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2018.05.27 Sunday

『ペトルス―‐謎のガンマン』  第4回

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    5月18日夜、サヌール・ビーチのホテル


     「インドネシアの人口はざっと2億人で、その9割がイスラム教徒といわれていますから、世界で最多のイスラム人口をかかえる国家です。ですが、1945年の独立宣言以来、インドネシアは宗教国家になることを断固として拒否し、世俗国家を貫いている面白い国でもあります。ここのムスリムには2つのタイプがあります。1つはサントリとよばれるタイプです。白い衣装をまとったオーソドックスにして教義に忠実なイスラム教徒というイメージで語られます。いま1つが名目上はイスラム教徒ですが、イスラム教到来以前の土着信仰や仏教、ヒンドゥー教の影響をとどめているアバガン。アバンとはジャワ語で茶色味を帯びた赤い色という意味で、アバガンはそういう人たちという意味になります。インドネシアを見ていて興味深いのはこのサントリ的なものとアバガン的なものの文化的な影響力でして、きわめて大雑把にいうと、サントリ文化のグループは政治的には近代主義、文化的には個人主義、イスラム教については教条的な傾向が見られます。アバガン文化のグループは政治的には伝統主義、文化的には集団主義、イスラム教については教条的なところを嫌う傾向があります。このサントリーアバガンという考え方はインドネシア社会の亀裂線を説明するには便利ですが、きちんと説明しきれないところもあります。たとえば初代大統領だったスカルノの支持母体の1つであったインドネシア共産党の基盤はジャワのアバガンでした。インドネシア共産党に対抗したのがサントリ系の人々でした。インドネシアにおける白と赤の区分は日本の源氏と平氏、小学校の運動会よりは少しばかり複雑です。神式、仏式で人生の諸行事をこなし、ついでにクリスマスも祝うわれわれ名目仏教徒である日本人もそうとうにアバガン的ですが、日本における神道的なもの、白い衣装の神職に代表される日本のサントリの政治面での影響力には無視できないところがあります。

     「こうしたインドネシアにあって、バリ島だけがヒンドゥー教徒の島です。初代大統領のスカルノの母親はバリの人でした。スカルノはウブッドの北隣のタンパクシリンに大統領別邸を持っていて、バリにはよく休養に来たそうです。いまやスハルト批判勢力がアイドルとしてかつぎあげているスカルノの娘メガワティ・スカルノプトゥリはバリ人の血をひいているということで、バリで人気が高いのです」
     5月18日の夜、鷹石里志は倉田伸生夫妻を相手にバリ案内の入門編を語るはめになってしまった。

     瀬田沙代が住んでいたプリアタン村の家で、倉田夫妻は弔問に来た沙代の友人たちと30分ほど語らった。ウブッドのプリアタン村を出発してサヌール・ビーチのホテルへ帰るとき、倉田伸生が鷹石にぜひともお願いしたことがあると言った。
     「沙代はどうしてバリ島へ来て、ガムランを習う気になったのでしょうか。ニューヨークで芝居の勉強をしたり、パリで絵の修行をしたり、ウィーンで西洋音楽を習うというのであれば、私たちのような門外漢でも、その動機はわかる気がします。ですが、なぜバリで、なぜガムランだったのか。沙代は気まぐれにおぼれて命を落としたのでしょうか。家内も同じことが気にかっていましてね。鷹石さんはずいぶんとバリにご関心を寄せていらっしゃるご様子なので、沙代がバリに惹かれた気持を理解するための参考になるお話をお聞きできないかと思いまして……。厚かましいお願いですが、今夜、私たちにつきあっていただけませんでしょうか」

     鷹石は倉田夫妻の気持がわかる気がした。失ってしまった娘の旧居の庭でガムランを通じて紗代と知り合った友だちから、夫妻はありし日の娘のすがたを聞かされた。バリに住み、ウブッドでガムランを習うということが、紗代にとって幸せの日々であった。倉田夫妻はそう信じ、そう納得したいのであろう。そのための一助としてバリやガムランの話が聞きたいのだろう、と鷹石は思った。娘を失った老夫婦の穴の開いた心を修復する手立てになるのなら、お相手を務めるしかないだろう。無下に断れば人情にそむく。
    そういうわけで、鷹石は夕方デンパサールの自宅に帰り、マンディー(沐浴)のあと30分ほど休んで、午後8時にバリ・ハイアットに現れた。その少し前に、瀬田沙代の夫である瀬田誠がメキシコから到着し、バリ・ハイアットにチェックインしていた。
    鷹石は夫である瀬田誠にお悔やみを言った。
     瀬田誠は、
    「どうも……突然のことで、私もまだこの現実が信じられません」
    と短く言った。
    瀬田はほっそりした長身で、引き締まった顔はよく日焼けしていた。きりっと結んだ薄い唇は意志の強さをあらわすと同時に、思わぬ不幸に負けまいとする必死の踏ん張りも感じさせ。
     倉田夫妻、瀬田誠、和田の4人を相手に鷹石はバリ案内の講釈を続けた。
     「ヒンドゥー教がバリに伝来したのは紀元9世紀ごろだといわれています。イスラム教到来以前に、ジャワ島にはヒンドゥー教や仏教がすでに伝えられていました。ジャワ島中部のボロブドゥールは仏教遺跡です。そこからさほど遠くないプランバナンにはヒンドゥー教の遺跡群があります。11世紀ごろからバリはジャワのヒンドゥー王国と関係を深め、後にはジャワのヒンドゥー王国によって征服されました。その後、ジャワはイスラム化した王国が支配するようになり、ジャワ・ヒンドゥーの文化の担い手だったヒンドゥー僧や文化人が、イスラム勢力に追われてヒンドゥーの島バリに逃げ出してきたのです。したがって、バリのヒンドゥー文化をたどってゆけば、かつてのジャワのヒンドゥー文化の形がおぼろげながら見えてくる可能性があります。まあ、このあたりの興味は学者の領域ですが……。一般人にとっての興味は、イスラム化した後のジャワの文化や、ジャワを植民地にしたオランダに代表される西洋文化から切り離されて、バリ島で独自の進化をとげた『ヒンドゥー・バリの文化』がつくりだしたこの島の人々の暮らしでしょう。
     「バリ島は言ってみれば西洋文明の影響下で育った今の日本人にとっては、1930年代にバリにやってきた大勢の西洋人がおもしろがったのとおなじ、大人のワンダーランドです。バリ人はヒンドゥー教の教義については、その理論の深化のための努力をしませんでした。ですが、ヒンドゥー教到来以前からバリにあった土着の宗教的行為、つまり呪術、祖霊崇拝といったものを、バリ人はヒンドゥーの儀礼に取り込みました。ヒンドゥーの祭礼とそれにともなう供物づくり、行列、浄めの儀式、祭礼を盛り上げるガムラン音楽やバリ舞踊。そうした複雑な儀礼の網の目を読み解いてゆくと、そこに見えてくるものがあります。昼間ちょっとだけお話した聖なる方位としての山側、不浄の方位の海側といった対立概念、今日の午後バリへ行く途中で通りがかったバトゥブランという村で見た神と悪霊の石像といったものになって表されるのです。
     「善なる神と悪なる神の永遠に決着のつかない戦いの場がこの世界である――これがバリ人の世界観だ、という説を大勢の学者が語りますが、そういう言い方がとりもなおさず、一般大衆のバリへの興味を増幅させるのです」
    バーのテーブル席で倉石夫妻ら4人はまじめに鷹石の説明を聞いた。
     「日本いえば岩手県の遠野のようなところなのでしょうか」
    倉石伊津子が尋ねた。
     「ええ。優しくて美しい風景と、光の加減でふとその風景の中に感じる薄気味の悪さ。熱帯の昼間の明るさと目のくらむようなまばゆい色彩。そして一転、日没後の闇の深さ。ウブッドの王宮で定期的に観光客のためにバリ舞踊を上演していますが、あれは大勢の人といっしょに見ているから怖くないのであって、もしたった一人で悪霊ランダだの、善霊バロンだのを見ていると想像したら、あんなおっかない見せ物はないです。いまにもウブッドの深い森の奥の闇に連れていかれそうな恐怖感におそわれます。
    「オランダがバリ島全体を最終的にオランダ領東インドに加えたのは20世紀の初めです。1930年代になると、西洋文明に汚されていない高度に洗練された独自の文化を持つ島として、欧米から芸術家や学者が大挙してやってくるようになりました。画家で音楽家でもあったドイツ人のヴァルター・シュピースという人が、このころのバリの欧米文化人グループのリーダー的存在でした。メキシコの画家ミゲル・コバルビアス、米国のマーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンの人類学者夫妻がシュピースの周辺にいました。彼ら欧米の芸術家や学者に評価され、紹介されたことがきっかけで、ガムランや、レゴン、ケチャといったダンスが再生され、創造されたのです。
    「先の第2次大戦の際は、バリは日本軍に占領されましたが、日本軍は『ビンタ』や『カシラミギ』など、程度の低いことばを残したにすぎませんでした。昨今のバリは、1930年代に欧米の芸術家たちの目に映った『不思議の島』あるいは『夢の島』のイメージを、現代のインドネシアが観光収入をめあてに、国策として人為的に再現しているものだとみなす人たちもいます。
     「このホテルが建っているサヌール・ビーチは、かつては悪霊が出没する海岸といわれていました。バリの人はここに近づくのを恐れていたそうです。1960年代に日本の戦後賠償でサヌール・ビーチにグランド・バリ・ビーチ・ホテルという大型の豪華ホテルが建てられました。その後、現在のサヌール・ビーチ・ホテルや、このバリ・ハイアット・ホテルがあいついで建築され、サヌールの海岸は悪霊のすみかから一転して、インドネシア財政のドル箱になったのです。
     「瀬田沙代さんがウブッドでガムランを習おうとされた動機については、私には分かりませんが、私がいま申し上げたバリ観光の手練手管で呼び寄せられたわけではなく、ガムランの響きに心底魅せられたからだと思いますよ。そうでないと、プリアタンの山の中で2年間も暮らせるわけがないですから。沙代さんが見たいと思ったバリの風景が、聞きたいと思ったバリの音が、1930代の欧米の芸術家たちが感銘を受けたものと同じなのか、それとも、沙代さんは彼らとはもっと違ったバリを発見しようとなさったのか、こればかりはご本人に聞くしかないのですが、いまではそれは不可能になりました」
    鷹石はテーブルのビールで喉をうるおした。
     「私たちは沙代がやろうとしたことにあまり関心を示さなかった。沙代が死んで初めてあの子が何をしたがっていたのかについて、本気で考える気になった。皮肉なことですね」
     倉田伸生がしんみりと言った。
     「沙代がバリに遊びにきたら、と言ってくれたことがあったのです。あのとき、バリに来て、あの子がバリで何を考え、何をしようとしていたのか、聞いておけばよかった」
     倉田伊津子が潤んだ声で言った。
    「ジャカルタで暮らしてきたころ仕事で関係のあった会社からワヤンをやるからと招待されたことがありました。鷹石さん、インドネシアではお祝いごとにワヤンをやりますよね。沙代とふたりで行ったのですが、沙代は生のガムランの音にたいそう興味をもった様子でした。その後、ふたりしてジョグジャカルタへ出かけたことがあります。チェックインしたホテルのロビーで静かなガムランがかなでられていました。ジャワ風に髪を結い、バティックの衣装を着た女性の歌手、プシンデンとかいいましたね、その人が透明な声で不思議な音調の歌を歌っていました。戸外の暑気から逃れてホテルの空調で火照ったからだが冷される快感と相まって、心地よい響きでした。沙代はしばらくロビーの椅子に座ってガムランに聞きほれていました。それを機に沙代はバリのガムランに惹かれ、この島に通うようになりました。ジャカルタは暑苦しいだけで人間的な楽しみの少ない街です。ジャカルタの暮らしに飽き飽きしてきた沙代がガムランに強く惹かれたのは理解できます。バリに住みついて、ガムランの没頭したのも、心底あの音が心地よかったせいでしょう。あるいは、沙代は何かを忘れようとしてガムランを追求したのか。人間、どんなに幸せなときだって、ふとむなしさを感じる瞬間がある。男がそうした心の隙間を埋めるためにがむしゃらに仕事に逃げ込むように、沙代もふと感じたむなしさを忘れるために、ガムランに没頭していたのではないだろうかと、私は自分の心の迷いを沙代が死んでしまったいまになって感じています」
     瀬田誠が誰にともなく言った。どこか瀬田誠と沙代の関係に隠れた断層が走っていたことを示唆するようなことばであった。だが、これについては、倉田夫妻は別段の感想を口にしなかった。鷹石も瀬田夫妻の私的領域に踏み込む気にはなれなかった。夫婦の断層については、鷹石は痛いほどよく知っていた。
     「ところで、鷹石さんご自身は何を求めてバリにお住まいなのですか」
     瀬田誠が鷹石に尋ねた。
    「わたしもまた、おっしゃるような心の隙間を埋めようとして、隠居場所、ひょっとしたら死に場所としてバリを選んだのかもしれません」

     

     

    (この続きは6月3日の日曜日)

     

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