2020.06.02 Tuesday

『だまし絵のオダリスク』    第40回

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    槙村を押し込んだ乗用車は坂道を海岸まで下りきったあと右折し、カバタシュからカラキョイに出てガラタ橋を渡ってすぐ右折、イェニ・ジャーミーとエジプシャン・バザールを左に見ながら金角湾の旧市街側の海岸道路を北に走った。エミノニュからフェネルまで来たところで、運転者は車を停めて車外に出て、尾行の車がないことを確かめた。槙村を乗せた車はさらにバラットを経てエユプまで、北に向かって走った。
    エユプ・スルタン・ジャーミーを通り過ぎ、墓地が見えはじめるあたりで槙村は車から降ろされた。槙村を車に押し込んだ二人の男が、槙村を墓地の中に連れて行った。墓地の中に背の高いあごひげを蓄えた禿頭の男が立っていた。
    「墓場へようこそ。しかし、槙村さん、あなたを埋葬しようというのではありませんので、ご心配なく」
    男は槙村にスラブ訛りの残る、しかし、達者なドイツ語で下手な冗談を言った。
    「ここはコンスタンティノープルのテオドシウスの城壁の外になります。先ほどご覧になったエユプ・スルタン・ジャーミーはオスマン・トルコがコンスタンティノープルを征服後、最初に建てたモスクです。戦勝記念というわけです。エユプというのは、ムハンマドの側近だった男、アッユーブのトルコ語化したものだそうです。アッユーブは7世紀にコンスタンティノープルを攻撃したアラブ軍に加わって戦死、この地に埋葬されたと伝えられています。伝説では、オスマン・トルコ軍がコンスタンティノープルを征服する直前、ここでアッユーブの墓を発見して大いに鼓舞された。そういうことで、オスマン朝はことのほかこのエユプを崇拝し、やがて聖地となったこのモスクの周りで永遠の眠りにつきたいと願う人が続出し、この一帯は広大な墓地になっていきました。申し遅れました。私の名はワレンチン。ワーリャとよんでくださればもっとうれしい。槙村中佐。そうよばせていただいてよろしいでしょうな。日本では家族でない限り個人名ではよびあわないと聞いておりますので」
    ワレンチンが言った。槙村はワレンチンと握手を交わしながら答えた。
    「ええ、それで結構です。お目にかかれて光栄です。では、さっそくですが、情報交換の実務に入りましょうか」
    「1938年のことですが、ゲンリフ・サモイロヴィッチ・リュシコフというソ連軍人がソ連・満州国境で日本軍に捕らえられたことはまだご記憶でしょう」
    「ええ、もちろん。日本だけでなく世界の新聞で記事になりました。リュシコフは東京で記者会見し、新聞や雑誌が彼の手記を掲載しました」
    「その後、彼についての報道がパタリと途切れてしまいましてね。リュシコフが最近どこでどんな暮らしをしているのか、同胞として知りたいと思うのですよ」
    「東京のソ連大使館からは報告がないのですか」
    「東京の大使館からは、アプヴェールのカナリスがリュシュコフ尋問のために部下を東京に派遣したと報告があった。日本とドイツの情報機関がリュシコフから何を聞き出したのか、われわれもまたそれを知りたいわけでして」
    「そのことならあなたがたはすでによくご存知と思う。リュシコフはソ連内務人民委員部
    GPU極東長官です。そのような特別の地位にある重要人物を日本が拉致できるわけがない。リュシコフ将軍のほうから日本に接触してきた。その動機はスターリンのテロルから逃れるためだと彼自身が説明しています。ソ連の要人がスターリンのテロルの恐怖に怯えて、西洋に亡命する事件は山ほどある。ソ連要人が逃亡先に日本を選んだのは珍しいことだが、彼の勤務地から最も近い外国が満州国だったからだ、と彼は言っている」
    ワレンチンは無言のままで槙村の言葉を聞いていた。槙村とワレンチンは墓地の木陰のベンチに座っていた。ワレンチンの部下が二人とはすこし距離をおいて、墓地の中であたりを警戒していた。木洩れ日があり、丘を吹き抜ける風がさわやかだった。
    「リュシコフはスターリンの粛清が共産党や赤軍の幹部だけでなく、一般人にも及んでいると話したそうです。その粛清がついには彼にも及んでくる気配があったと、リュシコフは説明した。リュシコフ自身、ソ連極東地域での粛清の責任者だったから、スターリンの粛清の恐怖は数多く見聞している」
    槙村は日本で読んだ新聞や雑誌の記事で知っていることを話した。
    「日本はリュシコフから日本国内をはじめ極東におけるソ連情報機関について聴取したわけだ」
    「彼がどんなことをしゃべったのか、それについては君たちのほうもそれなりの感触を得ていることだろう。だが、日本ではリュシコフについて別の見方もされている。リュシュコフが日本に亡命してきた翌年の1939年には満州国とモンゴル人民共和国の国境近くのノモンハンで、日本軍とソ連軍が交戦した。日本側は否定しているが、この武力衝突でどうやら日本は完敗したらしく、モスクワで停戦協定を結んだ。ノモンハンの戦い以後、日本ではソ連と一戦交えようという機運が薄らいでいる。ソ連としては極東部での日本からの攻撃の心配が減ったわけだ。ノモンハン事件とリュシコフから日本が得た情報と何か関連があるのか、あるいは関連はまったくないのか、私は知らない。そこで、ワレンチンさん、うかがいたいことがある」
    槙村がワレンチンの目を見つめながら言った。
     

    2020.05.28 Thursday

    『だまし絵のオダリスク』   第39回

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      「ユダヤ人問題はヨーロッパの宿痾ですね」
      槙村が言った。
      「キリスト教徒とユダヤ教徒の共存と敵対の長い歴史があります。ヨーロッパのキリスト教社会においては、ユダヤ教徒はことあるごとにかっこうのスケープゴートとして政治的に利用されています。ヒトラーは反ユダヤ主義をナチズムへの支持拡大に利用しています。ワイマール共和国は、ユダヤ人に牛耳られていた。ユダヤ人はマルクス主義者で、国際金融資本や西欧帝国主義の走狗であり、ドイツ国民に過酷な戦後賠償をおしつけている元凶だったと民衆を扇動するわけです。まったくもってナンセンスな話なのですが、そのような口からでまかせの言辞がすんなりと聞く人の耳に入るということが、今の時代の危うさをよくあらわしています」
      ロンカーリが応じた。
      「ベルリンで聞いたのですが、最近ルーマニアではユダヤ人の農民は土地を、企業家は会社や工場をとりあげられ、路頭に迷っているそうですね」
      「そうした人々がパレスティナに向かおうとしているのです。だがこれもまた命がけの苦難の旅路です。昨年の12月でしたか、三五〇人ほどのユダヤ人難民を乗せてパレスティナに向かっていた船がマルマラ海で座礁して沈没しました。救助された人は百人ちょっとで二百人以上が死亡、あるいは行方不明になりました。痛ましいことです。また去年の11月にはミロス号とパシフィック号という名の二隻の船が一八〇〇人ほどのユダヤ人を乗せてハイファの港に着いたのですが、イギリスの高等弁務官が彼らに上陸許可を与えませんでした。イギリスはパトリア号というフランスの遠洋定期船を借り上げて、そのユダヤ人全員をモーリシャス島に追放しようとした。11月下旬、さらに一隻の移民運送船アトランティック号がハイファに入港した。イギリスはアトランティック号の移民もパトリア号に移し始めた。そのときパトリア号が爆発して沈没しました。移民のモーリシャス移送を阻止しようと、シオニストの組織ハガナが仕掛けた爆弾が爆発したのです。二五〇人以上のユダヤ人移民が溺死してしまいました。私たちは困難な時代に生きています。圧倒的な時代の波に皆が押し流されています。そんな時代だからこそ、みんな人それぞれできることをやらねばならない。時代と環境に翻弄されつつも自分を見失うまいと懸命に生きていたお二人は時代の灯火でもあったのですが、まことに残念です」
      ロンカーリは槙村に再び丁寧なお悔やみを言って、槙村の心の波立ちを鎮めようとした。だが、槙村の心の痛みは激しさを増すばかりだった。
      「ところで、警察から田川とチチェキの殺害事件について何か情報提供をもとめられましたか」
      槙村が尋ねた。
      「いいえ。何も。私はカトリック信者だった田川さんのためにただ祈りをささげただけです」
       槙村はロンカーリのバチカン公館を辞した。ロンカーリが槙村を玄関先まで見送り、二人は握手を交わした。
       槙村はボスポラス海峡の海岸方向へ向かった坂道をゆっくり下っていった。少し後ろを誰かが歩いてくる気配があった。尾行が始まったな、と槙村は思った。槙村はそのまま五〇メートルほどのんびり坂道を下り続け、右手の狭い道路に曲がった。そこには乗用車が二台とまっていた。うち一台の車のそばに男が三人立っていた。一人が車のドアを開け、一人が槙村の腕を抱え込み、一人がタオルで槙村の口を覆い、彼を車の中に押し込んだ。
      イケメン・メフメトの部下二人がロンカーリの家を出た槙村を尾行していた。だが、二人は槙村が不意に横丁を右に折れるのを見た。二人がその横丁の角に急いできたとき、二台の黒いセダンが走り去るのが見えた。一台は坂道を上ってイスティクラル通りの方向へ、一台は坂道を下って海岸通りへ去った。
      「それにしても手際のいい拉致だな」
      一人が感心したように言った。
      「課長にこっぴどくしかれられるだろうな」
      若い方が心配顔で言った。
      「命令はあの日本人の尾行で、護衛ではない。尾行の失敗はありふれたことだ。気にするな」
      年配の方が落ち着いた声で答えた。

      2020.04.07 Tuesday

      『だまし絵のオダリスク』   第38回

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         槙村は6月5日の午前中にアンジェロ・ジュセッペ・ロンカーリ大司教を表敬訪問した。ロンカーリはバチカンのトルコ・ギリシャ地区代表だった。
         両親がカトリックだったので、田川は幼児のころに洗礼を受けていた。トルコに着任してからロンカーリと面識をえたらしい。田川が死体で見つかったとき、ロンカーリは警察の死体置き場にやってきて田川のために祈ってくれた。槙村は3月にイスタンブールに来たとき、ロンカーリに会ってお礼の挨拶をしたいと思ったのだが、あいにくとロンカーリがギリシャに出張中で会うことができなかった。
         ロンカーリが住宅兼務所として使っているバチカンの公館は、パーク・ホテルやドイツ領事館からほんの数ブロックのところにあった。それはイスタンブールにおけるローマ法王の代理人の公館にしては慎ましやかな二階建てだった。ドアをノックするとすぐさまロンカーリ自らが笑顔で現れた。槙村は朝一番にロンカーリに電話を入れ、午前10時の面会の約束をもらっていた。
        ロンカーリはでっぷり肥った背の低い五〇代後半の男だった。槙村と握手を交わした右手は肉厚だった。ロンカーリはイタリアの農村出身で、いまにもカンツオーネを歌い出しそうな陽気な感じだった。もっとも、そういった印象は槙村のステレオタイプなイタリア理解から生じたものだったかもしれないのだが。
         イタリアでムッソリーニが台頭してきた1920年代半ば、ロンカーリはムッソリーニとそのファシズム運動について批判的だった。ムッソリーニと友好関係を築き、それによってバチカンのイタリアにおける地位の確立をめざそうとしたバチカン指導部は、ロンカーリを煙たがり、彼をブルガリア駐在の法王外交使節に任命してバチカンから遠ざけた。ロンカーリはブルガリアで1925年から10年間にわたって地味な仕事を続けた。1934年、バチカンはロンカーリをトルコとギリシャにおける法皇代理人としてイスタンブールに送り込んだ。
         ケマル・アタテュルクの世俗主義を掲げるトルコ政府が、公共の場所で聖職者用の服を着ることを禁じていたので、ロンカーリは街中では、カトリック聖職者の服ではなく黒っぽい地味な背広にめだたないネクタイ、中折れ帽、という普通の市民の服装をしていた。ロンカーリはトルコのカトリック教会の儀式にトルコ語を導入することでトルコ人のカトリックを見る目をやわらげようとつとめ、各国の外交関係者と親しく交わってバチカンのための外交情報を集めた。使節館では数人の若い神父がロンカーリを補佐した。使節館には自家用の車がなかったので、ロンカーリはステッキをもってイスタンブールの街を歩いた。
        ロンカーリはカトリック教徒であるドイツ大使フランツ・フォン・パーペンとも良好な関係を維持するようつとめていた。ロンカーリはギリシャのカトリック教会も管轄していたので、2ヵ月に一度はギリシャへ旅行していた。ドイツ軍はいまやギリシャもおさえており、ギリシャ旅行にはドイツの協力が必要だった。またロンカーリはナチスの迫害を受けているユダヤ人を救い出す運動にも関わりはじめていた。この運動のためにも、ドイツ大使と友好的な関係を維持しておく必要があった。一方、フォン・パーペンの方もロンカーリを通じてバチカンの態度をドイツに対して友好的な方向へ変える工作をしようと考えていた。そこでフォン・パーペン大使夫人もときおりロンカーリが管轄するカトリック教会を訪れては、花を飾ったり掃除を手伝ったりしていた。
         

        「田川さんには何度かお会いしています。一度はここにチチェキさんといっしょにお見えになったことがありました」
        「そうですか。チチェキ嬢ともお知り合いでしたか」
        「チチェキさんは生命の危険にさらされているユダヤ人の救出活動に参加していました。田川さんはチチェキさんが取り組んでいたユダヤ人難民救済の活動に理解を示し、できる範囲でそれを手伝っていたようです。あの二人は素敵なカップルでした。二人はやがて祝福を受けて結婚するものと私は見ていました。こういう時代でなかったなら、きっと幸せな夫婦として一生をまっとうできたことでしょう。悲しいかな、人は生まれる時代を選ぶことができません。警察が田川さんの死を大使館に連絡し、大使館は田川さんからわたしの名前を聞いていたらしく、どなたか田川のために祈ってくれる神父を紹介してもらえないだろうかと私の事務所に電話がありました。それを聞いて、私自身で出向いたわけです。槙村さん、お悔やみ申し上げます」
        「ありがとうございました、大司教閣下」
        「ロンカーリとお呼びください」
        「ロンカーリさん、あなたもまたユダヤ人救出活動に協力なさっているとお聞きしていますが……」
        「困難な仕事ですが、生死の境で立ち往生している人が近くにいたなら、できる限りの手をさしのべたくなるものです。ドイツ占領下の国から、ユダヤ人をトルコ経由でパレスティナに出国させるためには、通過する国のビザが必要です。ですが、これらの国々はトルコ入国ビザがない限り通過のためのビザを発給しません。パレスティナを統治しているイギリスがこれらのユダヤ系難民をパレスティナに受け入れると保証しないと、トルコ政府は入国のためのビザを出しません。こうした戦時下ですから、お役所仕事はさらに時間のかかるものになっている。各国政府に可能な限りの協力を求めること、難民が生き延びるために必要な物資を提供すること、ユダヤ人救出の仕事は多岐にわたっています。まず、ナチスの支配地域から脱出してくるユダヤ人難民はイギリスにとって有益な軍事情報の提供者になりうるといって、イギリス政府にユダヤ人のパレスティナ受け入れを促進させること。ついで、イスタンブールからパレスティナまでの移動ルートの確保。ひとつはハイダルパシャ駅から鉄道でシリアへたどりつき、そこからパレスティナに向かう陸路による脱出。イスタンブール港に大型船舶を用意して海路パレスティナに向かうルート。赤十字など関係機関も努力していますが、このルート確保がなかなか難しい。また、運よくイスタンブールまでたどり着けた難民は、次の輸送ルートが確保できるまで、イスタンブールで暮らさねばなりません。彼らのために衣食住を提供しなければならない。チチェキさんが主としてやっていた活動は、イスタンブールに到着した難民の生活の手助けでした」

         

         

        2020.03.22 Sunday

        『だまし絵のオダリスク』    第37回

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           その夜、槙村はパーク・ホテルのレストランでモニカと食事をともにした。窓際のテーブルだった。芝生の庭の向こうにボスポラス海峡の夜景が見えた。海峡に灯火が瞬いていた。開け放たれた窓から夜風が忍び込み、テーブルの上の明かりを揺らせた。揺れる火影がモニカの顔を照らした。槙村はモニカを見つめた。
          「ベンの書店であなたを見かけて驚いたわ」
          「そうか。やはり君はわたしに気づいていたのだね。あれはわたしがちょうどベンを訪ねようとしたときのことだ」
          「でも、タダシ。ベンのことをどこで聞いたの」
          「ああ。それは口にしないと約束してしまった」
          「スタイナウアー教授、カナリス提督、それに私の三人がベンを訪ねていたことにさぞ驚いたでしょうね。あの時、あのあたりにはドイツ情報機関の要員だけではなく、イギリスやトルコの情報部機関員、それに警察の私服も集まっていたわ。あなたは彼らにも目撃されている」
          「やはりあの人がアプヴェールのヴィルヘルム・フランツ・カナリス提督だったのか。なるほどね」
          「カナリス提督はスペインがお気に入りなの。レコンキスタのあとスペインから追放されたユダヤのセファルディムがイスタンブールへ移住してきた。そのさい彼らがもってきたといわれる稀覯本がベンの店にあるというので買いに行ったの。ユダヤ人はイスラム教徒支配下のスペインで暮らしていたけれど、キリスト教徒がスペイン全土を支配することになると、イスラム教徒が支配するイスタンブールへ逃げてきた。ユダヤ人にとってはイスラム教徒よりキリスト教徒の方がつきあいにくかったわけね」
          「ところで、モニカ。スタイナウアー教授はなぜ君たちといっしょだったの」
          「スタイナウアー教授はドイツから亡命してきて以来、ユダヤ人救出作戦に尽力している。反ナチの教授はイギリス諜報部にとって利用価値が高い。SDは彼のことをイギリス側のエージェントだとみなしているわ。彼には離婚した前妻との間に娘がいるの。その娘はいまドイツ占領下のオランダへ移っている。その娘をいわば人質にしてSDはスタイナウアー教授にイギリスから得た情報をドイツに提供するように脅迫している。いつ娘の身にユダヤ人迫害の手がのびてくるか、彼は気が気でないのよ。SDもゲシュタポも刑事警察も親衛隊SS傘下の国家保安本部の組織の一部になり、国外諜報部門でドイツ国防軍の諜報機関アプヴェールと対立している。そのことを知っているスタイナウアー教授は、SDからの脅迫のことをアプヴェールのイスタンブール支部に連絡して来た」
          「だが、教授はイギリスとも通じているんだろう?」
          「そう。スタイナウアー教授はイスタンブール大学の著名な国際法学者であり、イギリスのエージェントであり、情報提供者になれとSDに脅されているユダヤ系ドイツ人でもある。でも、カナリス提督が彼に会うことについては、何の問題もないというのがアプヴェールの見解だわ。きょうベンの書店でスタイナウアー教授がカナリス提督といっしょにいるところをイギリス情報機関のエージェントが見ているはずよ。スタイナウアー教授はドイツとイギリスの二重スパイで、どちらに軸足を置いているかわからない人物だ、という風聞が広がれば、イギリスは教授が提供する情報を疑いの目で見るようになる。きょうからスタイナウアー教授はイギリスの情報協力者としては、英語でいうレイム・ダックになったわけなの。あとはせいぜい、ドイツとイギリスの双方が相手方をかく乱する目的、だめもとで偽情報を流す窓口に使う程度の道具になってしまったわ」
          「そういうことか。ついでにアプヴェールはスタイナウアー教授から、彼がSDに何を求められたのかを聞き出したわけだ。場合によってはSDの対アプヴェール工作を探るアンテナにしようとしているわけだ」
          「スタイナウアー教授にしたところで、オランダにいるお嬢さんを救出するには、イギリス諜報機関よりもアプヴェールのほうが頼りになると判断してのことでしょう。それが今の彼にとって何よりも大事なことだから。それに、SDともアプヴェールとも連絡がとれるというのは、彼が取り組んでいるユダヤ人救出活動にとってはプラスの要素になる可能性もある。スタイナウアー教授にとってまんざら悪い会見ではなかったはずよ」
          「ちょっと待ってくれないか、モニカ。日本からやってきた田舎者には、すぐには理解できないことなのだけれど、アプヴェールやSDと連絡がとれると、それがなぜユダヤ人救出活動にプラスに働くの?」
          「ドイツだけでなく世界のユダヤ人には二つの考え方をするグループがあったわ。一つはいま暮らしている国で同化の努力をしようというグループ。いま一つは新しく自分たちの国をつくっていま暮らしているところから出て行こうとする政治的シオニストのグループ。ドイツからユダヤ人を追い出したいヒトラーと、ドイツから出て行って自分たちの国を建設したいというグループが、協定を結んで、ユダヤ人をパレスティに送り出す運動を始めた。30年代の中ごろのことだわ。ドイツの国内にパレスティナ移住のための訓練キャンプも設けられた。ユダヤ人がパレスティナへ移るにあたって、ドイツから財産を持ち出すことも許されたわ」
          「その協定とやらは今でも有効なのかい」
          「今度の戦争開始で自然消滅したわ。でも、ナチ政権の内部には、ユダヤ人の物理的消滅を唱える人もいる一方で、引き続きパレスティナへの移送を続けるべきだという意見もあるようよ。シオニズム運動の指導者がこんな演説をしたことがあるわ――もし、ドイツにいるユダヤ人の子どもをイギリスに連れてゆけば全員を生きながらえさせることできるが、もしパレスティナに連れ出せば子どもたちの半分しか生き残らない、と仮定しよう。子どもが半分しか生き残らないとしても、パレスティナに連れて行く。子どもたちの命だけでなく、イスラエルの民の歴史というものも尊ばなければならないからだ。そういう考え方を正しいと思う人たちがいる。彼らにとっては、ドイツがユダヤ人を圧迫すればするほど、近隣の国がユダヤ人の受け入れを拒めば拒むほど、パレスティナの人口は増え、ユダヤ人国家の樹立が近づくわけ。スタイナウアー教授は熱烈なシオニストよ。彼はドイツにとって利用価値があり、シオニストであるスタイナウアーにとってドイツはまだ利用価値がある。パレスティナのシオニストの中には、ドイツよりもパレスティナへのユダヤ人移住を阻んでいるイギリスの方を敵視している人たちもいるわ」
          「正義を行わしめよ、たとえ世界が滅ぶとも、と言うのがヨーロッパの古い格言だったけれど、いまでは絵空事なんだ」
          「日本人って、そういう発想法をするの? シオニストにとっては、民族の半分を失おうとも、自らの国家を建設することが正義なのよ。世界はそれほどすさまじい所なのよ。つくづくいやになるけれど」
          モニカのブルーの目が少し潤んでいるように槙村には見えた。
          「しかし、カナリス提督自らがトルコにやってきたということは、トルコでもSDの影響力がアプヴェールの領域を侵食し始めているということだね」
          「SDのハイドリヒはアブウェールを国家保安本部の組織の中に組み込み、完全にナチ党の情報機関にしてしまう計画を進めているわ。今回の日本外務省の暗号電報漏洩の件に関連して、国家保安本部はゲシュタポのヨーゼフ・マイジンガー大佐を東京のドイツ大使館に送った。ドイツの暗号電報が盗み読みされていないか、大使館内の情報管理の点検が目的だそうだけれど、じつは、大使館員や大使館出入りの人物の身元調査もやるみたい。たとえば、オイゲン・オット大使の私設顧問のような役割をしているリヒヤルト・ゾルゲという東京駐在の新聞記者の身元に不審な点があるとかで、それを調べるといったようなこともやるそうよ。ゲシュタポお得意の人をおとしめるためのでっちあげ捜査よ」
          「カナリス提督も大変だね。イギリスと情報戦を繰り広げる一方で、ナチ党の情報機関もおさえこまねばならない」
          「どこの国にもある官僚体制内の勢力争いにすぎないのだけれど、当事者にとっては笑い事ではないはずよ」
          そういって、モニカはテーブルの上に出ている槙村の手を握った。
          「ところで、ベンから何か聞き出せたの?」
          「殺された日本大使館員田川一郎の田川の叔父だ。田川の死について何かご存知であれば、教えていただけないだろうか。そう切り出したのだが、ベンは、日本大使館員がトルコ人の女性といっしょに死んでいたことは、新聞を読んで知っているが……。しかし、君はどういうわけで、彼らの死について、私が新聞記事以上のことを知っていると推測するのかね……。その一点張りでね。らちが明かず、やがてベンのほうもイラついてきて、お引き取り願えないのであれば、警察に連絡することにしよう、と言い出すしまつさ。結局、何も聞きだすことができないまま、引き揚げることになってしまった」

           

          2020.03.15 Sunday

          『だまし絵のオダリスク』    第36回

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             槙村はイケメンのオフィスを出た。
             イケメンは電話から受話器を取り上げた。電話に出た部下にイケメンが命じた。
            「槙村中佐がこれからスタンブール・ブックスへ行く。槙村の監視と、必要な場合には保護を徹底してくれ。槙村の尾行には槙村と店主のベンの双方に顔を知られてない部員を出してくれないか。そうそう、イギリスの諜報機関も槙村を監視しているらしいので、イギリス側の情報機関に顔を知られていない者を頼む。ところで、ケーブル殺しが槙村中佐の復讐であるという可能性についての警察の捜査はどうなっている……ああ、そう。なるほど。彼の犯行の可能性はないわけだね。3月3日に入国した中国人のこと? 何のことだ、それは? ……うん、思い出した。中華民国のパスポートで入国した男だな。そうか、ロンドンへ行く途中の蒋介石の中国国民党員だったか。わかった。ありがとう」
             

              槙村はグラン・バザールの前で、サハフラル・チャルシュスの位置を地図で確認したうえ、通りがかりの女性に「サハフラル・チャルシュス?」と尋ねた。女性はトルコ語を早口にしゃべりながら、グラン・バザールの入り口を指差し、次に左に折れるしぐさをした。槙村はそのゲートから市場の中に入った。通路を左折してまっすぐ進むと別のゲートがあり、そこから屋根付きバザールの外に出だ。屋外には安物の衣料品を売る屋台がずらっと並んでいた。ここも買い物の人で混雑していた。
            「サハフラル・チャルシュス?」
             槙村の声に露天の男が奥のほうを指差した。人の流れに従って歩き続けた。
            すると、突然、本屋が集まっている一角に出た。サハフラル・チャルシュスの古本屋街だ。目と鼻の先にイスタンブール大学があるので、本の半分は大学生相手の学術書や辞書・辞典類、教科書など。残り半分が、東ローマ帝国やオスマン・トルコについての歴史書、美術書、それに宗教関係の本だ。稀覯本らしいものと骨董品のような品物もあわせて売っている。
             このあたりがイスタンブールの古い出版物センターだった。東ローマ帝国の時代には紙と本の市場があった。オスマン・トルコがコンスタンティノープルを攻略した後、ターバンの市場にかわった。本屋はグラン・バザールの屋根つき部分に店を移していた。だが、18世紀になったころから再び本屋がここに集まり始めた。18世紀の後半からオスマン朝が印刷・出版の制限緩和を行ったことで、19世紀から20世紀のはじめごろまで、ここがイスタンブールの、つまりはトルコの出版文化の中心となった。
             だが、1930年代ごろから出版業の中心が新市街に移りはじめた。同時に新刊書を扱う大手の書店が新市街の、特にイスティクラル通りに開店するようになった。サハフラル・チャルシュスは出版文化の中心から古本バザール街へと姿を変えつつあった。トルコのチャリング・クロスだった。
             しかし、この古本バザールはなんだか心おちつく場所である。小さな構えの店が肩を寄せ合って一見雑然と並んでいるが、それでいてどこかしっとりとした落ち着きがあった。
            白猫が一匹、槙村の足元を抜けてとある本屋の店先へ向かった。店の看板に「スタンブール・ブックス」とあった。
            その店に槙村が向かおうとしたとき、店の中から女が出てきた。
            モニカ・コールだった。槙村はとっさに通りの反対側の書店の中に入って、書棚から本を抜き出してページをめくった。槙村はスタンブール・ブックスの店先に目を凝らした。
             モニカに続いて古本屋からスタイナウアー教授、さらに昨日ドイツ領事館で見かけた小柄で白髪の初老のドイツ人が並んで出て来た。槙村は注意ぶかくあたりに目を凝らした。スタンブール・ブック周辺にはボディーガードと思われるような男女がさりげなく古本あさりを演じていた。
             モニカが緊張した表情でこちらを見た。
             初老のドイツ人は本のような紙包みを小脇に抱えていた。
            「ありがとう、ベン。やはり来てみるものだね。長年探していた本に巡りあえるとは」
            男は英語でそういいながらあいている右手をベンに差し出した。ベンがその手を握り返して言った。
            「お買い上げありがとうございます」
             モニカとスタイナウアー教授、それと初老の男がイスタンブール大学のほうへ通りを抜けて行った。身辺警護の要員らしいドイツ人の男女が姿を消すのをみとどけてから、槙村は身を隠していた書店から通りに出た。
            槙村は急ぎ足でサハフラル・チャルシュスを抜けた。イスタンブール大学前のベヤズト広場へ出た。広場は東ローマ帝国時代からイスタンブールの中心の一つだった。槙村はかたわらのベヤズト寺院に入っていった。
             モスクのなかでは数人の人がお祈りをしていた。窓際の明かりを頼りに、書見台の前に座って部厚い本に読みふけっている若い男の人の姿があった。イスラム学者だろうか。読んでいる本はコーランだろうか。それとも、イスラム神学の研究書だろうか。グラン・バザールの喧騒がよその世界のように感じられる。それは静けさ――気どって静謐という言葉を持ち出したくなるほどだった。
             槙村はモスクの内部の床にべったりと座り込んで、二〇分ほど気持を落ち着かせた。モニカとスタイナウアーとあの初老の男。彼らはベンとどのようなつながりがあるのだろうか。
             十分ほどたってから槙村はモスクを出た。モスクの周りには鳩が群れていた。ベヤズト・ジャーミーはイェニ・ジャーミーと並んで、昔から鳩の多いモスクだといわれてきた。槙村はサハフラル・チャルシュスにもどり、スタンブール・ブックスの店内に入って行った。

            2020.03.08 Sunday

            『だまし絵のオダリスク』    第35回

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              「スルクレにはジプシーの音楽を聞かせたり、例の妖艶な踊りを見せたりする小屋があちこちにあって、好事家が集まるイスタンブールの名所になっています。チンピラのグループに写真を運んだジプシーの男は姿を隠しています。ま、いずれ捕まえることになると思いますが」
              「そのジプシーの男に写真を運ぶよう頼んだのはだれですか」
              槙村がしびれを切らせて尋ねた。
              「ヤセミン――トルコ語でジャスミン――とよばれるイスタンブールの闇の組織の幹部だったと、チンピラどもが口を割った。ヤセミンというのは、イギリス、ドイツ、ソ連、相手かまわず金になるのなら危ない仕事を引き受ける組織です。われわれの知る限り、組織というよりは、各国の情報・工作機関の下請けをしている個人業者のゆるやかな連合体といったほうがあたっているかもしれない。チンピラどもの供述では、まず、電話で殺しの依頼があった。殺しのやり方と請負金額について折り合いがついたところで、ジプシーの男が写真を持ってきて、殺しの実行については後で正式に依頼するので、準備をして待っていてくれ、と言った」
              「チンピラたちは依頼者とじかにあってはいないのですか?」
              「必ずしもじかに会う必要はなかった。殺しの依頼者とアルメニア人の暴力組織の間にはヤセミンがいて、ヤセミンが双方を結びつけ、双方に対して保証人の役割をしている」
              「ヤセミンに所属するその男とは何者ですか」
              思わず槙村が身を乗り出した。
              「その男はディミトリオスとも呼ばれています」
              そう言ったあとイケメンがくすくす笑い出した。
              「なんだ、冗談か。まるでいま評判のエリック・アンブラーの小説ですな」
              「冗談はさておき、槙村中佐。ヤセミンの手がかりは何もないのですよ。あるのは、そのような闇の組織があるという噂だけです。そのうえ、捕まえたチンピラたちは、殺しの依頼はあったが、前金の届く前にピーター・ケーブルが殺されたのであっけにとられた、と話している。おれたちは誰かにはめられたのだと言っている」
              「煙幕としてチンピラたちを利用したわけですか」
              槙村がため息をついた。
              「ピーター・ケーブル殺しの手際のよさはチンピラやくざの仕事とは思えない。人殺しの訓練を受けた奴らの手になるものでしょう。オメル・アシク警部はそういう意見だ。それで、われわれはイギリス、フランス、ソ連の情報機関の周辺でうろちょろしているエージェントを内偵しているところです。たとえば、槙村中佐、あなたのお知り合いのムス・スルタンと名乗る紳士もその一人だ。それから、イスタンブール大学のスタイナウアー教授の影も見え隠れしている。だが、この二人はこの事件に関係のないことがわかっている」
               槙村は緊張した。そうか、やはりイケメンはわたしをずっと監視下においていたのか。だが、わたしを監視下に置いている理由はなんだろうか?
              「情報機関が相手ですか。それはちょっと大変な仕事ですな」
              槙村が揶揄するような口調で言った。
              「そこで槙村中佐、その大変な仕事にあなたが一役買ってくださるとありがたいのです。旧市街地のサハフラル・チャルシュスに古本や骨董品を売っている店があります。その店のおやじをわれわれはいま内偵中です。彼との直接的な接触はひかえ、慎重な監視下において泳がせている」
              「なるほど。それでわたしに何をしろと?」
              槙村はイケメンの表情になにやら柔らかな挑発のようなものを感じた。
              「槙村中佐、あなたにやっていただきたいのは、その店を訪ねてもらうことです。殺された田川の叔父だが、彼の死の理由について、なにか情報を持っていないかと、店主に質問していただきたい。それだけで結構です。揺さぶりをかけて、つぎに彼がどう動くかを見ようという作戦です」
              「では、その骨董店がどこにあるか教えてくれませんか」
              「サハフラル・チャルシュス」
              「どこにあるかを聞いている」
              槙村がじれったそうに言った。
              「旧市街地にあるグラン・バザールをご存知だと思う。グラン・バザールとベヤズト・ジャーミーの間に挟まれた狭い路地がサハフラル・チャルシュスです。オスマン帝国時代の本屋街で出版街だった。現在では本屋も出版社も新市街に移転しはじめている。どちらかといえば斜陽の街になり始めているところだ。このところ古本だの骨董品だのを取り扱う店がふえ,古書店通りになりつつある。そこにスタンブール・ブックスという、骨董品が半分、古本が半分、といった構えの店がある。店主はベンとよばれている男です。あの界隈ではベンで通っている。若いころ一旗あげようとアメリカへ渡ったのだ。どういう事情があったのかは知らないが、一〇年ほど前にイスタンブールに帰ってきて、古本屋を譲り受けて商売をしている。英語は流暢なもんだ」
              「わかった。行って見よう」
              槙村が強い口調で言った。
              「保安本部や警察の名前は口にしないでいただきたい。イギリスでもいい、ロシアでもいい、ドイツでもいい、日本でもいい、どこかの情報機関から手に入れたネタによる、ということにしておいてくれないか」
              「承知した。では、これから行ってくる」

              2020.02.23 Sunday

              『だまし絵のオダリスク』   第34回

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                イケメン・メフメトが疲れた表情で椅子から立ち上がって槙村を迎えた。防諜・治安関係の仕事は陰鬱なことが多々ついてまわり、普通の神経の持ち主であれば耐え難いようなこともあるのだろう。非人間的な判断や行動を日常の業務で強いられる仕事は人間の気持を蝕む。

                前日の夕方にホテルのフロントに、「明日午前9時、私のオフィスまでおいで願いたし。イケメン・メフメト」と槙村あての伝言があった。6月3日午前9時ちょうどに槙村はイケメン・メフメトのオフィスをたずねた。

                「イスタンブールを舞台にした諜報戦の概略についてはすでにご説明したはずです。先月末、外国の情報機関の下請けをやっているアルメニア人の組織を手入れしました。といっても統制の取れた組織というわけではなく、情報機関が使い捨てにする、チンピラが寄り集まっただけの暴力組織なのですが。このグループのたまり場になっているのは、ペラ地区の裏通りにある紅灯街の売春バーの一つでしてね。女が街頭に立って客引きをしたり、二階の窓から顔を出したりして呼び込みをするようなところです」

                 イケメン・メフメトの説明によると、こういうことだった。

                 5月30日金曜日の夜のことだった。三〇歳がらみの西洋人の男がペラ地区の裏町を探索していた。これはいいカモだと狙いをつけたチンピラが男にからんで金をゆすろうとした。西洋の男はチンピラの威勢のいいトルコ語はまったく理解できなかったが、チンピラのあやしげな英語は理解できた。西洋人の男はにやにや笑うばかりで、いっこうにらちがあかない。そこでチンピラはポケットから折りたたみナイフを取り出した。ナイフの刃はおさめたままで、それを自分の首にあて、前後に動かして切るしぐさをしてみせた。

                 そのとたん、西洋人の男の硬くにぎりしめた大きな拳がチンピラの顔面に炸裂した。チンピラは一発で路上に倒れ、気を失った。警察がやってきて、チンピラと西洋人の男から事情聴取した。チンピラをなぐった男は元アメリカ合衆国陸軍の軍曹で、アマチュア・ボクシングでは軍内のランキング三位までいった男だった。というわけで、なぐられたほうのチンピラは鼻の骨をおり、歯も二本ほどがグラグラになっていた。

                 警察は恐喝未遂容疑でチンピラを逮捕し、病院で応急手当を受けさせた。翌31日朝、チンピラから詳しい調書を取ろうとしているときだった。脹れあがった青黒い顔で、大目に見てくれるのなら面白い話を聞かせてもいいと、チンピラが取調官に言った。取調官はお前たちが面白いといっている話に、本当に面白いものがあったためしがない、と一蹴した。

                 するとチンピラは、ピーターなんとかというイギリスの新聞記者が殺された事件が面白くもなんともないというのかい、と取調官に毒づいた。

                 取調官はいい加減な話に違いないとは思ったが、大事をとってこのことを警察本部の殺人課に連絡した。連絡を受けた殺人課の刑事は念のためオメル・アシク警部と連絡を取った。オメル・アシク警部が部下の殺人課刑事ともどもこのチンピラから事情聴取を行った。意外なことにチンピラが語った内容には、ひょっとすると本当のことではなかろうかと刑事たちに思わせるところがあった。

                 ピーター・ケーブル殺害の直後、警察はアルメニア人の犯罪グループの犯行だという匿名のたれこみを受けていた。事件の直後にはこの手のいい加減な情報がたくさん寄せられる。電話を受けた警官は一応その情報をメモにして上司に提出したが、そのときはまともに検討してみようということにはならなかった。

                そうしたいきさつもあったので、いちおう手入れをしてみるだけの値打ちがあるとふんだオメル・アシクはその日の夕暮れ、三〇人の警官を動員してアジトを包囲した。建物の表口と裏口をそれぞれ一〇人の警官が固め、一〇人がアジトに踏み込んだ。

                 場合によっては銃撃、少なくともナイフをふりまわす程度のたちまわりはあるかもしれない、と予想していていたのだが、結果はあっけないものだった。アジトの部屋の中には六人の若者がいた。彼らはびっくり仰天といった表情で、踏み込んだ警官の指示に従って素直に警察署に連行された。

                「アジトを捜索したところ、こんな写真が出てきた」

                イケメンが槙村に一枚の写真を示した。

                写真は横七センチ、縦五センチほどのモノクロ写真の複写で、ピントはあまかったが、ピーター・ケーブルが写っていた。

                「この写真はパーク・ホテルの庭でとられたものだった」

                イケメンが説明した。

                ピーター・ケーブルは椅子にすわりテーブルに両手をおいて、顔をレンズの方向に向けていた。その顔に笑みはなく、しごく真面目な表情をつくっていた。ボスポラス海峡と対岸のユスキュダラの丘陵が背景に写っていた。

                「この写真から何かつかめたのでしょうか」

                槙村が写真から目をあげてイケメンを見つめた。

                「捜索のさいつかまえた六人の男を、いまオメル・アシク警部の部下が絞りあげているところだ。チンピラどもの供述では、この写真はスルクレのジプシーの男から五月中旬に渡されていた。スルクレは旧市街地側のファティフ地区のテオドシウス城壁近くにある、ジプシーが多く住む地区です」

                イスタンブールにはビザンティン時代からジプシーが流入していた。ジプシーはイスタンブールを通って、ギリシャ、バルカン北部、さらには西ヨーロッパのスペインまで広がっていった。スルクレにジプシーが住み始めたのはオスマン・トルコがコンスタンティノープルを征服したあとのことだが、スルクレはジプシーが定住生活を始めたもっとも早い例の一つとされている。

                 

                2020.02.11 Tuesday

                『だまし絵のオダリスク』   第33回

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                   二人はシュレイマン大帝のモスクを出て、坂道をエジプシャン・バザールの方へ下っていった。
                  「私がトルコにやってきたのは、パーペン大使暗殺計画の情報があったためなの。大使館の要人警備態勢を点検するチームがベルリンからアンカラに送り込まれた。警備そのものは私の仕事ではないのだけれど、このさい大使館の情報管理の点検もしておいたほうがいいだろうということになって、防諜部門の人たちと一緒にアンカラに来たわけ。それに、アンカラとイスタンブールの情報工作の現況を評価するのも仕事の一つ」
                  「ドイツ大使暗殺計画だって? たしかな話なのかい。狙っているのはイギリス? ソ連? それともドイツに占領されているバルカンのどこかの国の地下抵抗組織?」
                  「実は、ソ連らしいの。去年メキシコでトロツキーがピッケルで頭を突き刺されて暗殺されたでしょう。スターリンが送りこんだあの暗殺実行チームを取り仕切っていた男がトルコに潜入して、パーペン大使を狙った暗殺計画の準備を進めている。そういう情報をモスクワのアプヴェールのエージェントが手に入れた。一〇人ほどのメンバーがトルコに入っているそうよ。もちろんこの情報はトルコ政府の治安当局にも通報したわ。これからしばらくの間、パーペン暗殺計画をめぐって神経質なさぐりあいが繰り広げられることでしょう」
                  「それらしい話はアンカラでベルゲンから聞いた。ベルゲンは標的がパーペン大使だとまでは言わなかったけれど」
                  モニカはしばらく口を閉ざして、ボスポラス海峡を見下ろしていた。
                  「ところで、タダシ、あなたの旅行はどうだったの? あなたの甥ごさんの死について何か新しいことがわかったの?」
                  「いや、彼の死をめぐる謎はちっとも解けないままだ。このまま迷宮入りするのではないかと心配している」
                  「そうなの」
                   モニカは田川の死にかかわる槙村の調査結果についての話題をあっさり打ち切った。
                  「イスタンブールであなたに会ったら知らせようと思っていたことがあるの。それは日本の外交暗号通信の内容がアメリカで漏洩した問題について、ドイツ政府が日本政府に伝えなかった部分。その情報というのはね。日本の外交通信の内容が漏れている原因は、誰かが何らかの目的で情報を流しているのではなくて、アメリカが日本の外交暗号通信に直接割ってはいって、傍受した暗号通信を解読しているから、ということ」
                   坂道をぶらぶら下りながら、モニカが槙村に語り開けた。モニカは槙村の右腕に自分の左腕を回して、槙村を見つめながら小声で語り続けた。
                  「ああ、その可能性は最初から議論されていたよね。でも、情報漏洩の原因が日本の外交公館の機密保持のたるみによるものではなく、暗号解読であるとドイツ側が判断した理由は何だろうか」
                  「ドイツ政府は日本政府に対して理由を明らかにしてこなかったけれど、アプヴェール内部でささやかれている内幕話を最近耳にしたの。こういうことらしいわ」
                   石畳の割れ目につまずいてモニカの体がちょっと揺れた。
                  「足もとに気をつけて」
                  槙村が言った。
                  「ええ。ドイツが日本に伝えていない詳細はこういうことらしいの。駐米ドイツ大使館の大使代理のハンス・トムゼンが駐米ソ連大使コンスタンチン・ウマンスキーと会見中に、アメリカ側が日本の外交暗号を解読し、その内容の一部をソヴィエトに流していることを知った。ウマンスキーはトムゼンに、ドイツがソ連攻撃を計画していると非難したそうよ。そのなかで、ウマンスキーはドイツのソ連攻撃計画を、ベルリンの大島大使が発信した暗号電報を解読したアメリカ側から耳打ちされたことをほのめかした」
                  「ずいぶんうかつなソ連大使だね。ちょっと信じられないが」
                  「ウマンスキーはワシントン駐在の各国大使の中では最年少で、それだけに外交的老練さ、あるいは狡猾さにまだ磨きがかかっていなかったのでしょう」
                  「トムゼンからベルリンにこの件で連絡が届いたのはいつのこと」
                  槙村が尋ねた。声は殺しているが、苛立ちの気配があった。
                  「4月28日だとされているわ」
                  「ドイツ外務省から大島大使に連絡が行ったのは5月初めだったよね」
                  「ええ、そうよ」
                  「大島大使はそのことを5月3日に東京に打電したと聞いている。したがって東京から駐米大使には数日内に連絡しているはずだ」
                  「それからもう一ヵ月になるわね。タダシ、今度の旅行で何か感触はつかめたの」
                  「ああ、わたしの感触は暗号が解読されているのではなかろうか、というものだが、その裏づけがいまひとつ弱いのだ。ソ連大使館の情報担当者らしい人物から、あって話がしたいと申し入れがあった。近いうちに接触してみようと思っている」
                  「そうなの。代替暗号システムを使ったほうがいいと、本国に進言するまでの証拠がまだないわけね」
                  モニカがそっけない調子で言った。坂道の金物屋の店先に立っていた職人らしい風体の年寄りが、モニカと槙村に向かって笑顔を向けた。モニカがそれに笑顔で応えた。
                  「ここをもう少し下ってゆくと、エジプシャン・バザールに出る。そこに有名なコーヒー店があるそうだ。喫茶店ではなくて、コーヒー豆を売っている『メフメト・エフェンディ焙煎コーヒー店』という店。それまではコーヒー豆は生のままで売られていて、買った人が自分で焙煎し、粉にひいていた。それをフェンディが焙煎し、さらにひいて粉にしたコーヒーを店頭で売ることを思いついた。今から70年ほど前のことです。エジプシャン・バザールのエフェンディのコーヒー店の前に、コーヒーの香りが立ち込めて、店は大繁盛。今ではエフェンディの子どもたちが店を引き継いでいる。そこでコーヒーを買い、ホテルに帰って、本日の締めくくりに香り高いトルコ・コーヒーをたてよう」
                  槙村が明るい声でモニカに言った。
                   Darling, I am growing old
                   Silver threads among the gold
                  坂道を下りながら、モニカが19世紀末から20世紀はじめにかけてアメリカで大流行した歌を小声で歌い始めた。歳をとり、金髪に白髪がめだち、人生は足早に色あせてゆくけれども、いとしい人よ、あなたはいまでも私ひとりだけのもの、という歌詞だ。モニカの声はアルトで、英語の歌詞にはかすかにドイツ語のなまりがあった。槙村はモニカがいとしくてたまらなかった。

                   

                  2020.02.01 Saturday

                  『だまし絵のオダリスク』   第32回

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                    「女性は権力から遠く、愛に生きる者、というのは、男の側の勝手な幻想なんだね。機会さえあれば、男も女も同じようなことをやるわけだ」
                    「そういうこと。19世紀にアングルが描いた『グランド・オダリスク』は今ではルーブル所蔵の名品だけど、毒にも薬にもならないオツム空っぽの、ただひたすらに官能的なだけの女のイメージは、西ヨーロッパ人がいだいているオリエントに対する幻想なのよ。これはアンカラでドイツ大使館の館員とお昼を食べているときに聞いた話なんだけど、実際のトプカプのハレムは暗く陰惨な権力闘争の舞台だった。オスマン・トルコのハレムも、昔の中国の後宮と同じように、権力をめぐる陰謀の臭気で窒息しそうなところだった」
                    「幼いころ奴隷として買われ、ハレムに囲い込まれ、オダリスクとよばれる小間使いをやっているうちに、ハレムの陰謀術を身につけるわけだ」
                    「一種の生き残り競争ともいえるわ。彼女たちの中の選ばれたものが、歌舞音曲や文芸、さらには愛の技法も教えられて、スルタンの目にとまるのを待っている。その奴隷の娘がスルタンの寵愛を受け、やがてスルタンの子を産み、その子どもが次のスルタンになることで、彼女はヴァリデ・スルタン、つまり「スルタンの母」として宮廷での権力を掌握する。この目標を目指してハレムの女たちは執念を燃やした。スルタンの子を生んだ性奴隷は、黒人宦官長や、宰相や、西欧からやってきた外交使節など野心にみちた取り巻きを利用し、同時にまた彼らに利用されるといった謀略の渦の中で生きたそうよ。そのうえ、トプカプ宮殿のハレムは人口過密で衛生状態が悪く、しばしば疫病が発生したらしい」
                    「そうだね。その話はどこかで聞いた。宮廷がトプカプからドルマバフチェに移った理由のひとつは結核だったという説……」
                    「19世紀中ごろのマフムト二世、アブドゥル・マジトの親子のスルタンはどちらも結核をわずらって死んでいるわ。メフムト二世の子で、アブドゥル・マジトの異母兄弟の、スルタン・アブドゥル・アジズは結核では死ななかったけれど、彼の宰相たちの宮廷クーデタで退位においこまれたうえ、ある日変死体になって発見された。外交公館の医師も加わった医師団が死因を調査し、自殺と結論したものの、それを信じる人は少数で、多くの人は暗殺説を支持した。アブドゥル・アジスの身内が、暗殺の首謀者と思われる高官を復讐のために殺した。しかし、すぐさまこの復讐劇は、その実力者の高官を抹殺する目的で、彼の競争相手が仕組んだものだとうわさされたわ」
                    「今の時代にふさわしい殺伐としたテーマだ。スルタンの宮廷はとんだパンデモニウム(伏魔殿)だったわけだ」
                    「グランド・オダリスクの背後にある深い闇。ハレムに囲いこまれていた奴隷にはトルコ系以外女性が多かったので、オスマン・トルコ帝国の支配者スルタンのトルコ系としての人種的遺伝子は、皮肉なことに代を重ねる度にどんどん影が薄くなってしまった」
                    「日本の徳川将軍は全部で十五人いてね。そのうち正式な妻から生まれたのは、三人の将軍だけだった。残り十二人は側室という正妻以外の妾(ネーベンフラウ)の子だった。本で読んだことがある。日本の場合、鎖国中だったので将軍のハレムに外国人の女性はいなかった」
                     モニカの顔とアングルが描いたグランド・オダリスクの女の顔が、ふと重なって槙村に見えた。

                     

                    2020.01.26 Sunday

                    『だまし絵のオダリスク』   第31回

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                      6月2日月曜日の朝、槙村は医師の診断を受けた。異常はみあたらないということで無事退院した。迎えに来てくれたモニカとパーク・ホテルに帰った。シャワーを浴び着替えたあとモニカと朝昼兼用の食事を済ませた。
                      「月曜日のこの時間、ここであなたがわたしといっしょにのんびりしているということは、傷病兵見舞いのための休暇がとれたわけだね。どうやら頭もすっきりした。散歩にでも行こうか」
                      「ガラタ橋を渡るとき丘の上に見えたどっしりとした構えのシュレイマニイェ・ジャーミーへ行ってみない」
                      「いいね。気晴らしにイスタンブールの休日でも始めるとするか」
                      槙村が暢気な声で言った。
                       槙村はホテルの前にとまっていたタクシーを拾った。坂道を下ってボスポラス海峡沿いの道路に出て、海岸沿いの道をガラタ橋方向に進んだ。タクシーがガラタ橋を渡るとき、シュレイマニイェ・ジャーミーの威容が見えた。タクシーはガラタ橋を渡り終えてしばらく直進して右折、細い坂道を登っていった。間もなく高いミナレットと巨大なモスクがせまってきた。
                      「モニカ、これがお待ちかねのスレイマニイェ・ジャーミーです。東ローマ帝国時代のキリスト教聖堂ハギア・ソフィアをモスクに改修したアヤ・ソフィア、オスマン朝のアフメト一世が建築を命じたスルタン・アフメト・ジャーミーこと通称ブルー・モスク、シュレイマン一世のシュレイマニイェ・ジャーミー、この三つがイスタンブールの三大宗教建築物です」

                      「ケルンの大聖堂とどちらが高いかしら」

                      モニカがまぶしそうな表情でミナレットを見上げてつぶやいた。
                       シュレイマニイェ・ジャーミーのテラスから二人は金角湾とボスポラス海峡を見下ろした。風が二人をつつんだ。白と赤の小さな花柄をあしらった紺地のワンピースを着たモニカの亜麻色の髪がかすかに揺れ、逆光のもとで光った。こういう戦争の時代でさえなければ、と槙村は思った――だが、かりにこのような時代でなかったとしたらなら、槙村がモニカに会うことはなかっただろう。
                      「シュレイマン大帝が命じたこのモスクはブルー・モスクより半世紀前に完成した、とベルリンの図書館で読んだ『イスタンブールの歴史的建築』という本に書いてあったわ。シュレイマニイェ・ジャーミーができたのは16世紀中ごろ。ブルー・モスクの完成は17世紀前半。シュレイマニイェ・ジャーミーはシナンという建築家の手になり、ブルー・モスクの方はシナンの弟子が建てたそうよ」
                      「パリのノートルダム大聖堂の完成より2世紀ほどあとだ。ケルンの大聖堂はそのころ建築中だった。人間はなぜ巨大な建物や高い塔を建てたがるのだろうね」
                       モスクに入ると、その内部の空間は予想外に明るい光につつまれていた。ドームには数えきれないほどの窓がくりぬかれて、そこから光がおしげもなく、たっぷりと礼拝場に差し込んでいた。
                      「イスタンブールのモスクはスパイたちの連絡場所に使われているそうよ。おたがい観光客をよそおってモスクで接触するんだけれど、ときに顔見知りのスパイ同士が鉢合わせして、どぎまぎしあうこともあるらしいの。でも、このモスクはスパイたちの密会場所にしてはすこし明るすぎるわね」
                      「女スパイと男スパイの勤務時間外の密会にはちょうどいい明るさだ」
                      シュレイマニイェ・ジャーミーはモスクを中心に、イスラム神学校、病院、調理室、食堂、庭、墓地などの多くの施設で構成されていた。礼拝室の背後に墓地があった。二人はモスクを出て、墓地に入っていった。そこにはシュレイマン大帝とその妃ヒュッレムの墓廟があった。
                      「ヒュッレムはヨーロッパではロクセラーナの名で知られているのよ。そっちの名前のほうが通りがいいの。ロクセラーナはウクライナ出身のスラブ系のキリスト教徒で奴隷だったそう。シュレイマン大帝の寵愛をうけて、シュレイマンの子どもを五人も産んだ。そのかいあって、彼女は奴隷の身分からから正式の后へと昇格した。オスマン朝ではスルタンが法的に正式な妻を持つのは異例なことだったといわれているわ。ロクセラーナの方も、シュレイマンの寵愛にすがっているだけではなくて、自らも権謀術数を駆使して権力の座への道を開いたそうよ。シュレイマンと第一妃ギュルバハル・スルタンとの間に生まれた世継ぎ候補のムスタファが反逆を計画しているとシュレイマンに吹き込んでムスタファを殺させた。ムスタファはスレイマンの子どもたちの中で最もすぐれた人物だったといわれていた。賢者が中傷の果てに殺され、愚者が生き延びる。王朝の歴史ではよくあることだけど、聞くたびにむなしくなる話ね。このほか、ロクセラーナは権力の階段をのぼるために、さまざまな陰謀をめぐらせたらしいの。そうやって最後にはシュレイマンの統治手法にまで影響を与えるようになった」


                       

                      2020.01.14 Tuesday

                      『だまし絵のオダリスク』   第30回

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                         女の顔がおぼろげに見えた。別れた妻の顔だった。なぜか槙村はかつて妻だった女の名前を思い出すことができなかった。槙村はターラントの沖で溺れかけていた。ロープで救助艇に引き寄せられていたが、そのロープを引っ張っていたのが彼女だった。いや、よく見ると、モニカの顔のようにもみえた。槙村とその女の視線が交わったとき、女は握っていたロープをさっと放してしまった。

                         槙村はワーと大声をあげた。そのとき意識がもどった。
                         モニカ・コールが槙村の顔を覗き込んでいた。

                        「パーク・ホテル近くのドイツ病院よ」
                         モニカが優しくささやいた。
                         ベッドの回りに日本大使館のイスタンブール駐在の館員とイスタンブール警察本部のオメル・アシク警部もいた。
                        「痛みがありますか? 検査の結果、頭蓋骨に損傷はありませんでした。必要なのは今夜一晩の安静だけです。ホテルへもどるより病院で泊まったほうが安心でしょう。パーク・ホテルほどのホスピタリティーは期待できませんが」
                         医師が槙村に説明した。
                        「槙村さんに二、三質問してもいいでしょうか」
                        オメル・アシクが医師に尋ねた。
                        「患者が嫌がらなければ、OKですよ」
                        「ホテルの従業員の話では、槙村さんがホテルにお帰りになったのは午後6時すぎだとか」
                         オメルが英語で質問した。
                        「そのとおりです」
                         しゃべると槙村のあたまにズキンと尖った痛みが走った。
                        「部屋にたどり着くまでに、誰かの姿をみましたか」
                        「ロビーには数人の人がいましたが、部屋に通じる廊下には人影はありませんでした」
                        「部屋には鍵がかかっていましたか?」
                        「かかっていました。私はゆっくりとキーを回してドアを開けました」
                        「ドアを開けるとき何か変わったことに気づきませんでした?」
                        「いえ、何も」
                        「ドアを開けたとき、だれか人の姿をみませんでしたか」
                        「人の姿は見ませんでしたが、部屋が散らかっているので、ハッとした瞬間、後ろからなぐられました」
                        「なぐった犯人の姿を見ましたか」
                        「いいえ。そのまま気を失ったようです」
                        「槙村さんをなぐった犯人は部屋を物色していたようです。スーツケースがあけられていました。中に入っていた書類が床に取り出されていました。ワードローブが開けられて、上着やレインコートのポケットがさぐられていました。金目当てではなく、文書のようなものを狙っていたと思われます。なにか貴重品を部屋の中においていましたか?」
                        「いえ、現金類はフロントの金庫に預けています」
                        「そうですか。なにか盗まれそうなものの心当たりは?」
                        「そういわれても思いあたるものがありません。あす部屋に帰ったら点検して、その結果をご連絡しましょう」
                        「そう願います。とにかく狙われたものが槙村さんのお命でなくてよかったです」
                         そういってオメル・アシク警部は病室から出て行った。
                        「槙村さん、私も失礼します。御用があったらいつでも連絡してください」
                         大使館員も出て行った。
                         残ったモニカと槙村はしばらく見詰め合っていたが、やがてモニカの顔に笑みが浮かび、つられて槙村も表情をくずした。シーツの上に出ている槙村の手をモニカが握った。槙村もモニカの手を握りかえしたが、痛みが腕から頭へと走った。
                        「タダシ」
                         モニカが槙村の名を呼んだ。
                        「モニカ、会えてうれしいよ。ベルリンで言っていたとおりに、イスタンブールで会えてよかった」
                        「アンカラに用があって来たの。その用件がすんだのでベルリンに帰るまえに、イスタンブールであなたに会おうと思って。外出から帰ってきて、フロントであなたのことを聞いたら、病院ですと言われてびっくりしたわ。でも、ひどいことにならなくてよかった。トルコでやる仕事はあと三、四日で終るわ。そのあと一週間ほど休暇をとってのんびりイスタンブール見物でもしようと考えたのよ。この話はあとでゆっくりしましょう。いま8時だわ。まず、ゆっくり休むことね。夜が明けたら迎えにくるわ。退院してホテルに帰りましょう。私、明日は休みを取ることにするわ」
                        モニカは槙村の手をぎゅっとにぎりしめ、槙村の唇に軽くキスをしてから病室から出て行った。
                         

                        2019.11.22 Friday

                        『だまし絵のオダリスク』   第29回

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                           マルマラ海に浮かぶビュユック島のアフメト・エルキンの別荘に一泊して、槙村は6月1日の日曜日の朝の船で島を発った。正午ごろ槙村はエミノニュの埠頭で船をおり、そこでムス・スルタンと別れた。槙村はぶらぶらとシルケジ駅の方へ歩いていった。
                           シルケジ駅と道路を挟んで向かい側にある菓子屋兼喫茶店に入って、トルコ紅茶とペーストリーを頼んだ。槙村はペーストリーをちぎって口に入れ、砂糖ぬきのトルコ紅茶を飲んだ。トルコのパンは素朴なおいしさがあり、お菓子の方も甘さの極致といった味わいだが、この店のペーストリーはひたすら甘いだけで、ざらついた舌ざわりだった。槙村はそれとなく周囲をうかがった。店のなかにも店の外の道路にも、槙村を尾行しているような人影はなかった。われながらスパイ入門の初級コースの演習をやっているようなくすぐったい気分だった。
                           槙村は喫茶店を出て、シルケジ駅前で客待ちしていたタクシーに乗ってパーク・ホテルに帰った。フロントで「領事館まで電話願いたい。マクシミリアン・ベルゲン」という伝言メモを渡された。ベルゲンは土曜日の夕刻と日曜日の朝の二度電話かけてきていた。槙村は部屋に入って荷物をおき、ドイツ領事館のベルゲンに電話をかけた。
                          「日曜日におよびたてして申し訳ないが、お見せしたいものがある。そうだな、午後3時、領事館にわたしを訪ねていただけないだろうか」
                           ベルゲンが言った。
                          「いいとも。ホテルのすぐ隣だ。では、3時に」
                           槙村が答えた。
                           午後3時、ドイツ領事館の玄関まで迎えに出てきたベルゲンに案内されて、領事館の廊下に入ったとき、初老の小柄な男がオフィスに入ろうとしていた。彼はドアを開け、部屋に入る前にベルゲンと槙村の方を振り返った。槙村はその男がかすかに微笑んだような気がした。
                          「ベルゲンが槙村を2階のオフィスに案内した。オフィスの大型作業デスクに書類がいくつかおかれていた。二人の男が立ちあがってベルゲンと槙村を迎え入れた。
                          「さっそくですが、これまでに集めた情報から、アルメニア系の反トルコ組織が田川さんの殺害に関わったと思われます」
                           二人の男のうち年かさの方がベルゲンよりも槙村にむかって報告した。
                          「われわれがアルメニア人組織の中に潜らせているエージェントからそのような報告が寄せられています。イスタンブール警察も同じような結論に達していると予想されますが、なにしろアルメニア問題はここでは爆弾のようなものですから、トルコ政府はその情報をいまのところ伏せているようです」
                           トルコは19世紀末から20世紀はじめにかけて、当時のオスマン帝国内に暮らしていたアルメニア人を二度にわたって迫害している。1890年代にロシアの支援を受けて民族主義運動を開始し、反トルコ色を鮮明にしたアルメニア人を、アブドゥル・ハミト二世が迫害した。第一次世界大戦中には、青年トルコ党政権がアナトリアからアルメニア人を追放しょた。このときの混乱で数百万人のアルメニア人が命を失ったとされている。第一次大戦が終結すると、アルメニア民族主義者がアルメニア人の国家の建設をもくろんだ。この運動はトルコの領土を守ろうとするケマル・アタテュルクのトルコ革命軍と、アルメニアを社会主義化しようと目論むロシア赤軍によって打ち砕かれた。
                          「田川とアルメニア人との間にどのような遺恨があったというのですか」
                           槙村が説明してくれた男に聞き返した。
                          「いや遺恨ではなくて、アルメニア人の組織は依頼を受けて殺人を請け負ったのではないかとわれわれは考えています。トルコと日本・ドイツ・イギリス・ソ連のあいだに相互不信を起こさせ、トルコの立場を揺さぶるのが目的でしょう。アルメニア人の組織の犯行とトルコ政府が発表すれば、そのときは適当な理由をでっち上げて、トルコによる過去のアルメニア人大量殺害事件の記憶を世界に呼び戻させるだけのことだ、と彼らは考えたのです」
                          「われわれにわからないのは、なぜ田川さんが標的になったか、という点です。田川さんは、何ゆえにそれほどの重要人物だったのでしょうか? 槙村さん、ご存知なら教えてください。報告書は持ち出し禁止ですので、この部屋でお読みください。メモも取らないでください。コーヒーでもさしあげましょう。では」
                           ベルゲンはそう言って槙村と握手し、年かさの方の男とともに部屋を出て行った。部屋には槙村と若い方の男の二人だけになった。トルコ人の職員がコーヒーポットとカップをもって部屋に入ってきた。槙村はたっぷり2時間かけて報告書を熟読した。
                           午後6時過ぎパーク・ホテルにもどると、フロント係りがこぼれるような笑みを浮かべて槙村にルームキーを差し出し、メッセージをお預かりしていますといった。伝言用紙には「このホテルに泊まっています。モニカ」と書かれていた。筆跡はモニカのものだった。
                           槙村の目にパーク・ホテルのロビーが急に明るく輝いて見えた。槙村は階段を二段とびでかけあがり、自室に急いだ。槙村が自室のドアを開けたとき、部屋の中がさきほど出て行ったときと違うことに気がついた。思わず一歩部屋の中に入った瞬間、後頭部に激しい衝撃を感じ、槙村は目の前が暗くなるのを感じた。
                           

                           

                          2019.11.10 Sunday

                          『だまし絵のオダリスク』    第28回

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                            「ムス・スルタンから聞いたのですが、槙村さんは最近、ギリシャではなく、イタリアへお出かけになって、イギリス軍のターラント奇襲攻撃の現場を視察なさったとか」
                            アサノヴィッチが言った。
                            「ええ、あれは私のような海軍軍人にとっては非常に興味をそそられる作戦です。これまでの大艦巨砲主義の戦艦同士の一騎打ちから、空と海の戦いに転換した画期的な出来事でした。戦争における航空機の優位性については、アメリカ陸軍のウィリアム・ミッチェル将軍が盛んに唱導してきたもので、日本でも主として駐米武官を経験した軍人たちの中に、このミッチェルの兵学に共鳴する者がいる。それはたしかです。ただいえることは、航空戦力第一主義の兵学思想は日本ではまだ少数派で、態勢作りにしてもまだ研究段階といえるでしょう。それに、航空機による戦術を研究しているのは日本だけではありませんよ」
                            槙村が答えた。するとアサノヴィッチがたたみかけてきた。
                            「リスボンのイギリス諜報部の幹部が、日本はシンガポール奇襲攻撃の準備をしているのではないかと気をもんでいるという話を耳にしました。彼らが言うには、日本はイタリアやドイツにターラントに関する資料収集のための協力を求めた。どうやら水深の浅いターラント軍港での航空機からの魚雷攻撃のやり方を熱心に研究しているようだ。その調査のために、日本が武官をターラントに派遣した」
                            「ははは、それは貴重な情報をありがとうございます。ベルリンに帰ったらさっそくシンガポール奇襲攻撃作戦を検討するよう東京に提案してみましょう。しかし、そもそもシンガポール港に奇襲に値するほどのイギリス艦艇が集結しているのでしょうかね。そのあたりはよく調べてみるだけの値打ちがあると思いますよ。ところで、皆さんはこうした軍事情報の専門家でいらっしゃるのですか」
                            槙村が尋ねた。
                            「わたしとアフメト・エルキンは貿易商です。マルコ・アサノヴィッチも似たような商売をリスボンでやっています。このたびは輸入商品の選別のためにイスタンブールに来ました。トルコの絨毯を仕入れるのか、あるいは別の商品に目をつけているのか、よくわかりませんが。いずれにせよ、われわれ貿易商人は時の政治動向と無縁ではいられないわけでして。武器商人などはその典型でしょう。つまり、情報というのは諜報員にとってはそれが商品そのものですが、われわれ貿易商人にとっては、それは必ずしも商品ではありませんが、取り扱う商品が利益を生み出すか損失を招くか判断するために不可欠な判断材料でありまして……。それやこれやで、まるでスパイのように国際機密情報について過敏に反応するのですよ」
                            ムス・スルタンが落ち着いた低い声で槙村に説明した。それを受けてアフメト・エルキンが口を開いた。
                            「いまの時代、外交官だけではなく、鉄道員、船員、貿易商、技術者、新聞記者、亡命者、難民など国境を跨いで移動する人々が、いろんな国の情報機関に目をつけられ、エージェントに仕立てあげられています。哀れな下請け諜報労働者ですよ。われわれが貿易でもうけるために仕入れた情報の中には、情報そのものに値段がつくものがたまにあります。そうした情報を買いたいという組織があれば、われわれは市場原理にもとづいて、偏見なしにいい値段をつけた方に売り渡しています。また、実際の作戦のお手伝いをすることもあります」
                            「そうだね。1939年のポーランドの金塊輸送はいい商売になった。槙村中佐、ご存知ですかな。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したのは9月1日でのことで、これが今度の大戦の始まりですが、ドイツがポーランドに侵攻してくる直前に、ポーランドの中央銀行にあった75トンの金塊が銀行のスタッフによって持ち出されました」
                            ムス・スルタンが懐かしい思い出を語るような口調で話し始めた。それを受けて、アフメト・エルキンが続きを話し始めた。
                            「ポーランド銀行の人たちは、金塊を列車に積み、バスに乗せ、トラックに積みかえて、ルーマニアの黒海に面した港町コンスタンツァへ向かった。ドイツがポーランドに攻めこんだ9月1日、黒海のバクー油田に向かっていたイギリスのタンカー『イーオシーン』に急遽コンスタンツァに入港するよう連絡が入った。港にはイギリスの領事が待っていて、バクーの石油の代わりに、間もなくここに到着することになっているポーランドの75トンの金塊を運びだしてくれとイーオシーン号の船長に頼んだ。船長は気風のいいイギリスの船乗りで、なんて名だったかな」
                            アフメト・エルキンがムス・スルタンに言った。
                            「ロバート・ブレット。ポーランド中央銀行の人たちは、中央銀行から金塊が輸送されたことを知ったドイツ軍の追跡をなんとか振り切って、9月15日に金塊をコンスタンツァまで運びこんできた。ブレット船長は金塊を積みこむや、船を反転させて黒海をボスポラス海峡へ向かい、海峡を抜けてイスタンブール沖まで無事に金塊を運び出した。イギリスとフランスがトルコと協議したすえ、金塊を陸路でイスタンブールからベイルートまで運び、そこからフランスの軍艦でフランス経由ロンドンに運んだ」
                            ムス・スルタンはそういって、ブランデーのグラスを目の高さにあげ、槙村を見て微笑んだ。
                            「ロンドンに着いた金塊は、ポーランド亡命政府の資金になりました。金塊をイスタンブールから貨物船でイギリスに輸送する手もあったが、地中海でUボートに攻撃され金塊が海底の黄金になるおそれがあった。それで金塊を列車で陸路シリア経由ベイルートまで送る準備のお手伝いを頼まれたのですが、その報酬は思いのほかよいものでした」
                            アフメト・エルキンが話を締めくくった。
                            「ところが、最近では、そうした爽快な秘密工作が少なくなり、伝統的なスパイ芸術とは無縁の色仕掛け、脅迫、盗み、といった即物的な手法で目的を達成しようとする傾向が強まっています。彼らの副業も味気なくなってきているのですよ」
                            アサノヴィッチが揶揄するような口ぶりで言った。
                            「そういうことであれば、冒険ではありませんが、結構な商売のタネをお教えしましょう。ターラントでのイタリア側の失敗は、十分な魚雷防御網をもっていなかったことです。ターラントでは1万3千メートルほどの魚雷防御網が必要だったが、イタリアはその三分の一の4千メートルほどしか設置していなかった。加えてこの魚雷防御網は古いタイプのもので、魚雷が戦艦の側面にあたって作動し爆発する接触型の信管を使ったものには有効だったが、イギリスが開発した戦艦の下で爆発する磁気型信管を使った魚雷には役立たなかった。新型魚雷に対抗できる魚雷防御網をつくれば、これはいい商売になると思います。ご参考までに」
                            槙村は3人の諜報業者を揶揄し、彼らの表情をのぞきこむような目つきで言葉をつないだ。
                            「ところで、先ほどリスボンのイギリス情報部の幹部が、日本が武官をターラントに派遣したと言っているのを耳にした、とおっしゃいましたが、わたしがターラントへ出向くことがリスボンのイギリス情報部まで伝わっていたことには驚かされました。わたしをターラントで見かけたとおっしゃるムス・スルタンさんがイギリスに連絡なさったのでしょうか」
                             三人の男が一瞬息を呑んだ。
                            「いやいや、これはわたしの話に説明不足なところがあったようです。イギリスのターラント攻撃は去年11月のことで、私がリスボンで日本が武官を派遣したという話を聞いたのは今年1月上旬でした。したがって、ムス・スルタンがターラントで槙村中佐を見かける以前のことです。イタリアの日本大使館付武官のことではないでしょうか。それにイギリスはことのほか諜報戦を好む国です。ターラントにもエージェントをおいているでしょうし、空中に飛び書く無線通信もアメリカと協力しあって傍受・解読して、盛んに各国の動向をさぐっています」
                            アサノヴィッチがごく自然な声で言った。
                            「情報戦の最前線にいる奴らは命がけで情報を集めているのだが、集められた情報がどのように利用されているかという点では、愚劣なところなきにしも非ず、でしてね。ヒトラーは情報を検討して戦略を決めるのではなくて、自分の頭にある戦略を支持してくれるような都合のいい情報を優先して受け入れている、とアプヴェールの面々は嘆いているそうです」
                             アフメト・アルキンが話を受けた。
                            「ヒトラーだけではないさ。日本がソ連極東部への攻撃をすぐさま実行することはないだろう、という情報は、各国の情報部からスターリンに届いているはずだ。また、ドイツがいずれソ連攻撃に踏み切るだろうという警告も、自国の情報機関や英米の情報機関からも受けている。しかし、英米の情報機関はスターリンが情報機関のいうことに耳を貸そうとしないと嘆いている。チャーチルがスターリンに親書を送って、ドイツのソ連攻撃が近いと警告したけれど、スターリンはソ連を対ドイツ戦争に引き込もうとするイギリスの陰謀だと言って無視した。そういう情報があることも聞いている。日本の暗号が解読されている可能性についてはどうなんでしょうね、植村中佐?」
                            ムス・スルタンが切り込んできた。
                            「大方の暗号は解読されている。第一次世界大戦中のツィンマーマン電報がいい例だ。ドイツの外交通信の暗号がイギリス側に傍受され解読されてしまった事件。この業界でメシを食っている人ならみんな知っている」
                             植村が退屈を装って反応した。
                            「ああ、メキシコがドイツ側について参戦してくれれば、アメリカ合衆国がそのむかしメキシコから奪ったテキサス、ニューメキシコ、アリゾナの三州をアメリカから奪還してメキシコに与えるという条件で、メキシコに働きかけよという内容の、ドイツ本国からアメリカ大使経由メキシコ大使あての暗号電報でした。「イギリスが解読した暗号電報はアメリカに渡された。アメリカ合衆国政府がこのツィンマーマン電報を公表しので、もともとドイツ潜水艦による船舶無制限撃沈宣言などで高まっていたアメリカ国民の反ドイツ感情がさらにあおり立てられることになった。この暗号解読が、アメリカが連合国側について参戦する要素の一つになった、と本に書かれている」
                            ムス・スルタンが調子を合わせた。
                            「おっしゃる通りです、ムス・スルタン。ツィンマーマン電報以来、外交電報の傍受と暗号解読はお互い様だ、というのが常識になった。わたし自身は日本の外交電報がアメリカの手によって解読されている可能性は相当高いのではないかと思っている。アメリカによる日本の暗号解読には前例がありましてね。一九二一年から二二年にかけてのワシントン軍縮会議のさい、アメリカは日本の軍縮会議全権代表団と東京の日本政府の間の暗号電報のやりとりを解読していた。つまり、アメリカ側は日本の持ち札を知ったうえで、軍縮会議のテーブルでかけひきをするという有利な立場にあったわけだ。このとき暗号電報を解読したのは、俗にブラック・チェインバーとよばれていたアメリカ陸軍の暗号解読班だった。一〇年後の一九三一年になって、そのときの班長だったハーバート・ヤードレーが、出版した本の中でそのことを暴露した。ところが、ワシントンの日本大使館はどこかで外交電報の内容が外部に漏れた疑いはあるが、どこで、どんな電報が漏れたのかははっきりしない、と結論を出した。彼らは日本の暗号が破られるわけはないと自信満々らしい。情報の機密保持態勢を強化するにとどめただけだ。ツィンマーマン電報事件のときも、ドイツ政府は同じような結論を出した。政府は調査委員会を設けて、電報漏洩の原因を調査させた。調査のすえ、暗号は解読されたのではなく、誰かの手によってアメリカ政府に渡ったのだ、と結論した。日本がいま使っている暗号は解読が難しいものであるのは事実だ。日本政府はそれの暗号は解読不能と自負している。その自負と誇りを維持するために、暗号が解読されているという可能性を探るよりも、情報を持ち出したやつがいるとか、盗み出されたという人的理由をさがす方に、つい力が入ったのだろう」
                             植村は長広舌をつかったあと、余計なことを言わなかっただろうかと、言説を反芻し、ムス・スルタンら3 人の表情をさぐった。
                             ルマラ海に夜風が出たのだろうか。窓の外の松の枝がざわめく音がした。松籟というには音が少したちすぎた感じだった。そろそろトロツキーの幽霊が出てもいい時刻になっていた。

                            2019.11.02 Saturday

                            『だまし絵のオダリスク』    第27回

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                               二階を見に行きましょうかとアフメト・エルキンがみんなを誘った。
                               二階の窓から初夏の太陽に輝く青いマルマラ海がみえた。その向こうにイスタンブールのアジア側がみえた。その距離は驚くほど近く感じられた。槙村はこのとき初めて別荘が海岸近くの小さな丘の上に建っていることを知った。
                              「レオン・トロツキーがスターリンによって追放され、イスタンブールで亡命生活を始めたのは1929年のことでした。イスタンブールは西欧への通過点にすぎない。トロツキーはそう考えていたのですが、亡命生活は結局4年半ほどに長びきました。トロツキーが亡命したかった西欧の国々、ドイツ、フランス、イギリスなどがトロツキーの亡命を受け入れなかったためです。トロツキーはビザンティン時代の王侯貴族と同じようにプリンキポ島に閉じ込められたわけです。ここでは釣りをするぐらいしか暇つぶしがなかったので、トロツキーは著作に専念することができた。名著『ロシア革命史』はカフェスのたまものです」
                              ムス・スルタンが説明した。
                              「そうだったのですか。ところで、カフェスとは?」
                              槙村が尋ねた。
                              「鳥などを入れておくような、いわゆる『カゴ』の類をトルコ語でカフェスといいます。ですが、オスマン・トルコの歴史では、カフェスは独特の意味を持つ言葉です。それはスルタンの親族を軟禁する陰惨な制度のことでした。槙村中佐、スルタンの兄弟殺しの制度についてはもうお聞きになりましたか?」
                              「ええ、今回のイスタンブール訪問で初めて聞きました」
                              「兄弟殺しをやりすぎたせいで、やがてスルタンの後継候補の男子が減ってしまった。スルタンの血筋が消えてしまうおそれが生じたので、17世紀ごろからオスマン朝はスルタンの兄弟を殺す代わりに、トプカプの奥まったところに隔離用の宮殿を建て、そこにスルタンの兄弟たちを軟禁しておく制度に切り替えました。その隔離宮殿から出る機会は二つしかなかった。一つは運よく次ぎのスルタンになる場合。いまひとつは、死。その隔離宮殿を人々はカフェスとよんだのです。オスマン・トルコ最後のスルタンだったメフメト6世は56歳でスルタンになるまでカフェスで暮らした。権力というものはまことに人間に残酷な仕打ちをするものです」
                              アフメト・エルキンが槙村に説明した。
                               トルコ情勢に絡めて微妙な話が持ち出されたのは夕食後だった。四人の男たちは広間でそれぞれ安楽椅子やソファーに座って、ブランデーを飲み、葉巻を吹かしていた。
                              「槙村中佐、次にお見えのときは水煙草を用意しておきましょう。とはいうものの、はて、この次があるのかどうか。トルコ共和国は欧州の戦争に中立を保つ必死の努力をしていますが、こういうご時勢ですからいつ何時トルコが戦場になるかもしれない」
                              アフメト・エルキンが口を開いた。
                              「私に言わせれば、風前の灯だね」
                              リスボンからやってきたエルキンの友人だというマルコ・アサノヴィッチが、エルキンに呼応した。
                              「いまやヨーロッパでヒトラーの攻撃をまぬがれているのはスペイン、ポルトガル、スイス、スウェーデン、それにここトルコの五ヵ国だけになってしまった。イギリスはドイツから激しい空襲をうけながらも必死に頑張っているが、フランスはすでに占領されてしまった。地中海の南側ではモロッコとアルジェリアがフランスのヴィシー政府の統治下にある。ヴィシー政府そのものがヒトラーの傀儡だ。ドイツのアフリカ軍団はこの二月にリビアに上陸してイギリス軍が占拠しているエジプトへ向かっている。トルコが何とか中立政策を遂行できているのも、黒海の北にソ連があり、イギリスがイラン、パレスティナ、シリア南部を支配下においているという地政学上のバランスがあるからだ。しぶとく耐えながら徹底抗戦を続けるイギリスをこのところヒトラーは攻めあぐんでいる。ヒトラーの気持がふと変わって、その矛先をソ連に向けないとも限らない。ヒトラーがソ連に攻めこめば、トルコの中立政策を支えている条件の一つが変わってくる」
                              「しかし、ヒトラーに対英、対ソの二正面で戦争をおこなえるだけの軍事能力があるかどうか」
                              ムス・スルタンがアサノヴィッチの独ソ開戦の予想に疑問を呈した。
                              「ヒトラーがソ連に攻めこむかどうかは、日本とにらみあっているソ連極東の情勢にもよるね。日本は満州国の権益を守り、中国との戦争を遂行するために、ソ連を攻撃する気があるのかどうか。ヒトラーはソ連攻撃を始めるよう日本に催促しているそうじゃないか。ということは、ドイツは近々ソ連攻撃を始める気があるのだろう。独ソ戦が始まれば極東からヨーロッパへの陸の通路になっているシベリア鉄道の利用が難しくなってくる。日本の方々は不便をかこつことになるのでは。さて、ドイツがソ連攻撃をいつ始めるか。それを日本に連絡していることは想像に難くない。奇妙なことだが、スターリンは日本のソ連極東地区への侵攻は想定しているが、一方で、ドイツからの攻撃については、真剣に吟味してないようだ。この点について、ぜひ槙村中佐のご意見を伺いたいものですな」
                              そう言ってアフメト・エルキンが槙村の顔をじっとみつめた。
                               槙村は必死で驚きを抑えようとした。シベリア鉄道が間もなく利用できなるというのは、大島大使が東京に送ったドイツのソ連攻撃に関する一連の暗号電報で使われた予言だったからだ。偶然の一致なのだろうか。
                              「みなさんなかなかに鋭い洞察力をお持ちのようですな。政治の動向に敏感でないとヨーロッパでは商売もできないということでしょうか。それはさておき、日本の出方について、ソ連に対抗するためにまず北に向かって軍を進めるのではないかという観測があります。同時に、南のフランス領インドシナ、あるいは鉱物資源の豊かな英領マレー、オランダ領東インドを狙っているのではないかという見方もあります。このところ流布している北進論と南進論です。ですが、不思議なことに適当な妥協点が見つかれば日本は北へも南へも攻撃をしないだろうという説は、欧州ではあまり流布していないようです。ミュンヘン協定の破綻で、宥和政策に見切りをつけたためでしょうか」
                              槙村が答えた。
                              「それで日本は南北両方で戦線を開くだけの能力があるのでしょうか。あるいは、日本の軍中枢は、自分たちにその能力があると判断しているのでしょうか」
                              エルキンがたずねた。
                              「その点についは、私などよりもあなた方のほうが詳しいのではありませんか。どうやらその方面にからんだご商売をなさっているとお見受けしました。ベルリンの日本大使館に着任して以来、戦略の現場から離れていますので、感覚が鈍っています。おそらくあなた方が考えていらっしゃるように、日本は北と南で同時に戦線を開く能力をもちあわせていないでしょう。それに、現在は中国の問題をめぐって日米間で野村大使とハル国務長官の協議が始まったばかりですから、その成り行き次第では、北にも南にも攻撃をかけないという展開もありうるでしょう。それに第一、この四月に日ソ中立条約を結んだばかりですよ」
                              槙村が言った。
                              「そつのないお答えですな、槙村中佐。中佐と同じように、世間もそういう見方をしています。日本は日ソ中立条約に関係なくドイツの期待通りソ連の極東地区へ攻めこむ。あるいは、日ソ中立条約で北からの脅威が減少したので、フランス領インドシナ、オランダ領インドネシア、英領マレーに侵攻して、戦争遂行に必要な食糧、鉱物資源を抑えようとする。そうでなければ、当面、戦線は開かないものの南北両にらみの態勢で、日米交渉の成り行きを見守りながら戦争準備を整える。考えられる選択肢はその三つですが、そのうちどれの道をたどることになるか……」
                              アサノヴィッチが槙村の顔を見つめながら言った。
                              「その点については、ギリシャのデルフォイへ出向いてご神託をいただくしかないでしょうね」
                              槙村の一言でみんな笑い出した。

                              2019.10.27 Sunday

                              『だまし絵のオダリスク』     第26回

                              0


                                 トロツキーはイスタンブール沖の島に住んでいたのか、と槙村は思った。トロツキーがソ連を追われてからメキシコに移るまでの一時期、イスタンブールに住んだことは槙村も知っていていたが、マルマラ海の島だったとは知らなかった。しかし、かつて流刑地だった島であるからには、トロツキーを幽閉すると同時に、トロツキーの警備という面でも便利であったに違いない。
                                 トロツキーといい、ブルーノ・タウトといい、スタイナウアーといい、イスタンブールに逃れてきた外国人はどんな気持で暮らしたのだろうか、と槙村は彼らの私生活や感情生活に思いをはせた。
                                 槙村自身が海軍内部の勢力争いに巻き込まれて東京にいづらくなり、槙村の才能を惜しむ上層部の配慮でベルリンの日本大使館海軍武官補佐官として、ていよく東京から追い払われた。その苦い記憶が襲ってきた。
                                 槙村の妻は海軍中将の娘だったが、槙村と結婚して間もなくのころから、独身の時代からの知り合いだった陸軍将校と情事をかさねるようになった。槙村はそのことを知っていたが、知らない風をよそおって世間体を保っていた。もちろん槙村の方も妻以外の何人かの女性とねんごろになっていたのだが。
                                 1939年の暮れのことだった。ふとしたはずみで槙村は妻の浮気相手の陸軍将校と夜の銀座で殴り合いの大喧嘩をしてしまった。
                                 喧嘩両成敗で両者とも昇級停止などの処分を受けた。軍令部で切れ者として一目おかれていた槙村だったが、軍令部の上層部には槙村を生意気だと嫌っているグループがあった。彼らは槙村を軍令部からはずして連合艦隊の船上勤務に更迭しようとした。それを察知した槙村を評価しているグループの幹部が、ドイツの潜水艦戦略の研究でもして来いと、槙村をベルリン勤務に避難させた。ベルリンに赴任する前に槙村は妻からの求めで離婚した。妻は1940年の暮れに不倫の相手だった陸軍将校と再婚した。元妻の父親から槙村宛に詫び状のようなものが届いた。「私が君にほれていたほど娘は君にほれていなかったようだ。親ばかと思って許してほしい」とその手紙にあった。
                                 元妻の父親はいわゆる海軍の大角人事によって1930年代の中ごろ予備役にまわされた。大角人事とは海軍の反軍縮強硬派の大角岑生大将が海軍大臣をつとめていた1933年から1934年にかけておこなった海軍内の穏健派を一掃する人事である。
                                 海軍では1920年代初頭のワシントン会議から20年代後半のジュネーブ会議を経て1930年のロンドン会議にいたる一連の海軍軍縮会議の決定を支持する条約派と、軍縮に猛反対する艦隊派の対立が続いてきた。大角人事によって海軍の穏健派である条約派のおもだったメンバーは海軍から一掃された。条約派の若手論客だった槙村は上層部の後ろ盾を失った。
                                 大角海軍大臣の時代に日本は第二次ロンドン会議から脱退した。その大角は1941年2月、視察旅行先の中国で搭乗した飛行機が墜落して死んだ。
                                 気が付くと注文したままテーブルの上に置かれたビールがぬるくなっていた。意気消沈させる過去の記憶を槙村はその生ぬるいビールとともにのみこんだ。ボスポラス海峡に薄暮が広がっていた。対岸のアジア側の灯りや、航行する船の灯りがはっきりしてきた。

                                 5月31日土曜日の朝、若い女性が槙村を迎えに来た。
                                 トロツキーの亡命中の住宅だった別荘のあるビュユック島まで、エミノニュの港から2時間あまりの船旅だった。マルマラ海は晴天で微風、霧もなく視界が十分に確保されて、格好の航海日和だった。
                                 ムス・スルタンの友人の別荘は島の町のはずれにあった。二階建ての建物は高い生垣に囲まれ、庭には雑木が生い茂っていた。長年海風に吹かれたせいだろうか、建物の壁面のあちこちに汚れと傷みが目立った。
                                 槙村がムス・スルタンと玄関に立つと同時に、中から痩せた背の高い六〇がらみの男が現れた。
                                「レオン・トロツキーの隠れ家にようこそ。アフメト・エルキンです」
                                背の高い男が槙村に手を差し出した。
                                「槙村忠です」
                                槙村も名乗ってその手を握り返し、招待の礼を言った。
                                 案内された一階部分の中央に大きな広間があった。こぢんまりとした舞踏会ならできそうな広さがあった。広間のソファーに小柄な四〇代と思える男が座っていた。男は立ち上がって槙村たちの方へ歩いてきた。
                                「マルコ・アサノヴィッチです」
                                 テーブルの上にワインの瓶とワイングラスが無造作においてあった。アフメト・エルキンがグラスにワインを注いだ。
                                「どうぞ。間もなくオードブルもでてくるでしょうから」
                                アフメト・エルキンが話し続けた。
                                「トロツキーがこの家を借りたとき、家は無住のままで、大家も長らく手入れをおこたっていたので、壁も床も汚れ放題だったそうです。トロツキーとその家族にしても、この家は仮住まいという意識だったのでしょう、大した修理もせず住み続けました。トロツキーは二階を書斎に使い、そこで大量の論文を執筆しました。一階のこの広間を中心に、トロツキーの秘書らが事務所を構えていたそうです。ジャーナリストなど世界中から来客があったそうですが、来客の感想は、もっと住んで楽しい家にする方法があろうものを、というものだったそうです。革命家の住まいらしい乱雑さだったようです。彼らは未来を夢見るあまり、つい現在を粗略に扱ってしまうのでしょうな。革命家にとっては、現在は未来への通過点にすぎない、ということでしょうか。トロツキーがここを去った後、私が所有者からこの家を買い取りました。私もトロツキーと同じで、家を美しく飾るデリカシーが欠如しています。居心地の悪さはおゆるしください」
                                 

                                2019.10.19 Saturday

                                『だまし絵のオダリスク』    第25回

                                0



                                   槙村はアンカラでドイツ大使館のベルゲンと会ったときの記憶を反芻していた。イスタンブールのドイツ人社会はヒトラー支持派と反ヒトラー派に真っ二つに割れていると、ベルゲンは槙村に語った。
                                   反ヒトラー派の核になっているのが、ヒトラーの迫害から逃れてきたユダヤ系ドイツ人のグループだった。少なくともイスタンブール大学だけで百人を超える亡命ドイツ人学者が雇われている、とベルゲンは槙村に説明した。トルコ共和国の指導者ケマル・アタテュルクは、新しくスタートした国家からイスラム的なものを排除し、徹底した世俗政治の道を選ぶと同時に、大学近代化のため積極的に優秀な外国の学者を集めた。そうした伝統もあって、ヒトラーから迫害を受けているドイツのユダヤ系の学者がイスタンブール大学に集まることになった。トルコ政府は1921年のノーベル物理学賞受賞者アルベルト・アインシュタインにも誘いをかけた。しかしアインシュタインはアメリカに渡ってプリンストン大学に職を得た。
                                   これは槙村にはよく理解できた。明治維新後の日本も近代国家形成と高等教育近代化のために多くのお雇い外国人を雇ったからである。
                                   槙村は小さめのグラスのトルコ紅茶を飲み終えた。給仕に紅茶のお代わりを頼んだ。槙村はトルコ紅茶がすっかり気に入ってきた。
                                   そういえば、と槙村はナチ政権を嫌って日本にやってきたドイツ人ブルーノ・タウトのことを思い出した。タウトが日本滞在の経験にもとづいて書いた『ヨーロッパ人の眼で見たニッポンの芸術』といったような表題の本を、槙村はちらっと眺めたことがあった。
                                   ブルーノ・タウトはロシア革命に憧憬を感じて1932年から33年にかけてソ連で仕事をしたが、ソ連の建築家たちと意見があわずドイツにもどった。しかし、ドイツでは1933年にナチスが政権を掌握しており、ブルーノ・タウトは親ソ派のレッテルをはられてドイツに住みづらくなり、日本にやってきた。日本に3年ほど滞在したのち、トルコ政府に招かれてイスタンブール芸術アカデミー教授に就任した。1938年にイスタンブールで死んでいる。
                                   イスタンブール大学のユダヤ系ドイツ人学者の中には、反ナチ組織をつくって、ドイツ国内の反ナチス・グループとイギリスなどの諜報機関の橋渡し役の活動をし、また、ユダヤ人難民のパレスティナ移住を支援している者がいる。
                                   ベルゲンによると、スタイナウアー教授はミュンスター大学で国際法を教えていたが、1935年のニュルンベルク法のころからナチス政権がユダヤ系の市民に対する迫害を強めてきたことに不安を感じ、1936年にドイツを出てフランスに渡り、1年後の37年にイスタンブール大学に招かれてやってきた。以来、イスタンブール大学で国際法を教え、特にボスポラス海峡問題の研究で有名になった。
                                   イスタンブール大学に集まった亡命学者たちには、イギリスと親しい者、ソ連に親近感をいだく者、あるいはスタイナウアー教授のようなシオニストの活動の支持者など、さまざまな政治的傾向が見られた。イスタンブールの情報・治安当局もこうした亡命教授グループの動向に目を光らせている。
                                   イスタンブール大学の亡命ドイツ系教授の中に、コード・ネームをジャカランダというイギリス情報部(SIS)のエージェントがいる、とベルゲンが言っていた。ジャカランダはSISのイスタンブール機関と接触を重ねていた。ジャカランダは亡命教授たちのなかに反ナチス組織を拡大してゆき、その組織を利用してドイツ情報やドイツが占領したヨーロッパ各地の情報をイギリス側に提供していた。SISのイスタンブール機関にはバルカン全域の情報を収集する特別本部が置かれていた。そのことはドイツの情報機関もトルコ情報機関も承知していた。
                                   アプヴェールもまた亡命教授グループの中にドイツ側のエージェントをもぐり込ませていた。だが、イギリスの情報機関も、ドイツの情報機関も、ソ連の情報機関も、亡命教授の中につくられた特定の協力者のグループに対して直接的な圧力をかけることはしなった。もしそれをやるとすれば、その仕事はトルコ政府がやるべきことだった。しかし、ドイツ、イギリス、ソ連からの圧力をかわしながら中立を維持するために、トルコ政府はそれぞれの政府と親密さを保ちつつ警戒を深め、しかし特定の政府と極端な対立にはまりこむことをさけ、外交全般のバランスを何とか保とうという、微妙な立場にあったので、教授たちのなかのエージェントは監視するが、かれらに手出しをすることは避けてきた。

                                   パーク・ホテルに帰り着くと、フロントの係りが伝言を槙村に手渡した。伝言はアンカラからイスタンブールに帰る車中であったムス・スルタンからだった。「プリンキポ島の週末にお誘いしたいので折り返し電話いただきたい」と文面にあり、列車内でムス・スルタンが槙村に教えたのと同じ電話番号が書かれていた。
                                   槙村はその番号に電話した。
                                  「スルタン商会でございます」
                                  電話に出た女性はのっけから英語で会社名を名乗った。
                                  「ムス・スルタンさんとお話したいのですが。こちらは槙村中佐です」
                                  槙村も英語で言った。
                                  「あいにく、ただいまムス・スルタンは来客と面談中でございます。終りましたらこちらから電話させていただきます。よろしければ電話番号をどうぞ」
                                  「パーク・ホテルに滞在中の槙村中佐とお伝えください」
                                   槙村は電話を切ってパーク・ホテルのテラスに出た。ウェイターがニコッと微笑んでくれたので、ビールを持ってきてくれないかと注文した。
                                   しばらくしてウェイターがビールといっしょに連絡も持ってきた。
                                  「槙村さまに電話が入っています。あちらの電話機でどうぞ」
                                  ウェイターがロビーからテラスへの出口においてある受話器を示した。
                                  「槙村です」
                                  「こんにちは、槙村中佐。先ほど電話いただいたさいは失礼しました。ところで、この週末の31日から6月1日かけて、何か特別のご予定でもおありでしょうか。もしよろしければ、マルマラ海のプリンキポ島でのひとときにお誘いしようと思いましてね」
                                  「どういうご趣旨のお招きでしょうか」
                                  「いやいや、ごく気楽な集まりです。私の友人がマルマラ海に浮かぶプリンス諸島のなかで一番大きな島『ビュユックアダ』に別荘を持っているんです。ビュユックアダはプリンキポ島の名で外国人にはおなじみだろうと思います。スターリンに追放されたレオン・トロツキーがオデッサ港から黒海に出て1929年にイスタンブールにたどり着き、そののちこの島に来て、邸宅を借りて1933年まで亡命生活を送りました。そのトロツキーが住んでいた別荘を私の友人が買い取りましてね。トロツキーが去年メキシコでスターリンの手の者らしき男によって暗殺されてからは、この別荘にトロツキーの幽霊が現れるようになった、と島の人々はもっぱら噂しています。面白いところですよ」
                                  「トロツキーの住んでいた別荘となると、ちょっと拝見したい気持になります」
                                  槙村が興味を示した。
                                  「ええ。ぜひおこしください。プリンキポ島という名前からご想像がつくと思いますが、ビザンティン時代、皇帝に忌み嫌われた王侯貴族たちが島流しにされた場所だったといわれています。19世紀になってイスタンブールとこの島の間に蒸気船が就航するようになり、イスタンブールのトルコ人の金持や、ユダヤ系、アルメニア系、ギリシャ系の金持が別荘を建てて、夏のあいだ避暑地として利用するようになりました。ところで、そのトロツキーの幽霊が出るという噂の別荘で週末を過そうというのは、槙村さんと私と、別荘の持ち主である私の友人、それにリスボンからやってきた彼の友人、あわせて4人です」
                                  「それでは王侯気分の週末を楽しませていただきましょうか。ご招待ありがとうございます」
                                  「では、31日の朝9時、パーク・ホテルへ迎えを出しましょう。その者が槙村さんをエミノニュのビュユックアダ行き船乗り場にご案内します。私はそこでお待ちしています」
                                  ムス・スルタンが電話を切った。
                                   

                                  2019.10.14 Monday

                                  『だまし絵のオダリスク』    第24回

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                                     槙村がボスポラス・サライでハーミアと会っている間に、イスタンブール大学のスタイナウアー教授からパーク・ホテルに電話があったらしい。槙村はホテルのレセプションでメッセージを渡された。会って話したいことがあるので28日水曜日の午前中に大学までご足労ねがえないだろうかと書かれていた。
                                     28日午前中、槙村はイスタンブールの旧日本大使館庁舎でアンカラの日本大使館あての手紙を書かねばならなかった。田川一郎三等書記官の死に関する現地警察の捜査状況や、槙村自身がイスタンブールやアンカラで聞き取り調査した内容のあらましを駐トルコ大使あてに報告する作業だった。
                                     槙村は午前9時ごろスタイナウアー教授に電話をかけ、面会を午後にしていただけないだろうかとたのんだ。それでは午後は知人をたずねて考古学博物館に行っているので、そちらの方へご足労願えないか、とスタイナウアー教授が言った。
                                    「館内に有名なアレキサンダーの石棺が展示してあります。午後3時にその前でお待ちしています」
                                    オスマン帝国は16世紀のシュレイマン1世の時代に最盛期を迎えた。オスマン朝はバルカン半島を版図に加えて神聖ローマ帝国と国境を接した。地中海沿いの北アフリカに版図を拡大した。黒海の北でロシアと接し、カスピ海でペルシャに接した。だが、あらゆる帝国がそうであったように、その後ゆっくりと衰退を始めた。かわって近代化で力をつけたイギリスをはじめとするヨーロッパの列強が、衰退の道をたどるオスマン・トルコからその支配地を掠め取る番だった。
                                     イスタンブールの考古学博物館はそうしたオスマン帝国の黄昏期にトプカプ宮殿の庭園のかたわらにつくられた。帝国の衰退は近代化という点で西洋に遅れをとったのが原因であり、オスマン帝国も西洋風の近代化をしなければならぬ、という遅まきながらの近代化政策の一環としての博物館だった。
                                     さすがに一度は地中海をとりまく地域の相当部分を属領にしていただけあって、イスタンブールの考古学博物館には、メソポタミアやエジプトなど古代オリエントに始まり、古代ギリシャからヘレニズム時代、ローマ帝国時代にいたる珍しい展示物が多くある。
                                    なかでも逸品といわれているものの一つがアレキサンダーの石棺だ。白色大理石で造られた巨大な石の棺だが、実際にアレキサンダーの遺骸をおさめたわけではない。だが、造りは華麗にして荘重で、もちろんお棺であるからそれなりの妖気もただよってくるのだ。
                                     博物館特有の照度を落とした展示室の重く沈んだ空気の中に、長身痩躯のスタイナウアー教授が鶴のように立っていた。
                                    「槙村さんがこういうものに興味をお持ちだとよろしいのですが」
                                    「ベルリンの博物館島(ムゼウムスインゼル)は私の好きな場所です」
                                    「それはよかった。アレキサンダーの石棺は1887年に、当時オスマン帝国の帝国博物館長だったオスマン・ハムディ・ベイが、古代フェニキュアの中心都市シドンのネクロポリスで発掘したものです。彼はこのほかにもおびただしい石棺を発掘し、イスタンブールに持ち帰って博物館に収蔵しました。オスマン・ハムディは当初、この石棺をアレキサンダーのものと推定したのですが、あとになって別人の埋葬に使われたものとわかった。白色大理石の棺の四面にアレキサンダーが狩をしている姿や、戦闘の場面が浮き彫りにされているので、いまなおアレキサンダーの石棺とよばれ続けています」
                                     アレキサンダーの石棺が発掘された19世紀は、文化財強奪の時代でもあった。イギリスのエルギン卿はオスマン・トルコ支配下のアテネのパルテノン神殿からめぼしい大理石彫刻をイギリスに持ち帰り、大英博物館に飾った。オスマン・トルコの威光がかげりをみせるなか、シュリーマンがトロイの遺跡から「プリアモスの黄金」を勝手に国外に持ち出した。弱体化するオスマン帝国支配下のレバノンでフランスが影響力を強め、考古学調査隊をレバノンに派遣し、発掘品を持ち帰ってルーブルに収めた。そうした西洋諸国による考古学資料の持ち出しを「盗み」とみなしたオスマン・ハムディは、1884四年に貴重な考古学資料のオスマン帝国外への持ち出しを禁止する法律をつくらせた。
                                     つまりこういうことだ。西洋はオスマン帝国をふくむオリエントから文化財を盗み、オリエント圏内にあっては先んじて西洋化の道を歩み始めたオスマン帝国の人々が支配下のアラブ世界から文化財を盗んだ。博物館というのはつまるところ歴史的盗品倉庫のようなものだ。

                                    「華麗にして重厚なものですね」
                                    槙村が言った。
                                    「なかなかの逸品だといわれています。それはさておき、槙村さん。お話があるというのは、田川さんとソ連の接点についてです。田川さんはイスタンブールのソ連領事館のある人物と親密でした。ウリヤノフとよばれていた男です」
                                    「そのウリヤノフという男と田川はどんな情報のやり取りをしていたのでしょうか。何かお聞きになっていますか」
                                    「田川さんは、ウリヤノフという外交官にボスポラス海峡問題の資料の入手に協力してもらっている、と私に言いました。そのウリヤノフというソ連外交官は、私が聞いたところでは、ソ連の情報部に関わりのある人物だということでした」
                                    「スタイナウアー教授、田川があなたにそう言ったのですか」
                                    槙村が念を押した。
                                    「ウリヤノフとソ連情報部の関わりについては、田川さんは私に何も話しませんでした。実はそのことは死んだピーター・ケーブルから聞いたのです」
                                    「これは驚いた。スタイナウアー教授はピーター・ケーブルともお知り合いでしたか。それはそうとして、ピーター・ケーブルは田川とウリヤノフについてどんなことを言ったのでしょうか。詳しくお話願えますでしょうか」
                                    「イスタンブールでは外国人の世間は思いのほか狭いのですよ、槙村中佐。田川さんをウリヤノフに紹介したのがピーター・ケーブルだったのです。田川さんとピーター・ケーブルがどんな関わりを持っていたのかは、二人が死んでしまった今となっては、手がかりは失われてしまいました。田川さんとチチェキ嬢もピーター・ケーブルを介して会ったのだと思われます」
                                    「それはたしかなことですね」
                                    「たしかです。田川さんとチチェキ嬢が死体で発見されたのは3月のことで、そのあとしばらくしてピーター・ケーブルが訪ねてきて、田川さんの研究内容のことや、ソ連外交官らとの接触の様子を私から聞こうとしたのです。そのとき田川さんをウリヤノフに紹介したのがピーター・ケーブルだったと聞かされました。ピーター・ケーブルは田川さんをウリヤノフに紹介し、田川さんがウリヤノフから聞き出したソ連情報を、チチェキを通じて手に入れようとしていたのかもしれません。まあ、これは私の推測にすぎませんが」
                                    「ところでスタイナウアー教授。あなたは以前からチチェキさんともご面識がおありだったのでしょう?」
                                    田川の質問にスタイナウアー教授が一瞬どぎまぎした。視線を槙村からそらした。やがてスタイナウアー教授は平静をとりもどして言った。
                                    「私はナチ政権から逃れてきたユダヤ系ドイツ人です。チチェキ嬢はイスタンブールで育ったユダヤ系のトルコ人でした。ヨーロッパのユダヤ人を迫害から救出する善意の組織にお互い協力していました。それよりも、私が槙村さんにお会いしてぜひ申し上げたかったのは、田川さん、チチェキ、ピーター・ケーブルの三人の死の背後にはなにか不気味な陰が広がっているような気がしたからです。槙村さん、あなたはそのようなものをお感じになりませんか。三人の死の理由を知ろうとなさっているあなたもどうかご用心を。ご用がすみしだいベルリンに引き揚げる方が安全だと申し上げておくべきだと、昨日、ピーター・ケーブルの死を聞いて思ったものですから。イスタンブールでは、殺された人への哀悼は薄く、その人が殺されなければならなかった理由への関心があるのみです」
                                     しかし、これはアドバイスというよりは脅しのようなものではないか、と槙村は感じた。
                                     槙村はスタイナウアー教授のアドバイスに感謝するように軽く頭を下げてみせた。
                                    「それから、これは前回お渡しするのを忘れていたものです。今日お会いすることにしたのは、これをお渡しするためでした」
                                    スタイナウアー教授が封筒を差し出した。中には「ボスポラス政策での独ソ連携の可能性」とタイトルされたタイプ打ち一〇枚程度の英文草稿があった。
                                    「田川さんが亡くなる一〇日ほど前、私に預けた英文の研究計画です。田川さんの叔父上であるあなたにお返ししておきましょう。田川さんはお亡くなりになる直前に、ソ連の現代のボスポラス政策に関心を集中していたようです。トルコでイギリスの影響力が増大するよりも、ドイツの影響力が増大する方が自国のボスポラス通峡権の拡大に有利になるとソ連は考えているという仮説を立て、その仮説を証明できる資料を集めていました」
                                     槙村はスタイナウアー教授に情報提供のお礼を丁重に言って考古学博物館を出て、シルケジ駅の方角へ歩いた。ガラタ橋のたもとに建つイェニ・ジャーミーの裏手にあるチャイハネ(茶屋)で休憩してトルコ紅茶を飲んだ。
                                     

                                    2019.10.05 Saturday

                                    『だまし絵のオダリスク』     第23回

                                    0


                                       槙村はその日の夜、ボスポラス・サライへ行った。そこはバーというよりは酒も飲め、食事もでき、ショーもあり、ダンスもでき、ご婦人連れでもよし、男性だけの場合はバーお抱えの女性がご機嫌をうかがってくれるナイトクラブのような店だった。イスティクラル通りから横道に折れてすぐのところにあった。午後10時。店がもっともにぎわう時間帯だった。
                                      ピアノを中心にした小さな楽団がヨゼフ・リクスナーの『碧空』を演奏していた。数年前、東京でもずいぶん流行ったドイツ製のタンゴだった。店の中央のフロアで数組の男女が踊っていた。
                                          槙村の姿を見たウェイターが近寄ってきた。
                                      「お一人ですか」
                                      ウェイターが言った。
                                      「ハーミアさんに会いたいのだが。私はマキムラ中佐だ」
                                      槙村が答えた。
                                      「少々お待ちください」
                                      バーのカウンター席はほとんどがうまっていた。テーブル席もその八割方がうまっていた。槙村はハーミアが現れるまでの10分間ほど、テーブル席でウィスキーを飲みながら待った。店内の薄暗がりのどこかからじっと槙村の振る舞いを見つめている視線の気配を感じて、槙村はつい彼の背後をふりむいた。それらしき人物は見あたらなかった。田川のことで、これだけおおっぴらにイスタンブールの諜報戦についてかぎまわっているのだから、警戒したスパイたちが槙村を監視下においてもおかしくない。槙村がそう考えたとき、
                                      「こんばんは」
                                      イブニングドレスを着た若い女が立っていた。
                                       槙村は立ち上がって笑顔で返事した。
                                      「こんばんは、ハーミアさん。私は槙村中佐。チチェキさんといっしょに死体で発見された日本大使館員、田川一郎の叔父です。はじめまして。まあ、おかけください」
                                       照明を落とした店内のテーブルの上のランプの光が椅子に座ったハーミアのこわばった顔を照らし出した。
                                      「何かおのみになりませんか。ブランデーでもいかがですか」
                                      槙村がウェイターに合図を送った。
                                      「チチェキさんとは何年ぐらいお知り合いでしたか」
                                      「2年ほど前からです」
                                      「よいお友達でしたか」
                                      「ええ、心を許せる友人でした」
                                      「そこでね、ハーミアさん、私が知りたいことは、チチェキさんと私の甥の田川が恋人同士だったのか、それとも仕事のうえでの知り合いだったのかという点です」
                                      「仕事のうえの知り合いと言う意味がよくわかりませんが」
                                      ハーミアが問い返してきた。
                                      「つまり、ピーター・ケーブルという名前のイギリス人を挟んで、チチェキさんと田川がいっしょになって何か同じ目的で働いていた、というような意味なのですが」
                                      「それはもう、間違いなく二人は恋人同士でした。三人がいっしょになにか同じ目的で働いていたという話は聞いたことがありません。チチェキと私は姉妹のように仲良しでしたから、思っていることを率直に話しあってきました。チチェキは田川さんとの将来を私に語ったことがあります。私に意見を求めました。田川さんの国である日本へ渡るべきか、田川さんにイスタンブールで暮らしてくれるよう頼んだほうがいいのか、と。こういう時代ですから、イスタンブールに住んでも、東京に住んでも、戦争の恐ろしい影はついてまわります。ですが、私はチチェキに、田川さんにお願いして、イスタンブールに住んだほうがいいわよ、と言ったのです」
                                      「それはいつごろのことでしたか」
                                      「チチェキと田川さんが死ぬことになる4ヵ月ほど前のことだったと記憶しています」
                                      「では、昨年の暮れごろですね」
                                      「そうです」
                                      「それでチチェキさんはあなたのアドバイスをどのように受けとめられたのですか」
                                      「チチェキは私にこう言いました――わたしもそうできれば一番良いと思っているのだけれど。でも彼は気が進まないようなの。彼は仕事と収入を失うことになるし、日本人がここできちんとした仕事を見つけるのはなかなか難しいだろうと、田川さんが言った。そう私に聞かせてくれました」
                                      ハーミアは白い両手でブランデー・グラスを包みこみかすかに揺らせていた。
                                      「それで?」
                                      「それで、チチェキがわたしに言ったのです。まとまったお金が手にはいればそれを元手にイスタンブールに住み、二人で事業を始められるのだけれど、と。うらやましい、とわたしは思いました。ふたりはお金の工面さえつけば、イスタンブールで仲良く暮らせるわけです。お金がなくても、きっと幸せに暮らせたはずです」
                                      「ハーミアさんは田川にもお会いになったのですか」
                                      「もちろんですわ。幸せいっぱいのチチェキは田川さんをわたしに紹介しないでいられなかったのでしょうね。パーク・ホテルのレストランに行って三人で食事したことがあります。あれは昨年の11月はじめの寒い夜のことでしたわ」
                                      ハーミアが話を続けた。
                                      「私は田川さんを愛したチチェキを憎み、チチェキを奪った田川さんを恨んだピーター・ケーブルの仕業だと思っています。チチェキはユダヤ系の血を引いていますから、ドイツから迫害を受けているユダヤ系のヨーロッパ人をイスタンブール経由でパレスティナに送り込む救援組織の活動を手伝っていました。ユダヤ人がパレスティナに移住してくることについてはパレスティナのアラブ人の間に強い反対があります。彼らはイギリスにユダヤ人の移住を厳しく制限するようを求めています。イギリス側もアラブ人がユダヤ人移住問題で不満をつのらせることをおそれています。不満が爆発してアラブの支持がイギリスからドイツに移ると大変ですから。そんなことから、ユダヤ人難民をイスタンブールからパレスティナに送る活動も難しくなってきています。救援組織の活動にはどうしてもイギリスの助力が必要で、ピーターがその口利きをしていたようです。その縁でチチェキはピーターと一度は親しくなったのです。ですが、田川さんと知り合ってからは彼女の気持に変化が出てきたようです。わたしはドイツ系ハンガリー人ですが、ドイツ人をはじめとするヨーロッパ人はわたしをハンガリー人である以上にジプシーだと見ています。わたしの親がハンガリーのジプシー集落に住んでいたからです。チチェキはドイツ人からトルコ人である以上にユダヤ人だとみなされていました。田川さんにはそうした視線はありませんでした。あのかたはとっても上品なあたたかい人でした。チチェキが好きになったのも当然です」
                                      「どうもありがとう。二人は愛しあっていたのですね。あなたからそのことが聞けて本当によかった」
                                      槙村はハーミアに丁重な礼を言った。だが、田川とチチェキがまとまった金を欲しがっていたことが槙村の気持を重くした。チチェキの母親も、チチェキがまとまった金を残していくと約束したと言っていた。まさかとは思うが、田川が金とひきかえに情報を売るということも、一応記憶に留めておく必要がありそうだと槙村は感じた。

                                       

                                      2019.09.28 Saturday

                                      『だまし絵のオダリスク』     第22回

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                                         5月27日火曜日の日の出前、エミノニュのフェリー埠頭へ向かう早朝勤務の船員がガラタ塔の横を通りかかった。ガラタ塔は金角湾に面したベイオールの南斜面に建つ60メートルを超す石造りの塔だ。金角湾の対岸の旧市街地のトプカプ宮殿、アヤ・ソフィア、ブルー・モスク、シュレイマニイェ・ジャーミーなどと向かいあっている。ガラタ塔の起源はビザンティン時代の6世紀に建てられた木造の灯台だった。それが石造りになったのは14世紀中ごろのことだ。
                                         コンスタンティノープルがメフメト2世に率いられたオスマン・トルコ軍に征服された15世紀以降、ガラタ塔は軍事用の監視塔や天体観測塔として使われた。港湾労働に従事する奴隷の宿舎になったこともあったといわれている。17世紀のはじめ、ハザルフェン・アフメト・チェレビという人物がこの塔の上から人工の翼をつけて飛び立ち、巧みに風をつかんでボスポラス海峡を越えて6キロも飛び、対岸のアジア側に着地したと伝えられている。この飛翔の技術を軍事的な脅威と感じたスルタンは、ハザルフェンをアルジェリアへ追放した。ハザルフェンは飛んで火にいる夏の虫だったわけだ。
                                         東の空が明るくなり始めていた。薄暗がりの中、ガラタ塔の石の壁に寄りかかって男が眠っているのが見えた。酔っ払いか、あのバカ風邪をひくぞ、と早朝勤務で出勤途上の船員は思った。船員の後ろを歩いてきた別の男が、ご親切にも酔っ払いの様子を見るために塔に近づいていった。そしてその男が大声で叫んだ。
                                        「うわ、大変だ。この男死んでいる」
                                         連絡を受けた警察官2人が現場にすっ飛んできた。やがて殺人課の刑事や鑑識がやってきた。男は銃で胸を撃たれていた。血が男のジャケットをぬらし、男がいた石のうえに血だまりができていた。刑事たちは死んでいる男の風貌がトルコ的でなく西欧風であり、上着のポケットから出てきたトルコ政府発行のプレスカードから、男の名がピーター・ケーブルだと知った。このことを所轄警察署に連絡すると、イスタンブール警察本部のオメル・アシク警部、イスタンブール保安本部のイケメン・メフメト課長が現場に現れた。
                                        「このたびはチチェキのスポンサーだったイギリス人か。またお荷物がひとつ増えたわけだ」
                                        イケメンがオメルにため息混じりに言った。

                                         槙村はスタイナウアー教授から聞かされた田川とソ連情報機関の接触についてあれこれ想像を巡らしていて、未明近くまで寝そびれてしまった。午前10時ごろレストランで遅い朝食をとっていると、給仕に電話だと声をかけられた。受話器をとると、日本語だった。深川一郎の興奮した声が槙村の耳に飛び込んできた。
                                        「ピーター・ケーブルが銃で撃たれて死んだ」
                                        「えっ」
                                        と言ったきり槙村はしばらく声が出なかった。
                                        「撃ったのはだれだ」
                                        落ち着きを取り戻した槙村がたずねた。
                                        「まだわからない。これから警察が事件の発表をする。それを聞いたあと、あちらこちらで情報を仕入れ、夕方にはパーク・ホテルへ行けるとおもう。そうですね、午後7時ごろお目にかかってこの一件についてお話ししましょう。なにか田川さんの死と関わりがあるような気がしてならないのです」
                                         深川は約束の時刻どおり午後7時きっかりにパーク・ホテルのロビーに現れた。そのころまでにはパーク・ホテルのバーはピーター・ケーブルが殺された理由についての推測・憶測があふれた。
                                        「警察はピーター・ケーブルの死を他殺と自殺の両面で捜査しています。ピーター・ケーブルの死体の状況は検死によるとこういうことです。まず死亡時刻ですが、27日の午前3時から4時の間と推定されています。ピーター・ケーブルはガラタ塔の壁面に背をあずけ、石畳の上に直接尻をおいて90度の角度で身体を折り、座り込む姿勢をとっていた。銃弾は心臓に一発。死体のそばに拳銃があった。イタリアの軍用拳銃ベレッタM1934でした。ピーター・ケーブルの着衣に火薬による焼け焦げがある、極めて近い距離から発射されたもののようです。拳銃からピーター・ケーブルの指紋が出た。また、ケーブルの右手に硝煙反応があった。ケーブルは大量のアルコール飲料を摂取していた」
                                        「なるほど、自殺と断定するに十分な状況ですね」
                                        槙村がビールを口にしながら言った。
                                        「そういうことです。チチェキを田川に奪われてしまい、そのうえチチェキが死んだことで、悲嘆のあまりピーター・ケーブルは自殺したのではなかろうかという、メロドラマ的な解釈もうんぬんされています。ですが、イスタンブールにたむろするジャーナリストのような、すれっからしの大人の自殺の動機としては、いまひとつ説得力に欠けます」
                                        「自殺の動機としては他になにかでていますか」
                                        「それはいまのところないようですね。いまひとつの線である他殺説の方ですが、こちらの方も状況から十分考えられるところがありましてね。ピーター・ケーブルをガラタ塔まで連れてきて石畳の上にすわらせた。彼の手に拳銃を握らせて、銃口を胸にあて、発射した。警察の検死結果によると、死亡時刻ころピーター・ケーブルは泥酔状態だったと想像されます。血中アルコール濃度も高く、胃の中からもアルコール飲料の残りが検出されています」
                                        「だとすれば、ピーター・ケーブルに銃を握らせて自殺に見せかけて殺す偽装は、それほど難しいことではなかったでしょうね」
                                        「そうなんですよ。ピーター・ケーブルは26日夜の10時ごろペラ地区のバーに姿を現して、1時間ほど酒を飲んでいたそうです。バーテンダーによると、考えことをしながらちびりちびりと飲んでいたそうです。なんと言うか、バーテンダーが声をかけても口を開くのさえ億劫といわんばかりの、屈託のきわみといった様子だったそうです。ですが、泥酔するほどには飲んでいなかった。11時ごろ、しゃんとした足取りでバーを出て行ったそうです。そのあとの、ピーター・ケーブルはどこかで泥酔にいたるほどの酒を飲んだのでしょうが、11時以降の彼の足取りはわかっていません」
                                        「ピーター・ケーブルには殺されるような理由があったのでしょうか」
                                        「そのあたりについては警察も慎重でしてね。他殺の可能性も排除していない、というばかりで、その理由については具体的な言及を避けています。あれこれ尾ひれをつけて探偵ごっこをしているのは、外国特派員の連中でしてね。今年の2月でしたか、アメリカのワシントンの三流ホテルでヴァルター・クリヴィツキーと名乗っていた亡命ソ連諜報機関員が死体で発見された事件をご記憶でしょう」
                                        「ええ、新聞で読みました。1937年にスターリン体制を逃れて、パリで亡命した男ですね。スターリン時代のソ連の内幕を暴露した記事をアメリカの週刊雑誌に連載し、それをまとめた本が1940年に出版された。その本の中で、1936年ごろ、当時ベルリン大使館付武官だった大島浩少将と東京が交わした暗号電報をナチスの秘密機関が傍受・記録していた綴りをクリヴィツキーの部下が手に入れたと書いてあった。本当のことかホラ話なのかわかりませんが。雑誌連載の記事は日本の週刊雑誌にも翻訳掲載されました」
                                        「その男ですよ。クリヴィツキーはホテルのベッドで死体となって見つかったのです。致命傷は頭にくらった銃弾一発。自ら撃った銃弾なのか、誰かによって撃ちこまれた銃弾なのか。結局、警察は自殺であると結論しましたが、誰しもがそれに納得したわけでない。祖国を裏切ったクリヴィツキーをソ連が送り込んだ暗殺者が殺害したという説も出ました」
                                        「クリヴィツキーとピーター・ケーブルとどんな関わりがあるのですか」
                                        「関わりがあるわけではありませんが、ピーター・ケーブルはジャーナリストの仕事をする一方で、イスタンブールでの諜報戦にも一役買い、政治情報の取引に深く関わっていたという疑惑をもたれています。ケーブルはイスタンブールに来る前は、マドリッドでフリーランスの記者をしながら贅沢に暮らしていたそうです。それは原稿料だけでまかなえる以上の暮らしぶりだったと噂されています。ピーター・ケーブルがマドリッドで日ごろ接触していた相手にイギリス情報部の幹部がいた。マドリッドで仕事をしたあと、彼はイスタンブールに特派員の口を見つけて移ってきた」
                                        「それはいつ頃のことですか」
                                        「1939年の初めのことです。このころにはスペイン内戦は、フランコ側の猛攻で共和国側は総崩れという状態になっていました。それ以後、2年あまりピーター・ケーブルはここイスタンブールで仕事をしています。彼の役どころをめぐっては、ドイツ側ではイギリスとソ連の二重スパイだといっています。といっても、彼の忠誠がイギリスにむけられているのか、ソ連にむけられているのか、それがはっきりしないようです。ソ連は彼をイギリスとドイツの二重スパイであると見ているようです。イギリスは彼が祖国を裏切っているのではないと疑いをかけている。ここにはジャーナリストになりすました各国の情報機関員、あるいは情報機関の下請けをしているジャーナリストなどが少なくありませんが、ピーター・ケーブルはある意味で独立自営業者としての情報のプロで、仕入れた情報に良い値をつけてくれた側に、イデオロギーに関係なく売っている男ではないかと疑っている者も少なくありません」
                                        「したがって、これという情報はないが、状況によっては英独ソの情報機関がそれぞれピーター・ケーブルを殺す理由をもつはずである、という推測にいたるわけですね」
                                        「そういうことです。それから、もうひとつ。警察情報に詳しいトルコ人の記者から聞いた話なのですが、ハーミアというドイツ系ハンガリー人の女性がチチェキと親しくしていて、田川さんとチチェキについていろいろ知っているようです。警察はこの女性からも事情聴取をしていますが、いまのところ捜査に役立つような新しい事実を聞きだすことはできなかったようです。しかし、槙村さんがお聞きになれば、田川さんの当地での暮らしぶりについて、なにか新しい事実が聞き出せるかもしれません」
                                        深川はそういいながらメモ用紙にハーミアの連絡先の電話番号と彼女が働いているバー名前を書き、槙村に手渡した。店の名は「ボスポラス・サライ」。チチェキの母親と会ったとき彼女が口にした名前だった。
                                        「なんでも、このバーはアプヴェールの息のかかった連中が経営しているそうです」


                                         

                                        2019.09.21 Saturday

                                        「だまし絵のオダリスク」     第21回

                                        0


                                          「ええ、たしかに田川さんはときどき私の研究室をたずねてきました。私たちの話題はボスポラス海峡の通峡権問題の史的展開に関するものでした」
                                           イスタンブールの旧市街側にあるイスタンブール大学本部の応接室で、ヨーゼフ・スタイナウアー教授が槙村に言った。5月26日月曜日の午前10時だった。
                                           イスタンブール大学は広大な屋根付き市場グラン・バザールの隣のベヤズト・モスクがある広場に面している。堂々とした門とがっしりとした建物だ。19世紀中ごろ軍事省として建てられ、トルコが共和国なったときイスタンブール大学の施設になった。
                                          イスタンブール大学の起源は1453年にスルタン・メフメット2世が東ローマ帝国を倒したのちに設立したマドラサ(イスラム学院)である。エジプト・カイロのアル・アズハル大学の起源とされる975年や、イタリアのボローニャ大学の1088年、パリ大学の1150年、オクスフォード大学の1167年、スペインのサラマンカ大学の1218年にはおよばないが、長い歴史をもつ大学である。
                                          大学正門と大学本部の建物の間には広い庭があった。その庭に高さ80メートルほどの石造りの塔が屹立していた。ベヤズト・タワーである。一九世紀中ごろに再建されたイスタンブールの火の見やぐらだ。それ以前にも木造の火の見やぐらがたっていたのだが、なんとこれが火事で焼け落ちたために、こんどは石造りの塔を建てたという。
                                           軍と大学がケマル・アタテュルクの世俗主義政治の砦である。アタテュルクはトルコ近代化のために、イスラムを後進性のしがらみとみなしてイスラム離れを推し進めた。シャリーアに基づくイスラムの宗教法廷を廃止した。一夫多妻を禁止する民法を制定した。マドラサでの教育を禁止し、すべての教育を世俗主義の下で行うよう教育制度を改めた。
                                          イスラムを排除し徹底的な世俗国家の道を進もうとするケマル・アタテュルクの政策に沿ってトルコの教育システムが変更され、イスタンブール大学をはじめトルコの大学ではヘッドスカーフを被った女子学生やイスラム風のひげをはやした男子学生は、クラスに出席することが原則として許されなくなっていた。
                                           スタイナウアー教授は身長が1メートル90センチもある痩せた50過ぎの男だった。頭髪の生え際が額から頭のてっぺん近くまで後退し、残った薄茶色の髪を左で八二くらいに分けていた。縁なしの眼鏡をかけ、その奥に神経質そうな薄茶色の目があった。スタイナウアー教授は槙村を大学本部の建物の2階にある応接室に迎えた。大学の事務員らしい男性がトルコ紅茶を運んできた。
                                          スタイナウアー教授は田川の研究テーマについて語ってくれた。
                                          「ボスポラス海峡の地政学的な重要性は、その国の名が帝政ロシアであれソ連であれ、スラブ民族にとっては普遍的なものです。冬も凍らない水路の重要性がそれです。不凍港を求めてロシアは南下政策をとり、その膨張主義を脅威と感じたヨーロッパ諸国は、ロシアの南下政策を食い止めようとする。そうしたロシア帝国の膨張主義メンタリティーと南下政策の実際を念頭に置きながら、ロシアのロマノフ王朝時代からレーニン、スターリンの時代にかけての、ボスポラス通峡権をめぐる対トルコ外交の変遷をあとづける。それが田川さんの研究テーマでした。私の専門はどちらかといえば、国際法の理論面に重点をおいています。田川さんの関心はロシアとトルコの外交面でのせめぎあいの歴史でした。外交官としても敏腕な方だったとうかがっていますが、研究者としてもすぐれた才能をお持ちでした」
                                          「おたずねしますが、田川はどの時代の海峡政策により関心を寄せていたのでしょうか。帝政ロシアとオスマン帝国の時代でしょうか。あるいはソ連対トルコ共和国の時代でしょうか」
                                          「彼が欲しがっていたものは、まさにいま現在のソ連のボスポラス海峡への野望と、それに伴うソ連の対トルコ、対ドイツ政策に関わる資料でした」
                                          「そうですか。スターリン体制化のいま現在の政治情報となると、公開されている資料は少なく、公開されている資料にしてもプロパガンダと見分けのつかないものである、というのが一般的な意見でしょうね。田川は自分の仮説を支える情報をどの程度集めることができていたのでしょうか。研究の核心に迫る情報をどうやって集めようとしていたのでしょうか。スタイナウアー教授、あなたが田川を指導なさるなかでお感じになった印象はどうでしたか」
                                          「田川さんはどうやらイスタンブールで活動しているソ連の情報関係者とも接触があったようです。ボスポラス関連の情報を集めるうち、学術研究の枠を超えて、つまりはボスポラス海峡問題に関わる資料収集の作業を超えて、微妙な国際情報戦がらみのソ連情報についても、接触を深めたソ連情報筋から集めようとしていたような気配を、私は感じたことがあります。具体的な事例があるわけではありませんが、田川さんとの会話の中でふとそう感じる瞬間がありました。私は何度か、諜報ごっこはやめにして、研究者本来の研究方法に限定してはどうかと助言したのですが、彼は『私はまた大使館員でもある』と言って笑っていました」
                                           スタイナウアー教授は視線を槙村からテーブルの上に移し、おや、お茶が冷めましたかな、と言った。槙村は、いやいやこれで十分ですと答えた。
                                          「そうそう、田川さんが亡くなったあとイスタンブール警察の方が私を訪ねてきたことがあります。その警察官にも、今と同じような話をしました。その警察官は私にいくつかの質問をしましたが、それらを通じての私の印象では、イスタンブール警察は田川さんがどうやら日本におけるソ連の情報網の浸透についての情報集めに関心があったのではないかと疑っているように感じられました。おや、槙村中佐、何かお心当たりでもおありですか」
                                          槙村の表情の変化に気がついてスタイナウアー教授が問いかけてきた。
                                          「国際謀略に巻き込まれて死んだという可能性に驚きました」
                                          槙村はそう言い訳をしながら、ふと想像した。
                                           田川といっしょに死体で発見されたチチェキはイギリス人のジャーナリスト、ピーター・ケーブルとつながりがあった。ピーター・ケーブルがこの女を使って田川を利用していたのではなかろうか。田川にイギリス側がつかんでいるソ連情報を小出しに与え、その見返りに田川から日本情報を引き出してはそれをイギリス本国に送っていたのではあるまいか。そのような形で素人の田川が諜報戦に関わっていて、あるとき、田川の存在が厄介になった組織が田川を始末した。ありうる筋書きだと槙村は思った。
                                           

                                           

                                          2019.09.15 Sunday

                                          だまし絵のオダリスク       第20回

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                                             イスタンブール行き急行列車はアンカラ駅を定刻どおり5月23日の午後4時に発車した。金曜日だったが客は少なかった。さてこれからイスタンブールのハイダルパシャ駅までおよそ15時間の道のりだ。列車が予定通り運行されることはまず期待薄で、おそらく2時間から4時間の延着は覚悟しておいた方がよいだろう。槙村は切符を手配してくれた大使館の職員からそう聞かされていた。
                                            夕日がアナトリアの大地に沈んでゆくのが車窓から見えた。槙村は食堂車へ出かけた。空腹を感じたわけではなかったが、なるべく早く夕食とそのあとの腹ごなしをすませて、いつもより早めに寝るつもりだった。
                                             まだ時刻が早いせいか食堂車はすいていた。右カーブを曲がったのだろうか、列車がぐらりと揺れ、体が左側にひっぱられる感じがあった。食堂車に入って2つ目のテーブルに太っちょのトルコ人らしい男が1人で陣取って食事していた。50歳前後で、ダルマのように大きな威圧するような眼だったが、顔のつくりはなんとなく愛嬌があった。食堂車のウェイターが槙村をその男の隣のテーブルに案内した。槙村は椅子に腰掛け、ウェイターからメニューを受け取った。ウェイターは槙村のそばに立って注文を待った。
                                            「ヤキトリはありませんが、ケバブが美味しいですよ。トルコのワインとあいます。私もそれをいただいています。マキムラ中佐」
                                            達者な英語だった。一瞬虚をつかれた槙村に、男はウィンクして立ち上がり、
                                            「夕食を同席させていただく栄誉を賜りたいものですな。私の名はムス・スルタン。貿易商で、何年か前、ヨコハマに行ったことがあります。勝手ながら私のテーブルにお越しいただけるのであれば光栄です。ぜひ、どうぞ」
                                            と、大きな右手をさしだして握手を求めた。男の背丈は身長1メートル75センチの槙村より少し高いだけだったが、体の厚みは槙村の2倍もありそうだった。
                                            「おかけになって、まずはワインでも」
                                            ムス・スルタンが槙村に微笑みかけた。槙村はすすめられるままムス・スルタンのテーブルに移った。椅子に座るとムス・スルタンが言った。
                                            「失礼しました。この列車に乗るとき駅でお姿を見かけました。車掌にあの方は日本の政治家のヨシオカさんか、と聞きました。前に一度ヨコハマでお目にかかったことがある。ヨシオカさんなら挨拶しなくては。すると車掌がお人違いでございます。日本大使館海軍武官のマキムラ中佐でいらっしゃいます――そういうわけでした。失礼の段お許しください。また、口の軽い車掌についてもお許しください。あの車掌は私の長年の知りあいなものですから」
                                            ムス・スルタンがウェイターにワイングラスを持ってくるように言った。ムス・スルタンがマキムラのグラスにワインを注ぎ始めたとき、列車がまた揺れた。ムス・スルタンはさっと瓶の口を上に向けてワインがグラスの外にこぼれるのを避けた。この太っちょなかなかの反射神経の持ち主だ。油断ならないなと槙村は思った。
                                            「大使館がイスタンブールからアンカラに移ったせいで、どこの国の外交官の方々もご不便をお感じなっていらっしゃるでしょうな。アンカラは緯度からいえばナポリやマドリッドと同じあたりですが、とんでもない田舎町のうえに、夏は極端に暑く冬は極度に寒い。寒いだけではなく大雪が降る。アンカラの冬の暇つぶしといえば、オオカミ狩りくらいなものです」
                                            ムス・スルタンが陽気な口調で話し始めた。
                                            「ほう、それはなかなか勇壮な暇つぶしですね」
                                            槙村はお世辞のつもりで調子をあわせてやった。
                                            「アンカラの外交団のなかでは、ドイツ大使のフランツ・フォン・パーペン氏がこのオオカミ狩りがお好きでしてね。アンカラでは原野まで出向かなくても、オオカミのほうから街外れまでやってきてくれます。ヒトラーがヨーロッパで戦争を始めて以来、イギリスを中心とする連合国側の外交団から白眼視され遠ざけられているパーペン氏は、アンカラではオオカミ狩りで憂さを晴らすしかないのでしょう。いずれあなたにもお誘いがくるかもしれません」
                                            「残念ながらわたしはアンカラではなくベルリン駐在です。西ヨーロッパ勤務の経験のある日本大使館員も、オオカミ狩りこそしませんが、アンカラは退屈だとこぼしていました」
                                            「おや、ベルリンからお見えでしたか。パリ、ロンドンと並ぶ都会ですな。ところがアンカラときたら、オペラもコンサートもめったにない。田舎町で世間は狭いから、若い外交官の方々には情熱を発散させる機会も少ない。恋愛沙汰はすぐお仲間の噂になり、場合によってはさまざまな外交上の取引材料、世間では脅迫などという品のよろしくない言葉を使っているようですが、そのネタにされてしまう。したがって、われわれが今乗っているこの列車は外交団や政府高級官僚の利用がひんぱんでしてね。アンカラを逃げ出してイスタンブールへはめをはずしに行く」
                                            「ポアソン・グレックを求めて……」
                                            槙村が日本大使館員から聞いた話は、アンカラではどうやら手垢にまみれた世間話のひとつになっているようだ。
                                            「おや、ご存知でしたか」
                                            「ところで、アンカラにおけるパーペン大使の好敵手であるイギリス大使のヒュー・ナッチブル・ヒュゲッセン氏は雪に埋もれたアンカラの冬をどう過されているのでしょうかね」
                                            槙村が言った。
                                            「あいにく私はイギリス大使館筋に知り合いが少なくて、彼については詳しいことは知りません。まあ、イギリス人は単調な生活というか、退屈をもって人生の楽しみとするような妙な性癖があるとうかがっております。イギリス大使閣下におかれてはアンカラの生活を、イングランドの田園生活の単調さを愛でるのと同じ気持で、たっぷりと楽しまれているのではないでしょうか」
                                            「そうですね。アンカラで平穏な田園生活を楽しんでいらっしゃるのであれば、ご同慶の至りです。なにぶんナッチブル・ヒュゲッセン大使閣下は、前任地の中国で大使をなさっていたとき、1937年8月の暑いさかりと聞いておりますが、日本の攻撃機から機銃掃射をうけて、重傷を負われたことがありました。大使が南京から上海に自動車で移動中のことで、日本政府は誤射について遺憾の意を表しましたが……」
                                            槙村が注文したケバブが運ばれてきた。槙村がその肉片の一つを口に入れたとき、ムス・スルタンがさりげなく、しかし声を心もち落して槙村に語りかけた。
                                            「槙村中佐。私はこの3月上旬、イタリアに出かけていましてね。商用で南イタリアのターラントを訪れました。ターラント湾に面した軍港のある港町です。イギリス軍が停泊中のイタリア海軍軍艦に奇襲攻撃をかけて成功した町です」
                                            この男の意図はなんだろう。槙村はケバブを食べる手をとめて心の中で身構えた。
                                            「泊まっていたターラントのホテルのロビーで、ある朝、とある東洋の紳士をお見かけした。いま思い出してみると、どうもそのお方は槙村中佐ではなかったという気がしてならないのです」
                                            「なるほど。以前にお目にとまっていたのですか。それにしても私たち極東のアジア人にとっては、ヨーロッパの人々の容姿からその国籍を推測するのはなかなか難しいことなのですが、あなた方には中国人や韓国人や日本人の見分けが簡単におできになるようですね」
                                            槙村はとっさに言葉を濁した。だが、彼の気持は動揺していた。槙村はその動揺が表情に現れないようケバブにかじりつくことでごまかそうとした。
                                             たしかに槙村は用あって3月上旬にターラントを訪れていた。ターラントはイタリア南東部のターラント湾に面した都市で、古くは紀元前8世紀ごろ古代ギリシアのスパルタがここに植民地を築いていた。中世には十字軍が装備をととのえ、遠征に出発する港だった。オスマン・トルコ帝国はその拡張期に何度もターラントを攻撃した。ナポレオン戦争のときはフランスの軍港として利用された。そののち、イタリア海軍の軍港として整備された。
                                             イタリア海軍の主力軍港の一つであるターラントは1940年11月11日から12日にかけてイギリス空母の艦載機による奇襲攻撃を受けた。イタリア海軍の戦艦3隻が大破・損傷するなどの痛手を受けた。日本の海軍はターラントにおける航空機による艦船攻撃という奇手に大きな関心を寄せた。日本はドイツとイタリアに協力を求めて、イギリスによるターラント奇襲のデータを集めていた。
                                            「去年のイギリスの奇襲以来、ターラントにはいろいろな国の軍人が視察にやって来ているようですな。海での戦争が艦隊と艦隊の一騎打ちという伝統から離れ、空からの艦隊攻撃の有効性に目を向けさせる格好のデータのようで、いろんな国の航空機優先思想の戦術家たちがターラントに集まった。日本も世界有数の海軍国の一つですから、当然、ターラントの戦術にも興味があるだろうと思い、ターラントで見かけた東洋の紳士を、もしかしてあなたではなかったろうかと、ふとそう思っただけのことです」
                                            それを最後に、ムス・スルタンは話題をイスタンブールの建築物の美へと切り替えた。
                                            「ところで槙村中佐、ハギア・ソフィアはご覧になりましたかな。いまではトルコ人はアヤ・ソフィアと呼び、ギリシア人はアギア・ソフィアとよんでいる建物です。もともとは東ローマ帝国を開き、その都をコンスタンティノープルに定めたコンスタンティヌス大帝の子であるコンスタンティウス2世が紀元4世紀にキリスト教の聖堂として建てたものです。のちに15世紀になってコンスタンティノープルを占領したメフメト2世がこの建物をモスクに変更した。20世紀なってトルコを共和国として発足させたケマル・アタテュルクはイスラム教を毛嫌いして、この建物を無宗教の博物館に変えた。したがって女性はお隣のブルー・モスクに入るとき頭に布をかぶることを強制されますが、アヤ・ソフィアではその必要がない」
                                            「暇を見つけて是非拝見したいものです」
                                            槙村はそっけない調子の返事をした。
                                            「イスタンブールの古典建築物のうちで最高のものといわれていますが、これまでに何度も壊れていましてね。5世紀の初め内乱で焼け落ちた。再建されたが、6世紀になって、有名なニカの乱でまた焼けてしまった。ユスティニアス大帝が再建工事を始めたのですが、建物が巨大すぎてあちこちでねじれやゆがみ亀裂が生じた。なんだかんだと手を入れながら完成したのですが、間もなく地震によって中央のドームの半分が崩落してしまった。オスマン帝国時代にも補修工事がおこなわれて、何とか現在まで奇跡的に建っているのです。つまりは如何なる威容も立ち入ってみれば満身創痍であるという教訓話でして……」
                                            建築物に詳しくもなく興味もない槙村は、ムス・スルタンの饒舌を聞き流しながらケバブを食べた。
                                            食事を終えた槙村にムス・スルタンが名刺を渡しながら言った。
                                            「イスタンブールでもし何かご用がおありの節はこの電話番号にどうぞ。お役にたてることがあるかも知れません。ところで、槙村中佐のイスタンブールでのお宿はどこでしょうかな」
                                            「パーク・ホテルです」
                                            槙村は滞在しているホテルの名を告げた。ムス・スルタンがどのような意図でターラントのことを口にしたのか、場合によってはそのことを詳しく知る必要があるかもしれない。ムス・スルタンと接触点を残しておきたい気がしたからだった。
                                            「それは素敵なところにお泊りですね。パーク・ホテルからのボスポラス海峡の眺めはイスタンブールで屈指の景観です。これとならぶのはガラタ塔からの眺めくらいなものです」
                                             食事を終えた槙村は立ち上がってムス・スルタンに手をさしのべた。ムス・スルタンがその手を握った。
                                            「よい旅を」
                                            ムス・スルタンが言った。
                                            「商売繁盛を」
                                            槙村が返した。
                                             

                                            2019.07.28 Sunday

                                            『だまし絵のオダリスク』   第19回

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                                                ベルゲンの顔を見つめる槙村の目が鋭くなった。ベルゲンが語り続けた。
                                              「今年に入ってからソ連がNKVD(内務人民委員部)のサボタージュ専門の特殊工作員の一団をトルコに送り込んだ形跡があります。NKVDはその残虐な手法で有名な組織で、スペイン内戦中にバルセロナで暗躍し、反スターリンを標榜するトロツキー派のマルクス主義統一労働者党(POUM)の指導者を誘拐して拷問かけ、さらには生きながら彼の生皮をはいだことがあります。マルシュアスの生皮をはいだギリシャ神話のアポロンの如くです。今回そのNKVD特殊工作員たちを率いているのが暗号名「ナウモフ」という凄腕の男です。去年、トロツキー暗殺計画実行のために、スターリンがメキシコに送り込んだといわれている男です。1920年代から中国、イスタンブール、スペイン、パリと渡り歩いてスターリンのために汚れ仕事を引き受けてきました。田川さんを殺害するために送りこまれたわけではなく、なにか大掛かりな破壊工作にとりかかっている疑いがあります。彼らにとって田川さんとあのチチェキとかいうトルコ女性を殺すなどたやすい仕事でしょうね」
                                              「田川が書いた報告書やメモや日記を見ましたが、ソ連極秘情報を手に入れたことをほのめかすような記述はどこにもなかった。ベルゲン中佐、ソ連が田川を殺害しなくてはならない理由が不透明ですね」
                                              槙村が突っ込んだ。
                                              「理由が不透明では根拠不明の憶測にすぎませんな」
                                              そう言ってベルゲンは新しい煙草に火をつけた。
                                              「あのチチェキという女性と関わりのあるイギリスのジャーナリストのピーター・ケーブルが昨年秋、フォン・パーペン大使へのインタビューを申し込んできたことがありました。インタビューに応じるまえに、彼のことを調べてみると、ピーター・ケーブルはイギリス情報部のエージェントであるが、同時にソ連とも通じており、時にはトルコ情報部とも取引をしていることがわかった。チチェキは彼の情報収集係りだった。田川さんとチチェキが殺害された3月上旬、ピーター・ケーブルがペラのあやしげなバーでおかまといちゃついているのをトルコ情報部のエージェントが目撃していました。そのエージェントは金でアプヴェールにも情報を横流ししている男です。彼の目撃談からそのおかまは、NKVDが送り込んできた特殊工作班員の1人で通称「ナターシャ」という女装癖がある男だとわかった。話の中身は不明でしたが、ともあれ、ピーター・ケーブルとNKVDはどこかでつながっているようです。ピーター・ケーブルがふとしたことで、機密情報をチチェキに知られ、それをチチェキが田川さんに知らせた。そこで、ピーター・ケーブルが、ナターシャに2人の始末をたのんだ」
                                              「ベルゲン中佐、あなたは才能がおありだ。小説を書かれるといい」
                                              槙村はイケメン・メフメトに言われたのとそっくり同じセリフをベルゲンに言った。


                                                

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                                                暑中につき、9月中旬まで休載します。

                                               

                                              2019.07.14 Sunday

                                              『だまし絵のオダリスク』   第18回

                                              0


                                                 槙村は23日の午前中ドイツ大使館にマクシミリアン・ベルゲン中佐を訪ねた。
                                                 ドイツ大使館はさすがに立派な建物だった。大使館のつくりはその国が駐在国にどの程度の重要性をおいているかのバロメーターである。ドイツ大使館の威容に比べると日本大使館は大いに見劣りがする。
                                                「槙村中佐、ドイツ大使館へようこそ。そちらのソファーへどうぞ」
                                                ベルゲンが張りのある声で言った。ベルゲンの執務室にはトルコ煙草のにおいが漂っていた。ベルゲンが槙村に応接テーブルの煙草ケースを差し出した。
                                                「トルコ煙草です。私は水煙草の愛好者ですが、さすがに執務室であれをやるのは気がひけましてね。この紙巻煙草で我慢しているのです」 
                                                ベルゲンはそういいながら、ジッポーのオイル・ライターで槙村の紙巻煙草に火をつけた。
                                                「昨日、日本大使館の同僚の武官から聞いた話だと、17世紀のイスタンブールは煙草が大流行で、喫茶店は煙草の煙で客の顔がかすむほどだったそうです。それで、スルタン・ムラト4世が煙草とコーヒーを禁止し、禁止令に背いて煙草やコーヒーにふけっていた者を捕らえて、見せしめに処刑したそうです。執務室で水煙草にふけるアプヴェールの幹部となると、ラインハルト・ハイドリヒのSDにその弛緩ぶりを衝かれそうな図ですな」
                                                槙村はきわどい冗談で返した。ナチスの親衛隊(SS)の情報機関である親衛隊情報部(SD)が大使館内に勢力を広げ、国軍情報部アプヴェールにとってかわろうとする露骨な動きが広がっていた。SD長官だったラインハルト・ハイドリヒはいまやSDとゲシュタポを参加に持つ国家保安本部(RSHA)の長官として、アプヴェールをRSHAにとりこもうと画策していた。
                                                「敵地の真ん中で勤務する情報機関員は、一寸先は闇という緊張と、いつも背後にナイフの気配を感じているような不安につつまれて暮らさねばなりません。煙草とコーヒーとウィスキーはきつけ薬代わりです。中立国ではそうした怖さがありません。中立国の首都というのは諜報関係者にとっては天国のようなところがありましてね。ここではドイツとイギリス、それにソ連が情報戦争を繰り広げています。さらにトルコ共和国もドイツ、イギリス、ソ連の腹を探ろうと情報戦争に参入しています。せまい舞台が役者でいっぱいですよ。にもかかわらず、ビシッと役者を統べる演出家がいない。田舎芝居のようなものです。水煙草が似合います」
                                                 ベルゲン中佐はアブヴェールのトルコにおける情報網の統括責任者だといわれている。だが、アンカラの外交筋には別の見方もあって、フランツ・フォン・パーペン大使着任以来、ドイツ大使館全体が巨大な諜報機関になったという。その諜報組織を取り仕切っているのが、諜報・陰謀好きな大使フォン・パーペンその人であるというのが、アンカラ外交筋の見立てだった。
                                                 フォン・パーペンはドイツの裕福な名家に生まれて軍人になり、第1次大戦中ドイツ大使館付武官として、アメリカで諜報活動を繰り広げた。間もなくパーペンはアメリカ合衆国政府からペルソナ・ノン・グラータとして国外退去を命じられるが、そのさいドイツ本国へ送った荷物の中から、パーペンのアメリカにおける諜報網などの資料が見つかった。意外にうかつなスパイであった。
                                                 第1次大戦後、パーペンは政界入りし、ヒンデンブルク大統領の下で首相をつとめ、ナチスの台頭後はヒトラーの下で副首相をつとめた。ドイツと戦っている連合国側の駐アンカラ外交関係者の間では、パーペンは陰謀好きなオポチュニストにすぎないという見方が大勢を占めていた。
                                                「スパイ天国のことはさておき、日本大使館の田川さんの件ですが……」
                                                ベルゲンは吸い込んだ紙巻煙草の煙をいきおいよく吐き出しながら槙村をみつめた。
                                                「イスタンブールやここアンカラで田川の足跡を追ってみて、私はどうも田川がなにか国際的な陰謀に巻き込まれたのでないか、という気がしてきました」
                                                槙村は素直な感想を述べた。
                                                「われわれも槙村さんがお感じになっているものと似たような背景あるのではないかと考えています。イスタンブールで情報収集にあたっている部員から、どうやら田川さんはソ連情報に関係した諜報戦あるいは防諜戦に巻き込まれた可能性が濃厚だと報告があがってきました。田川さんはボスポラス通峡権問題を研究なさっていたとか?」
                                                ベルゲンが紙巻を灰皿におしつけてもみ消しながら言った。
                                                「ええ、かなり真剣に取り組んでいたようです」
                                                「田川さんはボスポラス通峡権の歴史的変遷をたどっているうちに、現代の問題に行き着いたのではないかと思います」
                                                「現代の? 現代のボスポラス通峡権問題とは、具体的にいうと何のことでしょうか」
                                                「ソ連です」
                                                ベルゲンが強い口調で断言した。
                                                「黒海に港湾を持っているソ連は、ボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通過して地中海に出るルートの航行権を喉から手が出るほど欲しがっています。このルートの自由通峡権を確保し、できればそれを独占したいと考えている。ボスポラスの軍艦通航をトルコに認めさせるために、共同でトルコに圧力をかけようではないかと、ソ連がドイツにもちかけたこともありました。ドイツ対イギリスという資本主義国家同士の戦争が長引いて双方の国が疲弊すれば、そのときソ連がヨーロッパを勢力圏に組み込むことができると彼らは考えている。その意味でヨーロッパとアジアの境であるボスポラスがソ連の勢力下に入るということは、黒海―ボスポラス海峡―ダーダネルス海峡―地中海―ジブラルタル海峡―北海と、ヨーロッパを取り囲む海がやがてはソ連のものになるということです」
                                                「それはまた壮大な戦略ですな。その件はいずれ機会を待って詳しく議論しましょう」
                                                槙村が皮肉っぽい口調で言った。
                                                「そうですね。本日の問題とはちょっと遠かったですね。ソ連はボスポラス海峡についてのソ連側情報をちらつかせて田川さんを引きつけ、見返りに田川さんから何かの情報を引き出そうとした」
                                                「田川の取引相手はボリス・ボフスキーですか?」
                                                槙村が念を押した。
                                                「まずそう考えて間違いないでしょう」
                                                ベルゲンが自信たっぷりに答えた。
                                                「ボリス・ボフスキーがトルコに帰ってくる可能性はありそうですか」
                                                槙村が独り言のような口調で言った。
                                                「それは難しいでしょうね。彼は先月アンカラから姿を消しています。どうやら急遽モスクワに呼び戻されたようです。何のため? 田川さんから仕入れた情報の分析に関わっているか、あるいは、不用意に田川さんに漏らした情報のことで責任を追及されているか、そのどちらかでしょう」
                                                「ソ連が田川から聞き出したかった情報とはなんでしょうか?」
                                                「おそらくそれは、槙村中佐、あなたが今回トルコにこられたいまひとつの目的と関連しているのではないかと思います。あなたのトルコ来訪の表向きの理由は田川さんの事件の捜査状況を知ることですが、われわれがベルリンの日本大使館からほのめかされているいまひとつの隠された目的、どちらかというとその方がより重要な目的なのでしょうが、そのこととおおいに関わっているようです」
                                                「どんな根拠からそのようなことをおっしゃるのでしょうか」
                                                「モスクワからアブヴェール本部に届く情報では、ソ連情報機関はいま2つのことに神経をとがらせています。いつドイツがソ連攻撃を始めるのか。日本がソ連極東に攻めこむのはいつか。その2点です。連合国側はモスクワに対して、いまにもドイツのソ連攻撃が開始されるだろうという警告を繰返し届けています。それに対してモスクワは疑心暗鬼に陥っています。モスクワがその警告を信じきれないのは、ソ連最高指導部の中にその警告が自陣営にソ連を引き込み、ドイツとの戦争を有利にするためにしかけた連合国側のワナではないかと疑っている者がいるからです。連合国から寄せられる情報の信憑性を検討する材料として、かれらはドイツのソ連攻撃の可能性についての別ルートの情報を欲しがっているのです」
                                                「しかし、田川はなぜ死ななければならなかったのでしょう」
                                                「ボリス・ボフスキーが田川さんと接触し、情報を手に入れようとしていたとき、不注意から何か重要なことをふと田川さんに語ってしまったことに気づき、田川さんを生かしておけなくなったとも考えられます。私はソ連の特殊工作員が田川さんを殺害したのではないか疑っているのです」
                                                ベルゲン中佐が突然、核心に入っていった。

                                                 

                                                2019.07.04 Thursday

                                                『だまし絵のオダリスク』   第17回

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                                                  その日の夜、槙村はケレム・オザンを誘って夕食に出かけた。ケレム・オザンは54歳。1890年9月16日夜、台風をついて和歌山県の串本沖を航行中に座礁し、沈没した当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥルル号の殉職した乗組員の遺児だった。エルトゥルル号は親善使節として日本を訪れたあと帰国途中だった。この海難事故で600人近い乗組員が水死あるいは行方不明になった。生存者はわずか70人ほどだった。当時の和歌山県大島村の住民たちが懸命の救援にあたった。日本政府も援助した。民間から義捐金が寄せられた。こうした縁でケレム・オザンは日本の民間団体の奨学金を得て、日本の私立大学で学んだ。1925年日本とトルコ共和国の間で外交関係が結ばれ、日本が正式にイスタンブールに大使館を開いて以来、ケレム・オザンは大使館で働いている古参だった。館員を手際よく補佐し、通訳を務め、トルコ人雇員をひとつにまとめていた。
                                                   日本の大学で学び、日本語を話すケレム・オザンに田川は日本人の同僚には言えない愚痴を聞いてもらっていたようだ。去年7月、松岡洋右が第2次近衛内閣発足にともなって外務大臣に就任し、「松岡人事」と呼ばれるようになった外務省の大幅人事異動を行なった。40人以上もの大使・公使など主要な外交官が帰朝を命じられた。駐ソ大使東郷茂徳を更迭し、
                                                  陸軍中将建川美次を後任にあてた。駐ドイツ大使を来栖三郎から陸軍中将大島浩に代えた。さらに駐アメリカ大使を堀内謙介から海軍大将野村吉三郎とした。キャリアの外交官を軍出身者と入れ替えた。軍の政治介入がとうとう外交にまで及んだ。9月22日には日本軍が仏領インドシナに進駐、同じ月の27日には日独伊三国同盟が締結された。日本の強硬な姿勢に対してルーズベルト大統領が脅迫や威嚇には屈しないと演説し、松岡の登場で日米関係はさらに悪化した。
                                                   駐トルコ大使も武富敏彦から栗原正に代わった。2人ともキャリアの外交官だったが、栗原は軍の主張に共鳴するいわゆる外務省革新派の中心人物白鳥敏夫に近く、大島浩ドイツ大使と同様の枢軸派だった。アンカラの日本大使館でも枢軸派の言説が声高に語られるようになった。大使館随一の枢軸派で、「アナトリア高原の日本オオカミ」とあだ名をつけられた館員は、ドイツが西からソ連を攻め、日本が東からソ連を攻め、やがて日独両国がユーラシア大陸のどこかでまみえる日がくるのだ、など広言していた。だが、それを正面切って世迷いごとと言い返すだけの元気を館員たちは失っているようである。
                                                  「戦争を回避するために妥協点を見つけ出すのが外交の役割なのに、いまは妥協を嫌い戦争も辞さずという荒っぽい風潮が日本外交に蔓延してきている。一体この先、日本の外交はどうなるんだろう、と田川さんが私に言ったことがありました。そのとき田川さんがふと私に漏らした言葉があります。『トルコ女性はいい嫁さんになるかな』と。田川さんはそれ以上のことは何も言いませんでしたが……」
                                                   田川が外務省職員として軍の外交への介入を嫌っていたとしても、それが外交機密を他国に漏らす動機になると疑うのは論理の飛躍だろう。だが、田川がもし別の理由があって機密を漏らそうかどうかと決めかねているときは、こうした不満感が田川の背中を押すことは考えられる。槙村はふといやな予感におそわれた。槙村はケレム・オザンに手をさしのべて握手を求め、ありがとうと礼を言った。そしていまひとつの頼みごとをした。
                                                  「あす朝、アンカラ大学のギュチュリュ教授に電話して面会の約束をとってくれませんか。できるだけ早く会いたい」

                                                   アンカラ大学のギュチュリュ教授との面会の約束はあっさり取れて、槙村は22日の午後、教授と会った。中背だが、太めの胴回りの、アジア風の顔立ちの50前後の男だった。
                                                  「さっそくですが、ソ連大使館のボリス・ボフスキー氏のことですが、田川とはそうとう親しかったと聞いていますが」
                                                  あいさつのあと槙村が切りだした。
                                                  「ええ、お2人ともボスポラス海峡をめぐる議論の歴史について真摯な興味をお持ちでしたが、田川さんは不幸な事件でおなくなりになり、ボフスキー氏は先ごろモスクワに帰任なさったときいています。さびしい限りです」
                                                  「田川はどのくらいの頻度で教授のところへお邪魔していたのでしょうか」
                                                  「田川さんが私の部屋に最初に見えたのは、1年ほど前のことで、イスタンブール大学のスタイナウアー教授の紹介でした。そのときたまたまボフスキー氏もお見えになっていて、お互いの関心のありかがボスポラス海峡問題だということで、意気投合されたようです。2ヵ月に一度程度お見えになりました。たいていボフスキー氏とごいっしょでした」
                                                  「ボスポラス問題以外に、なにか最近の政治事情について2人が話しあっていませんでしたか?」
                                                  「それはもう、お2人とも外交官ですから、今の戦争やトルコの立場、ボスポラス通峡権の今後など、盛んに時事問題を論じ合っていました。私のような書斎人にはなかなか勉強になるお話でした」
                                                  「で、何か極秘情報のやり取りのようなものは?」
                                                  「まさか、わたしが聞いているところでそのような重大なことを話し合われるわけはないでしょう。それに、お2人の話題はどちらかというと、歴史的な資料についてでした。たとえば、1833年にオスマン・トルコとロシアが相互防衛同盟として締結したヒュンキャル・イスケレシ条約の秘密条項である『ロシアが攻撃された場合、トルコは支援の軍を派遣する代わりにロシアを除くすべての外国軍艦の海峡通過を禁止する』が合意された背景を説明する史料などについての情報交換でした。そのあたりは私も興味を持っているところなので、お2人の会話に仲間入りさせていただき、有意義な時間を過すことができました」
                                                  「ボスポラス問題はなかなか奥の深い国際問題なのですね」
                                                  「ボスポラス海峡問題はロシアとトルコの歴史的な勢力争いの象徴です。最近はトルコの旗色が悪い」
                                                  ギュチュリュ教授がおだやかな口調で話し始めた。
                                                  「ロシアとトルコの勢力争いは、それぞれがロシア帝国、オスマン帝国とよばれていた18世紀から繰り返されています。ロシアとトルコのあいだの戦争の理由は、トルコの北方への野心ではなく、黒海から地中海めざして南下しようとするロシアの地中海への情熱です。最初のうちは、そう、18世紀のはじめごろまではオスマン帝国とロシア帝国の戦争遂行能力はほぼ互角で、黒海北岸の支配権をめぐる戦争は一進一退のうちに終始していました。ロシア帝国の実力がオスマン帝国を凌駕するようになったのは18世紀の後半からのことです。エカチェリナ2世の時代のロシア帝国はオスマン帝国の属領だったクリミアを手中におさめました。勢いにのってバルカン北部への進出をねらったロシア帝国は、オスマン帝国とロシア帝国の間の緩衝国だったポーランドの王位継承問題に干渉しました。ロシアに押し出される格好でオスマン帝国領内に逃げてきたポーランド民族主義者を追って、ロシア軍がオスマン帝国領内に侵入し、そこでロシア帝国とオスマン帝国は1768年に戦争状態に入りました。オスマン帝国はこのころ軍事的に弱体化しており、ギリシャでは民族蜂起まで起きた。戦争に勝ったのはロシア帝国でした。この戦争によってロシア帝国は黒海における艦隊の建造権、商船のボスポラス海峡とダーダネルス両海峡の通峡権とを獲得しました。また、オスマン帝国領内におけるギリシャ正教徒に対する保護権も得て、それをオスマン帝国の内政への干渉の口実に使う糸口をつかみました。いや、申し分けない。退屈ですかな。このような初歩的な歴史の話は」
                                                   ギュチュリュ教授が槙村に言った。
                                                  「とんでもない。いい勉強になっています。ぜひとも続きをお聞かせください。田川が興味を持っていたことの真相に迫るために必要な基礎知識ですので」
                                                   槙村が応じた。
                                                  「このあと、ワラキアとモルダビアの支配権をめぐって両国は戦争を開始。ギリシャで民族解放戦争が始まりました。ギリシャ解放戦争を支援したロシア、イギリス、フランスとの海戦でオスマン帝国は敗北しました。オスマン帝国はギリシャの独立を承認しました。ロシアはドナウ川河口の諸島や東部アナトリアのいくつかの地域を割譲させ、黒海の制海権を事実上手に入れました。次にクリミア戦争。19世紀中ごろ、聖地エルサレム管理権問題が発端になってロシア帝国とオスマン帝国が開戦しました。イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニャはオスマン帝国を支援してロシアに宣戦しました。この戦争でロシア帝国は負けました。その結果、黒海は中立地帯に指定されることなどが決まりました。このあとも、ロシア帝国はパン・スラブ主義を掲げてバルカンへ再進出しました。黒海で艦隊の建造を進めた。バルカンで民族蜂起が起こると、ロシア帝国はスラブ民族の救済を口実としてオスマン帝国と戦端をひらきました。この戦争でオスマン帝国はロシア帝国に敗北し、オスマン帝国の領土だったバルカンでロシア帝国の影響力が強まりました。これを機にオスマン帝国の領土は西欧列強の草刈場になりました。フランスがチュニジアを占領し、イギリスがエジプトを占領しました。第1次世界大戦での敗北で、オスマン帝国は瓦解し、トルコはかつての版図の大半を失ってこぢんまりとした弱小共和国として、列強の鼻息をうかがいながら延命しているわけです……」
                                                   槙村はギュチュリュ教授の部屋から早々に退散した。

                                                   

                                                  2019.06.06 Thursday

                                                  『だまし絵のオダリスク』   第16回

                                                  0

                                                     



                                                     大使館の保安態勢の確認作業を終えた槙村は、20日から大使館に残されている田川関連の資料、報告書などにあらためて目を通し始めた。
                                                     槙村は田川がここ1年ほどの間に東京へ送った報告書の控えの綴りを点検した。田川の死と結びつくような内容の報告を探そうとしたのだ。だが、大使館でトルコとバルカンの経済情報の収集と分析を担当していた田川の報告は、槙村の目には退屈な代物に映った。
                                                     田川はトルコ政府の経済統計発表資料や現地の新聞報道などを引用した経済報告を数多く外務省に送っていた。内容はともあれ報告書の本数だけで考えれば田川は働き者の官吏だったといえる。田川の報告書はどれも無機的な文章でつづられていた。
                                                     たとえば、1939年のトルコの耕作面積がいくらであるとか、農産物の収穫量の第一は小麦であり、大麦がそれに続き、家畜飼育頭数では羊が第1位で山羊、牛がそれに続く。トルコの1935年の人口が約1600万で、1939年の羊の飼育頭数が約1900万と、この国では人間より羊の方が多い。そういった退屈な数字が並ぶ報告書ばかりだった。田川の報告書は東京で外交政策を決めているお偉方の目に触れることもなく、外務省の文書倉庫の中で眠りこけていることだろう。
                                                     そうした報告の中で、槙村がふと目にとめたのは、トルコの外国貿易統計だった。1938年にはドイツ・オーストリアがトルコの最大の貿易相手国だった。トルコの輸入の47パーセント、輸出の33パーセントを占めていた。輸入相手国ではイギリスの11パーセント、アメリカ合衆国の10パーセント、輸出相手国ではアメリカ合衆国の12パーセント、イタリアの10パーセントに大きく水をあけていた。
                                                     ヨーロッパで始まった戦争を、それぞれ自国に有利な方向へ展開させようとして、ドイツ、イギリス、ソ連がトルコに秋波をおくっている。経済的な依存度からすればトルコとドイツの関係が他の2国をはるかに引き離して濃密である。トルコとソ連の間の貿易関係は輸出入とも全体の4パーセント弱に過ぎない。
                                                     この4月ドイツはトルコに対して軍事協力を執拗に求めた。イラクで親ドイツ路線をとるラシード・アル・ガイラーニーがクーデタを起こしたときのことだった。
                                                     オスマン帝国の衰退は19世紀すでに始まっていたが、第1次世界大戦の結果、オスマン帝国の崩壊がもはや決定的になり、ヨーロッパの列強、イギリス、フランス、イタリア、がオスマン帝国の版図を分割し、新しい支配者になろうとした。北アフリカはイギリス、フランス、イタリアが分捕り、中東ではシリア、レバノンをフランスが、パレスティナをイギリスが手に入れた。
                                                     イラクでは親英国グループと民族主義グループの2つの政治勢力の対立が激しくなっていた。オスマン帝国崩壊にともなってイラクに王国が成立したのは1921年のことだった。そのころイラクはイギリスの委任統治下におかれていた。イラクが正式に独り立ちの国家として成立したのは1932年だったが、イギリス・イラク条約によって事実上のイギリスの間接統治が続いた。このため、イギリスの庇護の下で、親英派の旧オスマン帝国軍人や官僚たちによる政権が続いた。
                                                     一方でイギリスの中東政策に批判的なアラブ民族主義政治グループが台頭してきた。政権の座についた権力者が反対派を封じ込めて体制維持をはかる役目を軍に期待し、軍を増強する例はめずらしくない。増強された軍はやがて軍の権益拡大のために政治グループと結びつき政治に介入し始める。
                                                     第2次世界大戦が始まるとイギリスの支配下にあったイラクで、反英派のイラク人政治家がドイツと組んでイギリスの支配を断ち切ろうとする動きを見せた。1941年3月、軍のアラブ民族主義者たちのクーデタによって、親ドイツ派のラシード・ガイラーニーが首相になった。
                                                     イギリスは追放された前首相を保護下に置き、イラクへ軍を進めた。そこでガイラーニーはドイツに軍事援助を求めた。成り行きによっては、中東でイギリスとドイツの代理戦争が始まりかねない情勢だった。
                                                     ドイツはガイラーニー政権への援助物資をバルカンのトルコ国境まで輸送できる。だが、そこからイラクに輸送するためには、どうしてもトルコ領内を通過しなくてはならない。ドイツはトルコに隣接する西トラキアの一部などをトルコに割譲するのと引き換えにイラクへの援助物資のトルコ領内通過を認めて欲しいと告げた。
                                                     対英関係に配慮するトルコがドイツの要求を呑むことを渋っているうちに、イギリスはインドから送り込んだ部隊を使ってガイラーニー勢力つぶしにかかった。ドイツからの援助物資が届かないかぎり、イギリスによるガイラーニー勢力の一掃は時間の問題だろう。
                                                     触れれば火傷しそうなほど熱い昨今の政治動向に関連した報告書でもあれば田川の死の理由を探る糸口になると槙村は期待していたのだが、それらしいものは見つからなかった。槙村は20日いっぱいをかけて田川が東京に送った報告書や、田川が宿舎に残していた書籍、ノート類に目を通した。だが、これといった収穫はなかった。
                                                     槙村は21日、田川と親しかった二等書記官の島原から、田川の行動について話を聞いた。島原は大使館きってのトルコ語の使い手だった。また、田川より1年早く大使館に赴任してきた先輩でもあった。
                                                    「田川さんがトルコ人の若い女性と一緒に死体で見つかったことは、私にとっても驚きでした。田川さんの身辺にはあまり女っ気が感じられませんでしたから。なんというか、洗濯したてのシャツのような清潔感のある感じの人でしたから。多分、日本に田川さんの帰国を待ちこがれている恋人がいるのかもしれない、などと私たちは思っていたのですよ」
                                                    島原が言った。
                                                    「一緒に死んでいた女性、名前はチチェキというのですが、その名前を田川からお聞きになったことはありませんでしたか」
                                                    槙村が念のために聞いた。
                                                    「いいえ、それらしい名前は耳にしたことがありません。ご覧のとおりアンカラは荒涼とした開発途上の首都でして、ここに駐在する各国の外交官たちは暇をみつけてはイスタンブールに出かけます。そこにはなつかしいヨーロッパの匂いと、海から吹いてくる涼しい風がありますから。アンカラでは連合国側と枢軸国側の外交官は必要な公式接触の場を除いて、顔をあわせることがなくなりました。とはいえ、このとおりの狭い世間ですから、外交官たちの私行に関わる噂は、回りまわって伝わってくるのです。某国大使館高官が最近イスタンブールのフラットにギリシャ系の美女を囲い、用件をつくっては足しげくイスタンブールに通っている、とかなんとか。イスタンブールへ女あさりに出かけることを、ここの外交官連中は『ポアソン・グレック(ギリシャの魚)を味わいに行く』と隠語で言っています。たしかに、マルマラ海はダーダネルス海峡を通じてエーゲ海につながっていますから、本物のギリシャの魚がエーゲ海から入ってくるかもしれない。各国の大使ともなるとアンカラの夏の暑さを避けて涼しい海風の吹くイスタンブールの領事館や大使の別邸に行き、備え付けの小型ヨットに外交団やトルコ政府高官らを招いて海に出て、ボスポラス海峡で本物のポアソン・グレックの釣りを楽しんでいます。そうした釣り大会が密談の場になることもあるそうです。あるいは、某国の書記官がイスタンブール出張のさいはめをはずしてペラのバーでブランデーをあおった勢いで、日ごろ中の悪かった某国の館員と殴り合いのけんかをしたとか。アンカラは外国人にとっては閉塞社会ですから、うさばらしにこの手の噂は珍重されるのです。ですが、田川さんについてはこうした噂はこれっぽっちも聞いたことがありませんでした」
                                                    「大使や総務担当一等書記官から聞いたのですが、田川は経済情報以外にも、ソ連の軍事情報収集の手伝いをしていたそうですね。もっとも、田川が自分の名前でソ連情報を本省に送った形跡は見あたりませんでした。おそらくソ連専門の書記官に情報提供していた程度なのでしょう。島原さん、ソ連情報の関係で田川と何か話をなさったことがおありですか」
                                                    「ええ、ソ連情報に関心があると田川さんはいっていました。いまどき日本の在外公館に勤務している外交官であれば、誰しもそうでしょうが、極東におけるソ連軍の兵力配置に関する情報収集と、ソ連側の対日情報収集工作についての情報集めです。こんなことを武官の方に申しあげるのは気がひけるのですが、ソ連は兵力の一部をヨーロッパ戦線に移したがっている。移動の前提は日本のソ連極東地域への進攻の可能性が薄いと確信できることです。ソ連はその点に関して日本の情報をほしがっている。一方で、ドイツはソ連の兵力をこれまで通り極東部にはりつけておきたい。そういうことで田川さんはソ連とドイツの大使館員と接触を重ねていたのではないでしょうか。田川さんのいまひとつの関心であるボスポラス海峡に対するソ連の野心についての情報収集も目的だったのでしょう」
                                                    「田川はどの程度の情報収集ができていたのでしょうか。その点で何かお気づきになったことは?」
                                                    「こういう言い方は亡くなった田川さんに失礼かもしれませんが、しかるべき訓練を受けたことのない外交官に諜報員もどきの秘密情報盗み出しなどしょせん不可能でしょう。外交官にできることは情報の分析とその分析にもとづいた将来予測です。しかし、その予測を出したところで、天気予報みたいにあたるも八卦あたらぬも八卦と、棚の上に放りあげられておしまいなのですが」
                                                    「田川のいまひとつの関心だったボスポラス海峡へのソ連の野心については、なにかご存知でしょうか」
                                                    「田川さんは学究肌のところがありましてね。イスタンブール大学法学部のスタイナウアー教授と親しく、教授の指導でボスポラス海峡の通航権問題と取り組んでいました。スタイナウアー教授はユダヤ系ドイツ人です。ナチの迫害をうけている一流のドイツ人学者の受け入れに積極的なイスタンブール大学に招かれて、そこで国際法を教えています。ボスポラス通峡権問題では、世界的な権威の1人だそうです。田川さんはイスタンブール出張を利用してはスタイナウアー教授に会って研究の指導を受けていたようです。一方、帝政ロシア時代からのロシアのボスポラス海峡に関する政策については、アンカラのソ連大使館員ボリス・ボフスキーがその専門家で、彼からさまざまな資料や情報を仕入れてもいました。ボフスキーも田川さんもアンカラ大学のギュチュリュ教授の研究室へよく出入りしていました。この教授もトルコ側から見たボスポラス海峡問題の専門家といわれています。私がお話できるのはこの程度のことです。すこしでもお役に立てばうれしいのですが。ところで、大使館のトルコ人職員ケレム・オザンとお話になりましたか。田川さんはトルコ政府や他国の大使館、地元新聞との接触のさい、トルコ語が必要と思われるときはオザンをともなって出かけていましたから、彼から私が知らない部分についてもお聞きになれるかも知れません」
                                                     そう言って島原は自分の仕事へもどっていった。

                                                     

                                                    2019.05.22 Wednesday

                                                    『だまし絵のオダリスク』   第15回

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                                                       列車がアンカラ駅に到着した。風の強い朝だった。槙村は小型の旅行鞄ひとつでアンカラ駅に降り立った。アンカラの鉄道駅は市の中心部からはずれたところにあった。もともとアンカラはイスタンブールにくらべれば小さな田舎町にすぎない。アンカラは田舎町の原野を切り開いて造成されている開発途上の都市だ。不便なうえ気候も厳しい。アンカラの夏は暑く、冬は雪に埋もれる。政務だけのあじけない人工都市だ。
                                                       1923年に成立したトルコ共和国は首都をアンカラに定めた。首都がトルコのイスタンブールからアンカラに移ってからも、各国ともしばらくは大使館をイスタンブールにとどめおいた。大使館のアンカラ移転は1930年代になってからのことで、日本大使館がアンカラからに移転したのも1937年のことだった。
                                                       アンカラの街には一本の大通りがはしり、その名をアタテュルク通りといった。アタテュルク通りの両側にトルコ共和国議事堂、内務省、国防省、外務省をはじめとする政府機関の建物がならんでいた。ドイツ大使館、ソ連大使館、イタリア大使館、ハンガリー大使館、日本大使館、イギリス大使館、フランス大使館、アメリカ合衆国大使館などの外国公館もアタテュルク大通りに沿って建っていた。街にはまだ気のきいたレストランが少なかった。イギリス、ドイツ、イタリアの外交官や実業家、ジャーナリストたちが同じレストランで隣り合わせのテーブルを占めることもあったが、ヒトラーがヨーロッパで戦争を始めてからは、さすがに戦争当事国の外交官同士はそっぽを向き合っていた。
                                                       19日朝、槙村はアンカラ鉄道駅からタクシーで日本大使館へ直行し、さっそくベルリンで指示を受けていた作業を始めた。

                                                       槙村は今回のトルコ出張にあたってベルリンの大使館付海軍武官の飯島少将からトルコでやるべき作業の指示を受けていた。
                                                       5月9日のことだった。槙村は海軍武官事務所の廊下で「槙村君」と飯島少将に声をかけられた。
                                                      「話したいことがある。君、いま手があいていますか」
                                                      「はい」
                                                      「では、私の執務室へ」
                                                      飯島少将の執務室に入った。飯島少将は例によって単刀直入に話の核心に入っていった。
                                                      「間もなくソフィアに出張ですね。そのあとしばらくの間トルコにも出張してくれませんか。アンカラやイスタンブールでやってもらいたい仕事があります。アンカラの大使館の通信部門の保安態勢の点検です」
                                                      槙村はだまって飯島の顔を見ていた。飯島が槙村の顔をじろりと見て話を続けた。
                                                      「外交電報が盗み読みされている疑いがあるのです。東京と大使館との秘密通信がアメリカ合衆国に漏れていると、ドイツから大島大使に警告があった。大島大使は第三帝国べったりで、日本帝国大使というよりドイツ第三帝国のお仲間のような人だ。だが、それなりにヒトラーに好感をもたれていて、リッペントロープ外相らから重要情報を聞き出して東京に報告している。大島大使が東京に送っているその機密情報がどこかで漏れているのではないかとドイツ側は神経をとがらせているのです」
                                                      「たしかな疑惑なのですね」
                                                      「ああ、どうやらね」
                                                      「それで、漏れているとすれば情報伝達ルートのどのあたりからと、見当がついているのでしょうか。情報漏れの場所はベルリンなのか、東京なのか、それともワシントンなのか。あるいは世界のどこかの大使館、あるいは領事館の通信室なのか。ひょっとして、日本の暗号通信が傍受・解読されているという致命的な原因によるものなのか」
                                                      「そのあたりはまださだかではなくてね。ともあれ各大使館の通信室の保安管理についてあらためて点検するよう東京から指示があった。槙村君、ドイツ進攻後のバルカン情勢視察に出かけるついでに、アンカラの大使館で通信保安管理について調べてもらえないだろうか。駐ドイツ海軍武官府がアンカラの大使館の機密保持について調査するというのは違例のことだ。だが、アンカラのほうでも、大使館独自に機密保持体制の点検を進めており、もし君が外部からの目でダメ押しをしてくれるのであればありがたい、と言っている。君がアンカラに出かけることについては、もちろん駐トルコ大使やあちらの武官からも了解をもらっている。海軍武官用の暗号が解読されているという情報はまだないが、こちらの方も、外交電報漏洩についてのトルコの外交筋の噂ともども、気にとめておいていただけるとありがたい」
                                                      「承知しました。できる限りのことはやります」
                                                      槙村は真面目な表情で答えた。
                                                      「ドイツ政府やドイツ国防情報部などに、君の出張について便宜をはかってくれるよう頼んでいる。先ごろ君の甥ごさん、田川君でしたな、イスタンブールで不慮の死をとげられたが、また事件の真相は解明されていないと聞いています。今回のトルコでの任務は暗号に関わる事柄なので、内密にしておきたい。そこで表向きは甥ごさんの死についてのイスタンブール警察の捜査のその後を知るためにトルコを訪れたということにしておいてください。イスタンブールではドイツ、イギリス、ソ連が熾烈な諜報線を展開していると聞いている。トルコで旅行の目的に関連して君に接近してくる人物がいるかもしれない。注意深い目配りと対応をお願いしておく。外交電報漏洩について何か手がかりになる情報がつかめるかもしれない」
                                                      飯島少将が念押しした。

                                                       槙村は5月19日の午前中から大使館で通信保安関係の点検作業を始めた。大使館の通信室には通常の外交通信用の電信機が1台と、通信室の奥に施錠した別室があってそこに九七式欧文印字機とよばれる暗号機が備え付けられていた。機密度の高い通信はこの暗号装置を使っていた。
                                                       外務省は海軍用に開発された暗号機に変更を加えて使用していた。海軍用はカタカナ印字、外務省用はアルファベット印字だった。九七式印字機は九一式印字機の後継機だった。1931年に九一式印字機が完成した。1931年が皇紀二五九一年だったことから九一式と名付けられた。後継機の九七式は1937年(皇紀二五九七年)に完成した。外務省用は暗号機B型と呼ばれた。外務省と同じ九七式欧文印字機が海軍武官用に使われていた。もちろん、一方の暗号が解読されても、残る一方の暗号は解読されないように、内部の暗号化メカニズムは変更されていた。
                                                       暗号機の置いてある別室、つまり暗号通信室は常に施錠されていて、通信担当の二等書記官が1個、総務担当の一等書記官が1個をそれぞれの金庫で保管していた。また、暗号通信室の使用については使用簿に使用者、通信依頼者名、それに使用時間が記録されることになっていた。通常、使用者は通信室の通信担当員だが、機密の高いものは担当の館員が直接自分で暗号機を操作することもあった。
                                                       暗号室に出入りできるものは日本人の館員に限られていた。また、東京や他の大使館から受信した電報は暗号電報をふくめ、通信担当の二等書記官が総務担当の一等書記官にわたし、そこから担当部署に配布されることになっていた。
                                                      槙村は総務担当の一等書記官が中心になってまとめた館内保安調書を読んだ。保安調書は大使館員から外部に機密情報が漏れていることはありえないと結論していた。大使館のトルコ人現地雇員の身元調査からも疑惑につながるような点はうかがえなかった。大使をはじめとする大使館幹部は、大使館関係者からの情報漏れは絶対にありえないと断言していた。この大使館から情報が漏れていたことはありえない、と槙村も感じた。
                                                       

                                                       

                                                      2019.05.01 Wednesday

                                                      『だまし絵のオダリスク』   第14回

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                                                         5月18日の日曜日、槙村はアンカラに向かった。イスタンブールのハイダルパシャ駅から夜行列車に乗って寝台車で一晩眠れば、19日の月曜日午前中にアンカラに着く。
                                                         イスタンブールのヨーロッパ側を出たフェリーが対岸のアジア側の埠頭につくころ、西に傾いた陽をうけて、海岸から海に突き出た壮麗なハイダルパシャ駅の茶色の壁面が赤みをおびて輝いていた。駅舎としては、西欧に向けたオリエント急行のターミナルであるシルケジ駅よりも、アジア・中東に向けて開いたハイダルパシャ駅のほうがはるかに力感にあふれている。それは威容という言葉がぴったりだ。
                                                         ハイダルパシャの駅舎を設計したのはヘルムート・クノとオット・リッターの2人のドイツ人建築家だ。1906年に着工、2年後の1908年にネオ・ルネサンス様式のこの駅舎を完成させた。
                                                         ハイダルパシャ駅の敷地はマルマラ海沿いの軟弱な地盤だったので、長さ20メートルほどの材木を使って、千本を超えるパイルを打ち込んだ。ハイダルパシャ駅のファサードはドイツ人とイタリア人の石工が飾った。
                                                         まるで海の上に浮かんでいるように見えるハイダルパシャ駅はいまや、東ローマ帝国時代やオスマン・トルコ時代の歴史的建造物にひけをとらない、イスタンブールの風景に欠かせない存在になっている。この建物の壮麗さはドイツ帝国が中東地域へむけたぎらぎらする野望の反映であった。
                                                         19世紀末、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオスマン・トルコのスルタン・アブドゥル・ハミト2世に接近し、ハイダルパシャとアンカラを結ぶ鉄道の敷設権を手に入れた。中東へむけて勢力拡張をもくろむヴィルヘルム2世は、さらに、当時まだオスマン・トルコ帝国の領域だったバクダッドに至る鉄道敷設権もあわせて獲得した。
                                                         カイゼル髭で日本でも有名だった膨張主義者ヴィルヘルム2世がトルコに向ける視線は熱く、皇帝(カイゼル)はトルコ訪問にあたって、ヒッポドロームにアルマン・チェシュメシ(ドイツの泉)とよばれる泉亭を建て、これをスルタンに贈っている。
                                                         ハイダルパシャ駅はベルリンからビザンティウムを経てバクダッドを結ぶ3B政策、つまりはドイツ帝国の中東への野望の象徴である、とイギリスやロシアは警戒していた。
                                                         しかし、野望はお互いさまだった。イギリスはそのころケープタウンからカイロを経てカルカッタに至る3C政策で世界制覇を企画していたし、ロシアは虎視眈々とアフガニスタンやペルシャへ南下する機会をうかがっていた。このため、インドを植民地にしていたイギリスは、ロシア相手にトルキスタンの高原で古典的諜報戦「グレートゲーム」を繰り広げていた。ラドヤード・キプリングの『キム』の世界である。
                                                         槙村は見送りに来てくれたイスタンブール駐在の日本大使館員、別所剛三とハイダルパシャ駅の天井の高い気持のよいレストランで軽い食事を済ませた。プラットフォームまでつきあってくれた別所と車両の前で別れた。コンパートメントに入ってしばらくすると、軽い揺れがあり、列車がハイダルパシャ駅を離れていった。
                                                         列車が動き出してしばらくは薄暮のなかに町の灯りが点々と見えていたが、やがてその灯りもまばらになり、列車の窓の外は濃い闇につつまれていった。
                                                         夜空に星が見え始めた。槙村はコンパートメントの寝台に横になり、明日からアンカラでやらねばならないことを手帳に箇条書にしてみた。さして意味ある結果を期待できるような作業とは思えなかったが、ぬかりなさを価値とする役所仕事の手順として踏んでおくべき事柄だった。作業手順のあらましを手帳に書きとめおえて、槙村は眠気を誘い込むために列車の振動に身をゆだね、羊を数える代わりに、海軍暮しで身につけた就眠儀礼を始めた。
                                                         海軍といえども平時の洋上勤務は退屈な毎日の繰返しで、当直勤務からはずれた夜は眠るぐらいしかやることがなかった。どうやって寝つくか。海軍軍人はそれぞれの就眠儀礼を持っていた。国鉄東海道線の駅名を東京から神戸まで数えるやつ、般若心経を繰返し声にはださずとなえ続けるやつ、枕草紙の記憶や自ら体験した濡れ場のシーンのページを頭の中でめくるやつ――これなどはかえって寝つけなくなるのではなかろうか。
                                                         槙村のそれは銭湯談義風に世界史の中を漂い、その愚行の繰返しに苦笑しつつ眠気を呼び込む方法だった。列車の振動の中でいま槙村はその就眠儀礼を試みている。
                                                         ――ヒトラーが率いるドイツはイタリア、日本と三国同盟を結んでヨーロッパを席巻している。ドイツはすでにブルガリアにまで勢力圏を拡大し、トルコを陣営に組み込む機会をうかがっている。ドイツは再びさまざまな利益誘導でトルコを自陣営に引き入れ、さらにはトルコを通過して中東への進出をねらっている。これはカイゼルの時代の3B政策の再現だ。
                                                         かつてドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗して、ロシア、フランス、イギリスが三国協商を結成した。相互の反目はやがて第1次世界大戦へとなだれこんでいった。
                                                         オスマン・トルコがイギリスのアームストロング造船所に発注していた戦艦スルタン・オスマン1世が、1914年、トルコに引き渡される直前になって英国政府に接収されたことがあった。もともとこの戦艦はブラジルが発注し、建造の途中でブラジルがトルコに転売したものだった。それを今度は第1次世界大戦にむけて英国が自国海軍の戦艦として使用することことにしたのだ。トルコに反英感情が沸騰した。これをドイツがうまく利用した。ドイツは巡洋艦2隻をトルコに派遣した。2隻の軍艦はイスタンブールの金角湾に到着した。軍艦が入港するとドイツはこの2隻をトルコに売却することにしたと、大宣伝した。こうしてドイツはオスマン帝国を味方に引き入れ、同盟国として第1次世界大戦に参加させることに成功した。だが、この参戦がオスマン帝国の命取りになった。
                                                        「歴史は繰り返す」と最初に言ったのは、『アレクサンドロス大帝事蹟』を著したクィントゥス・クルティウス・ルーフスで、彼の死後さまざまな人が同様な趣旨の言葉を繰り返した。カール・マルクスは、おそらく彼が書いた本のなかで一番面白い『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の冒頭で、世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるものだとヘーゲルがどこかに書いていたが、私に言わせれば、ヘーゲルは、「最初は悲劇として、二度目は茶番として」と付け加えるのを忘れた、と書いている。
                                                         結局、人間は数限りない茶番を繰り返し、それを歴史とよんでいるのだ。時の権力者とその取り巻き連中の頭の中に巣くっているのは陣取りゲームの図面だ。その図面を権力者たちはマンダラ(涅槃図)とよび、その実現を唱えて人をかり集める。古代エジプト第19王朝のラムセス2世は当時のエジプト人の平均寿命の倍近い80年以上を生きたといわれている。だが、その長い人生のほとんどを、領土拡張と戦争のためについやした。パレスティナをめぐってヒッタイトと争い続けたが決着はつかなかった。そこで平和条約を締結して休戦。大勢の女性に200人近い子どもを産ませた、と伝説は言う。アブシンベルに神殿をつくり自らの巨大な石像を刻ませた。ラムセス2世の号令で戦の場に駆り立てられた兵士もまた、命をかけたゲームの興奮に酔いしれて、前後不覚の状態になっていたのだろう。巨人とその巨人を尊崇するその他大勢の大行進。その懲りない繰り返しが歴史なのだ。もっとましな人生もあったろうに、もったいないことだ。
                                                         ……やがてめでたく槙村は眠りに落ちていった。

                                                        2019.04.19 Friday

                                                        『だまし絵のオダリスク』    第13回

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                                                          「槙村さん」
                                                          ピーター・ケーブルが改まった口調で言った。
                                                          「けさブルー・モスクにいらっしゃいましたね」
                                                           彼は尾行に気づいていたのだ。槙村は認めるしかなかった。
                                                          「ええ、一度中を見たいと思っていましたので」
                                                          「私もイスタンブールに来た知人を案内して来ました。確かに一見の価値があるモスクです。オスマン・トルコ時代にモスクに転用されたアヤ・ソフィアが1930年代に非宗教の博物館になったので、スルタン・アフメト・ジャーミーとシュレイマニイェ・ジャーミーがイスタンブールを代表する2大モスクになっています。スルタン・アフメト・ジャーミーがブルー・モスクとよばれるのは、モスク内部が壁面にはられたタイルの青い色でみたされているからです。スルタン・アフメト・ジャーミーは1609年、アフメト1世が19歳の時に建設を始めた。スルタンはこのモスクに相当いれこんでいたようで、時には現場に立って建設作業を激励・督促したと伝えられています。モスクは1616六年に完成したが、アフメト1世はその翌年の1617年に27歳で若死にしました。ブルー・モスクがおもしろいのは、ミナレットが6本も建てられていることです。スルタンがミナレットを『アルトゥン(金色)にせよ』と言ったのを、建築家が『アルトゥ(6)』と聞き間違ったからだといわれていますが、この手の話の真偽のほどは例によって定かではありません。いやいや、これはどうも。イスタンブールに来る客をしょっちゅう案内するので、すっかり能書きを覚えてしまいました」
                                                          「モスクを建てるだけために生まれてきたようなスルタンだったわけですね。おもしろい話をありがとうございます」
                                                          「歴史がおもしろくなるのはアフメト1世の死後です。アフメト1世の妃キョセムはギリシャ系の奴隷で、アフメト1世の死去後、彼女が生んだ子のオスマン2世、ムラト3世、イブラヒムや、孫のメフメト4世が次々とスルタンになったので、ヴァリデ・スルタン(スルタンの母)として長期間権勢をふるいました。だが、ついにはハレム内の勢力争いで孫のメフメト四世の母后、つまりは息子の嫁であるトゥルハン・ハティゼに殺された。トゥルハン・ハティゼの命を受けたハレムの宦官長が、カーテンの絹の紐でキョセムの首を絞めたそうです」
                                                          「チチェキ嬢も絹の紐で絞殺されていた」
                                                          槙村のこの言葉にピーター・ケーブルの表情がちょっとゆがんだ。だが、彼は再び話題をブルー・モスクにもどした。
                                                          「オスマン2世は叔父にあたるムスタファ1世にスルタンの座を奪われたのち殺された。スルタンを直接手にかけたのは、スルタンの親衛隊イェニチェリでした。イェニチェリはもともとスルタン直属の精鋭部隊で、槙村さんのお国の日本でいえばトクガワ・ショーグンのハタモトのような存在でしたが、オスマン2世のころには堕落の果てに、戦力としてはもはや頼りにできなくなっていた。軍改革を進めようとしていたオスマン2世がイェニチェリを潰すのではないかと恐れたイェニチェリの将軍たちが、スルタンを捕らえて塔に押し込めたすえ絞殺したといわれている。いや、スルタンは睾丸を潰されて殺されたのだ、という説も流布しています。奇妙な殺し方だが、それもスルタンを殺すためのオスマン・トルコの伝統的なやりかたのひとつだったのだそうです。アフメト1世の弟ムスタファ1世が跡をついだが、ほどなく甥のムラト4世によってスルタンの座を奪われた。ムラト4世が死ぬと、残された弟のイブラヒムがスルタンになった。彼は凶暴なだけの無能な君主で、ハレムの女性の不義を疑って妾姫数百人をボスポラス海峡に沈めて殺したと伝えられています。弟の異常な性格を危ぶんでいたムラト4世は死の床で、おれが死んだらイブラヒムを殺せと言い残したそうです。その通りイブラヒムの治世はおおいに乱れ、彼は退位後に監禁され、絞殺されました」
                                                          「スルタンというのはろくな死に方ができない、幸い薄い仕事だったようですね」
                                                          「かれらには死ぬ理由があった。現代では人はこれといった理由なしで殺されている。ゲルニカのように。ところで、チチェキがなぜ田川さんと一緒に死体で見つかったか、その理由はわたしにも謎なのです。田川さんが何らかの理由があって、チチェキをイスタンブールの謀略の世界に連れ込んだのではないか、と疑う気持もあります。さて、せっかくベルリンからお見えになった日本の海軍中佐殿とお目にかかれたのですから、ちょっと職業上のお話もさせていただけませんか」
                                                          ケーブルが静かに言った。
                                                          「外交情報についてはあまりくわしくないほうですが」
                                                          槙村があいまいな口調で返事した。
                                                          「世界の関心は、日本がまずソ連に向かってアジアの北方で戦端を開くのか、それともイギリスに対抗してアジアの南方へ兵を進めるのか、あるいは南北同時に戦線を張るのか、予想を裏切って中国問題で譲歩を見せるのか。戦略的見地から一般論として考えられる選択についてレクチャーしていただける幸いです。もちろん、お聞きしたその分析はオフ・ザ・レコードで、記事の背景説明に使うときあなたの名前がそこに引用されることは絶対にないとお約束します」
                                                          もうこのくらいでおしまいにしてくれというピーター・ケーブルの婉曲な催促だと槙村は聞いた。

                                                           

                                                          2019.04.01 Monday

                                                          『だまし絵のオダリスク』   第12回

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                                                            イケメン・メフメトは槙村が去ったあと、両手で後頭部を支えながらしばらくオフィスの天井を眺めていた。やがて電話をとりあげて、イスタンブール警察本部のオメル・アシク警部と話し始めた。
                                                            「きのう槙村中佐をチチェキの母親のところへ案内した君の部下は、槙村中佐について何か変わった点を報告しなかったか」
                                                            「彼の観察では、中佐とチチェキの母親との話の内容や、中佐の態度にはとくに不自然なものは感じられなかったそうだ」
                                                            オメル・アシクがイケメン・メフメトに言った。
                                                            「信頼できる警官かな」
                                                            もちろん。部下の中でも腕っこきの男だ。例の山羊髯の東洋人の身元調べも担当させている警官だ」
                                                            うちでも調べているが、そっちのほうは何かあたりがあったかい?」
                                                            イケメンが尋ねた。
                                                             チチェキと田川が死体で発見された3月5日の前々日、つまり3月3日、イスタンブールの空港で東洋人の男が中華民国のパスポートで入国した記録があった。警察は念のため入国管理の職員に槙村の写真を見せた。その中華民国のパスポートで入国した男は、眼鏡をかけ山羊髯を生やしていた、と入国管理の職員は言った。その中国人は田川の死体が発見され日の朝、イスタンブール空港から出国している。
                                                            「この男が日本によって差し向けられた殺し屋ではないかと君が疑う理由はなんだね、イケメン」
                                                            オメルが揶揄するような口調で言った。
                                                            「そやつが日本の殺し屋だったとすると、この殺人事件の真相はいまわれわれが考えているものとは全くちがう方向へ展開して行く可能性がある。田川とチチェキは日本が放った殺し屋によって処分されたという筋書きになる。合理的かつ実証的な捜査のベテランである君から見ると、実にばかばかしいことだろう。だが、なぜ槙村中佐がこの時局多難なおり、甥の殺害事件だとはいえ、彼に捜査ができるわけでもないイスタンブールにまたぞろ現れたことを私は奇妙に思っているのでね。そもそも日本をとりまく状況を思えば、ベルリン駐在の武官がイスタンブールでふらふらしている時間などないはずだ。彼がイスタンブールを再訪した理由は、日本の外交官殺人に日本政府あるいは日本軍の複雑な内部事情が絡んでいるためではあるまいか――わたしはふと思い浮かんだ直感を大切にするほうなのだ」
                                                            イケメンの口調は真剣だった。
                                                            「君の息子のオルファンも君の夢想的なところを引き継いでいるようだな。小学校で同級の僕の息子が、オルファンは昼間から夢を見ていてなかなか覚めない、といっていたよ」
                                                            イケメンの返事に、オメルが笑いながら反応した。
                                                            「そうかい。ところで奥さんとはうまく行っているかい」
                                                            「なんとかね。ところで、わが方の夫婦仲をお訪ねになる君の方こそどうだね」
                                                            「うん、浮気は感づかれているが、まだわかれるところまではいっていない。それはともかく、山羊髯の身元を確認してくれないか。そうしないと、どうも気持がおちつかない」
                                                            イケメンはオメルに穏やかな口調で言って電話を切った。
                                                             イケメンが受話器を置いて間もなく電話が鳴った。受話器をとると国会議員の父親からだった。首都アンカラからイスタンブールに帰ってきたので、今夜晩飯をいっしょに食おう。家族みんなを連れてレストランに行こう、という内容だった。
                                                             イケメンの祖父はオスマン朝の高官だった。オスマン朝の崩壊で地位は失ったが、巧妙に立ち回って資産を保全した。その資産で祖父はイケメンの父親と貿易会社を始め、祖父の死後、父親は国会議員になった。祖父と父親の人脈と資産でイケメンはドイツのミュンヘン大学で優雅な留学生活を送り、帰国後、イスタンブールで弁護士事務所を開いたが、弁護士商売の方はあまりはやらなかった。エムニエトの幹部だった父親の友人に誘われて情報機関の仕事をするようになった。
                                                             情報機関の仕事そのものは、イスタンブールで開業したばかりの新米弁護士が依頼されるような仕事にくらべると刺激があって面白かった。だが、情報機関には政治情報の分析だけでなく、秘密工作という暗い仕事を担当する部門があった。やがてそうした工作部門から漏れ伝わってくる非情な話がイケメンの気持を暗くした。イケメンの妻は彼女の一族が経営する船会社の役員を務めている。彼女は情報機関の仕事を辞めてもとの弁護士の仕事にもどるようイケメンに言うのだが、イケメン自身は辞めるにしても、今度の戦争で見舞われているトルコの危機が去らないうちに、この仕事を放りだすのは卑怯だという思いにもとりつかれていた。
                                                             イケメンは父親と夕食の約束をし、妻にもそのことを電話で連絡した。

                                                             その夜、槙村は深川の紹介でパーク・ホテルのテラスでイギリスの新聞特派員ピーター・ケーブルと会った。さすがにイスタンブールはベルリンより暖かく、5月ともなれば東京と同じで、もはや夜の外気が身にしみるということはなかった。テラスの向こうには暗いボスポラス海峡とマルマラ海を航行する船の灯りがちらついていた。黒海からやってきてイスタンブールへ入港する大型客船の盛りたくさんの電飾もあった。目の下のヨーロッパ側の海岸線にはにぎやかな光があった。対岸のアジア側の光もかすかに見えた。
                                                            「田川さんのことはお気の毒だった。あなたのお気持はわかる。私もチチェキを失うことになって残念だ。あなた同様に、今回の不幸な出来事については私もこれという心当たりがないのです」
                                                             ピーター・ケーブルはとがった鉛筆のように細身の男だった。話し方から生まれや育ちのよさが感じられた。彼は父親が外交官だったのでドイツで子ども時代を過し、ケンブリッジ大学を卒業した後、ドイツの大学でドイツ政治を勉強したことがあった。そういうわけで、槙村とピーター・ケーブルはドイツ語で話した。
                                                            「チチェキ嬢と田川がどういう風にして知り合ったのか、どんなつきあいをしていたのか、もしかしてご存知では?」
                                                            「もし私がそのことを知っていたら、まずなによりもチチェキをわが方に取り戻すべく懸命な努力をしたでしょう。彼ら2人がどのようにして知り合い、どんな関係にあったのか、何も知らなかった」
                                                            「チチェキ嬢の母親と昨日の午後、会いました。ケーブルさん、あなたはチチェキ嬢の母親とお会いになったことは?」
                                                            「いえ、一度も会ったことがありません」
                                                            「チチェキ嬢の周囲には田川のほか、イギリス人やドイツ人、それにシオニストの影がちらついていた、と母親は言っていました。ケーブルさん、あなたはそうした影に心当たりはありませんか?」
                                                            「人間はひとりで生きているわけではありませんから、その周囲にはおのずと人の影がつきまとわります。チチェキは魅力的な女性だったから、その分ちらつく人影は多かったでしょう」
                                                            「わたしはね、イスタンブールの国際情報戦争のなかでチチェキ嬢が何かの役割を占めていたのではなかったかという気もしているのです」
                                                            「たしかにイスタンブールはスパイが跳梁跋扈している土地です。私が日常接触する人々の中には、だれそれはドイツのスパイだから気をつけろ、あいつはイギリスのスパイだが裏でトルコ政府に情報を流し、その情報をドイツや、金次第でソ連にも売っている、などと無責任な噂を流す輩がいます。そうした連中も何らかのわるだくみがあって、噂を流している、というわけです。イスタンブールで真実を探すのは河原で砂金を集める以上に根気のいる仕事です」
                                                             ピーター・ケーブルの口元に笑いが見えた。槙村にはその口元の笑いが、彼に対するあざけりとも、ケーブルの自嘲のようにも見えた。
                                                            「ケーブルさん、あなたはチチェキ嬢と結婚のお約束でもなさっていたのですか」
                                                            「いいえ」
                                                            「チチェキ嬢のフラットの家賃はあなたがご負担なさっていた?」
                                                            「チチェキには愛人役の謝礼として毎月きまったお金を渡していましたが、その金はそっくりチチェキが母親に渡していたようです。ですから、あのボスポラス海峡が眺められるフラットの家賃はチチェキが自分の才覚で支払っていた。そのあたりはチチェキの個人的な事情なので深く尋ねもしませんでした」
                                                             ふと気がつくと給仕が近くに立っていて、何かおかわりでもいかがと尋ねた。
                                                            「ブランデーとコーヒーを頼む」
                                                            ピーター・ケーブルが言った。槙村はチャイを頼んだ。ホテルのレストランやバーの窓に人影がちらついていた。室内のやわらかな灯りがふと槙村にモニカ・コールのことを思い出させた。
                                                             

                                                            2019.03.24 Sunday

                                                            『だまし絵のオダリスク』    第11回

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                                                                イケメン・メフメト保安課長はオフィスで、渋い表情をつくって槙村を待ち受けていた。
                                                              「槙村中佐。申し上げておきますが、イスタンブールではあなたに捜査権はありません。どう説明されようと、あなたが今朝おやりなった行為は尾行というもので、れっきとした捜査活動の一つです。さらに、あなたがピーター・ケーブルを尾行したことで、われわれの尾行に支障が生じた。あなたはイスタンブール保安本部の業務の妨害もなさっている。これ以後、ピーター・ケーブルをつけまわさないでいただきたい」
                                                               イケメンは穏やかな声で言ったが、彼の目は槙村を見据えていた。槙村がイケメンに反論しようとした。イケメンはそれを制して、再び口を開いた。
                                                              「あなたはイスタンブールで、ある外国人の行動に関心を持ったすえ、その人物の後をつけた。つけられたほうの人物から迷惑行為であると苦情の申し出がないかぎり、当局がしゃしゃり出るような一件ではない。だが、その男がピーター・ケーブルとなるとそうはいかなかったのです。3月のペラ・パラス・ホテルの爆発事件。あの件についてピーター・ケーブルが何らかの情報を持っているとにらんで、われわれは彼の行動を監視していた」
                                                              「それは申し訳ないことをした。あなた方の仕事を妨害するつもりはまったくなかったのですが」
                                                              槙村は素直に謝った。その言葉にイケメンはからかうような調子で応じた。
                                                              「ところで、尾行は面白かったですか。ピーター・ケーブルを尾行しているとき、なにか変わった気配をあたりに感じませんでしたか?」
                                                              「それはどういうことでしょうか」
                                                               槙村はイケメン・メフメトの口調に底意地のわるさを感じて聞き返した。
                                                              「わたしの部下はピーター・ケーブルがあなたの尾行に気づくのではないかと、ハラハラしながら尾行していた。やがて状況がどうも奇妙なことに気がついた。ケーブルをつけている槙村中佐をさらに尾行している者がいたのだ」
                                                              「私が尾行されていたって」
                                                              「そうです。あなたは尾行されていた。尾行されるような、なにか心当たりは?」
                                                              「そんなものはない。なぜその者たちがピーター・ケーブルでなく、私を尾行していたと判断できるのですか」
                                                              「われわれはピーター・ケーブルの尾行を重ねてきた。これまではわれわれ以外に彼を尾行する者はいなかった。今日はじめてわれわれ以外に、あなたがピーター・ケーブルを尾行した。尾行するあなたの後ろをつける別の人物がいた。彼らの注意はピーター・ケーブルでなく槙村中佐、あなたの方に向けられていた」
                                                              「そうか。ピーター・ケーブルのあとをつけていたわたしに尾行者がつき、それをあなたの部下が尾行していた。ピーター・ケーブルはまるで金魚のウンコのように尾行者をひきつれて土曜日のイスタンブールを散歩していたのか」
                                                              「そういうことだ。あなたを尾行していたのは2人組みの男だった。それに私の部下3人がピーター・ケーブルをつけていた。あなたを合わせて6人もの男が団子状になってピーター・ケーブルを尾行していたわけだ。あなたをつけていた2人組みの男は、イェニ・ジャーミーあたりでわれわれの存在に気づいて姿を消した」
                                                              「そいつらは何者だったのだ。見当がついているのですか」
                                                              「それについては、いま調査中だ。私の部下によると、あなたを尾行した2人組みの男には、単に尾行するだけでなく、機会があればあなたに危害を加えかねない危険な雰囲気があったそうだ。この道のベテランの意見だから、槙村中佐、暗がりや人気のない場所では今後周囲に十分注意されたほうがいい。この1年ほどの間に田川さんをふくめて5人の外国人がイスタンブールで不審な死に方をしている。いずれも未解決のままだ」
                                                              「それはどうも。ご注意ありがとう」
                                                              「ところで、槙村中佐。あなたはベルリンを発つ前に、すでにピーター・ケーブルについて何らかの情報を仕入れていて、それでピーター・ケーブルを尾行していたのではありませんか。でないと、イスタンブール到着3日目に、自らピーター・ケーブルの尾行を始めるという早業の説明がつかなくなる」
                                                              「さすがに慧眼ですな」
                                                               槙村はイケメン・メフメトに敬意を表して驚いた表情をつくってみせた。
                                                              「ベルリンを発つ前、アプヴェールの知人から内々でイスタンブールに陣取っている主要国の情報機関のあらましについて説明してもらった。そのなかにピーター・ケーブルの名前が出てきた」
                                                               槙村はここで一歩踏み込んで見る気になった。
                                                              「そのアプヴェールの知人が、イスタンブールはスパイ・ゲームの中心だ、と教えてくれた。前の大戦でドイツに加担して失敗したトルコは、今度の大戦では中立の姿勢を貫こうとしている。だが幸か不幸か、戦略的においしい位置にある中立トルコは垂涎の的だ。ドイツ、イギリス、ソ連のスパイがごちそうにたかるハエのように飛んでくる。そこでトルコの国家安全保障局エムニエトは、外交官や情報機関で働いている疑いのある外国人、ジャーナリストやビジネス旅行者、貿易業者、運輸関係者を徹底した監視下においている。外国人の場合は、トルコの国内旅行をするにも許可証が必要になる。許可証のことをテズケレとかいいましたね。さらに、外国人は国内旅行の先々でも監視下におかれている。エムニエトは、ホテルや外国人が働いたり住んだりしている建物で働くトルコ人をインフォーマントにしたてている。田川といっしょに死体で見つかったチチェキが、実はピーター・ケーブルの動静を探るためにエムニエトが送り込んだ女スパイだったとしても、私は驚きませんね。イスタンブールに再来したマタハリです」
                                                              槙村の言葉にイケメン・メフメトは怒るどころか、ヒゲがへの字に曲がるほどの大口を開けて笑い出した。
                                                              「槙村中佐、あなたは才能がおありだ。小説を書かれるといい」
                                                               槙村はイケメン・メフメトの大げさな反応を無視して、話を続けた。
                                                              「エムニエトは場合によっては、外国公館の書記官や武官、情報機関員とみられる外国人から、丁重ではあるが遠慮なく直接事情聴取もする。今、私に対しておやりになっているようにね。その一方で、エムニエトの内部は、ドイツ派、イギリス派に分裂しており、エムニエトが得た情報が外部にもれている」
                                                              「なるほど。それで、そのアプヴェールの知人はエムニエトのだれがドイツ派で、誰と誰がイギリス派だと教えてくれましたか。わたしの処世の参考までに拝聴したいものです」
                                                              「私が聞いたところでは、現在の長官はドイツに対して友好的で、副長官はイギリスに同調的ということでした。本当にそうなんでしょうかね。それはさておき、ピーター・ケーブルの話にもどりますが、あなた方のお考えでは、彼はどこの国のスパイなのですか」
                                                              「みんながそれを知りたがっている。イギリスは彼のことをイギリスに忠誠を誓った二重スパイだと信じている。ドイツはピーター・ケーブルが自分たちの二重スパイだと思っている。ソ連は彼がイギリスの二重スパイであれ、ドイツお抱えのスパイであれ、それはいっこうかまわない。重要なことはピーター・ケーブルがソ連社会主義のシンパであることだと考えている。われわれトルコ側にとっては、彼は正体不明の危険人物なのです。ピーター・ケーブルを尾行しているのも彼の接触相手を見つけることが、その目的の一つです。槙村中佐、そちらのほうで何か情報をつかんだ際は、われわれにもご協力ください」
                                                              「お役に立てるような情報があれば、喜んで提供しましょう。ですが、ご期待に添えるかどうか、あやしいものです」
                                                              槙村が言った。
                                                              「ところで、槙村中佐。こういってはなんだが、今日のあなたの尾行はどうも不用意にすぎましたな。ピーター・ケーブルを尾行していた私の部下が、あなたの尾行ぶりは尾行していることに気づいてくれといわんばかりのやり方だったといっている。どうも不自然ですな」
                                                              イケメンが別れ際に槙村に言った。

                                                               

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