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2018.10.07 Sunday

『ペトルス――謎のガンマン』   第16回

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     瀬田誠は6月2日から4日にかけてウブッドに通い、亡き妻沙代のウブッド暮らしの整理をした。久保田領事が紹介してくれたインドネシア人の通訳も、久保田からまえもっていろいろと事情を説明されていたのだろう、態度は控えめだったが、必要なところでは瀬田への的確なアドバイスを忘れなかった。
     借家の賃貸解約にあたって、不動産屋がどさくさにまぎれて清掃・修理費用をふっかけてきたときなどは、大きな損傷は借り主の責任だが、通常のよごれ程度の清掃費用は月々の家賃の中に含まれているはずだと、瀬田の代わりに反論してくれた。
    沙代の銀行口座の解約でも、沙代の死亡証明書など必要な書類を銀行に問い合わせ、その書類を集める仕事も手伝ってくれた。ガムランの師匠イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの家や芸術学院に挨拶に行く日程をたて、同時に、沙代が未払いになっている謝金の有無も確認してくれた。さらに、ウブッドで沙代がつきあっていた人々をレストランに集めて、お別れの昼食会を開くお膳立てもやってくれた。瀬田誠のメキシコの事務所で働いてもらいたいほどのフットワークのいい通訳だった。
     沙代が買い集めていたガムランの楽器は、鍵盤楽器のグンデルが2台とゴング1台、太鼓1台、それにスリン(笛)とルバブ(胡弓のような弦楽器)だった。由緒ありげな古めかしいものばかりだった。貴重なコレクションだと、ウブッドでガムランを習っている外国人グループのメンバーが言った。沙代とつきあってくれたお礼に、瀬田は彼らにガムランの楽器をプレゼントした。
    沙代が使っていたテレビなどの電気製品や、着ていた衣料品はお手伝いとして働いてくれたカデがもらってくれた。さて、下着はどうしたものかと、瀬田はしばらくとまどった。
     瀬田誠と沙代がジャカルタで立派なお屋敷を借りて住んでいたころの話である。ジャカルタの邸宅はたいてい塀で囲まれ、道路側の塀にコンクリート製のゴミ箱が設けられている。ゴミ箱には家庭の日常生活から出てくるさまざまなゴミが捨てられる。そのゴミをめあてに荷車を引いたトゥカン・サンパ(ゴミ集め)が回ってくる。彼らはゴミの中から空き缶やプラスティック製品、壊れた電気製品、古くなった調理器具といっためぼしいものを拾い集めていく。トゥカン・サンパのあと、野良犬がやって来て残飯を探して食べる。そのあと近所の鶏がやって来る。そのころには、熱帯の暑気に蒸されてゴミ箱はむっとするような臭気を放っている。そのゴミの中に鶏が首をつっこんで、なにやらあさっている。鶏のあとにやって来るのが役所のゴミ収集車だ。その頃にはゴミ箱の中は発酵・腐敗が進んでいて、ゴミはヘドロ状になり始めている。
     沙代がどこかの日本人家庭で聞いた話を誠に教えてくれた。その家の奥様はご自分の肌着を捨てるときは、それをはさみでずたずたに切ってから、ゴミ箱に捨てるのだと沙代に語ったそうだ。沙代が怪訝な顔していると、その奥様はこう言った。
    「だって、ゴミ箱から拾われた私のパンティーが誰かにはかれると思うと、気持悪いでしょ」
     沙代からその話をきいて瀬田誠は大声で笑った。沙代もいっしょに声をあげて笑った。あのころはまだ2人していっしょに笑えるだけの心のゆとりがあった。
    「たとえ洗濯されていたとしても、他人の下着を身につけるのは気持悪いだろう。おなじように、はかれる方も気持悪いのか。その気分、わからなくもないよな」
    瀬田誠はそう言って、また笑った。
     そのことを思い出して瀬田は沙代の下着の処分を思案したのだが、沙代の下着を切り刻むのは、沙代を切り刻んでいるような錯覚に襲われるかもしれないと感じて、カデに、
    「すてておいてください」
    と、下着を袋に詰めて渡した。
     瀬田誠はデンパサールからよんだ運送業者に日本に送る品物を渡した。沙代の本、ノート、カメラ、沙代が撮影した写真、沙代が買い集めたバリの絵画10点ほど……
     こうして瀬田沙代がウブッドで暮らした痕跡はプリアタン村から消えた。
     瀬田誠は6月5日午前中に、駐在官事務所に久保田領事を訪ねて挨拶をし、その日の夜の便で成田に向けて飛び立った。

     

      6月5日午後、デンパサールのタマン・サリ・ホテル
     デンパサールの北の空の一角に墨汁をたらしたような真っ黒な雲が現れた。黒雲はみるまに空いっぱいに広がった。太陽がさえぎられ夕暮れのように暗くなった。まもなく、ぽつりぽつりと雨粒が道路の埃のうえに落ちた。とみるやいなや、一気に大粒の雨が遠慮会釈なしに地面を叩き始めた。雨粒はしたたかに大きく、叩かれる街路樹の葉っぱがちぎれるような激しさだ。
     6月のバリは乾季で、めったに雨が降ることはないが、全く降らないというわけでもない。道路の人々はあっという間にびしょ濡れになり、子どもや大人がゴルフで使うような大きな傘を持って現れて、雨から逃げまどう人を傘に誘い込んでいる。なにがしかの謝礼をいただこうという商売なのである。しかし、傘をさしていても結局のところスブぬれになってしまうのが熱帯のにわか雨だ。
    タマン・サリ・ホテルの庭に出ていた宿泊客の中年の白人男性が雨の中をずぶ濡れになって玄関へ走ってきた。運の悪かったその男は濡れた玄関の石の階段で足をすべらせて倒れた。ドアマンが男の所へ駆けつけた。近くにいた客が手伝って男を玄関先に運び込んだ。ホテルの医者が呼ばれ、救急車が要請された。ホテルのフロントのチーフは、倒れた男が万一、雨で滑るような石段を設けたのはホテルの落ち度だ、と言い出した場合にそなえて、このことは総支配人の耳に入れた方がいいと判断した。
    彼は腕時計を見た。午後3時5分だった。
    「スハルトノさんを頼む」
    「どのスハルトノでしょうか。ふたりいますが」
    受話器から面倒くさそうなさそうな女性職員の声が聞こえた。
    「総支配人に決まっているだろうが」
    「あのー、こちら会計課ですが」
    くそ、と悪態をついて、フロントのチーフはあらためてプッシュボタンを押した。
    「総支配人のスハルトノさんを頼む。こちらはフロントだ」
    「あいにく、総支配人は別室で作業中です」
    「至急ロビーに来るように連絡してくれ。客が玄関で足を滑らせて転倒した。ひどいけがの可能性もある」
    「了解」
     救急車がホテルに到着した。まだ意識が回復しない男に付きそって、ホテルの職員も病院へ行った。だが、総支配人はロビーに現れなかった。
     総支配人室の職員がロビーに現れた。
    「支配人と連絡がとれません」
    「総支配人は外出中なのか?」
    フロントのチーフがいらだった声で聞いた。
    「いえ、別室で作業しているはずなのですが。仕事に使っているはずの7階のセミスイートに電話しても応答がないんです」
    「何号室だ」
    「705です」
    「行ってみよう」
     705号室のドアノブには「ジャガン・ディガング」(ドゥー・ノット・ディスターブ)のタグがかけられていた。チャイムを鳴らしたが、室内からの応答はなかった。
    ドアをノックして「総支配人」「スハルトノさん」と叫んだが、これにも応えがなかった。
    「ここで仕事をしているのはたしかなことなんだな」
    フロントのチーフが念をおした。
    「間違いありません」
    総支配人室の職員が答えた。
    「マスターキーを持ってこさせろ」
     マスターキーが届けられ、ドアを開けて室内に入ったホテルの従業員は一瞬たちすくんだ。
    机の前の床にスハルトノが仰向けに倒れていた。スハルトノは白の長袖シャツに赤いネクタイをしていた。その白いシャツの胸もまた赤く染まっていた。
    「総支配人」
    支配人室の職員がかけ寄ろうとした。
    「まて」
    と、警官から転職してきた警備課長が制した。警備課長はスハルトノのそばにしゃがんで彼の首筋に触った。脈はなかった。
    「みんな、部屋から出て、廊下で待機してくれ。あたりの物に触れないように」
    警備課長が命令した。警備課長は廊下の受話器を取り上げてオペレーターに警察につなぐように言った。
    「警察はすぐ来ると言っている。下に行って警察が来たらここに案内してくれ」
    警備課長がまるで警官にもどったようにてきぱきと指示した。

     雨はすでにあがっていた。警察の一団がタマン・サリに現れた。制服の警察官10人ほどがおそまきながらホテルの出入り口をかためた。私服の、といっても安物のプリント柄のシャツや偽ブランドのポロシャツを着た刑事5人と、制服の鑑識職員が道具を持って現れた。少し遅れて検視を担当する医師が姿を現わした。
     705号室はスイートルームと普通のツインの部屋の中間ぐらいの広さの、セミスイートとよびならわされている部屋だ。部屋の北側に大きめの窓があった。ガラス窓は内側からロックされていた。窓は引き戸になっていたが、転落事故を防ぐためにふだんは10センチほどしか開かないようになっていた。窓を大きく開くには、窓のレールの中ほどに取り付けられたストッパーをはずす必要がある。
     窓のそばに大きめのデスクが置かれていて、ここで仕事ができるようになっていた。デスクのかたわらの床に、スハルトノの書類カバンがおいてあった。ここで書類を読んでいたらしい。デスクの上には半分ほど水が残っているグラスと、ペリエのグリーンの小瓶がおいてあった。部屋の冷蔵庫からとり出したものだろう。机の上にはスハルトノが書いたらしい、クタ地区でのホテル事業拡張計画案の下書きとボールペンがあった。スハルトノはこの案文に手を入れていたと思われる。また机の上には、スハルトノが愛用し得ている紙巻き煙草マールボロの箱と、プラスティック製の使い捨てライターがおいてあった。マールボロの箱の中にまだ半分ほど紙巻きが残っていた。デスクの上には陶製の大きめの灰皿があり、吸い殻が3本残っていた。
     スハルトノはデスクのすぐ横に仰向けになって倒れていた。頭を東に、したがって黒の革靴を履いた足を西に向けていた。死体の南側にはデスクがあり、デスクのさらに南側はホテルの廊下と部屋を仕切る壁である。壁にはバリの王族の絢爛たる葬式の写真が飾られていた。死体の北側、つまり仰向けに倒れているスハルトノの死体の右手のそばに拳銃があった。拳銃の握りには指が絡んでいた。
     拳銃の銃身が異様に長く見えたのは、消音装置がつけてあったからだ。
    「ストポ捜査官、デンパサール署長からお電話です」
    ストポ捜査官が廊下に出て受話器を取った。
    「州警察本部の特捜部のライ警視が指揮を執る。その指揮に従ってくれ。現場はライ警視が到着するまでは、そのままにしておくように。検視と鑑識は進めていいと言うことだった。ところでどうだ、特捜がしゃしゃり出てくるほどやっかいな事件になりそうなのか」
    署長が早口に言った。
    「いま、ドクターが死体を見ているところです。どうなるか見当はまだついていませんよ」
    指揮を州警察本部特捜部に奪われる不快感もあってストポ捜査官はぶっきらぼうに署長に言った。
    医師による検視が終わりかけたころ、ライ警視が現れた。
    「死後2、3時間です。致命傷は心臓に向けて発射された銃弾一発。即死でしょう」
    「そうすると、午後1時から2時にかけてのことだな」
    ライ警視が腕時計をのぞき込んで言った。
    「ストポ捜査官。君は部下を指揮して、スハルトノの今日の行動と、午後1時から2時にかけてホテル内で変ったことがなかったかどうか聞き込みをしてくれないか。他殺か自殺かまだわからないが、とにかく君の事件を横取りするようなかたちなって申し訳ない。ストポ捜査官、君も知っているだろうと思うが、先月の日本人女性路上射殺事件、スハルトノはあの事件の関係者なのだ」
    ライ警視が事情を手短に説明した。
    「了解しました。ライ警視」
    失いかけたメンツがすくわれたストポ捜査官に笑顔がもどった。
    「スハルトを司法解剖に回す手続きをしてくれ」
    ライ警視が警察本部から連れ来た部下の一人に言った。
    「ドクター、死体の外見に何か変った点が見られますか」
    「ないね。自分で撃ったか、誰かに撃たれたか。その点は不明だが、これは百パーセント銃による死だ。解剖して毒物の有無まで確認をとる必要があるのかね」
    「ドクター、拳銃自殺する人間が消音器を使う理由を想像できますか?」
    「はい、はい。よくわかりました、警視殿」
    医師がスハルトノの遺体に付きそってホテルから法医学専門の医師がいる軍の病院へ行った。
    「鑑識は指紋をとりおえたか」
    「警視、まだです。ここはホテルの客室ですぜ。指紋だらけだ。ハウスキーパーの部屋掃除はどうやらおざなりなようだ」
    「それからデスクの上の書類、タバコ、ライター、灰皿、吸い殻、すべて持ち帰って精査してくれ。それからスハルトノのカバン、ドア・タグもだ。何かわかったら直ぐ連絡をくれ。みんな、あとしばらくの間、目をよく見開いて室内をしらべてくれ。思わぬ発見があるかも知れない。それから警備課長さん、この部屋はしばらく現場保存のため閉鎖する。今夜は警官を残してゆく。深夜に警官を交代させるのでよろしく」
    ライ警視がてきぱきと指示をとばした。
     ライ警視が州警察本部のオフィスに戻り、甘ったるいバリコーヒーを飲んでいるところに、デスクの電話が鳴った。鑑識課からだった。
    「ライ警視。出ました、線条痕が。いや、驚きました。瀬田沙代とスダルノを射殺した銃と同一の線条痕が見られる弾丸がスハルトノの体内から出ました。あのブローニング32口径から発射された弾です」
    「鑑識のラボだな。直ぐそこへいく」
     ライ警視が部屋を飛び出した。

     

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