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2018.05.10 Thursday

 『ぺトルス――謎のガンマン』      第1回 

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    1998年5月14日木曜日、デンパサール市街

     

     すこしばかり風変わりな行列だった。
     日ごと繰り返されているヒンドゥーの祭礼・オダランの列のようにも見えた。だが、それにしては参加者すべてが同じ年頃の若い男女で、年配者の姿がなかった。オダランの行進に参加する人は老いも若きも晴れ着で着飾り、頭髪や耳にハイビスカスの花を添える。その行列の参加者の服装はそうした華やぎからほど遠く、表情にはどこか殺気だった、思いつめた感じがうかがえた。
     信仰心に厚く伝統を守ることに熱心なこの島では、毎日のように祭礼の行列が町の中、村の中をねり歩く。というのも、この島では地域共同体の寺院、農業水利組合・スバックの寺院、一族・血縁者の寺院と、日本風にいえば一人の人がいくつもの寺院の檀家になっている。したがって塀で囲まれ、門を構えた、れっきとしたヒンドゥー寺院が島内に数万もある。さらに人々はそれぞれの住宅の敷地内にも、少なくとも一つ以上の小さな祠を祀っている。かつて日本の住宅にあって、いまは廃れてしまった神棚を庭に出して大型化したようなものだ。
     祭礼の行列に参加するとき、女性は正装の上着であるクバヤを着て腰にサロンを巻き、男性は白いシャツに白いサロン、それに男の正装に欠かせないウドゥンとよばれる白いはちまきのようなかぶり物を着用する。女性は果物などを円筒形に盛り上げて形を整えた祭礼の供物・ガボガンを頭の上にのせて運ぶ。大がかりな行列だと、こうした男女数百人が列をつくり、赤や白や黄色の幟をたて、大きな日傘も掲げて、ついでに御輿もかついで、しずしず、しゃなりしゃなりと行進する。鉦や太鼓、ときにはガムランで使う重いゴングまでがもち出され、鳴り物入りの大行進になることもある。

     1998年5月14日の木曜日の朝、インドネシア共和国バリ州の州都デンパサールで目撃されたその行列の参加者は100人ほどだった。男性も女性も、大半が柄物のシャツにジーンズや茶、ブルー、グレーのズボン姿だった。なかにはズボンの上から白い布をサロンのつもりで腰に巻いている者もわずかながらいた。行列の先頭を進む男性たちだけが頭にウドゥンを着けていた。頭の上にガボガンをのせた女性の姿はみあたらなかった。何本かの幟は立てていたが、風のない市街地の蒸し暑さのなかで竹竿から白い布がだらりと垂れていた。
     祭礼の行列というよりは、それはシュプレヒコールを押し殺した沈黙のデモ行進のように見えた。行列はショッピングセンター近くの通りを進んでいた。カキリマ(移動式屋台)を押している行商人、新聞売り、幼児の手を引いた買い物の女性など、道ばたの人々が一瞬けげんな表情でこの奇妙な行列を見つめた。子どもたちがおもしろがって行列を追いかけていった。だが、すぐさま状況を理解して、
    「やめなさい、帰ってきなさい」
    と、親が大あわてで子どもを制止した。行進の次にやってくる暴力的な混乱を予感したかのようだった。
    そのとおり――行列はデンパサールのウダヤナ大学の学生を中心にした若者たちが組織したスハルト大統領の退陣を要求する非合法街頭デモだった。
     インドネシアでは街頭での政治デモは禁止されていた。スハルト政権下では、大学生の政治デモは大学キャンパスの狭い空間に限って許されていた。
     大学構内で政治デモをしたところで、そこには自慰的行動特有のむなしさがあった。デモを遠巻きにながめているのは、加齢とともに異議申し立てをする覇気を失い、いまや政治的には抜け殻のようになってしまった教授たちだけだった。一度でいいから街頭デモを敢行し、大衆にこの国の無惨な政治的現実を直視するきっかけを提供したい。かねがね学生たちはそう熱望していた。
    どこの国でも大学生時代というのは人の一生のうちでもっとも政治的異議申し立てに情熱を傾ける時期だ。大学生が異議申し立てをしなくなった国はもはや老いた下り坂の国といってよかろう。この日、ウダヤナ大学の学生たちには、今はもうキャンパスから街頭に出てデモを決行するしかないという、やむにやまれぬ気持の高ぶりがあった。

     

     トリサクティの虐殺に抗議しよう!
     ウダヤナ大学生も合流せよ!

     

     ウダヤナ大学生だけでなく、インドネシア全土の主要都市で大学生たちがスハルト政権の政治暴力に抗議する街頭デモを繰り返していた。
     事の起こりはこういうことだった。
    1997年にタイで始まったアジア金融危機が、あっという間にインドネシアにも襲いかかってきた。スハルト政権はIMF(国際通貨基金)から金融支援を受けるのとひきかえに、IMFが求めるインドネシア経済の構造改革を約束した。だが、インドネシアの通貨ルピアの暴落は止まらなかった。インドネシア経済はガタガタになり、庶民の生活は追いつめられ、苦しくなった。スハルト政権の強圧的な政治のやり方には、インドネシアの人々はかねがね反感を持ってはいたが、これまでの経済成長がその反感を相殺してきた。経済が左前になると、反感だけがつのった。スハルト大統領への不満が日ごとに高まっていった。
     2日前の5月12日、首都ジャカルタのトリサクティ大学の学生たちが街頭デモ隊を組織した。トリサクティ大学はジャカルタでは名門の私立大学だ。学生は実業家、官僚、高級軍人など中流上層の息子や娘が多かった。デモ参加者は大学構内の駐車場付近に午前11時前ごろから集まり始めた。彼らはまず国歌『インドネシア・ラヤ』を歌い、そのあと「スハルト退陣」を叫んだ。午後零時過ぎ、学生数千人が校門からガトット・スブロト通り出て行った。
     当然のこととして、学生デモ隊は警備の警官隊と路上でにらみあうことになった。路上のにらみあいは午後4時ごろまで続いた。炎暑にうんざりした学生たちが、やがて三々五々大学に引きあげ始めた。午後5時過ぎ、警官隊が実力行使を始めた。学生たちは大学構内に逃げ込み、柵越しに警官隊めがけて投石した。警官隊はゴム弾を発射した。だがゴム弾にまじって、実弾が発射されていた。逃げまどう学生たちの背後から発射された実弾が彼らの身体を貫いた。四人の学生が撃ち殺された。デモ警備にあたって、警察の部隊はゴム弾しか支給されていなかったはずだ。実弾は誰が撃ったのだろうか?
     翌13日には4人の学生の埋葬が行われた。インドネシアのイスラム団体ムハマディヤを率いてきたアミン・ライス、スカルノ初代大統領の娘で野党・民主党党首だったメガワティ・スカルノプトゥリといった反スハルト勢力の大物が葬儀に出席してスハルト批判をぶった。葬儀の席でアミン・ライスは、インドネシア国軍はスハルト一族を守るのか、それとも全国民をまもるのか、態度を決めよ、と叫んだ。13日からジャカルタ市内のあちこちで暴動が始まった。
     デンパサールのウダヤナ大学生が彼らのデモをヒンドゥーの祭礼の行列に見せかけたのは、警察の居丈高な警備からデモ参加者を守るためのおまじないだった。と同時に、ジャカルタでねらい撃ちされたトリサクティ大学の4人の学生に対する慰霊でもあった。
    ウダヤナ大学生のデモ行進はデンパサールの町中をしずしずと進んだ。目指す地点はデンパサールの中心部にあるラパガン・ププタン・バドゥンだった。木立に囲まれた緑の木陰が涼しげなオープン・スペースである。デモ隊はその途中のスディルマン通りに面したティアラ・デワタ・ショッピングセンター近くまで進んでいた。
     そのとき前方に、デモ隊の前進を阻むように棍棒や鉄パイプを手にした若者の一団が現れた。スハルト支持派の街のならずもの・プレマンたちだ。その数、50人ほどだった。
    「死にたくなかったら大学に戻れ」
    頭髪を兵隊のように短く刈りあげたプレマンのリーダーが、汗でてらてら光る手で握りしめた鉄パイプの先を学生たちの方に向け、目をつり上げて叫んだ。
    「そこをどいてくれ。祭礼の列のじゃまをしないでくれ」
    眼鏡をかけた長髪のデモ行進のリーダーの学生が大声で怒鳴り返した。

     大学生たちのグループは女子学生を列の中心に移動させ、その周りを男子学生が取り囲んで守ろうとした。プレマンたちの集団がジリ、ジリっと学生の列に肉薄していった。
     プレマンたちの後ろに、警察の車両が5台ほど到着した。乱闘服で身を固めた機動隊員が車から道路に飛び降りた。だが、機動隊員はその地点にとどまり、デモ隊ににじりよるプレマンたちをながめているだけだった。
    「コムニス(共産主義者)め!」
    プレマンたちが叫び、いっせいに棍棒や鉄パイプをふりあげて学生たちを脅した。
    「サンパ・マシャラカット(クズ野郎)!」
    学生たちが罵声を返した。
    「共産主義者をインドネシアから追い出せ」
    プレマンのリーダーが絶叫した。
     それを合図にプレマンたちが学生に襲いかかった。数人の学生が幟の竹竿を振り回してプレマンの攻撃を防ごうとした。だが、棍棒や鉄パイプで武装し、けんか慣れしたプレマンの攻撃を防ぐには学生たちは非力にすぎた。
    「やめなさい。暴力行為をやめて、すぐ解散しなさい」
    拡声器から警察官の声が通りに響いた。プレマンが学生たちの列に突っこんできた。

     ニョマンはウダヤナ大学社会・政治学部2年生で、これが初めての街頭デモへの参加だった。5月のバリはすでに乾季に入っていた。午前10時ちょっと前。デンパサールの太陽の照りつけはいっそう厳しくなっていた。額から吹き出して顔をつたい落ちる汗を、ニョマンは左手でぬぐった。暑さだけではなく、緊張による発汗もあった。プレマンの突入で大学生の列はくずれ、デモ参加者たちは路上に四散した。ある者はいま来た方角へ走って逃げ、ある者は大通りから横道のガン(小路)へ走った。そのあとをプレマンたちが追い、警官たちがどちらかというとのろのろとした動きでそのあとに続いた。
     ニョマンはデモ隊がやって来た路を走って引き返した。その途中で手近な小路を見つけて駆け込んだ。その小地を奥へ奥へと走った。ふと気づくと、一緒に行進していた大学の仲間の姿も、追いかけてくるプレマンの姿も、警官の姿もなかった。ニョマンはほっとして走るのをやめた。歩きながら乱れた呼吸を整えようとした。小路の両側は家屋の壁や塀が続いていた。30メートルほど先に、大きな通りが見えた。
    「たすかった」
    ニョマンがつぶやいた。
     落ち着きをとり戻したニョマンの目に、小路に人が倒れているのが見えた。倒れているのは2人だった。その近くにバイクが止めてあった。ニョマンが近づくと、女は仰向けに、男はうつぶせに倒れていた。淡いブルーのジーンズをはき、白地に青いポルカ・ドットのコットン・シャツを着た女のふくらんだ胸から血が流れていた。男の方はジーンズにTシャツで、Tシャツの痩せた背中がべっとりと血でぬれ、頭からも血を流していた。
     私より先にここに逃げ込んできたデモ行進の仲間がいて、その2人がここでプレマンに襲われたのだ。この人たちを襲撃した奴らはまだこの近くにいるかも知れない。熱帯の路地裏のかすかな腐敗臭にまじった生の血のにおいをかいだような気がして、ニョマンはいいしれぬ殺気を自分の近くに感じた。足がすくんだ。
    「あわわわ……」
    言葉にならない悲鳴のようなかすれ声を漏らしながら、ニョマンは広い通りの方へ向かって必死で走った。


    5月15日、ハヤム・ワルック通り

     

     バリで隠居生活を楽しんでいる鷹石里志はハヤム・ワルック通りの借家で、バリのたそがれ時をくつろいで過ごしていた。5月15 日の夕刻だった。
     デンパサールでは空を真っ赤に染める夕焼けを見る機会はそれほど多くない。西の空が一部赤く、一部黄色くなるだけで、夕陽が沈んだあとの残照の時間はきわめて短い。あっという間に夜のとばりが降りてくる。そして熱帯バリの闇は気のせいか、深い。
    熱帯のインドネシアで心身がしゃきっと保てるのは比較的涼しい朝のうちだけだ。だからインドネシアの人の朝は早い。会社や役所のなかには午前7時半には仕事を始めるところがある。公立の小学校などは朝七時から授業が始まる。
    午前10時を過ぎると酷暑が始まる。その暑さは夕方まで続き、日が沈むころには日中の身体にへばりつくような暑気がやわらぎ、いくらかほっとできる時間が始まる。
     鷹石は小さな庭に籐椅子を出して、冷たいジャワティーをすすった。ジャワティーは冷たいだけでなくたいへん甘かった。鷹石がインドネシアとつきあい始めて間もないころは、やたら甘い紅茶やコーヒーに違和感があった。しかし今ではすっかりその甘さになじんでしまった。紅茶の甘ったるさが酷暑と喧噪にみちた一日の疲労をとかし、流し去ってくれるように感じる。飲み物の甘さと、熱帯のたそがれ時のけだるさ。これらにどっぷりとつかることに快感を覚えるようになると、いっぱしの熱帯病患者、あるいは熱帯ぼけである。
     借家の庭には何本かの木がある。その中にドリアンの木、マンゴスチンの木、それにランブータンの木があると、この家を借りたとき大家が言っていた。
     5月のバリはすでに乾期に入っている。熱帯のフルーツの最盛期は雨季なので、果物の種類が減り始める時期だ。とくにドリアンは雨季にしか出回らない。といっても、大家がいっていた庭のドリアンの木は、この家を借りて3年になるのだが、これまで一度も実をつけたことがない。鷹石は大家に、
    「あれは本当にドリアンの木なのか。風に吹かれてドリアンが落ちてくる幸運にめぐまれたことはまだ一度もないよ」
    と冷やかしたことがあった。
     大家はすました顔で応じた。
    「早く実をつけろと、あんたがドリアンの木をにらんでいるから、木の方がおびえて実を結ばないのだ」
    鷹石はときどきドリアンを食べたくなることがあった。最初はプンバントゥ(お手伝い)のスチに頼んで買ってきてもらっていたが、ある時、そのスチが大のドリアン嫌いだということがわかった。
    「あのにおいを嗅ぐとクパラ・プシン(頭痛がする)」
    とスチはいった。
     なるほど、ドリアンのにおいについて、ある日本の本が、くみ取り便所の中で1週間はき続けた靴下を鼻に押しあてて深呼吸したような強烈さ、と紹介していたことを思い出した。たしかに臭うけれど、そこまでひどくはない。鷹石はそう思うのだが、お手伝いのスチの健康のために、以後、自分でドリアン――インドネシアではドゥリアンと発音している――を買いに行くことにした。
    雨季にはデンパサールのあちこちの小屋がけの果物屋や、路上でドリアンが並べて売られる。乾季にはいると、ドリアンが買えるのは大きなスーパーマーケットに限られてくる。並んでいるのはタイから輸入したドリアンだ。ドリアン好きは一種の依存症のようなものだと鷹石は思う。地元産のものが食えないとなると、輸入してまで食いたくなる。
     庭のマンギス(マンゴスチン)の木は小さな実を少しだけだがつける。試しに食べてみたが、味は街で売っているものよりはるかに劣った。
     なんとか食べられる実をつけるのは、庭の木なかではランブータンだけだ。実は小粒だが甘みは強かった。ランブータンは赤い果皮から無数のヒゲをはやしたゴルフボールより小さめの果物で、皮を割ると中からジューシーな白い果肉が出てくる。ランブートとはヒゲとか毛のことで、その語尾に接尾辞「アン」がついて「ランブータン」となって「ヒゲのあるもの」という意味になる。ドリアンは「ドゥリ」(トゲ)に「アン」がついて、「ドゥリアン」、すなわちトゲのあるものの意味だ。ランブータンは東南アジア在留の日本人の間ではひそかに「トラキン」とよばれている。虎の睾丸の意味だが、その色といい、もじゃもじゃの剛毛といい、見たことはないが言い得て妙という気のする形状である。。ちなみにドリアンは「ドゥリアン」が現地の発音で、「ドゥリ」(トゲ)に接尾辞「アン」がついて「ドゥリアン」、すなわちトゲのあるものの意味だ。

    「パッ・ティルポン(電話です)」
    スチが家の中から庭の鷹石を呼んだ。
     受話器の向こうはバリ州警察本部のグスティ・アグン・ライ警視だった。
    「帰りにお宅に寄りたいのだが、いいかな?」
    「もちろん、いいとも。で、何時ごろだい」
    「7時半ごろには行けると思う」
    「では、ささやかな晩飯を用意しておくよ。ガドガドとテンペだけだがね」
    「ガドガドとテンペだって? おれはバリ人で、ジャワ人ではないんだよ。でも、せっかくのご厚意だからいただくことにしよう。用件は例によって通訳の依頼です」
    「わかった。じゃ、待っています」
     リビングルームのテレビがここ数日のジャカルタの暴動の模様を特集で伝えていた。
    テレビが映し出す14日午後のジャカルタはまるで革命にともなう内乱状態を思わせた。鷹石は南米かアフリカのどこかの国の内戦の映像を見ているような錯覚に襲われた。普段はなんともおだやかな物腰のインドネシア人が、あるときふとアモックに襲われ、思いもかけない凶暴な姿をあらわにする。熱帯の発作というやつだろうか。バリの舞踏劇ケチャもある種のトランス状態を表現している。
     高層ビルの上からジャカルタ市街を見渡した映像には、街のあちこちで立ち上る煙の柱が映し出されていた。暴徒が放火を始めたのだ。テレビのアナウンスはそう説明した。上空には警察や軍のヘリコプターが旋回していた。この映像は14日夜にすでに見たものだったが、インドネシアの首都ジャカルタ特別市がガラガラと音をたてて崩壊し、深い破滅の淵に沈んでゆくような不気味さを、あらためて鷹石に感じさせた。
     テレビが地上の惨状を映した。暴徒たちに破壊され、火をつけられた自動車が駐車場や路上でひっくり返って燃えていた。そのぶざまな姿は殺虫剤にやられたゴキブリを連想させた。商店街のショーウィンドウが壊された。オフィスビルの窓ガラスもたたき割られた。
     テレビは暴徒による被害が集中したジャカルタ市街地北部の商業地区グロドックの映像を映していた。商店が破壊され、デパートが打ち壊され、人々が店舗から略奪した商品を抱えて出てくる姿が映っていた。人々が略奪に夢中になっているとき、誰かがデパートに放火した。デパートは瞬く間に炎上し、このときデパートの中にいた何百人もの人が炎に包まれ、煙に巻かれ、焼けこげて死んだようだ。テレビはそう伝えた。消防車が集まって放水していた。救急車がサイレンを鳴らして走っていた。
     このジャカルタ暴動ではインドネシアの過去の暴動の例にもれず、中国系インドネシア人が経営する商店が狙われた。中国系の人々はインドネシアがオランダ領東インドとよばれていたオランダ植民地時代に、インドネシア各地に出稼ぎにやってきた。人口圧力によって貧しい中国から押出されるようにしてインドネシアに渡ってきた。彼らは一旗揚げようと渡航費を借金で工面し、下層労働による賃金でその借金を返し、やがて資金をためて流通業や金融業を始めた。何世代かあとの現在の中国系インドネシア人が、インドネシア経済を牛耳る存在になった。プリブミと称するマレー系インドネシア人にとって、こうしたノン・プリブミ(中国系インドネシア人)の存在が面白かろうはずがない。マレー系のプリブミと中国系ノン・プリブミの暴力的対立は、キリスト教徒とイスラム教徒の衝突とならんで、スハルト政権下で繰り返されたインドネシアの宿痾であった。
     こんどのジャカルタ暴動で、スハルトの古くからのクローニーで中国系の大資本家リム・スーリヨンの自宅が襲撃を受けた。また、テレビのニュースは14日の暴動で、暴徒がグロドックの中国系市民を集中的に襲撃し、殺害したと伝えた。テレビはあからさまにはいわなかったが、この襲撃のさなか多くの強姦も行われたことだろうと、インドネシア政治史の研究をしたこともある鷹石は想像した。暴力行為と男の発情はどのように連動しているのだろうか。
     ジャカルタに住む多くの中国系市民がシンガポールに避難しようとスカルノ・ハッタ空港に向かった。市街から郊外の空港に向かっている車をならず者たちが停車させて、金品を奪った。空港に通じる有料道路は14日の夕方になって、ついに閉鎖されてしまった。
     大統領官邸や政府の役所、金融機関、交差点など、ジャカルタの要所に配置された軍の車両と兵隊をテレビが映しだしていた。1万以上の兵が動員されている模様だ、とテレビは説明した。それは非常に奇妙な光景だったのだが、テレビは街角にトラックを止めて待機する兵隊と暴徒らしい男たちが妙になれなれしく話している姿を記録していた。
     玄関の方から自動車が止まる音が聞こえた。
    「パッ・アダ・タム(来客ですよ)」
    お手伝いのスチが鷹石を呼びに来た。
    「パッ・グスティ・アグン?」
    「ヤー・ブトゥル(はい、そうです)」
    答えたのはグスティ・アグン・ライ警視その人だった。スチのあとについて玄関からリビングルームに入って来た。
    リビングルームのソファにグスティ・アグン・ライ警視がにこやかな表情でドテっと座った。

     身長は鷹石とほぼ同じ1・7メートルほどだが、その胴回りときたら痩せ形の鷹石の2倍はあろうかと思える肥満体だ。その胴体から太い首が生え、その上にまんまるな顔がのっている。バリ人にしろ、ジャワ人、スンダ人にしろ、たいていのインドネシア人はやたら愛想がいい。知人に会えば、それがひどい夫婦げんかの直後だったとしても、その大きな目を見開いて、じつににこやかな笑顔をつくってみせる。この夕べもグスティ・アグン・ライ警視は心からなる微笑を満面に浮かばせて鷹石を見た。
    「また仕事をお願いしようと思っておじゃました」
    「通訳の公務だね」
    「きのう日本人の女性が殺された。その家族がまもなくバリにやってくる」
    「殺人事件か」
    「ああ。昨日の午前中、ウダヤナ大学の学生たちが大学構内を出て、ラパガン・ププタン・バドゥンへ向かってデモ行進をしようとした」
    「そうらしいな。昨日の午前中は非常勤講師をしているウダヤナ大学の観光学科の上級生を対象にした日本語のクラスで教えていた。いつもより出席者が少ないので、学生たちにたずねたところ、デモに出かけた者がいるということだった」
    「デンパサールでは、学生デモはめったにない珍しい出来事だ」
    「それでふと即興で学生たちに日本語でディスカッションを試みさせたんだ。インドネシアの最高額紙幣5万ルピアにはスハルト大統領の肖像が使われていて、『バパ・プンバグナン(開発の父)』の文字が添えられている。日本の最高額紙幣1万円札は福沢諭吉の肖像を使っている。福沢諭吉は東京の慶應義塾大学を創設した人だ。幕末に天皇の官軍と徳川の幕府軍が江戸の上野で小競り合いをしたとき、我がことにあらずと福沢は学舎にこもって経済学の教科書の講読をしていた。動乱の世を嫌って学問に没頭しようとした福沢のこの態度をネタに、学生たちに現在のインドネシアの政治的混乱について議論させてみた」
    「それで学生たちの意見はどうだった」
     鷹石がしょっぱなから話を脱線させてしまったのだが、警視はいやな顔もみせず、無駄話を続けさせた。夜はこの先まだ長い。相手がしゃべる気を見せたときはしゃべらせておくのが警視のやりかただった。
    「12日にジャカルタで、スハルト大統領の辞任を要求する街頭デモに出たトリサクティ大学の学生が治安部隊の実弾射撃で殺された。その怒りはインドネシア中に充満していて、クラスの学生の圧倒的多数が、教室でおとなしく勉強するよりはデモに行くべきだという意見だった」
    「当然だね。正義の怒りを忘れた若者は飛べないガルーダと同じだよ」
    警視が聞きようによっては過激ともとれる感想をさらっと口にした。
    「しかし考えてみると奇妙だね。クラスの圧倒的多数がデモに行くべきだという意見であるにもかかわらず、なぜクラスはからっぽにならなかったのか」
    「クッ、クッ、ク……」
    警視は鶏がのどを絞められたときのような声を出して笑った。
    「大学で教えているにしては思考法が子どもっぽいね。教室でおとなしく勉強しているよりはデモに行く方が面白い。だが、デモに行って警官やスハルト支持のならず者に追いかけられて殴られるよりは教室でおとなしくしていた方がいい――。それで昨日のウダヤナ大学の学生たちのデモだが、プレマンの一隊が学生の行進を阻止しようとした。プレマンたちは学生たちと罵声の応酬を重ねたすえ、デモ隊に襲いかかった」
    「それで学生はどうした。プレマンとわたりあったのか」
    「ちりぢりに四散した」
    「おやおや、バリのププタンの伝統はもはや消え去ったのか」
     バリ島は島の中央部に山脈があり、その山肌を無数の川が流れ下っている。かつてはその川筋ごとに村落国家があったが、小王国のつぶし合いで、19世紀の終りごろには、バリ島南部にはタバナン、バドゥン、ギアニャール、クルンクン、カランアセム、バンリ、メンウィの七王国が残っていた。やがて20世紀初めにオランダ領東インドの軍隊がジャワ島から海を渡って攻め込んできて、これらの王国は滅亡する。1906年、オランダ領東インドの軍隊がバドゥン王国を攻めたとき、盛装したバドゥンの国王とその妻子、国王の臣下が、発砲するオランダ領東インドの兵士に向かって真っ正面から行進した。ある者は敵の眼前でクリス(短剣)で自刃し、ある者は銃撃されて死んだ。その2年後の1908年にはクルンクン王国で同じ自殺行進が繰り返された。オランダ領東インドの兵士は一瞬、行進の列への銃撃をためらったが、戦争である発砲せざるをえなかった。この行進がププタンよばれ、デンパサールの通りや公園の名になって残っている。
    「伝統というより、あれは儀式化されたやけくそだね。日本でもむかしセップクという儀式をやっていたじゃないか。日本がアメリカと戦争を始めたのも、戦で負けがこんできたころにバンザイ・アタックを始めたのも、日本式のププタンといえなくもないな」
    ライ警視がつまらそうな声をだした。
    「すまん。話を横道に逸らせてしまったようだ。それでは通訳の公務についてお聞きしましょう。晩飯を食べながら話を聞かせてくれないか」
    鷹石はやっと話を本筋に戻し、警視をリビングルームの横の食事室にさそった。
    「ありがとう。これでいい。休んでいいよ」
    鷹石がスチに声をかけた。彼女が食事室から姿を消すと、警視が話を続けた。
    「デモ隊の中にニョマンという名のウダヤナ大学社会・政治学部の学生がいてね。この学生がプレマンに襲われて路地に逃げ込んだ。そこで射殺死体を二つ見つけたというわけだ。凶器は32口径の拳銃で、女性は正面から胸を撃たれ、男の方は同じ拳銃で背後から胸部と頭部を撃たれていた。検死報告によると2人は即死だった。ねらいは正確で、銃を扱いなれた奴の犯行だ」
    「その事件のことは『バリ・ポスト』で読んだ。被害者の女性は日本人らしいと記事はいっていた。そうか、やはり日本人だったのか」
    「女性が日本人らしいことは、持っていたクレジットカードからわかった。日本で発行されたクレジットカードだったので、てっきり短期の観光旅行者だと思った。念のためデンパサール駐在の日本領事に連絡した。領事からウブッドに住んでいる日本人に同じ名前の人がいると連絡があった。そこで、出入国管理事務所で外国人登録の原本をみせてもらった。よくあることだが、外国人登録のさいの指紋と遺体の指紋の照合にちょっと手間取り、最終的な身元確認が遅れた。お役所の棚からその女性の記録を捜し出すのに時間がかかったのだ。今日の午前中にその指紋の記録が見つかった。ウブッドに住みついてガムランを習っていたセタ・サヨという34歳の女性だとわかった。そこで、ウブッドで彼女にガムランを教えていた師匠と、バリ駐在領事に来てもらって、今日の午後に身元を確認した。
    「この女性、ウブッドではイダ・アユ・ングラとよばれていたそうだ。麗しきブラフマンの女といった意味の名前だ。男の方はオジェック(バイク・タクシー)で小遣い稼ぎをしていたジョクジャカルタからの流れ者のジャワ人で、スダルノという26歳の男だった。バリ島へやってくる女性のツーリストの情事のお相手をつとめる仕事もしていたと、オジェック稼業の仲間たちはニヤニヤしていた」
    「そのブラフマン階級を自称する日本人の女と、ジャワ人の流れ者は、昨日のデモに参加していて、プレマンか警官機動隊に追いかけられたすえに射殺されたか?」
    「いや、どうもそうではないらしい。ニョマンやデモに参加していた大学生たちにたずねたところでは、そういう2人はデモ隊の中には見かけなかったそうだ。被害者の男女2人がおたがい知り合いだったのか、そうでなかったのかについては情報がまだない。いっしょに殺害現場の路地にやってきたのか、たまたま現場で一緒になったのかについても判断する材料がない」
    「行きずりの強盗殺人だろうか」
    「その可能性もある。男の方はもともと素寒貧だが、それでもポケットに1万ルピア程度の小銭が残っていた。女がジーンズの腰に巻いていたウエストバッグには皮製のカード入れがあり、クレジットカードと銀行のATMカードが入っていた。リュックの中には着替えの下着やガムランの本、ガムラン演奏会のプログラムが入っていた。ウエストバッグに入れていた現金がとられた可能性はある」
    「女がほかに貴重品を身につけるか持っているかして、それがとられたという可能性はないのだろうか。パスポートや外国人登録証はあったのか」
    「それは見つかっていない。しかし、わたしが引っかかるのは、ウエストバッグから現金を盗むためだけに、無抵抗な人を拳銃で撃ち殺すだろうかという点だ。拳銃を突きつけられれば、ウエストバッグに入るくらいのルピア札なら抵抗せずに渡すだろう。現場や死体には争った後が残っていない。有無を言わさずまず射殺して、そのあとでウエストバッグから現金などを盗んだとみられる。物盗りの犯行に見せかけるためにウエストバッグの中身を盗んだ可能性だってある。犯人はなぜ被害者のリュックを盗んでいかなかったのか?」
    「そうか。物盗りの線は薄いのか。ところでうちのガドガドの味はどうかね。今日のはチキンも入っていてうまいだろう」
    鷹石が警視に同意を求めた。
    「うん。ガドガドもうまいが、今日はソト・アヤム(チキン・スープ)が抜群だね」
    「ああ、スチはソト・アヤムを得意にしている。元亭主がバリ人の例にもれず闘鶏が大好きだった。賭け事にのめり込んでいっこうに働こうとしない。スチはとうとう我慢できなくなって、あるとき亭主が大切にしている闘鶏用のトリをつぶしてスープにして、亭主に喰わせたそうだ。それがもとで夫婦わかれさ」
    「バリ人にとって闘鶏は男らしさを象徴する遊戯なのだ。中ジャワあたりの農家では、家の門の横に高いポールがたててあってね。朝になると亭主が鳥かごをさげて現れ、するするするっと鳥かごをポールの上にあげる。国旗掲揚の要領だね。それから亭主はイスを出してポールのそばに日がな一日座り込んで、カゴの小鳥が『チチチチ…』と鳴くのを待っている。その間、畑や田んぼに出て働くのは女房の方だ。これがインドネシアの極楽トンボの相場さ。ちょっとだけ違いがあるとすれば、バリの男にとっては、闘鶏に使う雄鶏は彼の男らしさや性的能力の象徴なんだな。離婚に至ったのは当然のことだ」
    「スチはそのあとでやたらソト・アヤムをつくるようになったそうだ。わたしはこの家に住んだ3年というものスチのソト・アヤムにどっぷりつかって過ごしてきた。この間などはソト・アヤムの海でおぼれて死ぬ夢を見たほどだ」
    「それは豪勢な夢だね。ところで、殺しの現場だが、表通りから離れた、奥まった路地の中なので、今のところ目撃者をさがし出せていない。付近で聞き込みをしているのだが、銃声らしい音を聞いたという証言はいまのところない」
    「他殺死体が2つ見つかった。身元は判明した。今のところはっきりしているのはそれだけか」
    「そういうことだ。たいていの殺人事件はこのようなはっきりしない状況で始まるのさ」
    「ところで麻薬関係の可能性はないのか」
    「そっちの方も一応あたっている。死んだ男も、女の方も麻薬関係のコネクションはいまのところ出てきていない。ただ、手際のいい殺しなので、その道のプロの犯行の可能性については留意しておくことが必要だと思っているよ」
     警視はゆでた青菜にピーナツソースをたっぷりと絡ませて、ガドガドを食べ終えた。
    「それで通訳の仕事だが」
    鷹石が警視を見た。
    「ソト・アヤムもガドガドもうまいし、あんたとのおしゃべりも楽しい。それで肝心のここに立ち寄った用向きをまだ話さないままでいた。スラバヤ総領事館デンパサール駐在官事務所の久保田尚領事がセタ・サヨの在留届の緊急連絡先になっている両親に今日の午後連絡をとる手配をしてくれた。両親は仙台という町に住んでいるらしい」
    「仙台か。5月の仙台は街をとりかこむ木々の新緑が鮮やかな季節だ。呼吸をすると肺の中が薄緑に染まるような錯覚におちいる。いい街だよ」
    「領事の久保田さんの話では、仙台から東京に出て、成田からデンパサールに飛ぶことになるそうだ。航空券の手配などが終わったら、到着の日時を改めて連絡してくれることになっている。ジャカルタでは海外に脱出しようとするノン・プリブミや外国人などが、スカルノ・ハッタ空港から出発する国際便の席を争って入手しようとしている。バリのングラ・ライ空港もだいぶ混み合っているそうだ。一方でかなりの外国人がジャカルタからバリのビーチに避難してきている。ジャカルタのオフィスビルはスプレーのペンキで『プリブミ』と壁に書いたり、『リフォルマシ(改革)支持』と書いたりしてお守り代わりにしている。個人の家ではイスラムのお祈りのための個人用絨毯・ティカル・スンバヤンを吊して魔除けにしている。金のあるやつは外国人同様、バリに逃げ出してきているがね。一方で、デンパサールに飛んでくる国際便の方はガラガラだ。定期便が運行を停止しない限り席の方はなんの問題もない」
    「そうするとデンパサール到着は早くても明後日17日のことになりそうだね。その心づもりでいるよ」
    「ありがとう。いつもながらのご協力を感謝する」
    警視がまん丸い顔をにっこりとさせた。
    「ところでスハルト大統領だが、訪問先のカイロで辞任を口にしたと14日付のコンパス紙が伝えて、ちょっとした騒ぎになっているが、辞任する気なのかい」
    鷹石がたずねた。
    「辞任する気もないだろうし、辞任したくても辞任できない。死ぬまで大統領を辞められない。スハルトは大統領に7選され、これまで30年余りにわたってインドネシアを支配し続ける強固なシステムを築いたが、円満引退の環境を整えておくことを忘れてしまった。大統領をやめたとたん、不正蓄財、人権侵害、1965年の共産党殲滅作戦による大量殺人の容疑を追及されることになる。辞めたくても辞められないんだよ。1990年にシンガポールの首相を円満退職した盟友のリー・クアンユーのことを、スハルトは大いにうらやましがっていることだろう」
    「そうだろうなあ。わたしなんかも、ついこのあいだまでは、民主化を要求する勢力など蟷螂の斧でしかない、スハルトのインドネシア支配は彼が死ぬまで続くと思っていたよ。それがタイで始まったアジア金融危機であれほど強固だったスハルトの権力基盤があっとの間に崩れてしまった」
    「鷹石さん、すべからくものごとには終わりがある。夜のとばりがおりて始まったワヤンの長いながい物語も、いずれ夜明けとともに終りを告げることになる。さて、夜が明けないうちに私は自宅に帰ることにしましょう。ごちそうさま。通訳の件の詳細についてはおっつけ連絡します」
    鷹石は警視を玄関先まで見送った。
    「スラマット・マラム(おやすみ)」
     警視は愛用のインドネシアの国民車キジャンを運転して帰って行った。

     

          (つづきはおおむね毎週日曜日に掲載)

     

     

     

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