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2019.02.22 Friday

『だまし絵のオダリスク』    第9回

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    槙村は深川の助手アスムをともなって5月16日金曜日、まずイスタンブール保安本部のイケメン・メフメト外事課長とイスタンブール警察本部のオメル・アシク警部を尋ねた。イケメンとオメルとの再会はそれぞれお互いの壮健を確認するだけの内容のないものに終った。ただ、槙村はオメルが語ったチチェキの母親からの聴き取りに興味を覚えた。チチェキはイスタンブールで繊維製品を扱っているユダヤ系トルコ人の貿易商に気に入られ、求婚までされていた。それなのに、日本からきた素寒貧の外交官と一緒になって東京へ行って住むのだ、と娘が言い張った――母親が憤懣やるかたない口調でそう語ったというのである。槙村がその母親に会ってみたいというと、オメルが部下の1人を案内役につけてくれた。
    チチェキの母親は金角湾沿いのユダヤ人が多く住むバラット地区に住んでいた。槙村が借りあげたハイヤーは新市街から旧市街に向かってガラタ橋を渡った。ガラタ橋は浮橋だった。浮き箱(ポントゥーン)を並べて架橋する軍事目的の応急の橋は昔からあり、とくに珍しい技術ではない。ヘロドトスの『歴史』によると、ペルシャのクセルクセスの軍勢がギリシャを攻めるにあたって、ダーダネルス海峡に舟を並べて2本の浮橋を架け、何万もの大軍をアジアからヨーロッパへ渡らせたそうである。
    だが、長期間にわたって民生用の橋として使う目的で幅30メートル弱、長さ500メートルほどの鉄製の浮き橋がかけられ、その上を路面電車や自動車が行き来しているのは珍しい風景だった。浮橋が建設されたのは、金角湾の底には泥の層が30メートル以上も堆積していて、橋脚を建設するのが困難だったからだ。
    車がガラタ橋を渡りきったところにイェニ・ジャーミーがあった。そのモスクの前で車は右折し、金角湾を右手に見ながら湾の奥の方へ向かった。テオドシウスの城壁が金角湾とぶつかる手前あたりがバラットだった。
    「槙村中佐。イスタンブールには、この街がコンスタンティノープルと呼ばれるようになる前からユダヤ人が住み着いていました。しかし、ユダヤ人のイスタンブール定住が促進されたのは、メフメト2世がコンスタンティノープルを征服し、その後ヨーロッパへ向かって帝国の領域を拡大していったころからです。テッサロニキ、ブルガリア、マケドニア、アルバニアからハンガリア、さらにはスペインからもユダヤ人がイスタンブールに移住してきました。東欧から来たユダヤ人がアシュケナジム、スペインから移住してきたのがセファルディムです。移住してきたユダヤ人たちはバラットのほか、金角湾をはさんでバラットの対岸にあるハスキョイやガラタ、ボスポラス海峡沿いのオルタキョイ、さらにはボスポラス海峡を渡ったアジア側のユスキュダラなどに住みつきました。いま車が走っているあたりがフェネルで、以前はギリシャ人が多く住んでいた地区でした。ここを抜ければバラットはもうすぐです。かつてはバラットには20近いシナゴーグがあったそうですが、いまでは少なくなりました」
    アスムが槙村に説明した。
    同行していた警官が運転手に車をとめるよう指示した。警官がアスムにトルコ語で何かを告げた。
    「ここで車を待たせて、少し歩くそうです」
    アスムが槙村に言った。
    石畳の道の両側に木造3階建ての、日本風にいえば長屋のような建物が続いていた。建物の板壁はすでに塗りがはげていた。曇り空の乏しい光が生活のわびしさをより強く感じさせた。二階や三階の出窓の下から洗濯物干し用のポールが何本も路地の上に突き出ていていた。色あせてくすんだ洗濯物が干してあった。
    路地は土を固めその上に石を敷いただけの簡易舗装だが、敷石が剥れてあちこちにくぼみができていた。路上では子どもが大きな声をあげてはしゃいでいた。その姿を道路端の老人と黒猫がぼんやり眺めていた。
    荒れた石畳の道を右に折れると、その先に今度は石造りの2階建て、3階建ての建物が続いた。
    警察官は石造りの3階建ての家に入り、まもなく初老の男をともなって出てきた。
    「この人が大家さんです。チチェキの母親の部屋に案内してくれます」
    警官が言った。
    チチェキの母親は大家の隣のフラットの1階に住んでいた。居間の窓は小さく、明かりもつけていなかったので、室内はうす暗かった。だが、チチェキの母親はかつての美貌がはっきりとわかる面立ちであることが見てとれた。
    チチェキもおそらくはこの母親の20数年前の容姿そっくりだったのだろう。彼女は不機嫌そうな顔つきで、しかし、大家と警察官の手前、しぶしぶ槙村たちを居間に招き入れた。警官とアスムが交互に訪問の用件を説明した。チチェキの母親が口を開いた。刺のある口調だった。
    「あの男は娘を使って、危ない情報集めをさせていた。ドイツやロシアやトルコからね。そのうえ、チチェキがユダヤ系ということでここのシオニストたちの動向も探らせていた。娘がそう言っていましたよ。いやな仕事だけれど、それさえ終われば好きな男と日本で暮らせる――なんて馬鹿ばかしいことをね。あなたの親類の若い男と出会ってさえいなかったら、チチェキは死ぬこともなかったでしょうに。せっかく金持の貿易商から結婚の話があったというのに」
    「チチェキさんに危ない情報集めをさせたという、あの男というのは日本人の男ことですか」
    槙村が聞いた。
    「ちがいますよ。チチェキが日本人の男とつきあい始めるまで親しくしていた男ですよ。新聞の特派員でイスタンブールに来ている男。スパイもやっているといううわさのあるイギリス人です」
    「そのイギリス人の名前はピーター・ケーブルですか」
    「ええ。そんな名前でした」
    「チチェキさんはそのピーター・ケーブルというイギリス人のスパイの手伝いをさせられていたのですか。どんなことをやらされていたのですか」
    「チチェキにダンスの相手を頼んできた男が踊りながらチチェキの耳元で数字をささやく。そうするとチチェキのほうは前もって聞かされて数字を男に伝える。娘はそういっていましたよ。だけどね、その数字が何のことかチチェキにはかいもく見当がつかなかった」
    「ほかには」
    槙村が言った。
    「ときどき散歩のお供をさせられるといっていた。それが退屈な散歩でね。何が面白いんだろうねえ。いつも決まった道ばかり歩いていて。イスティクラルからペラ・パレス・ホテル、ガラタ橋を渡ってシルケジからスルタン・アフメト・ジャーミーへ行く道順だったそうです。週末の午前中が多かったと娘はいっていましたよ」
    「いまのことは警察にも話してやったのですか」
    槙村がたずねた。
    「話しましたよ。尋ねられれば答えるしかないでしょうが。いまではしがない下層の女なんですから」
    チチックの母親は口をゆがめてかすれた声で言った。
    「チチェキさんが日本人の男とつきあいだしたのはいつごろからですか」
    「1年ほど前からだった。娘が死ぬことになった1週間ほど前に、あたしは娘のアパーへ行ったんです。そしたらチチェキが日本へ行くかもしれない、と言った。冗談をお言いでないよと、娘を問い詰めてわかった。日本に行くときは私のためにまとまった金を残しておく。チチェキはそう言ってましたけどね。あのときチチェキは日本の男と1年ほど前からつきあっていると私に言いましたよ」
    「ピーター・ケーブルという名前以外に、娘さんからイギリス人、あるいはドイツ人、シオニストたちの名前をお聞きになったことはありますか。外国人がしばしば娘さんと会ったり、娘さんのフラットを訪れていましたか」
    槙村がたずねた。
    「そんなこと、あたしが知るわけがないでしょうが。あれだけの器量良しだったから、言い寄る男はごまんといたでしょう。最近の娘の様子については、あたしよりも、ボスポラス・サライとかいう店に集まる常連さんの方が良く知っているはずだわ。そっちで聞くといいわ」
    チチェキの母親はそういうなり黙りこんでしまった。
    槙村は立ち上がって礼を言い、建物を出た。
    槙村は前回3月にイスタンブールに来たとき、イスタンブールの旧日本大使館庁舎、アンカラの大使館、田川の宿舎などで彼の遺品の整理に立ち会った。大使館員がすでに田川の業務日誌や郵便物などの通信記録を調べていた。田川の私物についてもあらまし整理ができていた。だが、それらの遺品には田川の死の理由とつながりそうな手がかりはなかった。
    遺品のなかに田川の日記帳、卓上式写真額、お守り袋があった。額の写真にはアメリカで交通事故死した田川の両親と、幼い田川の3人が写っていた。お守り袋は槙村がベルリンへ発つとき母親がくれた厄除けのお守り袋と同じ袋だったので、槙村の母が孫のイスタンブール行きにあたって与えたものだろう。
    日記は茶色の革表紙のA5版サイズのやや厚めのノートブックだった。そのノートに田川が昨年12月ごろ書き込んだメモに「花子」の名があった。「花子、贈り物」といった心覚え程度のそっけない記述だった。花子とはたぶんチチェキのことだろう。チチェキとおもわれる人名が書かれているのはそこだけだった。
    チチェキが母親に、田川とともに日本へ行くつもりだと言っていたわりには、田川の日記にはチチェキの存在感が希薄だった。日本が米英を中心とした勢力と対立を深め、国際的な孤立の道を突き進んでいるときに、外国の女性を日本に連れ帰り妻にしようと決意した若い外交官の、なにかしら気持の昂ぶりのような独白が書き込まれていて当然なのにと、槙村は不思議に思った。
    槙村はベルリンに帰ってからもときどき田川のメモを読んでいたが、新しい発見はなかった。田川とチチェキの接点についてはわからないままだった。

     

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