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2019.11.22 Friday

『だまし絵のオダリスク』   第29回

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     マルマラ海に浮かぶビュユック島のアフメト・エルキンの別荘に一泊して、槙村は6月1日の日曜日の朝の船で島を発った。正午ごろ槙村はエミノニュの埠頭で船をおり、そこでムス・スルタンと別れた。槙村はぶらぶらとシルケジ駅の方へ歩いていった。
     シルケジ駅と道路を挟んで向かい側にある菓子屋兼喫茶店に入って、トルコ紅茶とペーストリーを頼んだ。槙村はペーストリーをちぎって口に入れ、砂糖ぬきのトルコ紅茶を飲んだ。トルコのパンは素朴なおいしさがあり、お菓子の方も甘さの極致といった味わいだが、この店のペーストリーはひたすら甘いだけで、ざらついた舌ざわりだった。槙村はそれとなく周囲をうかがった。店のなかにも店の外の道路にも、槙村を尾行しているような人影はなかった。われながらスパイ入門の初級コースの演習をやっているようなくすぐったい気分だった。
     槙村は喫茶店を出て、シルケジ駅前で客待ちしていたタクシーに乗ってパーク・ホテルに帰った。フロントで「領事館まで電話願いたい。マクシミリアン・ベルゲン」という伝言メモを渡された。ベルゲンは土曜日の夕刻と日曜日の朝の二度電話かけてきていた。槙村は部屋に入って荷物をおき、ドイツ領事館のベルゲンに電話をかけた。
    「日曜日におよびたてして申し訳ないが、お見せしたいものがある。そうだな、午後3時、領事館にわたしを訪ねていただけないだろうか」
     ベルゲンが言った。
    「いいとも。ホテルのすぐ隣だ。では、3時に」
     槙村が答えた。
     午後3時、ドイツ領事館の玄関まで迎えに出てきたベルゲンに案内されて、領事館の廊下に入ったとき、初老の小柄な男がオフィスに入ろうとしていた。彼はドアを開け、部屋に入る前にベルゲンと槙村の方を振り返った。槙村はその男がかすかに微笑んだような気がした。
    「ベルゲンが槙村を2階のオフィスに案内した。オフィスの大型作業デスクに書類がいくつかおかれていた。二人の男が立ちあがってベルゲンと槙村を迎え入れた。
    「さっそくですが、これまでに集めた情報から、アルメニア系の反トルコ組織が田川さんの殺害に関わったと思われます」
     二人の男のうち年かさの方がベルゲンよりも槙村にむかって報告した。
    「われわれがアルメニア人組織の中に潜らせているエージェントからそのような報告が寄せられています。イスタンブール警察も同じような結論に達していると予想されますが、なにしろアルメニア問題はここでは爆弾のようなものですから、トルコ政府はその情報をいまのところ伏せているようです」
     トルコは19世紀末から20世紀はじめにかけて、当時のオスマン帝国内に暮らしていたアルメニア人を二度にわたって迫害している。1890年代にロシアの支援を受けて民族主義運動を開始し、反トルコ色を鮮明にしたアルメニア人を、アブドゥル・ハミト二世が迫害した。第一次世界大戦中には、青年トルコ党政権がアナトリアからアルメニア人を追放しょた。このときの混乱で数百万人のアルメニア人が命を失ったとされている。第一次大戦が終結すると、アルメニア民族主義者がアルメニア人の国家の建設をもくろんだ。この運動はトルコの領土を守ろうとするケマル・アタテュルクのトルコ革命軍と、アルメニアを社会主義化しようと目論むロシア赤軍によって打ち砕かれた。
    「田川とアルメニア人との間にどのような遺恨があったというのですか」
     槙村が説明してくれた男に聞き返した。
    「いや遺恨ではなくて、アルメニア人の組織は依頼を受けて殺人を請け負ったのではないかとわれわれは考えています。トルコと日本・ドイツ・イギリス・ソ連のあいだに相互不信を起こさせ、トルコの立場を揺さぶるのが目的でしょう。アルメニア人の組織の犯行とトルコ政府が発表すれば、そのときは適当な理由をでっち上げて、トルコによる過去のアルメニア人大量殺害事件の記憶を世界に呼び戻させるだけのことだ、と彼らは考えたのです」
    「われわれにわからないのは、なぜ田川さんが標的になったか、という点です。田川さんは、何ゆえにそれほどの重要人物だったのでしょうか? 槙村さん、ご存知なら教えてください。報告書は持ち出し禁止ですので、この部屋でお読みください。メモも取らないでください。コーヒーでもさしあげましょう。では」
     ベルゲンはそう言って槙村と握手し、年かさの方の男とともに部屋を出て行った。部屋には槙村と若い方の男の二人だけになった。トルコ人の職員がコーヒーポットとカップをもって部屋に入ってきた。槙村はたっぷり2時間かけて報告書を熟読した。
     午後6時過ぎパーク・ホテルにもどると、フロント係りがこぼれるような笑みを浮かべて槙村にルームキーを差し出し、メッセージをお預かりしていますといった。伝言用紙には「このホテルに泊まっています。モニカ」と書かれていた。筆跡はモニカのものだった。
     槙村の目にパーク・ホテルのロビーが急に明るく輝いて見えた。槙村は階段を二段とびでかけあがり、自室に急いだ。槙村が自室のドアを開けたとき、部屋の中がさきほど出て行ったときと違うことに気がついた。思わず一歩部屋の中に入った瞬間、後頭部に激しい衝撃を感じ、槙村は目の前が暗くなるのを感じた。
     

     

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