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2018.09.22 Saturday

『ペトルス――謎のガンマン』   第14回

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     5月27-8日、ジャカルタ
    鷹石里志は5月27日朝、デンパサールからジャカルタに飛んだ。ジャカルタ在住のインドネシア人の友人ブルハヌディンの出版記念会が27日の夜にひらかれる。それに出席するためだ。28日の木曜日はウダヤナ大学の日本語クラスの授業があったが休講にしてもらった。
     出版した本はブルハヌディンが国立インドネシア大学に提出して博士号をもらったジョン・ロールズの正義論をめぐる論文で、出版しても売れる見込みはない。インドネシアの知識人のなかには派手な出版記念会を開く人がいる。知識人にとっては、出版記念会はムスリム男子の割礼にも似た重要な通過儀礼なのだ。いや、ブルハヌディンは鷹石より少しばかり年長なので、むしろ冥土のみやげという言い方がふさわしいかもしれない。
     鷹石はスカルノ・ハッタ空港からタクシーでタムリン通りのホテルに直行、チェックインしてすぐ古い友人の黒田武に電話した。黒田は商社のインドネシア支店長で定年になり、そのままインドネシアに住み着いてしまった。インドネシアに駐在していた若いころ、目のぱっちりとした隣家の娘とにくからず思う仲になって結婚した。定年までの黒田の40年近くをかえりみると、日本に住んだ期間よりインドネシアをはじめとする国外に住んだ年月の方が長い。
    「お久しぶりですね。おかわりありませんでしたか。きょうはまたどんな風の吹き回しで、この荒れ果てたジャカルタにお越しですか」
    受話器から黒田のはずんだ声が聞こえた。
    「インドネシア人の友人の出版記念会に出ようと思いまして」
    「ほう、それはいつですか」
    「今夜です」
    「じゃあ、明晩、わが家にお越し下さいませんか。久しぶりにいっぱいやりましょう。カルリナも会いたがっているでしょうから」
    カルリナは黒田の妻の名前だ。
    「それから、鷹石さん。ジャカルタの惨状はテレビでご覧になったでしょうが、ひどいものです。見ておくだけの値うちがある。特にグロドックは凄惨としか言いようがない。明日ご予定がなければ、カルリナが運転する車でお泊まりのホテルまで迎えに行きます」
    「ご親切にあまえて、グロドック・ツアーにつれていっていただきましょう。ホテルはタムリン通りのサリ・パン・パシフィックです。」
    「では、明日午前10時にホテルへ行きます」
    「ありがとうございます。イブ・カルリナによろしくお伝え下さい」

     ブルハヌディンの出版記念会は鷹石の泊まっているサリ・パン・パシフィックからそう遠くないインドネシア新聞記者協会のホールで開かれた。ブルハヌディンは元新聞記者だったが、勤めていた新聞社がスハルト政権によって発禁処分を受け、彼自身もインドネシアのジャーナリズム業界から事実上のパージを受けることになった。もはや新聞社にポストは得られなくなったが、評論家としてインドネシアのジャーナリズムの世界では、引き続き影響力を持ち続けていた。
     出版記念会は盛会だった。スハルトに批判的だった現役の記者、スハルト支持者だった新聞社幹部、引退した記者、学者、隣人、ブルハヌディンの美貌の娘に野心を燃やしている若者、それと、案内状をもらって出席する人に誘われてふらっとやって来た、案内状なしのブルハヌディンとはなんの関係もない人――インドネシアでは招待された側が招待した側に断りなしにだれかを連れてくることがよくあるのだが、招待する側はそれを自分の人気の証明とうけとって快く受け入れるのが通例だ――でごった返していた。
     会場に国会議長のハルモコの姿があった。ブルハヌディンと同じころからジャーナリズムの世界で働き、やがて『ポス・コタ』というジャカルタの大衆新聞の社長に出世した。さらにインドネシア新聞記者協会の会長におさまり、その椅子からスハルト政権の情報大臣に転身した。情報大臣として、スハルトの命令に忠実に従って、インドネシアの新聞ジャーナリズムを検閲下においた。次にスハルト与党のゴルカルの総裁に抜擢され、とうとう国会議長にまでのぼりつめた。スハルトが追い詰められた5月18日、スハルトにはもう目がなくなったとみるや、身をひるがえして、国会議長としてスハルトに退陣を要求する声明を出していた。
     短時間だが記念パーティーの席に顔を出したハルモコは、壇上から祝辞を述べさせてはもらえなかったが、フロアでブルハヌディンに祝意を伝え、ブルハヌディンを取り囲んだ人々とにこやかに歓談した。普段はスハルト政権に対する見解で鋭く対立して仇敵同士だった人たちが、パーティーでは満面笑みをたたえて歓談の演技をする風景は、鷹石には、上品な振る舞いを第一とするインドネシアらしい面白い風景に思えた。
     面白かったのはそれだけ。鷹石は機会を見てブルハヌディンに近寄って短くお祝いを述べ、今夜は忙しそうだから、また近いうちに機会を見てロールズの正義論についてのあなたの議論を聞きにくる、といって会場を出た。

     

     28日午前10時、黒田夫妻がサリ・パン・パシフィックにやってきた。
    「まあ、鷹石さん」
    「お久しぶりです、カルリナさん。いつもお美しい」
     カルリナが差し出した手を鷹石が握りかえした。
     ホテルを出てタムリン通りを南下し、巨大な噴水プールのあるロータリーを回って北行き車線に入って北上すれば、ほどなくグロドックに行き着く。
     ヨーロッパ人が最初にジャワ島にやってきたのがジャカルタ北部の海岸スンダ・クラパだ。1522年にポルトガルの船団がこの海岸にやってきた。当時、スンダ・クラパはヒンドゥー教徒の領主が支配しており、ポルトガル人はその領主と交易協定を結んだ。ポルトガル人たちが5年後の1525年に、スンダ・クラパに通商基地を建設しようと戻って来たところ、すでにヒンドゥー教徒の支配者は消え、イスラム教徒の領主に代っていた。新しい領主は基地建設を拒否した。ポルトガル人たちは攻撃を仕掛けたが、戦闘のすえ敗北を喫して退散した。西洋に対するこの戦いの勝利を記念して、1527年をジャカルタ市の起源とする説がある。ジャカルタという名の起源は、この闘いでの勝利と栄光を意味する「ジャヤカルタ」だ。ポルトガル人をスンダ・クラパの海岸から追い払ったのは、ファタヒラという名の将軍で、その名はいまもジャカルタ市内に地名として残っている。そのあと、オランダ人がやって来て、1619年に商館を築いた。ジャカルタはオランダ統治時代にはバタヴィアとよばれた。古代のオランダに住んでいたバタビア人に由来する。
     このバタヴィアの商館が置かれたあたりが、現代のジャカルタではコタ(町)とよばれている。オランダ植民都市の名残を伝える古い洋館群が残っていて、いまではジャカルタの数少ない観光資源になっている。初期のオランダ植民地総督はコタの南側に出稼ぎにやってきた中国人の町をつくった。その地域はやがて中国人が牛耳る流通の中核になっていった。これが今日のグロドックの始まりだった。
    「ジャカルタの暴動はトリサクティ大学生への銃撃があった翌日の13日から始まりました。市内のあちこちで自動車への放火や、商店の打ち壊しと略奪がおこなわれました。ですが、グロドックは極端だった。鷹石さん、前方の右手に黒く焼けこげたビルが見えるでしょう。あれはもともと5階建てのデパートでした。人々がデパートのシャッターをたたき壊し、われさきにデパート内に入り込んで、店内の商品を略奪し始めた。デパートの中で大勢の人が略奪品をかき集めているさなかに、誰かがデパートに火を放った。ひどいことをするものです。たまったものじゃない。建物の火が完全に消えた16日以降、消防や警察が建物内を捜索し、死体運び出し作業を始めた。するとあの建物からだけでも二〇〇以上の死体が見つかった。有毒ガスを吸って死んだ人、焼けこげて人間の形をした巨大な炭になって死んだ人。このあたりにはスーパーマーケットの大型店が多く、多かれ少なかれ似たような略奪にあっています。略奪は市内のあちこちで同時多発的に起こった。東ジャカルタのスーパーでは、指導者らしい男が貧民ふうの人々の一団を引き連れて現れ、スーパーの中に入って何でも好きなものをとれと大声でそそのかした。人々がスーパーの中に入って略奪品を物色している間に、何者かがスーパーの出入り口を閉鎖したうえで火を放ったという目撃証言も出ている。そこでも100人以上の人が火事で死んでいます」
    黒田が鷹石に説明した。
     鷹石はデンパサールで見たジャカルタの略奪のテレビ 映像を思い出した。裸足の男が両手に扇風機だの電気湯沸器だのを持ち、背中に略奪品を詰め込んだ大きなバッグを背負って、煙が流れる商店街を急ぎ足に歩く姿だった。都市貧民街でその日暮らしを送る者には、生涯手に入れることができないような品物が背中のバッグにはいっていたのだろう。
     略奪が市内全域で同時多発的に始まり、ねらわれたのは中国系資本のスーパーが多いとなれば、マレー系インドネシア人の中国系インドネシア人に対する潜在的な敵意「中国カード」を使った組織化された暴動の可能性がある。
    「カルリナ。パンチョラン通りに入れるかな?」
    黒田が妻に日本語で尋ねた。
    「だいぶ片付いたという話を聞いた。だから大丈夫、通れると思う」
    カルリナが日本語で答えた。

     やがてカルリナは左に切って車をパンチョラン通りに入れた。パンチョラン通りもグロドックの一部で、ここには電気製品を売る店が並んでいた。それがいまや、あらゆる店が打ち壊され、焼かれ、通りは無惨な姿になっていた。
    「鷹石さん、ひどいのは略奪や放火だけじゃあないんです。グロドックのように中国系の市民の多いところでは、あの暴動の時、おびただしい強姦事件が起きていたといわれています。私がかかわっている女性団体や人権団体がいま、被害者から聞き取り調査を始めています。ならず者風の男たちが押し入ってきて、その家の女性たちを家族の目の前で輪姦したという事件が多いのです。中国系市民を犠牲者にして、社会全体を恐怖に陥れようとするテロです。背後にいたのはだれか。これだけはインドネシアの名誉のためにもはっきりさせておくことが必要だと思います」
    カルリナがインドネシア語で説明した。そのインドネシア語に憤りがこもっていた。

     

    「ところでデンパサールの暮らしはいかがですか。退屈なさってませんか?」

    カルリナが鷹石にたずねた。
     3人はグロドックを見たあと、グロドックと同じように略奪と放火で大勢の人が死んだ東ジャカルタのジャティヌガラ・プラザを見て、サリ・パン・パシフィックに戻ってきた。コーヒーショップでお昼を食べていた。
    「デンパサールは今度のことでジャカルタから避難してきた人々でにぎわっていました。それに14日は日本人の女性がデンパサールの路上で銃撃されましてね。警察の依頼で日本からやって来た遺族と警察の間の通訳をやったりして、まだ浮き世との縁は切れていません」
    「そうですか。殺されたのは瀬田沙代という、ウブッドへやって来てガムランを習っていた女性ですね。こっちの新聞にも載っていました。私のよく知っている人が働いている会社の経営者の一人がその女性の夫です」
    「えっ、黒田さん、瀬田誠さんのことをご存じだったのですか。瀬田さんもなくなった沙代さんのご両親も、瀬田さんのジャカルタでの仕事や、沙代さんが一人でガムランを習いにウブッドに来ていたことなど、あまりくわしくはお話にならなかった。わたしも私事に立ち入るのを遠慮してお尋ねしませんでした」
    「そうだ、私の知人の宮内さんにも今夜つきあってもらうことにしましょう。瀬田誠氏の会社で働いている方です。よろしいですか? 彼も瀬田沙代さんの事件については知りたいことでしょうから」

     28日夜7時、鷹石がクバヨランの住宅街にある黒田の家を尋ねると、黒田の友人宮内孝由はすでに来ており、黒田とビールを飲んでいた。
    「先にやらせていただいています」
    と黒田が鷹石に笑顔を向けた。
     黒田が宮内のことを鷹石に紹介した。宮内は黒田と同じ60歳代半ばで、かつて黒田のライバル商社員だった。2人とも妻がインドネシア女性ということから家族同士のつきあいが始まり、そういうつきあいになってしまえば、さすがに仕事のことで角つきあわす気も薄れてきた。相談したわけでもないのだが、2人とも子育てが終わり、夫婦2人でインドネシア暮らしを続けることにした。黒田はもう仕事はしていないが、宮内はたのまれて瀬田の会社の嘱託のような仕事を続けている。
    「経営者の1人が瀬田誠さんなのです。いま1人はインドネシア人のモハマド・サミンという人物ですが、この人は代理人で、本当の経営者は国防治安省の局長をしているアンワル・ルクマン将軍です。彼はスハルト派の将軍の1人で、スハルトと近いことを理由にいろいろな利権を得て、商売に手を出してきました。アンワル将軍と瀬田さんがオーナーで、私が留守居役を仰せつかっている会社は、日本へのエビの輸出を専門に扱っているインドネシア側の窓口ということになっています。ですが、ここだけの話、内実はブローカーです。輸出のための手続き書類にOKのサインをして当局に提出するのを主な仕事にして、結構な手数料をいただいている窓口です。スディルマン通りに面した銀行の超高層ビルにある部屋を借りてオフィスにし、数人の事務職を雇って仕事をしています。私がそこの城代家老といった役回りでして」
    「瀬田さんはなかなか抜け目ない商売をしていらっしゃるわけだ」
    鷹石が冷やかし半分の口調で言った。
    「それがあなた、こんどのスハルト大統領退陣でしょう。スハルトが退陣したいまとなっては、その利権のルートが断ち切られる可能性もおおいにありうるわけです。スハルト大統領が辞任した翌日の5月22日には、ウィラント国軍司令官がスハルト大統領の娘婿で戦略予備軍司令官プラボウォ・スビアント中将と、彼の手下で陸軍特殊部隊コパッススの司令官マフディ少将を解任したでしょう。ウィラントが軍内で自らの地位を不動のものにするために、いずれスハルトに近かった将軍の追放を始めるのではないかともっぱらのうわさです」
    「そうすると瀬田氏の会社も潤滑油が切れてくる、ということになりかねないですなあ」
    すでに現役を離れている黒田が同情のこもらない感想を口にした。
    「瀬田さんはシンガポールの知人の紹介で、2年ほど前からメキシコで農産物を日本に輸出する商社を経営しています。インドネシアの会社は何もしないでも一定のパーセンテージで手数料が入る仕掛けになっている。営業努力をかさねれば、それなりに収入が伸びるという仕事ではないのです。それで、インドネシアの会社は私に任せきりにして、もっかは、メキシコで新しい仕事に専念し、楽しんでいますよ。やがてあの人の仕事はメキシコにシフトすることになるでしょう。権力にぶらさがってお下がりをいただくような仕事は、面白いとはいえませんからね。話題を変えて恐縮ですが、瀬田さんの奥さんが殺された理由は何だったのでしょうか」
    宮内が鷹石にたずねた。
    「デンパサールの表通りから路地を入った人気のないところで、拳銃で胸を撃たれました。行きずりの物盗り、いっしょに殺されていた男がジャワの流れ者だったことから麻薬などの組織犯罪がらみ、えん恨や男女関係のもつれが絡んだ殺し、警察はそういったものを念頭においていろいろ調べていますが……。どうなんでしょう、いまのところ捜査が進んでいる気配は伝わってきません」
    「瀬田さんはどうでしたか。落ち込んでいる様子でしたか。私には女房がバリで死んだ。しばらくはジャカルタに行けないのでよろしく頼む、と電話連絡があったきりでしたので」
    「なかなか精神的にしっかりとした方だったようで、冷静に事態を受け止めていらっしゃるようにおみうけしました。ご両親の方の対処も落ち着いたものでした。ご両親はお見受けしたところなかなかの事業家のようでしたね」
    「仙台を拠点にエレクトロニクスから交通、観光まで幅広い会社をお持ちのようです。瀬田さんの奥さんはご両親から生前贈与を受けて、そうした会社の株式や不動産で数十億の資産家だそうです。なにがあってもいまの女房と別れるわけにはいかない。瀬田さんがよく言っていましたよ」
    「瀬田夫妻はなぜバリとメキシコに分かれて住んでいたんでしょうね?」
    鷹石が宮内にビールを注いでやりながら言った。
    「両方が単身赴任したんでしょ。妻はガムランでウブッドへ。夫は仕事でメキシコへ」
    黒田カルリナが「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に」といった口調で言ったので、みんな笑い出した。
    「うちのひとも単身赴任しました。この人、一時期、石油の仕事でイランに行っていたことがあるんですよ。単身赴任で。インドネシア人の私が日本に残っていっしょうけんめい子育てをしました」
    いっしょに来ていた宮内の妻のラフミがいった。単身赴任の経験がある2組の夫婦は昔を思い出して楽しそうに笑い、破綻した結婚生活の経験者である鷹石は寂しく笑って彼らのおつきあいをした。

     

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