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2018.07.01 Sunday

『ペトルス―‐謎のガンマン』   第9回

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    524日午後、デンパサールの州警察本部

     

     グスティ・アグン・ライ警視はデンパサールの州警察本部のオフィスで、ワヤン・ブラタ刑事とイ・バグス・マデ刑事の2人が、ウブッドのプリアタン村からイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンをともなって帰って来るのを待っていた。

     23日の夕方、ウブッドから帰ってきた2人の刑事が、イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの女弟子のウルワツの断崖での墜落死について、記録を読み返したいと言い出した。ガムランの師匠の日本人の女弟子が2人とも死んだことに警視も奇妙な暗合を感じた。書類保管庫の棚からかび臭い書類の束を取り出して、3人で事件のあらましをたどった。

     1992年の821日のことだった。地図で見るとバリ島の南部にぶら下がるようについているバドゥン半島の南西にあるウルワツ寺院近くの断崖から日本人の女性、三田宏美が墜落死した。ウルワツ寺院で墜落を目撃した観光客らの証言では午後5時すぎのことだったという。「日没前の鈍い黄金色の海に映える断崖から、ふんわりと人間が落ちていった」という目撃談が引用されていた。警察官らが崖下を捜索し、午後550分ごろ三田宏美の死体が見つかった。

     ウルワツの断崖はほぼ垂直に50メートルほど波打ち際から切り立っていて、三田宏美は全身打撲と頭蓋骨を含む骨折で、見つかったときはすでに死亡していた。28歳の日本人女性で、ウブッドでイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンについてガムランを習っていることは、彼女が持っていた出入国管理局発行の滞在許可証KIMSからたどれた。三田宏美は199110月にバリにやってきてガムランを習い始めた。日本では1990年代にインドネシアのガムランの人気が出始め、ガムランを習ってみたいと日本人の若者がバリに来るようになった。ジャワにもガムランの名手たちがいるのだが、日本の若者たちにはジャワのガムランよりもバリのガムランの方がお気に入りだった。三田宏美はそうした日本人の1人だった。三田宏美にガムランを教えていたイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンが警察にそのような説明をしていた。

     三田宏美の検死結果によると、死因は墜落時の頭蓋骨骨折と脊柱骨折および全身打撲。それ以外に顕著な外傷はなかった。また、薬物の残留も認められなかった。三田宏美は妊娠していて第6週に入っていた。

     捜査記録によると、目撃証言や三田宏美が墜落した現場の状況から他殺は考えられず、事故の可能性も低いので、結局、自殺と判断された。三田宏美が妊娠に至った相手もうわさはいろいろとあったが、結局、不明なままに終わった。関係が噂されているガムランの師匠も姉弟弟子のアメリカ人男性も、821日午後はプリアタン村でガムランの練習をしていたというアリバイが成立していた。そういうわけで三田宏美の死は、鬱状態がつのったすえの発作的自殺と結論された。

     記録を読みおえた警視はワヤン・ブラタ・刑事とイ・バグス・マデ刑事の2人に、24日朝プリアタンに行って、イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンを警察本部に連れてくるよう命じた。

     

    グデ・ダルマワンが24日の午後、2人の刑事と部屋に入ってくると、警視は手をさしのべて、

    「デンパサールまでおいでいただき感謝しています」

    と握手を求めた。あんたを容疑者あるいは重要参考人として連れてきたわけではないんだよと、相手の警戒心を解くためだ。

    「6年前には日本人の女弟子が自殺し、今度はまた日本人の女弟子が路上で殺された。不運につきまとわれているようですな」

     警視がすぐさま本題に切り込んだ。

    「私になにか落ち度があったとでも?」

    ガムランの師匠が緊張した声を出した。

    「あなたに落ち度はなかったでしょう。私がお訪ねしたいのは、6年前の自殺ことではなくて、今度の殺しのことです。被害者の態度に何か変わったところはなかったですか。瀬田沙代に最後にあったのは、たしか512日でしたね」

    「そうです。その日の朝、私の家の練習場でグンデルの稽古をつけた。午前9時から2時間ほどだ。バリ人の男の弟子もいっしょだった。彼女はいつもと同じように快活にふるまっていた。あのとき沙代が打ち鳴らしたグンデルの音は、あたりの朝の空気を切り裂くような鋭さがあってなかなかよかった。それが、2日後に殺されてしまうなんて……」

     グデ・ダルマワンの声が震えた。警視が彼の顔を見ると、目が赤くなっていた。だいぶ感情が乱れているな、と警視は思ったが、気づかないふりをした。

    「そのとき、瀬田沙代はデンパサールで誰かと会うようなことを言わなかったですか」

    「誰かとは、誰のことだ……」

     そう言ったあと、グデ・ダルマワンはハッとした表情で口を閉ざした。

    「彼女はスハルトノという名前を口にしませんでしたか」

    「そうか、あの野郎が沙代を殺したのか」

     ガムランの師匠が突然叫んだ。

      警視はそれを無視して話題を変えた。

    「ところで、あんた、去年の7月に瀬田沙代とジョクジャに行ったね」

    「そのことがあんたの捜査とどんな関係があるんだ」

    「まあまあ落ち着いて。あんたが瀬田沙代と情を通じたのはジョクジャ行きの前からか、それともジョクジャのホテルでか?」

    「おれを侮辱しているのか。スハルトの時代は終わったんじゃないのか。そういう言い方はないだろう」

    「じゃ、あんたの奥さんや、ウブッドの口さがない連中がひそひそ語り合っているあんたと瀬田沙代の情事は全部なかったこと、でっち上げの中傷だというんだな」

    「根も葉もないうわさだ」

    「ジョクジャへ行こうと誘ったのは瀬田沙代か、それともあんたか?」

    「沙代がジョクジャのガムランをよく聞き込んでおきたいからと、おれに同行を頼んだんだ。あんたも知っているだろうが、ガムランはもともとインドからジャワにはいってきた。バリへはジャワから伝えられた。ジャワとバリではガムランの音の作り方が違うんだ。ジャワのガムランの音は、どちらかというとテンポが緩やかで、たたき出される音も柔らかい。たとえて言うと、演奏される音がレースのカーテンを何枚も何枚も通り抜けて伝わってくるようにゆったりと響いている。よくしたもので、あの音はかつてのジャワのスルタンの宮廷の舞踊のように優美でなめらかだ。そういうジャワのガムランの音はスルタンの宮廷で洗練されて出来上がったものだ。ジャワにからバリに伝えられたガムランはジャワ的な洗練が施される以前の原形だ。代表的なのがゴング・グデだ。だが、20世紀に入ってすぐ、いまのバリのガムランであるゴング・ケビャールが考案された。いまではバリのガムランはケビャール一色に塗りかえられた。ケビャール(稲妻)というくらいだから、その音は鋭く鮮烈だ。スルタンの宮廷で磨き抜かれてトゲがなくなったジャワの半分眠ったようなガムランの音よりも、激しく空気を振動させるバリのガムランの音の方が外国人にはうける」

    「ジョクジャにはどのくらい滞在したんだ」

    「ガムラン・フェスティバルをやっていた3日間だ」

    「いい旅だったようだな」

    「沙代は満足げだった」

    「師弟ならではの親密な関係が強まったわけだ。ところで、14日の午前中、あんたはどこにいた」

    イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの顔がひきつった。

    「家にいたよ」

    「あんたが14日の朝、ミニバスに乗ってデンパサールへ行ったことはわかっているんだ。あの朝デンパサールで何をしていた」

     グデ・ダルマワンは口を閉じ岩のように固まった。

    「どこで何をしていたんだ。ここは大事なところだぞ。変に細工すると身に覚えのない疑いをかけられることにもなりかねん」

     警視が脅した。

    「タマン・サリ・ホテルへ行った。スハルトノに会うためだ」

    「何時ごろだ」

    9時ごろだと思う」

    「スハルトノに会ったのか」

    「やつはホテルにいなかった。それで、ロビーで一時間ほどやつを待ったが現れなかった。そのことはホテルのフロントの従業員が知っている。あきらめて、ホテルを出て、ミニバスでウブッドに帰ってきた。」

    「スハルトノにどんな大事な用があったんだ」

     警視がたたみ込んだ。グデ・ダルマワンの顔がゆがんだ。彼は両手で顔をおおい、肩をふるわせた。警視はしばらく黙っていた。

    「沙代の気を引こうとして、いい加減なことをあの女に吹き込むんじゃないと言いに行ったんだ」

     グデ・ダルマワンが叫んだ。

    「スハルトノは瀬田沙代に何を言ったんだ」

    「おれのことをウブッドの森の殺戮者だと沙代に言った」

    「なんのことだ?」

    「スハルトノは沙代に、おれが930事件のあとバリで起きたインドネシア共産党員虐殺事件に加担していたと、でたらめを言った。おれが沙代に、スハルトノは信用のおけない危険な男だから、もう会うのをやめた方がいい、といった。すると、あの女、子どもみたいなことを言うのはおやめなさい。聞くところでは、あなたも30年ほど前の20歳のころは、冷酷非情で危険な人だったそうじゃないの、と師匠のおれに面と向かって言ったんだ。それでおれはスハルトノに会いに行ったんだ」

     

     

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