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2018.06.16 Saturday

『ペトルス――謎のガンマン』  第7回

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    523日正午ごろ、ウブッド大通り

     

     スハルト政権の崩壊にまで至ることになったインドネシアの動乱で、各国政府がそれぞれの国民にインドネシアからの退去やインドネシアへの渡航延期をすすめる危険情報を流したため、スハルト退陣劇の幕が下りて2日後の523日、緑濃いウブッドの唯一の繁華街・ウブッド大通りにはなお閑古鳥が鳴き続けていた。

     バリに残る王宮のなかでもっとも有名なウブッドの王宮・プリ・サレンもウブッド大通りにある。ここは夜ごと観光客のためにバリ舞踊とガムラン演奏が繰り広げられるウブッド観光の代表的な場所だが、観光客が激減した乾季5月下旬の昼間の太陽に照らされて、夜の幻想的なはなやかさとは対極のげんなりくたびれた姿をみせていた。

     プリ・サレンのウブッド大通りをはさんだ向かい側がウブッド市場で、いつもならバリの仮面(トペン)や木彫り(パトゥン)、バティックのシャツやサロン、金銀細工、バリ風のおどろおどろしい悪霊などを描いたるルキサン(絵画)、その他日用雑貨をあさる観光客でごった返しているはずなのだが、いまは閑散としている。首都ジャカルタからバリに避難してきた金持のインドネシア人や外国人たちは、その多くが海岸沿いのホテルに泊まっていて、そこを動こうとしなかった。街に出ると危険だと思いこんでいたらしい。したがって、ウブッドまでやってくる客はほとんどいなかった。

    「このあたりでは観光客が落とす金をあてにして暮らしてきた人も多いので、先行きが心配だろうなあ」

     ワヤン・ブラタ刑事がテーブルの向こう側に座っているビンタンとよばれている老人に言った。

     ワヤン・ブラタ刑事は相棒のイ・バグス・マデ刑事ともども、23日もまた、あきもせずウブッドに来て、瀬田沙代に関する情報を集めていた。沙代のウブッドでの暮らしぶりを克明に追って行けば、やがてその先に沙代と事件の接点が見えてくるのではなかろうかと考えてのことである。

    「観光客が減ったことは、これまでにも何度もあったよ。30年以上も前の、930が起きる2年ほど前にグヌン・アグンが大噴火したことがあった。あれはスカルノがまだ威勢のよかった時代でな。スハルトなどはまだ無名の一将軍だったころだ。そのころはバリに来る観光客もいまほど多くなかったので、ここの暮らしにさほどの影響はなかった。いま思えば、あのときのグヌン・アグン噴火の灰でバリの土壌は一層肥沃になった。マラリ(1974115日、田中角栄首相のジャカルタ訪問時に起きた反日をスローガンにした反政府暴動)の時もバリに来る観光客ががたっと減った。だが、まもなくみんなそのことをけろりと忘れて、バリに来る日本人も以前にまして増えることになった。とかく忘れっぽい観光客はいずれ戻ってくるよ。この島にはそれだけの魅力がある」

     ビンタン老はそういってワルン(簡易食堂)のテーブルの上のナシゴレンをスプーンですくい、何本かの歯が抜けおちてしまったままの口の中に放り込み、ビン入りの甘い紅茶で胃の中に流し込んだ。二人の刑事もミーアヤムを食った。ゆでたエッグヌードルをどんぶりに入れ、そのうえに鶏のそぼろとゆでた青菜をのせ、さらにバソとよばれる魚肉ミートボール入りのスープをかけ、サンバルをたっぷり入れて食べる。道行く人にはウブッドの怠け者の農家の男どもが3人して闘鶏の賭け事の話でもしているようにみえた。

    「そろそろデンパサールで殺された瀬田沙代のことを話してもらえないかな。あんた、いろいろ知っているんだろう」

     イ・バグス・マデ刑事がビンタンに催促した。

    「ウブッド界隈のうわさでわしの耳に入らないものはない。ここで70年以上生きてきたんだ。オゴオゴも今じゃわしの友達じゃよ」

     オゴオゴはバリ暦の新年ニュピの前日にお祓いの対象になる悪霊である。この儀式をすませると、バリの人は何もしない一日を送る。泥棒は盗むのをやめ、警官は泥棒を追いかけるのをやめる。

    「お友達のオゴオゴのことは別の日に聞かしてくれ。あの殺された日本の女の噂や評判を聴きたいんだ」

    「あの女は2年ほど前だったかな、ウブッドにやってきた。メガワティが民主党を追われた19967月より少し前のことだった。スハルトの奥さんのシティ・ハルティナが亡くなったのが1996年の4月、ちょうど同じころに瀬田沙代がウブッドに現れた。スハルトの運が傾き始めたのは妻に先立たれたあのときからだな。インドネシア人の気持がだんだんとスハルトから離れ、スハルトがつぶしたスカルノの思い出の方に傾き始めた」

    「そうだったな。スハルトに嫌気がさしたぶん、スカルノ時代が美しく楽しく見えるようになったんだろう」

     イ・バグス・マデ刑事が相づちをうってやった。

    「スハルトを嫌い、スカルノ時代を懐かしがるインドネシア人が増えれば増えるほど、スカルノ娘のメガワティの人気があがった。スハルトはメガワティが野党の民主党の党首のままで1997年の国会議員選挙に入ると、大統領である自分の足下が危なくなると思った。それで、19966月にスマトラで民主党の臨時党大会を開かせ、メガワティを党首のイスから追放させた。7月には、メガワティ解任を認めずジャカルタのデポヌゴロ通りの民主党本部に籠城していたメガワティ支持者を、ならず者をやとって追いたてたことから暴動に広がった。これが逆効果になってインドネシア人の気持はますますスハルトから離れ、メガワティに寄せられる同情はさらに熱いものになった。ワフユに見放された人間はこういうものじゃよ」

    「瀬田沙代のことなんだが……」

     バグス・マデ刑事が催促した。

    「瀬田沙代はプリアタンのイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンから10年ほど前にガムランを習ったことのある日本人の紹介で、バリに来て彼の弟子になった。金持の女らしく、プリアタンの王家の血をひく、いまはジャカルタで資本家の仲間入りをした男の留守宅を借りてそこに住み始めた。細身で、あたりを払うような、高貴な印象があったので、だれかがイダ・アユ・ングラという仰々しいあだ名を提供した。タバコが吸いたいな」

     ワヤン・ブラタ刑事がシャツの胸のポケットからサンプルナ234を取り出して、ライターと一緒にテーブルの上に置いた。ビンタンがその1本をとりだして火をつけた。強いクローブのにおいがあたりにただよった。

    「女の暮らしぶりはどうだった?」

    「人間の暮らしぶりは、優雅か悲惨か、金しだいさ。金がなくても優雅に暮らすには、オレくらいの修行が必要ってもんだ。ああ、日本の女は優雅に暮らしていた。普段はガムラン三昧で、毎日のようにイダ・プトゥ・グデのところでガムランの手ほどきを受けていた。買い取ったのか、借りたのか、詳しいことは知らんが、ちょっと響きの良さそうなグンデルを自宅においていた。上物のグンデルの、その魂を鳴らしきれるほどには、まだ腕はあがっていなかったがね。月に何度かデンパサールに下っていって、芸術学院の教師からも手ほどきを受けていた。夜になるとウブッドのあちらこちらで開かれる踊りやガムラン演奏会場をのぞき、時には、自宅に仲間のガムラン練習生を集めて、練習をしていた」

    「金持の瀬田沙代から借金を重ねていたようなやつはいなかったのか」

     イ・バグス・マデ刑事がテーブルの上のワヤン・ブラタ刑事のクレテックのタバコに手を伸ばした。

    「そのあたりのことはよく知らん。わしは金融関係は余り得意じゃないんだ」

    マンダラ老がまじめくさった表情で言ったので2人の刑事は苦笑した。

    「男はいたのか」

     イ・バグス・マデ刑事がニヤニヤ笑いなが尋ねた。

    「いたさ。男あっての女。女あっての男。人あれば影あり。スカラ(感覚でとらえうるもの)とニスカラ(感覚でとらええぬもの)、ランダとバロンのようなものだ。バリの夜にはどっちがかけてもならねえ。この2つのものの均衡と調和の上にこの世界がある。

    「あの日本の女もひとなみにお盛んだった。だが、男ならダレでもいいというわけではなかったようだな。あの女に言い寄って袖にされたウブッドの若い衆はたくさんいた。そいつらがやっかみ半分にまき散らした噂では、イダ・アユ・ングラの男は、まずガムランの師匠のイダ・プトゥ・グデ・ダルマワン。あの師匠は時にはイダ・アユ・ングラの家に行ってガムランを教えていた。稽古を見ていたやつの見立てでは、2人はできていた。普通、ガムランの教師は、アア、ダメダメ、こうするんだと、楽器を自分でたたいてみせるが、実際に弟子の手を取って楽器を打つようなまねはしないものだ。イダ・プトゥ・グデ・ダルマワンはイダ・アユ・ングラの背後にたって、自分の身体をぴたりと彼女の背中につけ、女の手に自分の手を添えて、楽器を叩いていたそうだ。

    「その稽古ぶりをみていたのはだれだ?」

     ワヤン・ブラタ刑事が聞いた。

    「街の噂だよ。見たことには興味津々だが、見たやつには誰も興味を示さない。グデ・ダルマワンのかみさんならきっと亭主の浮気に感づいているだろうよ」

    「ほかにも男がいたんだな」

     イ・バグス・マデ刑事が、ニヤついているビンタン老に言った。

    「絵描きだ。観光客用にちょっとこったバリ絵画を描いて売っている。アトリエを、デサ・プヌスタナンに持っているオヤジだ。イダ・バグス・チャンドラ。3人ほどの弟子をかかえている。本人はいっぱしの芸術家を気取ってはいるが、密林の中の悪霊と動物と人間といったバリ風の夢の世界を題材にしたものも描けば、昔懐かしいバリの村の庶民の暮らしや、バリの王家の火葬の絵や、バリ舞踊の可憐なダンサーも描くという器用なおみやげ作家だ。最近、イダ・バグス・チャンドラが、イダ・アユ・ングラをモデルにして裸体画を描いたそうだ。女が裸になってポーズをとり、それを画家が油彩画にしているのを弟子の1人が見ている。その弟子と視線があっとき、女はにっこりと笑顔を見せたそうだ。若い弟子は身震いするほどの興奮を感じた。そのとき、師匠と女はできていると直感した。その弟子がダチ公に打ち明け、それが回り回ってオレの耳にまで届いた。イダ・バグス・チャンドラのアトリエに行って、女の裸体画を見せてもらいな。それがやつをしゃべらせる糸口になるだろうよ」

    「ほかには」

     ワヤン・ブラタ刑事が言った。

    「うわさでは、今年の正月ごろはオーストラリアからバリ舞踊を習いに来ていた女がいたそうだ」

     2人の刑事は怪訝な表情をした。

    「男だってそういうのはいるだろ。西洋の男の中にはバリへ男の子を探しに来るやつもいるぞ。オーストラリア人の女はイダ・アユ・ングラの家に来て泊まっていくことがあった。このことは、あのうちのプンバントゥーから聞いた。女が2人してゴア・ガジャの洞窟の中で抱き合っていたという噂もあった。それ以外に、ウブッドにやってきた日本人の音楽学者が泊まっているホテルの部屋に、あの日本女が入るのを従業員が目撃している。行きずりの恋も多々ある女だった」

    「しかし、あんた、えらくあの女の恋模様に詳しいじゃないか」

    「目立つ女だったんだよ。どこか人を引きつけるような、妖しい雰囲気をただよわせた魅力のある女だった」

    「あんたはその恋の余得にはあずからなかったのか」

    「おれと睦んでいれば、あの女に死霊がとりつくことはなかっただろうに。おしいことだった」

     ビンタン老がまじめな顔で言った。

     ビンタン老はバリで「バリアン」、ジャワなどで「ドゥクン」あるいは「ボモ」とよばれるまじないだった。人間の病はその人の心身と、その人を取り巻く環境との間の不調和から起こる。その不調和を祈祷やマッサージや薬草などで和らげる仕事をするのがバリアンの仕事だ。薬草に詳しいバリアンをバリアン・ウシャダス、ある時突然もののけにとりつかれてバリアンになったのがバリアン・タクスだ。バリアン・ダサランは人の心を読み取る。バリアン・トゥランは整骨が得意だ。

     ビンタンは薬草に詳しいバリアン・ウシャダスだったが、いまでは若手のバリアンにおされてバリアンとしては影の薄い存在になっている。バリアンはシャーマンでもあり、さまざまな人のさまざまな事情に立ち入る立場にある。いってみれば、ウブッドに飛び交うムラの内部情報のアンテナだった。

    「これをとっておいてくれ。ワヤン・ブラタ刑事が財布から1万ルピア札2枚を取り出してビンタン老に渡した。

    「おや、これっぽっちかい」

    「本来なら情報提供の謝礼は警察の決まりで一枚だが、このところルピア安がひどくなったので、2枚にしたんだ。気は心だと思って気持よくうけとってくれ」

     ワヤン・ブラタ刑事がビンタン老にウィンクして言った。

     

     

     

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