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2019.01.12 Saturday

「だまし絵のオダリスク」   第4回

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    「これはこれは、コンスタンティノープルの歴史をよくご存知で」
    イケメンが笑顔を見せた。
     イケメンと槙村のドイツ語のおしゃべりが終るのを我慢しながら待っていたオメル・アシク警部が脱線した話を実務的な方向に引き戻した。
    「チチェキの男関係を洗う一方で、凶器に使われた拳銃を追っています。銃弾と現場に残っていた薬莢から、使われた拳銃はルガーP08かワルサーP38だと推定されます。フラットの住民から聞き込みをした限りでは、2人が死んだと考えられる3月5日の未明に、人が争う物音や銃声を聞いた人はいませんでした。深夜のことですから銃声はご近所に響くはずでしょうが、聞いたという証言はいまのところありません。消音器を使った可能性もあります」
    「槙村中佐。ベルリンで勤務されている武官の方ならご存知でしょうが、ドイツ軍の軍用ピストルはルガーP08からワルサーP38への切り替えが始まっています。先の大戦でトルコはドイツと組んで敗れ、オスマン帝国が崩壊しました。ルガーはそのころトルコに大量に流れ込んできました。新たに誕生したトルコ共和国は、このたびのヨーロッパの戦争では中立を守っています。英国もドイツもソ連も自分たちの戦略上の都合からトルコを自陣営に引っぱりこもうと画策しています。その工作ための要員をトルコに送り込んでくる。ドイツの進撃によってヨーロッパ、特にバルカンから避難民がトルコに流れ込んでいます。こうした人たちとともに、さまざまな武器もまたトルコ共和国に持ち込まれ、その一部がイスタンブールの闇の社会に流入しています。絞りこみはなかなか難しい仕事になります」
    イケメンが補足的な説明をした。
    「殺害される前の田川とチチェキの行動についてはどの程度把握できているのでしょうか?」
    槙村が訪ねた。
    「ラーレという名のカジノで2人を見かけたという証言を得ています。2人は午後10時ごろやってきて、男2人を交えた4人で酒を飲みながらしばらく話しあっていたそうです。その2人の男については残念ながら詳しいことはわかっていません。テーブルに酒を運んだ給仕は、チチェキはもちろんアジア系の男性についてもよく覚えているが、2人の男については印象が薄かったと言っています。ということは、その男は給仕が普段の生活の中で見なれているトルコ人だったのかもしれません。2人が目撃されたのはそのカジノが最後でした」
    イケメンが答えた。
    「田川はこの1年ほどは仕事の応援で頻繁にアンカラからイスタンブールに来ていたそうです。イスタンブール庁舎で留守居役をしていた大使館の同僚の話では、田川はあの日の午後7時ごろ行く先を告げずふらりと庁舎を出たそうです」
     日本大使館が1937年にイスタンブールからアンカラに移ったあと、イスタンブールの旧大使館の建物は、日本大使の夏の別邸という名目で、大使館のイスタンブール出張所的な役割を果たしていた。アンカラから派遣された留守居役が庁舎の管理にあたっていた。また、しばしは業務で大使館員がアンカラからここに派遣されていた。
     イケメンのオフィスからみえるイスタンブール旧市街の空から茜色が消えて、あたりが闇につつまれ始めていた。エミノニュの街の明かり、金角湾の小船の航行灯がはっきりと見え始めた。甥の田川が生きていた最後の日にイスタンブールの街に出たのはこんな宵だったのだろうか、と槙村は思った。
     イケメンは槙村の表情にベルリンからの長旅のせいだけではない疲労感を見た。槙村の方はイケメンの顔にほんの一瞬だが緊張が走るのを見た。
    「槙村中佐」
    イケメンが口を開いた。
    「田川さんの姿が最後に目撃されたベイオールのラーレというカジノは、イスタンブールに住む外国人のたまり場のひとつでしてね。経営者はギリシャ系トルコ人ということになっていますが、実質的なオーナーはドイツのアプヴェール(国防情報部)です。ラーレはトルコ語でチューリップの花のことですが、同時に囚人や狂人に使う首かせの意味もあります。どうも悪趣味な店名ですな」
    「アプヴェールですって。それはたしかなことですか」
    「ポルトガルのリスボン、スペインのマドリッドなど他の中立国の大都市と並んで、いまやイスタンブールは各国からおしかけてきたスパイたちのにぎやかな社交場になっています」
    「そんなににぎやかですか?」
    「ええ、沸騰寸前です。槙村中佐も職業柄よくご存知でしょうが、聞くところによると、アプヴェールをはじめとする各国の情報機関は軍事情報入手のために、飛行機を使った上空からの偵察や、無線の傍受、捕虜の尋問といった直接的な方法と、プレスの情報や積み重ねてきた情報の比較検討や再評価、あるいはエージェントを使って政府機関や外交公館からの情報入手などに励んでいるそうですね。イスタンブールで流行っているのは、もっぱら盗み見、盗み聞きによる情報入手です。アプヴェールはイスタンブール市内にいくつかのバーやカジノを開いています。情報機関が水商売に手を染めるのも、酒で人の口を軽くし、酒席に侍る女性の脂粉や柔肌を使って国家機密を引き出そうともくろんでいるからでしょう。ラーレはその一つです。こうした店が秘密情報の取引所になっていることは、この街で外交や情報の仕事をしている人々の間ではよく知られていることです。そうした業界のクラブのようなところに、いろんな国の同業者が集まって、歓談しつつ互いの腹を探りあい、情報を交換し、なんらかの意図があって捏造した偽情報を売り込みあっているわけです。イスタンブールだけで200から300人がこの手の情報売買で飯を食っています。ふざけた話です。もちろん、ラーレに来る多くの客は諜報の仕事とは関係のない、くつろぎだけを求める一般のトルコ人や外国人ですが」
    「なるほど。上海のようですね」
    「ええ。私自身は上海に行ったことがありませんが、イギリス、フランス、ソ連、アメリカ、日本に加えて、国民党や中国共産党の諜報員でごった返している、なにかと騒がしい街であることは話に聞いています。イスタンブールの諜報合戦は上海のそれに似ている。保安本部としては田川さん殺害の動機として怨恨以外の線も考慮にいれているのです。そこで念のためにお尋ねするのですが、槙村中佐、あなたは田川さんと諜報活動のかかわりあいについて何かお聞きになったことはありませんか」
    「私はベルリンに勤務して1年ですが、その間、田川に会ったのは今年1月、田川がベルリンにやってきたときの1度だけです。田川のトルコ勤務は2年を過ぎていました。田川は大使館で経済担当の三等書記官でしたが、アンカラから東京やベルリンに送ってくれた手紙には、そのようなことを感じさせるものはありませんでした。日本大使館はなんと言っていましたか?」
    「アンカラの日本大使館からの公式の回答はそのような接点については心当たりがないというものでした」
    イケメンに代わってアシク警部が言った。
     そのとき、オフィスのドアがノックされ、さきほど槙村を案内した長身の若い男があらわれた。イケメンとオメルは若い男と廊下に出た。しばらくしてイケメン1人が部屋に戻ってきて槙村に言った。
    「警察本部から至急の連絡が入って、本部庁舎まで行かねばならない。話を中断することになってまことに申し訳ないが、この続きはいずれ機会を見て、ということにしていただけないだろうか」
     槙村は椅子から立ち上がった。イケメンが右手を差し出し、手短に別れの言葉を言った。午後6時半すぎだった。
    「私はこの近くのペラ・パレス・ホテルに泊まっています。もしご迷惑でなければ今夜、ペラ・パレスでお食事をご一緒しながら、話の続きをおうかがいできればよろしいのですが」
     ペラ・パレスはイスタンブールを代表するホテルだ。アガサ・クリスティーの『オリエント・エクスプレスの殺人』は1934年に出版された。日本語訳がその翌年の1935年に『十二の刺傷』というタイトルで刊行された。訳者は延原謙。クリスティーはペラ・パレス・ホテルの常連だった。グレアム・グリーンの『スタンブール・トレイン』が出たのはその前の1932年のことであり、物語の最後にやはりペラ・パレス・ホテルが出てくる。ペラ・パレス・ホテルはオリエント急行でヨーロッパからやってくる金持や著名人が泊まる宿だった。このホテルには各国からさし向けられたスパイもたむろしていた。伝説のスパイ「マタハリ」もこのペラ・パレス・ホテルに泊まったと噂されている。
    「わかりました、槙村中佐。イスタンブールご滞在の日程が短いご様子なので、今日中に事件の情報交換をすませてしまいましょう。2時間後でいかがですか。オメル・アシク警部ともども行けると思います」
    「では、午後8時半に。オリエント・バーでお待ちしています」


     

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