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2020.02.11 Tuesday

『だまし絵のオダリスク』   第33回

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     二人はシュレイマン大帝のモスクを出て、坂道をエジプシャン・バザールの方へ下っていった。
    「私がトルコにやってきたのは、パーペン大使暗殺計画の情報があったためなの。大使館の要人警備態勢を点検するチームがベルリンからアンカラに送り込まれた。警備そのものは私の仕事ではないのだけれど、このさい大使館の情報管理の点検もしておいたほうがいいだろうということになって、防諜部門の人たちと一緒にアンカラに来たわけ。それに、アンカラとイスタンブールの情報工作の現況を評価するのも仕事の一つ」
    「ドイツ大使暗殺計画だって? たしかな話なのかい。狙っているのはイギリス? ソ連? それともドイツに占領されているバルカンのどこかの国の地下抵抗組織?」
    「実は、ソ連らしいの。去年メキシコでトロツキーがピッケルで頭を突き刺されて暗殺されたでしょう。スターリンが送りこんだあの暗殺実行チームを取り仕切っていた男がトルコに潜入して、パーペン大使を狙った暗殺計画の準備を進めている。そういう情報をモスクワのアプヴェールのエージェントが手に入れた。一〇人ほどのメンバーがトルコに入っているそうよ。もちろんこの情報はトルコ政府の治安当局にも通報したわ。これからしばらくの間、パーペン暗殺計画をめぐって神経質なさぐりあいが繰り広げられることでしょう」
    「それらしい話はアンカラでベルゲンから聞いた。ベルゲンは標的がパーペン大使だとまでは言わなかったけれど」
    モニカはしばらく口を閉ざして、ボスポラス海峡を見下ろしていた。
    「ところで、タダシ、あなたの旅行はどうだったの? あなたの甥ごさんの死について何か新しいことがわかったの?」
    「いや、彼の死をめぐる謎はちっとも解けないままだ。このまま迷宮入りするのではないかと心配している」
    「そうなの」
     モニカは田川の死にかかわる槙村の調査結果についての話題をあっさり打ち切った。
    「イスタンブールであなたに会ったら知らせようと思っていたことがあるの。それは日本の外交暗号通信の内容がアメリカで漏洩した問題について、ドイツ政府が日本政府に伝えなかった部分。その情報というのはね。日本の外交通信の内容が漏れている原因は、誰かが何らかの目的で情報を流しているのではなくて、アメリカが日本の外交暗号通信に直接割ってはいって、傍受した暗号通信を解読しているから、ということ」
     坂道をぶらぶら下りながら、モニカが槙村に語り開けた。モニカは槙村の右腕に自分の左腕を回して、槙村を見つめながら小声で語り続けた。
    「ああ、その可能性は最初から議論されていたよね。でも、情報漏洩の原因が日本の外交公館の機密保持のたるみによるものではなく、暗号解読であるとドイツ側が判断した理由は何だろうか」
    「ドイツ政府は日本政府に対して理由を明らかにしてこなかったけれど、アプヴェール内部でささやかれている内幕話を最近耳にしたの。こういうことらしいわ」
     石畳の割れ目につまずいてモニカの体がちょっと揺れた。
    「足もとに気をつけて」
    槙村が言った。
    「ええ。ドイツが日本に伝えていない詳細はこういうことらしいの。駐米ドイツ大使館の大使代理のハンス・トムゼンが駐米ソ連大使コンスタンチン・ウマンスキーと会見中に、アメリカ側が日本の外交暗号を解読し、その内容の一部をソヴィエトに流していることを知った。ウマンスキーはトムゼンに、ドイツがソ連攻撃を計画していると非難したそうよ。そのなかで、ウマンスキーはドイツのソ連攻撃計画を、ベルリンの大島大使が発信した暗号電報を解読したアメリカ側から耳打ちされたことをほのめかした」
    「ずいぶんうかつなソ連大使だね。ちょっと信じられないが」
    「ウマンスキーはワシントン駐在の各国大使の中では最年少で、それだけに外交的老練さ、あるいは狡猾さにまだ磨きがかかっていなかったのでしょう」
    「トムゼンからベルリンにこの件で連絡が届いたのはいつのこと」
    槙村が尋ねた。声は殺しているが、苛立ちの気配があった。
    「4月28日だとされているわ」
    「ドイツ外務省から大島大使に連絡が行ったのは5月初めだったよね」
    「ええ、そうよ」
    「大島大使はそのことを5月3日に東京に打電したと聞いている。したがって東京から駐米大使には数日内に連絡しているはずだ」
    「それからもう一ヵ月になるわね。タダシ、今度の旅行で何か感触はつかめたの」
    「ああ、わたしの感触は暗号が解読されているのではなかろうか、というものだが、その裏づけがいまひとつ弱いのだ。ソ連大使館の情報担当者らしい人物から、あって話がしたいと申し入れがあった。近いうちに接触してみようと思っている」
    「そうなの。代替暗号システムを使ったほうがいいと、本国に進言するまでの証拠がまだないわけね」
    モニカがそっけない調子で言った。坂道の金物屋の店先に立っていた職人らしい風体の年寄りが、モニカと槙村に向かって笑顔を向けた。モニカがそれに笑顔で応えた。
    「ここをもう少し下ってゆくと、エジプシャン・バザールに出る。そこに有名なコーヒー店があるそうだ。喫茶店ではなくて、コーヒー豆を売っている『メフメト・エフェンディ焙煎コーヒー店』という店。それまではコーヒー豆は生のままで売られていて、買った人が自分で焙煎し、粉にひいていた。それをフェンディが焙煎し、さらにひいて粉にしたコーヒーを店頭で売ることを思いついた。今から70年ほど前のことです。エジプシャン・バザールのエフェンディのコーヒー店の前に、コーヒーの香りが立ち込めて、店は大繁盛。今ではエフェンディの子どもたちが店を引き継いでいる。そこでコーヒーを買い、ホテルに帰って、本日の締めくくりに香り高いトルコ・コーヒーをたてよう」
    槙村が明るい声でモニカに言った。
     Darling, I am growing old
     Silver threads among the gold
    坂道を下りながら、モニカが19世紀末から20世紀はじめにかけてアメリカで大流行した歌を小声で歌い始めた。歳をとり、金髪に白髪がめだち、人生は足早に色あせてゆくけれども、いとしい人よ、あなたはいまでも私ひとりだけのもの、という歌詞だ。モニカの声はアルトで、英語の歌詞にはかすかにドイツ語のなまりがあった。槙村はモニカがいとしくてたまらなかった。

     

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