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2018.09.30 Sunday

『ペトルス――謎のガンマン』   第15回

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     6月1日、デンパサール


     鷹石里志は6月1日朝、デンパサールの州警察本部のグスティ・アグン・ライ警視の部屋で、バリ駐在官事務所の久保田尚領事が瀬田誠を連れて現れるのを待っていた。瀬田は1日朝、ライ警視から電話をもらった。瀬田誠と久保田領事からこれから警察本部に来ると連絡を受けたので、急なことで申し訳ないが本部まで来ていただけないかという内容だった。
     瀬田は5月31日の夕刻、デンパサールに到着し、前回と同じサヌール・ビーチのバリ・ハイアットにチェックインした。翌6月1日、瀬田は駐在官事務所に久保田尚領事を訪ねた。領事から、瀬田が捜査のその後の進捗について聞きたいといっているので、会ってもらえるかどうか警視に問い合わせの電話があった。

    「事件発生から2週間、いや、正確にいえば、2週間以上がたちました。事件解決へむけて、なにか新しい進展があったと、私は期待して今日ここに来たのですが……」
    応接室に案内されてソファにすわるとすぐ瀬田が口を開いた。妻が外国で突然、殺人事件の被害者になってしまった夫の無念がこもった、何となく粘っこい感じの日本語の言い回しだった。すくなとも、鷹石にはそう聞こえたが、「新しい進展はあったのでしょうか」と事務的な翻訳をした。
    「5月14日の事件発生以来、捜査本部はあらゆる可能性を考慮に入れてきました。瀬田沙代さんとオジェックの青年スダルノは、ひょっとしてあの日のウダヤナ大学生を中心にしたデモに参加していたか、あるいはプレマンに襲撃されて逃げまどうデモ参加者の流れに巻き込まれたかして、プレマンに銃撃された可能性をまず検討しました」
    職員が冷たい紅茶と小型の餡入り焼き饅頭ピアを盛った皿をはこんできた。警視は「どうぞ」とお茶とお茶菓子を勧めて、話をつづけた。
    「ですが、この仮説は成立しませんでした。デモに参加した学生たちから証言を集めたのですが、殺された2人がデモの列にいたという証言はありませんでした。また、死体の第一発見者であるウダヤナ大学生のニョマンから詳しい聴き取りをしました。ニョマンが言うには、あの路地裏に逃げ込んだのはニョマン1人だけで、ほかのデモの参加者はいなかった。また、プレマンがあとを追ってくる様子もなかった。また、プレマンの動きを監視している警官がプレマン情報を集めてくれましたが、あの日デモ隊に襲いかかったプレマンのなかの誰かが、拳銃を隠し持っていたとか、拳銃で人を撃ったという話も聞こえてきませんでした」
    「デモ襲撃に巻き込まれたという仮説はつぶれたわけですね」
    領事の久保田が念を押した。
    「そう考えています。次に考えられるのは、行きずりの殺人です。動機は物盗りか、人間を射殺すること自体を楽しむ異常者の仕業の2つが考えられます。物盗りですが、スダルノの方はもともと金目のものは何一つ持っていない男です。ですが、彼のポケットの小銭はとられていなかった。瀬田沙代さんの場合も、ウエストバッグから現金が奪われたようですが、ATMカードやクレジットカードは残っていた。腕時計もしゃれたデザインの高価なものでしたが盗られていなかった」
    「ええ、あれは以前、彼女の誕生日のお祝いに私が贈ったものです」
    瀬田が低い声で言った。
    「失礼ですが、いかほどのものでしたか?」
    「米ドルで3000ドルほどでした」
    「警察の専門家の鑑定もその程度でした。おそらくウエストバッグからとられた現金の総額よりはるかに高額な商品でしょう。犯人の目的が物盗りであったのなら、なぜこの腕時計を奪わなかったのか。殺人という重大な行為と奪われた物とのバランスがとれない。では、殺人マニアの、異常者の犯行かといえば、ここ数年、デンパサールではそうした殺人マニアの犯行と思われるような殺人事件、殺人未遂事件は起きていません。従って、この確率は相当低いと考えていいでしょう」
    「インドネシアでは正体不明の殺人事件がよく起こると聞いたことがありますが。たしかむかしペトルス事件というのがありませんでしたか」
    瀬田が警視に質問した。
    「おお、ペトルスのことをご存じでしたか。1980年代にジョクジャカルタで起きたギャングをねらった連続射殺事件――謎の銃撃者(プネンバック・ミステリウス)ですね。あれは街のギャング一掃を狙った超法規的な政府の措置だったと、スハルトが6、7年前に出した自叙伝の中で書いています」
     警視が瀬田に説明した。鷹石は警視のインドネシア語を正確に日本語に翻訳したのち、ペトルスはプネンバック・ミステリウスの略語で、警視は言っていませんが、死刑の宣告と執行を裁判抜きでやったわけですから、スハルトと彼の政権そのものが殺し好きの異常者だったともいえます、と日本語でコメントした。さらに、あの事件はスハルト政権の中枢でナンバー2を目指していた大物が、ライバルの影響力を削ぐために、ライバルの手足になって騒動を起こしてきたギャングたちを始末したのだという説もあります、とつけ足した。
     久保田領事がちらっと視線を鷹石に向けたが、あとはそしらぬ表情を保った。
    「そういうわけで、行きずり殺人の可能性も低い。では、組織犯罪に巻き込まれた可能性はどうでしょうか。例えば、麻薬。バリは国際的な観光地ですから、ヘロインなどの麻薬が流れ込み、またバリを経由してオーストラリアに麻薬が運び込まれている。そうした犯罪に何らかの理由で巻き込まれて、組織の手で殺された可能性も検討してみました。オジェック乗りのスダルノの周辺を洗って見ましたが、置き引き、寸借詐欺などの小犯罪はやっていましたが、麻薬密売の仕事はしていなかった。瀬田沙代さんの周辺にも、もちろん、麻薬犯罪に関連した情報は皆無でした。この線も排除していいでしょう。
    「では、えん恨に関連した殺人なのか。スダルノはバリ人のビーチボーイだと名乗って、片言の英語を使ってオーストラリアなどからやって来た女性のお相手をしていたそうです。こういう推測は夫である瀬田さんにとっては、非常に不愉快なことでしょうが、警察はスダルノと瀬田沙代さんにそのようなつながりがあるかどうかも調べました。その結果、これまでの調べで、瀬田沙代さんとスダルノは面識がなかったことがはっきりしました。したがって、被害者双方に対して共通の怨みを持つ人物の存在は考えにくい。スダルノに対して怨みを持つ犯人がスダルノを殺し、たまたまその現場にいあわせた瀬田沙代さんが巻き添えになった。あるいはその逆で、犯人は瀬田沙代さんに怨みを持っており、スダルノが殺人の巻き添えになった。この二つの可能性が考えられます。このいずれかについては、現段階では警察は判断を保留しています」
    「犯人像については何か」
    「検視報告を読む限り、至近距離とはいえ犯人はなかなかの射撃の腕前のようです。軍か警察にいた人物の可能性も否定できません。あるいは、殺し屋の仕事の可能性もあります。現場に犯人捜しの手がかりになりそうなものを残していません」
    「殺し屋ですって! デンパサールでそう言う商売をしている者がいるのでしょうか?」
    瀬田が驚いてたずねた。
    「います。殺人の請負料はターゲットによって違いますが、闇の世界の相場では普通のインドネシア市民なら1人1000ドル以上。外国人なら5000ドル以上といわれています。ただ、殺し屋に殺人を依頼する場合、依頼者は自分の身元を完全に秘密にしておく必要があります。そうしないと、あとでずるずると脅迫され続け、はてしなく金を絞りとられることになるからです。したがって、殺し屋による殺人も噂で言われているようには頻繁に起きていません。今回の事件で殺し屋が暗躍したという情報は、バリの犯罪者がたむろする闇の世界でも噂にさえなっていません」
    「そうすると、沙代あるいはスダルノという青年のどちらかに怨みを持っている人物が自らの手で、2人を撃ち殺した、という可能性が残されるわけですね。犯人は拳銃を所有しており、射撃の腕前も確かである。銃を扱いなれた人物。ということになれば、犯人捜しはだいぶ絞られてきますね。もし沙代の方が狙われたとすれば、沙代の周辺にちらつくそのような人影になにか心当たりがおありなのでしょうか」
    瀬田がたたみ込んだ。
    「まさにいま、そのあたりのことを捜査しています。これ以上こと細かく言及することは今後の捜査の支障になることもありますので、控えさせていただきます。ご了解いただきたい」
    警視はそう言って、じっと瀬田を見つめた。瀬田もそれ以上警視に対して質問を重ねる気はなかったようだ。
     ライ警視に見送られて瀬田、久保田、鷹石の3人は州警察本部の玄関を出た。表には久保田の車の運転手が待っていた。お送りしましょうか、という久保田がいったが、鷹石はありがたく断った。
    「わたしはこれから久保田さんの事務所に戻って、久保田さんが紹介してくださったインドネシア人の通訳といっしょにウブッドへ出かけます。数日をかけて、沙代が2年間暮らしたウブッドの生活の後片付けをします。ところで、鷹石さん。義父母が鷹石さんにくれぐれもよろしくお伝えするようにと申しておりました。沙代を荼毘に付したときの、鷹石さんのお経は、両親にとってもわたしにとっても、まことにありがたかった。両親から鷹石さんあての礼状をあずかってきましたので、今夜、バリ・ハイアットに私を訪ねていただけませんか。本来なら私が鷹石さんをおたずねしてお渡しするのが礼儀だとは思うのですが、なにぶん、地理に暗いものですから。よろしければ、今夜8時でいかがでしょうか。勝手を申してすみません」
    瀬田が久保田に言った。
    「いいですよ。8時にお尋ねしましょう」

     

     瀬田誠は鷹石里志をバリ・ハイアットのバーに引っ張り込み、テーブル席に座るやいなや2通の封書をカバンから取り出した。いずれの封筒も手触りの良さそうな厚い和紙でつくられた大きめのものだった。
    「1通は倉田からの礼状で、もう1通は鷹石大僧正へのお布施です。瀬田沙代の夫であるわたしと、彼女の両親からです」
    「それはどうも。お手紙はあとでゆっくり読ませていただきましょう。坊主でもない人間が坊主に扮して、うろ覚えの経を読んでお布施をいただくのは内心忸怩たるものがあります。とはいえ、お布施を辞退するというのも余り例のない話で、出されたものをありがたくいただくのがお布施の礼儀。ありがたくいただきましょう」
     鷹石は受け取ったお布施の封筒の厚みに気がついて一瞬ドキとした。さはさりながら、お布施が厚かろうと薄かろうと、そのような俗念をいっさい顔に出さないのもまた、名僧知識の見栄である。
    「ウブッドの片付けは順調に進行しましたでしょうか」
    「今日は不動産仲介業者に賃貸契約の解除手続きをやってもらいました。沙代がお願いしていたお手伝いさんにも、給料の精算をし、半年分の給料にあたる額を退職金として渡しました。ガムランの師匠を訪ねましたが留守でした。明日にでもまたたずねるつもりです」
    「沙代さんがウブッドで暮らした2年分の整理ですし、ここの人は期待するほどにはてきぱきと対応してくれませんから、あと数日はかかるでしょうね」
    「沙代の銀行口座の解約、お友達への挨拶、沙代が集めたガムランや沙代の遺品の楽器を日本に送る手配など、まだいろいろと残っています」
    「沙代さんのここでの暮らしを思い起こしながら、ゆっくりとおやり下さい。よい功徳になるでしょう。それはそうとして、先月末、所用があってジャカルタに行き、ついでに古い友人をたずねたところ、たまたま、瀬田さんの事務所にいらっしゃる宮内孝由さんにお目にかかりました。瀬田さんのことを心配なさっていらっしゃるごようすでした」
    「それはどうも。宮内さんに詳しいことを連絡するだけの心のゆとりがない毎日でした。あの方にもご心配をおかけしたようですね。ところで、宮内さんは私たちのことを何か言っていましたか」
    「と、おっしゃいますと?」
    瀬田は「いやあ」といって、頭に手をやった。
    「私たち夫婦がなぜジャカルタとバリ、最近ではむしろメキシコとバリになってしまいましたが、別れ別れに暮らしていたことについてです。おはずかしい」
    「いえ、そのようなことはなにも。ですが、わたし個人はそうした人間くさい話が嫌いではありません」
    「そういうことであれば、いまさら隠し立てしても始まりませんから、観念してお話いたしましょう」
     瀬田誠がその夜語った話はおよそつぎのようであった。
     瀬田誠と倉田沙代はアメリカの大学で知り合った、瀬田は農業経済を専攻する修士課程の院生。沙代は歴史専攻の学部生だった。やがて2人は日本に帰国してから結婚した。誠30歳、沙代26歳の時だった。そのとき瀬田は大手商社で農業部門の職についていた。結婚後、瀬田はメキシコ支店勤務になり、そのあとジャカルタ勤務になった。ジャカルタに来たのは1994年である。支店で2年ほど働いているうちにアンワル・ユスフ将軍と知り合い、将軍にさそわれて共同で事業を始めた。その資金は沙代の父親が貸してくれた。ユスフ将軍と始めたエビの輸出事務管理会社は安定した手数料収入を得たが、仕事自体は退屈きわまるものだった。
     2年ほど前、瀬田誠がメキシコで新しい事業を手がけ始めたころ、沙代がバリへ行ってガムランを習いたいと言い出した。
    「ジャカルタはインドネシアの政治と経済の中心ですが、文化的には退屈なところです。日本人会もジャカルタ駐在の日本企業従業員の親睦会のようなもので、日本の縦社会をインドネシアに持ちこんだ組織です。私はメキシコとインドネシアを往復しなければならなくなった。わたしがメキシコに行っている間、沙代を一人ぼっちにしてジャカルタで退屈させるのはかわいそうだと思って、ウブッドに送り出したのです。しかし、遠く離れて住んでいるうちに、お互いの気持まで疎遠になってきたことに気づきました。1年ほど前、これはまずいと思って、沙代にメキシコに来て住んだらどうか、と相談したのです。かつてメキシコに駐在したころ、沙代はメキシコをとても気に入っていましたから。ですが、彼女はガムランにうちこんでいて、もはやバリを離れようとしませんでした。私はジャカルタの一軒家の借家を出て、ホテルが経営しているアパートに移りました。年の半分以上はメキシコですから、アパートの方が使いやすい。そうこうしているうちにこんなことになってしまいました」
    瀬田誠は無念きわまるといった表情になった。
    「ところで鷹石さん、バリは長いのですか?」
    「かれこれ4年になります」
    「奥様は日本に帰りたがりませんか」
    「わたしは独り者なんですよ」
    「これは失礼。奥様はお亡くなりになられた?」
    「いや、別れました」
    「それはまた、個人的には興味をひかれる物語ですね」
    「おろかしい話です。わたしはインドネシアをフィールドにした政治学を専攻して、日本の大学で教えていました。妻はタイの歴史が専門でした。やがて、妻が同じタイをフィールドにしている人類学者とぞっこんになってしまいまして。求めに応じて離婚するはめになりました」
    「これは失礼しました。かさぶたをはぐような過去を問いただして申し訳ありませんでした」
    瀬田誠がまじめな表情でわびを言った。
    「なあに、もはや30年以上も前のことです。これまで何度もあちらこちらで、繰り返しくりかえし冗談半分に語ってきたことです。お気遣いはご無用です。まあ、そういうことで、大学を定年退職したあと、ここに来て年金で隠棲しているのです」
    「熱帯にやってきて年金で隠棲というのは珍しい。かつて世界を制覇した大英帝国の場合、熱帯の瘴癘の地に勤務する官吏については年金の繰り上げ支給の恩典が認められていたそうですね。早めに年金暮らしに入って、イングランドの田舎で庭造りをしながらのんびり暮らす日々を夢見て、危険を承知で熱帯勤務を志願する人が多かった。でも、あの当時、熱帯はほんとうに危険なところだったようですね。トマス・スタンフォード・ラッフルズの妻もジャワで死に、ジャカルタの外国人墓地に葬られています。彼女の墓、ご覧になりましたか」
     瀬田誠がウェイターにテキーラを注文した。瀬田は鷹石にもテキーラをすすめたが、鷹石は強い酒はどうもと言って、日本のビールのおかわりを頼んだ。
    「ええ。タマン・プラサスティ墓地公園ですね。あそこはジャカルタではわたしのお気に入りの場所なのです。愛妻オリビアと、親友だったジョン・キャスパー・レイデンの墓が比翼塚になっていて、あの場所を訪れるたびに、わたしはいつも不思議な感動と安らぎを覚えるのです」
     かつてジャカルタの外国人墓地は、独立広場の西側のタナ・アバン一帯に広がっていた。17世紀から19世紀にかけてジャカルタで暮らしたポルトガル人、オランダ人、イギリス人、アメリカ人、インド人、アラビア人、中国人たち、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒の墓があった。しかし、インドネシア独立後の首都ジャカルタの急成長とともに土地不足になり、外国人墓地は1976年に閉鎖された。旧墓地のかなりの部分が中央ジャカルタ市の新庁舎などの敷地に利用された。現在の外国人墓地は1979年に規模を縮小してタマン・プラサスティ(石碑公園)という名の墓地歴史博物館として再び一般に公開されるようになった。この墓地でもっとも有名な墓が、瀬田誠のいうトマス・スタンフォード・ラッフルズの妻オリヴィア・マリアン・ラッフルズの墓である。
    「スタンフォード・ラッフルズがオリヴィアと結婚したのは、彼が23歳の時でした。そのとき妻は10歳年上の33歳。最初の夫とは死別、2度目の結婚でした。オリヴィアは 知性的で、その立ち居振る舞いは洗練され、生き生きとした黒い瞳を持った魅力的な女性だったといわれています」
     テキーラとビールのおかわりが届いた。2人はそれぞれのグラスを持ち上げて会釈した。
    「そうだったんですか。相当な姉さん女房だったわけですね。ふたりはジャワでどんな暮らしをしていたんでしょうか。知りたいな」
    瀬田誠が鷹石を見た。
    「スカルノの2度目の結婚相手、インギット・ガルナシはスカルノより12歳年上でした。年上の妻に抱かれて安心を感じる男もいます。ラッフルズが東インド会社に臨時職員として雇われたのは、14歳の少年のころでした。ウィリアム・ラムゼーという上司に目をかけてもらい、ラムゼーの屋敷に集まる知的な人々の会合に出席を許された。その席で交わされる話題に聞き入ることで、ラッフルズは人間としての成長をとげていったのです。耳学問も馬鹿にできません。このようなラッフルズのおいたちから、オリヴィアはもともとラムゼーの愛人で、ラムゼーがオリヴィアと手を切る方法として、オリヴィアと結婚することを条件に、ラッフルズに東インド会社での昇進の扉を開いてやったのだ。そういう悪意に満ちた噂が流されたこともあったそうです。ともあれ、かくして19世紀初頭の東南アジアに関するイギリスの大戦略家トマス・スタンフォード・ラッフルズはマレー半島のペナンにあるイギリス東インド会社の出先機関の事務次長としてアジアに現れたのです」
    「その手の話は現代の会社でもありますよ。上司にすすめられて結婚したら、実は、上司の元愛人だったなんてね……」
    瀬田誠がため息混じりに言った。
    「そうでしょうな、昔も今も、おなじことを繰り返しているのでしょう」
    と鷹石は瀬田の感想には簡単に応じて、話を続けた。
    「ペナンで暮らし始めてまもなくトマスとオリヴィアの2人は、ジョン・キャスパー・レイデンという医師と深い交流を持つことになります。レイデンはオリヴィアとトマスのちょうど中間の歳でした。レイデンはエディンバラ大学などで神学、文学、医学を学んだ、なかなかに詩心のある人でした。『湖上の麗人』や『アイヴァンホー』などを書いたウォルーター・スコットの友人でもあり、スコットの出世作『スコットランド・ボーダー地方の吟遊詩』の著作に協力したそうです。
    「やがてレイデンは医師としてイギリス東インド会社に雇われ、1803年にマドラスに派遣されました。この航海中にレイデンは体調を崩し、任地到着後にマドラスの病院で治療を受けました。ですが、病状は改善しなかった。そこで東インド会社は転地療養のため、レイデンをペナンに送った。1805年10月のことでした。運命のであいというべきか、ちょうど1ヵ月前の1805年9月に新婚のラッフルズ夫妻がペナンに赴任して来たばかりでした。病気のレイデンが官舎で一人暮らしをしているのを気の毒がって、ラッフルズ夫妻が彼を自宅に引き取り、オリヴィアが手厚い看護をした。こうして3ヵ月にわたってラッフルズの家で病身を養い、回復したレイデンはやがて1806年1月、インドへ帰任しました。
    「この3ヵ月間に、レイデンはおそらくオリヴィアを恋するようになっていたのではないかと、わたしは想像するのです。当時のイギリス人にとってペナンは地の果てともいってよい異郷で、そこで病の身をいたわり、手を尽くして看護してくれる麗人に恋心を抱かない若者はいないでしょう」
    鷹石がその根拠を瀬田に説明した。
     レイデンはオリヴィア宛の手紙に、数行の詩を書いている。レイデンのラッフルズ夫妻に対する敬愛とともに、レイデンのオリヴィアへの思慕もまた行間ににじむ。

     

      かの友の優しき腕の中で幸せに過されんことを
      かの人とあなたが偕老同穴を全うされんことを

     

    一方、オリヴィアの方もレイデン宛の手紙に、

     

     親愛なるドクター・レイデン
     あなたにはたった一人の弟に対する愛と同じ愛情を感じます。あなたが重い病の床にある聞いたとき、私の胸は痛みを感じまし  た。それはあたかも私のあなたに対する誠実な敬愛の証しのように……

    と書いた。

     イギリスはナポレオン戦争に乗じて、1811年ジャワに侵攻した。イギリスのジャワ制圧直後の1811年8月末、遠征に同行していたレイデンが急死した。死因は肺炎ともマラリアともいわれている。あっけない死だった。ラッフルズはレイデンの亡骸をバタヴィアのヨーロッパ人墓地に埋葬した。
     ジャワ副総督になったラッフルズ夫妻は、主としてボゴールに住んだ。ボゴールはジャカルタより標高が高く、少し涼しい。オリヴィアは副総督夫人としてバタヴィア在住のヨーロッパ系住民のだらしない生活習慣を改めさせ、洗練されたヨーロッパ風に戻す生活改善運動を進めたといわれている。オリヴィアもまた開明的な植民地行政官の妻だった。だが、オリヴィアもレイデンの死から3年後の1814年11月にボゴールの屋敷で急死した。ラッフルズはオリヴィアをバタヴィアのヨーロッパ人墓地のレイデンの墓の隣に埋葬した。
     さらに、ラッフルズは、夫妻が暮らしたボゴールの屋敷にオリヴィアとの幸せな日々を記念するテラス式の円形の霊廟を造らせた。オリヴィアを記念するテラスは現在もボゴール植物園内に残っている。生前のオリヴィアの優雅な姿を想像させる、濃い緑の中の白い円柱が印象的なテラスだ。ラッフルズはその霊廟に、オリヴィアが1808年にレイデンに贈った詩の数行を刻ませた。

     

      わが心から片時も消え去ることのなかった君
      定めが我らを分かつとも我を忘却するなかれ

     

    「瀬田さん、人間って不思議なところがありますね。トマス・ラッフルズはなぜオリヴィアの墓をレイデンの墓の隣につくって比翼塚としたのでしょうか? なぜ、トマス・ラッフルズはオリヴィアがレイデンに贈った愛の詩を、そのままのかたちで、トマスからオリヴィアへの永遠の愛の歌として刻みこんだのだのでしょうか――トマス、オリヴィア、ジョンの3人は生涯にわたって破綻することなく、それぞれを同じように深く愛しあっていた、としか言いようがない。トマス・ラッフルズの2番目の妻ソフィア・ラッフルズは、ラッフルズの克明な伝記を書き残しましたが、最初の妻オリヴィアが関わる部分についてはいっさいをラッフルズの生涯から削除したのです。これもまた、独占という愛の形のひとつでしょうが、このことによって、トマス、オリヴィア、ジョンの三人の愛の物語の奥深い謎を解きほぐす糸口が、永遠に失われてしまいました」
     ラッフルズはジャワ副総督時代に、オランダ時代の奴隷制や拷問の廃止、税制改革などの行政・司法改革を手がける一方で、ボロブドゥール遺跡の復元、ラフレシアをはじめとする動植物の新種の発見などの学術文化事業も推進した。それまでのオランダ領東インドの支配者にくらべれば改革志向の植民地支配者だったが、現代のインドネシア人にとっては、ラッフルズも過去のヨーロッパ植民地主義者の一人であり、遠い昔の人である。ラッフルズの時代は長いオランダ支配の中の短い一幕劇にすぎなくなった。
    「シンガポールの街にはトマス・スタンフォード・ラッフルズの像がいまなお飾られています。シンガポールは英雄としてのラッフルズを讃えています。一方、インドネシアは洗練された西欧人としてのラッフルズを記憶に残している。ただし、ほんのひとにぎりの人々の記憶にすぎませんが。わたしがオリヴィア・マリアン・ラッフルズとジョン・キャスパー・レイデンの墓の前で不思議なやすらぎを覚えるのは、英雄としてのラッフルズではなく、ごくありふれた人間の、妻や友人に対する優しさ、寛容といった人間らしい心づかいを教えられるからです。人間らしい優しさについて教えてくれる歴史というのは、めったにあるものではありません」
     瀬田誠が鷹石のグラスにビールを注いだ。
    「トマスと、オリヴィアと、ジョンのために」
    瀬田がテキーラのグラスをあげた。

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