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2020.10.18 Sunday

『だまし絵のオダリスク』   第48回

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      モニカと槙村は午後8時半ちょっと前にチチェキ・パサジュを出て、指示されたとおりレジャンスへ向かった。
     「ようこそレジャンスへ。ご予約をいただいておりますでしょうか」
     「槙村中佐だ。先ほど電話で二人用のテーブルを予約した」
     槙村が答えた。
     「こちらへどうぞ」
      二人が席に着くと間もなくレストランの中央で弦楽四重奏の演奏が始まった。演奏者は年配の男女四人で、おそらくは亡命ロシア人の音楽家たちなのだろう。演奏している曲の名を槙村は知らなかったが、モニカがボロディンの弦楽四重奏曲第二番だと教えてくれた。モニカはこの曲のチェロの豊かな響きと、からみあうヴァイオリンの繊細な音が好きなのだといった。チェリストは女性だった。レストランの穏やかな照明の下で奏でられるチェロの音を聴きながら、槙村は時代の嵐に吹き飛ばされてイスタンブールにたどり着いた彼らの人生を思いやった。郷愁――その味は甘いのだろうか、それとも苦いのだろうか。
     モニカはロシア風のミートボール料理ビトクを、槙村は鴨の栗ソースを注文した。だが、これから先のことを考えると、料理は味気ないものでしかなかった。
      一時間ほどで二人はレジャンスを出た。
      路上にいた髭の男が近づいて来て槙村に煙草の火を貸してくれないかと言った。
     「日本人か」
      男が英語でたずねた。
     「エヴェット、ジャポン(そうだ、日本人だ)」
     槙村があらかじめ指示されていた通りにトルコ語で答えると、男がニヤリと笑った。
     「こっちに来てくれ」
     近くに立ち止まっていた四人ほどの男が槙村とモニカをとりかんだ。男たちは槙村とモニカをレジャンス横の路地に連れこんだ。その路地をちょっと進むとやや広い道に出た。そこに三台の車がエンジンをかけたままで待っていた。
     槙村とモニカは別々の車に乗せられた。車は尾行車の有無を確かめるように、広い通りから枝道へ、枝道から広い車道へと迂回しながら走った。槙村はその間に両側に座った男から武器の有無を調べられた。
     やがて車が黒々とした巨大な石の壁の近くにとまった。
     「ここで降りていただきたい」
     男たちの一人が槙村に言った。前の車から降りたモニカが槙村に近づいてきた。
     「テオドシウスの城壁だ。壁際に向かってまっすぐ進んでくれないか」
      男の一人が言った。
      度重なる外敵の攻撃をはじき返してコンスタンティノープルを守った鉄壁のテオドシウスの壁。このあたりの地面は合戦の度におびただしい人間の血を吸ってきた。槙村とモニカは黒々とそびえる壁に向かって歩き始めた。
     「では、ここでお別れだ」
      男が槙村とモニカの背に言葉をかけた。
      崩れた壁の石を積んであるその後ろの闇から、人影が二つ現れた。そのとき、モニカがハンドバッグの中から小型の懐中電灯を取り出し、槙村の顔を照らし、次に自分の顔に光をあてた。懐中電灯に照らされたモニカの顔が冷酷非情な殺し屋に見えた。
     「モニカ、何をするんだ!」
      槙村が声をあげた。
      はめられたのだ。モニカもまたアプヴェールの一員として、わたしをここで消すための組織の作戦に最初から一枚かんでいたのだ、と槙村は悔やんだ。わたしはモニカの罠に引っかかって処刑場に連れ出されたのだ。モニカはあれを独り占めする気なのだ。
      槙村の脳裏に最近の出来事がフラッシュバックする。
     
      田川の死を聞いてアンカラの日本大使館に駆けつけたとき、槙村は大使館員から田川の遺品を受け取った。アンカラからイスタンブールにもどる寝台列車のコンパートメントで田川の遺品である彼の父母と幼い田川の三人の額入りの写真を、ベッドに仰向けになってながめていた。幼いころの田川を見て、今年1月ベルリンで会ったときの田川の表情にそのおもかげが残っていることをあらためて知った。そういえば、1月に会ったときの田川は、この写真で見る姉とその夫にどこか似ていた。親子だから当然のことではあるが、田川のように子ども時代に両親を失っても、子どもは育てばだんだん親に似てくるのだなあと、つまらぬ感慨にふけった。田川を親代わりになって育てた槙村の両親のうち、父親は3年前に死んだ。いま母親が東京の家で一人暮らしをしながら槙村の帰国をまっている。外国で死んだ娘夫婦が残した一人きりの孫が、また外国で横死してしまったことにさぞ落胆していることだろう。そんなことをとりとめもなく考えているうちに槙村は眠りに落ちた。列車がカーブでぐらりと揺れた。車輪がきしむ音が聞こえ槙村は目を覚ました。胸の上にのっていた写真の額が滑って床に落ちた。床から額をとりあげると、あたりどころがわるかったのか、表のガラスにひびが入っていた。槙村は額を紙袋にもどし、旅行かばんの中に入れた。翌朝、列車はハイドラパシャ駅に着いた。槙村はフェリーでヨーロッパ側にわたり、船着場からタクシーでパーク・ホテルに帰った。自室で旅行かばんからシャツ類をランドリー袋に詰め込んだ。書類を出して机の上に置き、紙袋から写真の額を取り出した。ひび割れは予想以上に深く、あと少しの衝撃で完全に割れる気配があった。槙村は額の裏蓋を開け写真をとり出し、表のガラス板を用心深くはずした。ガラスを通さず直接見ると、写真はいっそう古ぼけてみえた。セピア色の変色が始まっていた。写真の裏に850914と六桁の数字がインクで書かれていた。インクの色にまだ鮮やかさが残っていた。田川がベルリンに来た時、銀行の貸金庫を使いたいというので、槙村は自分が利用しているラインラント銀行を紹介した。
     
      そうか、あの貸金庫の中のものを、モニカは独り占めしようとたくらんだのだ。恐怖が鋭い針となって槙村をつらぬいた。
     
     

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