジューシーな白い果肉が出てくる。ランブートとはヒゲとか毛のことで、その語尾に接尾辞「アン」がついて「ランブータン」となって「ヒゲのあるもの」という意味になる。ドリアンは「ドゥリ」(トゲ)に「アン」がついて、「ドゥリアン」、すなわちトゲのあるものの意味だ。ランブータンは東南アジア在留の日本人の間ではひそかに「トラキン」とよばれている。虎の睾丸の意味だが、その色といい、もじゃもじゃの剛毛といい、見たことはないが言い得て妙という気のする形状である。。ちなみにドリアンは「ドゥリアン」が現地の発音で、「ドゥリ」(トゲ)に接尾辞「アン」がついて「ドゥリアン」、すなわちトゲのあるものの意味だ。

                        「パッ・ティルポン(電話です)」
                        スチが家の中から庭の鷹石を呼んだ。
                         受話器の向こうはバリ州警察本部のグスティ・アグン・ライ警視だった。
                        「帰りにお宅に寄りたいのだが、いいかな?」
                        「もちろん、いいとも。で、何時ごろだい」
                        「7時半ごろには行けると思う」
                        「では、ささやかな晩飯を用意しておくよ。ガドガドとテンペだけだがね」
                        「ガドガドとテンペだって? おれはバリ人で、ジャワ人ではないんだよ。でも、せっかくのご厚意だからいただくことにしよう。用件は例によって通訳の依頼です」
                        「わかった。じゃ、待っています」
                         リビングルームのテレビがここ数日のジャカルタの暴動の模様を特集で伝えていた。
                        テレビが映し出す14日午後のジャカルタはまるで革命にともなう内乱状態を思わせた。鷹石は南米かアフリカのどこかの国の内戦の映像を見ているような錯覚に襲われた。普段はなんともおだやかな物腰のインドネシア人が、あるときふとアモックに襲われ、思いもかけない凶暴な姿をあらわにする。熱帯の発作というやつだろうか。バリの舞踏劇ケチャもある種のトランス状態を表現している。
                         高層ビルの上からジャカルタ市街を見渡した映像には、街のあちこちで立ち上る煙の柱が映し出されていた。暴徒が放火を始めたのだ。テレビのアナウンスはそう説明した。上空には警察や軍のヘリコプターが旋回していた。この映像は14日夜にすでに見たものだったが、インドネシアの首都ジャカルタ特別市がガラガラと音をたてて崩壊し、深い破滅の淵に沈んでゆくような不気味さを、あらためて鷹石に感じさせた。
                         テレビが地上の惨状を映した。暴徒たちに破壊され、火をつけられた自動車が駐車場や路上でひっくり返って燃えていた。そのぶざまな姿は殺虫剤にやられたゴキブリを連想させた。商店街のショーウィンドウが壊された。オフィスビルの窓ガラスもたたき割られた。
                         テレビは暴徒による被害が集中したジャカルタ市街地北部の商業地区グロドックの映像を映していた。商店が破壊され、デパートが打ち壊され、人々が店舗から略奪した商品を抱えて出てくる姿が映っていた。人々が略奪に夢中になっているとき、誰かがデパートに放火した。デパートは瞬く間に炎上し、このときデパートの中にいた何百人もの人が炎に包まれ、煙に巻かれ、焼けこげて死んだようだ。テレビはそう伝えた。消防車が集まって放水していた。救急車がサイレンを鳴らして走っていた。
                         このジャカルタ暴動ではインドネシアの過去の暴動の例にもれず、中国系インドネシア人が経営する商店が狙われた。中国系の人々はインドネシアがオランダ領東インドとよばれていたオランダ植民地時代に、インドネシア各地に出稼ぎにやってきた。人口圧力によって貧しい中国から押出されるようにしてインドネシアに渡ってきた。彼らは一旗揚げようと渡航費を借金で工面し、下層労働による賃金でその借金を返し、やがて資金をためて流通業や金融業を始めた。何世代かあとの現在の中国系インドネシア人が、インドネシア経済を牛耳る存在になった。プリブミと称するマレー系インドネシア人にとって、こうしたノン・プリブミ(中国系インドネシア人)の存在が面白かろうはずがない。マレー系のプリブミと中国系ノン・プリブミの暴力的対立は、キリスト教徒とイスラム教徒の衝突とならんで、スハルト政権下で繰り返されたインドネシアの宿痾であった。
                         こんどのジャカルタ暴動で、スハルトの古くからのクローニーで中国系の大資本家リム・スーリヨンの自宅が襲撃を受けた。また、テレビのニュースは14日の暴動で、暴徒がグロドックの中国系市民を集中的に襲撃し、殺害したと伝えた。テレビはあからさまにはいわなかったが、この襲撃のさなか多くの強姦も行われたことだろうと、インドネシア政治史の研究をしたこともある鷹石は想像した。暴力行為と男の発情はどのように連動しているのだろうか。
                         ジャカルタに住む多くの中国系市民がシンガポールに避難しようとスカルノ・ハッタ空港に向かった。市街から郊外の空港に向かっている車をならず者たちが停車させて、金品を奪った。空港に通じる有料道路は14日の夕方になって、ついに閉鎖されてしまった。
                         大統領官邸や政府の役所、金融機関、交差点など、ジャカルタの要所に配置された軍の車両と兵隊をテレビが映しだしていた。1万以上の兵が動員されている模様だ、とテレビは説明した。それは非常に奇妙な光景だったのだが、テレビは街角にトラックを止めて待機する兵隊と暴徒らしい男たちが妙になれなれしく話している姿を記録していた。
                         玄関の方から自動車が止まる音が聞こえた。
                        「パッ・アダ・タム(来客ですよ)」
                        お手伝いのスチが鷹石を呼びに来た。
                        「パッ・グスティ・アグン?」
                        「ヤー・ブトゥル(はい、そうです)」
                        答えたのはグスティ・アグン・ライ警視その人だった。スチのあとについて玄関からリビングルームに入って来た。
                        リビングルームのソファにグスティ・アグン・ライ警視がにこやかな表情でドテっと座った。

                         身長は鷹石とほぼ同じ1・7メートルほどだが、その胴回りときたら痩せ形の鷹石の2倍はあろうかと思える肥満体だ。その胴体から太い首が生え、その上にまんまるな顔がのっている。バリ人にしろ、ジャワ人、スンダ人にしろ、たいていのインドネシア人はやたら愛想がいい。知人に会えば、それがひどい夫婦げんかの直後だったとしても、その大きな目を見開いて、じつににこやかな笑顔をつくってみせる。この夕べもグスティ・アグン・ライ警視は心からなる微笑を満面に浮かばせて鷹石を見た。
                        「また仕事をお願いしようと思っておじゃました」
                        「通訳の公務だね」
                        「きのう日本人の女性が殺された。その家族がまもなくバリにやってくる」
                        「殺人事件か」
                        「ああ。昨日の午前中、ウダヤナ大学の学生たちが大学構内を出て、ラパガン・ププタン・バドゥンへ向かってデモ行進をしようとした」
                        「そうらしいな。昨日の午前中は非常勤講師をしているウダヤナ大学の観光学科の上級生を対象にした日本語のクラスで教えていた。いつもより出席者が少ないので、学生たちにたずねたところ、デモに出かけた者がいるということだった」
                        「デンパサールでは、学生デモはめったにない珍しい出来事だ」
                        「それでふと即興で学生たちに日本語でディスカッションを試みさせたんだ。インドネシアの最高額紙幣5万ルピアにはスハルト大統領の肖像が使われていて、『バパ・プンバグナン(開発の父)』の文字が添えられている。日本の最高額紙幣1万円札は福沢諭吉の肖像を使っている。福沢諭吉は東京の慶應義塾大学を創設した人だ。幕末に天皇の官軍と徳川の幕府軍が江戸の上野で小競り合いをしたとき、我がことにあらずと福沢は学舎にこもって経済学の教科書の講読をしていた。動乱の世を嫌って学問に没頭しようとした福沢のこの態度をネタに、学生たちに現在のインドネシアの政治的混乱について議論させてみた」
                        「それで学生たちの意見はどうだった」
                         鷹石がしょっぱなから話を脱線させてしまったのだが、警視はいやな顔もみせず、無駄話を続けさせた。夜はこの先まだ長い。相手がしゃべる気を見せたときはしゃべらせておくのが警視のやりかただった。
                        「12日にジャカルタで、スハルト大統領の辞任を要求する街頭デモに出たトリサクティ大学の学生が治安部隊の実弾射撃で殺された。その怒りはインドネシア中に充満していて、クラスの学生の圧倒的多数が、教室でおとなしく勉強するよりはデモに行くべきだという意見だった」
                        「当然だね。正義の怒りを忘れた若者は飛べないガルーダと同じだよ」
                        警視が聞きようによっては過激ともとれる感想をさらっと口にした。
                        「しかし考えてみると奇妙だね。クラスの圧倒的多数がデモに行くべきだという意見であるにもかかわらず、なぜクラスはからっぽにならなかったのか」
                        「クッ、クッ、ク……」
                        警視は鶏がのどを絞められたときのような声を出して笑った。
                        「大学で教えているにしては思考法が子どもっぽいね。教室でおとなしく勉強しているよりはデモに行く方が面白い。だが、デモに行って警官やスハルト支持のならず者に追いかけられて殴られるよりは教室でおとなしくしていた方がいい――。それで昨日のウダヤナ大学の学生たちのデモだが、プレマンの一隊が学生の行進を阻止しようとした。プレマンたちは学生たちと罵声の応酬を重ねたすえ、デモ隊に襲いかかった」
                        「それで学生はどうした。プレマンとわたりあったのか」
                        「ちりぢりに四散した」
                        「おやおや、バリのププタンの伝統はもはや消え去ったのか」
                         バリ島は島の中央部に山脈があり、その山肌を無数の川が流れ下っている。かつてはその川筋ごとに村落国家があったが、小王国のつぶし合いで、19世紀の終りごろには、バリ島南部にはタバナン、バドゥン、ギアニャール、クルンクン、カランアセム、バンリ、メンウィの七王国が残っていた。やがて20世紀初めにオランダ領東インドの軍隊がジャワ島から海を渡って攻め込んできて、これらの王国は滅亡する。1906年、オランダ領東インドの軍隊がバドゥン王国を攻めたとき、盛装したバドゥンの国王とその妻子、国王の臣下が、発砲するオランダ領東インドの兵士に向かって真っ正面から行進した。ある者は敵の眼前でクリス(短剣)で自刃し、ある者は銃撃されて死んだ。その2年後の1908年にはクルンクン王国で同じ自殺行進が繰り返された。オランダ領東インドの兵士は一瞬、行進の列への銃撃をためらったが、戦争である発砲せざるをえなかった。この行進がププタンよばれ、デンパサールの通りや公園の名になって残っている。
                        「伝統というより、あれは儀式化されたやけくそだね。日本でもむかしセップクという儀式をやっていたじゃないか。日本がアメリカと戦争を始めたのも、戦で負けがこんできたころにバンザイ・アタックを始めたのも、日本式のププタンといえなくもないな」
                        ライ警視がつまらそうな声をだした。
                        「すまん。話を横道に逸らせてしまったようだ。それでは通訳の公務についてお聞きしましょう。晩飯を食べながら話を聞かせてくれないか」
                        鷹石はやっと話を本筋に戻し、警視をリビングルームの横の食事室にさそった。
                        「ありがとう。これでいい。休んでいいよ」
                        鷹石がスチに声をかけた。彼女が食事室から姿を消すと、警視が話を続けた。
                        「デモ隊の中にニョマンという名のウダヤナ大学社会・政治学部の学生がいてね。この学生がプレマンに襲われて路地に逃げ込んだ。そこで射殺死体を二つ見つけたというわけだ。凶器は32口径の拳銃で、女性は正面から胸を撃たれ、男の方は同じ拳銃で背後から胸部と頭部を撃たれていた。検死報告によると2人は即死だった。ねらいは正確で、銃を扱いなれた奴の犯行だ」
                        「その事件のことは『バリ・ポスト』で読んだ。被害者の女性は日本人らしいと記事はいっていた。そうか、やはり日本人だったのか」
                        「女性が日本人らしいことは、持っていたクレジットカードからわかった。日本で発行されたクレジットカードだったので、てっきり短期の観光旅行者だと思った。念のためデンパサール駐在の日本領事に連絡した。領事からウブッドに住んでいる日本人に同じ名前の人がいると連絡があった。そこで、出入国管理事務所で外国人登録の原本をみせてもらった。よくあることだが、外国人登録のさいの指紋と遺体の指紋の照合にちょっと手間取り、最終的な身元確認が遅れた。お役所の棚からその女性の記録を捜し出すのに時間がかかったのだ。今日の午前中にその指紋の記録が見つかった。ウブッドに住みついてガムランを習っていたセタ・サヨという34歳の女性だとわかった。そこで、ウブッドで彼女にガムランを教えていた師匠と、バリ駐在領事に来てもらって、今日の午後に身元を確認した。
                        「この女性、ウブッドではイダ・アユ・ングラとよばれていたそうだ。麗しきブラフマンの女といった意味の名前だ。男の方はオジェック(バイク・タクシー)で小遣い稼ぎをしていたジョクジャカルタからの流れ者のジャワ人で、スダルノという26歳の男だった。バリ島へやってくる女性のツーリストの情事のお相手をつとめる仕事もしていたと、オジェック稼業の仲間たちはニヤニヤしていた」
                        「そのブラフマン階級を自称する日本人の女と、ジャワ人の流れ者は、昨日のデモに参加していて、プレマンか警官機動隊に追いかけられたすえに射殺されたか?」
                        「いや、どうもそうではないらしい。ニョマンやデモに参加していた大学生たちにたずねたところでは、そういう2人はデモ隊の中には見かけなかったそうだ。被害者の男女2人がおたがい知り合いだったのか、そうでなかったのかについては情報がまだない。いっしょに殺害現場の路地にやってきたのか、たまたま現場で一緒になったのかについても判断する材料がない」
                        「行きずりの強盗殺人だろうか」
                        「その可能性もある。男の方はもともと素寒貧だが、それでもポケットに1万ルピア程度の小銭が残っていた。女がジーンズの腰に巻いていたウエストバッグには皮製のカード入れがあり、クレジットカードと銀行のATMカードが入っていた。リュックの中には着替えの下着やガムランの本、ガムラン演奏会のプログラムが入っていた。ウエストバッグに入れていた現金がとられた可能性はある」
                        「女がほかに貴重品を身につけるか持っているかして、それがとられたという可能性はないのだろうか。パスポートや外国人登録証はあったのか」
                        「それは見つかっていない。しかし、わたしが引っかかるのは、ウエストバッグから現金を盗むためだけに、無抵抗な人を拳銃で撃ち殺すだろうかという点だ。拳銃を突きつけられれば、ウエストバッグに入るくらいのルピア札なら抵抗せずに渡すだろう。現場や死体には争った後が残っていない。有無を言わさずまず射殺して、そのあとでウエストバッグから現金などを盗んだとみられる。物盗りの犯行に見せかけるためにウエストバッグの中身を盗んだ可能性だってある。犯人はなぜ被害者のリュックを盗んでいかなかったのか?」
                        「そうか。物盗りの線は薄いのか。ところでうちのガドガドの味はどうかね。今日のはチキンも入っていてうまいだろう」
                        鷹石が警視に同意を求めた。
                        「うん。ガドガドもうまいが、今日はソト・アヤム(チキン・スープ)が抜群だね」
                        「ああ、スチはソト・アヤムを得意にしている。元亭主がバリ人の例にもれず闘鶏が大好きだった。賭け事にのめり込んでいっこうに働こうとしない。スチはとうとう我慢できなくなって、あるとき亭主が大切にしている闘鶏用のトリをつぶしてスープにして、亭主に喰わせたそうだ。それがもとで夫婦わかれさ」
                        「バリ人にとって闘鶏は男らしさを象徴する遊戯なのだ。中ジャワあたりの農家では、家の門の横に高いポールがたててあってね。朝になると亭主が鳥かごをさげて現れ、するするするっと鳥かごをポールの上にあげる。国旗掲揚の要領だね。それから亭主はイスを出してポールのそばに日がな一日座り込んで、カゴの小鳥が『チチチチ…』と鳴くのを待っている。その間、畑や田んぼに出て働くのは女房の方だ。これがインドネシアの極楽トンボの相場さ。ちょっとだけ違いがあるとすれば、バリの男にとっては、闘鶏に使う雄鶏は彼の男らしさや性的能力の象徴なんだな。離婚に至ったのは当然のことだ」
                        「スチはそのあとでやたらソト・アヤムをつくるようになったそうだ。わたしはこの家に住んだ3年というものスチのソト・アヤムにどっぷりつかって過ごしてきた。この間などはソト・アヤムの海でおぼれて死ぬ夢を見たほどだ」
                        「それは豪勢な夢だね。ところで、殺しの現場だが、表通りから離れた、奥まった路地の中なので、今のところ目撃者をさがし出せていない。付近で聞き込みをしているのだが、銃声らしい音を聞いたという証言はいまのところない」
                        「他殺死体が2つ見つかった。身元は判明した。今のところはっきりしているのはそれだけか」
                        「そういうことだ。たいていの殺人事件はこのようなはっきりしない状況で始まるのさ」
                        「ところで麻薬関係の可能性はないのか」
                        「そっちの方も一応あたっている。死んだ男も、女の方も麻薬関係のコネクションはいまのところ出てきていない。ただ、手際のいい殺しなので、その道のプロの犯行の可能性については留意しておくことが必要だと思っているよ」
                         警視はゆでた青菜にピーナツソースをたっぷりと絡ませて、ガドガドを食べ終えた。
                        「それで通訳の仕事だが」
                        鷹石が警視を見た。
                        「ソト・アヤムもガドガドもうまいし、あんたとのおしゃべりも楽しい。それで肝心のここに立ち寄った用向きをまだ話さないままでいた。スラバヤ総領事館デンパサール駐在官事務所の久保田尚領事がセタ・サヨの在留届の緊急連絡先になっている両親に今日の午後連絡をとる手配をしてくれた。両親は仙台という町に住んでいるらしい」
                        「仙台か。5月の仙台は街をとりかこむ木々の新緑が鮮やかな季節だ。呼吸をすると肺の中が薄緑に染まるような錯覚におちいる。いい街だよ」
                        「領事の久保田さんの話では、仙台から東京に出て、成田からデンパサールに飛ぶことになるそうだ。航空券の手配などが終わったら、到着の日時を改めて連絡してくれることになっている。ジャカルタでは海外に脱出しようとするノン・プリブミや外国人などが、スカルノ・ハッタ空港から出発する国際便の席を争って入手しようとしている。バリのングラ・ライ空港もだいぶ混み合っているそうだ。一方でかなりの外国人がジャカルタからバリのビーチに避難してきている。ジャカルタのオフィスビルはスプレーのペンキで『プリブミ』と壁に書いたり、『リフォルマシ(改革)支持』と書いたりしてお守り代わりにしている。個人の家ではイスラムのお祈りのための個人用絨毯・ティカル・スンバヤンを吊して魔除けにしている。金のあるやつは外国人同様、バリに逃げ出してきているがね。一方で、デンパサールに飛んでくる国際便の方はガラガラだ。定期便が運行を停止しない限り席の方はなんの問題もない」
                        「そうするとデンパサール到着は早くても明後日17日のことになりそうだね。その心づもりでいるよ」
                        「ありがとう。いつもながらのご協力を感謝する」
                        警視がまん丸い顔をにっこりとさせた。
                        「ところでスハルト大統領だが、訪問先のカイロで辞任を口にしたと14日付のコンパス紙が伝えて、ちょっとした騒ぎになっているが、辞任する気なのかい」
                        鷹石がたずねた。
                        「辞任する気もないだろうし、辞任したくても辞任できない。死ぬまで大統領を辞められない。スハルトは大統領に7選され、これまで30年余りにわたってインドネシアを支配し続ける強固なシステムを築いたが、円満引退の環境を整えておくことを忘れてしまった。大統領をやめたとたん、不正蓄財、人権侵害、1965年の共産党殲滅作戦による大量殺人の容疑を追及されることになる。辞めたくても辞められないんだよ。1990年にシンガポールの首相を円満退職した盟友のリー・クアンユーのことを、スハルトは大いにうらやましがっていることだろう」
                        「そうだろうなあ。わたしなんかも、ついこのあいだまでは、民主化を要求する勢力など蟷螂の斧でしかない、スハルトのインドネシア支配は彼が死ぬまで続くと思っていたよ。それがタイで始まったアジア金融危機であれほど強固だったスハルトの権力基盤があっとの間に崩れてしまった」
                        「鷹石さん、すべからくものごとには終わりがある。夜のとばりがおりて始まったワヤンの長いながい物語も、いずれ夜明けとともに終りを告げることになる。さて、夜が明けないうちに私は自宅に帰ることにしましょう。ごちそうさま。通訳の件の詳細についてはおっつけ連絡します」
                        鷹石は警視を玄関先まで見送った。
                        「スラマット・マラム(おやすみ)」
                         警視は愛用のインドネシアの国民車キジャンを運転して帰って行った。

                         

                              (つづきはおおむね毎週日曜日に掲載)