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2020.03.22 Sunday

『だまし絵のオダリスク』    第37回

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     その夜、槙村はパーク・ホテルのレストランでモニカと食事をともにした。窓際のテーブルだった。芝生の庭の向こうにボスポラス海峡の夜景が見えた。海峡に灯火が瞬いていた。開け放たれた窓から夜風が忍び込み、テーブルの上の明かりを揺らせた。揺れる火影がモニカの顔を照らした。槙村はモニカを見つめた。
    「ベンの書店であなたを見かけて驚いたわ」
    「そうか。やはり君はわたしに気づいていたのだね。あれはわたしがちょうどベンを訪ねようとしたときのことだ」
    「でも、タダシ。ベンのことをどこで聞いたの」
    「ああ。それは口にしないと約束してしまった」
    「スタイナウアー教授、カナリス提督、それに私の三人がベンを訪ねていたことにさぞ驚いたでしょうね。あの時、あのあたりにはドイツ情報機関の要員だけではなく、イギリスやトルコの情報部機関員、それに警察の私服も集まっていたわ。あなたは彼らにも目撃されている」
    「やはりあの人がアプヴェールのヴィルヘルム・フランツ・カナリス提督だったのか。なるほどね」
    「カナリス提督はスペインがお気に入りなの。レコンキスタのあとスペインから追放されたユダヤのセファルディムがイスタンブールへ移住してきた。そのさい彼らがもってきたといわれる稀覯本がベンの店にあるというので買いに行ったの。ユダヤ人はイスラム教徒支配下のスペインで暮らしていたけれど、キリスト教徒がスペイン全土を支配することになると、イスラム教徒が支配するイスタンブールへ逃げてきた。ユダヤ人にとってはイスラム教徒よりキリスト教徒の方がつきあいにくかったわけね」
    「ところで、モニカ。スタイナウアー教授はなぜ君たちといっしょだったの」
    「スタイナウアー教授はドイツから亡命してきて以来、ユダヤ人救出作戦に尽力している。反ナチの教授はイギリス諜報部にとって利用価値が高い。SDは彼のことをイギリス側のエージェントだとみなしているわ。彼には離婚した前妻との間に娘がいるの。その娘はいまドイツ占領下のオランダへ移っている。その娘をいわば人質にしてSDはスタイナウアー教授にイギリスから得た情報をドイツに提供するように脅迫している。いつ娘の身にユダヤ人迫害の手がのびてくるか、彼は気が気でないのよ。SDもゲシュタポも刑事警察も親衛隊SS傘下の国家保安本部の組織の一部になり、国外諜報部門でドイツ国防軍の諜報機関アプヴェールと対立している。そのことを知っているスタイナウアー教授は、SDからの脅迫のことをアプヴェールのイスタンブール支部に連絡して来た」
    「だが、教授はイギリスとも通じているんだろう?」
    「そう。スタイナウアー教授はイスタンブール大学の著名な国際法学者であり、イギリスのエージェントであり、情報提供者になれとSDに脅されているユダヤ系ドイツ人でもある。でも、カナリス提督が彼に会うことについては、何の問題もないというのがアプヴェールの見解だわ。きょうベンの書店でスタイナウアー教授がカナリス提督といっしょにいるところをイギリス情報機関のエージェントが見ているはずよ。スタイナウアー教授はドイツとイギリスの二重スパイで、どちらに軸足を置いているかわからない人物だ、という風聞が広がれば、イギリスは教授が提供する情報を疑いの目で見るようになる。きょうからスタイナウアー教授はイギリスの情報協力者としては、英語でいうレイム・ダックになったわけなの。あとはせいぜい、ドイツとイギリスの双方が相手方をかく乱する目的、だめもとで偽情報を流す窓口に使う程度の道具になってしまったわ」
    「そういうことか。ついでにアプヴェールはスタイナウアー教授から、彼がSDに何を求められたのかを聞き出したわけだ。場合によってはSDの対アプヴェール工作を探るアンテナにしようとしているわけだ」
    「スタイナウアー教授にしたところで、オランダにいるお嬢さんを救出するには、イギリス諜報機関よりもアプヴェールのほうが頼りになると判断してのことでしょう。それが今の彼にとって何よりも大事なことだから。それに、SDともアプヴェールとも連絡がとれるというのは、彼が取り組んでいるユダヤ人救出活動にとってはプラスの要素になる可能性もある。スタイナウアー教授にとってまんざら悪い会見ではなかったはずよ」
    「ちょっと待ってくれないか、モニカ。日本からやってきた田舎者には、すぐには理解できないことなのだけれど、アプヴェールやSDと連絡がとれると、それがなぜユダヤ人救出活動にプラスに働くの?」
    「ドイツだけでなく世界のユダヤ人には二つの考え方をするグループがあったわ。一つはいま暮らしている国で同化の努力をしようというグループ。いま一つは新しく自分たちの国をつくっていま暮らしているところから出て行こうとする政治的シオニストのグループ。ドイツからユダヤ人を追い出したいヒトラーと、ドイツから出て行って自分たちの国を建設したいというグループが、協定を結んで、ユダヤ人をパレスティに送り出す運動を始めた。30年代の中ごろのことだわ。ドイツの国内にパレスティナ移住のための訓練キャンプも設けられた。ユダヤ人がパレスティナへ移るにあたって、ドイツから財産を持ち出すことも許されたわ」
    「その協定とやらは今でも有効なのかい」
    「今度の戦争開始で自然消滅したわ。でも、ナチ政権の内部には、ユダヤ人の物理的消滅を唱える人もいる一方で、引き続きパレスティナへの移送を続けるべきだという意見もあるようよ。シオニズム運動の指導者がこんな演説をしたことがあるわ――もし、ドイツにいるユダヤ人の子どもをイギリスに連れてゆけば全員を生きながらえさせることできるが、もしパレスティナに連れ出せば子どもたちの半分しか生き残らない、と仮定しよう。子どもが半分しか生き残らないとしても、パレスティナに連れて行く。子どもたちの命だけでなく、イスラエルの民の歴史というものも尊ばなければならないからだ。そういう考え方を正しいと思う人たちがいる。彼らにとっては、ドイツがユダヤ人を圧迫すればするほど、近隣の国がユダヤ人の受け入れを拒めば拒むほど、パレスティナの人口は増え、ユダヤ人国家の樹立が近づくわけ。スタイナウアー教授は熱烈なシオニストよ。彼はドイツにとって利用価値があり、シオニストであるスタイナウアーにとってドイツはまだ利用価値がある。パレスティナのシオニストの中には、ドイツよりもパレスティナへのユダヤ人移住を阻んでいるイギリスの方を敵視している人たちもいるわ」
    「正義を行わしめよ、たとえ世界が滅ぶとも、と言うのがヨーロッパの古い格言だったけれど、いまでは絵空事なんだ」
    「日本人って、そういう発想法をするの? シオニストにとっては、民族の半分を失おうとも、自らの国家を建設することが正義なのよ。世界はそれほどすさまじい所なのよ。つくづくいやになるけれど」
    モニカのブルーの目が少し潤んでいるように槙村には見えた。
    「しかし、カナリス提督自らがトルコにやってきたということは、トルコでもSDの影響力がアプヴェールの領域を侵食し始めているということだね」
    「SDのハイドリヒはアブウェールを国家保安本部の組織の中に組み込み、完全にナチ党の情報機関にしてしまう計画を進めているわ。今回の日本外務省の暗号電報漏洩の件に関連して、国家保安本部はゲシュタポのヨーゼフ・マイジンガー大佐を東京のドイツ大使館に送った。ドイツの暗号電報が盗み読みされていないか、大使館内の情報管理の点検が目的だそうだけれど、じつは、大使館員や大使館出入りの人物の身元調査もやるみたい。たとえば、オイゲン・オット大使の私設顧問のような役割をしているリヒヤルト・ゾルゲという東京駐在の新聞記者の身元に不審な点があるとかで、それを調べるといったようなこともやるそうよ。ゲシュタポお得意の人をおとしめるためのでっちあげ捜査よ」
    「カナリス提督も大変だね。イギリスと情報戦を繰り広げる一方で、ナチ党の情報機関もおさえこまねばならない」
    「どこの国にもある官僚体制内の勢力争いにすぎないのだけれど、当事者にとっては笑い事ではないはずよ」
    そういって、モニカはテーブルの上に出ている槙村の手を握った。
    「ところで、ベンから何か聞き出せたの?」
    「殺された日本大使館員田川一郎の田川の叔父だ。田川の死について何かご存知であれば、教えていただけないだろうか。そう切り出したのだが、ベンは、日本大使館員がトルコ人の女性といっしょに死んでいたことは、新聞を読んで知っているが……。しかし、君はどういうわけで、彼らの死について、私が新聞記事以上のことを知っていると推測するのかね……。その一点張りでね。らちが明かず、やがてベンのほうもイラついてきて、お引き取り願えないのであれば、警察に連絡することにしよう、と言い出すしまつさ。結局、何も聞きだすことができないまま、引き揚げることになってしまった」

     

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