<< 『だまし絵のオダリスク』    第13回 | main | 『だまし絵のオダリスク』   第15回 >>
2019.05.01 Wednesday

『だまし絵のオダリスク』   第14回

0

     

          

     

     5月18日の日曜日、槙村はアンカラに向かった。イスタンブールのハイダルパシャ駅から夜行列車に乗って寝台車で一晩眠れば、19日の月曜日午前中にアンカラに着く。
     イスタンブールのヨーロッパ側を出たフェリーが対岸のアジア側の埠頭につくころ、西に傾いた陽をうけて、海岸から海に突き出た壮麗なハイダルパシャ駅の茶色の壁面が赤みをおびて輝いていた。駅舎としては、西欧に向けたオリエント急行のターミナルであるシルケジ駅よりも、アジア・中東に向けて開いたハイダルパシャ駅のほうがはるかに力感にあふれている。それは威容という言葉がぴったりだ。
     ハイダルパシャの駅舎を設計したのはヘルムート・クノとオット・リッターの2人のドイツ人建築家だ。1906年に着工、2年後の1908年にネオ・ルネサンス様式のこの駅舎を完成させた。
     ハイダルパシャ駅の敷地はマルマラ海沿いの軟弱な地盤だったので、長さ20メートルほどの材木を使って、千本を超えるパイルを打ち込んだ。ハイダルパシャ駅のファサードはドイツ人とイタリア人の石工が飾った。
     まるで海の上に浮かんでいるように見えるハイダルパシャ駅はいまや、東ローマ帝国時代やオスマン・トルコ時代の歴史的建造物にひけをとらない、イスタンブールの風景に欠かせない存在になっている。この建物の壮麗さはドイツ帝国が中東地域へむけたぎらぎらする野望の反映であった。
     19世紀末、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオスマン・トルコのスルタン・アブドゥル・ハミト2世に接近し、ハイダルパシャとアンカラを結ぶ鉄道の敷設権を手に入れた。中東へむけて勢力拡張をもくろむヴィルヘルム2世は、さらに、当時まだオスマン・トルコ帝国の領域だったバクダッドに至る鉄道敷設権もあわせて獲得した。
     カイゼル髭で日本でも有名だった膨張主義者ヴィルヘルム2世がトルコに向ける視線は熱く、皇帝(カイゼル)はトルコ訪問にあたって、ヒッポドロームにアルマン・チェシュメシ(ドイツの泉)とよばれる泉亭を建て、これをスルタンに贈っている。
     ハイダルパシャ駅はベルリンからビザンティウムを経てバクダッドを結ぶ3B政策、つまりはドイツ帝国の中東への野望の象徴である、とイギリスやロシアは警戒していた。
     しかし、野望はお互いさまだった。イギリスはそのころケープタウンからカイロを経てカルカッタに至る3C政策で世界制覇を企画していたし、ロシアは虎視眈々とアフガニスタンやペルシャへ南下する機会をうかがっていた。このため、インドを植民地にしていたイギリスは、ロシア相手にトルキスタンの高原で古典的諜報戦「グレートゲーム」を繰り広げていた。ラドヤード・キプリングの『キム』の世界である。
     槙村は見送りに来てくれたイスタンブール駐在の日本大使館員、別所剛三とハイダルパシャ駅の天井の高い気持のよいレストランで軽い食事を済ませた。プラットフォームまでつきあってくれた別所と車両の前で別れた。コンパートメントに入ってしばらくすると、軽い揺れがあり、列車がハイダルパシャ駅を離れていった。
     列車が動き出してしばらくは薄暮のなかに町の灯りが点々と見えていたが、やがてその灯りもまばらになり、列車の窓の外は濃い闇につつまれていった。
     夜空に星が見え始めた。槙村はコンパートメントの寝台に横になり、明日からアンカラでやらねばならないことを手帳に箇条書にしてみた。さして意味ある結果を期待できるような作業とは思えなかったが、ぬかりなさを価値とする役所仕事の手順として踏んでおくべき事柄だった。作業手順のあらましを手帳に書きとめおえて、槙村は眠気を誘い込むために列車の振動に身をゆだね、羊を数える代わりに、海軍暮しで身につけた就眠儀礼を始めた。
     海軍といえども平時の洋上勤務は退屈な毎日の繰返しで、当直勤務からはずれた夜は眠るぐらいしかやることがなかった。どうやって寝つくか。海軍軍人はそれぞれの就眠儀礼を持っていた。国鉄東海道線の駅名を東京から神戸まで数えるやつ、般若心経を繰返し声にはださずとなえ続けるやつ、枕草紙の記憶や自ら体験した濡れ場のシーンのページを頭の中でめくるやつ――これなどはかえって寝つけなくなるのではなかろうか。
     槙村のそれは銭湯談義風に世界史の中を漂い、その愚行の繰返しに苦笑しつつ眠気を呼び込む方法だった。列車の振動の中でいま槙村はその就眠儀礼を試みている。
     ――ヒトラーが率いるドイツはイタリア、日本と三国同盟を結んでヨーロッパを席巻している。ドイツはすでにブルガリアにまで勢力圏を拡大し、トルコを陣営に組み込む機会をうかがっている。ドイツは再びさまざまな利益誘導でトルコを自陣営に引き入れ、さらにはトルコを通過して中東への進出をねらっている。これはカイゼルの時代の3B政策の再現だ。
     かつてドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗して、ロシア、フランス、イギリスが三国協商を結成した。相互の反目はやがて第1次世界大戦へとなだれこんでいった。
     オスマン・トルコがイギリスのアームストロング造船所に発注していた戦艦スルタン・オスマン1世が、1914年、トルコに引き渡される直前になって英国政府に接収されたことがあった。もともとこの戦艦はブラジルが発注し、建造の途中でブラジルがトルコに転売したものだった。それを今度は第1次世界大戦にむけて英国が自国海軍の戦艦として使用することことにしたのだ。トルコに反英感情が沸騰した。これをドイツがうまく利用した。ドイツは巡洋艦2隻をトルコに派遣した。2隻の軍艦はイスタンブールの金角湾に到着した。軍艦が入港するとドイツはこの2隻をトルコに売却することにしたと、大宣伝した。こうしてドイツはオスマン帝国を味方に引き入れ、同盟国として第1次世界大戦に参加させることに成功した。だが、この参戦がオスマン帝国の命取りになった。
    「歴史は繰り返す」と最初に言ったのは、『アレクサンドロス大帝事蹟』を著したクィントゥス・クルティウス・ルーフスで、彼の死後さまざまな人が同様な趣旨の言葉を繰り返した。カール・マルクスは、おそらく彼が書いた本のなかで一番面白い『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の冒頭で、世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるものだとヘーゲルがどこかに書いていたが、私に言わせれば、ヘーゲルは、「最初は悲劇として、二度目は茶番として」と付け加えるのを忘れた、と書いている。
     結局、人間は数限りない茶番を繰り返し、それを歴史とよんでいるのだ。時の権力者とその取り巻き連中の頭の中に巣くっているのは陣取りゲームの図面だ。その図面を権力者たちはマンダラ(涅槃図)とよび、その実現を唱えて人をかり集める。古代エジプト第19王朝のラムセス2世は当時のエジプト人の平均寿命の倍近い80年以上を生きたといわれている。だが、その長い人生のほとんどを、領土拡張と戦争のためについやした。パレスティナをめぐってヒッタイトと争い続けたが決着はつかなかった。そこで平和条約を締結して休戦。大勢の女性に200人近い子どもを産ませた、と伝説は言う。アブシンベルに神殿をつくり自らの巨大な石像を刻ませた。ラムセス2世の号令で戦の場に駆り立てられた兵士もまた、命をかけたゲームの興奮に酔いしれて、前後不覚の状態になっていたのだろう。巨人とその巨人を尊崇するその他大勢の大行進。その懲りない繰り返しが歴史なのだ。もっとましな人生もあったろうに、もったいないことだ。
     ……やがてめでたく槙村は眠りに落ちていった。

    コメント
    コメントする