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2019.03.09 Saturday

『だまし絵のオダリスク』   第10回

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     朝食をすませて槙村はロビーで『イスタンブール・ガゼット』の見出しをながめていた。ルドルフ・ヘスのイギリスへの逃亡についての続報を探していた。5月17日土曜日だった。
     ピーター・ケーブルがパーク・ホテルの玄関でホテルの従業員に声をかけ、しばらくのあいだ立ち話をしていることに、槙村は気がついた。ピーターは従業員の肩をかるくポンポンとたたいてわかれた。
     槙村は発作的に椅子から立ち上がり、ピーター・ケーブルの後を追った。チチェキの母親から前日聞かされたピーター・ケーブルの長い週末散歩のことが頭をかすめたからだ。
     ピーター・ケーブルはホテルの隣の旧ドイツ大使館の方をちらとうかがったあと、タクシム広場へ向かってギュミュシュ・スユの坂をいかにも朝の散歩らしく、ゆったりとした歩調で登っていった。
     昨日の曇天とはうってかわった明るい朝だった。坂道の下にはボスポラス海峡が空の青に染まって輝いていた。海峡の向こうに広がるアジア側の丘陵と海岸沿いの建物もくっきりと見えた。空気が澄んでいるからだ。槙村はピーター・ケーブルの後をゆっくりと歩いた。
     坂道を登り終えてタクシム広場に出たピーター・ケーブルは、屋台の花売りのおばあさんから槙村が名前を知らない黄色の花を買い、キオスクにも寄って雑誌を1冊買った。タクシム広場は近代化を模索する新生トルコ共和国最大の都市イスタンブールの新しい中心になり始めていた。オスマン帝国のスルタン・マフムト一世が一八世紀中葉、ここに生活用水の配水場を建設したのがタクシム広場の始まりだといわれている。のちにここには兵舎や軍の演習場、墓地なども造られた。ケマル・アタテュルクがオスマン朝を崩壊させた後、これらの施設は取り払われ、跡地には競技場と広場がつくられた。タクシムとは分割・分配を意味するアラビア語起源の言葉で、配水場が広場の名前の由来だ。
     時刻はまだ午前10時ちょっと前だったが、さすがに5月も半ばをすぎると晴れた日のイスタンブールの日差しは強い。ピーター・ケーブルはタクシム広場で共和国記念碑をちらりと見やり、イスティクラル通りへ向かって急ぐ様子もなく歩いていった。
    イスティクラル通りは、ベルリン子がクーダムと短く呼びならわしているクルフュルステンダム通り、パリのシャンゼリゼ通り、ニューヨークの5番街、東京の銀座にあたるイスタンブールの目抜き通りだ。レストラン、菓子屋、バー、カフェ、ナイトクラブ、ダンスホール、衣裳店、劇場など歓楽と消費の施設ばかりでなく、イギリス、フランス、ソ連、アメリカ合衆国、オランダ、ベルギー、スウェーデンなどの旧大使館庁舎が周辺に建ち並んでいる。
     イスティクラルとはアラビア語起源の言葉で独立を意味する。通りの名はケマル・アタテュルクのトルコ革命後に命名された。それ以前はペラ大通りと呼ばれていた。イスティクラル通りに沿って広がる地域はオスマン帝国時代以前のビザンティン時代からペラと呼ばれてきた。ペラは「〜の向こう」というギリシャ語である。都の中心部だった旧市街のビザンティウムから金角湾を越えた向こうにある土地のことだった。オスマン時代になるとやがてここはベイオール(貴人の息子)とよばれるようになった。その由来はベイと尊称でよばれる貴人の息子がここのあたりに住んでいたことがあるからだと伝えられているが、それが誰だったかについては諸説があって定かではない。
     イスタンブールはビザンティン時代・オスマン時代を通じて多民族が住み着いた国際都市だった。オスマン帝国末期のころにはベイオールは人口の半分が外国人だといわれるほどの国際色豊かな街区になり、ロシア革命後には革命から逃れて国外に脱出してきた白系ロシア人も多く住みついた。
     土曜日午前中のイスティクラル通りには、そういったコスモポリタンやディアスポラの哀愁が醸しだすエキゾティシズムと前夜の退廃にみちた歓楽の名残が入り混じり、滓のようになって漂っていた。ピーター・ケーブルはイスティクラル通りをテュネル広場に向かって歩いていった。タクシム広場からテュネル広場までは1キロ半ほどの距離だ。
    槙村は2、30メートルの距離を保ちながらピーター・ケーブルのあとをつけた。ピーターはあたりを見回すこともせず、振り返ることもなかった。自分が尾行されていることなど想像もしていない無防備な歩き方だった。
    やがてピーターがサンタマリア・ドゥラペリス教会の前の十字路を右に折れた。ピーター・ケーブルが向かった先はペラ・パレス・ホテルだった。
     ペラ・パレス・ホテルは応急修理をして、とりあえず営業を再開してはいるものの、3月の爆発事件の傷跡はまだ建物のあちこちに残っていた。ピーターはフロントの係りに話しかけた。フロントが笑顔で対応していた。
     しばらくして30歳ぐらいの背の高い、イギリス人を思わせる面立ちの女性がロビーに現れて、笑顔でピーター・ケーブルに手を差し出した。ピーター・ケーブルはその手を握りかえし、黄色の花束をわたした。
     やがて2人はペラ・パラス・ホテルの玄関を出て、イスティクラル通りにもどり、テュネルの駅に向かって歩いた。テュネルの駅で2人は地下ケーブルカーに乗ってカラキョイへと下っていった。
     イスティクラル通りは金角湾やボスポラス海峡から急な坂道を登った丘の上にある。1875年にこの地下式のケーブルカーが建設された。途中に駅はなく2点を結ぶだけの短い地下鉄道だが、地下鉄であることに変わりはなく、地下鉄としてはロンドンに継ぐ世界で2番目に古いものだ。
     テュネルを降りるとピーター・ケーブルは連れの女性と肩を並べてガラタ橋に向かった。路面電車や大型自動車が橋を渡ると、浮橋であるガラタ橋が揺れるような気がした。
     ガラタ橋を渡るとそこは旧市街のエミノニュだ。イェニ・ジャーミーが威容をみせ、その直ぐそばにエジプシャン・バザールがある。
     ピーター・ケーブルがイェニ・ジャーミーの中へ入っていった。女はエジプシャン・バザールの人ごみを眺めながらモスクの外で待った。観光客相手のお土産売りが女に近づき、スカーフやネックレスを見せたが、女はニッコリとわらって柔らかに勧誘を断った。
     モスクの中は数人がお祈りをしているだけでがらんとしていた。ピーター・ケーブルはモスクの壁際に立って上方のドームをしばらくながめていた。やがて女が1人接触して来た。ピーター・ケーブルが接触した女には、薄暗いモスクの遠目の観察だが、ヨーロッパの服装を着ていながらどこか中東の雰囲気が漂っていた。2人は短く言葉を交わしたあと、モスクを出た。
     槙村はモスクの中の弱い光から明るい外へ出たとき、一瞬目がくらんだ。そのとき、モスクの外の数人の男が槙村に鋭い視線を向けていることに気づいた。
     ピーター・ケーブルら3人はガラタ橋のたもとから路面電車に乗った。イスタンブールの路面電車は19世紀後半に馬が引く軌道馬車として始まり、第1次世界大戦の数年前に電化された。ピーター・ケーブルたちは車両の前方に乗り、槙村は後方の席に座った。ピーター・ケーブルたちはスルタン・アフメト・ジャーミーの近くで電車を降りた。
    ブルー・モスクの入り口で中東風の女は首にまいていた薄い絹のスカーフを頭からかぶった。もう1人のイギリス人らしい女はスカーフを持っていなかった。入り口の係りがピーター・ケーブルにきちんとたたんである布を手渡した。ピーター・ケーブルがそれを広げて女に渡した。女はそれをかぶった。
     ピーター・ケーブルたち3人はしばらくドーム内部の青いタイルをながめ、広い床に敷きつめた絨毯に頭をこすりつけてお祈りする人たちを見ていた。
     ピーター・ケーブルたち3人は出口へ向かった。ピーター・ケーブルが女からスカーフを受け取り、それを丁寧に折りたたんで、出口に立っている男に渡した。ひょっとしてピーター・ケーブルがスカーフに何かを包んで男に渡したのではあるまいかと疑い、槙村はその男の顔を記憶にとどめた
     3人は急ぐでもなくぶらぶらとエミノニュのフェリー乗り場へ向かって歩いた。
     フェリー乗り場で3人はアジア側へ渡るフェリーに乗った。3人に続いて船に乗ろうとしたとき、槙村は2人の男に両腕を抱えこまれた。
    「失礼ですが、イケメン・メフメト保安課長がお目にかかりたいといっています」
    男の1人が低い声の英語で言った。

     

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