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2020.06.29 Monday

『だまし絵のオダリスク』   第43回

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     槙村はワレンチンと別れ、エユプ・スルタン寺院の前まで坂道を下った。そこでタクシーを拾った。ベヤズト広場まで行き、スタンブール・ブックスを尋ねた。
     スタンブール・ブックスの店主ベンが槙村をガラタ塔の近くに建つシナゴーグに案内した。
     人気のないシナゴーグの中は薄暗かった。正面の壁にアロン・ハコーデシとよばれる聖櫃が置かれていた。高さが四メートルほどあった。モーセ五書などトーラーの巻物がおさめてある。聖櫃の前に天井からネール・タミード(常夜灯)が吊り下げられている。そのまえに、ビーマ(講壇)がある。安息日に説教者がこの演壇に登り、聖櫃から取り出したトーラーを朗読し、向かい合った信者席の人々に語りかけるのだ。
     シナゴーグでは三人の男女が槙村を待っていた。
    「ムス・スルタン」
    槙村が驚いて叫んだ。
    「久しぶりですな、槙村中佐」
    ムス・スルタンが落ち着いた低い声で応じた。
    「これは一体?」
    槙村が尋ねた。
    「ヒトラーに迫害されているユダヤ難民を救済する組織がイスタンブールにありましてね。この組織は地下組織ということになっておりますので、組織について詳しいことをお話するのは控えさせていただきますが、ともあれ、わたしがその組織の、なんといいますか、財務部長のような仕事を任されています。まあ、地下組織の金庫番のような仕事です。ところで、わたしの名前はヤコブ、こちらの若い男性がアロン、同じく若い女性がデボラです。わたしの下で活動資金の調達と管理の仕事をしています。デボラとはすでに電話でお話になられたことと思います。先日私の会社にお電話をいただいたときです」
    ムス・スルタンが手短に仲間を紹介した。
    「ユダヤ人はモーゼの教えを信じる宗教集団として長い間ヨーロッパのキリスト教社会の中で、下層集団として差別されてきましたが、近代になると、あらたに人種集団としてヨーロッパ市民社会の中で差別と迫害を受けてきました。その迫害の歴史の具体例はこのさい省略しますが、槙村中佐、あなたの仕事場であるベルリンでもヒトラーのせいでまたユダヤ人種に対する迫害が始まっています」
    「そのことについてはすでにベルリンで見聞している」
    槙村が間延びしたムス・スルタンの語り口をとがめるように鋭く言った。
    「前置きはすぐ終わります。少々ご辛抱ください。1939年にヒトラーのドイツ軍がポーランドに侵攻したことで、三百万人のユダヤ系市民がドイツに囲い込まれました。1940年にはドイツが西ヨーロッパへ侵攻した。そのため、これらのユダヤ人はもはや西ヨーロッパへ脱出できなくなり、バルカン経由でトルコに来て、それからシリアに向かう方法が彼らにとって唯一の生存へのルートになっています」
    「トルコ政府が難民受け入れに好意的とは思えないが」
    「槙村中佐、おっしゃるとおりです。トルコ政府はトルコに定住することは認めていませんが、通過することは許しています。ところが最近ではイギリスがトルコ経由で陸路シリアを抜けてパレスティナに南下するコースを閉ざしてしまった。いまでは、船を調達してエーゲ海を南下して直接パレスティナに行くしかなくなっています。だがその船路も決した安全なものではなく、途中で沈没したり、やっとたどり着いたパレスティナ沿岸で追い払われたりしています」
    「そのことは聞いている。1930年代後半のパレスティナのアラブ系住民による反イギリス武力闘争の原因は、都市住民のナショナリズム意識の高揚と、農民の経済的困窮と、ユダヤ系人口の増加と彼らによるアラブ系農民からの土地の買い取りだとされていますね。イギリスにはパレスティナを二分してアラブ系とユダヤ系の人々を分離する案もあったようですが、実現しなかった。さらに1939年にはパレスティナに受け入れるユダヤ系難民の数を年間一万五千人に削減してしまった」
    「よくご存知ですな、槙村中佐。そのような難しい状況の下で、ヒトラーの迫害によって難民になったユダヤ人を保護し、パレスティナに送り届けようとする難民救援活動を、わたしたちはイスタンブールでおこなっているわけです。難民をイスタンブールに迎え入れ、パレスティナへ船で向かわせる間、イスタンブールに一時滞在させる。そのためには滞在費用が必要なってくる。パレスティナへの旅費も必要になる。パレスティナの組織がイスタンブールの組織に費用を送金しようとしても、パレススチナを統治するイギリス政府が海外送金を禁止しています。トルコ政府も海外からの送金に目を光らせている。難民救助の活動資金はヤミの世界で捻出するしかないのです。この闇の資金活動をやめるわけにいかないのです」

     

     

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