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2020.06.14 Sunday

『だまし絵のオダリスク』    第41回

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    「お聞きしましょう」
    ワレンチンが言った。
    「リュシコフはソ連が日本に送り込んできたスパイじゃないのか。中国から日本を追い出して、中国をソ連圏に取り込もうとスターリンは考えているようだから」
    槙村が突っ込んだ。
    「スターリンが中国を乗っ取るなど、気宇壮大な発想だね。中国をとり込めばとり込んだ方が中国化されてしまう。いい例が清朝だ。満州族であることを忘れ、漢人になってしまった」
    ワレンチンは声を立てて、大げさに笑った。
    「それはさておき、私のほうが関心を持っているもっかの話題は、スターリン暗殺の計画です。ナチスがスターリン暗殺計画を遂行するために、日本を通じて極東ロシアの亡命者組織に武器を提供しようとしているという、気がかりな情報を聞いております」
    ワレンチンの表情に槙村をからかうような皮肉っぽい笑いが浮かんだ。
    「ほう、そういう計画があるということを、わたしはいま初めて聞きました。スターリンを暗殺すれば日本にとってどのような利益があると、ワレンチンさん、あなたはお考えなのですか。スターリンは日本からはるか離れたモスクワで、厳重な警備の下に暮らしている。それは日本にとっては手も足も出せない環境ですよ。極東ロシアで亡命者たちに武器を配って、それがいったいなんの役に立つというのですか。それにスターリンを殺すことで最大の利益を得るのは、スターリンの後釜をねらうお国の共産党幹部連中だけでしょう。ヒトラーのドイツがヨーロッパに戦線を拡大し、やがてドイツも疲弊してゆくのをスターリンは冷酷なまなざしで眺めている。ヨーロッパ全体が疲れきったところで、ソ連は一気にヨーロッパ全体を手に入れる。それまでドイツと事を構える気はない。ドイツはそのことを知っており、スターリンがソ連を取り仕切っている限り、背後を気にしないで、ヨーロッパでの勢力拡張の戦いに専念できる」
    「槙村さん、本気でそうお考えになるわけで? 日本とドイツがスターリンの暗殺に成功すれば、スターリン後継を巡ってソ連で混乱が始まる。その隙を突いて、日本が東から極東を攻撃し、ドイツが西からモスクワ目指して攻めこんでくる。さきの露日戦争で日本はサハリンの半分を奪った。こんどは極東の沿岸部を制圧し、運がよければバイカル湖あたりまで、と触手を動かしている。ソ連の心配は杞憂というやつなのでしょうかね」
    「その杞憂というヤツが帝政ロシアの時代から現代のソ連まで受け継がれている、お宅の版図拡大の原動力ではありませんか。版図を外へ向かって広げれば広げるほどモスクワは国境から遠くなり、首都の安全が保障される。したがって、領土の拡張運動をやめないソ連というスラブ国家は周辺の国家にとって脅威となり、武力衝突の危機を増幅させる。その衝突を武力で克服すればそのときまたスラブ民族の版図が広がる」
    「日露戦争はロシアの帝国主義的野心が日本の利益を阻害したために発生したものか、新興国日本の極東アジアへの野心が原因なのか。そんなことをここで議論しても始まらない。槙村さん、わたしの職務は歴史の探求ではなくて、現在の情報集めなのだ。ところで、日本はソ連極東部でソ連と戦争を始める気はないという観測はあたっているのだろうか」
    話の枕である無駄話の応酬が終って、いよいよワレンチンが本題に切り込んできたな、と槙村は緊張した。
    「そのあたりは私には見当がつかない。だが、ソ連はヨーロッパ各地に非常にすぐれた諜報員を配置していると聞いている。ベルリン、パリ、ブリュッセル、ジュネーブなどの諜報員からドイツがソ連攻撃を始めると同時に、日本がソ連極東部に攻めこむ、というおとぎ話がすでに届いているはずだ」
    「それははじめて聞くお話だ。参考のために本国に連絡を入れておこう」
    「茶化さないで、ワレンチンさん。本音で話そうではないか。最近、アメリカ合衆国の政府首脳からもドイツの奇襲攻撃が近いと外交ルートで警告があったそうですね」
    槙村の突っ込みに、ワレンチンが反応して言った。
    「槙村さん。だが、それだけじゃない、モスクワに駐在する各国の外交官たちの間では、独ソ開戦の噂がささやかれている。ついこの間はアメリカの『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』が独ソ開戦は近いと日本が見ているという記事を掲載した。イギリスの新聞もドイツがソ連に進攻する準備を急いでいるという観測記事を書きたてている。だが、それらは単なる情報あるいは噂にとどまっている」
    アメリカ合衆国の高官から外交ルートでドイツの奇襲攻撃の警告を受けたらしいな、という槙村の誘いにのってワレンチンが「だが、それだけじゃない」と答えたことは、モニカから聞かされたトムゼンとウマンスキーの対話の信憑性の裏づけのように槙村には思えた。槙村はその点は深追いせず、のんびりとした調子でワレンチンに語りかけた。
    「単なる情報あるいは噂とは、それはどういう意味だ?」
    「警告がいくらあったところで、ドイツのソ連攻撃説はソ連をヨーロッパの戦争に巻き込もうとするイギリスの謀略であり、ドイツには二正面作戦を遂行する意図も能力もないとして、スターリンはその情報を信じようとしない――イギリスやアメリカの政治家や外交官がそう言って嘆いているそうだ。警告が政策に反映されなければ、警告はされなかったに等しい。場合によっては殺されることもある文字通り命がけの情報収集活動もゼロに等しい」
    「情報機関というのはむなしい仕事をしているわけだね」
    「ところで、リッペントロープが日本にソ連攻撃を執拗に要請しているそうだね」
    「ソ連情報部がそういう情報を入手しているのか」
    「それで、まもなく日本はソ連攻撃を始めるのだろうか」
    「わたしがベルリンで聞きおよんでいる限りでは、やるともやらぬともどちらともいえないようだ」
    槙村はワレンチンの表情をうかがった。
    「肯定も否定もないというのが情報関係者の韜晦の定石だ」
    彼は退屈そうな表情を見せて言った。
     

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