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2018.09.09 Sunday

『ペトルス――謎のガンマン』  第12回

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    5月27日午前、ウブッドの渓谷
     グスティ・アグン・ライ警視は愛車キジャンを運転して5月27日の朝八時前に自宅を出た。これからウブッドへ行って、絵描きのイダ・バグス・チャンドラに会うのだ。
     運転しているキジャンは日本の自動車会社とインドネシア資本による合弁会社、トヨタ・アストラがノックダウンで製造した車だ。インドネシアでは自動車は超高額商品なので、警察官には新車を買うだけの資力がない。警視の車も顔見知りの中古自動車屋が、3度ほどオーナーがかわったが、程度のいい掘り出し物だとすすめてくれた中古車だ。
     インドネシアの道路沿いにはベンケルとよばれる車の修理屋があって、調子が狂ったバイクや自動車の応急修理をしてくれる。警視の愛車も最近はエグゾースト・パイプから出る排気の色が濃くなっている。そろそろ点検修理が必要なころだとは思うのだが、いかほどの費用がかかるのか、警視は気が重かった。
     イダ・バグス・チャンドラのアトリエはデサ・プヌスタナンにある。デサ・プヌスタナンは観光客から「絵画村」といわれているウブッドの名所の一つだ。
     イダ・バグス・チャンドラのアトリエは、画家のアトリエというよりも周辺の絵描きの工房同様、バリ絵画のおみやげショップのようなつくりだ。一目でバリ風絵画とわかる安っぽい絵を門口に並べ立てている。このショップの奥の方にアトリエがあり、そこで2人の若い男がポートレート写真を見ながら絵を描いていた。
    「イダ・バグス・チャンドラさんはいるかい」
    警視が工房に声をかけた。
    「さっき外出しました」
    「遠出かい?」
    「いえ、近くのウォス川です。先生はよくウォス川のほとりに出かけて瞑想するんです」
    奥のアトリエで絵を描いていた若い男が絵筆をおいて出てきた。細くて背の高い長髪の、まるで絵筆のような若者だった。
    「まもなく帰ってくるだろうか?」
    「先生が川へ瞑想に出かけられたときは、帰りはたいてい昼めしどきです。瞑想は腹が減る。すごいエネルギーを使うんだな。そう言って、いつもナシゴレンを食べます」
    「お昼のナシゴレンまで帰ってこないのか。そんなに長くは待っていられない。こっちからウォス川まで出向いた方がよさそうだな。瞑想しているのは川のどのあたりだね?」
    「自動車では行けない場所です。あなたが一人で歩いてゆけば道に迷う。バイクで案内しましょう」
    若者はそういって表に出て、工房の横手からバイクを押してきた。
    「乗ってください」
    バイクにまたがった若者が言った。若者は警視の名前をたずねようともしなかった。警視も若者の名前を聞こうとしなかった。若者はどうやらグスティ・アグン・ライ警視を顧客の一人と思いこんだようだ。
     警視を後ろに乗せて、バイクの若者はプヌスタナンの絵画通りを左に折れて横道に入り、青田の中の道を抜けて森の小径に入った。おなじバリ島に住んでいてもデンパサールとウブッドでは身の回りの緑の度合いがちがう。デンパサールの緑は埃をかぶっている。ここの緑は乾季にも関わらず、雨上がりのようにしっとりとしている。森の小径の両側の木の葉が左右から頭上にかぶさるようになった。若者がバイクを止めて言った。
    「ここからは歩いて行くしかありません。もうそんなに遠くないです」
    「君の師匠はいつも決まった場所で瞑想するのかね」
    警視が若者に言った。
    「そうなんです。このごろはウォス渓谷の斜面のあちこちに観光用のホテルができて、観光客が渓谷を見に来る。観光客の視線が邪魔で、精神を集中させることができる場所が少なくなっているそうです。先生、センセー」
    若者が森の向こうの渓谷へ叫んだ。
    「誰だ?」
    渓谷から声が聞こえた。
    「マンガです。お客さんをお連れしました。先生に急ぎの用で会いたいそうです」
    若者が叫んだ。そうか、彼の名前はマンガなのか。マンガとは変った名前だな。警視が笑顔でマンガの方を向くと、マンガがそれを察して言った。
    「マンガなんて、変な名前だと思われるでしょう。あだ名なんです。師匠にいつもしかられていたんです。おまえが描いているのはバリの絵ではない。日本の子どもが好きなマンガだ。それでいつの間にかあだ名がマンガになってしまいました。足下に気をつけて下さい」
    けものみちのように狭い斜面の小径を渓谷の方へ下りながら、マンガが警視に注意した。
     イダ・バグス・チャンドラはジーンズにTシャツという気楽な服装で、ウォス川の流れの中にある大きな石の上に座り込んでいた。
    「いまそっちへ行く」
    バグス・チャンドラが叫び、岩から降りて流れの中を岸に渡って来た。いまは乾季なので、川の水深はそんなにないと見える。
    「やあ、どうも。イダ・バグス・チャンドラです」
    「私はグスティ・アグン・ライ」
     二人は握手を交わした。
    「瞑想するには、なかなかいいところですな」
    警視がお世辞を言った。
    「昔はもっとよかった。あんなものはなかったのだから。ここももうだめだな」
    絵描きは濃密に茂った緑の木の葉の小さな隙間から見える対岸の斜面の上の白い建物を指さした。
    「ホテルですよ」
    「最近できたのですか」
    「去年の12月にオープンしました。ところでご用の向きはなんですかな」
    絵描きが警視をまじまじと見た。こいつおれのことを、絵などとは無縁な男だと思っているのかな、と警視は察した。
    「最近、日本人の女性をモデルにして肖像画を描かれたときいています」
    「おや、どこで聞かれた噂ですかな。あれは未完成です。たとえ、完成しても売る気はありません」
    絵描きがきっぱりとした口調で言った。
    「私はデンパサールから来た州警察本部のグスティ・アグン・ライ警視です。イダ・バグス・チャンドラさん、あなたはその絵のモデルになってもらった日本人女性、瀬田沙代が5月14日、デンパサールの路上で射殺されたことを、当然ご存じでしょう」
    警視はちょっとだけドスのきいた声を出し、ダルマさんのような目をむいてチャンドラを見た。そのあとやわらかな口調でこう続けた。
    「わたしはその事件の捜査の指揮をしています。被害者の日常について、些細なことにいたるまでたんねんに調べあげ、犯人とつながる情報を見つけだす作業にいま取り組んでいるところです。ご協力いただけるとたすかります」
    ハッハッハ、とイダ・バグス・チャンドラが笑い出した。
    「噂を聞いてあの絵を買いに来た客だと勘違いしていました。そうですか、警視さんですか。ごくろさまです」
     絵描きの丁重さは冷やかし半分とみえた。
    「それで、あの絵を警察本部に持って行きたいとおっしゃるのですか」
    「いやいや、そこまでお願いするつもりはありません。捜査の参考までに、ちょっとどんな絵なのか拝見するだけでけっこうです」
    「そういうことなら、アトリエに帰りましょうか。もはや瞑想を続ける気分ではありませんからな。マンガ、バイクで来たのか。じゃあ、警視を乗せてさきにアトリエへ帰ってくれ。わたしは歩いて行くから15分ほど遅れるだろう。その間アトリエで警視に飲み物でも差し上げてくれないか」
     絵描きはきっちり15分遅れでアトリエに帰ってきた。
    アトリエの奥にある物入れの扉を開けて白い布にくるんだ大きめの長方形の絵をはこんできた。布を取り去るとそこに女の肖像があった。
     縦1メートル、横60センチほどの縦長のキャンバスに沙代が描かれていた。
    「西洋風の画材を使ってみました。布のキャンバスに油絵の具で描いたものです」
    イダ・バグス・チャンドラが自信に満ちた声で言った。
     バリの絵といえば画題も表現方法も定型が多い。画題としては、王族の華麗な火葬の式典の模様。村の寺院の境内や、森の中の広場で催されるにぎやかなバロン・ダンスの風景。寺院での祭礼の風景。インド伝来のマハーバーラタの中のシーンをバリ風の怪奇趣味を加えて描いたもの。市場に集まる村人たちといったバリの暮らしの日常をテーマにした細密画。そしてバリ人とは切っても切れない闘鶏の図などだ。いずれもどこか稚拙な表現法が感じられるヘタウマ絵画だ。観光客の中には気持ち悪がって嫌悪する人もいるが、牧歌的である一方で人間の奥深いところにあるデモーニッシュな部分が露骨に表現されているバリの絵画を、自分たちの国にはない芸術だといって珍重する人もまた多い。
     だが、イダ・バグス・チャンドラが描いた瀬田沙代のポートレートはそうしたバリの絵画の手法から少し距離をおいていた。
    祭礼の供物ガボガンを頭にのせた女性がたっていた。女性は祭礼の正装ではなく、もっとくだけていた。サロンを腰にまとっていたが、上半身は20世紀初めのバリの女性と同じように裸だった。首筋から肩にかけての流れるような優雅な曲線が印象的で、細身の上半身には形の良い円錐形の乳房がもりあがっていた。グレゴール・クラウゼの写真や、ミゲル・コバルビアスの戯画的なバリの女性像の乳房に形が似ていた。しかし女性の上半身の肌はレオナルド・フジタの女性の肌のように、妖しい乳白色に描かれ、ガボガンの下にある顔はバリ人の女性の顔ではなく、まぎれもなく日本人女性の顔だった。切れ長の目が気品を感じさせた。と同時に、女性の表情には薄笑いとも、悲しみともつかぬ内面の感情の揺れが感じられた。女性の背景には深い緑の森が配置され、森の中に寺院の塔がのぞいていた。
     1930年代にバリに住んだミゲル・コバルビアスのバリの女性の絵は、タヒチに住んだゴーギャンの女性の絵ほどの力感はなかったが、野生と装飾性を備えた女性の描き方が魅力だった。イダ・バグス・チャンドラの絵は、コバルビアスの画法にどこか似てはいたが、20世紀前半のコバルビアスのエキゾティシズムのかわりに、それから半世紀がたった20世紀末の現代的なエロティシズムが描きこまれていた。
    「沙代さんが殺されるとはね」
    イダ・バグス・チャンドラはため息をついた。
    「殺された理由はわかったのですか」
    「いや、それが……」
    警視は言葉を濁した。
    「警視さん、庭で話しませんか」
    イダ・バグス・チャンドラは立ち上がって警視をアトリエとその裏の自宅との中間にある中庭に誘った。

     庭にテラスがあり、そのうえに四本の柱の上に屋根をのせただけの風通しのよいあずまやがあった。屋根は日陰をつくり、風は暑気を和らげる。丸い小さなテーブルと木製の椅子があった。
    「どうぞ」
    とイダ・バグス・チャンドラは警視に椅子をすすめ、自分も警視の正面の椅子に腰を下ろした。
    「ここなら弟子どもに立ち聞きされる心配なしにお話しできますからな」
    「いまのところ瀬田沙代とオジェックの男スダルノが殺された事件については、殺しの目的がはっきりしないというやっかいな問題がありましてね。ガムランをならいにウブッドに来ていた日本の女性が、ジャワから流れてきたバイク・タクシーの若者といっしょに殺された。物盗りの犯行か。だが、高価な3000ドルの腕時計は奪われていなかった。それでは怨恨か。だが日本女性とジャワの流れ者に対して、共通の怨恨をもつ犯人とはどんな人間だろうか。被害者2人が顔見知りだったという可能性も低いのですよ。そういうわけで、殺しの動機に関係して、被害者瀬田沙代の周辺に何か参考になる話がないかと聞き歩いています」
    「それで、具体的には、私に何をお聴きになりたいので」
    「まず、あなたが瀬田沙代と知り合ったのはいつごろのことでしたか」
    「ウブッドは外国からの観光客で混み合っているが、観光客は雲のようなものです。流れ来て、流れ去ってゆく。本来のウブッドはもともと小さなコミュニティーです。だからここにしばらく住みついて芸術活動をしている外国人と、土地の芸術家の間には自然と交流が生まれます」
    「ほほう、そうですか。あさはかな私は、ウブッドに長期滞在して絵やガムランを習っている外国人も、数奇者という気まぐれな観光客だとばかり思っていました」
    「ウブッドにあつまる外国人芸術家たちは、一般のバリ人からそのような目でみられていますが、バリの芸術という観点からすればそれ以上の存在です。われわれがいまウブッドで制作している絵画自体が、バリの伝統と西洋の技法がふれあう中で出来あがったものです。もともとバリの絵画はインドの影響を受けたジャワの絵画が起源です。ジャワ最後のヒンドゥー王朝マジャパヒトが一五世紀にバリに攻め込んできたとき、当時のマジャパヒトの宮廷で盛んに描かれていたワヤン・スタイルの絵画技法をバリに伝えました。影絵芝居ワヤンに刺激を受けたのでそうよばれています。そのワヤン技法はバリのゲルゲル王国などに伝えられた。サンギン(画工)が洗練されたジャワの宮廷絵画の技法とバリ農民の野生を融合させた絵を描き始めた。サンギンたちはカマサンという村で絵を描いていたので、バリの絵画の基層になったこの絵画技法をカマサン・スタイルとよんでいます。カマサン・スタイルは20世紀まで継承されてきました。いまでもこのスタイルを守っている絵描きもいますが、バリの絵のスタイルは、20世紀初めにバリがオランダ領東インドに組み入れられたあと大きく変貌しました。
    「なるほど。バリの諸王国がオランダ領東インドに征服された20世紀初頭の出来事は、バリの芸術にとっても一大衝撃だったわけですね」
    ライ警視はチャンドラ画伯の口をなめらかにするための潤滑油のつもりで合いの手をいれた。

     

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