<< 『ペトルス――謎のガンマン』  第23回 | main | 「だまし絵のオダリスク」     第1回 >>
2018.12.23 Sunday

『ペトルス――謎のガンマン』  第24回(最終)

0

     

    鷹石里志はウダヤナ大学の第1学期の授業を12月いっぱいで終えた。2001年の1月初旬に試験をして、あとは2月初旬からの第2学期まで、大学の仕事は休みになっていた。暮れから正月にかけては、日本から友人や弟の娘、つまり鷹石の姪がバリの正月を楽しみにやってきた。いっとき鷹石の周辺に日本のにおいが充満した。
     その日本のにおいが消えかかった1月16日の火曜日の朝、グスティ・アグン・ライ警視から鷹石に電話があり、その日の夕方、例によってライ警視の愛車キジャンがきしみ音を立てて、鷹石の家の前に止まった。
    「きょうはちょっとあんたの意見を拝聴したいと思いましてね。瀬田誠のパスポートのことで日本の外務省に問い合わせをした。その返事が届いてね。瀬田誠は1961ウルグアイの首都モンテビデオで生まれた。日本人の両親は出生届を現地の日本総領事館に出して誠の日本国籍を確保した。両親の名は父が瀬田良樹、母が瀬田美智子。母親の結婚まえの姓は秋野だった。瀬田誠が12歳の時、一家は日本に帰ってきた」
    「ほう、外務省はよく調べたな」
    「駐在官事務所の内藤領事が、前任者でいまは東京の外務省でインドネシアを担当している久保田さんに連絡をしてくれた。久保田さんは瀬田沙代殺人事件のときにデンパサールに駐在していた人だから、東京での調査の後押しをしてくれた。そう内藤領事が説明してくれた」
    「なるほど」
    「それから、われわれが出入国管理の記録を調べたところ、ラファエル・セタ・アキノという男がウルグアイのパスポートで、1998年5月10日にジャカルタのスカルノ・ハッタ空港から入国し、4日後の14日夕方前にデンパサールのングラ・ライ空港から出国していることがわかった。ラファエル・セタ・アキノの生年月日は瀬田誠と同じ1961年4月22日だ」
    「それはすごい。やったじゃないか。警視。しかし、瀬田誠はなぜスカルノ・ハッタ空港から入国したのだろうか。デンパサールへ直接来れば時間の節約になったろうに」
    「サトシ、それは時間の問題ではないんだ。瀬田はジャカルタに立ち寄る必要があったと考えるべきだ。それがわたしの見方だ」
    「あ、そうか。アンワル・ユスフ将軍からもらった拳銃だ」
    「おそらく瀬田誠はジャカルタにつくと、ジャカルタのアパートメントに行き、部屋の金庫かあるいは別の隠し場所から拳銃を取り出した。ところで、タカシ、あんたなら、拳銃を持っている場合、ジャカルタからデンパサールまでどんな交通機関を使うかね?」
    「飛行機はセキュリティーでひっかかる可能性が大きい。たとえのほほんとしたジャカルタの空港でもね」
    「インドネシアの名誉のために言っておくが、空港のセキュリティー・チェックのミスは世界中で起きている」
    「それは失礼した。拳銃を発見されないでジャカルタからバリに来る方法は、おそらく長距離高速バスだろう」
    「正確に言えば、長距離バスか、列車だ。バスだとジャカルタからデンパサールまで丸一日以上かかる。バスはたいてい遅れるから、1日半、30時間とちょっとみておけば、ジャカルタからデンパサールにたどり着ける。ラファエル・セタ・アキノのジャカルタ入国カードを見ると、搭乗機の記録はガルーダ823便にとなっている。この機はシンガポールを発って、朝8時過ぎにスカルノ・ハッタ空港に着く。ジャカルタからデンパサールに行くバスは毎日午前中に1本、午後に2本ある。アパートに立ち寄って拳銃をとり出し、長距離バス乗り場へいって、午後のデンパサール行きのバスに乗るだけの時間は十分ある。だがね、タカシ。緑の森や田んぼをながめながらジャワ島を縦断するバスの旅は若いバックパッカーだったら面白いだろうが、中年になり始めた外国人には、窮屈な車内に閉じこめられて1日以上もすごさねばならないバス旅行は耐えられないと思うよ
    「わたしの想像では、ラファエル・セタ・アキノはジャカルタからスラバヤまで列車で行き、スラバヤからデンパサール行きの長距離バスに乗り換えたはずだ。5月10日の夕方、ジャカルタのガンビル駅から急行の1等車に乗れば、11日の早朝にスラバヤに着く。スラバヤで長距離バスに乗り換えると、フェリーで海峡を渡り、12時間程度でデンパサールに着く。ということは、列車やバスに少々の遅れが出たとしても、11日の深夜までにはデンパサールに到着できる計算だ。11日中にデンパサールに着けば12、13の2日間で沙代殺害の準備は十分できる」
    「たしかに。だが、どんな準備をして、ふだんはウブッドに住んでいる彼女をデンパサールの街の路地で銃撃できるようにお膳立てをしたのだろうか?」
    「その点は、彼を逮捕してからじっくり聞きだすしかない。4月にジャカルタで2人があったときなにか打ち合わせをしていたのかも知れない。13日にタマン・サリに宿泊することを、沙代がまえもって瀬田誠に言っていたのかも知れない。いずれにせよ、想像の域を出ない」
    「14日にラファエル・セタ・アキノはデンパサールにいた。これまでの情報からラファエルと瀬田誠は同一人物である疑いが濃厚になっている。だが、瀬田誠をしょっ引くには彼が5月14日にバリにいた動かぬ証拠が必要だな」
    「それは手に入れた」
    「どうやって?」
    「タカシ、あんたインドネシア入国にあたってどんな手続きをした?」
     あっ、そうか。鷹石里志は自分の馬鹿さ加減に苦笑した。
    「日本人は観光目的ならビザなしでインドネシアに入国して2ヵ月まで滞在できるので、すっかりビザのことを忘れていた。ビザを免除されていない国の方が多数派だったんだ」
    「メキシコシティのインドネシア大使館領事部のビザ申請書のつづりから、ラファエル・セタ・アキノの申請書が出てきた。当然、写真が添付されている。ラファエルの写真はヒゲがあったが、瀬田誠とそっくりだ。さらに、瀬田誠のパスポートの署名のMakoto SetaとRafael Zeta Aquinoの書名の筆跡が同一だと鑑定された。ところで、今日は冷たいトワイニング紅茶は出ないのですか」
    「おっ、これは失礼した。スチが用でちょっと出かけているもので」
    「なら、アイール・プティ(ただの飲み水)でいいや」
    鷹石は立ち上がってキッチンへ行った。ちょうどそこにスチがお使いから帰ってきた。
    「ライ警視がお見えで、冷たいお茶をご所望だ」
    鷹石はリビングルームにもどった。
    「まもなくスチがお茶をもってまいります。これで、瀬田誠が5月14日にデンパサール空港から出国したことは証明されたが、犯行の時刻にデンパサールあるいは現場にいたことの証明はどうなる?」
    ライ警視の唇がへの字に曲がった。なんとなくインドネシアのダルマさんのようである。
    「そこのところが詰めだな。いまなお最大の難関だ。刑事部長もその点を指摘した。それを解明しないと国外にいる瀬田誠をひっぱれないだろう。それが刑事部長の見解だ。以前のように瀬田がジャカルタに会社を持ち、定期的にジャカルタに来ていれば、やつがジャカルタに現れたとき警察によんで尋問し、突破口を開けたかも知れない。ところが、いまでは瀬田はメキシコ暮らしだ。日本とメキシコの間は往復しているだろうが、インドネシアとは縁が切れた」
    「インドネシアは日本やメキシコと犯人引き渡し条約を結んでいないのだろう?」
    「結んでいない。日本の『逃亡犯罪人引渡法』という法律では、引き渡し条約を結んでいない国に対して、逃亡犯罪人が日本国民であるときは、引き渡してはならないときめている。一方で、日本の刑法は日本人が外国で犯した殺人などの犯罪については日本の刑法が適用されると定めている」
    「そうですか。ライ警視、さすがに詳しいですね」
    「したがって、日本に通報して日本の刑事裁判で処理することも可能だが、瀬田沙代がデンパサールで殺された日に、日本とウルグアイの二重国籍者である夫の瀬田誠が、ウルグアイ人の名義で、インドネシアに滞在していた。それだけでは日本の司法当局への説得力がたりない。そのうえ、あっさり、瀬田を日本に渡してしまっては、インドネシア警察のメンツがたたない」
    「そうだねえ。ロサンジェルスで殺し屋に頼んで妻を銃撃させて殺した疑いで、日本人の夫が日本の裁判所で裁判にかけられたことがある。一審の東京地方裁判所では殺人の共謀で有罪になったが、1998年に東京高等裁判所で一転して無罪になった。いまある材料だけで日本の裁判にかけるのはむずかしいかもしれないね」
    「そういうわけで、瀬田が2つの現場に何か残していかなかったかと、現場から採集された証拠品となりそうなものの当時のリストを、何度も何度も読み返してみたよ。タマン・サリの705号室から採取した指紋と、瀬田が外国人登録の際に出入国管理事務所に残した指紋を見比べたが、残念ながら瀬田のものと判断できるような指紋は出なかった」
    残念ながらといいながらも、ライ警視の顔には喜色が漂っていた。
    「どうした。嬉しそうじゃないか」
    「リストをながめているうちに、以前は無視していた品物があることに気づいた。瀬田沙代とスダルノが射殺された現場で、鑑識がはいつくばって路上から集めたゴミの中にあったかみ捨てられたチューインガムと、スハルトノが死体になっていたタマン・サリの705号室の灰皿に残っていた三つの吸い殻だ」
    「DNA検査に出したのか」
    鷹石は思わず叫んだ。
    「そうだ。ジャカルタのDNAリサーチ・ラボラトリーへ送った」
    「で、結果は?」
    「昨日届いた。チューインガムから抽出されたDNAのパターンは比較的鮮明だったが、吸い殻の方は鮮明さに欠けた。この2つの試料を正確に比較するには、米国の施設に送って精度の高い最新の機器で分析してもらう必要がある、という報告だった」
    「アメリカへ送ったのか」
    「まだだ。それに、早晩、瀬田のDNAサンプルも入手する必要がある」
    「秘密捜査員に綿棒を持たせてメキシコシティに送り込み、瀬田にお口アーンをさせるのか。あっ、ちょっと待っててくれ。役立つかもしれないものを思い出した」
     鷹石は書斎に戻って、キャビネットから1998年分の手紙の束をとりだした。その束の薄さに、鷹石はいまさらながら日本との縁が薄れてゆくような寂しさをふと感じた。
    「ここにメキシコから瀬田誠が送ってきた手紙がある。もし幸運にも、瀬田誠が切手をなめて張り、封筒をなめて封をしていれば、この手紙が瀬田誠のDNAをメキシコシティからデンパサールに運んできているはずだ」
    ライ警視の顔が喜色ではじけそうになった。
    「だめもとで、やってみよう」
    「幸運を祈るよ。テンペでめしでもくっていくか?」

    2001年3月。そろそろ雨季が終わろうとする日曜日、ライ警視から鷹石に電話があった。
    「今夜、うちにバビ・グリンを食べにこないか」
     鷹石がライ警視の家につくと、早くもテーブルの大皿にバビ・グリンが切り分けられ、別の皿にご飯が盛り上げられていた。
    「ガムと切手から抽出されたDNAについて『同一人のものである可能性が50パーセント以上』という結果報告がアメリカから送られてきた。吸い殻のDNAはアメリカの機器でも判定できるレベルまでには鮮明にならなかった」
    「おめでとう。瀬田誠が沙代銃撃の現場にいた証拠が発見されたのだ。そして同じ拳銃でスハルトノが撃ち殺された」
    鷹石はよく冷えた缶のビンタン・ビールをライ警視と彼の妻、それに自分のグラスについで、グラスを目の高さまで持ち上げて言った。
    「ありがとう。瀬田がスハルトノを射殺した理由や方法は、彼をつかまえてしゃべらせるまでは不明だ。同じ拳銃が使われているので、やつの犯行を疑う十分な根拠がある。妻殺しに使った拳銃をバリのどこに隠していたのか。これも瀬田に吐かせるまではわからない。ングラ・ライから出国するさい、長期間利用可能なロッカーに入れるか、手荷物預けを利用したのかもしれない。カバンか何かに入れてね。宿泊したホテルに保管を頼んだ可能性もありうる。瀬田には1週間もたたないうちに、ングラ・ライに舞い戻ってくることは分かっていたのだから。あとは瀬田の身柄だ。瀬田は仕事でメキシコと日本の間を往復している。インドネシアとは縁が切れている。とはいうものの、警察本部長はデータを日本に渡して、日本で処理してもらうことには消極的だ」
    「メンツの問題なのか」
    「それもあるが……。問題はいろいろ考えられる。まず、日本の捜査当局がインドネシアの捜査結果をそのまま受け入れてくれるかどうか。日本の捜査当局は裏付け捜査をするだろう。もちろんそうした捜査は極秘に行われるのだろうが、やっているうちにマスメディアに情報が漏洩する可能性も大いにありうる。あんたが話してくれたロサンジェルスの妻謀殺事件の裁判も、もともとマスコミが騒ぎだしたことから裁判にまで行ったということらしいな。この件が日本のメディアに漏れて騒ぎになると、瀬田誠がいまひとつの母国ウルグアイに逃げ込んで、そのうえ日本の国籍を放棄して、ラファエル・セタ・アキノその人になってしまうこともありうる。そうなると、日本も手を出せなくなる。日本は犯罪人引渡し条約を米国と韓国としか結んでいない」
    「ありそうな予測だね。それで?」
    「日本の殺人事件の時効は15年、インドネシアは18年だ。うちの方が長い。しばらく待とう。これがバリ州警察本部の決定だ」
    「そうか。あとは瀬田誠がいつの日かインドネシアに渡って来る日を待つだけだな。おれがヌサ・ドゥアのヤサ・マンダラでこんがりと焼かれ、あんたが円満のうちに定年になる前に、その日がやってくることを祈念して」
    と鷹石がグラスをあげた。
    「そのうち梢に風が吹く。風が吹けばドリアンが落ちてくる。気長に待つさ」
    ライ警視が言った。
    「カンパーイ」
    ライ警視の妻が叫んだ。
    「スラマット」
    鷹石が応じた。
     3人がグラスをあげた。ジャカルタから列車とバスを乗り継いでデンパサールへと急ぐ瀬田誠の引きつった表情が鷹石の脳裏をよぎった。
     さて、デンパサールの路上でペトルスを演じてみせた瀬田誠がその動機をどう説明するか――事件の背後に隠されている沙代と誠の愛の破綻の物語を、瀬田誠がどのように語ってくれるか、楽しみだな。その時もまたこの家に招かれてこんなふうにビンタンを飲むことになるのかな……。
     鷹石はあらぬことを考えていた。



                            ――完――

    コメント
    コメントする