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2019.07.04 Thursday

『だまし絵のオダリスク』   第17回

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    その日の夜、槙村はケレム・オザンを誘って夕食に出かけた。ケレム・オザンは54歳。1890年9月16日夜、台風をついて和歌山県の串本沖を航行中に座礁し、沈没した当時のオスマン帝国海軍の軍艦エルトゥルル号の殉職した乗組員の遺児だった。エルトゥルル号は親善使節として日本を訪れたあと帰国途中だった。この海難事故で600人近い乗組員が水死あるいは行方不明になった。生存者はわずか70人ほどだった。当時の和歌山県大島村の住民たちが懸命の救援にあたった。日本政府も援助した。民間から義捐金が寄せられた。こうした縁でケレム・オザンは日本の民間団体の奨学金を得て、日本の私立大学で学んだ。1925年日本とトルコ共和国の間で外交関係が結ばれ、日本が正式にイスタンブールに大使館を開いて以来、ケレム・オザンは大使館で働いている古参だった。館員を手際よく補佐し、通訳を務め、トルコ人雇員をひとつにまとめていた。
     日本の大学で学び、日本語を話すケレム・オザンに田川は日本人の同僚には言えない愚痴を聞いてもらっていたようだ。去年7月、松岡洋右が第2次近衛内閣発足にともなって外務大臣に就任し、「松岡人事」と呼ばれるようになった外務省の大幅人事異動を行なった。40人以上もの大使・公使など主要な外交官が帰朝を命じられた。駐ソ大使東郷茂徳を更迭し、
    陸軍中将建川美次を後任にあてた。駐ドイツ大使を来栖三郎から陸軍中将大島浩に代えた。さらに駐アメリカ大使を堀内謙介から海軍大将野村吉三郎とした。キャリアの外交官を軍出身者と入れ替えた。軍の政治介入がとうとう外交にまで及んだ。9月22日には日本軍が仏領インドシナに進駐、同じ月の27日には日独伊三国同盟が締結された。日本の強硬な姿勢に対してルーズベルト大統領が脅迫や威嚇には屈しないと演説し、松岡の登場で日米関係はさらに悪化した。
     駐トルコ大使も武富敏彦から栗原正に代わった。2人ともキャリアの外交官だったが、栗原は軍の主張に共鳴するいわゆる外務省革新派の中心人物白鳥敏夫に近く、大島浩ドイツ大使と同様の枢軸派だった。アンカラの日本大使館でも枢軸派の言説が声高に語られるようになった。大使館随一の枢軸派で、「アナトリア高原の日本オオカミ」とあだ名をつけられた館員は、ドイツが西からソ連を攻め、日本が東からソ連を攻め、やがて日独両国がユーラシア大陸のどこかでまみえる日がくるのだ、など広言していた。だが、それを正面切って世迷いごとと言い返すだけの元気を館員たちは失っているようである。
    「戦争を回避するために妥協点を見つけ出すのが外交の役割なのに、いまは妥協を嫌い戦争も辞さずという荒っぽい風潮が日本外交に蔓延してきている。一体この先、日本の外交はどうなるんだろう、と田川さんが私に言ったことがありました。そのとき田川さんがふと私に漏らした言葉があります。『トルコ女性はいい嫁さんになるかな』と。田川さんはそれ以上のことは何も言いませんでしたが……」
     田川が外務省職員として軍の外交への介入を嫌っていたとしても、それが外交機密を他国に漏らす動機になると疑うのは論理の飛躍だろう。だが、田川がもし別の理由があって機密を漏らそうかどうかと決めかねているときは、こうした不満感が田川の背中を押すことは考えられる。槙村はふといやな予感におそわれた。槙村はケレム・オザンに手をさしのべて握手を求め、ありがとうと礼を言った。そしていまひとつの頼みごとをした。
    「あす朝、アンカラ大学のギュチュリュ教授に電話して面会の約束をとってくれませんか。できるだけ早く会いたい」

     アンカラ大学のギュチュリュ教授との面会の約束はあっさり取れて、槙村は22日の午後、教授と会った。中背だが、太めの胴回りの、アジア風の顔立ちの50前後の男だった。
    「さっそくですが、ソ連大使館のボリス・ボフスキー氏のことですが、田川とはそうとう親しかったと聞いていますが」
    あいさつのあと槙村が切りだした。
    「ええ、お2人ともボスポラス海峡をめぐる議論の歴史について真摯な興味をお持ちでしたが、田川さんは不幸な事件でおなくなりになり、ボフスキー氏は先ごろモスクワに帰任なさったときいています。さびしい限りです」
    「田川はどのくらいの頻度で教授のところへお邪魔していたのでしょうか」
    「田川さんが私の部屋に最初に見えたのは、1年ほど前のことで、イスタンブール大学のスタイナウアー教授の紹介でした。そのときたまたまボフスキー氏もお見えになっていて、お互いの関心のありかがボスポラス海峡問題だということで、意気投合されたようです。2ヵ月に一度程度お見えになりました。たいていボフスキー氏とごいっしょでした」
    「ボスポラス問題以外に、なにか最近の政治事情について2人が話しあっていませんでしたか?」
    「それはもう、お2人とも外交官ですから、今の戦争やトルコの立場、ボスポラス通峡権の今後など、盛んに時事問題を論じ合っていました。私のような書斎人にはなかなか勉強になるお話でした」
    「で、何か極秘情報のやり取りのようなものは?」
    「まさか、わたしが聞いているところでそのような重大なことを話し合われるわけはないでしょう。それに、お2人の話題はどちらかというと、歴史的な資料についてでした。たとえば、1833年にオスマン・トルコとロシアが相互防衛同盟として締結したヒュンキャル・イスケレシ条約の秘密条項である『ロシアが攻撃された場合、トルコは支援の軍を派遣する代わりにロシアを除くすべての外国軍艦の海峡通過を禁止する』が合意された背景を説明する史料などについての情報交換でした。そのあたりは私も興味を持っているところなので、お2人の会話に仲間入りさせていただき、有意義な時間を過すことができました」
    「ボスポラス問題はなかなか奥の深い国際問題なのですね」
    「ボスポラス海峡問題はロシアとトルコの歴史的な勢力争いの象徴です。最近はトルコの旗色が悪い」
    ギュチュリュ教授がおだやかな口調で話し始めた。
    「ロシアとトルコの勢力争いは、それぞれがロシア帝国、オスマン帝国とよばれていた18世紀から繰り返されています。ロシアとトルコのあいだの戦争の理由は、トルコの北方への野心ではなく、黒海から地中海めざして南下しようとするロシアの地中海への情熱です。最初のうちは、そう、18世紀のはじめごろまではオスマン帝国とロシア帝国の戦争遂行能力はほぼ互角で、黒海北岸の支配権をめぐる戦争は一進一退のうちに終始していました。ロシア帝国の実力がオスマン帝国を凌駕するようになったのは18世紀の後半からのことです。エカチェリナ2世の時代のロシア帝国はオスマン帝国の属領だったクリミアを手中におさめました。勢いにのってバルカン北部への進出をねらったロシア帝国は、オスマン帝国とロシア帝国の間の緩衝国だったポーランドの王位継承問題に干渉しました。ロシアに押し出される格好でオスマン帝国領内に逃げてきたポーランド民族主義者を追って、ロシア軍がオスマン帝国領内に侵入し、そこでロシア帝国とオスマン帝国は1768年に戦争状態に入りました。オスマン帝国はこのころ軍事的に弱体化しており、ギリシャでは民族蜂起まで起きた。戦争に勝ったのはロシア帝国でした。この戦争によってロシア帝国は黒海における艦隊の建造権、商船のボスポラス海峡とダーダネルス両海峡の通峡権とを獲得しました。また、オスマン帝国領内におけるギリシャ正教徒に対する保護権も得て、それをオスマン帝国の内政への干渉の口実に使う糸口をつかみました。いや、申し分けない。退屈ですかな。このような初歩的な歴史の話は」
     ギュチュリュ教授が槙村に言った。
    「とんでもない。いい勉強になっています。ぜひとも続きをお聞かせください。田川が興味を持っていたことの真相に迫るために必要な基礎知識ですので」
     槙村が応じた。
    「このあと、ワラキアとモルダビアの支配権をめぐって両国は戦争を開始。ギリシャで民族解放戦争が始まりました。ギリシャ解放戦争を支援したロシア、イギリス、フランスとの海戦でオスマン帝国は敗北しました。オスマン帝国はギリシャの独立を承認しました。ロシアはドナウ川河口の諸島や東部アナトリアのいくつかの地域を割譲させ、黒海の制海権を事実上手に入れました。次にクリミア戦争。19世紀中ごろ、聖地エルサレム管理権問題が発端になってロシア帝国とオスマン帝国が開戦しました。イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニャはオスマン帝国を支援してロシアに宣戦しました。この戦争でロシア帝国は負けました。その結果、黒海は中立地帯に指定されることなどが決まりました。このあとも、ロシア帝国はパン・スラブ主義を掲げてバルカンへ再進出しました。黒海で艦隊の建造を進めた。バルカンで民族蜂起が起こると、ロシア帝国はスラブ民族の救済を口実としてオスマン帝国と戦端をひらきました。この戦争でオスマン帝国はロシア帝国に敗北し、オスマン帝国の領土だったバルカンでロシア帝国の影響力が強まりました。これを機にオスマン帝国の領土は西欧列強の草刈場になりました。フランスがチュニジアを占領し、イギリスがエジプトを占領しました。第1次世界大戦での敗北で、オスマン帝国は瓦解し、トルコはかつての版図の大半を失ってこぢんまりとした弱小共和国として、列強の鼻息をうかがいながら延命しているわけです……」
     槙村はギュチュリュ教授の部屋から早々に退散した。

     

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