<< 『だまし絵のオダリスク』   第44回 | main | 『だまし絵のオダリスク』   第46回 >>
2020.09.10 Thursday

『だまし絵のオダリスク』   第45回

0


     
         11
     
     6月8日、槙村はイスタンブールを発ってアンカラに向かった。
     9日朝アンカラの日本大使館で、まず海軍武官用の暗号機を使って、ムス・スルタンやワレンチンとの接触などのあらましをベルリンに送信した。
     ムス・スルタンと名乗る正体不明の男と、彼の知人で軍事・政治情報の売買をなりわいにしているらしい男たちから、ターラント海戦の現地調査について探りを入れられたこと。不審な死をとげたイスタンブール駐在のイギリス人記者・ピーター・ケーブルが日本の北進、南進に異常な関心を持っていたこと。トルコ当局が槙村の行動を見張っていること。ソ連の情報機関から接触を受けたこと。一方、連合国側からの直接的な接触はなかったこと。田川を殺したのはアルメニア人の暴力組織のようだと、トルコ当局が説明したこと。在トルコのドイツ情報当局者が協力的であること。すでに大使館から連絡が届いていると思うが、滞在中のイスタンブールのホテルで襲撃されたこと。外交用暗号が解読されているかどうかについては、決定的な証拠は見つかっていないが、解読されている可能性をうかがわせる感触もあった。ベルリン帰着後に詳細を口頭でお伝えするので、その際に吟味をお願いしたい。

     ざっと、そういう内容であった。
     アンカラの大使館では使用が中断されていた外交用の九七式欧文印字機が再稼動していた。東京の外務省とワシントンの日本大使館の間のやりとりで、たしかに電文の内容がワシントンで外部に漏れた可能性はあるが、暗号そのものが解読されているわけではないと判断したということだった。九七式欧文印字機とよばれる外交用暗号機はワシントンやベルリンのほか、ロンドン、パリ、モスクワ、ローマ、北京、上海の公館とともに、アンカラの日本大使館にも設置されていた。それらの暗号機がいっせいに動き出した。
    「これで一件落着です。通信の機密保持が以前にまして厳格なりましたから。通信の内容が外部に持ち出されるおそれは減りました。とはいえ、不安がすべて払拭されたわけでもないんです。上層部の結論は暗号そのものが解読されたわけではないということです。この暗号の解読は不可能だ、と上層部が信じきっているゆえに出てきた結論ではなかろうかという気もして、使っているときふと不安になることもあるのです。気のせいでしょうか」
     大使館員の一人が槙村にそう語った。
    「人間がつくったものなら、だれかがどこかに手がかりを見つけて、やがて解読する可能性があることは否定できないでしょう。ロゼッタ・ストーンのヒエログリフを解読したシャンポリオンの例もあることですから」
     槙村が冗談半分に館員に答えた。
    「そうですね。下々としては上層部の判断を信じて、その先は運を天に任すしかないということですかねえ」
     館員が真面目な顔で応じた。
      槙村は10日アンカラ発イスタンブール行きの夜行に乗った。
     
     

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    27282930   
    << September 2020 >>
    Selected Entries
    Archives
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM