<< 『だまし絵のオダリスク』    第37回 | main | 『だまし絵のオダリスク』   第39回 >>
2020.04.07 Tuesday

『だまし絵のオダリスク』   第38回

0


           10


     槙村は6月5日の午前中にアンジェロ・ジュセッペ・ロンカーリ大司教を表敬訪問した。ロンカーリはバチカンのトルコ・ギリシャ地区代表だった。
     両親がカトリックだったので、田川は幼児のころに洗礼を受けていた。トルコに着任してからロンカーリと面識をえたらしい。田川が死体で見つかったとき、ロンカーリは警察の死体置き場にやってきて田川のために祈ってくれた。槙村は3月にイスタンブールに来たとき、ロンカーリに会ってお礼の挨拶をしたいと思ったのだが、あいにくとロンカーリがギリシャに出張中で会うことができなかった。
     ロンカーリが住宅兼務所として使っているバチカンの公館は、パーク・ホテルやドイツ領事館からほんの数ブロックのところにあった。それはイスタンブールにおけるローマ法王の代理人の公館にしては慎ましやかな二階建てだった。ドアをノックするとすぐさまロンカーリ自らが笑顔で現れた。槙村は朝一番にロンカーリに電話を入れ、午前10時の面会の約束をもらっていた。
    ロンカーリはでっぷり肥った背の低い五〇代後半の男だった。槙村と握手を交わした右手は肉厚だった。ロンカーリはイタリアの農村出身で、いまにもカンツオーネを歌い出しそうな陽気な感じだった。もっとも、そういった印象は槙村のステレオタイプなイタリア理解から生じたものだったかもしれないのだが。
     イタリアでムッソリーニが台頭してきた1920年代半ば、ロンカーリはムッソリーニとそのファシズム運動について批判的だった。ムッソリーニと友好関係を築き、それによってバチカンのイタリアにおける地位の確立をめざそうとしたバチカン指導部は、ロンカーリを煙たがり、彼をブルガリア駐在の法王外交使節に任命してバチカンから遠ざけた。ロンカーリはブルガリアで1925年から10年間にわたって地味な仕事を続けた。1934年、バチカンはロンカーリをトルコとギリシャにおける法皇代理人としてイスタンブールに送り込んだ。
     ケマル・アタテュルクの世俗主義を掲げるトルコ政府が、公共の場所で聖職者用の服を着ることを禁じていたので、ロンカーリは街中では、カトリック聖職者の服ではなく黒っぽい地味な背広にめだたないネクタイ、中折れ帽、という普通の市民の服装をしていた。ロンカーリはトルコのカトリック教会の儀式にトルコ語を導入することでトルコ人のカトリックを見る目をやわらげようとつとめ、各国の外交関係者と親しく交わってバチカンのための外交情報を集めた。使節館では数人の若い神父がロンカーリを補佐した。使節館には自家用の車がなかったので、ロンカーリはステッキをもってイスタンブールの街を歩いた。
    ロンカーリはカトリック教徒であるドイツ大使フランツ・フォン・パーペンとも良好な関係を維持するようつとめていた。ロンカーリはギリシャのカトリック教会も管轄していたので、2ヵ月に一度はギリシャへ旅行していた。ドイツ軍はいまやギリシャもおさえており、ギリシャ旅行にはドイツの協力が必要だった。またロンカーリはナチスの迫害を受けているユダヤ人を救い出す運動にも関わりはじめていた。この運動のためにも、ドイツ大使と友好的な関係を維持しておく必要があった。一方、フォン・パーペンの方もロンカーリを通じてバチカンの態度をドイツに対して友好的な方向へ変える工作をしようと考えていた。そこでフォン・パーペン大使夫人もときおりロンカーリが管轄するカトリック教会を訪れては、花を飾ったり掃除を手伝ったりしていた。
     

    「田川さんには何度かお会いしています。一度はここにチチェキさんといっしょにお見えになったことがありました」
    「そうですか。チチェキ嬢ともお知り合いでしたか」
    「チチェキさんは生命の危険にさらされているユダヤ人の救出活動に参加していました。田川さんはチチェキさんが取り組んでいたユダヤ人難民救済の活動に理解を示し、できる範囲でそれを手伝っていたようです。あの二人は素敵なカップルでした。二人はやがて祝福を受けて結婚するものと私は見ていました。こういう時代でなかったなら、きっと幸せな夫婦として一生をまっとうできたことでしょう。悲しいかな、人は生まれる時代を選ぶことができません。警察が田川さんの死を大使館に連絡し、大使館は田川さんからわたしの名前を聞いていたらしく、どなたか田川のために祈ってくれる神父を紹介してもらえないだろうかと私の事務所に電話がありました。それを聞いて、私自身で出向いたわけです。槙村さん、お悔やみ申し上げます」
    「ありがとうございました、大司教閣下」
    「ロンカーリとお呼びください」
    「ロンカーリさん、あなたもまたユダヤ人救出活動に協力なさっているとお聞きしていますが……」
    「困難な仕事ですが、生死の境で立ち往生している人が近くにいたなら、できる限りの手をさしのべたくなるものです。ドイツ占領下の国から、ユダヤ人をトルコ経由でパレスティナに出国させるためには、通過する国のビザが必要です。ですが、これらの国々はトルコ入国ビザがない限り通過のためのビザを発給しません。パレスティナを統治しているイギリスがこれらのユダヤ系難民をパレスティナに受け入れると保証しないと、トルコ政府は入国のためのビザを出しません。こうした戦時下ですから、お役所仕事はさらに時間のかかるものになっている。各国政府に可能な限りの協力を求めること、難民が生き延びるために必要な物資を提供すること、ユダヤ人救出の仕事は多岐にわたっています。まず、ナチスの支配地域から脱出してくるユダヤ人難民はイギリスにとって有益な軍事情報の提供者になりうるといって、イギリス政府にユダヤ人のパレスティナ受け入れを促進させること。ついで、イスタンブールからパレスティナまでの移動ルートの確保。ひとつはハイダルパシャ駅から鉄道でシリアへたどりつき、そこからパレスティナに向かう陸路による脱出。イスタンブール港に大型船舶を用意して海路パレスティナに向かうルート。赤十字など関係機関も努力していますが、このルート確保がなかなか難しい。また、運よくイスタンブールまでたどり着けた難民は、次の輸送ルートが確保できるまで、イスタンブールで暮らさねばなりません。彼らのために衣食住を提供しなければならない。チチェキさんが主としてやっていた活動は、イスタンブールに到着した難民の生活の手助けでした」

     

     

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    25262728293031
    << October 2020 >>
    Selected Entries
    Archives
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM