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2018.06.24 Sunday

『ペトルス――謎のガンマン』   第8回

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    5月23日午後3時ごろ、ウブッド芸術文化振興財団


     ウブッド芸術文化振興財団事務局は「ウブッド・インフォメーション・センター」の看板を掲げた、文化催事企画、ガイド派遣、ホテル案内、不動産仲介など、外国人をはじめウブッドにやってくるよそ者のための総合案内所の中にあった。中にあったというよりは、案内所と財団事務局は不可分のものだった。案内所の経営者がウブッド芸術文化振興財団の事務局長を兼ねていた。
     この案内所の経営者イ・ニョマン・ナデラはバリの舞踊やガムラン、絵描きのグループに顔が売れていた。外国人がバリの芸術とふれあう機会を提供している、というのが彼の自慢である。踊りやガムラン、バリ絵画などの師匠に外国人の弟子入り希望者を紹介し、短期間の旅行グループのためにバリ芸術体験のスケジュールをたててやり、それぞれ手数料をかせいでいる。
     1996年4月の終りごろウブッドにやってきた瀬田沙代のために、ウブッドに住み着く条件整備をしてやったのがこの男だった。元弟子の日本人男性からイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンあての紹介状を持っていた沙代を、ニョマン・ナデラがダルマワンの家に案内した。師匠から入門の許可をもらうために口添えし、不動産屋も紹介し、ついでにお手伝いの家族も送り込んだ。
     2人の刑事が事務所を訪れたとき、来客はいなかった。冷房を効かせた事務所でイ・ニョマン・ナデラが居眠りをしていた。
    「ここだけの話だが、ガムランの師匠であるイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンと日本人の弟子瀬田沙代は、師弟関係を超える密接な間柄だったと、ウブッドでは噂されているようだ。沙代をガムランの師匠の所へ連れて行ったあんたは、ふたりの関係をよく知っているそうだな」
    イ・バグス・マデ刑事がしょっぱなから高圧的な態度にでた。
    「おいおい、そんな質問の仕方はないだろう。いまや改革(レフォルマシ)と民主主義の時代が始まっているんだぞ」
     ワヤン・ブラタ刑事が相棒を押しとどめ、質問をやり直した。
    「瀬田沙代が殺された理由を調べているんだ。おれたちは痴情とえん恨の線を追っている。デンパサールの州警察本部へ来てもらって正式な記録をとりながらお聞きするのが筋だが、インドネシア全体がいま取り込み中なので、こうして略式の聴取をしているのだ。捜査の方針を決めるための聞き取りだ。ここでの話が証拠としてそのまま法廷に持ち出されるわけではない」
    「そんな言い方をしなくても、あの2人はいい仲だったのかい。教えてくれないかな。捜査上必要なことなんだ。そう素直に言えば教えてやらないこともないんだがね」
    「あんたの方に理がある。言い方を変えよう。沙代のことを教えてくれませんか」
     なんだかんだと理屈をこねてここで拒絶すれば、いずれデンパサールに呼び出されて、まる1日をつぶすことになるので、イ・ニョマン・ナデラは早々とあきらめてしゃべることにした。
    「グデ・ダルマワンには、俺がしゃべったとは言わないでくれよ。刑事さんの見込み通りだよ。あの2人はいい仲だった。去年の7月には2人してジョクジャカルタへ出かけたよ。ジョクジャカルタ・ガムラン・フェスティバルという催しがあって、それを聴きに行ったんだ。グデ・ダルマワンのかみさんはカンカンだった。田んぼの仕事を放り出して女弟子とジョクジャ旅行だ。それも旅費を女弟子がもつという情けない浮気旅行だ。どうしてくれようと、えらい剣幕でご近所に息まいていたそうだ。女房は亭主が女とジョクジャに行っている間に、バリアンをよんで浮気封じの祈祷をしてもらったそうだよ。
    「女房が騒ぎまわるのも無理のないことでね。あれは5、6年前のことだった。そのころイダ・プトゥ・グデ・ダルマワンの所には、日本人の女の弟子がいた。その日本の女が弟子入りして半年ほどたったころのある日、バドゥン半島へ出かけて、ウルワツ寺院近くの崖の上から身を投げてしまった。夕方だったが、日没のちょっと前だったので、ウルワツ寺院で夕陽をながめていた観光客らが、ちょっと離れた崖から人間が海に落ちてゆくのを見て騒ぎになった。収容した死体は岩場で身体のあちこちを打って無惨な姿だったそうだ」
    「聞いたことがある話だ。本部に帰ったら記録を調べてみよう。グデ・ダルマワンの弟子だったのか」
    イ・バグス・マデ刑事が遠い記憶をたどるような目つきをした。
    「うん、思い出したぞ。たしか女は妊娠していたな。ウブッドではあのときどんな噂で沸き返ったんだ」
    「最初はグデ・ダルマワンがその日本人の弟子に言い寄って妊娠させたという噂だった。だが、その証拠になりそうな愛の現場の目撃については噂が出てこなかった。そうこうするうちに、ダルマワンの所にいたアメリカ人の弟子が予定を切り上げてアメリカに帰っていった。それで今度は、日本の女とできていたのはあのアメリカ野郎だったという噂が広まり、そのうちのそれが定説になった」
    イ・ニョマン・ナデラがぺらぺらとしゃべり始めた。
    「過去にそんなゴタゴタがあったことを知っていて、瀬田沙代がグデ・ダルマワンに弟子入りする手伝いをしたのかい」
    ワヤン・ブラタ刑事がとがめるような口調で言った。
    「瀬田沙代はなんとしてもグデ・ダルマワンのところでガムランを習いたいと言った。あんたの前の日本人の女弟子はかくかくしかじかでウルワツから身を投げてしまった。ウブッド界隈には、グデ・ダルマワン以外にも、いいガムランの師匠がたくさんいるので、違う先生を選んだらいかがと、ウブッド文化芸術振興財団事務局長のおれが言い出すわけにはいかんだろう。こう見えても公平がモットーなんだ。ところで刑事さんたちはグデ・ダルマワンに会って話を聞いたかい」
    「殺された女が瀬田沙代だとわかった段階ですぐ、彼と会ったよ。思いあたることは何もないといっていた。弟子が殺されたことで、おちこんでいたな」
    イ・バグス・マデ刑事が言った。
    「いつごろのことだ」
    「あれは15日の金曜日だった」
    「そのあとどんどん憔悴がひどくなっているよ。もう寝込んでいるかも知れない」
     ニョマン・ナデラが声をひそめた。2人の刑事にはニョマン・ナデラが、グデ・ダルマワンのことをわけありだ、と告げ口しているように思えた。
    「ありがとう。いい情報があったらまた教えてくれ」
     2人の刑事はそう言って、日差しの強い午後のウブッドの通りに出た。
    「次はニ・ニョマン・カデだな」

     ニ・ニョマン・カデは雇い主がいなくなってしまったお屋敷の内庭で、瀬田沙代が愛用していたテーブルの前に座り、ぼんやりとお茶を飲んでいた。2人の刑事を見ると、何か悪いことをしているところを見られた子どものように、羞じらんだ笑いを見せてイスから立ち上がった。
    「刑事さん、きょうはどんなご用で? 亭主のイ・ワヤンは賃大工仕事で出かけている最中です」
    「いや、きょうはあんたに聞きたいことがあって来たんだ」
    ワヤン・ブラタ刑事がつとめて柔らかい口調で言った。
    「お茶にしますか、コーヒーがいいですか」
    「煩わせてすまんな。熱いお茶をいただきたいな」
    「お茶なら亡くなったイブ・サヨが残した極上のジャワティーがあります」
    「ああ、それをごちそうになろうか」
     やがて立派なティーカップに透明感あふれる紅茶がティーポットから注がれた。
    「いい香りだな」
    「イブもそう言っていました。インドのお茶もいいが、ジャワのお茶もそれに負けないとね」
    「ところで、ちょっと立ち入ったことをたずねたいんだ。ガムランの師匠のグデ・ダルマワンだが、イブが生きていたころ、ここにちょくちょく来たかね」
    ワヤン・ブラタ刑事がさりげない聞き方をした。
    「しょっちゅうではありませんが、月に何度かやってきて、イブと一緒にご飯を食べたり、お茶を飲んだりしていましたよ」
    「泊まっていったことはなかったかね」
    「まさか。そんなこと。刑事さんも、グデ・ダルマワンが沙代さんといい仲だったというムラの噂を信じているわけですか」
    ニ・ニョマン・カデが馬鹿にしたような言い方をした。
    「あんたは信じていないのかね。じっさい、グデ・ダルマワンのかみさんは嫉妬で怒り狂ったことがあるそうじゃないか」
    「あの女はもともとやきもち焼きなのさ。イブの男関係については、私は何も知らないよ。私の知る限り、この家に男が泊まっていったことはないよ」
    「オーストラリアの女はどうだ? 泊まったんじゃないか」
    「イブはあのオーストラリアの若い娘さんと仲がよくてね。あの子のならよく遊びに来て、私らの家族ともども夜更けまで話をしていたよ。オーストラリアのシドニーから来た娘さんだった。シドニーは海のきれいな町だってね。遅くなると時には泊まって行くこともあった。二ヵ月ほどウブッドにいてシドニーに帰っていったよ」
    「どうなんだろう。瀬田沙代はセックスの面で衝動的なところがあったと思うかい」
    「イブは男狂いだったとか、男がイブに狂ったとか、ウブッドじゃひそひそ語られているが、なんにも証拠のない話さ。イブはウブッドでは、男にとっても女にとっても、どこか気になるになる存在だった。それで、イダ・アユ・ングラとよばれていたのさ。ところで、先日ここに来たイブのご両親からしばらくのあいだこの家を守っていてくれと、お金を渡された。いずれ家族の誰かが戻ってきて、イブの遺品やこの家の後始末をするということだった。刑事さんたちはなにかそのことでご存じか?」
    「家族は日本に帰って葬式をすませ、一段落したらこの家の後始末に帰ってくる。しっかり留守番をしていれば、退職金をはずんでもらえるかもしれんよ」
     2人の刑事は瀬田沙代が住んでいた家を出て、デンパサールへ戻っていった。

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