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2019.10.19 Saturday

『だまし絵のオダリスク』    第25回

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     槙村はアンカラでドイツ大使館のベルゲンと会ったときの記憶を反芻していた。イスタンブールのドイツ人社会はヒトラー支持派と反ヒトラー派に真っ二つに割れていると、ベルゲンは槙村に語った。
     反ヒトラー派の核になっているのが、ヒトラーの迫害から逃れてきたユダヤ系ドイツ人のグループだった。少なくともイスタンブール大学だけで百人を超える亡命ドイツ人学者が雇われている、とベルゲンは槙村に説明した。トルコ共和国の指導者ケマル・アタテュルクは、新しくスタートした国家からイスラム的なものを排除し、徹底した世俗政治の道を選ぶと同時に、大学近代化のため積極的に優秀な外国の学者を集めた。そうした伝統もあって、ヒトラーから迫害を受けているドイツのユダヤ系の学者がイスタンブール大学に集まることになった。トルコ政府は1921年のノーベル物理学賞受賞者アルベルト・アインシュタインにも誘いをかけた。しかしアインシュタインはアメリカに渡ってプリンストン大学に職を得た。
     これは槙村にはよく理解できた。明治維新後の日本も近代国家形成と高等教育近代化のために多くのお雇い外国人を雇ったからである。
     槙村は小さめのグラスのトルコ紅茶を飲み終えた。給仕に紅茶のお代わりを頼んだ。槙村はトルコ紅茶がすっかり気に入ってきた。
     そういえば、と槙村はナチ政権を嫌って日本にやってきたドイツ人ブルーノ・タウトのことを思い出した。タウトが日本滞在の経験にもとづいて書いた『ヨーロッパ人の眼で見たニッポンの芸術』といったような表題の本を、槙村はちらっと眺めたことがあった。
     ブルーノ・タウトはロシア革命に憧憬を感じて1932年から33年にかけてソ連で仕事をしたが、ソ連の建築家たちと意見があわずドイツにもどった。しかし、ドイツでは1933年にナチスが政権を掌握しており、ブルーノ・タウトは親ソ派のレッテルをはられてドイツに住みづらくなり、日本にやってきた。日本に3年ほど滞在したのち、トルコ政府に招かれてイスタンブール芸術アカデミー教授に就任した。1938年にイスタンブールで死んでいる。
     イスタンブール大学のユダヤ系ドイツ人学者の中には、反ナチ組織をつくって、ドイツ国内の反ナチス・グループとイギリスなどの諜報機関の橋渡し役の活動をし、また、ユダヤ人難民のパレスティナ移住を支援している者がいる。
     ベルゲンによると、スタイナウアー教授はミュンスター大学で国際法を教えていたが、1935年のニュルンベルク法のころからナチス政権がユダヤ系の市民に対する迫害を強めてきたことに不安を感じ、1936年にドイツを出てフランスに渡り、1年後の37年にイスタンブール大学に招かれてやってきた。以来、イスタンブール大学で国際法を教え、特にボスポラス海峡問題の研究で有名になった。
     イスタンブール大学に集まった亡命学者たちには、イギリスと親しい者、ソ連に親近感をいだく者、あるいはスタイナウアー教授のようなシオニストの活動の支持者など、さまざまな政治的傾向が見られた。イスタンブールの情報・治安当局もこうした亡命教授グループの動向に目を光らせている。
     イスタンブール大学の亡命ドイツ系教授の中に、コード・ネームをジャカランダというイギリス情報部(SIS)のエージェントがいる、とベルゲンが言っていた。ジャカランダはSISのイスタンブール機関と接触を重ねていた。ジャカランダは亡命教授たちのなかに反ナチス組織を拡大してゆき、その組織を利用してドイツ情報やドイツが占領したヨーロッパ各地の情報をイギリス側に提供していた。SISのイスタンブール機関にはバルカン全域の情報を収集する特別本部が置かれていた。そのことはドイツの情報機関もトルコ情報機関も承知していた。
     アプヴェールもまた亡命教授グループの中にドイツ側のエージェントをもぐり込ませていた。だが、イギリスの情報機関も、ドイツの情報機関も、ソ連の情報機関も、亡命教授の中につくられた特定の協力者のグループに対して直接的な圧力をかけることはしなった。もしそれをやるとすれば、その仕事はトルコ政府がやるべきことだった。しかし、ドイツ、イギリス、ソ連からの圧力をかわしながら中立を維持するために、トルコ政府はそれぞれの政府と親密さを保ちつつ警戒を深め、しかし特定の政府と極端な対立にはまりこむことをさけ、外交全般のバランスを何とか保とうという、微妙な立場にあったので、教授たちのなかのエージェントは監視するが、かれらに手出しをすることは避けてきた。

     パーク・ホテルに帰り着くと、フロントの係りが伝言を槙村に手渡した。伝言はアンカラからイスタンブールに帰る車中であったムス・スルタンからだった。「プリンキポ島の週末にお誘いしたいので折り返し電話いただきたい」と文面にあり、列車内でムス・スルタンが槙村に教えたのと同じ電話番号が書かれていた。
     槙村はその番号に電話した。
    「スルタン商会でございます」
    電話に出た女性はのっけから英語で会社名を名乗った。
    「ムス・スルタンさんとお話したいのですが。こちらは槙村中佐です」
    槙村も英語で言った。
    「あいにく、ただいまムス・スルタンは来客と面談中でございます。終りましたらこちらから電話させていただきます。よろしければ電話番号をどうぞ」
    「パーク・ホテルに滞在中の槙村中佐とお伝えください」
     槙村は電話を切ってパーク・ホテルのテラスに出た。ウェイターがニコッと微笑んでくれたので、ビールを持ってきてくれないかと注文した。
     しばらくしてウェイターがビールといっしょに連絡も持ってきた。
    「槙村さまに電話が入っています。あちらの電話機でどうぞ」
    ウェイターがロビーからテラスへの出口においてある受話器を示した。
    「槙村です」
    「こんにちは、槙村中佐。先ほど電話いただいたさいは失礼しました。ところで、この週末の31日から6月1日かけて、何か特別のご予定でもおありでしょうか。もしよろしければ、マルマラ海のプリンキポ島でのひとときにお誘いしようと思いましてね」
    「どういうご趣旨のお招きでしょうか」
    「いやいや、ごく気楽な集まりです。私の友人がマルマラ海に浮かぶプリンス諸島のなかで一番大きな島『ビュユックアダ』に別荘を持っているんです。ビュユックアダはプリンキポ島の名で外国人にはおなじみだろうと思います。スターリンに追放されたレオン・トロツキーがオデッサ港から黒海に出て1929年にイスタンブールにたどり着き、そののちこの島に来て、邸宅を借りて1933年まで亡命生活を送りました。そのトロツキーが住んでいた別荘を私の友人が買い取りましてね。トロツキーが去年メキシコでスターリンの手の者らしき男によって暗殺されてからは、この別荘にトロツキーの幽霊が現れるようになった、と島の人々はもっぱら噂しています。面白いところですよ」
    「トロツキーの住んでいた別荘となると、ちょっと拝見したい気持になります」
    槙村が興味を示した。
    「ええ。ぜひおこしください。プリンキポ島という名前からご想像がつくと思いますが、ビザンティン時代、皇帝に忌み嫌われた王侯貴族たちが島流しにされた場所だったといわれています。19世紀になってイスタンブールとこの島の間に蒸気船が就航するようになり、イスタンブールのトルコ人の金持や、ユダヤ系、アルメニア系、ギリシャ系の金持が別荘を建てて、夏のあいだ避暑地として利用するようになりました。ところで、そのトロツキーの幽霊が出るという噂の別荘で週末を過そうというのは、槙村さんと私と、別荘の持ち主である私の友人、それにリスボンからやってきた彼の友人、あわせて4人です」
    「それでは王侯気分の週末を楽しませていただきましょうか。ご招待ありがとうございます」
    「では、31日の朝9時、パーク・ホテルへ迎えを出しましょう。その者が槙村さんをエミノニュのビュユックアダ行き船乗り場にご案内します。私はそこでお待ちしています」
    ムス・スルタンが電話を切った。
     

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