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2020.06.02 Tuesday

『だまし絵のオダリスク』    第40回

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    槙村を押し込んだ乗用車は坂道を海岸まで下りきったあと右折し、カバタシュからカラキョイに出てガラタ橋を渡ってすぐ右折、イェニ・ジャーミーとエジプシャン・バザールを左に見ながら金角湾の旧市街側の海岸道路を北に走った。エミノニュからフェネルまで来たところで、運転者は車を停めて車外に出て、尾行の車がないことを確かめた。槙村を乗せた車はさらにバラットを経てエユプまで、北に向かって走った。
    エユプ・スルタン・ジャーミーを通り過ぎ、墓地が見えはじめるあたりで槙村は車から降ろされた。槙村を車に押し込んだ二人の男が、槙村を墓地の中に連れて行った。墓地の中に背の高いあごひげを蓄えた禿頭の男が立っていた。
    「墓場へようこそ。しかし、槙村さん、あなたを埋葬しようというのではありませんので、ご心配なく」
    男は槙村にスラブ訛りの残る、しかし、達者なドイツ語で下手な冗談を言った。
    「ここはコンスタンティノープルのテオドシウスの城壁の外になります。先ほどご覧になったエユプ・スルタン・ジャーミーはオスマン・トルコがコンスタンティノープルを征服後、最初に建てたモスクです。戦勝記念というわけです。エユプというのは、ムハンマドの側近だった男、アッユーブのトルコ語化したものだそうです。アッユーブは7世紀にコンスタンティノープルを攻撃したアラブ軍に加わって戦死、この地に埋葬されたと伝えられています。伝説では、オスマン・トルコ軍がコンスタンティノープルを征服する直前、ここでアッユーブの墓を発見して大いに鼓舞された。そういうことで、オスマン朝はことのほかこのエユプを崇拝し、やがて聖地となったこのモスクの周りで永遠の眠りにつきたいと願う人が続出し、この一帯は広大な墓地になっていきました。申し遅れました。私の名はワレンチン。ワーリャとよんでくださればもっとうれしい。槙村中佐。そうよばせていただいてよろしいでしょうな。日本では家族でない限り個人名ではよびあわないと聞いておりますので」
    ワレンチンが言った。槙村はワレンチンと握手を交わしながら答えた。
    「ええ、それで結構です。お目にかかれて光栄です。では、さっそくですが、情報交換の実務に入りましょうか」
    「1938年のことですが、ゲンリフ・サモイロヴィッチ・リュシコフというソ連軍人がソ連・満州国境で日本軍に捕らえられたことはまだご記憶でしょう」
    「ええ、もちろん。日本だけでなく世界の新聞で記事になりました。リュシコフは東京で記者会見し、新聞や雑誌が彼の手記を掲載しました」
    「その後、彼についての報道がパタリと途切れてしまいましてね。リュシコフが最近どこでどんな暮らしをしているのか、同胞として知りたいと思うのですよ」
    「東京のソ連大使館からは報告がないのですか」
    「東京の大使館からは、アプヴェールのカナリスがリュシュコフ尋問のために部下を東京に派遣したと報告があった。日本とドイツの情報機関がリュシコフから何を聞き出したのか、われわれもまたそれを知りたいわけでして」
    「そのことならあなたがたはすでによくご存知と思う。リュシコフはソ連内務人民委員部
    GPU極東長官です。そのような特別の地位にある重要人物を日本が拉致できるわけがない。リュシコフ将軍のほうから日本に接触してきた。その動機はスターリンのテロルから逃れるためだと彼自身が説明しています。ソ連の要人がスターリンのテロルの恐怖に怯えて、西洋に亡命する事件は山ほどある。ソ連要人が逃亡先に日本を選んだのは珍しいことだが、彼の勤務地から最も近い外国が満州国だったからだ、と彼は言っている」
    ワレンチンは無言のままで槙村の言葉を聞いていた。槙村とワレンチンは墓地の木陰のベンチに座っていた。ワレンチンの部下が二人とはすこし距離をおいて、墓地の中であたりを警戒していた。木洩れ日があり、丘を吹き抜ける風がさわやかだった。
    「リュシコフはスターリンの粛清が共産党や赤軍の幹部だけでなく、一般人にも及んでいると話したそうです。その粛清がついには彼にも及んでくる気配があったと、リュシコフは説明した。リュシコフ自身、ソ連極東地域での粛清の責任者だったから、スターリンの粛清の恐怖は数多く見聞している」
    槙村は日本で読んだ新聞や雑誌の記事で知っていることを話した。
    「日本はリュシコフから日本国内をはじめ極東におけるソ連情報機関について聴取したわけだ」
    「彼がどんなことをしゃべったのか、それについては君たちのほうもそれなりの感触を得ていることだろう。だが、日本ではリュシコフについて別の見方もされている。リュシュコフが日本に亡命してきた翌年の1939年には満州国とモンゴル人民共和国の国境近くのノモンハンで、日本軍とソ連軍が交戦した。日本側は否定しているが、この武力衝突でどうやら日本は完敗したらしく、モスクワで停戦協定を結んだ。ノモンハンの戦い以後、日本ではソ連と一戦交えようという機運が薄らいでいる。ソ連としては極東部での日本からの攻撃の心配が減ったわけだ。ノモンハン事件とリュシコフから日本が得た情報と何か関連があるのか、あるいは関連はまったくないのか、私は知らない。そこで、ワレンチンさん、うかがいたいことがある」
    槙村がワレンチンの目を見つめながら言った。
     

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