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2019.06.06 Thursday

『だまし絵のオダリスク』   第16回

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     大使館の保安態勢の確認作業を終えた槙村は、20日から大使館に残されている田川関連の資料、報告書などにあらためて目を通し始めた。
     槙村は田川がここ1年ほどの間に東京へ送った報告書の控えの綴りを点検した。田川の死と結びつくような内容の報告を探そうとしたのだ。だが、大使館でトルコとバルカンの経済情報の収集と分析を担当していた田川の報告は、槙村の目には退屈な代物に映った。
     田川はトルコ政府の経済統計発表資料や現地の新聞報道などを引用した経済報告を数多く外務省に送っていた。内容はともあれ報告書の本数だけで考えれば田川は働き者の官吏だったといえる。田川の報告書はどれも無機的な文章でつづられていた。
     たとえば、1939年のトルコの耕作面積がいくらであるとか、農産物の収穫量の第一は小麦であり、大麦がそれに続き、家畜飼育頭数では羊が第1位で山羊、牛がそれに続く。トルコの1935年の人口が約1600万で、1939年の羊の飼育頭数が約1900万と、この国では人間より羊の方が多い。そういった退屈な数字が並ぶ報告書ばかりだった。田川の報告書は東京で外交政策を決めているお偉方の目に触れることもなく、外務省の文書倉庫の中で眠りこけていることだろう。
     そうした報告の中で、槙村がふと目にとめたのは、トルコの外国貿易統計だった。1938年にはドイツ・オーストリアがトルコの最大の貿易相手国だった。トルコの輸入の47パーセント、輸出の33パーセントを占めていた。輸入相手国ではイギリスの11パーセント、アメリカ合衆国の10パーセント、輸出相手国ではアメリカ合衆国の12パーセント、イタリアの10パーセントに大きく水をあけていた。
     ヨーロッパで始まった戦争を、それぞれ自国に有利な方向へ展開させようとして、ドイツ、イギリス、ソ連がトルコに秋波をおくっている。経済的な依存度からすればトルコとドイツの関係が他の2国をはるかに引き離して濃密である。トルコとソ連の間の貿易関係は輸出入とも全体の4パーセント弱に過ぎない。
     この4月ドイツはトルコに対して軍事協力を執拗に求めた。イラクで親ドイツ路線をとるラシード・アル・ガイラーニーがクーデタを起こしたときのことだった。
     オスマン帝国の衰退は19世紀すでに始まっていたが、第1次世界大戦の結果、オスマン帝国の崩壊がもはや決定的になり、ヨーロッパの列強、イギリス、フランス、イタリア、がオスマン帝国の版図を分割し、新しい支配者になろうとした。北アフリカはイギリス、フランス、イタリアが分捕り、中東ではシリア、レバノンをフランスが、パレスティナをイギリスが手に入れた。
     イラクでは親英国グループと民族主義グループの2つの政治勢力の対立が激しくなっていた。オスマン帝国崩壊にともなってイラクに王国が成立したのは1921年のことだった。そのころイラクはイギリスの委任統治下におかれていた。イラクが正式に独り立ちの国家として成立したのは1932年だったが、イギリス・イラク条約によって事実上のイギリスの間接統治が続いた。このため、イギリスの庇護の下で、親英派の旧オスマン帝国軍人や官僚たちによる政権が続いた。
     一方でイギリスの中東政策に批判的なアラブ民族主義政治グループが台頭してきた。政権の座についた権力者が反対派を封じ込めて体制維持をはかる役目を軍に期待し、軍を増強する例はめずらしくない。増強された軍はやがて軍の権益拡大のために政治グループと結びつき政治に介入し始める。
     第2次世界大戦が始まるとイギリスの支配下にあったイラクで、反英派のイラク人政治家がドイツと組んでイギリスの支配を断ち切ろうとする動きを見せた。1941年3月、軍のアラブ民族主義者たちのクーデタによって、親ドイツ派のラシード・ガイラーニーが首相になった。
     イギリスは追放された前首相を保護下に置き、イラクへ軍を進めた。そこでガイラーニーはドイツに軍事援助を求めた。成り行きによっては、中東でイギリスとドイツの代理戦争が始まりかねない情勢だった。
     ドイツはガイラーニー政権への援助物資をバルカンのトルコ国境まで輸送できる。だが、そこからイラクに輸送するためには、どうしてもトルコ領内を通過しなくてはならない。ドイツはトルコに隣接する西トラキアの一部などをトルコに割譲するのと引き換えにイラクへの援助物資のトルコ領内通過を認めて欲しいと告げた。
     対英関係に配慮するトルコがドイツの要求を呑むことを渋っているうちに、イギリスはインドから送り込んだ部隊を使ってガイラーニー勢力つぶしにかかった。ドイツからの援助物資が届かないかぎり、イギリスによるガイラーニー勢力の一掃は時間の問題だろう。
     触れれば火傷しそうなほど熱い昨今の政治動向に関連した報告書でもあれば田川の死の理由を探る糸口になると槙村は期待していたのだが、それらしいものは見つからなかった。槙村は20日いっぱいをかけて田川が東京に送った報告書や、田川が宿舎に残していた書籍、ノート類に目を通した。だが、これといった収穫はなかった。
     槙村は21日、田川と親しかった二等書記官の島原から、田川の行動について話を聞いた。島原は大使館きってのトルコ語の使い手だった。また、田川より1年早く大使館に赴任してきた先輩でもあった。
    「田川さんがトルコ人の若い女性と一緒に死体で見つかったことは、私にとっても驚きでした。田川さんの身辺にはあまり女っ気が感じられませんでしたから。なんというか、洗濯したてのシャツのような清潔感のある感じの人でしたから。多分、日本に田川さんの帰国を待ちこがれている恋人がいるのかもしれない、などと私たちは思っていたのですよ」
    島原が言った。
    「一緒に死んでいた女性、名前はチチェキというのですが、その名前を田川からお聞きになったことはありませんでしたか」
    槙村が念のために聞いた。
    「いいえ、それらしい名前は耳にしたことがありません。ご覧のとおりアンカラは荒涼とした開発途上の首都でして、ここに駐在する各国の外交官たちは暇をみつけてはイスタンブールに出かけます。そこにはなつかしいヨーロッパの匂いと、海から吹いてくる涼しい風がありますから。アンカラでは連合国側と枢軸国側の外交官は必要な公式接触の場を除いて、顔をあわせることがなくなりました。とはいえ、このとおりの狭い世間ですから、外交官たちの私行に関わる噂は、回りまわって伝わってくるのです。某国大使館高官が最近イスタンブールのフラットにギリシャ系の美女を囲い、用件をつくっては足しげくイスタンブールに通っている、とかなんとか。イスタンブールへ女あさりに出かけることを、ここの外交官連中は『ポアソン・グレック(ギリシャの魚)を味わいに行く』と隠語で言っています。たしかに、マルマラ海はダーダネルス海峡を通じてエーゲ海につながっていますから、本物のギリシャの魚がエーゲ海から入ってくるかもしれない。各国の大使ともなるとアンカラの夏の暑さを避けて涼しい海風の吹くイスタンブールの領事館や大使の別邸に行き、備え付けの小型ヨットに外交団やトルコ政府高官らを招いて海に出て、ボスポラス海峡で本物のポアソン・グレックの釣りを楽しんでいます。そうした釣り大会が密談の場になることもあるそうです。あるいは、某国の書記官がイスタンブール出張のさいはめをはずしてペラのバーでブランデーをあおった勢いで、日ごろ中の悪かった某国の館員と殴り合いのけんかをしたとか。アンカラは外国人にとっては閉塞社会ですから、うさばらしにこの手の噂は珍重されるのです。ですが、田川さんについてはこうした噂はこれっぽっちも聞いたことがありませんでした」
    「大使や総務担当一等書記官から聞いたのですが、田川は経済情報以外にも、ソ連の軍事情報収集の手伝いをしていたそうですね。もっとも、田川が自分の名前でソ連情報を本省に送った形跡は見あたりませんでした。おそらくソ連専門の書記官に情報提供していた程度なのでしょう。島原さん、ソ連情報の関係で田川と何か話をなさったことがおありですか」
    「ええ、ソ連情報に関心があると田川さんはいっていました。いまどき日本の在外公館に勤務している外交官であれば、誰しもそうでしょうが、極東におけるソ連軍の兵力配置に関する情報収集と、ソ連側の対日情報収集工作についての情報集めです。こんなことを武官の方に申しあげるのは気がひけるのですが、ソ連は兵力の一部をヨーロッパ戦線に移したがっている。移動の前提は日本のソ連極東地域への進攻の可能性が薄いと確信できることです。ソ連はその点に関して日本の情報をほしがっている。一方で、ドイツはソ連の兵力をこれまで通り極東部にはりつけておきたい。そういうことで田川さんはソ連とドイツの大使館員と接触を重ねていたのではないでしょうか。田川さんのいまひとつの関心であるボスポラス海峡に対するソ連の野心についての情報収集も目的だったのでしょう」
    「田川はどの程度の情報収集ができていたのでしょうか。その点で何かお気づきになったことは?」
    「こういう言い方は亡くなった田川さんに失礼かもしれませんが、しかるべき訓練を受けたことのない外交官に諜報員もどきの秘密情報盗み出しなどしょせん不可能でしょう。外交官にできることは情報の分析とその分析にもとづいた将来予測です。しかし、その予測を出したところで、天気予報みたいにあたるも八卦あたらぬも八卦と、棚の上に放りあげられておしまいなのですが」
    「田川のいまひとつの関心だったボスポラス海峡へのソ連の野心については、なにかご存知でしょうか」
    「田川さんは学究肌のところがありましてね。イスタンブール大学法学部のスタイナウアー教授と親しく、教授の指導でボスポラス海峡の通航権問題と取り組んでいました。スタイナウアー教授はユダヤ系ドイツ人です。ナチの迫害をうけている一流のドイツ人学者の受け入れに積極的なイスタンブール大学に招かれて、そこで国際法を教えています。ボスポラス通峡権問題では、世界的な権威の1人だそうです。田川さんはイスタンブール出張を利用してはスタイナウアー教授に会って研究の指導を受けていたようです。一方、帝政ロシア時代からのロシアのボスポラス海峡に関する政策については、アンカラのソ連大使館員ボリス・ボフスキーがその専門家で、彼からさまざまな資料や情報を仕入れてもいました。ボフスキーも田川さんもアンカラ大学のギュチュリュ教授の研究室へよく出入りしていました。この教授もトルコ側から見たボスポラス海峡問題の専門家といわれています。私がお話できるのはこの程度のことです。すこしでもお役に立てばうれしいのですが。ところで、大使館のトルコ人職員ケレム・オザンとお話になりましたか。田川さんはトルコ政府や他国の大使館、地元新聞との接触のさい、トルコ語が必要と思われるときはオザンをともなって出かけていましたから、彼から私が知らない部分についてもお聞きになれるかも知れません」
     そう言って島原は自分の仕事へもどっていった。

     

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