<< 『だまし絵のオダリスク』   第17回 | main | 『だまし絵のオダリスク』   第19回 >>
2019.07.14 Sunday

『だまし絵のオダリスク』   第18回

0


     槙村は23日の午前中ドイツ大使館にマクシミリアン・ベルゲン中佐を訪ねた。
     ドイツ大使館はさすがに立派な建物だった。大使館のつくりはその国が駐在国にどの程度の重要性をおいているかのバロメーターである。ドイツ大使館の威容に比べると日本大使館は大いに見劣りがする。
    「槙村中佐、ドイツ大使館へようこそ。そちらのソファーへどうぞ」
    ベルゲンが張りのある声で言った。ベルゲンの執務室にはトルコ煙草のにおいが漂っていた。ベルゲンが槙村に応接テーブルの煙草ケースを差し出した。
    「トルコ煙草です。私は水煙草の愛好者ですが、さすがに執務室であれをやるのは気がひけましてね。この紙巻煙草で我慢しているのです」 
    ベルゲンはそういいながら、ジッポーのオイル・ライターで槙村の紙巻煙草に火をつけた。
    「昨日、日本大使館の同僚の武官から聞いた話だと、17世紀のイスタンブールは煙草が大流行で、喫茶店は煙草の煙で客の顔がかすむほどだったそうです。それで、スルタン・ムラト4世が煙草とコーヒーを禁止し、禁止令に背いて煙草やコーヒーにふけっていた者を捕らえて、見せしめに処刑したそうです。執務室で水煙草にふけるアプヴェールの幹部となると、ラインハルト・ハイドリヒのSDにその弛緩ぶりを衝かれそうな図ですな」
    槙村はきわどい冗談で返した。ナチスの親衛隊(SS)の情報機関である親衛隊情報部(SD)が大使館内に勢力を広げ、国軍情報部アプヴェールにとってかわろうとする露骨な動きが広がっていた。SD長官だったラインハルト・ハイドリヒはいまやSDとゲシュタポを参加に持つ国家保安本部(RSHA)の長官として、アプヴェールをRSHAにとりこもうと画策していた。
    「敵地の真ん中で勤務する情報機関員は、一寸先は闇という緊張と、いつも背後にナイフの気配を感じているような不安につつまれて暮らさねばなりません。煙草とコーヒーとウィスキーはきつけ薬代わりです。中立国ではそうした怖さがありません。中立国の首都というのは諜報関係者にとっては天国のようなところがありましてね。ここではドイツとイギリス、それにソ連が情報戦争を繰り広げています。さらにトルコ共和国もドイツ、イギリス、ソ連の腹を探ろうと情報戦争に参入しています。せまい舞台が役者でいっぱいですよ。にもかかわらず、ビシッと役者を統べる演出家がいない。田舎芝居のようなものです。水煙草が似合います」
     ベルゲン中佐はアブヴェールのトルコにおける情報網の統括責任者だといわれている。だが、アンカラの外交筋には別の見方もあって、フランツ・フォン・パーペン大使着任以来、ドイツ大使館全体が巨大な諜報機関になったという。その諜報組織を取り仕切っているのが、諜報・陰謀好きな大使フォン・パーペンその人であるというのが、アンカラ外交筋の見立てだった。
     フォン・パーペンはドイツの裕福な名家に生まれて軍人になり、第1次大戦中ドイツ大使館付武官として、アメリカで諜報活動を繰り広げた。間もなくパーペンはアメリカ合衆国政府からペルソナ・ノン・グラータとして国外退去を命じられるが、そのさいドイツ本国へ送った荷物の中から、パーペンのアメリカにおける諜報網などの資料が見つかった。意外にうかつなスパイであった。
     第1次大戦後、パーペンは政界入りし、ヒンデンブルク大統領の下で首相をつとめ、ナチスの台頭後はヒトラーの下で副首相をつとめた。ドイツと戦っている連合国側の駐アンカラ外交関係者の間では、パーペンは陰謀好きなオポチュニストにすぎないという見方が大勢を占めていた。
    「スパイ天国のことはさておき、日本大使館の田川さんの件ですが……」
    ベルゲンは吸い込んだ紙巻煙草の煙をいきおいよく吐き出しながら槙村をみつめた。
    「イスタンブールやここアンカラで田川の足跡を追ってみて、私はどうも田川がなにか国際的な陰謀に巻き込まれたのでないか、という気がしてきました」
    槙村は素直な感想を述べた。
    「われわれも槙村さんがお感じになっているものと似たような背景あるのではないかと考えています。イスタンブールで情報収集にあたっている部員から、どうやら田川さんはソ連情報に関係した諜報戦あるいは防諜戦に巻き込まれた可能性が濃厚だと報告があがってきました。田川さんはボスポラス通峡権問題を研究なさっていたとか?」
    ベルゲンが紙巻を灰皿におしつけてもみ消しながら言った。
    「ええ、かなり真剣に取り組んでいたようです」
    「田川さんはボスポラス通峡権の歴史的変遷をたどっているうちに、現代の問題に行き着いたのではないかと思います」
    「現代の? 現代のボスポラス通峡権問題とは、具体的にいうと何のことでしょうか」
    「ソ連です」
    ベルゲンが強い口調で断言した。
    「黒海に港湾を持っているソ連は、ボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通過して地中海に出るルートの航行権を喉から手が出るほど欲しがっています。このルートの自由通峡権を確保し、できればそれを独占したいと考えている。ボスポラスの軍艦通航をトルコに認めさせるために、共同でトルコに圧力をかけようではないかと、ソ連がドイツにもちかけたこともありました。ドイツ対イギリスという資本主義国家同士の戦争が長引いて双方の国が疲弊すれば、そのときソ連がヨーロッパを勢力圏に組み込むことができると彼らは考えている。その意味でヨーロッパとアジアの境であるボスポラスがソ連の勢力下に入るということは、黒海―ボスポラス海峡―ダーダネルス海峡―地中海―ジブラルタル海峡―北海と、ヨーロッパを取り囲む海がやがてはソ連のものになるということです」
    「それはまた壮大な戦略ですな。その件はいずれ機会を待って詳しく議論しましょう」
    槙村が皮肉っぽい口調で言った。
    「そうですね。本日の問題とはちょっと遠かったですね。ソ連はボスポラス海峡についてのソ連側情報をちらつかせて田川さんを引きつけ、見返りに田川さんから何かの情報を引き出そうとした」
    「田川の取引相手はボリス・ボフスキーですか?」
    槙村が念を押した。
    「まずそう考えて間違いないでしょう」
    ベルゲンが自信たっぷりに答えた。
    「ボリス・ボフスキーがトルコに帰ってくる可能性はありそうですか」
    槙村が独り言のような口調で言った。
    「それは難しいでしょうね。彼は先月アンカラから姿を消しています。どうやら急遽モスクワに呼び戻されたようです。何のため? 田川さんから仕入れた情報の分析に関わっているか、あるいは、不用意に田川さんに漏らした情報のことで責任を追及されているか、そのどちらかでしょう」
    「ソ連が田川から聞き出したかった情報とはなんでしょうか?」
    「おそらくそれは、槙村中佐、あなたが今回トルコにこられたいまひとつの目的と関連しているのではないかと思います。あなたのトルコ来訪の表向きの理由は田川さんの事件の捜査状況を知ることですが、われわれがベルリンの日本大使館からほのめかされているいまひとつの隠された目的、どちらかというとその方がより重要な目的なのでしょうが、そのこととおおいに関わっているようです」
    「どんな根拠からそのようなことをおっしゃるのでしょうか」
    「モスクワからアブヴェール本部に届く情報では、ソ連情報機関はいま2つのことに神経をとがらせています。いつドイツがソ連攻撃を始めるのか。日本がソ連極東に攻めこむのはいつか。その2点です。連合国側はモスクワに対して、いまにもドイツのソ連攻撃が開始されるだろうという警告を繰返し届けています。それに対してモスクワは疑心暗鬼に陥っています。モスクワがその警告を信じきれないのは、ソ連最高指導部の中にその警告が自陣営にソ連を引き込み、ドイツとの戦争を有利にするためにしかけた連合国側のワナではないかと疑っている者がいるからです。連合国から寄せられる情報の信憑性を検討する材料として、かれらはドイツのソ連攻撃の可能性についての別ルートの情報を欲しがっているのです」
    「しかし、田川はなぜ死ななければならなかったのでしょう」
    「ボリス・ボフスキーが田川さんと接触し、情報を手に入れようとしていたとき、不注意から何か重要なことをふと田川さんに語ってしまったことに気づき、田川さんを生かしておけなくなったとも考えられます。私はソ連の特殊工作員が田川さんを殺害したのではないか疑っているのです」
    ベルゲン中佐が突然、核心に入っていった。

     

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    << November 2019 >>
    Selected Entries
    Archives
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM