<< 『だまし絵のオダリスク』   第46回 | main | 『だまし絵のオダリスク』   第48回 >>
2020.09.24 Thursday

『だまし絵のオダリスク』   第47回

0

      
    「第袈匹箸靴討SDがトニーの身柄を確保する前に、手をうつべきだと考えている」
    ベルゲンが言った。
    「カナリス提督の了承を得えているのか」
    ベルゲンはしばらく沈黙し、やがて口を開いた。
    「いや。第袈匹任歪麁弔両蟻は必要ないだろうという意見が優勢だった」
     アドラーがベルゲンを食い入るような目でみつめた。ベルゲンは両手を頭の後ろで組んで、オフィスの天井をぼんやりとながめていた。
     ベルゲンがゆっくりと言った。
    「じつは提督がこの間トルコに来たとき、その件について、念のためだといって指示書を残していった。君が提督直々に指示を受けていないのであれば、提督が残していった指示が最新のものになる」
     ベルゲンが立ち上がって、オフィスの金庫を開けた。
     
     
    「急なことだけれど、今夜イスタンブールから脱出するわ。アプヴェールはあなたと私に、遠くに姿を消してくれといっている。カナリス提督直々の指示があったそうよ。あなたと私がいっしょに行動するのがその条件なの。タダシ、その時が来たのよ」
     領事館から夕方6時ごろ帰ってきたモニカが槙村の部屋にやってきて、開口一番そういった。
    「普通の外出らしく見せかけるために、荷物やホテルの金庫に預けてあるものはすべてそのままにしておけと指示されたわ」
    「イスタンブールから出る手順はどうなっているの」
     槙村が緊張した声で尋ねた。
    「アプヴェールはイスタンブールからバルカン諸国やベルリン、さらには中東地域を結ぶ連絡ルートをもっているわ。お抱えの密輸業者を使うルート、トルコの小型船舶で沖合に出てUボートとランデブーするルート。列車や定期旅客船を使う連絡ルートも持っている。そのほか緊急脱出用に使えるルートもある。その緊急用の一つを使って私たちをイスタンブールから脱出させるはずだわ」
    「ベルゲンに会ったんだね。彼がそう言ったのか」
    「ええ。わたしたちを連れ出したあとで、わたしたちがどこかの組織に誘拐されたとみせかける痕跡を細工しておくそうよ」
    「君はそれを信じるのだね」
    「ええ」
    「じゃあ、あとは、わたしがベルゲンの説明を信じるかどうかだけだな」
    「信じてくれる?」
    「一つだけ質問させてくれないか、モニカ。私を囮に仕立ててイスタンブールやアンカラをひき回した作戦に君も一役かっていたのかい?」
    「ええ。作戦が進むうちに、あなたと私を殺してしまうという選択が出てきたそうよ。SDに狙われている私を予防措置として消し、東京の暗号機使用再開で東京に注意を再喚起するするためにあなたを殺す案が急に出てきた。私はあなたを失いたくない」
    「ベルゲンについてはともかく、モニカ、君を信じているよ」
     槙村がきっぱりと言った。

     6月13日金曜日午後7時前だった。槙村とモニカはパーク・ホテルのコンシエルジュに、イスティクラル通りのロシア料理店レジャンスのテーブルを今夜8時半で予約してくれとたのんだ。それからチチェキ・パサジュとロシア料理店レジャンスへの道順をたずねた。
     タクシム広場へ出て、イスティクラル通りに入り、テュネル方向へしばらく行くと右手にチチェキ・パサジュがある。イスティクラル通りを挟んでその向かい側がガラタサライ・リセなのでわかりやすい。そこからほんの少しさらにガラタ方向に歩くと、左側にカトリックの聖アントワーヌ教会があり、その向かいがギリシャ正教の教会で、そのそばにレジャンスがある。夕食前の散歩がてらのんびり歩いて行かれてはいかがですか、とコンシエルジュが言った。
     二人はギュミュシュ・スユ通りをタクシム広場へのぼって行った。タクシム広場からイスティクラル通りに入った。旧フランス大使館前を通り、イスティクラル通りでは唯一のモスクであるアー・ジャーミーを過ぎた。二人は間もなくチチェキ・パサジュについた。
     チチェキ・パサジュは19世紀後半に建てられた当時のペラ大通りを代表する建物だった「シテ・ド・ペラ」の別名だ。この建物はルネサンス風とギリシア風を混ぜあわせたファサードでもてはやされてきた。壁面の装飾はルネッサンス風で、入り口の上方両側にギリシャ風の二体の人体彫刻が添えられていた。地上部分の通路がアーケードになっていて、そこに商業施設が入っていた。1917年のロシア革命を逃れてイスタンブールにやって来た白系ロシア人たちが、このシテ・ド・ペラの二階から上にあるフラットを借りて住んだ。その亡命ロシア人家族の若い娘たちがこのアーケードに花屋を開いたことからチチェキ・パサジュ(花の小径)とよばれるようになった。
     ロシアの花売り娘の最大のおとくいさんが第一次大戦後にイスタンブールに駐留してきた若いイギリス兵やフランス兵だった。慕情が淡くただよい、恋情が激しくもえあがったが、1923年に連合国軍がイスタンブールから撤退するとともに、多くの恋が実を結ぶこともなく花びらのように散っていった。
     やがてロシアの娘たちの花屋にまじって、このアーケードにメイハネ(居酒屋)が店を出すようになった。花とビールとラク(アニスの香りをつけた蒸留酒)とメゼ(オードブル)を求めて、紳士と淑女、詩人と絵描き、音楽家と辻音楽師、教授と学生、ジゴロとストリートガール、さまざまな人々が集い、時の流れの中でうつろう人生のひととき、人それぞれに哲学を語り、感傷にひたった。コーランはいう。「うつせみの命はつかの間のざれごと」。かくしてチチェキ・パサジュはペラ大通り第一の魅惑のスポットになった。
     槙村はモニカとチチェキ・パサジュの中ほどにある「フルロン」という居酒屋に入ってビールとミディエ・タヴァ(ムール貝のフライ)を頼んだ。だが、二人とも食欲がなかった。こういうときに限って時間が進むのが遅く感じられる。槙村とモニカはときどき周囲に視線を走らせ、腕時計をのぞいた。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
        123
    45678910
    11121314151617
    18192021222324
    25262728293031
    << October 2020 >>
    Selected Entries
    Archives
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM