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2020.02.01 Saturday

『だまし絵のオダリスク』   第32回

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    「女性は権力から遠く、愛に生きる者、というのは、男の側の勝手な幻想なんだね。機会さえあれば、男も女も同じようなことをやるわけだ」
    「そういうこと。19世紀にアングルが描いた『グランド・オダリスク』は今ではルーブル所蔵の名品だけど、毒にも薬にもならないオツム空っぽの、ただひたすらに官能的なだけの女のイメージは、西ヨーロッパ人がいだいているオリエントに対する幻想なのよ。これはアンカラでドイツ大使館の館員とお昼を食べているときに聞いた話なんだけど、実際のトプカプのハレムは暗く陰惨な権力闘争の舞台だった。オスマン・トルコのハレムも、昔の中国の後宮と同じように、権力をめぐる陰謀の臭気で窒息しそうなところだった」
    「幼いころ奴隷として買われ、ハレムに囲い込まれ、オダリスクとよばれる小間使いをやっているうちに、ハレムの陰謀術を身につけるわけだ」
    「一種の生き残り競争ともいえるわ。彼女たちの中の選ばれたものが、歌舞音曲や文芸、さらには愛の技法も教えられて、スルタンの目にとまるのを待っている。その奴隷の娘がスルタンの寵愛を受け、やがてスルタンの子を産み、その子どもが次のスルタンになることで、彼女はヴァリデ・スルタン、つまり「スルタンの母」として宮廷での権力を掌握する。この目標を目指してハレムの女たちは執念を燃やした。スルタンの子を生んだ性奴隷は、黒人宦官長や、宰相や、西欧からやってきた外交使節など野心にみちた取り巻きを利用し、同時にまた彼らに利用されるといった謀略の渦の中で生きたそうよ。そのうえ、トプカプ宮殿のハレムは人口過密で衛生状態が悪く、しばしば疫病が発生したらしい」
    「そうだね。その話はどこかで聞いた。宮廷がトプカプからドルマバフチェに移った理由のひとつは結核だったという説……」
    「19世紀中ごろのマフムト二世、アブドゥル・マジトの親子のスルタンはどちらも結核をわずらって死んでいるわ。メフムト二世の子で、アブドゥル・マジトの異母兄弟の、スルタン・アブドゥル・アジズは結核では死ななかったけれど、彼の宰相たちの宮廷クーデタで退位においこまれたうえ、ある日変死体になって発見された。外交公館の医師も加わった医師団が死因を調査し、自殺と結論したものの、それを信じる人は少数で、多くの人は暗殺説を支持した。アブドゥル・アジスの身内が、暗殺の首謀者と思われる高官を復讐のために殺した。しかし、すぐさまこの復讐劇は、その実力者の高官を抹殺する目的で、彼の競争相手が仕組んだものだとうわさされたわ」
    「今の時代にふさわしい殺伐としたテーマだ。スルタンの宮廷はとんだパンデモニウム(伏魔殿)だったわけだ」
    「グランド・オダリスクの背後にある深い闇。ハレムに囲いこまれていた奴隷にはトルコ系以外女性が多かったので、オスマン・トルコ帝国の支配者スルタンのトルコ系としての人種的遺伝子は、皮肉なことに代を重ねる度にどんどん影が薄くなってしまった」
    「日本の徳川将軍は全部で十五人いてね。そのうち正式な妻から生まれたのは、三人の将軍だけだった。残り十二人は側室という正妻以外の妾(ネーベンフラウ)の子だった。本で読んだことがある。日本の場合、鎖国中だったので将軍のハレムに外国人の女性はいなかった」
     モニカの顔とアングルが描いたグランド・オダリスクの女の顔が、ふと重なって槙村に見えた。

     

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