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2018.06.03 Sunday

『ペトルス――謎のガンマン』  第5回

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    5月19日朝、バリ駐在領事事務所

     

     スラバヤ総領事館デンパサール駐在官事務所の久保田尚領事が5月19日朝8時ごろ鷹石里志の自宅に電話してきた。
    「おはようございます。領事の久保田です。朝っぱらから、すみません」
    世の中には聞くだけで気が滅入る声もあれば、久保田のように、話しかけられた方がすーっと気が軽くなるようなしゃべり方をする人もいる。
    「おはようございます」
    鷹石も朗らかな口調で応じた。
    「ご都合がつけば、9時に駐在官事務所までご足労願えませんでしょうか。実は先ほど倉田伸生さんから電話をいただきましてね。なくなられた瀬田沙代さんのご遺体のことで、9時に事務所におみえになります。ご遺体をそのまま運ぶか、ここで荼毘にふすか、その選択の話になると思います」
    「なかなかに辛い選択の時ですね」
    「その選択をなさったあと、警察へ行って遺体の引き取りをする手順になるのですが、あいにく私は午前11時から正午まで、バリ州の知事と会見の予定があるため、倉田さんご夫妻に同行できないのです。遺体引き取りの手続きについて、警察の説明をインドネシア語から日本語に翻訳する仕事をお引き受け願えないかと思って電話しました」
    「いいですよ。ウダヤナ大学で教えているのは木曜日だけですから。その日以外は遊民です。9時に事務所ですね」

     

     久保田領事の事務所に倉田夫妻、瀬田誠、和田俊夫があらわれた。
    「私はきょう警察で沙代の遺体と対面しますが、そのあと、警察と遺体の引き取りについて打ち合わせすることになるでしょう。沙代を日本に連れ帰るについては、遺体のままで空輸するか、ここで荼毘に付して遺骨を持ち帰るかのどちらかですが、それを決めるにあたって少々お尋ねします。まず、遺体のままで日本へ空輸するにはどんな手続きが必要でしょうか」
    瀬田誠が領事に尋ねた。
    「まず、死体検案書ですが、デンパサールで沙代さんのご遺体を検視した医師が作成します。この死体検案書は警察で発行してもらえます。念のため4通ほど書いてもらってください。日本国内で死亡届を出す時などに必要になる書類です。警察のインドネシア語の検案書には日本語の翻訳が必要です。駐在官事務所で翻訳します。また、この事務所も遺体証明書を発行します。ご遺体の空輸にともなう通関手続きについての書類なども事務所の方で作成のお手伝いをいたします。また、ご遺体を運ぶ作業は作業に手慣れた当地の業者をご紹介し、空輸の指示についてもお手伝いできると思います。日本へ着いてからのご遺体の受け取りなどについては、瀬田さんと倉田さんの方で、日本側の葬儀社に依頼なさってください」
    久保田が答えた。
    「荼毘に付すとすれば?」
    瀬田がたずねた。
    「バリでお亡くなりなった外国人を火葬するための施設がヌサ・ドゥア地区にあります。こちらの方も準備は事務所でお手伝いできます」
    久保田がゆっくりと丁重な口調で返事した。
    「鷹石さん、昨夜あなたがお帰りになったあと、瀬田誠君とわれわれ3人で遺体を日本に運ぶか、ここで火葬にしたうえで遺骨を持ち帰るか、いろいろ話し合いました。外国で肉親の遺体を荼毘に付すということが、私にはちょっとぞんざいなことに思えて、沙代を遺体のまま日本へ運ぼうと言ったのです。ですが、妻の伊津子が沙代の遺体と沙代への思いをずるずると日本までひきずらないで、このさいバリできっぱりと沙代の遺体とはお別れする方がいいのではないか、と反対意見を出しました。夫である誠君も伊津子の意見に賛成しましたので、昨夜、原則的に当地で荼毘という結論をみました。ところでその外国人火葬施設はどんなところですか」
    倉田伸生が久保田と鷹石に尋ねた。
    「バリでなくなった旅行者やバリに長期間滞在していた外国人が当地で死んだ場合、家族の希望に応じて遺体を火葬する施設です。国際火葬場ともヤサ・マンダラともよばれています。バリのヒンドゥー教徒の火葬は通常、屋外で行います。かつてバリに存在したさまざまな王家の末裔などの有力者の火葬となると、火葬の1ヵ月もまえから、準備や前触れの催しが始まり、大そうなお金をかけた行事になります。インドネシア中や、遠く外国からも火葬を見ようと大勢の見物人が集まってきます。ヒンドゥー教徒にとっては、死というのは魂の問題であって、もはや魂が帰ってくることがなくなった肉体は不用のものであり、すみやかに自然に返すべきものなのです。
    「われわれ日本人にとっては、葬儀は厳粛なもので、そしてしめやかに行われなければなりません。それが死者に対するわれわれの敬意なのです。バリのヒンドゥー教徒が着飾って賑々しくお祭り騒ぎのうちに火葬をおこなうのは、それもまた死者の魂への敬意の表明であるからです。彼らはそう理解しています。バリのヒンドゥー教徒は、火葬は屋外で行うものだと信じています。私は学生のころ、インドのすべてのヒンドゥー教徒が人生の最後をそこで迎えたいと願っているベナレスを訪れたことがあります。ボートに乗ってガンジス川から岸辺をながめると、川岸のあちこちに薪を積み上げて野焼き方式で火葬をする煙がのぼっているのが見えました。薪で遺体を焼いて遺骨をガンジス川に流すのが最上の葬儀だと彼らは考えています。ベナレス市当局も現代式の火葬炉を備えた施設をつくっていますが、狭い炉の中で遺体を焼くことを嫌っているのか、いっこうに屋外での火葬が減らないそうです」
    久保田が説明した。
    「去年のことです。ヤサ・マンダラで、バリのある王家の末裔の高名な医師がオランダ生まれの妻の葬儀をおこなって、ちょっとした議論になったことがありました。そのような安直な葬儀は、華麗にして豪華なバリの王宮の文化的伝統から外れたものである、と批判の声があがりました。バリの有力者の大がかりな葬儀にはそれなりの支出がともないます。したがって地域に相当の金が落ちるわけで、一種の富の再配分の役割も果たしてきたわけです。
    「日本流にいえば喪主にあたるその医師は、実務的かつ効率的な葬儀を行っただけのことだ、と説明しました。妻は遺言で簡素な葬儀を望んでいた。バリ・ヒンドゥーのさまざまな約束事を切り捨てた葬儀でしたが、葬儀にはパンデタの称号を持つヒンドゥーの高僧を招いて立ち会ってもらったそうです」
    久保田が補足した。
    「国際火葬場でお骨にしていただきましょうよ。沙代の半分はあの子が好きだったバリに残し、半分を私たちが日本に連れ帰りましょう」
    倉田伊津子がきっぱりとした口調で言った。
    「お話のその王家の末裔のお医者さまが、奥さまの火葬の時にヒンドゥーの高僧をおよびになられたように、沙代のためにどなたか仏教のお坊さまかキリスト教の牧師さまか神父さまに導師をお願いしたところだけど、ここでは無理よね」
    伊津子が伸生と誠に言った。
    「仏教の高僧ならここにいらっしゃいますよ」
    領事の久保田がいたずらっぽい目で言った。
    「デンパサールに仏教のお坊さんがいらっしゃるのですか」
    瀬田誠が問い返した。
    「そうです、いま私たちの目の前にいらっしゃいます」
    久保田の目が鷹石里志を指していた。
    「鷹石さん、お坊さんでいらっしゃる?」
    瀬田誠が言った。
    「いやいや、これはどうも……。わたしはお寺に生まれました。大学卒業後、寺を継げと言われて、坊さんの修行をして、寺に帰って副住職をつとめましたが、一年ともちませんでした。結局、大学院に入って教師になってしまいました。寺は弟がつぎました。落第坊主です」
    「ご謙遜を。米国の大学で哲学博士の学位を取得された学僧でいらっしゃる」
    久保田がダメをおした。
    「鷹石さん、沙代のために是非お願いします」
    伊津子が懇願した。
    「わかりました。倉田家のご宗旨は?」
    「臨済です」
    「そうですか。偶然ですね。私も短い間ですが臨済の僧でした。日程が決まりましたらヌサ・ドゥアにご一緒して『大悲心陀羅尼』を唱えさせていただきましょう。葬式の時の定番のお経で、私が覚えている数少ないお経です」
     話が決まったので、久保田がグスティ・アグン・ライ警視と電話連絡を取り、これから直ぐ会ってもいいとの了解を取り付けた。倉石夫妻と和田は借り上げたホテルのリムジンで、瀬田誠は鷹石の車に同乗してバリ州警察本部へ向かった。
    瀬田誠が遺体になってコンテナの中に横たわる沙代と対面した。瀬田は亡骸となった妻をみて、ううっと嗚咽のような小さい声を漏らした。誠の嗚咽に誘われて伊津子の目に涙があふれた。さよ、さようなら、と伸生が言った。和田が家族を見守るようにちょっと離れたところに立っていた。
     警察本部の応接室に戻り、瀬田誠が警視に、沙代の遺体をバリでの荼毘に付すためや、日本で死亡届など出すために必要な警察関係の書類の用意を依頼した。
    「必要書類はすでに用意しています。本日の午後以降いつでも、そちらのご都合のよいときに遺体の引き取りにおいでください。そのとき、必要書類と警察が保管している遺品をお渡しします。それから瀬田さん。沙代さんに関する書類や遺品は、夫であるあなたあてに発行し、あるいはお返しすることになります。書類作成にあたっての確認のためにパスポートを拝借できますか」
     ライ警視は瀬田からパスポートを受け取り、ひかえていた刑事に渡した。刑事はそれを持って部屋から出て行った。
    まもなく、瀬田にパスポートが返され、
    「もっと楽しいことでバリにおいでくださったのであればほんとうによかったのですが。あらためて、被害者のご家族のみなさまにお悔やみを申し上げます。バリ警察は総力を挙げて犯人を追っています。解決までにいま少しの時間をください。かならずや犯人をとらえ、事件を解決してみせます」
     警視が丁重にして堂々たる挨拶をした。

     ヌサ・ドゥアの国際火葬場・ヤサ・マンダラが久保田の手配で、20日の午後1時から使えることになった。葬儀には瀬田誠、倉田夫妻、和田俊夫、久保田尚、鷹石里志が集まった。それにグスティ・アグン・ライ警視が警察本部長と一緒に加わった。鷹石はいたずら半分の雲水気分でバリに持ってきていた、夏用の麻の墨染めの衣を着て現れた。

       なむからたんのーとらやーやー
       南無喝囉怛那 哆羅夜耶
       なむおりやー ぼりょきちーしふらやー
       南無阿唎耶 婆盧羯帝爍鉗囉耶
       ふじさとぼやーもこさとぼやー
       菩提薩埵婆耶 摩訶薩埵婆耶
       もこきゃるにきゃやー …………
       摩訶迦盧尼迦耶 …………

     火葬炉の前で、鷹石が『大悲心陀羅尼』をゆっくりと唱え始めた。
     やがて、炉のスイッチが入れられた。ボッと低い音を立てて炉の中に炎が充満する気配を皆が感じた。みんな頭を垂れた。あふれ出た伊津子の涙がぽたりと床に落ちた。
     倉石伸生と瀬田誠が精進落しにといって、20日の夕食にさそったが、警視と久保田はスハルト政権が倒れるかどうか、いまやインドネシア情勢は正念場に来ているので、残念ながらと辞退した。
    「紗代のことで外交官本来のお仕事に支障が出たのではないでしょうか」
    倉田伸生が言った。
    「邦人保護は領事の主要任務です」
    久保田が答えた。
     鷹石だけが述べ送りに立ち会った僧侶の儀礼として精進落としにつきあった。亡くなった人をこの世からあの世へやすらかに送りだすのが僧侶の唱えるお経であり、この世に残された方の人の気持ちが安らかになるよう手だすけするのもまた僧のしごとだ。

     バリ・ハイアットの庭園でガムラン演奏つきのディーナーをやっているので席を予約していると瀬田誠が言った。娘の面影をしのぶには、この夜のガムランの演奏は客が埋まらないテーブルが目立ち、金属打楽器の音がとがりすぎたな、と鷹石は遺族の気持ちを思いやり、気の毒に思った。
     沙代は子どものころバイオリンの繊細な音がお気に入りで、バイオリンを習っていたが、いつまでたっても子どものころ聞いたようなデリケートでニュアンスにとんだ音を自分のバイオリンでつくりだすことができず、そのうちバイオリンを習うのをやめてしまった。激しいガムランの音にひきこまれた心のうちを沙代から直接聞いてみたかった。そうすれば今聞いている金属製の音に、モーツアルトおとらない優しさが聞き取れたかもしれない。倉田伊津子はだれにともなくそんな感想を述べた。
    こうして5月20日が終わった。

     

     



     明けて1998年5月21日はキリスト昇天祭でインドネシアの祝日だった。同時にこの日はインドネシア人にとってはもちろん、インドネシア在住の外国人にとっても忘れられない日となった。
     午前9時、スハルト大統領はテレビカメラの前で大統領を辞任すると発表した。地元インドネシアのテレビはもちろん、BBC、CNN、NHKなどもこの大ニュースを流した。倉田夫妻はホテルの部屋にいてNHKのチャンネルでこのニュースをみた。
    ロビーへ降りると、ジャカルタから避難してきている日本人たちが寄り集まってがやがやと情報を交換しあっていた。
    「スハルトが大統領を辞任するなど信じられない。テレビを見て本当にびっくりしました」
    バティックのシャツを着た50がらみの頭髪の薄い男が言った。
    「私もそうです。国軍ににらみをきかせていたはずだから、最後は軍を動かして危機を乗り切ると思っていましたよ」
    30過ぎのポロシャツを着た男性が同意した。
    「私は航空券がとれて19日にジャカルタからバリへ来たのですが、18日のジャカルタは革命前夜のような雰囲気がただよっていましたよ。朝から学生たちが続々と国会に集結し始めましてね。そうこうするうちに、国会議長のハルモコがシャルワン・ハミド国会副議長と会ったというニュースが流れた。あれは、午後3時過ぎでしたか、ハルモコ国会議長がハミド副議長と共同で、スハルト大統領に辞任を呼びかける声明を発表しました。ハルモコといえば、長らくにわたるスハルトの腰巾着で、スハルトに『ノー』と言ったことのない男でしたからね。くわえて、副議長のシャルワン・ハミドは国軍から議会に送り込まれた議員たちで構成する国軍会派の代表でしょ。スハルトにしてみれば、飼い犬に吠えかかられたような気分だったことでしょうよ。高齢のスハルトはこれで気力を奪われてしまったのではないですか」
    40がらみの口ひげの男がいっぱしの政治分析をしてみせた。
     飼い犬に吠えられて退陣を迫られる老いた支配者の屈辱感は倉田伸生には痛いほど理解できた。いずれ自分のところにもその順番が回ってくるだろう。専務をやっている長男が全権をおれに譲れと老いた父親に引退を求めるかも知れない。油断していると、外部資本が社内の反体制派を抱き込んでクーデターを起こすかも知れない。倉田伸生が娘の沙代のことでバリに来た17日には、スハルトは内閣改造で危機を乗り切れると考えていた。それがほんの4、5日でこの様変わりだ。きのうまでスハルトの前でもみ手をしていた連中が、いっせいに背を向けた。突然、娘を失ってしまった倉田には、さだめなき世の寂寞が身にしみるのだった。
    「そうですわね。私、きのうの夜、ジャカルタで仲良くしているインドネシア人の奥さんに電話を入れてみたんです。その奥さんの話だと、国会構内には学生を中心に3万を超える人が集まった。この学生たちを支援しようと、ジャカルタ市民が立ち上がったそうです。女性たちがボランティアでグループを作り、学生たちのもとへ食事を届けた。その奥さんも国会占拠学生の支援活動に加わって弁当を運んだと誇らしく話していました。国会構内には市民がさまざまな支援の物資を運び込んでいたそうです。移動トイレ。無料の洗濯サービス。マッサージのサービス。ロックバンドの慰問。ついには移動郵便局まで設置されたそうですよ」
     日本人たちの会話には、これで政治危機は終った。まもなく、ジャカルタに帰って、引き続き日本では住めないような邸宅で、大勢の使用人を使う以前の大名暮らしに戻れる、という安堵感がただよっていた。

     

     鷹石も自宅でスハルト辞任のテレビ中継を見ていた。この日、テレビはスハルトの辞任演説を繰り返しくりかえし1日中放送した。テレビは淡々と辞任を表明するスハルトの姿を映していた。
     スハルトは政治改革委員会の設置と内閣改造で政治の刷新を図ろうとしたが受け入れてもらえなかった、と辞任声明の原稿を読み上げた。
    「そこで、1945年憲法第8条の規定と、国会の見解について真剣に考慮したすえ、1998年5月21日木曜日をもって、私はインドネシア共和国大統領を辞任することにした」
     ここでテレビの前にいたお手伝いのスチが歓声をあげた。
    「憲法第8条の規定にしたがって、ブハルッディン・ハビビ副大統領が2003年までの私の残る任期を大統領として引き継ぐ」
     このくだりではスチの歓声はなかった。
    「私の大統領任期中に寄せられた国民の支持・支援に感謝するとともに、私の側にいたらぬところや過ちがあったことをお詫びする」
     スハルトのお詫びはジャワ人の儀礼としてのレトリックであって、それ以上の意味はなかった。ホー・チ・ミン大統領が路上のベトナム人に「食事はすみましたか」と言うのを聞いた西洋人が、ホー・チ・ミンは国民の食生活にまで思いをいたしているのだ、と感心したという伝聞があったが、実は、「飯くったか」がベトナム人にとっては単なる日常の挨拶に過ぎなかったのと同じである。
    スハルトの時代はこれで終りか――スハルトの30年余りを観察してきた鷹石には感慨深いものがあった。1960年代後半、スカルノから権力を奪ってしばらくの間、スハルトは慎重で、柔軟で、笑顔を絶やさない配慮の人だった。1970年代に入って、その権力基盤が固まるにつれて、スハルトはスカルノ打倒のために彼に手を貸した政党人、知識人や学生を遠ざけて、ひたすら軍の力を利用するようになった。1974年の田中角栄首相のジャカルタ訪問の時は、学生から激しいデモをかけられた。学生のスハルトへの挑戦であり、一方で、スハルト政権内部の権力闘争の反映でもあった。
     1980年代には、スハルトは政権にとって最大の脅威であるイスラム教徒を封じ込めた。そのあとスハルトは軍の有能な若手を大統領補佐官に引き抜いて薫陶し、そのあとで彼らを軍の中枢に送り返した。スハルトはインドネシア国軍を半ば私兵化したのだ。さらに、スハルトは自分に続く政権ナンバー2を次々と取り替え、切り捨てた。おとなしい放送メディアと違って、口うるさい新聞を発禁処分で脅し続けた。最後には、野党まで金を使って抱き込んだ。こうしてスハルトの個人支配体制が確立したのだが、同時に、スハルトの長期支配体制は疲労の兆候を見せ始めた。
     スハルトによる軍の私兵化は一部の将軍たちから批判を招き、彼らのスハルト離れが進んだ。そして誰の目にも余るスハルトと家族、スハルト・クローニーによる富の独占が反発を招いた。
     そうして、スハルトの破局は思いがけないところから始まった。1997年にタイではじまったアジア通貨危機である。IMがインドネシアに融資の条件として財政構造改革を求めた。燃料補助金のカットだ。ガソリンなど燃料費が上がり、交通料金をはじめとする公共料金の値上げにつながった。
     スハルトが大統領代行から正式な大統領に就任した1968年ごろ、スハルトはガソリン1リットルの値段を四ルピアから16ルピアに引きあげる決定をしたことがあった。側近の補佐官は「値上げを決定すれば、国民は暴動を起こし、政府はつぶれる」と反対した。

    「当時、国民は1リットル入りのお茶のボトル1本に25ルピアを払っていた。ガソリン1リットル16ルピアで問題が起きるとは考えられないと判断した。そして、なにごとも起きなかった」とスハルトは自伝に書いていた。
     1998年のIMFの要請にしたがったガソリン・灯油の補助金カットにともなう値上げは、政権崩壊へとつながった。スハルトの政治センスは鈍り、周囲が見えなくなっていた。

     

     久保田尚は休日だったがデンパサール駐在官事務所の執務室にいた。アメリカ合衆国はインドネシア沖に海軍艦艇を遊弋させていた。万一の場合の合衆国市民のインドネシア脱出に備えた動きと説明していたが、インドネシアに無言の圧力をかけるための動きでもあった。日本もシンガポール政府の了解を得て、日本人のインドネシア脱出に備えて自衛隊の輸送機をシンガポール空軍基地に待機させた。
     14日のジャカルタのトリサクティ大学生射殺事件以降、インドネシアから脱出する外国人が増えた。外務省もそれまでのインドネシアに適用していた海外危険情報の危険度3を17日には危険度4に引き揚げて「家族等退避勧告」を出した。オランダ植民地支配に対する住民蜂起記念日である5月20日の「国民覚醒の日」には、反スハルト勢力が100万人デモを計画していた。日本に一時帰国したり、シンガポールに避難したりする人が増えた。インドネシア国内で比較的平穏なバリに退避する日本人も多かった。デンパサール駐在官としては避難してきた日本人の安全に配慮する必要があり、そのうえ、瀬田沙代の殺人事件でバリに来た家族への対応が重なって、久保田はインドネシア情勢が一段落へと向かい始めた21日、さすがにいささかの疲労を感じていた。
     しかし、スハルトはあっさりと退陣したものだな、と久保田は意外に感じた。1996年に夫人のシティ・ハルティナに先立たれて以来、スハルトの影が薄くなったともっぱら噂されていた。夫人は独裁者スハルトの最大の相談相手で、こんな冗談が語られていた。
     シンガポールのリー・クアンユーは首相を退いたのち、世界各国のリーダーを相手に政治コンサルタント役を引き受けていたが、あるとき某国で相当難しい相談をもちかけられた。少々お待ちを。そう言ってからリーはジャカルタのスハルトに電話をしてアドバイスを求めた。話を聞いたスハルトは、ちょっと待ってくれ、ティン(スハルト夫人の愛称)に聞いてみるから、とリーに言った。
    夫人を失ったことで、スハルトからカリスマ的な霊力・ワフユが消えてしまったという噂が広がっていた。スハルト大統領のジャカルタ・チェンダナの私邸の屋根の上からワフユがすうーっと夜空に舞い上がってゆくのをみた、と言いふらす人まで出てきた。
    冗談はさておき、アメリカのオルブライト国務長官が、事実上スハルト退陣を要求するスピーチをしたことがとどめとなって、スハルトがもはやこれまでと観念したのだろうか。スハルトはスカルノを倒すことでインドネシアの権力を握ったが、スハルト台頭の背後にはアメリカ政府とCIAの後押しがあった。ベトナム戦争に手を焼いていたアメリカはスカルノの左傾化路線を気に病んでいた。インドネシアに社会主義政権ができることを恐れていた。赤道をはさんで東南アジアの北に統一社会主義ベトナム、南に社会主義国家インドネシアができれば、アメリカのアジア政策は大きな打撃をうけることになる。アメリカはスハルトと組んでスカルノをつぶし、インドネシアを親米国家に変えた。
     あれから30年余、東南アジアの国際環境が変わり、スハルトはアメリカにとって必須の人ではなくなった。ありていにいえばご用済みの男になってしまった。スハルトはアメリカに拾い上げられ、アメリカに捨てられた。歴史ではしばしば起こることだ。

     

     グスティ・アグン・ライ警視も州警察本部に出勤していた。彼もまた一つの時代の終りを感じていた。
     1955年生まれの警視は初代大統領スカルノの演説を肉声で聴いたことはなかった。だが、彼の父親がよく言っていた。スカルノの演説を聴いているとエモシ(情念)がゆさぶられ、燃えあがってゆく。そのスカルノは、性力は政力であると信じていたような女好きで、くわえて国の金を惜しげもなく使った。スカルノにとって代わったスハルトも、ともに専制的な手法の政治指導者だった。スカルノは国庫の金を私事で消費した。スハルトは国庫に入るべき金を私物化し、財産形成に励んだ。
    政治指導者が国の富の一部を自分の懐に入れるのは、役得として認めてやってもいい。それにスハルトはスカルノ時代に傾いていたインドネシアの経済を、アメリカや日本の手助けで復興させた。スハルト時代にインドネシア人の生活水準はずいぶんと向上した。その成功報酬として、国家の金を少々くすねる程度なら文句は言わない。だが、スハルトがくすねた金額は見すごすにはいかにも膨大にすぎた。それにスハルトがインドネシアの指導者だったからこそインドネシアはここまでこられたのか、スハルトでもここまでこられたのだから、スハルト以外の有能で清廉な指導者だったら、もっとインドネシアは成功していたのか。これは重要な問題提起だが、これに答えるすべはない。
     インドネシアの前途はこれから多難だろうが、まあ、何とかなるだろう。では、あらためて瀬田沙代とスダルノの殺しの捜査に専念するか。
    「さて」
    と声を出して、警視は自分を鼓舞した。

     倉田夫妻、瀬田誠と和田の4人は成田行きの座席が確保できて、スハルト辞任の翌日の5月22日の夜、沙代の遺骨を抱いてデンパサールを飛び立った。鷹石と久保田は4人を空港まで見送った。
    「日本で葬儀その他が一段落したら、沙代のウブッドの家や、使用人の退職金など、沙代の暮らしの後始末のために、私が舞い戻ってまいります。そのときはまた、よろしくお願いします」
    瀬田誠が深々と頭を下げた。
    「久保田さん、お世話になりました。鷹石さん、あなたがいてくださって本当に助かりました」
    倉田伸生が妻の伊津子ともども、こちらもまた深々とお辞儀をした。

     

       (続きは6月10日の日曜日)

     

     

     

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