「だまし絵のオダリスク」 第21回
「ええ、たしかに田川さんはときどき私の研究室をたずねてきました。私たちの話題はボスポラス海峡の通峡権問題の史的展開に関するものでした」
イスタンブールの旧市街側にあるイスタンブール大学本部の応接室で、ヨーゼフ・スタイナウアー教授が槙村に言った。5月26日月曜日の午前10時だった。
イスタンブール大学は広大な屋根付き市場グラン・バザールの隣のベヤズト・モスクがある広場に面している。堂々とした門とがっしりとした建物だ。19世紀中ごろ軍事省として建てられ、トルコが共和国なったときイスタンブール大学の施設になった。
イスタンブール大学の起源は1453年にスルタン・メフメット2世が東ローマ帝国を倒したのちに設立したマドラサ(イスラム学院)である。エジプト・カイロのアル・アズハル大学の起源とされる975年や、イタリアのボローニャ大学の1088年、パリ大学の1150年、オクスフォード大学の1167年、スペインのサラマンカ大学の1218年にはおよばないが、長い歴史をもつ大学である。
大学正門と大学本部の建物の間には広い庭があった。その庭に高さ80メートルほどの石造りの塔が屹立していた。ベヤズト・タワーである。一九世紀中ごろに再建されたイスタンブールの火の見やぐらだ。それ以前にも木造の火の見やぐらがたっていたのだが、なんとこれが火事で焼け落ちたために、こんどは石造りの塔を建てたという。
軍と大学がケマル・アタテュルクの世俗主義政治の砦である。アタテュルクはトルコ近代化のために、イスラムを後進性のしがらみとみなしてイスラム離れを推し進めた。シャリーアに基づくイスラムの宗教法廷を廃止した。一夫多妻を禁止する民法を制定した。マドラサでの教育を禁止し、すべての教育を世俗主義の下で行うよう教育制度を改めた。
イスラムを排除し徹底的な世俗国家の道を進もうとするケマル・アタテュルクの政策に沿ってトルコの教育システムが変更され、イスタンブール大学をはじめトルコの大学ではヘッドスカーフを被った女子学生やイスラム風のひげをはやした男子学生は、クラスに出席することが原則として許されなくなっていた。
スタイナウアー教授は身長が1メートル90センチもある痩せた50過ぎの男だった。頭髪の生え際が額から頭のてっぺん近くまで後退し、残った薄茶色の髪を左で八二くらいに分けていた。縁なしの眼鏡をかけ、その奥に神経質そうな薄茶色の目があった。スタイナウアー教授は槙村を大学本部の建物の2階にある応接室に迎えた。大学の事務員らしい男性がトルコ紅茶を運んできた。
スタイナウアー教授は田川の研究テーマについて語ってくれた。
「ボスポラス海峡の地政学的な重要性は、その国の名が帝政ロシアであれソ連であれ、スラブ民族にとっては普遍的なものです。冬も凍らない水路の重要性がそれです。不凍港を求めてロシアは南下政策をとり、その膨張主義を脅威と感じたヨーロッパ諸国は、ロシアの南下政策を食い止めようとする。そうしたロシア帝国の膨張主義メンタリティーと南下政策の実際を念頭に置きながら、ロシアのロマノフ王朝時代からレーニン、スターリンの時代にかけての、ボスポラス通峡権をめぐる対トルコ外交の変遷をあとづける。それが田川さんの研究テーマでした。私の専門はどちらかといえば、国際法の理論面に重点をおいています。田川さんの関心はロシアとトルコの外交面でのせめぎあいの歴史でした。外交官としても敏腕な方だったとうかがっていますが、研究者としてもすぐれた才能をお持ちでした」
「おたずねしますが、田川はどの時代の海峡政策により関心を寄せていたのでしょうか。帝政ロシアとオスマン帝国の時代でしょうか。あるいはソ連対トルコ共和国の時代でしょうか」
「彼が欲しがっていたものは、まさにいま現在のソ連のボスポラス海峡への野望と、それに伴うソ連の対トルコ、対ドイツ政策に関わる資料でした」
「そうですか。スターリン体制化のいま現在の政治情報となると、公開されている資料は少なく、公開されている資料にしてもプロパガンダと見分けのつかないものである、というのが一般的な意見でしょうね。田川は自分の仮説を支える情報をどの程度集めることができていたのでしょうか。研究の核心に迫る情報をどうやって集めようとしていたのでしょうか。スタイナウアー教授、あなたが田川を指導なさるなかでお感じになった印象はどうでしたか」
「田川さんはどうやらイスタンブールで活動しているソ連の情報関係者とも接触があったようです。ボスポラス関連の情報を集めるうち、学術研究の枠を超えて、つまりはボスポラス海峡問題に関わる資料収集の作業を超えて、微妙な国際情報戦がらみのソ連情報についても、接触を深めたソ連情報筋から集めようとしていたような気配を、私は感じたことがあります。具体的な事例があるわけではありませんが、田川さんとの会話の中でふとそう感じる瞬間がありました。私は何度か、諜報ごっこはやめにして、研究者本来の研究方法に限定してはどうかと助言したのですが、彼は『私はまた大使館員でもある』と言って笑っていました」
スタイナウアー教授は視線を槙村からテーブルの上に移し、おや、お茶が冷めましたかな、と言った。槙村は、いやいやこれで十分ですと答えた。
「そうそう、田川さんが亡くなったあとイスタンブール警察の方が私を訪ねてきたことがあります。その警察官にも、今と同じような話をしました。その警察官は私にいくつかの質問をしましたが、それらを通じての私の印象では、イスタンブール警察は田川さんがどうやら日本におけるソ連の情報網の浸透についての情報集めに関心があったのではないかと疑っているように感じられました。おや、槙村中佐、何かお心当たりでもおありですか」
槙村の表情の変化に気がついてスタイナウアー教授が問いかけてきた。
「国際謀略に巻き込まれて死んだという可能性に驚きました」
槙村はそう言い訳をしながら、ふと想像した。
田川といっしょに死体で発見されたチチェキはイギリス人のジャーナリスト、ピーター・ケーブルとつながりがあった。ピーター・ケーブルがこの女を使って田川を利用していたのではなかろうか。田川にイギリス側がつかんでいるソ連情報を小出しに与え、その見返りに田川から日本情報を引き出してはそれをイギリス本国に送っていたのではあるまいか。そのような形で素人の田川が諜報戦に関わっていて、あるとき、田川の存在が厄介になった組織が田川を始末した。ありうる筋書きだと槙村は思った。
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