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2019.01.06 Sunday

「だまし絵のオダリスク」    第3回

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     イケメンが捜査の本筋からそれていつもの饒舌に流れている気配を感じたオメルが割って入った。
    「まず、チチェキに強い恨みをもつ者の犯行が考えられます。犯行が深夜のことなので現場周辺の聞き込みで得られる情報は限られています。しかしながら、槙村中佐のイスタンブールご滞在中に、なにか良い情報をお伝えできるよう努力します」
    「期待しています。わたしは18日にベルリンに帰る予定です。その前にアンカラへも行かねばなりません。ところで警部、チチェキという女性ですが、田川とはどんなつながりがあったのでしょうか。日本大使館では田川とそのような女性との関係にはとくに心当たりがないといっていましたが」
    槙村がオメル・アシク警部に問いかけた。
    「女性の名はチチェキ・ヤルマン。チチェキはトルコ語で『花』のことです。チチェキはベイオールのナイトクラブやバーのいくつかと出演契約していたダンサーでした。彼女はチチェキの名をダンサーとしての芸名にも使っていました。外国人向けに舞台やフロアで踊ってみせるほか、シャンソンやカンツォーネもほどほどにこなし、ダンスのお相手もつとめていました。踊りも歌もまあまあだったそうです。スタイルのいい体と男心をさそう表情のつくり方で、あれやこれやの仕事を抱えてイスタンブールに長期滞在している外国人紳士のみなさん方の間では人気者でした。ガラタ塔から少しボスポラス海峡側に下ったベイオール斜面にたつ眺めのいいフラットを借りて住んでいたのですから、舞台での稼ぎよりはるかに多い別口の収入があったのだろうと噂されています。私も現場を見ましたが、リビングルームの大きな窓の向こうに海峡がきらめき、行き来する貨物船、フェリー、ヨット、さらには対岸のアジア側の丘の起伏とその斜面に建つ住宅も遠望できる、まことに贅沢な住まいでした。ダンサー仲間のやっかみ半分の噂では、チチェキにはきまったパトロンはいなかったようで、言い寄ってきた男とその夜のベッドをともにし、そのつど結構な謝礼をもらっていたらしい、ということでしたが、真偽のほどはわかりません。それと、チチェキは目のさめるような幾何学模様のピンクのイブニングドレスを着ていました。デザインは19世紀のヨーロッパ貴族の女性が愛用したような古典的なものでした。調べてみるとそのドレスは相当高価なものであることがわかりました。パリのエルザ・スキャパレリの店で買ったものでした」
    「ヴァンドーム広場のあの店ですか。ベルリンにもその評判は届いています」
    槙村が言った。
    「ええ。おそらくチチェキ自身が買ったものではなくて、誰かからの贈り物なのでしょう。ドレスを鑑定した服飾の専門家によると、スキャパレリ自身はナチを嫌って去年の夏ごろニューヨークに移ってしまったそうです」
    「なるほど。警部は色恋沙汰が原因の殺人だとお考えなわけですか?」
    「田川氏は男と女のこみいった関係に巻き込まれて殺されたのではないか。重要な可能性の1つとしてその線は検討にあたいすると考えています。2人の死体を発見したのはチチェキの母親です。ドアをノックしたが返事がない。娘から預かっている合い鍵を使おうとしたが、使うまでもなく、ドアには鍵がかかっていなかった。母親は旧市街のバラットというユダヤ人が多く住む地区に1人で暮らしていて、ときどきベイオールの娘のフラットを訪ねていました。母親は娘の稼ぎをあてにして暮らしていたようです。豪華な暮らしが約束されていた娘が、なぜ極東のアジア人の男といっしょに死んでしまったのかと、逆上していました。母親は、チチェキはスルタンの一族の血をひいているとさかんに言っていました」
    「それは興味深い話ですね」
    槙村が言った。
    「ま、おそらくは、口からでまかせでしょう。スルタンのハレムは1909年に制度として廃止されています。立憲政治と専制政治のあいだを揺れていたアブデュル・ハミト2世が、青年トルコ派が蜂起する中で1909年に失脚しました。そのときスルタンの宮殿の秘所ハレムが廃止され、数百人の女性がハレムからイスタンブールの街に放り出されました。ハレムで小間使い(オダリスク)をやっていたチチェキの母親もその1人でした。ハレムがなくなってイスタンブールの街に放り出され、10年ほど踊り子をしながら暮らしていたそうです。その踊り子時代にかつてのスルタンの一族の誰かといい仲になってチチェキを産んだのだ、と彼女は言っていました。チチェキを産んだのち、母親はいっときユダヤ系の医者の後妻に納まっていた。だが、その医者とも別れ、やがてバラットのわびしい安フラットに移り住みました。チチェキの父親についてははっきりしません。美貌のチチェキが玉の輿に乗って贅沢三昧の暮らしをおすそわけしてくれる日を母親は心待ちにしていたようです。失われた自分の夢をチチェキに託していたのでしょうが、ことはそううまく運ばなかった。それだけにチチェキの死は母親にとって痛手だったと想像できます」
    オメル・アシクが言った。

     それをイケメン・メフメトが引き継いだ。
    「どこの国でも多かれ少なかれそうでしょうが、この国でも色恋というのは女性が富と権力に近づく手立てだった歴史がありましてね。オスマン朝のハレムがそうでしたし、オスマン・トルコ軍に征服されたビザンティン帝国でもそうでした。旧市街にヒッポドロームという名のビザンティン時代の都の中心になっていた広場があります。東ローマ帝国時代にはここでさまざまな娯楽が提供されました。『パンとサーカス』のサーカスが民衆に提供されたところです。そのヒッポドロームはまた、パンを求める民衆の不満の爆発の場にもなりました。ユスティニアス1世の532年、この広場で反ユスティアス暴動が起きて、皇帝の身に危険が迫ったことがありました。側近たちは、ユスティニアスにコンスタンティノープルから脱出するよう勧めました。ユスティニアスもその気になったのですが、そのとき、ユスティニアスの妻テオドーラが、ユスティニアスをこう言って叱咤したそうです――逃げ出してはなりませぬ。死は生まれたときからの約束事です。国を治めてきた者が、威厳と権力を捨てて生き延びてなるものでしょうか。陛下が王冠と紫のローブを失った姿を人目にさらすことのないように、私が生きながらえて皇妃の称号ぬきで人に呼ばれることのないようにと天に祈りました。陛下、お逃げになりたいのであれば、ここに財宝があります。海には船が浮かんでおります。さりながら、いまお命を惜しまれれば、やがて惨めな亡命とその果ての恥辱にまみれた死を迎えることは必定でございます。そのことこそをお恐れください。王座は栄光に満ちた墓石であるという古の格言に、私はしたがいとう存じます」
    イケメンがまるでシェークスピア劇のセリフのような調子で語った。

     この男、なかなかの役者だ。
    「娼婦あがりの妻に叱咤激励されたユスティニアス1世は決死の覚悟で反乱に立ち向かい、これを鎮圧し、のちに東ローマ帝国の版図拡大に成功して、歴史に残るユスティニアス大帝とよばれることになった。『ニカの乱』のお話ですね。エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』の名調子の語り。まだ若いころ海軍士官として演習で長期航海に出たときなど、退屈しのぎに読んだ本です。ユスティニアス大帝を一喝したテオドーラの方は、たしか、ヒッポドロームで走らせる馬の世話をしていた馬方を父に、芸人を母に生まれた下層の娘だった。父親の死後、生活のために母親がテオドーラを舞台に立たせた。チチェキとちがって歌も踊りもできず、パントマイムがせいぜいだった小娘でした。テオドーラは母親によって、昼は舞台、夜はベッドで稼がされた。テオドーラの美貌にひかれたユスティニアス一世は彼女を愛人にし、のちに妻にした。やがてテオドーラは東ローマ帝国史上で最強の女性の権力者になった。歴史のきまぐれというやつです。中国や日本には『三十六計逃げるに如かず』という言葉がありますが、ユスティニアスがもしその言葉に従っていたら東ローマ帝国の歴史は違ったものになっていたでしょうね」
    槙村がイケメンのおしゃべりに合いの手をいれた。
     

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