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2018.05.19 Saturday

『ペトルス――謎のガンマン』  第3回

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    5月18日午後、ウブッド郡プリアタン村


     バリ島の中央部には標高2000メートルほどの火山脈が東西に走っている。最高峰は東の端に位置する火山グヌン・アグンで標高3000メートルちょっと。最近では1963年に大噴火をしている。そのときは1500人を超える人が死んだ。
     島の中央部に山塊があるので、島の東西南北は山裾になっている。この山の斜面を伝って無数の川が海に向かって流れ下っている。川は長い時間をかけて山肌を削り、深い渓谷を形づくった。これらの渓谷を熱帯の稠密な森が覆い隠している。
    こうした地形なのでバリの山麓から山腹にかけては、海側から山側へ、山側から海側への縦の移動の道路は何本もあるが、横に移動する道路は少ない。渓谷にかかる橋が少ないからだ。多くの場合、山腹のある地点から山腹の別の地点に移動するには、一度平地まで降りてきて、そこで橋を渡って横に移動し、しかる後に再び山道を登っていくしかない。
     バリ島の南斜面には豊かな農地が広がっている。ウブッドはこの南側斜面西寄りにある地域だ。広義のウブッドは行政的にはバリ州ギアニャール県ウブッド郡のことをいい、狭義にはウブッド郡ウブッド村をさす。デンパサールの街からは田舎道を――田舎道だから当然ゆっくり走らざるをえない――車でのんびり走って一時間弱の距離だ。
     午後1時。風が緑の葉をゆらす木陰か、冷房を効かせたオフィスでバリコーヒーでもすすって暑さを避けたい時間帯に、イダ・バグス・ライ警視の一行はデンパサールのW・R・スプラトマン通りの州警察本部からウブッドに向かって出発した。警視と部下の刑事が一人、それに鷹石が乗った捜査車両が先導し、そのあとを倉田夫妻と和田を乗せたリムジンが追った。午前中に体調を崩した倉田伊津子は、ホテルで2時間ほど休んだおかげでだいぶ回復したので、娘の沙代が暮らしていた家をどうしても見ておきたいと、ウブッドに行くことをのぞんだ。
     バリ・ヒンドゥーの神々や悪霊を砂岩に彫った石像製作で有名な村・バトゥブランは、ちょうどデンパサールとウブッドの中間にある。道路端の工房の前に、石像がところせましと並べられている。倉田伊津子の体調を心配した警視はこの村で車を止め、リムジンの倉田夫妻に、
    「少し休みますか、それともこのままウブッドに直行しますか」
    と声をかけた。
    「あとどのくらいでウブッドですか」
    倉田伊津子がたずねた。
    「20分ほどです」
    「では、直行していただけますか」

    2台の車はウブッドの中心で、いつもならにぎやかなはずのウブッド郡ウブッド村のジャラン・ラヤ・ウブッド(ウブッド大通り)を抜け、アンドン大通りとの交差点を右折して、プリアタン大通りに入った。このあたりからはウブッド郡プリアタン村でウブッド村とは別のデサ・アダット(慣習村)なのだが、外国人観光客はもとより、同じインドネシア人でもバリ島以外から来た人は、ウブッド村とプリアタン村の区分などにはなんの関心も示さない。ウブッド郡の中はすべてウブッド村でまにあわせている。
     プリアタン大通りに入ってまもなく、警視の車は左折して、緑の生い茂った細い道を奥へ入っていった。50メートルほど入ったところに、数軒の住宅が間隔をおいて並んでいた。それらの住宅は煉瓦造りの赤い塀に取り囲まれてひっそりとたっていた。
    自動車が止まる音を聞きつけて、手前から2番目の家から制服の警官が出てきて、警視に敬礼をした。瀬田沙代の殺人事件発生から彼女の住宅を警備してきたウブッド署の警官だった。
    「こちらのお2人が被害者の瀬田沙代さんのご両親だ。倉田伸生さん、倉田伊津子さんだ」
    警視が警官に説明した。警官はきまじめな表情で、倉田夫妻にも敬礼した。お辞儀で答礼する倉田夫妻に、警官が情のこもった口調でお悔やみをいった。
    「お悔やみ申しあげます。ウブッドの通りで何度がお見かけしたことがあります。日本からガムランの勉強にこられたご婦人ということで、このあたりでは有名人でした。最近はガムランもずいぶん上達されたと聞き及んでいました。残念なことになってしまいました」
     瀬田沙代が借家して住んでいた家は、現在はジャカルタで仕事をしている土地の有力者の持ち家だ。広々としていて邸宅とよぶ方があたっている感じだった。
    「道路に面した門にはバリにふさわしいチャンディ・ブンタル(割れ門)があり、ここを入ると敷地の最初の区画の両側に、四本の柱の上に屋根を載せただけの風通しのよい開放的な舞台のような建物があります。通常、人が集まって話し合いをしたたり、踊やガムランの練習に使われます。それからさらに今ひとつの壁が屋敷の敷地を仕切り、奥に通じるコリ・アグン(中門)がつくられています。コリ・アグンを抜けるとそこは第2の敷地で、居住区になっています。バリの伝統的な住宅のつくりかたです」
     鷹石が歩きながら倉田夫妻に屋敷の構造を説明した。中門を入ると30代の男女が2人たって挨拶した。
    「この家で働いているイ・ワヤン・サントソとニ・ニョマン・カデです」
    警察官が二人を紹介した。2人は両手を合わせてみんなに挨拶した。
    「敷地の一番奥の左手が祀堂、その隣は沙代さんが寝室に使っていた建物、手前が儀式を行う部屋のある建物で来客用に使っていました。続いて、わたしたちが住んでいる家、その向かいが台所です」
    ワヤン・サントソが説明した。それぞれが独立家屋になっていた。
     バリ人の住宅の構成はバリ・ヒンドゥーのコスモロジー(宇宙観)の表象である。聖なる山グヌン・アグンの方角がカジャ(山側)で聖なる方角となり、バリ人の屋敷内の建物の配置でも山側に祭祀の施設や主人の寝室がおかれる。海の方角はクロッドで、こちらは不浄の方位とされている。台所はこちらの方角におかれる。
     伝統的なバリ人の住宅では、寝室は眠るだけの建物だったので、建物には窓がなかった。壁と屋根の間に通風口があるだけだった。しかし、現代ではそのような建物は使い勝手が悪く、瀬田沙代にこの邸宅を貸した大家は、寝室用の建物をバリの伝統を残しつつも窓をつけ、ついでにエアコンも設置していた。
    「私は大工ですが、妻のニョマン・カデがここでお手伝いとして働き、私も暇なときは手伝っていました」
    ワヤン・サントソが言った。
    「お子さんはいらっしゃるの」
    倉田伊津子がたずねた。
    「はい。中学生の娘と小学生の息子がいます。イブ・サヨ(沙代さま)にはとてもかわいがっていただいていました」
    ニョマン・カデが答えた。
    「では、沙代さんの部屋に入ってみましょうか。鍵は?」
    警視が言った。
    「私が預かっています」
    警官が答えた。
     瀬田沙代が使っていた建物のドアを開けて中にはいると、むっとする暑気と、沙代が焚いていたお香の残り香がただよっていた。ニョマン・カデが部屋の明かりをつけ、エアコンのスイッチ入れ、ついでに空気の入れ換えのために窓を開け放った。
    蒸し暑さで立ちくらみでもしたのだろうか、倉田伊津子がふらっとなって夫の腕をつかんだ。倉田伸生が伊津子を支えた。警視が沙代のデスク用のイスを持ってきた。いつもながら気の利く男だ。伊津子はいすに座り部屋の中を見回した。部屋はきれいに片付いていて、ベッドも新しいシーツで整えられていた。
    「沙代さまは13日の朝、ここを出てデンパサールのインドネシア芸術学院へお出かけになりました。その夜はデンパサールのホテルにお泊まりになり、14日にお帰りになる予定でした。13日にお出かけになったあと、私がこの部屋をととのえました。沙代さまは月に2、3度は芸術学院へガムランのお勉強でお出かけになっていました」
    伊津子の視線を感じたニョマン・カデが説明した。
    「金庫を開けさせていただいてよろしいか」
    警視が倉田夫妻にたずねた。夫妻がどうぞと返事した。
    「この鍵束は沙代さんが肩にかけていたリュックの中の小物入れにあったものです。この中に金庫の鍵があるといいのですが。遺品類は警察が保管していますので、ご遺体をお返しするさい、いっしょにお渡しします」
    警視は何本かの鍵を試した。ほどなく金庫の鍵が見つかったらしく、小型の金庫の扉が開いた。金庫の中からは、ネックレスやブローチなどの装飾品のほか、現金とこの家の賃貸契約書などの書類、パスポート、外国人登録証が出てきた。現金は日本の1万円札で30万円、米国の50ドル札で2000ドル、インドネシアのルピア札で2000万ルピアほどがそれぞれ封筒に入っていた。銀行の口座番号などを書き留めた備忘録もあった。それだけだった。沙代の死と関係ありそうなものは何もなかった。
     沙代の机の上にノートがあった。書かれていたことはガムランの奏法に関する心覚えばかりだった。ガムランのスケッチがあり、「そっとふれるように」とか「はっしとうつ」などのコメントが日本語で書き込まれていた。
     倉田夫妻と和田の3人は沙代の居室を調べたが、沙代あての手紙類にも事件に関連するようなものはなかった。
    「この家の賃貸契約解除や、沙代の遺品の運び出し、雇っていた人への退職金などについては、誠君が来たら相談するが、君も力添えをしてくれないか」
    倉田伸生が和田に言った。
    「外庭に沙代さんのお友達が集まっていて、ご両親にお悔やみを申しあげたいと言っています」
    庭に出ていたワヤン・サントソがみなに告げた。
    「お目にかかりましょう。こちらも沙代がこれまでお世話になったお礼を申しあげなくてはならない」
    倉田伸生が言った。
     中門をぬけて外側の庭に出ると、吹き抜けの建物に10人ほどの男女が集まっていた。倉田夫妻の姿を見ると、みんな建物の外へ出ようとした。
    「日差しが強いので、屋根の下でお話ししましょう。ワヤン・サントソさん、イブ(奥さん)のために椅子を持ってきてくれませんか」
    鷹石が依頼した。
     倉田伸生と和田、グスティ・アグン・ライ警視、鷹石と沙代の友人たちが板張りの床の上にあぐらをかいた。倉田伊津子はそのそばでイスに腰かけた。ニョマン・カデがお茶を運んできた。
     みなさんのおかげで沙代はバリの音楽の勉強に打ち込むことができた。みなさん、ありがとう。その幸せをもっと長く味あわせてやりたかったのだが、不幸な事件で2年ほどの短い期間で終わってしまった。残念だ。倉田伸生が型どおりのあいさつをした。
    「沙代さんは、私が教えた日本人では3番目の弟子でした。練習熱心なかたで、才能に恵まれ、この2年でずいぶん上達された。最近では、いくつかのグループに入れてもらって演奏活動をするほか、女性のガムラン演奏グループをつくる準備もなさっていました。バリのガムラン奏者は伝統的に男ですが、時代の変化で今では女性の奏者も育っています。ガムランの技法とバリ音楽の精妙な響きを次の世代に伝えるのが私の仕事ですが、やんぬるかな、惜しい才能を失ってしまいました。ご両親の落胆は察してあまりあるものと思いますが、ガムランの教師としての私も、失ったものの大きさに心がちぎれるような感じがしています」
    沙代にガムランを教えていたイ・プトゥ・グデ・ダルマワンが弔辞のようなものを述べた。
     バリ人を含めてインドネシア人は話術に長けているが、このときのグデ・ダルマワンの語調は、たんなるレトリックにとどまらないように、インドネシア語を聞きなれた鷹石には聞こえた。グデ・ダルマワンは倉石夫妻と同じように、ひどくうちひしがれた様子だった。
     プリアタン村でバリの舞踊を習っている20代後半の日本人女性、松島真理が、沙代さんはやさしくていいお姉さんだったと、目を潤ませながら思い出を語った。オーストラリア人の大学院生で、グデ・ダルマワンについてガムランの実技を習っているロジャー・バースという名の若い男性が、最近、沙代さんがうちならすガムランの音には、激しいバリの呼吸だけでなく、遠い日本の優しい息づかいふと感じられるような響きもまじるようになってきたので、沙代さんがつくりだす音はこれからどう磨かれていくのだろうかと、大変楽しみにしていた矢先のご不幸だった。彼は母国語の英語でなく、習得したインドネシア語で沙代のことを情のこもった言葉で語った。

     (5月27日に続く)

     

     

     

     

     

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