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2019.02.11 Monday

『だまし絵のオダリスク』   第8回

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    「いいえ。でも、僕はああいうタイプが好みだなあ。願わくばお知り合いになりたいものです。このホテルのバーは浮世離れしたおとぎの国のようなところです。もともとここはオスマン帝国時代の19世紀後半にイタリア政府が大使公邸を建てようとした土地です。イタリアらしい話なのですが、贅沢な建物を造りすぎたものですから建築費用が払えなくなった。イタリア政府が手放した物件をオスマン・トルコのパシャが手に入れた。そのパシャが海外に出ているあいだ屋敷を貸しに出していたのですが、それが、あなた、火事で焼け落ちてしまった。パシャの夫人、この人はもともとスイスの出なのですが、焼け跡にこぢんまりとしたホテルを建てました。彼女はやがてギリシャ系トルコ人の海運業者にホテルを売却。7年ほど前に大改築がおこなわれて、イスタンブールではペラ・パレスとならび称される現在のような豪華ホテルになりました」
    「気持のよいホテルですね」
    「ええ、1938年に死んだケマル・アタテュルクはアンカラからイスタンブールに出てきたとき、この坂道を下った海岸沿いに建つドルマバフチェ宮殿に滞在し、夜になると取り巻き連中を従えてこのホテルのバーに姿をあらわしていました。ドルマバフチェ宮殿は白大理石造りの大きな建物です。オスマン朝が使い勝手のわるい古びたトプカプ宮殿に代わる新しい宮殿として、19世紀の中ごろボスポラス海峡の海岸に新築しました。ドルマバフチェ新宮殿はヨーロッパの宮殿建築様式を模倣する一方で、トプカプ宮殿の過剰な装飾性も残しました。まったくもって、権力者のあくなき浪費ですよ。この海峡沿いの土地は埋め立て地でスルタンの庭園として使われていたところでしてね。ドルマはトルコ語で埋め立て、バフチェは庭園のことだそうです」
    「スルタンに代わってアタテュルク大統領が寝泊りしたわけですか」
    「日本の明治維新で徳川の江戸城が皇居になったようなものです。権力者の有為転変は世のならいです。オスマン帝国最後のスルタンとなったメフメト6世は、イギリス軍の助けをかりてイスタンブールを脱出しました。1922年11月16日の早朝のことで、ひどい雨が降っていたそうです。メフメト6世は山の手に新築されたユルドゥズ宮殿で暮らしていて、そのユルドゥズ宮殿の前に救急車が待っていました。メフメト6世は救急車に積み込まれた。救急車は坂道をドルマバフチェ宮殿近くの海軍の埠頭へ向かった。メフメト6世はランチに移され、金角湾沖に停泊していたイギリスの軍艦「マラヤ」に運ばれた。残してきた5人の妻をよろしく頼むとスルタンはイギリス側に頼んだと伝えられています」
    アルコールのせいか深川の舌がなめらかになってきた。
    「帝国はいったん拡大しても、やがて自らの重みで崩壊してゆくものなんですね」
    槙村が言った。
    「帝国の幕切れはいつもながらみじめです。メフメト6世の逃亡を聞かされたアラビアの王子アリ・ハイデルは『神よ、このような意気地なしのスルタンからわれわれをお守りください』と嘆息したといわれています。ケマル主義者たちは、オスマン帝国の宮廷がボスポラス海峡のヨーロッパ側におかれたために、オスマン朝は柔弱なヨーロッパの風潮にかぶれ、武人としてアジアからやってきたときのテュルク族の魂を忘れはてた末に滅亡したのだ、とあざけりました。したがって、新しいトルコ共和国の首都をヨーロッパ側の歴史ある古都イスタンブールでなく、アジア側のアナトリア中央部にあるアンカラにすることにこだわりました。メフメト6世が逃げだしてから16年後の1938年の11月10日午前9時5分、メフメト6世の将軍だったケマル・パシャことケマル・アタテュルクが、ドルマバフチェ宮殿のかつてのハレム部分に設けられたアタテュルク専用の寝室で死にました。死因は過度の飲酒による肝硬変。享年57歳。いまや1938.11.10.9.5が新生トルコ共和国のもっとも聖なる数字なのです」
    深川の語りが熱をおびた。
    「アタテュルクがここで豪快に飲んだくれているのを私も見たことがあります。あれでは肝硬変で死んだのも無理はないといまにして思いますね」
    「太く短くですか。だが考えてみると、ケマル・アタテュルクは織田信長よりは長生きしている」
    槙村が軽口で応じた。われながら凡庸なコメントであったと槙村は思った。旅の疲れと酒の酔いの複合作用かもしれなかった。
    「はっはっは……織田信長はよかった。槙村さん、日本でトルコ帽といっている、例の帽子のてっぺんに房がついているやつ。ここではフェズと呼んでますがね。モロッコの町のフェズです。もともとはあのあたりで被られていた帽子なのですが、19世紀初めマフムト2世が国の近代化の象徴として、ターバンとローブの代わりにフェズとフロックコートの着用を進めたそうです。ちょんまげ姿で洋服を着はじめた日本人のようなものですわ。それで、オスマン朝が終わり、アタテュルクの共和国になると、こんどはアタテュルクがフェズの着用を禁止した。フェズを旧体制の象徴とみなした彼は、『帽子はつばがあるものだ。フェズはオリエントの後進性のあらわれだ』とのたもうたそうです。明治初期の日本の断髪や中国・辛亥革命後の辮髪の廃止を思い出させる話です。ある晩、レセプションにエジプトの外交官がフェズをかぶって現れたとき、アタテュルクはやにわに外交官の頭からそのフェズをはたき落としたそうですよ。たしかに織田信長なんだなあ」
    「深川さんはだいぶアタテュルクに惚れこんでいらっしゃるようですね」
    「槙村さん、タクシム広場にある共和国記念碑をご覧になりましたか。あれは1928年に建てられました。オスマン・トルコは第1次世界大戦で敗北したため、戦勝国のイギリスやフランスによって領土をむしりとられた。さらに、英仏の後押しでギリシャが小アジアに攻めこみ、当時スミルナとよばれていたイズミルなどエーゲ海沿岸の地域を占領しました。攻め込んできたギリシャ軍を1922年に追い払い、領土を確定し、スルタン制を廃止して、1923年にトルコ共和国を成立させたのがケマル・アタテュルクです。アタテュルクと彼の同志の群像が彫像になっているタクシム広場の共和国記念碑は、スミルナで宿敵ギリシャを撃破したことを国民の記憶にとどめるための戦勝記念碑であり、同時にまた、トルコが偶像崇拝を禁じたイスラムのくびきからも解き放たれたことを宣言する記念碑でもあるのです」
    「スミルナの戦いはそうとう凄惨だったようですね」
    槙村が言った。
    「凄惨を通り越して阿鼻叫喚の地獄だった、と語り継がれています。追いつめられたギリシャ軍はスミルナから逃げ出しましたが、スミルナの住人やスミルナに逃げ込んできたギリシャ系やアルメニア系の民間人は逃げ場を失い、一説によると何万という人がトルコ軍によって殺されたそうです。トルコ軍はスミルナの街に火を放ったともいわれています」
    「そうですか。ギリシャ側からみれば、共和国記念碑とはまた違った物語になるわけですね」
    槙村が言った。
    そのとき、深川が、
    「あ、槙村さん、いまホテルの従業員となにやら話している男、あれがピーター・ケーブルです。いまご紹介しましょうか」
    と言って立ち上がろうとした。その男はホテルのバーから庭に出るドアの近くに立っていた。
    槙村が深川を押しとどめた。
    「それは後日あらためてまたお願いできますか。今日は少々疲れましたので」
    「そうですか。そうしますか。では、私はそろそろ失礼しましょう。ぐっすりお休みください。明朝10時に私の助手のアスムを差し向けます。英語と日本語ができる信頼できるトルコ人です。私がトルコに来る前からうちの通信社で働いています。町の案内役にでも使ってください」

     

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