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2018.10.29 Monday

『ペトルス――謎のガンマン』   第19回

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    11月12日、ジャカルタ
     グスティ・アグン・ライ警視が参加した『刑事捜査と被疑者の人権』研修会は、施設は古くなったが格式はなお高い、ジャカルタのボロブドゥール・ホテルの大ホールで11月12日に開かれた。朝から夕方まで昼食と休憩時間をはさんで、参加した警察官たちはたっぷりと人権思想を注入された。午後5時に研修が終わり、1時間の休憩のあと研修終了の記念パーティーが開かれた。ライ警視は顔見知りの警察幹部の輪の中に入って、研修後の解放感ではずむ四方山話を聞いていた。
    「確かに、この研修会はハビビ改革の一環だね。だが、私としては、こうした研修は陸軍の特殊部隊コパッススにこそ受けさせるべきだと思うよ。彼らが治安維持と称して東ティモール、イリアン・ジャヤ、アチェで重ねた人権侵害は、世界中のひんしゅくを買ってきた」
    雑談の輪の中でひときわ背の高い男が言った。
    「1997年から今年の初めにかけては、学生運動のリーダーが行方不明になる事件が相次いだからね」
    眼鏡をかけた肥満体の白髪目立つ男が付け加えた。
    「この9月ごろから東ジャワのバニュワンギで黒魔術を使うと噂されているドゥクンが次々と殺されている。警察の捜査をあざ笑うかのように殺害は続いている。ニンジャと呼ばれる一団の犯行だという説もある。このニンジャは高度な訓練を受けた殺し屋集団で、これまた、軍の秘密組織とつながりがあるといわれている」
    「まったくインドネシアの軍隊はろくでもないことばかりしてきた」
    「といって警察が軍人の犯罪を捜査するのも至難の業だ」
    「そもそも警察が軍隊の一組織というあり方が奇妙なのだ。陸軍、海軍、空軍、警察軍というあり方を何とかする必要がある」
    「いいご意見だが、それは本日の研修の範囲を超えた問題だ。ハビビ政権の今後の努力に期待しよう」
    誰かのこの冗談で輪の中に笑いが広がり、やがて笑い声が消え、その輪が崩れていった。
     たしかに、スハルト大統領退陣をうけて副大統領から昇格したハビビ新大統領は矢継ぎ早に政治改革のプログラムをぶちあげていた。スハルトとその取り巻きを肥え太らせたKKN(汚職・癒着・ネポティズム)構造の一掃、報道の自由の保障、スハルト時代の政治犯の釈放、などだった。どれをとってもそう簡単に進みそうにない大きなテーマだったが、少なくとも、スハルト政権崩壊でインドネシアの政治状況が変わり始めているという印象はライ警視も受けていた。スハルト時代でもさっきのようなきわどい会話は交わされていた。だが、それは私的なパーティーでの内輪の会話の中だった。政府が主催する公務員研修会後のパーティーで、そうした会話がおおっぴらに出てくるというのも、時代の変化の証だ。
     刑事警察の幹部たちが豪華ホテルのパーティーで政治漫談を披露しあった11月12日、首都ジャカルタの中心部の路上は、学生デモ隊と治安部隊のにらみ合いで緊迫していた。
     スハルト政権打倒の尖兵になったインドネシアの学生たちが求めていたリフォルマシ(改革)はスカルノ大統領からスハルト大統領に至る権威主義政治を生み出すもとになった現行の1945年憲法を廃止し、新しい時代にふさわしい新しい憲法を制定し、その憲法の下で、新しい政治を実践しようという、革命を志向していた。
     だが、スハルト退陣後にハビビ政権が始めた一連の政治改革が、まあこんなとところだろうと、世間に容認され、「われわれはハビビ政権を拒否する。スハルトを裁判にかけよ」と叫ぶ学生は、スハルト退陣直前の社会的熱気が冷めてゆく中で、世間から浮きあがったものになっていた。
     改革派指導者として尊敬されていたスカルノ元大統領の娘メガワティ・スカルノプトゥリ、インドネシアのイスラム団体ナフダトゥル・ウラマの指導者のアブドゥルラフマン・ワヒド、おなじくムハマディヤのアミン・ライスの3人も、スハルト退陣後には体制内改革に舵を切って、先鋭的な学生と別の路線をとり始めた。3人ともハビビ後の権力トップの座を狙い始めたのだ。
     2日前から開かれている特別国民協議会でのスハルト糾弾を要求して、学生たちは国会周辺や、スマンギ立体交差などに集結していた。政府は3万人近い兵士を動員して暴動に備えていた。兵士たちはモスクの敷地や、国会近くの政府省庁の敷地、あるはスナヤン・スポーツセンターのグラウンドなどにキャンプしていた。
     12日にはすでに治安部隊と学生たちの間で衝突が始まっていた。10代の若者1人と警察官1人が殺され、100人以上が病院に担ぎこまれた。
    『刑事捜査と被疑者の人権』研修会が開催されたのは、5月以来の緊迫した空気がなおジャカルタを覆っているときだった。

     

    11月13日、ジャカルタ・スマンギ
     グスティ・アグン・ライ警視は13日朝、マンダリン・オリエンタル・ホテルを訪ねた。4月9日の瀬田沙代の宿泊記録を見るためだ。バリ州警察本部警視の身分証明書を示すとホテルの宿泊部の責任者がコンピューターから瀬田沙代の記録をとり出してくれた。沙代はホテルのレストランを利用しており、人数が2人と記録されていた。宿泊部の責任者がレストランの事務室に電話すると、4月10日夜にレストランの責任者だった男がやって来た。ライ警視が瀬田沙代の写真を見せたが、彼の記憶にはなかった。オリエンタル・ホテルでの確認作業は午前10時には終わった。
     ライ警視はホテルのロビーから宮内の自宅に電話した。鷹石がライ警視のためにデンパサールから宮内に電話したとき、それでは13日は家で警視を待っている、といっていた。電話には宮内自身が出て、マンダリン・オリエンタルから歩いてすぐのスタン・シャフリル通りのマルク通りとの角のあたりだからすぐわかる、とライ警視にいった。その通りだったし、宮内は自宅の前庭に出てライ警視を待っていてくれた。
    「暑いさなかごくろうさまです」
    冷たい紅茶をもって応接室に現れた宮内夫人が言った。
    「おや、奥様はバリのお方で」
    とライ警視が訪ねた。
    「ジャカルタ生まれですが、母がデンパサールの出身でした。この目がバリ舞踊のダンサーの目を思わせるからでしょう?」
    そういって宮内夫人は大きく目を見開き、眼球を忙しく左右に動かしてみせた。夫人が応接室から出て行くと、宮内が切り出した。
    「お尋ねのご用件はなんでしょうか?」
    「実は、アンワル・ルクマン将軍のことなのです。もちろん宮内さんもご存じのことと思いますが、将軍がバリで心臓発作のために死亡したことを契機に、将軍の私邸から隠し持っていた武器が大量に見つかりました。ご内密にお願いしたいのですが、軍には極秘に、警察ではあの事件を洗いなおしています。将軍は瀬田誠氏と水産物の輸出関連会社をジャカルタで経営しているほか、あちこちでさまざまな企業の経営に参画していたようです。そういうわけで、実入りはよかったらしく軍から貸与されている官舎のほか、ジャカルタやバンドンなど数カ所に私邸を持っていました。その関係の方は別の捜査員が担当していますので、私は瀬田氏と共同経営していた会社についてお聴きするわけです」
    ライ警視は前もって用意しておいた作り話を言った。
    「それでわざわざバリから。たいへんですなあ」
    宮内が感心して見せた。
    「いえいえ、たまたま警察の研修がジャカルタであったので、その出張を利用してお尋ねにあがったしだいです」
    そういってしまったあと、宮内の言った「たいへんですなあ」に、思わず知らずバリ州警察本部の捜査予算の乏しさと結びつけた発言をしてしまった自分を情けないとライ警視は思った。
    「それがですね、ライ警視。先日、9日の月曜日でしたか、亡くなったアンワル・ルクマン将軍の代理人のモハマド・サミン氏が事務所に現れましてね。こう言ったんですよ。アンワル・ルクマン将軍が亡くなったので、将軍のご遺族が会社の権利を別の会社に売却される。この件を急ぎ瀬田誠氏に連絡願いたい。また、来週からあなたに代わって私がこの事務所の事務処理をするよう、遺族の方から指示された。このことも瀬田氏にお伝え願いたい。また、この件について瀬田氏と協議したいので、至急、ジャカルタにお越し願えるよう連絡をとってくれ、そういう話でした。メキシコの瀬田氏と連絡を取ると、相棒が死んだのならしょうがないな。相棒が死んでしまえば政府からのコンセッションもとれなくなるだろうから、これでおしまいということでしょう。落ちついたものでした。瀬田氏は来週後半にもジャカルタにきて、会社の処理の話をサミン氏と協議する予定です。そういうわけで、私はあの会社とも縁が切れました」
    「事情急変ですね」
    「人生そんなもんでしょう」
    「瀬田氏とアンワル・ルクマン将軍は何をきっかけにお知り合いになられたのでしょうか」
    「そのことは私もよく知りません。以前、日本の大手商社のジャカルタ事務所にお勤めのころからお知り合いだったようです。瀬田さんは政府高官に食い込むのがなかなかお上手だったから」
    「瀬田さんは4月にジャカルタでアンワル・ルクマン将軍とお会いになったのでしょうか」
    「少々お待ち下さい」
    宮内は書斎から手帳を持って戻ってきた。
    「瀬田さんは4月8日にジャカルタに帰ってきて、たまっていた案件を処理して、4月16日にメキシコへ発ちました」
    「その間にアンワル・ユスフ将軍と会ったのでしょうか」
    「私の手帳にはアンワル・ユスフ将軍の名が見あたりませんねえ。4月8日はイドゥル・アドハ(イスラム教の犠牲祭)で公休日でした。10日はグッド・フライデーで公休日。あと、11日の土曜日、12日の日曜日と休みが続いて13日の月曜日の夜はレストランで私と妻をねぎらってくれました」
    宮内が手帳を見ながら説明を続けた。
    「14日の火曜日の夜は取引先の日本企業との会食。15日の昼はインドネシア水産会社との昼食会。その日は夜更けまで事務所で書類を読んでいました。16日朝、会社に顔を出して、5月はおそらく来られないからよろしく頼むと私に声をかけてから、スカルノ・ハッタ空港へ向かいました。そうそう、4月9日は夕方、社有車でマンダリン・オリエンタルへ出かけていますね。これからマンダリン・オリエンタルへ行って、用件がすみしだい、ボロブドゥール・ホテルのアパートメントに帰るからと私に言いました。もしアンワル・ユスフ将軍と会ったとすればこのときか、10日から12日にかけての連休中でしょう」
    「そうですか。おっしゃる4月9日、10日から12日にかけてのアンワル・ユスフ将軍の動向を調べてみましょう。それから、今ひとつおうかがいしますが、瀬田さんからアンワル・ユスフ将軍の武器のコレクションについて、ひょっとしてなにかお聞きになったことはありませんでしょうか」
    「瀬田さんは共同経営者との友好関係維持のため、年に数回、アンワル・ユスフ将軍と遊びに出かけていました。ジャカルタ沖へ船を出して魚釣りをしたり、冬の日本に温泉とスキーを楽しみに行ったりして。あれは、去年の中ごろだったかな。瀬田さんは将軍のバンドンの家に招かれました。瀬田さんの話では、バンドンの軍の施設に行って、鉄砲の試射をして腕比べをしたんだそうです。将軍よりいい得点をだしたと得意そうでした。その賞品としてこれをもらったと木の箱を開けて見せてくれました。中に拳銃が入っていました。それで、こんな物騒なものをもっていると、どんな災難が降りかかってくるかわかりませんよ。もし、将軍と不仲になったとき、将軍が警察にこの拳銃のことを告げ口したらどうします。早くお返しになった方がよろしいのでは。そう忠告しました。なるほど、そういう心配もあるな。では、返すことにしよう。そう瀬田さんは言っていました」
    「ほほう。どんな拳銃でした」
    「私は拳銃について無知で、その種類もよく知りません」
    「将軍がバンドンの家にどのくらいの武器をおいていたか、などについて、瀬田さんは何か言っていませんでしたか」
    「その点については話にでませんでしたね」
    「どうもありがとうございました。今日のことはくれぐれも内密にお願いします。私の方も、このことであなたにご迷惑をおかけすることは絶対にありませんとお約束します」
     ライ警視は丁重に礼を言って、宮内の家を辞し、タムリン通りに戻って流しのタクシーを捕まえてスカルノ・ハッタ空港へ向かった。タムリン通りから南へ下ってスディルマン通りのスマンギ立体交差から高速道路に入る道路は、学生のデモで混雑していた。タクシーは迂回路をとって空港に向かった。

     グスティ・アグン・ライ警視は午後6時にデンパサールの自宅に帰りついた。テレビがジャカルタの衝突を伝えていた。スマンギ交差点の近くに集結していた学生・若者・一般人が、午後3時ごろ治安部隊に向かって石や火炎瓶を投げ始めた。治安部隊は空に向けて警告射撃をした。やがてゴム弾を使った水平射撃に変わり、ゴム弾に混じって発射された金属弾に撃たれて死ぬ人が出始めた。夜が更けたころジャカルタからのテレビ中継は、死者がすくなくとも5人になったことを伝えた。ライ警視はジャカルタ出張の疲れからテレビを消して寝た。
     ライ警視も多くのインドネシア人も、のちに事件の詳細を知ることになるだが、スマンギ交差点での銃撃では16人が死に、200人以上が負傷していた。銃撃による傷跡のある死者のうち9人の体内から金属製の銃弾や銃弾の破片が見つかった。検視の専門家によると銃弾は5ミリから6ミリで、発射速度は非常に高かったと推定された。さらに、これは意味深長な説明であるが、検視の専門家は近距離からではなく、かなり離れたところから発射されたようである、と説明した。スナイパーが配置されていたことを示唆したのである。

     

    11月18日、デンパサールの州警察本部
     ムハンマド昇天祭の祝日のあとの11月18日、グスティ・アグン・ライ警視は自分がやっている作業がどこか間が抜けているという思いにとりつかれていた。すでに公式的に決着済みになっている瀬田沙代とスダルノの銃撃とスハルトノの自殺の捜査をむしかえそうとしているのはなぜだろうか。正義のため だとすれば正義のための捜査を待っているのは、トリサクティ大学周辺で何者かによって銃撃されて死んだ学生や、スマンギ陸橋周辺で狙撃者によって撃たれて死んだ学生たちの方だろう。瀬田沙代殺人事件への執着は、正義のためというより、それは自分の事件に対する刑事の執着であろうか。
    「ところで……」
     ライ警視は口に出していった。デスクの上には瀬田誠のパスポートのページのコピーがあった。ジャカルタで宮内が手帳のメモを見ながら説明してくれたように、瀬田誠は4月8日にジャカルタのスカルノ・ハッタ空港から入国し、16日に同じ空港から出国していることが出入国管理のスタンプから確認できた。そのあとは、5月18日にデンパサールのングラ・ライ空港から入国していた。パスポートの記録は4月17日から5月18日のほぼ1ヵ月間、瀬田誠はインドネシア国外にいたことを示している。
     瀬田誠は沙代の殺害を殺し屋に依頼したのだろうか。瀬田のパートナーのアンワル・ユスフ将軍は、その経歴を調べてみると特殊部隊コパッスス勤務だった1990年前後、短期間だが東ティモールに勤務したことがあった。東ティモールの山岳地帯でフレティリンのゲリラ兵士と戦い、尋問し、拷問した特殊部隊を指揮したことがある。
     アンワル・ユスフ将軍なら、瀬田に殺し屋を紹介するのはさほど難しい仕事ではあるまい。東ティモールでゲリラ戦の実戦訓練を受けた兵士か、民兵にいい金儲けの口があると声をかけるのは簡単だろう。拳銃も簡単に用意できる。それに32口径の拳銃に消音器を付けて使用するという発想が、隠密仕事を思わせる。瀬田沙代とスダルノを射殺した腕前は素人離れしたものだ。だが、必要な殺しが終わったあとで、その同じ拳銃を使って殺し屋にスハルトノの殺しを依頼したとすれば、それはどういう理由からだろうか。妻を寝とられた怨みを晴らすためか。だとすれば、ダルマワンやチャンドラを殺さなかったのは変だ。だがこの推測のもっとも不合理な点は、共同経営者に殺し屋の周旋を依頼すれば、共同経営者に弱点を捕まれ、以後の会社経営で相手の意のままに操作される可能性があるからだ。
     もし、瀬田誠が妻沙代を殺そうと決心したのが、沙代にあった4月9日夜だったすれば、アンワル・ユスフ将軍に殺し屋の紹介を頼んだのは10日から12日にかけてであろう。だが、それは不可能だった。国防治安省のアンワル・ユスフ将軍の勤務記録では、彼は武器調達交渉のため4月6日から10日間アメリカ合衆国に出張していた。
     4月以前に殺しを依頼していたとすれば、瀬田誠は2月25日から3月7日までインドネシアに来ていたから、そのときかもしれない。だが、プロの殺し屋がそのとき依頼を受けていたとしたら、もっと早い時期に瀬田沙代は死体になっていたはずだ。それもデンパサールの薄汚れた路地ではなく、人気のないウブッドの森の静かな小径かどこかで……。ライ警視はやはり瀬田誠が自らの手で瀬田沙代を撃ったという気がしてならなかった。
     瀬田誠は彼のパスポートを使わないでインドネシアに密航してきたのだろうか。確かにマレーシアやフィリピンから小型船で密航者を運ぶ密航斡旋業者がいる。密航者の多くはインドネシアに住みたいわけではなく、インドネシアからさらにオーストラリアに密航しようと、その足がかりにインドネシアへ密航してくる。だが船による密航は時間がかかりすぎる。5月14日にデンパサールで沙代を撃ち殺し、再び密航船でインドネシアを離れ、日本時間で15日の深夜までにメキシコシティにたどりつくのは不可能だ。倉田がメキシコシティの瀬田の事務所に電話をかけたのは日本時間で16日の午前零時時過ぎ、日本とメキシコシティの時差は15時間だから、メキシコシティはメキシコ中部標準時で午前9時過ぎだ。
    したがって、犯行のあと、瀬田はできるだけ早くデンパサールからメキシコへ向けて飛び立っていなければならない。航空機を利用するとなるとどうしてもパスポートが必要だ。
     偽造パスポートを使ったのだろう。おそらくその可能性が高い。これがライ警視の推理の実証にとって最大の障害になってくる。
    タイやフィリピンでさまざまな偽造パスポートがつくられている。安物の偽造パスポートは造りが粗雑だが、盗難にあった本物のパスポートに細工した高額な偽造パスポートは識別が難しい。瀬田がバリのパスポート・コントロールで使うとすれば、そのパスポートは日本のものだろう。日本のパスポートなら出入国管理官のチェックも緩くなる。瀬田誠はどこかで日本のパスポーを手に入れたかもしれない。
     日本人が海外でパスポートを盗まれたり紛失したりするケースは年間1万件ほどだ。これらのパスポートのかなりが売買されて、最終的に偽パスポートとして売られているとされる。
     1997年のアジア通貨危機以来バリに来る日本人はがくんと減っているが、それでも毎月2万人前後がデンパサールのングラ・ライ空港から入国してくる。1ヵ月に2万人前後の日本人がングラ・ライ空港から入国してくるということは、1日平均700人弱ということになる。この700人の中から、正規の持ち主のいないパスポートをどうやって探し出すか。
     だが、この5月中旬はスハルト退陣をめぐる動乱のおかげで、インドネシアから国外に脱出する人は多かったが、インドネシアに入国する人は激減しているはずだ。グスティ・アグン・ライ警視は、デンパサールのングラ・ライ空港をつかって5月11日から13日の間に入国し、5月14日に出国した日本人を出入国管理の記録で調べることにした。5人の刑事を出入国管理事務所に送り込んで記録を調べさせたが、該当する日本人は見つからなかった。
     グスティ・アグン・ライ警視は途方に暮れた

     

     

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