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2019.02.03 Sunday

『だまし絵のオダリスク』   第7回

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     ガラタ橋の上で路面電車とすれ違った。線路は橋の中央部にあって複線だ。線路の外側に車道があり、大型のトラック、乗用車、荷馬車が走っていた。橋の一番外側が歩道だ。背をまるめ大きな荷物をかついで歩く男たちの姿があった。
    「この橋は10年ほど前までは通行料をとっていたそうです。ところで槙村さん、話は変わりますが、ルドルフ・ヘスのイギリスへの単独飛行には驚かされました。ナチスの政権内部で何か重大な権力争いでも起こっているのでしょうか? 槙村さんがベルリンをお発ちになられたころ、何かそれらしい徴候がありましたでしょうか」
    別所のおしゃべりは止まらない。だが、彼の明るい性格のせいだろうか、槙村にはその饒舌がむしろ心地よかった。
     ヒトラーの側近ルドルフ・ヘスが5月10日、単独飛行で密かに英国に飛んで、スコットランドのグラスゴー近郊にパラシュート降下したところをイギリスの警察に捕まった。5月12日に英国首相官邸が発表していた。おなじ日、ベルリンのナチ党本部が、ルドルフ・ヘスが自ら飛行機を操縦して10日夕にアウスブルクを飛び立ったまま行方不明になっていると発表した。イギリスの発表の翌13日になってナチ党本部はヘスがスコットランドにパラシュート降下したことを認めた。
     ヒトラーに長年仕え、ヒトラーの『わが闘争』の口述筆記役までつとめたナチ党の重要人物が、ドイツが空からイギリスにばら撒いているスパイのように、パラシュートで舞い降りてきた前代未聞の事件だった。
    「ドイツ側の発表では、ヘスは精神に異常をきたしていたといっています。一方、イギリス側はルドルフ・ヘスの精神は正常で、パラシュート降下のさいくるぶしを痛めた以外に健康状態に問題はない、と発表しています。ですが、肝心の、彼がイギリスへ飛んでいった理由はまったく不明です」
    別所がかさねて槙村に問いかけた。
    「旅行で移動中のことなので、わたしには詳しい情報を仕入れる機会がありませんでした。なるほど、別所さんのほうがおくわしいようですな」
    槙村が答えた。
    「ヘスの英国行きについては、独英和平の提案に出かけたといわれていますが、真偽のほどはどうなのでしょうね。和平提案を抱えていたとすれば、ヒトラーの意を受けてのことでしょうか。それとも、狂気の沙汰としか思えないヘスの単独行動だったのでしょうか」
    「この事件についてトルコ政府がどんな評価をしているのか、あたってみると面白いかもしれませんね。もし、ヒトラーの指示でヘスがイギリスとの和平提案をかかえて行ったとすれば、背後にあるドイツのねらいは何か。おかめ八目、トルコ政府はそのへんを意外に冷静に分析しているかもしれませんよ」
     槙村は別所にありきたりの返事をした。

     槙村はパーク・ホテル2階の客室に案内された。部屋の窓を開けた。心地よい風が入ってきた。目を見張らせる海の風景がそこにあった。眼前左右にボスポラス海峡の濃紺の水面が広がっていた。対岸のアジア側の海岸線と丘の稜線が、イスタンブールを海と陸と空に分けていた。
     オスマン帝国の最盛期である16世紀から17世紀、黒海からボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡、エーゲ海はオスマン帝国の内水だった。18世紀後半から19世紀にかけてオスマン帝国が衰退期に入るとともに、ロシアが南下して黒海周辺を勢力下におき、ボスポラス海峡の優先通峡権を要求し始めた。ボスポラスをはじめとするトルコの海峡は、まずロシア帝国が優先的な通航権を獲得した。続いてヨーロッパの列強が、解体してゆくオスマン帝国の属領の奪い合いに狂奔し、その列強のせめぎあいの中で、通峡権の問題も国際化されていった。ドイツに加担したオスマン・トルコが第1次世界大戦で敗戦国になったことで、海峡は国際管理下におかれ、トルコは海峡における主権そのものを失った。1936年のモントルー条約でトルコは海峡の主権を回復したが、ヒトラーのドイツがヨーロッパで戦争を始めるとともに、ドイツ、ソ連、イギリスが戦略上の必要性から再びこの水路の優先通航権の確保を争っている。
     ブルガリアを日独伊三国同盟に参加させたドイツが、さらに一歩踏み込んでトルコへ食指を動かせば、イギリスとその背後にいるアメリカ、黒海の北にあるソ連がどう出てくるか。ボスポラス海峡の争奪をめぐって、トルコが大戦の新しい戦場になる可能性もある。トルコは中立という危うい綱渡りのバランスを必死で保とうとしている。
     右手の金角湾のむこう、旧市街の歴史的建築物群が、3月にペラ・パラス・ホテルから見たときより、すこし距離をおいてながめられた。この距離感も悪くなかった。くわえて初春から初夏へと季節が移ったことで、風景がより明るく色鮮やかになったように槙村は感じた。5月のボスポラス海峡の輝きは目に痛いほど眩しい.
     このところ世の中の動きが棹を失った舟のように、急加速する時代の濁流に押し流されている不安を槙村は感じていた。ペラ・パレス・ホテルでサボタージュによる爆発があった3月11日には、アメリカで武器貸与法が成立した。アメリカはヨーロッパの戦争に参加せず中立を維持していたが、ついに米議会がルーズベルト大統領に、連合国側に対して武器や食糧を供与する権限を与えたのだ。武器貸与法はまずイギリスに対して適用された。ヨーロッパの大戦にアメリカが一歩踏み込み、ドイツと対峙する姿勢を明らかにした。
     3月下旬から4月にかけて松岡外相がモスクワ、ベルリン、ローマを訪問し、スターリン、モロトフ、ヒトラー、リッペントロープ、ムッソリーニとそれぞれ会談した。4月12日には日ソ中立条約が調印された。その翌日の13日には、ハル米国務長官と野村大使の間で日米交渉が始まった。ヨーロッパでは3月はじめにブルガリアが、続いて同月末にはユーゴスラビアも日独伊三国同盟に参加。4月はじめにはドイツがギリシャとユーゴスラビアに軍を進めた。ユーゴスラビアとギリシャは4月半ばドイツに降伏した。
     槙村は、今回、5月12日にベルリンを出てソフィアに2日ほど滞在した。ソフィアのホテルはドイツ軍の制服を着て声高にしゃべる男たちであふれていた。ブルガリアを自陣営にとりこんだドイツは、ドイツ―ブルガリア間の物資や人員の輸送に鉄道を利用した。そうした列車にドイツの鉄道サービス会社ミトローパの客車が連結され始めていた。この新しいオリエント・エクスプレスをドイツ政府や軍やナチスの幹部がさかんに利用していた。槙村はベルリンのアブヴェールの手配でこうした軍用列車の1つを利用できる許可証をもらい、ソフィアから列車でイスタンブールに来た。ブルガリアとトルコの国境からイスタンブールまで陸路半日もかからない距離だ。トルコ政府がドイツの動きに神経をとがらせているのも当然のことだった。

     

    「田川さんの事件ですが、どうやら警察は怨恨の線は捨てたようです。むしろ、この戦争と関わりあう謀略の一端に田川さんが巻き込まれたのではないか、と考えているふしがあります。スパイ天国のイスタンブールでは、各国の諜報機関の謀略をめぐるさまざまな噂が、まさに網の目のように絡み合っていて、警察も田川さん殺害の謎を解きほぐすのになかなか苦労しています」
     日本の通信社のイスタンブール特派員の深川吾朗が槙村に言った。別所が槙村に深川を紹介した。深川はかれこれ5年近くイスタンブールで仕事をしてきた男だ。5月15日の宵だった。2人はパーク・ホテルのバーにいた。
    「そうですか。とはいえ、このまま迷宮入りなってしまったら、死んだ田川がかわいそうです。なぜ死ぬことになったのか、あだ討ちはできないまでも、死んだわけぐらいははっきりさせてやらないことには」
    そう言ったあとで槙村は古風で大仰なもの言いをしてしまったことに気づいた。
    「このホテルはいろんな国から来た新聞記者のたまり場でしてね。その新聞記者の中にはスパイを兼業しているヤツも少なくないという、もっぱらの噂です。とくにイギリスは新聞記者を諜報員に利用することが多いそうです」
     深川が意味ありげな目つきで槙村を見た。彼は少しばかり声を落して話を続けた。
    「このホテルにイスタンブールにたむろするさまざまな国のスパイたちが、ビジネスマン、新聞記者、外交官をよそおって集ってきます。スパイたちの情報交換の場であり、憩いの場になっています。呉越同舟といったところです。このあたりは『ギュミュシュ・スユ』、日本語でいえば『銀の水』とよばれています。優雅な地名でしょう。ホテルの隣の建物は元ドイツ大使館で、大使館がアンカラに引っ越したいまは、ドイツ領事館として使われています。建物が立派なので、土地の人は今なおドイツ大使館とよんでいますが。したがって、パーク・ホテルにはドイツ人の客が多く、ドイツのスパイも多い。日本の旧大使館もすぐ近くにあるのですが、イスタンブールの情報戦では日本は脇役ですらありません。このパーク・ホテルを根城にしている記者の1人に、イギリスのクロニクル紙の特派員をしている男で、ピーター・ケーブルというヤツがいましてね。私よりちょっとばかり若く、30半ばのなかなかハンサムな男です。トルコ人の新聞記者の間では、ピーターはイギリス情報機関と新聞記者の二足のわらじをはいていると噂されています」
     深川はここで一息入れ、テーブルの上のビールで喉を湿らせてから話を続けた。
    「田川さんと一緒に殺されたチチェキという若い女が、そのピーター・ケーブルの囲い物――いや、囲い物とはちょっと古臭かったです――愛人だった、という噂をつい最近聞きました。田川さんとチチェキが死んでいた、例のボスポラスの眺めの美しいフラットの家賃はピーター・ケーブルが払ってやっていたそうです。チチェキを使って田川さんから何か情報を引き出そうとしていたのではないか、とドイツ紙の記者がささやいていました。多分ドイツの情報機関の見方の受け売りなのでしょうが。槙村さん、ピーター・ケーブルと一度直接お会いになってはいかがですか。なにか、感触がつかめるかもしれませんよ。お膳立てなら私がしましょう」
    「それはありがたい」
    槙村が深川に礼を言った。

     彼らのテーブルの隣にウェイターが数人の男女を案内した。椅子に座るとき色白で黒い髪、大きな黒い瞳の若い女が槙村と深川の方を見て微笑んだ。
    「お知り合いですか」
    槙村が深川に尋ねた。

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