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2019.04.01 Monday

『だまし絵のオダリスク』   第12回

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    イケメン・メフメトは槙村が去ったあと、両手で後頭部を支えながらしばらくオフィスの天井を眺めていた。やがて電話をとりあげて、イスタンブール警察本部のオメル・アシク警部と話し始めた。
    「きのう槙村中佐をチチェキの母親のところへ案内した君の部下は、槙村中佐について何か変わった点を報告しなかったか」
    「彼の観察では、中佐とチチェキの母親との話の内容や、中佐の態度にはとくに不自然なものは感じられなかったそうだ」
    オメル・アシクがイケメン・メフメトに言った。
    「信頼できる警官かな」
    もちろん。部下の中でも腕っこきの男だ。例の山羊髯の東洋人の身元調べも担当させている警官だ」
    うちでも調べているが、そっちのほうは何かあたりがあったかい?」
    イケメンが尋ねた。
     チチェキと田川が死体で発見された3月5日の前々日、つまり3月3日、イスタンブールの空港で東洋人の男が中華民国のパスポートで入国した記録があった。警察は念のため入国管理の職員に槙村の写真を見せた。その中華民国のパスポートで入国した男は、眼鏡をかけ山羊髯を生やしていた、と入国管理の職員は言った。その中国人は田川の死体が発見され日の朝、イスタンブール空港から出国している。
    「この男が日本によって差し向けられた殺し屋ではないかと君が疑う理由はなんだね、イケメン」
    オメルが揶揄するような口調で言った。
    「そやつが日本の殺し屋だったとすると、この殺人事件の真相はいまわれわれが考えているものとは全くちがう方向へ展開して行く可能性がある。田川とチチェキは日本が放った殺し屋によって処分されたという筋書きになる。合理的かつ実証的な捜査のベテランである君から見ると、実にばかばかしいことだろう。だが、なぜ槙村中佐がこの時局多難なおり、甥の殺害事件だとはいえ、彼に捜査ができるわけでもないイスタンブールにまたぞろ現れたことを私は奇妙に思っているのでね。そもそも日本をとりまく状況を思えば、ベルリン駐在の武官がイスタンブールでふらふらしている時間などないはずだ。彼がイスタンブールを再訪した理由は、日本の外交官殺人に日本政府あるいは日本軍の複雑な内部事情が絡んでいるためではあるまいか――わたしはふと思い浮かんだ直感を大切にするほうなのだ」
    イケメンの口調は真剣だった。
    「君の息子のオルファンも君の夢想的なところを引き継いでいるようだな。小学校で同級の僕の息子が、オルファンは昼間から夢を見ていてなかなか覚めない、といっていたよ」
    イケメンの返事に、オメルが笑いながら反応した。
    「そうかい。ところで奥さんとはうまく行っているかい」
    「なんとかね。ところで、わが方の夫婦仲をお訪ねになる君の方こそどうだね」
    「うん、浮気は感づかれているが、まだわかれるところまではいっていない。それはともかく、山羊髯の身元を確認してくれないか。そうしないと、どうも気持がおちつかない」
    イケメンはオメルに穏やかな口調で言って電話を切った。
     イケメンが受話器を置いて間もなく電話が鳴った。受話器をとると国会議員の父親からだった。首都アンカラからイスタンブールに帰ってきたので、今夜晩飯をいっしょに食おう。家族みんなを連れてレストランに行こう、という内容だった。
     イケメンの祖父はオスマン朝の高官だった。オスマン朝の崩壊で地位は失ったが、巧妙に立ち回って資産を保全した。その資産で祖父はイケメンの父親と貿易会社を始め、祖父の死後、父親は国会議員になった。祖父と父親の人脈と資産でイケメンはドイツのミュンヘン大学で優雅な留学生活を送り、帰国後、イスタンブールで弁護士事務所を開いたが、弁護士商売の方はあまりはやらなかった。エムニエトの幹部だった父親の友人に誘われて情報機関の仕事をするようになった。
     情報機関の仕事そのものは、イスタンブールで開業したばかりの新米弁護士が依頼されるような仕事にくらべると刺激があって面白かった。だが、情報機関には政治情報の分析だけでなく、秘密工作という暗い仕事を担当する部門があった。やがてそうした工作部門から漏れ伝わってくる非情な話がイケメンの気持を暗くした。イケメンの妻は彼女の一族が経営する船会社の役員を務めている。彼女は情報機関の仕事を辞めてもとの弁護士の仕事にもどるようイケメンに言うのだが、イケメン自身は辞めるにしても、今度の戦争で見舞われているトルコの危機が去らないうちに、この仕事を放りだすのは卑怯だという思いにもとりつかれていた。
     イケメンは父親と夕食の約束をし、妻にもそのことを電話で連絡した。

     その夜、槙村は深川の紹介でパーク・ホテルのテラスでイギリスの新聞特派員ピーター・ケーブルと会った。さすがにイスタンブールはベルリンより暖かく、5月ともなれば東京と同じで、もはや夜の外気が身にしみるということはなかった。テラスの向こうには暗いボスポラス海峡とマルマラ海を航行する船の灯りがちらついていた。黒海からやってきてイスタンブールへ入港する大型客船の盛りたくさんの電飾もあった。目の下のヨーロッパ側の海岸線にはにぎやかな光があった。対岸のアジア側の光もかすかに見えた。
    「田川さんのことはお気の毒だった。あなたのお気持はわかる。私もチチェキを失うことになって残念だ。あなた同様に、今回の不幸な出来事については私もこれという心当たりがないのです」
     ピーター・ケーブルはとがった鉛筆のように細身の男だった。話し方から生まれや育ちのよさが感じられた。彼は父親が外交官だったのでドイツで子ども時代を過し、ケンブリッジ大学を卒業した後、ドイツの大学でドイツ政治を勉強したことがあった。そういうわけで、槙村とピーター・ケーブルはドイツ語で話した。
    「チチェキ嬢と田川がどういう風にして知り合ったのか、どんなつきあいをしていたのか、もしかしてご存知では?」
    「もし私がそのことを知っていたら、まずなによりもチチェキをわが方に取り戻すべく懸命な努力をしたでしょう。彼ら2人がどのようにして知り合い、どんな関係にあったのか、何も知らなかった」
    「チチェキ嬢の母親と昨日の午後、会いました。ケーブルさん、あなたはチチェキ嬢の母親とお会いになったことは?」
    「いえ、一度も会ったことがありません」
    「チチェキ嬢の周囲には田川のほか、イギリス人やドイツ人、それにシオニストの影がちらついていた、と母親は言っていました。ケーブルさん、あなたはそうした影に心当たりはありませんか?」
    「人間はひとりで生きているわけではありませんから、その周囲にはおのずと人の影がつきまとわります。チチェキは魅力的な女性だったから、その分ちらつく人影は多かったでしょう」
    「わたしはね、イスタンブールの国際情報戦争のなかでチチェキ嬢が何かの役割を占めていたのではなかったかという気もしているのです」
    「たしかにイスタンブールはスパイが跳梁跋扈している土地です。私が日常接触する人々の中には、だれそれはドイツのスパイだから気をつけろ、あいつはイギリスのスパイだが裏でトルコ政府に情報を流し、その情報をドイツや、金次第でソ連にも売っている、などと無責任な噂を流す輩がいます。そうした連中も何らかのわるだくみがあって、噂を流している、というわけです。イスタンブールで真実を探すのは河原で砂金を集める以上に根気のいる仕事です」
     ピーター・ケーブルの口元に笑いが見えた。槙村にはその口元の笑いが、彼に対するあざけりとも、ケーブルの自嘲のようにも見えた。
    「ケーブルさん、あなたはチチェキ嬢と結婚のお約束でもなさっていたのですか」
    「いいえ」
    「チチェキ嬢のフラットの家賃はあなたがご負担なさっていた?」
    「チチェキには愛人役の謝礼として毎月きまったお金を渡していましたが、その金はそっくりチチェキが母親に渡していたようです。ですから、あのボスポラス海峡が眺められるフラットの家賃はチチェキが自分の才覚で支払っていた。そのあたりはチチェキの個人的な事情なので深く尋ねもしませんでした」
     ふと気がつくと給仕が近くに立っていて、何かおかわりでもいかがと尋ねた。
    「ブランデーとコーヒーを頼む」
    ピーター・ケーブルが言った。槙村はチャイを頼んだ。ホテルのレストランやバーの窓に人影がちらついていた。室内のやわらかな灯りがふと槙村にモニカ・コールのことを思い出させた。
     

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