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2019.01.30 Wednesday

『だまし絵のオダリスク』    第6回

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     陽光きらめく5月のマルマラ海が列車の右手にあった。
     1941年5月15日木曜日の朝、マルマラ海は晩春から初夏にかけての瀬戸内海によく似ていた。底抜けに明るく、柔らかで、そして優しくみえた。
     列車はすでに5世紀の初めに築かれたテオドシウスの城壁がマルマラ海に接していたあたりを過ぎていた。列車はマルマラ海を右に見ながら海岸沿いにしばらく直進し、やがて速度を落した。列車は左へ大きくカーブしたが、青い海はなお右側にある。
     海の向こうにイスタンブールのアジア側がみえる。列車の左手は低い丘で、その上にトプカプ宮殿がある。かつてこのあたりには、マルマラ海の海岸線に沿って海からの攻撃に備えるための城壁が築かれていた。オスマン・トルコ時代にはトプカプ宮殿の離宮「夏の宮殿」と呼ばれる建物があった。その夏の宮殿は19世紀中ごろに火事で焼け落ちている。まもなく焼け跡はかたづけられ、その跡地でイスタンブールとヨーロッパを結ぶ鉄道の敷設工事が始まった。線路は海岸沿いの城壁の跡の内側、つまりトプカプ宮殿の構内の端をかすめて通ることになったが、オスマン朝の王宮はこのときすでにトプカプ宮殿から新築のドルマバフチェ宮殿へ移っていた。この線路をのちにオリエント急行が走ることになった。
     列車はさらに速度を落して、再び左へカーブした。終着駅シルケジがすぐそこにあった。
    「長旅、お疲れさまです。ホテルは大使館旧庁舎そばのパーク・ホテルをとってあります。いやいや、3月にお泊りだったペラ・パレス・ホテルの爆弾事件の夜は大変でしたね。ペラ・パレスとはちょっと雰囲気が違いますが、パーク・ホテルもまた居心地のよいホテルですよ」
    日本大使館のイスタンブール庁舎に駐在している副領事の別所剛三が乗用車でシルケジ駅まで槙村を迎えに来てくれていた。別所はきびきとした明るい声で槙村に話しかけた。
     槙村を乗せて車はシルケジ駅を出た。エミノニュの港のそばを通り過ぎた。忙しく発着するフェリーがあり、はしけが切れ目なく行き交い、カモメが飛びまわり、埠頭に物売りの姿があった。金角湾の対岸のガラタの埠頭で貨物船が煙突から黒煙を盛大にあげていた。
     金角湾をまたいで2階建てのガラタ橋が旧市街と新市街を結んでいる。朝の光が旧市街のトプカプ宮殿、ハギア・ソフィアことアヤ・ソフィア、ブルー・モスクことスルタン・アフメト・ジャーミー、イェニ・ジャーミー、シュレイマニイェ・ジャーミーなどイスタンブールの風景を代表する建築物を照らしている。新市街にも歴史的建造物のガラタ塔などがあるが、どちらかというとそこは現代の街だ。すべての外国公館は新市街に建てられている。外国公館が旧市街に建てられることをスルタンが嫌ったからだ。
    イスタンブールの歴史はヨーロッパ側の旧市街を舞台にして書かれている。東ローマ帝国や、オスマン・トルコ帝国の中心部が旧市街にあったからだ。イスタンブールに最初に街を築いたのはギリシャ人だとされている。そのギリシャ人たちを率いたチーフの名が「ビザス」だったことから、街はビザンティウムとよばれた。紀元後330年にローマ帝国のコンスタンティン帝がここを新首都に定めたことから、コンスタンティヌポリス、コンスタンティノープルと人々はこの街をよぶようになった。
     13世紀のはじめ第4回十字軍は聖地奪回に向かう途中、ヴェネツィア共和国の誘いに乗ってコンスタンティノープルを攻めた。古文書によると、このときは難攻不落のテオドシウスの城壁ではなく、海側の城壁から攻めた。コンスタンティノープルに入った十字軍は金銀を略奪、虐殺をほしいままにした。女性とみるとてあたりしだい強姦した。尼僧もひきずりだして犯した。十字軍に同行したカソリックの僧はギリシャ正教の修道院に押し入って聖遺物をかっぱらった。戦は人種、宗教、信仰、文明にかかわりなく人を狂気に陥れる。
     このときコンスタンティノープルのヒッポドローム広場に飾ってあった4体のブロンズの馬の像も略奪されてヴェネツィアに持ち去られた。ブロンズの馬はヴェネツィアのサン・マルコ寺院に飾られていたが、ナポレオンがヴェネツィアを攻めたさい戦利品としてパリに持ち帰った。のちにこのブロンズの馬はヴェネツィアに返還され、再びサン・マルコ寺院に飾られたが、イスタンブールまでもどって来ることはなかった。
     東ローマ帝国の都コンスタンティノープルは1453年5月29日、メフメット2世率いるオスマン・トルコ軍の総攻撃を受けて陥落した。
     メフメト2世はコンスタンティノープルを包囲したものの、はじめの数週間、堅固なテェオドシウス城壁に阻まれて攻めあぐねていた。先帝の代からの仕えている古手の将軍たちのなかには、メフメト2世に攻撃中止を進言する者もいた。まだ若者だったメフメト二世は、前線を回って兵を鼓舞した。都を陥落させたあかつきには、3日間にわたって略奪お構いなしと叫んだ。やる気を引き出すのは物欲と、古来、相場は決まっている。
     東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコはマルマラ海に突き出た小高い丘の上の古代ギリシャの殖民都市ビザンティウム跡に新たな宮殿を建てた。やがてこの街はコンスタンティノープルともイスタンブールとも呼ばれるようになった。町の名前が正式にイスタンブールで統一されたのは、オスマン帝国が崩壊しトルコ共和国になってからのことだ。イスタンブールの語源ははっきりしないが、イスラムボル(イスラムがいっぱい)のなまりではないかとする説もある。
    車はガラタ橋を渡ってヨーロッパ側新市街に入っていった。
    「ペラ・パラスの爆弾事件ですが、その後の捜査はどうなりましたか」
    槙村が別所にたずねた。
    「結論から言うと未解決です。死者は6人、負傷者は20人を超えました。死者のうち2人は到着したイギリス大使館員らの警備にあたっていたイスタンブール警察の警官でした。警察も身内から死者を出したとあって、相当真剣に調べてはいますが、ここの警察の能力の限界でしょうか、はかばかしい進展はないようです」
    「ソフィアから持ち込まれたという爆弾の出所については?」
    「ソフィア脱出のさい、イギリス大使館員が列車に運び込んだ荷物のうち、持ち主不明のものが二つあったそうです。そのうちの一つがペラ・パラス・ホテルで爆発しました。残るいまひとつのスーツケースから不発に終った時限爆弾が発見されましてね。時限装置はドイツ製でした。いずれにせよ、爆弾が国外から持ち込まれたことで、トルコ政府首脳はほっとした様子です。トルコ国内の反政府分子の破壊工作だったらイギリスに対して負い目ができることになりかねませんから。イギリス側にはナチスあるいはナチスの息がかかったブルガリアの組織の仕業と見るむきもあるようです。逆に、ドイツ側はイギリス大使館員がブルガリアを去るにあたって、ブルガリア国内の線路を爆破するサボタージュ工作に使うつもりで爆弾を用意したが、ついうっかりしてイスタンブールまで持ち込んでしまった、という説を一時となえました。しかし、『ついうっかり』説はいくらなんでもイギリス大使館員がうかつすぎるというわけで、説得力に欠けました。トルコ政府はブルガリアの数ある政治組織の一つがやみくもにたくらんだ破壊工作との観測を出しています。この『やみくも』という言葉は意味深長だと思いますね。第1次世界大戦のひきがねになったサラエヴォの銃声を連想させます。火薬庫バルカン。ブルガリアもまたバルカン的分裂と混沌にみまわれている国です。犯行におよんだ組織の特定はまず困難でしょう。トルコ政府はなかなかうまいおとしどころ見つけたとうわさされています」
    「なるほど。わが軍隊はドイツびいき、わが民はロシアびいき、わが妻はイタリア人なのだ――ブルガリア国王ボリス3世がそういってため息をついたという逸話をソフィアで聞きました」
    「槙村さん、肝心の田川さんの事件の方ですが、概略、これまでベルリンに連絡したとおりで、こちらも解明への足どりははかばかしくありません。申し訳ないです」
    別所は田川一郎殺害事件の捜査の停滞の責任が自分にあるかのような、まことに申し訳なさそうな声を出した。
    「難しい事件になったようですね」
    槙村が言った。

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