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2020.01.26 Sunday

『だまし絵のオダリスク』   第31回

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    6月2日月曜日の朝、槙村は医師の診断を受けた。異常はみあたらないということで無事退院した。迎えに来てくれたモニカとパーク・ホテルに帰った。シャワーを浴び着替えたあとモニカと朝昼兼用の食事を済ませた。
    「月曜日のこの時間、ここであなたがわたしといっしょにのんびりしているということは、傷病兵見舞いのための休暇がとれたわけだね。どうやら頭もすっきりした。散歩にでも行こうか」
    「ガラタ橋を渡るとき丘の上に見えたどっしりとした構えのシュレイマニイェ・ジャーミーへ行ってみない」
    「いいね。気晴らしにイスタンブールの休日でも始めるとするか」
    槙村が暢気な声で言った。
     槙村はホテルの前にとまっていたタクシーを拾った。坂道を下ってボスポラス海峡沿いの道路に出て、海岸沿いの道をガラタ橋方向に進んだ。タクシーがガラタ橋を渡るとき、シュレイマニイェ・ジャーミーの威容が見えた。タクシーはガラタ橋を渡り終えてしばらく直進して右折、細い坂道を登っていった。間もなく高いミナレットと巨大なモスクがせまってきた。
    「モニカ、これがお待ちかねのスレイマニイェ・ジャーミーです。東ローマ帝国時代のキリスト教聖堂ハギア・ソフィアをモスクに改修したアヤ・ソフィア、オスマン朝のアフメト一世が建築を命じたスルタン・アフメト・ジャーミーこと通称ブルー・モスク、シュレイマン一世のシュレイマニイェ・ジャーミー、この三つがイスタンブールの三大宗教建築物です」

    「ケルンの大聖堂とどちらが高いかしら」

    モニカがまぶしそうな表情でミナレットを見上げてつぶやいた。
     シュレイマニイェ・ジャーミーのテラスから二人は金角湾とボスポラス海峡を見下ろした。風が二人をつつんだ。白と赤の小さな花柄をあしらった紺地のワンピースを着たモニカの亜麻色の髪がかすかに揺れ、逆光のもとで光った。こういう戦争の時代でさえなければ、と槙村は思った――だが、かりにこのような時代でなかったとしたらなら、槙村がモニカに会うことはなかっただろう。
    「シュレイマン大帝が命じたこのモスクはブルー・モスクより半世紀前に完成した、とベルリンの図書館で読んだ『イスタンブールの歴史的建築』という本に書いてあったわ。シュレイマニイェ・ジャーミーができたのは16世紀中ごろ。ブルー・モスクの完成は17世紀前半。シュレイマニイェ・ジャーミーはシナンという建築家の手になり、ブルー・モスクの方はシナンの弟子が建てたそうよ」
    「パリのノートルダム大聖堂の完成より2世紀ほどあとだ。ケルンの大聖堂はそのころ建築中だった。人間はなぜ巨大な建物や高い塔を建てたがるのだろうね」
     モスクに入ると、その内部の空間は予想外に明るい光につつまれていた。ドームには数えきれないほどの窓がくりぬかれて、そこから光がおしげもなく、たっぷりと礼拝場に差し込んでいた。
    「イスタンブールのモスクはスパイたちの連絡場所に使われているそうよ。おたがい観光客をよそおってモスクで接触するんだけれど、ときに顔見知りのスパイ同士が鉢合わせして、どぎまぎしあうこともあるらしいの。でも、このモスクはスパイたちの密会場所にしてはすこし明るすぎるわね」
    「女スパイと男スパイの勤務時間外の密会にはちょうどいい明るさだ」
    シュレイマニイェ・ジャーミーはモスクを中心に、イスラム神学校、病院、調理室、食堂、庭、墓地などの多くの施設で構成されていた。礼拝室の背後に墓地があった。二人はモスクを出て、墓地に入っていった。そこにはシュレイマン大帝とその妃ヒュッレムの墓廟があった。
    「ヒュッレムはヨーロッパではロクセラーナの名で知られているのよ。そっちの名前のほうが通りがいいの。ロクセラーナはウクライナ出身のスラブ系のキリスト教徒で奴隷だったそう。シュレイマン大帝の寵愛をうけて、シュレイマンの子どもを五人も産んだ。そのかいあって、彼女は奴隷の身分からから正式の后へと昇格した。オスマン朝ではスルタンが法的に正式な妻を持つのは異例なことだったといわれているわ。ロクセラーナの方も、シュレイマンの寵愛にすがっているだけではなくて、自らも権謀術数を駆使して権力の座への道を開いたそうよ。シュレイマンと第一妃ギュルバハル・スルタンとの間に生まれた世継ぎ候補のムスタファが反逆を計画しているとシュレイマンに吹き込んでムスタファを殺させた。ムスタファはスレイマンの子どもたちの中で最もすぐれた人物だったといわれていた。賢者が中傷の果てに殺され、愚者が生き延びる。王朝の歴史ではよくあることだけど、聞くたびにむなしくなる話ね。このほか、ロクセラーナは権力の階段をのぼるために、さまざまな陰謀をめぐらせたらしいの。そうやって最後にはシュレイマンの統治手法にまで影響を与えるようになった」


     

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